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新潟県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  金屋の道標 かなや 新潟市(秋葉区) 諏訪神社
<三国街道(中通り)>
石道標(自然石)   天保4(1833)   WEB 移設 「右ハ 八ツ梅/左ハ にかた、道」 3 -
  田家の馬頭観音道標 たい 新潟市(秋葉区) 諏訪神社
<三国街道(中通り)>
石道標   文久元(1861)   WEB 移設   3
写真 草水の煮坪 くそうず、
にえつぼ
新潟市(秋葉区)   油田(自噴) 1ヶ所 慶長13(1608) 市史跡 市教委/WEB 当時の油出量はないが、今でも油が池状に溜まっている 新津地区の石油の原点/全盛時には水と石油と大量のガスが混じり合って1m余りも噴き上げていたとされる/新津油田は日本一の出油量を誇っていた 2
写真 桜清水 さくら 新潟市(秋葉区)   湧水(屋根付き)   弘安元(1278) 市史跡 WEB 整備/現役 村人たちに神様からの授けの水として「禊清水(みそぎしみず)」と名付け、大切に守り続けられてきた/ 「桜」という名前は、桜の大木がそばにあり毎年春に美しい花を咲かせていたため 3
写真 ひさかき清水   新潟市(秋葉区)   湧水(屋根付き)   享保5(1720)頃 市史跡 WEB/現地解説板 水盤が更新 妙本寺の寺用→田家地区の人口増により生活用/「ひさかき」という名前は、ひさかきの老木の脇にあるため

3

写真 幸清水 さき 新潟市(秋葉区) 幸清水公園 湧水(屋根付き)   文化4(1807) 市史跡 WEB/現地解説板 石組はオリジナルか?/昭和7の上水道完成まで使用 整備:庄屋・長井久左衛門/岩屋の上に巨大な屋根が乗る/石油地帯により新津は飲料水不足であったため、幸清水の発見は住民の生活に多大な恩恵をもたらした 1
  天野の瀬替え あまの 新潟市(江南区) 信濃川右岸 付替え(瀬替え) 新川:長約1100m,幅約150m),締切堤防:長455m,636m 延宝7(1679)頃、新川
万延元(1860)、旧河道締切
  信濃川下流河川事務所 旧河道は、道路の線形と地名によって伺い知れるだけ 信濃川の蛇行部→氾濫→ショートカット(新川)による氾濫防止(延宝7頃)→新川の本流化→新川と旧河道に挟まれた中洲の新田化→旧河道の締切りによる新田の洪水防御 4
  赤塚の五輪塔道標 あかつか 新潟市(西区)   石道標   天保10(1839)   WEB 平成3に移設 「右ハにいがた道/西ハかくだ道」/普通の五輪塔と違い、風輪と空輪の間に宝篋印塔の相輪が挿入された特異な形 3
  新川 しんかわ 新潟市(西区) 新川 分水(放水路)   文政3(1820)   岩屋隆夫 水面だけ残っている(構築物としては、近世由来のものはない) 低湿地であった三潟(鎧潟、田潟、大潟)の水を、天井川であった西川の下を潜って日本海に排水するための放水路/当初幕府の反対にあったが、庄屋・伊藤五郎左衛門らの努力で着工にこぎつけた/当初は新川が西川の下を底樋で抜いていたが、現在は新川の上を西川がトラス橋で渡る 4
  馬堀用水 まぼり 新潟市(西蒲区)   用水路 長3.82㎞ 寛永21(1645) 市史跡 WEB C改修 開削:田辺小兵衛 5
  間瀬銅山・跡 まぜ 新潟市(西蒲区)   銅山   元禄14-18(1701-5)、明治・大正期 市史跡 WEB 大正期の遺構ですらわずか 山師が住民の反対を押し切り、老中に直接採掘許可を申請→採掘開始後は住民に迷惑をかけたが、5年で終了(近代に入り再興) 5
写真 安田の火除土手1 やすだ、
ひよけ
阿賀野市 安田の中心部 土塁 長16m,幅7.08m 貞享2(1685)の大火災後 市史跡 市教委/現地解説板 土塁が残されており、上部にはケヤキが植えられている 「ダシの風」と称する東南東の強風で、何度も大火災をこうむったため、用水と6ヶ所の土塁をセットにした延焼防止策を考案した 3
写真 安田の火除土手2 やすだ、
ひよけ
阿賀野市 安田の中心部 土塁 北側:長16.2m,幅4.4m
貞享2(1685)の大火災後 市史跡 市教委/現地解説板 北側はほとんど土盛なし、南側は保存状態良好だが視認しにくい/現代の消防施設に隣接/上部にはケヤキが植えられている 「ダシの風」と称する東南東の強風で、何度も大火災をこうむったため、用水と6ヶ所の土塁をセットにした延焼防止策を考案した 3
写真 大野のウトウ(切通し) おおの 糸魚川市 中山峠<松本街道> 切通し   江戸期 国史跡 市教委 当時の雰囲気を残している 塩の道/牛が往来したことでできたとされる特殊なU字型溝地形 2
写真 大野の道標 おおの 糸魚川市 <松本街道> 石道標(自然石) 高72㎝,幅56㎝,厚25㎝ 文化14(1817)   市教委/現地解説板 下部をコンクリートで固定 「右 井ノ口村入/左 志ん志やう(信州)」 2 -
写真 新鉄の牛つなぎ石
(追分石)
しんてつ 糸魚川市 西性寺
<松本街道・北陸道>
牛つなぎ石 高約1.3m,幅約0.6m,厚0.6m 安永5(1776)   市教委/現地解説板 西性寺境内に移設 北陸道と、塩の道・松本街道の交差部に立てられた追分石/塩の道の牛方衆がこの石に牛をつなぎ、塩を肴に酒を飲んだとされる 3
  大谷内の牛つなぎ石 おおやち 糸魚川市 <松本街道(西回り)> 牛つなぎ石
(自然石)
  江戸期?   WEB   上部に穴が開いている 2
  中谷内の牛つなぎ石 なかやち 糸魚川市 <松本街道(西回り)> 牛つなぎ石   江戸期?   WEB        
写真 山口の牛つなぎ石 やまぐち 糸魚川市 塩の道資料館<松本街道> 牛つなぎ石 高59㎝,幅29㎝,厚20㎝ 江戸期? 国史跡 WEB/市教委 塩の道資料館前に移設 角柱状で穴が開いている例は珍しい 3
  市振台場 いちぶり 糸魚川市 <高田藩> 台場(一文字) 約29.9m×15.1m 安政6(1859)   歴史の道1p7/市教委   高田藩は幕命により領内の市振~青海側(柏崎市)までに台場23ヶ所、遠見番所を3ヶ所を構築した 4 -
  崩山台場 ほうざん 糸魚川市 <高田藩> 台場   江戸期   歴史の道1p13/市教委   崩山の西端の海に突き出た高台にある(標高12m)/砲五門    
