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山梨県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  上曽根一里塚 かみそね 甲府市 <中道往還> 一里塚(1基) 塚木:榎 江戸期   WEB オリジナルの榎が現存(小型→空襲で損傷を受けたとされる→補植えの可能性も) 中道往還に残る唯一の一里塚 2
  甲運橋脇の川田道標 こううん、
かわだ
甲府市 <甲州街道> 石道標 高約1m 万延元(1860)   WEB 「東京」とあるので、後世の追刻がある/文字の一部が埋没 「左 甲府 身延 甲運橋道/右 富士山 大山 東京道」 4
  右左口宿の庚申塔道標 うばぐち 甲府市 <中道往還> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB 設置環境があまり良くない 「左ハ山道/右ハ駿河道」/右左口宿の静岡側出口に立つ 2
  梯町の百番供養塔道標 かけはし 甲府市 <中道往還> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB 保存状態良好 「左ハ市川甲府道/右ハ山道」 1
  梯町の秋葉山常夜灯 かけはし 甲府市   石常夜灯(自然石)   江戸期?   WEB 保存状態良好 竿の部分が太い素朴な形態/秋葉信仰の盛んだった地 1
  上石田の枡形のサイカチ かみいしだ 甲府市 <甲州街道> 枡形 サイカチ(樹齢300年)2本 江戸期 市天然 WEB 道路線形は、典型的な枡形をイメージさせないし、周辺環境は悪い 枡形と古木の組み合わせは珍しい 2
  差出堰 さしで 甲府市・笛吹市・
山梨市
笛吹川 用水路 長約12㎞ 17C頃 疎水百選   C改修   5
  法泉寺石造井戸 ほうせんじ 甲府市 法泉寺 石井戸(安山岩) 深52.5㎝,
外幅85.5㎝,
内幅63.5㎝
慶安2(1649) 市民俗有形 WEB 井戸枠の上に瓦屋根の載った小さな屋根型覆いが被せてあり、アンバランス 1つの石をくり抜いて作られた四角の井戸枠/井戸枠の南北西の3面に甲州武田家の家紋(四つ割菱)が陽刻されている 2
写真 恋塚の石畳 こいづか 上野原市 <甲州街道> 石畳道 長10m,幅1.7m 江戸期   WEB 当時のまま ごく小規模 2 -
写真 恋塚一里塚 こいづか 上野原市 <甲州街道> 一里塚(1基) 南塚:高約5m,
直径約12m,
塚木:なし
慶長9(1604) 県史跡 市教委/WEB 北側の塚は道路の拡幅工事で削られてしまった/元来の塚木である松は消滅   3
  鶴川神社の駒つなぎ石 つるかわ 上野原市 <甲州街道・鶴川宿> 馬つなぎ石
(自然石)
  江戸期   WEB かつては、鶴川宿内の街道沿いの家の前にあった かなり大型 3
  安寺沢の郷倉 あてらざわ、ごうぐら 上野原市   郷倉
(木造切妻萱葺)
間口3.0m,奥行3.2m 寛政元(1789)以降 市有形 市教委/WEB 移築(明治期)/覆屋で保護(景観上良くない) 郷倉というのは、凶作のときに備えたり、米価の調節などを目的に籾を強制的に貯蔵しておき、不時の際、籾を貸し出して農民を救済するためのもの 3
写真 猿橋 さる 大月市 <甲州街道>/桂川 <木刎橋
(肘木けた式)>
長約31m,幅3.3m 宝暦6(1756)? 国名勝 市教委/日本百名橋p68-71 昭和59(1984)架替え/錦帯橋のように江戸期の工法を継承せず、主要部材は鋼材に木板を張り付ける構造とした 橋の架替えの記録が残るのは延宝4(1676)以降(形式不明)、宝暦6以降は刎橋であった可能性が高い→天保12(1841)に広重が訪れた際は現在と同型/日本三奇橋の一つ(富山の愛本橋と岩国の錦帯橋)/谷が31mと深く橋脚がたてられないため、両岸から張り出した4層の刎木により中央の桁を支える構造/雨による腐食を防止するため刎木の側面や横木の先端に小さな屋根を付けている 3 写真
  中初狩の秋葉山常夜灯

なかはつかり

大月市 <甲州街道> 石常夜灯   安永7(1778)   WEB 近代の石擁壁上にあるので移設   2
  黒野田宿の秋葉山常夜灯

くろのだ

大月市 <甲州街道> 石常夜灯   嘉永7(1854)   WEB   小型  
  追分公民館前の常夜灯

おいわけ

大月市 <甲州街道> 石常夜灯   安政3(1856)   WEB      
  駒橋宿の秋葉山常夜灯 こまはし 大月市 <甲州街道> 石常夜灯   安政5(1858)   WEB 保存状態、周辺環境ともあまり良くない   2
  五ヶ堰 ごか 大月市・都留市 桂川・菅野川・朝日川 用水路 長約8㎞ 寛文年間(1661-1672)   市教委/WEB 小規模な修復 農業振興のため造らせた水路/流路の大幅な変更はない 2
写真 岩殿城の烽火台・跡 いわどの 大月市 岩殿山山頂(標高634m) 狼煙場   享禄5(1532)頃   WEB 場所が特定されているだけ 郡内領主小山田氏によって築かれたとされる山の砦の櫓台上 4
  旧・竜王河原宿石橋 りゅうおうかわら 甲斐市 <竜王河原宿> <石桁橋> 石材:長1.0m,
幅0.43m,厚0.18m
元禄4(1561) 市史跡 市教委/WEB 石材が残存 竜王河原宿の免許屋敷に架けられていたもので、立村当初に掛け替えられた 4
  楯無堰 たてなし 甲斐市・北杜市・
韮崎市
塩川 用水路、
素掘トンネル
(水路)
長15.4㎞ 寛文6(1666)   市教委 C改修 山梨県の三大堰の一つ/トンネルは全てC改修 5
  竜王用水 りゅうおう 甲斐市 釜無川 用水路、
素掘トンネル
(水路)
  江戸期   WEB C改修 甲府盆地竜王地区を潤す用水として現在も大切な役割を果たしている 5
写真 信玄堤 本土手 しんげんづつみ 甲斐市 信玄堤公園<御勅使川> 土堤防 長約600m(土手部のみ、これに1㎞を超える石積の2番堤が付随)→長約400m 永禄3(1560)以前→貞享5(1688)現存形に近い場所・形状で構築→近世 県有形 南アルプス市埋文調査報告書No25/県博/市教委 信玄由来でも、現存堤の建設年代の特定は困難(恐らく、近世中期頃の修築)/戦国期のものでなくても、それを修築した近世のものとして唯一現存する 『甲斐国志』(1814)に記述された治水施設の中で、唯一信玄の時代に施工が確認されている堤防/長350間の土手=土手の川表側には長450間、横6間の石積出、下流側には長700間、横6間の石積出が延びる→さらに、川表側に33ヶ所の「出し」が敷設(現在の竜王堤は、この出しを連続させたとの考え方もある) 2 写真
写真 葉町の霞堤 ふたば 甲斐市 <釜無川(左岸)> 土堤防(霞堤)
(一部に石)
(北)長250m(保存状態の良いのは125m),(中)180m(同90m),(南)長250m 近世?