  上田銀山間歩群 うえだ 魚沼市 <高田藩> 坑道 船着場に1坑,
他6坑
明暦2~安政6(1656-62) 市史跡 市教委/WEB ダム建設により多くが湖底に沈む 高田藩、会津藩の国境未確定地帯で銀鉱脈が発見されたため、国境争いが巻き起こり、裁定により只見川の中央が国境となった/只見川を挟んで対岸は会津藩領の白峰銀山 2
  四ツ子の道標 よつこ 小千谷市 <北国脇街道> 石道標(自然石) 高73㎝,幅46㎝ 文政2(1819)   歴史の道4p44   「せんかうし道 十日町通」/上部に地蔵を陽刻し、その下に指差しを線刻 4 -
  真人町の道標 まっとまち 小千谷市 <北国脇街道> 石道標 高54㎝,幅29㎝ 不詳   歴史の道4p44   「右ハせんかうじ/左ハ十日町道/北ハ小千谷」/北国脇街道東通りと西通りの分岐に立つ   -
  朝日山古戦場 あさひやま 小千谷市 <長岡藩> 塹壕、砲台   慶応4(1868)以前 市史跡 WEB 公園整備(アクセスに徒歩40分) 北越戊辰戦争(長岡・会津・桑名×薩摩・長州)の激戦地/朝日山山頂付近に砲台跡や河井継之助が築かせたフランス式塹壕(非常に珍しい)が残る 2
写真 青海川の北国街道松並木 おうみがわ 柏崎市 <北国街道
(米山三里旧道)>
松並木 1本 江戸期 市史跡 市教委/WEB 周辺の松の切株に、松の若木が植樹されている   4
写真 妙法寺の道標 みょうほうじ 柏崎市 <長岡街道> 石道標(自然石) 高91㎝,幅51㎝,厚28㎝ 江戸期?   現地調査 廃道→妙法寺村の庄屋・西村家→阿部家庭内→平成20に元位置に移設 「これより、右 やま道/左 長岡道」 2
写真 青海川の法師像道標 おうみがわ 柏崎市 <北国街道> 石道標(尖頭角柱) 全高約140㎝,高74㎝,幅32㎝,厚24.5㎝ 江戸期 市史跡 市教委 道路際の雑草内に残存 「右ハ かみ可"た道」/法師像を陽刻→きわめて珍しい 2
  鯨波の道標 くじらなみ 柏崎市 <北国街道> 石道標   不詳   歴史の道5p15   「右ハ 加多道/左ハ山みち」    
  落合川の河川隧道1 おちあい 柏崎市 鯖石川左支落合川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期   岩屋     3
  落合川の河川隧道2 おちあい 柏崎市 鯖石川左支落合川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期?   地図        
  落合川の河川隧道3 おちあい 柏崎市 鯖石川左支落合川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期?   地図        
  石黒川の瀬違い いしぐろ 柏崎市 鯖石川左支石黒川・鯖石川ダム湛水域     江戸期   岩屋隆夫 現在、素掘りの状態で残る 1/25000地形図上で上流側の隧道は未確認/千葉房総の川廻しと同様、蛇行河道の新田開発を目的に掘削/ダム湛水域なので旧河道は確認不可 4
写真 妙法寺の草生水献上場 みょうほうじ、くそうず、
おんじょうば
柏崎市   油田(自噴) 1ヶ所 天智天皇7(668)以前? 市史跡 現地解説板/WEB 公園整備 窪地に自噴した石油が溜まっている/かやの穂先ですくい取り、灯油や防腐剤に使われていた/天智天皇への献上記録が日本書紀に記載されているが、黒川の臭水油坪と当地どちらが正しいか不明/現存する3ヶ所のうち最小規模 2
      加茂市                    
      五泉市                    
  野田の切通し のだ 佐渡市(佐渡島) <松ヶ崎街道> 切通し   江戸期?   歴史の道12p53   緩やかな切り通し 4
写真 宿根木の念佛橋 しゅくねぎ 佐渡市(佐渡島)   石桁橋(尾道産花崗岩、他1基)   安永5(1776) 市史跡 市教委   (桁北面)「安永五申」「高津」/石工:尾道出身の与三郎/大阪で荷を下ろした北前船が、空船になった帰りの船を安定させるために尾道の花崗岩を積んで航行していたため、寄港地であった宿根木には花崗岩の石造物が多く残存している 1
写真 木野浦一里塚
(小木一里塚)
きのうら
(おぎ)
佐渡市(佐渡島) <小木街道> 一里塚(2基) 西塚:高約1.5m,径約4m
東塚:高約1.5m,径約5m
明暦元(1655)頃 市史跡 市教委/歴史の道12p40/WEB(佐渡の歴史と文化) 東塚の塚木の椎は、木の太さと、塚中央から生えているのでオリジナルの可能性が高い 東塚が木野浦一里塚、西塚が小木町一里塚で文化財指定されている/西塚には「一里塚」と刻んだ標石が立っている他、奥に名工・中川重太郎が彫り移出伝説の残る大型の椿地蔵も残る 1
写真 羽茂一里塚(村山一里塚) はもち 佐渡市(佐渡島) <相川街道> 一里塚(2基) 高2.6m,直径7.5m,西塚:高2.6,直径7.0m 承応2(1653) 市史跡 市教委/WEB(佐渡の歴史と文化)/歴史の道12p36 現役の道路の両側に残る 塚木を植えた形跡がない 3
写真 中山一里塚 なかやま 佐渡市(佐渡島) <相川街道> 一里塚(2基) 西塚:高1.5m,直径4m 承応2~明暦元(1653-55) 市史跡 市教委/歴史の道12p20/WEB 東塚は石室により一部欠損 東塚の塚下部に石室造られている 4
写真 張畑の常夜灯 はりばたけ 佐渡市(佐渡島) <二ノ倉道> 石常夜灯 高2.8m 安永5(1776)   市教委     2
写真 張畑の庚申塔道標 はりばたけ 佐渡市(佐渡島)   石道標 高125㎝,幅47㎝,厚29㎝ 延享3(1746)   現地調査   (裏面)「従是 南東西沢大聖院」/正面に「庚申供養塔」と陰刻 2
写真 八幡の道祖神道標 やはた 佐渡市(佐渡島) <相川街道・松ヶ崎街道> 石道標 高83㎝,幅24㎝ 文政9(1826)   市教委/歴史の道12p21 原位置? (右面)「右 小木道」、(左面)「左 松ヶ崎道」/正面に「道祖神」と陰刻 1
写真 羽茂村山の道標 はもち、
むらやま
佐渡市(佐渡島) <小木街道> 石道標 高189㎝,幅52㎝,厚45㎝ 不詳   市教委/歴史の道12p35,36 原位置? (正面下部)「往來人は、右 相川道/左 山道」 1
写真 真野新町の地蔵道標 まのしん 佐渡市(佐渡島) <相川街道> 石道標(丸彫) 高83㎝ 不詳   市教委/歴史の道12p26 移設/木祠内(信仰の対象) (台石左面)「右 新道/左 相河道」 2