(明治21の地図に記載)
  県博/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世由来としても、現存堤の時代特定は困難/部分的に崩れたり、道路化している 釜無川への塩川の合流部/3本の不連続堤が連続して残っており、規模も大きく、霞堤のイメージがよく分かる/水害による被害を想定した農地を広く設定した
3
写真 竜王新町のくり抜き石枠井戸 りゅうおうしん 甲斐市 称念寺<甲州街道> 石井戸
(四角・安山岩の一枚板)
92㎝四方,
高61㎝,内径65㎝
慶長11(1606)頃 市有形 市教委 当時のまま 一枚岩で加工された石枠は市内でも少なく、井戸とともに現存しているのはわずかである/四隅は角を削り隅丸になっている 2
  龍地の大溜井(大溜池) りゅうじ 甲斐市   溜池 灌漑面積0.1平方km 天保3(1832)   市教委 大規模な修復   5
写真 上菅口の郷倉 かみすげくち、ごうそう 甲斐市   郷倉
(土蔵造切妻瓦葺)
桁行6.4m,梁間2.7m 文政年間-天保年間
(1818-1844)
県有形 市教委 小規模な修復/覆屋で保護 倉は土蔵造り、桁行6.4m、梁間2.7m、一重、切妻造り桟瓦葺であって、倉の内部は東と西の二間に仕切られ各々出入り口が設けてあり、西側南面に採光窓が開かれているほか四周は土壁である 2
  下菅口の郷倉 しもすげくち、ごうそう 甲斐市   郷倉   文政年間-天保年間
(1818-1844)
県有形 市教委 小規模な修復   4
  鶴瀬宿の常夜灯 つるせ 甲州市 <甲州街道> 石常夜灯   享和3(1803)   WEB かつて宿場だった雰囲気が残る   1
  勝沼宿の常夜灯 かつぬま 甲州市 <甲州街道> 石常夜灯   文化6(1809)   WEB 竿の部分にあたる自然石は近年の更新   3
  等々力交差点脇の常夜灯 とどろき 甲州市 <甲州街道> 石常夜灯   文政12(1829)   WEB 恐らく移設 小型の常夜灯 2 -
  黒川金山 くろかわ 甲州市   金山   15C末~16C末 国史跡 市教委/WEB 坑道跡が残存(立入禁止) 武田軍の軍資金として使われた/16C末には衰退 3
  竜喰金山 りゅうばみ 甲州市   金山   享保10(1725)以前   市教委 坑道跡が残存   3
  牛王院平金山 ごおういんだいら 甲州市   金山   16C中期以前   市教委 露天掘りの竪穴が残存 黒川・竜喰金山よりも古く、より産出量の多い黒川金山の発見により衰退したという見解がある 4
  昭和町の旧霞堤 しょうわ 中央市・
(中巨摩)昭和町
<釜無川(左岸)> <土堤防> 長330m(中央市)+891m(昭和町) 近世由来   県博/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書/市教委 近世の土堤防の上から、近代に補強→道路化/保存状態はあまり良くない(昭和町の方がいい) 釜無川の大型の霞堤だが、現在は内陸部(昭和町の部分は宅地化)
4
写真 旧・元坂の石橋 もとさか 都留市 円通院の放生池<家中川> 石桁橋 長6.22m(3G),
幅1.21m
元禄17(1704)以前 市史跡 WEB 移設/周辺がネットで囲まれ見苦しい 元は街道用の石橋だったものが、川幅が変動したため架け替えられた 4
  五ヶ堰 ごか 都留市・大月市 桂川・菅野川・朝日川 用水路 長約8㎞ 寛文年間(1661-1672)   市教委/WEB 小規模な修復 農業振興のため造らせた水路/流路の大幅な変更はない 2
写真 本町の道標 ほんちょう 韮崎市 韮崎市民会館
<甲州街道/佐久往還>
石道標 高82㎝,幅28㎝,奥行28㎝ 元禄8(1695)   市教委/WEB 移設 「右 信州さくの郡みち/左 信州すわ上みち」 3 -
写真 南下條の石仏道標 みなみげじょう 韮崎市 韮崎市民俗資料館
<甲州街道/佐久往還>
石道標 高84㎝
(身丈70㎝),
幅26㎝,奥行23㎝
寛延4(1751)   WEB 移設 「右 さく/左 すわ」/石仏が陽刻されている 2
写真 上円井の常夜灯 かみつぶらい 韮崎市 <甲州街道> 石常夜灯 高約1.5m 天明3(1783)   WEB 火袋が更新/基壇はC   3