  小倉の供養塔道標 おぐら 佐渡市(佐渡島) <松ヶ崎街道> 石道標   不詳   歴史の道12p59   「右 松ヶ崎/左 山道」    
  住吉の道標 すみよし 佐渡市(佐渡島) <塩街道> 石道標   不詳   歴史の道12p64 当時は道標部が地蔵の台座であったと言われている 「川崎道/相川道」 4  
  豊田の地蔵道標 とよた 佐渡市(佐渡島) <相川街道> 石道標   不詳   歴史の道12p27 一部欠損 「これより東 遍路道」/上部に四角く窪みを彫り、その中に地蔵を陽刻→地蔵の両手が方向を指し示している 2
写真 春日崎灯明台 かすがざき 佐渡市(佐渡島) <相川街道> 石常夜灯(海運)
(凝灰岩)
高4.07m 寛永5(1628)   市教委/歴史の道12p15 石積基壇は後世の積直しの可能性/風雨による風化が進む 『佐渡国略記』(18世紀中頃)によれば、寛永5(1627)に諸国廻船のために設置され、はじめ春日神社の神主、のち医王寺が点灯の当番を務めた/灯火部が2段になっている→灯台として重要な役割を担っていたため、特に明かりを強くするため、あるいは灯火が一度に消えてしまわないように工夫したものではないかとされる 2
写真 両津大川の目繰り りょうつ、
おおがわ
佐渡市(佐渡島) <北前船> 舟繋穴 5基 江戸期   市教委 海面すれすれにある割には保存良好 海岸の岩に、北前船を係留するための穴が開いている/海面上に単独で存在するものが多くユニーク 2
写真 宿根木の船つなぎ石 しゅくねぎ 佐渡市(佐渡島) <北前船> 舟繋石
(花崗岩)
3基 江戸期 市史跡 市教委 復元 北前船を係留するための石/大阪で荷を下ろした北前船が、空船になった帰りの船を安定させるために、尾道の花崗岩を積んで航行していたため、寄港地であった宿根木には花崗岩の石造物が多く残存している 3
写真 元上横山村の郷倉 かみよこやま 佐渡市(佐渡島) 金井歴史民俗資料館 郷倉(木造土壁寄棟藁葺)   天保年間(1830-44) 市建造物 市教委/WEB 移設・修復 かつて佐渡島内に96ヶ所あった郷倉の1つ(金井地区の天保年間に設置された9ヶ所の郷倉の1つ) 2
写真 鶴子銀山の露天掘り遺構 つるし 佐渡市(佐渡島) <鶴子銀山> 露天掘り   天文11(1542)頃   市教委/WEB 百枚間歩(埋設)の周辺に露天掘り跡が無数に残存する 鶴子銀山は相川金銀山が開発されるまで佐渡で最大だった鉱山/文禄4(1595)に横穴式の坑道掘り技術が伝えられたことにより、それ以降銀の産出量が急増したと言われている 2
写真 道遊の割戸 どうゆう、
われと
佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り 幅約30m,
深約74m
慶長6(1601) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
WEB/図説新潟県の歴史p145 非常に良好 世界遺産を目指す佐渡金山のシンボル的存在/山が2つに割れた様に見える露天掘り跡/慶長6にこの地で金銀鉱脈の大露頭が発見された事により、相川金銀山(佐渡金山)の開発が始まった 1 写真
写真 父の割戸 てて、われと 佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り   慶長6(1601)   市教委/WEB 保存状態良好 山師・弥次右衛門/相川金銀山開発の発端となった金銀鉱脈の大露頭のひとつ/慶長6に道遊の割戸と同様に発見され、露天掘りで採掘された 1
写真 大切山坑 おおぎりやま 佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 坑道 鉱脈まで長400m
以上
着手:寛永8(1631)、
着脈:慶安2(1649)
  現地解説板/WEB 入口を鉄柵で封鎖 開削:山師・味方与次右衛門/大切鉱脈まで400m以上あるため、坑道断面を大きくし、通気のために並行して掘った坑道と所々貫通させている 3
写真 青盤鉱脈 しょうばん 佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り   江戸初期   現地調査 金鉱脈の規模は道遊脈よりも大きいとの説もある 近世に散発的に露天掘りされただけで放置 2
写真 宗太夫坑 そうだゆう 佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 坑道(展示用坑道12ヶ所) 坑口:高3m,幅2m 元禄初頭(1690代) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
現地解説板/WEB 観光用整備/将棋の駒形の小坑道、狸穴、空気坑などが部分的に残る 人形展示を多用→分かりやすいが歴史遺産としては不適格/佐渡金山最大最良鉱脈がある割間歩坑の一鉱区/それまでの佐渡金山の坑道にはない大型坑道であり、排水運搬等を考えて斜坑道になっている 3
写真 黄金沢百枚間歩・跡 こがねさわ 佐渡市(佐渡島) <新穂銀山> 坑道   江戸期   市教委/WEB 保存状態良好(入坑可能) 新穂銀山は相川金銀山が発見されるまで鶴子銀山と共に佐渡で最も栄えた鉱山の一つだった 1
写真 南沢疎水道 みなみざわ 佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 素掘トンネル
(側歩道付排水路)
長約1.1㎞,
高2.4m,幅1.8m
元禄9(1696) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
市教委/WEB/歴史の道12p14 吐口の一部が近代レンガもしくはCアーチで補強 計画:佐渡奉行・萩原重秀、測量:静野与右衛門/金山の坑内排水処理を目的とした水路隧道/このような規模の排水隧道は例がない/断面は「将棋の駒型」 1 写真
写真 金山江・跡 きんざんえ 佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 水路 長12㎞→部分的に残存 江戸期   市教委/WEB この種のもので、国内に良好に現存する唯一の遺構 山師・味方但馬によって開削された砂金採取のための用水路/山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の水源~堤までの水路に該当 2