写真 中條の常夜灯 なかじょう 韮崎市 <甲州街道> 石常夜灯 高約1.8m 天明8(1788)   WEB   春日型(三重県以外では稀)/魚と龍のような絵が刻まれている=非常に稀→近辺に存在した竜ヶ橋に竜と鳳凰の争いによる竜の爪跡があったという言い伝えと関連があると思われる 2
  本町の馬つなぎ石 ほんちょう 韮崎市 <甲州街道> 馬繋石   江戸期?   WEB   旧甲州街道の宿場町当時、石の片隅に穴をあけて、これに「手ずな」を通し馬を繋いでいた/小型/現在、本町通りのあちらこちらに点在している 2
  楯無堰 たてなし 韮崎市・甲斐市・
北杜市
塩川 用水路、
素掘トンネル
(水路)
長15.4㎞ 寛文6(1666)   市教委 C改修 山梨県の三大堰の一つ/トンネルは全てC修復 5
  徳島堰 とくしま 韮崎市・
南アルプス市
釜無川・小武川 用水路 長約17㎞ 寛文10(1670)   WEB C改修 施主:徳島俊正/山梨県の三大堰の一つ 5
  朝穂堰 あさほ 韮崎市・北杜市 塩川 用水路 長約21.5㎞ 享保3(1718)   朝穂堰土地改良区 C改修 明治5(1872)穂坂堰と浅尾堰を合わせた総称を朝穂堰とした/山梨県の三大堰の一つ 5
写真 下条南割(竜岡)将棋頭 しもじょうみなみわり
(たつおか)
韮崎市 御勅使川(左岸) 石堤防 長100m,
幅約2m,
高約3m
近世由来(19世紀) 国史跡 南アルプス市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 文久2(1862)の文書に記載があるため近世由来だが、現存堤の構築年代は恐らく近代/保存状態良好 『甲斐国志』(1814)に無記載/御勅使川左岸の将棋頭堤防は2ヶ所あったが、「西割」の方は現存せず/下条の将棋頭群は、御勅使川の流路内に耕地を確保するためのもの/六科将棋頭と違い木工沈床などの根固めは施されていない 2
  下条東割の霞堤 しもじょうひがしわり 韮崎市 釜無川(右岸) 石堤防 長640m 近世由来?   山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 明治21の地図に記載があるので、近世に遡る可能性あり/保存状態は概ね良好 釜無川の大型の霞堤
3
  御坂路の石畳 みさかじ 笛吹市 <旧鎌倉街道> 石畳 長約10m 近世、もしくは、それ以前 歴史の道百選 WEB   旧鎌倉街道の一部である「御坂路」に残る石畳/ごく小規模 2 -
  御坂路の駒留石 みさかじ 笛吹市 <旧鎌倉街道> 馬繋石   近世、もしくは、それ以前   WEB   聖徳太子が馬をつないで休んだとの伝承 1
  差出堰 さしで 笛吹市・甲府市・
山梨市
笛吹川 用水路 長約12㎞ 17C頃 疎水百選   C改修   5
  一宮の石積堤防 いちのみや 笛吹市 金川 石堤防 長約30m 近世?   市教委 現存堤構築年代は近代の可能性も   4 -
  御坂町の石積堤防 みさか 笛吹市 金川 石堤防 長約100m 近世?   市教委 現存堤構築年代は近代の可能性も   4
  河口湖(新倉)掘抜(吐口) かわぐちこ
(あらくら)
ほりぬき
富士吉田市・(南都留)富士河口湖町   素掘トンネル
(水路)
長約3.8㎞ 元禄14(1701)失敗→嘉永6(1853)失敗→慶応2(1866)→大正2(1913)使用停止 市史跡 市教委/河口湖・新倉堀抜史跡館 封鎖(トンネルは残る) 農業用水の常識である一定勾配ではなく、上下方向に屈曲した地層に沿って掘られた異例な水路トンネル/河口湖→新倉村に導水する藩直轄の工事(普請奉行:大久保庄太夫他)として元禄3-14(1690-1701)に施工⇒通水失敗/新倉村民の自普請として弘化4-嘉永6(1848-53)に施工⇒通水後1年で断水/同・自普請として文久3-慶応2(1863-66)に施工⇒通水成功 3 写真
  鳥居木の石切場 とりいぎ 富士吉田市   石切場   19世紀中葉? 市史跡 WEB 石屋の寝床及び石切場跡が残存   2
写真 旧中沢堤 なかざわ 富士吉田市 <桂川(右岸)> 土堤防 長約150m,
幅3.2m,高約1.1m
貞享3(1686)   市教委 昭和3に流され石積み修復 部分的に菜園化、もしくは樹林化している 3
写真 新中沢堤 なかざわ 富士吉田市 桂川(右岸) 石堤防 長約580m,
幅6.4m,高約1.1m
天保5(1834)の災害後   市教委 桂川河川公園と桂川の間の遊歩道に良好な状態で残る 人頭大の川原石を用いた見事な石積み/旧中沢堤から新規に造り、以降順次に修復・延長 2
写真 棒道 ぼうみち 北杜市・
長野/
(諏訪)富士見町・茅野市
  道路 長約50㎞→雰囲気が残っているのは7㎞程度 天文21(1552)に開設命令? 市史跡 WEB いつ、どのように造られたかの記録なし/小淵沢~富士見の間が(そこが棒道であったかどうかは別として)、旧道の雰囲気が残る 武田信玄が信濃攻略のため、八ヶ岳山麓をほぼまっすぐ走らせるよう開削したという伝承のある道/「高見沢文書」の中で天文21(1552)の武田晴信印判状に甲府から諏訪への路次の勧進命令が記されているが、文書のある現・佐久穂町は蓼科の東山麓で棒道とは無関係であるし、印判状の真偽に論争もある/慶応4(1651)の「逸見筋小淵沢村四ヶ村山論裁許絵図」に描かれた「八ヶ嶽」山麓を横断する2本の道に「本”う道」「中道」と記されていることから、誰が開削したかは別として江戸初期には棒道が存在していた 2
写真 荒田の常夜灯 あらた 北杜市 <甲州街道> 石常夜灯 高約3.0m 慶応2(1866)   WEB 保存状態はいいが、管理が定常的になされていない 大型の常夜灯/火袋に障子あり(破けている) 2
写真 台ヶ原宿の秋葉山常夜灯 だいがはら 北杜市 <甲州街道> 石常夜灯 高約3.7m 江戸期   WEB 保存状態良好 大型の常夜灯/火袋に障子あり=極めて稀/自然石の台座/近くに消防の火の見櫓がある=典型的な秋葉山信仰の名残り 1
写真 台ヶ原宿の道祖神常夜灯 だいがはら 北杜市 <甲州街道> 石常夜灯   時期不詳     移設 全体に円形・棒状の常夜灯(珍しい) 2
  箕輪新町の道標 みのわしんまち 北杜市 <信州往環> 石道標(自然石)   文化2(1805) 市建造物 WEB 基壇石は新設 「左ふちゅうみち」「右村山みち」 2
写真 台ヶ原宿の馬頭観音道標
(左)
だいがはら 北杜市 <古道(はらぢみち)> 石道標 高132㎝
(身丈107㎝),
幅50㎝,奥行34㎝
寛延4(1751)?   WEB   「左りはらじみち」 2
写真 台ヶ原宿の馬頭観音道標
(中)
だいがはら 北杜市 <古道(はらぢみち)> 石道標 高70㎝
(身丈59㎝),
幅26㎝,奥行23㎝
文政12(1829)   WEB     2
写真 台ヶ原宿の馬頭観音道標
(右)
だいがはら 北杜市 <古道(はらぢみち)> 石道標 高119㎝
(身丈106㎝),
幅36㎝,奥行29㎝
江戸期   WEB   「右 かうふみち/左 はらぢ通」 2
  村山六ヶ村堰 むらやまろっかむら 北杜市 千条の滝・吐竜の滝・川俣川 用水路 長約16㎞ 11世紀?   村山六ヶ村堰土地改良区/WEB C改修 新しく作った自然型水路あり/灌漑・生活用水の他、現在は水力発電にも利用されている 5
  楯無堰 たてなし 北杜市・甲斐市・
韮崎市
塩川 用水路、
素掘トンネル
(水路)
長15.4㎞ 寛文6(1666)   市教委 C改修 山梨県の三大堰の一つ/トンネルは全てC修復 5
  朝穂堰 あさほ 北杜市・韮崎市 塩川 用水路 長約21.5㎞ 享保3(1718)   朝穂堰土地改良区 C改修 明治5(1872)穂坂堰と浅尾堰を合わせた総称を朝穂堰とした/山梨県の三大堰の一つ 5
  揉合神社の風除林 もみあわせ 北杜市 甲六川~篠原 防風林(赤松) 長約1.3㎞,幅5.4m→幅数百m 正徳5(1715)   WEB 第二次大戦下で資材として大量に切り出され荒廃→補植 八ヶ岳おろし(寒風)による冷害に悩まされてきた農民が、幕府の許可を受け、元禄2(1689)から20年以上かけて、自費で1キロを超える防風林を植えた/揉合神社は、東西から進められた植林が落ち合った場所、という意味 3
写真 三分一湧水 さんぶいち 北杜市 三分一湧水館 石分水<木分水>
(3用水)
湧水量8500t/日 元禄期(17C末~18C初)
or 寛政12(1800)以降
(分水枡に三角木柱?)