写真 五社屋堤・跡 ごしゃや 佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 土堤   江戸期?   市教委 選鉱用水の貯水・管理用の小溜池の跡(埋め立てられて堤のみ残る)
〔写真の左奥が堤、手前が池〕
山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の「堤」に該当する施設(鉄穴流しと違い比重が重いので崩した直後に選別可能) 3
写真 杉平堤・跡 すぎひら 佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 土堤   江戸期?   市教委 選鉱用水の貯水・管理用の小溜池の跡(埋め立てられて堤のみ残る)
〔写真の左が堤、右が水路〕
山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の「堤」に該当する施設(鉄穴流しと違い比重が重いので崩した直後に選別可能) 3
写真 八幡砂垣 やはた、
すながき
佐渡市(佐渡島)   防砂土手、防砂林 長687m,幅102m
(指定範囲)
寛永20(1643) 市史跡 市教委/WEB 7-8基の柴垣が残る〔上段の写真は松林の遠望、中段の写真は砂垣の土塁、下段の写真は砂垣の切断面〕 海岸砂丘からの飛砂を防ぐための施設/長1308m、幅142mを1単位として柴垣を組み、その中に砂を詰めて小松を植えたとされる 3
写真 岸本君治水碑 きしもと 佐渡市(佐渡島) 新穂皆川地区 石碑(蒲鉾型) 高117㎝,幅45㎝,厚20㎝ 安政3(1856)?   市教委(邑々の石佛p7-9)/木谷幹一 碑文は判別困難(右の碑文は、軸物にされた原本に拠るが、刻字面と改行場所は石碑のもの) (正面)「岸本君治水碑」、(左面)「民惟國本食惟民命故古人重焉後世吏術不明因循為/治其視民隠不啻石胡越也其所以為吏者安在哉吾州中/土極為平衍田野大辟村落相望然其間徃徃昇濕動有/塾湫之患是以夫婦辛苦不免欠負隊正岸本君有憂之/天明丁未之歳首建治水之議越明年戊申大合四十七」、(裏面)「郷之民以賦其功親師吏胥而督之其費錢者凢九千三/百四十餘棔竹木匪履稱之鳩工於憂告竣於秋鳴呼此/一役也民永頼之君其可謂知本者矣君名一成稱彌三/郎後遷某縣令亦有聲績云夫天明之距兮七十餘年當/時遺老粗無存者而君之偉績口碑日民泯皆川郷民有甚/七者深慨于斯損貲建石請予文以勒之予嘉其志之不/偸乃係以銘云/我田惟下 我禾惟秕 夏霖秋雨 災害不己」、(右面)「非歳則然 惟人有罪 排壅決塞 禹績不底/茀豊種茂 稷功可企 有衣有食 不凍不餒/是誰之力 尚其鍳此/安政甲辰社九月 鴨湖 圓山葆撰」/美作(岡山)出身の幕府の佐渡代官・岸本武大夫(1742-1810)は、天明7-8(1787-88)に国府川の支流の堤防修築・湿田排水を行い、現在の佐渡市周辺を一大穀倉地帯に変えた/安政は甲寅と丙辰しかなく「安政甲辰」は間違い→ここでは後者を採用 3
写真 小川台場・跡 おがわ 佐渡市(佐渡島) <佐渡奉行所> 台場(土塁) 約45m×17m,高2.4m 嘉永3(1850)頃 県史跡 市教委/WEB   半円形/西の日本海に向かって崖上に構築されている 2
  三ヶ江用水の隧道1 さんがえ 三条市 三ヶ江用水 素掘トンネル
(水路)
長40m 安永1(1772)   市教委     3
  三ヶ江用水の隧道2 さんがえ 三条市 三ヶ江用水 素掘トンネル
(水路)
長500m 享和18(1817)   市教委 当時の状態がよく残る 途中数ヶ所にずり穴がある 1
  下平用水の隧道 しもだいら 三条市 下平用水 素掘トンネル
(水路)
2ヶ所,長計600m 文政8(1825)頃   市教委   文政8(1825)に始まった新田開発に伴って開削されたとされている/3本の隧道が並走しており高位に寺田水路、中位に下平用水、低位に前谷用水の隧道がある 3
  寺田水路の隧道 てらだ 三条市 寺田水路 素掘トンネル
(水路)
2ヶ所,長計50m 文政8(1825)頃   市教委   文政8(1825)に始まった新田開発に伴って開削されたとされている/3本の隧道が並走しており高位に寺田水路、中位に下平用、低位に前谷用水の隧道がある 3
  谷川用水の隧道 たにがわ 三条市 谷川用水 素掘トンネル
(水路)
  江戸中期以降   市教委 小規模な修復   2
  濁沢用水の隧道1 にごりさわ 三条市 濁沢用水 素掘トンネル
(水路)
長130m 江戸末期   市教委     3
  釜戸扶渕用水の隧道 かまどふち 三条市 釜戸扶渕用水 素掘トンネル
(水路)
長100m 江戸末期   市教委     3
  濁沢用水の隧道2 にごりさわ 三条市 濁沢用水 素掘トンネル
(水路)
長30m 江戸末期   市教委     3
  遅場用水の隧道 おそば 三条市 遅場用水 素掘トンネル
(水路)
3ヶ所,長計150m 江戸期   市教委 当時の状態がよく残る 馬蹄形断面 1
  高野用水の隧道 たかの 三条市 高野用水 素掘トンネル
(水路)
2ヶ所,長計100m 江戸期   市教委     3
  院内用水の隧道 いんない 三条市 院内用水 素掘トンネル
(水路)
長50m 江戸期   市教委     3
  赤谷の一里塚 あかたに 新発田市 <会津街道> 一里塚(1基) 高4m,周囲29m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道11p12 看板等が整備されている 新発田市内に残る唯一の一里塚 3
  下内竹の道標 しもうちたけ 新発田市 <会津街道> 石道標(自然石)   江戸期   WEB 移設/風化により判読困難 「右 江とみち/左 やまみち」 3 -
写真 落堀川(長者堀) おちぼり 新発田市   排水路(干拓) 長2910m 享保6(1721)   岩屋隆夫/図説新潟県の歴史p156   開削:館村代官所/紫雲寺潟干拓を目的にして新潟砂丘を開削した放水路 2
写真 阿房堀 あぼうぼり 新発田市   排水路(干拓) 長約6.5㎞,幅約3.6m 文久3(1863)   市教委 ゴルフ場内のため接近不能 開削監督:庄屋・小川五平衛/菱潟の水を排水するための放水路/低地にあった菱潟の干拓に成功したものの、高地にあった付近の良田も干上がらせる結果となった 4
写真 安塚の敷石道 やすづか 上越市 <松之山街道・三国街道> 敷石道 長2㎞,
敷石:直径40-50㎝,厚10㎝
戦国期 市史跡 市教委/歴史の道3p16 保存整備が行われている/道幅に関しては後世の拡幅の可能性あり(最上部の道幅は狭い) 土道の中央に一列に並べられた全ての石に2-3㎝幅の筋目をつけて滑り止めにしている→判明して限り国内で唯一の事例(実際、普通の石畳がきわめて滑りやすいのに対し、安全に歩くことができる) 2 写真
写真 藤沢一里塚 ふじさわ 上越市 <北国街道> 一里塚(1基) 面積約82.5㎡ 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道2p23 東塚は現存するが一部破損/大東亜戦争の頃に食糧増産のために取り崩され、現在は畑地 北国街道において、昔ながらの姿を残すのは北沢一里塚と藤沢一里塚のみ 3
写真 本町の道標 ほん 上越市 宇賀魂神社<北国街道> 石道標(自然石) 高125㎝ 明和3(1766)   市教委 昭和10に移設(もと、下紺屋町三叉路) (正面)「右 於う志う道/左 加ゝみち」/福島城の石垣を用いて彫り刻んだもの 2
写真 五智の題目塔道標 ごち 上越市 (3丁目)国分寺・西
<加賀街道・五智道>
石道標
(蒲鉾型、砂岩)
高90㎝,幅40㎝,
厚20㎝
文化14(1817)   市教委 中央で斜めに折損→修復 (2段目台石正面)「左/かゝ"/道/五ち」/正面に「(梵字5)五智如来」と陰刻 2
写真 春日の地蔵道標 かすが 上越市 諏訪神社<加賀街道> 石道標
(舟型、砂岩)
高90㎝,幅40㎝,
厚20㎝
慶応年間(1865-68)   市教委 移設/光背上部縦に欠損/中央で水平に折損→修復 (光背右)「右 いまゝちミち」、(同左)「…たう」/光背中央に地蔵立像(錫杖、蓮台)の陽刻 3
写真 長浜の法師道標 ながはま 上越市 <加賀街道> 石道標 高128㎝,幅30㎝,厚21㎝ 江戸期   市教委 中央で水平に折損→修復 (正面像下)「右 加賀みち/左 くわどりみち」/上部を火灯窓型に削り込み法師立像(すげ笠)を陽刻

3

写真 佐内の道標 さない 上越市 <奥州街道> 石道標(自然石) 高119㎝,幅69㎝,厚60㎝ 江戸期   市教委/歴史の道5p8 移設→交差点に面した私有地内 (正面)「右 さいみち/左 おう志う道」 3
写真 柿崎の道標 かきざき 上越市 <北国街道> 石道標(自然石) 高104㎝,幅71㎝,厚29㎝ 江戸期   市教委 中央で水平に折損→修復 (正面)「(左指差し) 右 山みち/左 奥州道」 2
写真 長浜の地蔵道標 ながはま 上越市 <加賀街道> 石道標
(舟型、砂岩)
高73㎝,幅37㎝,厚20㎝ 江戸期   市教委 移設→C祠内/蓮台は後補 (光背右)「右 加賀みち」、(同左)「左 くわどりみち」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻 2
写真 鍋ヶ浦の庚申塔道標 なべがうら 上越市 三叉路<加賀街道> 石道標(自然石) 高73㎝,幅46㎝,厚30㎝ 江戸期   市教委 おそらく移設/文字が擦り減っていてほとんど判読不能 (正面右)「右ハ かがみち」、(同左)「左ハ なだち谷」/正面中央に「庚申」と陰刻 3 -
写真 上新町の地蔵道標 かみしん 上越市 神明宮前十字路<飯山道> 石道標
(舟型、砂岩)
高70㎝,幅30㎝,厚18㎝ 江戸期   市教委 移設→C覆屋内/正面に鉄柵 (光背右)「左 いい山みち」、(同左)「右 松の山みち」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻 2
写真 二本木宿の石柱 にほんぎ 上越市 白山神社 石柱(円筒) 高172㎝,
直径30㎝
江戸期 市歴資 市教委 元々は二本木部落下の入口にあったが、白山神社に移設/昭和50(1975)に補修 「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず、邑の内、咥きせる無用、二本木宿」/宿場内における交通ルールと火災に対するルールを記した注意を記した珍しい石塔 2
写真 安塚の百間馬場 やすづか 上越市 <直峰城・二ッ城> 軍馬訓練場 高70㎝,幅30㎝,厚18㎝ 戦国期   WEB 畑地化 直峰城、その支城である二ツ城に付随する軍馬の訓練場 4
  中江用水 なかえ 上越市 関川 用水路 長26㎞,灌漑面積3176ha 延宝6(1678)   WEB 昭和58、C改修 施主: 高田藩首席家老・小栗美作、顧問: 河村瑞軒、普請奉行: 郡奉行・長尾小右衛門 4
  築地の道標 ついじ 胎内市 <出羽街道浜通り> 石道標 高145㎝,幅35㎝,厚25㎝ 文化12(1815)   歴史の道10p13   「(大聖不動妙) 山にミ  
写真 黒川の臭水油坪 くろかわ、
くそうず、
あぶらつぼ
胎内市 シンクルトン記念公園 油田(自噴) 2ヶ所 天智天皇7(668)以前? 国史跡/県天然 市教委/WEB 公園整備 自噴した石油が窪地に溜まっている/溜まった石油を乾燥させた「カグマ」(リョウメンシダの葉)に付着させて採取し、灯油や木材の防腐剤として使われていた/天智天皇への献上記録が日本書紀に記載されているが、妙法寺の草生水献上場と当地どちらが正しいか不明 1 写真
      燕市                    
  山根の道標 やまね 十日町市 観音寺<北国脇街道> 石道標 高58㎝,幅35㎝ 安永2(1773)   歴史の道4p40 移設 (正面)「右 中条十王道イ一里/左 市ノ口西願寺イ一里」   -
  田沢の道標 たざわ 十日町市 <北国脇街道> 石道標 高107㎝,幅53㎝ 享和3(1802)   歴史の道4p35   (正面)「右 センくハうし道/左 田沢本こう」  
  中条己の題目塔道標 なかじょうき 十日町市 北原八幡宮<北国脇街道> 石道標 高104㎝,幅36㎝ 文政3(1820)   歴史の道4p40 移設 (台石正面)「右 小千谷道/左 村道」/正面に「二十三夜塔」と陰刻 3
  下条の道標 げじょう 十日町市 天満宮<北国脇街道> 石道標(自然石)   文化13(1830)   歴史の道4p40 移設 「(道祖神) 右 おちや(小千谷)/左 村みち」 3
  馬場丙の道標 ばばへい 十日町市 <北国脇街道> 石道標 高53㎝,幅41㎝ 不詳   歴史の道4p39   (正面)「右 ゼン光寺/左 山ミチ」   -