  WEB 大正13に石造枡→昭和19再建(災害復旧)→昭和22に三角石柱(伝説を具現化) 用水自体の建設は享禄4(1531)で、武田信玄が施工した可能性がある
(分水とは無関係)/3つの村の間で続いた村争いを治めるため、3つの村に平等に水を分配するために江戸中期(元禄期?)に木製枠を設置して分水したとされる/現在のような形になったのは、土石流で湧水池が埋まった寛政12以降
3 写真
  金山平の金鉱
かなやまだいら 北杜市   金山   戦国期   WEB 露天掘跡、坑道跡が複数残る 武田氏が甲州金を鋳るため、数千人の人夫を送り込み採掘させたといわれる 3
  大渡の烽火台・跡 おおわたり 北杜市   狼煙場   戦国期? 市史跡 WEB   武田信玄時代の烽火ネットワークの一環を担っていた(?)/「城山」の上にある烽火台跡/頂上の主郭を中心に鳥居峠側に8段の帯郭を配置 3
  徳島堰 とくしま 南アルプス市・
韮崎市
釜無川・小武川 用水路 長約17㎞ 寛文7(1667)通水・被災→寛文10(1670)復旧→宝永3(1706)以前に河川横断部を埋樋化   市埋文調査報告書No25/WEB 8割以上の流路が当初の場所を維持/全面C改修 計画・一次施工:江戸深川の徳島兵左衛門、復旧完成:甲府藩の家臣・津田伝右衛門と有野の矢崎又右衛門/山梨県の三大堰の一つ/御勅使川扇状地は砂礫質のため農耕のための水の確保が最優先課題であった/最大の難関は、御勅使川の横断(板関→埋樋→甲蓋) 4
写真 御勅使川石積出(一番堤) みだい、いしつみだし 南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約90m,
幅16m,高7.3m
近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 江戸期の絵図(18世紀)に描かれているため近世由来だが、現存堤の構築年代は近代/一~三番堤は、観光用に整備 信玄治水の伝説は『甲斐国志』(1814)の創作(信玄は甲斐市の「信玄堤」は構築しているので、この地域で何らかの治水事業を行ったかもしれないが、それを証拠付ける戦国期の一次史料はない)/現存する「石積出」は恐らく江戸中期には築造されていて、破堤したら被害が及ぶ22ヶ村によって保守されていた(何度も破堤・崩壊した記録が残っているので、もっと前に信玄由来のものが付近にあった可能性は否定できない)/一番堤に最も大きな石が使用されている(激流に耐えるため) 3
写真 御勅使川石積出(二番堤) みだい、いしつみだし 南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約80m,
幅13m,高5.5m
近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前/一~三番堤は、観光用に整備/駐車場に近く、アクセスが最も容易 同前/同前/一~三番堤の中では、最も小型 3
写真 御勅使川石積出(三番堤) みだい、いしつみだし 南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約70m,
幅20m,高10.1m
近世由来(18世紀)→現存堤は明治14(1881)以降の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前(根固めに木工沈床を使用)/一~三番堤は、観光用に整備/一部堤防の根元を掘り、根元まで見えるようにしてある 同前/同前/御勅使川石積出のシンボル的存在/巨大な石積は、近世由来の構築物としては圧倒的な規模を誇る 3
写真 御勅使川石積出(四番堤) みだい、いしつみだし 南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約250m 近世由来(18世紀)→現存堤は明治末期~大正期の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博 同前(根固めに梯子土台を使用、川表側にコンクリート、鉄線蛇籠を使用)/川側は水道施設内で立入禁止/山側は上部にCの付加物 同前/同前/石堤防上にフェンスを築造/道路で分断 4
写真 御勅使川石積出(五番堤) みだい、いしつみだし 南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約1.6㎞ 近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前/木立に囲まれ、視認困難な場所が多い 同前/同前/一~四番堤と異なり、川に平行→石積出というより、堤防に近い 4