  室島の瀬替え むろじま 十日町市 渋海川 瀬替え 長426m,平均比高9.4m,開発面積15.24ha 江戸初期   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸初期で規模が大きい  
  岩瀬の瀬替え1 いわせ 十日町市 渋海川 瀬替え 長478m,平均比高8m,開発面積26.27ha 江戸初期   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸初期で規模が大きい  
  中仙田の瀬替え なかせんだ 十日町市 渋海川 瀬替え 長119m,平均比高8m,開発面積14.68ha 江戸中期   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期だが規模が小さい  
  枇杷島の瀬替え びわじま 十日町市・長岡市 渋海川 瀬替え 長164m,平均比高10m,開発面積15.76ha 文化元(1804)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期だが規模が小さい  
  長瀬の瀬替え ながせ 十日町市 渋海川 瀬替え 長333m,平均比高7.8m,開発面積5.49ha 文化11(1814)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期だが規模が小さい  
  小脇の瀬替え こわき 十日町市 渋海川 瀬替え 長191m,平均比高8.2m,開発面積7.90ha 文政8(1825)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期だが規模が小さい  
  葭渕の瀬替え よしぶち 十日町市 渋海川 瀬替え 長476m,平均比高4.5m,開発面積23.02ha 文政8(1825)→
江戸後期~明治
  野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/規模は大きいが、江戸後期の分も含まれる  
  まきの島の瀬替え   十日町市 渋海川 瀬替え 長208m,平均比高6.5m,開発面積9.02ha 天保6(1835)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  犬伏の瀬替え いぬぶし 十日町市 渋海川 瀬替え 長117m,平均比高3.5m,開発面積9.53ha 嘉永2(1849)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの   -
  太平の瀬替え たいへい 十日町市 渋海川 瀬替え 長493m,平均比高9.9m,開発面積8.65ha 嘉永3(1850)頃   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  大島の瀬替え おおじま 十日町市 渋海川 瀬替え 長185m,平均比高8.1m,開発面積7.07ha 寛永4(1851)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの   -
  童子が島の瀬替え どじがしま 十日町市 渋海川 瀬替え 長462m,平均比高6.5m,開発面積13.02ha 寛永4(1851)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  岩瀬の瀬替え2 いわせ 十日町市 渋海川 瀬替え 長194m,平均比高7m,開発面積13.19ha 江戸後期   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  鯖石川の河川隧道 たざわ 十日町市 鯖石川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期?   YAHOO地図から判読        
  越道川の河川隧道1 たざわ 十日町市 越道川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期?   YAHOO地図から判読        
  越道川の河川隧道2 たざわ 十日町市 越道川 素掘トンネル
(河川)
  江戸期?   YAHOO地図から判読        
写真 東川の河川隧道 ひがし 十日町市 東川右支 素掘トンネル
(河川)
  慶応年間
(1865-68)
  岩屋隆夫 雑草が生い茂り、接近不能(提供された写真撮影時は、接近可能だった)/瀬替えで生み出された水田は、耕作放棄地に 全国でも最大規模の巨大な河川トンネル/瀬替えによる水田造成を目的に造られたもの 2 写真
  大明神用水の隧道 だいみょうじん 十日町市 越道川 素掘トンネル
(水路)
長約1㎞ 安政4(1857)   WEB/市教委 素掘のまま現役使用 開削:田辺与惣治/田辺与惣治が越道川左右岸地域を新田開発する目的で開削した隧道 1
  大明神用水 だいみょうじん 十日町市 越道川 用水路 長約3㎞ 安政4(1857)   WEB/市教委 160mが素掘のまま、その他はC改修 事業主:田辺与惣治/田辺与惣治が越道川左右岸地域を新田開発する目的で開削した用水路 3
  とび坂一里塚   長岡市 <三国街道> 一里塚(1基)   江戸期   歴史の道・三国街道Ⅰ・北国街道p22,25   塚上に青面金剛像

4

写真 菅畑の地蔵道標 すがばたけ 長岡市   石道標(舟型) 高78㎝ 延享2(1745) 市有民 WEB 上下に割れた石を中央で接合/地蔵の手欠損 (光背上部右「右ハほん志ゆ通」(=本所)、(同左)「左ハ かし出通」(=樫出)/光背下部に地蔵坐像を陽刻 1
写真 摂田屋の地蔵道標 せったや 長岡市 <三国街道> 石道標(丸彫) 高95㎝,幅60㎝ 文化3(1806)   WEB 千羽鶴などによって飾られている (台石正面右)「右ハ/江戸」、(同左)「左ハ/山道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/千手たばこやさんによって功徳を得るために寄進 2
  原の瀬替え1 はら 長岡市 渋海川 瀬替え 長624m,平均比高5m,開発面積11.35ha 享保年間(1716-35)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期で規模が大きい  
  小栗山の瀬替え こぐりやま 長岡市 渋海川 瀬替え 長682m,平均比高3m,開発面積21.85ha 享保年間(1716-35)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期で規模が大きい  
  横沢~千谷沢の瀬替え よこさわ、ちやざわ 長岡市 渋海川 瀬替え 長5501m,平均比高4m,開発面積154.98ha 享保年間(1716-35)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期、かつ、規模が渋海川の瀬替えの中でずば抜けて大きい  
  苔野島の瀬替え こけのしま 長岡市 渋海川 瀬替え 長750m,平均比高8.5m,開発面積32.41ha 享保20(1735)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期で規模が大きい  
  苔野島の瀬替え こけのしま 長岡市 渋海川 瀬替え 長750m,平均比高8.5m,開発面積32.41ha 享保20(1735)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期で規模が大きい  
  枇杷島の瀬替え   長岡市・十日町市 渋海川 瀬替え 長164m,平均比高10m,開発面積15.76ha 文化元(1804)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの/江戸中期だが規模が小さい  
  荒瀬の瀬替え あらせ 長岡市 渋海川 瀬替え 長370m,平均比高4m,開発面積9.09ha 安政3(1856)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  岩田の瀬替え いわだ 長岡市 渋海川 瀬替え 長377m,平均比高2m,開発面積14.00ha 安政4(1857)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  原の瀬替え2 はら 長岡市 渋海川 瀬替え 長362m,平均比高7.5m,開発面積14.76ha 文久3(1863)   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  東谷の瀬替え ひがしだに 長岡市 渋海川 瀬替え 長460m,平均比高4m,開発面積8.97ha 江戸後期~明治   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
  西谷の瀬替え にしだに 長岡市 渋海川 瀬替え 長343m,平均比高4m,開発面積5.73ha 江戸後期~明治   野口寛人   渋海川流域に47ヶ所ある水田造成用の瀬替え中で、近世由来のもの  
写真 相川川の河川隧道1 あいかわ 長岡市 相川川 素掘トンネル
(河川)
  不明   岩屋隆夫   農業用水のトンネルのような形(河川トンネルに見えない)/地滑り対策・瀬変えが理由で開削されたと考えられている 2
写真 相川川の河川隧道2 あいかわ 長岡市 相川川 素掘トンネル
(河川)
  不明   岩屋隆夫   アーチ橋のような形となっていてユニーク/地滑り対策、瀬変えが理由で開削されたと考えられている 2
  福島江 ふくじまえ 長岡市 信濃川→猿橋川 用水路 長約20㎞ 慶安4(1651)   WEB/市教委 大正期に大規模な改修/C護岸/桜並木の区間は見事 事業主:庄屋・桑原久右衛門/桑原の功績を称え、出生地である福島村の名が冠された 4
  村松藩街道 むらまつ 見附市 <村松藩街道> 道路   寛永15(1638)頃   市教委 小規模な修復 参勤交代に使用された街道で途中3ヶ所に一里塚が設けられた 3
  岩沢山溜池群 いわさわ 見附市   溜池 5ヶ所 慶安元(1648)   市教委 小規模な修復 1つの谷に沿って5つの溜池が連続して並ぶ 1
  大平堤 おおひら 見附市   堤防 堤長94.5m,堤高7.6m 享保15(1730)   市教委 大規模な修復 見附市内で最大/庄屋・小林六左衛門 4
  大江用水路 おおえ 見附市   用水路、隧道   万治元(1658)   市教委 大規模な修復   5
写真 宇津野の道標 うつの 南魚沼市 <三国街道> 石道標(自然石) 高50㎝ 江戸中期   市教委 移設、集約 (右面)「右ハ 六日町 江戸海道」、(左面)「左ハ 作ば道」(?)/「海道」の「標記は江戸中期 2 -
写真 八色原の道標 やいろっぱら 南魚沼市   石道標(自然石) 高71㎝,幅51㎝ 江戸末期   市教委 移設(下部C固定) (正面)「うらさ」/頂部に巨大な左指差しを陽刻 2
写真 八海山の杉並木 はっかいさん 南魚沼市 八海神社 杉並木
<水源涵養林>
長約440m,256本,木の最大周囲6.4m;3m台の16本;2m台の66本 天保7(1836) 県天然 市教委/WEB 八海神社の参道として整備されている 天保7に一帯が大干ばつに襲われ、対策として水源涵養林造成の目的で植林された 1
写真 北沢一里塚 きたざわ 妙高市 <北国街道> 一里塚(2基) 高約3m,四方9.2×9.2m
江戸期 市史跡 WEB/現地解説版 西塚はほぼ完形で残るが、塚木は後世の補植/東塚は民家の下にあり、基壇のみ認められる程度 北国街道において、昔ながらの姿を残すのは北沢一里塚と藤沢一里塚のみとされる 3
写真 関川関所 せきがわ 妙高市 <北国街道> 関所の門,関所   江戸期   WEB 跡地傍に「関川関所道の歴史情報館」として平成9(1990)に復元/北国街道の往時の状況を展示 明治2廃止/江戸中期、全国53の関所は重関所と軽関所に分けられ、越後の関所5ヶ所のうち重関所は関川のみ 2
写真 大沢峠の石畳 おおさわ 村上市 大沢峠<出羽街道> 石畳道 長300m 江戸期   市教委/歴史の道10(巻頭) 当時の雰囲気を残して、保存されている 松尾芭蕉が奥の細道の旅で通った道として有名 3
写真 古渡路の出羽街道松並木 ふるとろ 村上市 <出羽街道> 松並木 1本 江戸期   現地調査     4
  伝一里塚 でん 村上市 <出羽街道> 一里塚(1基) 高1.3m(境内側), 4m(旧道側),
幅6.7m×8.4m
江戸期   市教委/歴史の道10p40 一部崩れている/塚木は補植か?  

3

  中継一里塚 なかつぎ 村上市 <出羽街道> 一里塚(1基) 高約1.5m,直径約5.4m 江戸期   WEB 実生から育った杉で覆われる   3
  松山道標 まつやま 村上市   石道標(四角柱) 高推定1m以上 元文5(1740)   荒川町教育委員会/WEB 移設→私有地内   3
写真 古渡路の題目塔道標 ふるとろ 村上市 <出羽街道> 石道標 高113㎝,幅52㎝,厚41㎝ 江戸期   歴史の道10p31/WEB 下部で水平に折損→修復時に刻字の一部欠落 (右面)「右 在道」、(左面)「左 出羽道」/正面に「(梵字)奉納大乘妙典六十六部…」と陰刻 2
写真 新光寺の道標 しんこうじ 村上市   石道標(自然石) 高約50㎝ 江戸期   市教委/WEB 移設/昭和62復元 (正面)「右ハ せきゟ米沢道」、(左面)「左ハ 金谷ゟ村上道」/頂部中央に通行の安全を祈って梵字で「地蔵菩薩」の刻印 3
  大月の道標 おおづき 村上市 <月山道> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB   「右 大月/左 山、道」 2
  峡の渡 せば 村上市   渡し場   近世→明治19に廃止   荒川町教育委員会 不明 旧貝附村国道筋に建てられた石碑が建っている 4 -
写真 瀬波の方角石 せなみ 村上市 <瀬波港> 方角石(円柱、御影石) 高40.0㎝, 径24.2㎝ 近世   船・地図・日和山p108/WEB 砂丘上にあるため、文字が摩耗 砂丘上にあるため、文字が摩耗 3
写真 種川 たね 村上市 三面川 御留川
(鮭繁殖用水路)
  不明→享保12(1728)に改修   市教委/WEB(サーモンミュージアム)/WEB 平成3に公園整備/平成23には「よみがえれ種川」と称し、種川再生のボランティア清掃が行われた、平成24にはシンポジウムも開催 考案:村上藩士・青砥武平治/鮭の母川回帰性の利用による天然増殖を目的とした三面川の水路/水路に鮭の産卵、孵化しやすい河床を作り、稚魚の時期に漁を禁じる事により、鮭を増殖させる方法「種川の制」が行われた→施行後は漁獲量が3-4倍に増えた/種川の制は、庄内藩が文化3(1806)に採用した/青砥は、世界で最初に鮭の母川回帰性を発見した人物、と評されることもある 2
写真 大切坑 おおぎり 村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道 高175㎝,幅130㎝(坑口から約100m区間) 16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/長212mに入坑可能(ヘルメット着用) 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑口から長100mほどが高175㎝、幅130㎝のきれいな長方形断面になっており、その先は枝分かれした「たぬき掘り」が続く/金山の最下部に位置しているため排水路の役目をしていると言われている 1
写真 黄金坑(大千畳坑 ) おうごん
(だいせんじょう)
村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道 高約2m,幅約2m 16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る(入口のみ近代化)/長89mに入坑可能 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑内に近世と思われる坑内選鉱場が残る/高約2m,幅約2mの正方形に近い断面の坑道から「たぬき掘り」の坑道が分かれている/坑内の広い空間が「大千畳」と呼ばれている/第二次大戦時に採鉱を試みたと言われており、当時新設された坑口が残る 3
  あさひ坑   村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 大同2(807)に出羽の国住人・相之俣弥三郎により発見されたと伝えられる/上杉氏の領地であった天正(1573-92)~慶長(1596-1615)には全国一の産金量を誇ったと言われている/近代に以降にも度々試掘されたものの、再興には至らなかった 4
  センノキ坑   村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 落盤が多いものの、江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑口にセンノ木の巨木があったためセンノキ坑と名付けられた 4
  小千畳坑 しょうせんじょう 村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/黄金坑の下部に位置している/坑内の広い空間が「小千畳」と呼ばれている 4
  栗島の石畳 くりしま (岩船)粟島浦村
(栗島)
  石畳道   近世?   WEB     3
写真 土沢の牓示石 つちざわ (岩船)関川村   傍示石 高125㎝,幅91㎝,厚40㎝ 正応5(1292)頃 村史跡 WEB 移設 奥山荘の和田氏と荒川保の河村氏は、度々水利権と砂鉄産地で境界を争っており、正応5に幕府の裁定が下り、境界にこの傍示石が置かれた 2
      (刈羽)刈羽村                    
      (三島)出雲崎町                    
  下船渡の石橋 しもふなと (中魚沼)津南町 <北国脇街道>/船津川 石桁橋   不詳   歴史の道4p32 個人の敷地内 ごく小規模だが、一枚岩 4 -
  外丸の地蔵道標 とまる (中魚沼)津南町 <北国脇街道> 石道標(舟型) 高75㎝,幅49㎝ 不詳   歴史の道4p33   (光背右)「右 やまみち」、(同左)「左 善光寺」/光背中央に地蔵坐像の陽刻  
  下船渡の道標1 しもふなと (中魚沼)津南町 <北国脇街道> 石道標(自然石) 高66㎝,幅40㎝ 不詳   歴史の道4p33   (正面)「右者 善光寺道/左者 見玉不動道」   -
  下船渡の道標2 しもふなと (中魚沼)津南町 <北国脇街道> 石道標(自然石) 高52㎝,幅38㎝ 不詳   歴史の道4p33 街道分岐点に当時のまま残る (正面)「右ハ下船渡村/左ハ善光寺、道」 2 -
写真 彌彦神社の玉ノ橋 いやひこ (西蒲原)弥彦村 彌彦神社参道/御手洗川 木太鼓橋(半円形) 長4.5m,幅2.1m 室町起源→江戸期   彌彦神社/村教委 明治29再建→明治45屋根のみ焼失→大正7移設→昭和60移設・屋根再建→平成23修復(橋全体を大きな木造建屋で覆う) 伝・室町時代の境内絵図に太鼓橋が描かれている→明治26の境内図に描かれた橋(改修記録がないので江戸期の架設であることはほぼ確実)と、現存する橋(明治29再建された橋)は、かなり似ている 3
写真 京ノ瀬の石畳 きょうのせ (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 石畳道
(花崗岩の割石、自然石)
長4.2㎞(当初)→1.4㎞,幅2m 寛文年間(1661-72) 町史跡 町教委/WEB/歴史の道11 保存状態は区間により異なる/断続的(「どうしん坂」の500m区間に残る300mの石畳が最良) 新発田・村上両藩の殿様が参勤交代の際に通ったことから「殿様街道」、「新発田街道」とも呼ばれた 3
  新谷の石畳 しんや (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 石畳道 長20m弱,幅約1.5m 不詳   歴史の道11p16 一部途切れている     -
  福取一里塚 ふくとり (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 一里塚(2基) 高3m,直径4m 寛文7(1667)頃 町史跡 町教委/WEB/歴史の道11p23 杉並木に囲まれている 勾配を緩くするため道路を堀下げたので、切り通しの両側の杉林に囲まれて高く見える 3
写真 柳新田一里塚 やなぎしんでん (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 一里塚(2基) 高約1.5m,直径約2m
寛文7(1667)以降 町史跡 町教委/WEB/歴史の道11p21 現道のヘアピンカーブ部分に2基1対の完形塚が残る 2基間の約3.2mが旧街道跡と考えられる/自動車道路が開削されたが、一里塚を迂回することになり保存された 2
  行地一里塚 いくじ (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 一里塚(2基) 高3m,周囲長30m 寛文7(1667)以降   町教委/歴史の道11p16 雑草に覆われている   3
写真 栄山の一り石 さかえやま (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 一里石(2基) 高90㎝,幅60㎝,厚50㎝ 享和元(1801) 町有形 町教委/WEB 現在地より下方の旧道にあったものを移設/2個の石標が並んで置かれる 「一リ石」/音無川沿いの狭い道の為、塚に代えて石標を立てた 3
  角島の道標 つのしま (東蒲原)阿賀町 <会津街道> 石道標 高60㎝,幅19㎝ 天保年間(1830-44)?   町教委   「右 新発田 村上道」「左 水原 五せん 小川通」   -
      (南魚沼)湯沢町                    
      (南蒲原)田上町