写真 有野の枡形堤防 ありの、ますがた 南アルプス市 御勅使川(川中)、六科後田水門 石堤防(Λ型)
(北堤、南堤)
堤頂部長:
42m(北),
約45m(南)
近世由来(上記、徳島堰の埋樋化と同時?)→現存堤は明治42(1909)前後の修築と推測   市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 徳島堰の埋樋化に伴う施設のため近世由来だが、慶応4(1868)の詳細部とも若干形状が異なり、現存堤の構築年代は明治末期→史跡的な価値/敷地のぎりぎりまで民家が建っている/保存状態良好 信玄治水の伝説は『甲斐国志』(1814)の創作(信玄は甲斐市の「信玄堤」は構築しているので、この地域で何らかの治水事業を行ったかもしれないが、それを証拠付ける戦国期の一次史料はない)/徳島堰の埋樋部分の六科取水口(後田水門)を守るための堤防/小型の将棋頭だが、現存する2つの将棋頭がΛ型の完全形ではないため、また、北側に2基造られていた枡形堤防も撤去されたため、唯一残る貴重な存在/現存する枡形は近代のもの(木工沈床が使われている) 3 写真
写真 六科将棋頭 むじな 南アルプス市 御勅使川(川中・右岸) 石堤防(北堤) 長115m,幅22m,高4.3m 近世由来(19世紀)→現存堤は明治14~31(1881~98)の間の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No22/県博/現地解説板 江戸期の絵図(19世紀)に描かれているため近世由来だが、現存堤の構築年代は木工沈床の使用から、近代であることは確実/保存状態良好 同上/六科将棋頭は、御勅使川の流れを二分するために築かれたとされる(実際には、扇状地上に耕地や村落を確保するためとの推測が定説化)/現存石堤の下流側に二番堤と三番堤の存在が確認されている(三番堤を将来復元する計画もある) 3
  六科御勅使川通五番・六番堤 むじな、みだい 南アルプス市 御勅使川(川中・右岸) 石堤防(霞堤)
(北堤、南堤)
長530m,幅8.2m,高4.4m 近世由来(19世紀)   市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 木で覆われているが、概ね良好 六科将棋頭の下流側に続く霞堤群 3
  お熊野堤 おくまんどい 南アルプス市 御勅使川(右岸) <土堤防(霞堤)> 長約350m 近世由来   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 道路化/改修の程度は不明 六科将棋頭によって御勅使川の流れを左右に分けた際の右派の右岸霞堤群 3
  上高砂二番堤 かみたかさご 南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防(霞堤) 長約580m 16世紀中頃由来→その後3回嵩上げ   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 一部現存 御勅使川が合流した直後の釜無川右岸の大型霞堤群 3
  百間堤 ひゃっけん 南アルプス市 釜無川(右岸) <土堤防(霞堤)> 長約190m 天保8(1837)   堤の風景 保存状態良好/環境は良くない 御勅使川が合流した直後の釜無川右岸の大型霞堤群/名称は長さに由来 2
  将監堤 しょうげん 南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約200m 享和2(1802)以前由来→現存堤は幕末~近代   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世由来の区間は200mだが、それ以南の将監堤は、現行堤防の中に埋まっている可能性がある 江戸期13ヶ村1万石を水害から守ってきた釜無川右岸の治水の要 3
  八幡下堤(もようげん堤) はちまんした 南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約400m 文政12(1829)   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 恐らく、当時のものが現存 文政11(1828)の台風で壊滅的な被害を受けた将監堤による治水システムを再構築(模様替)するために造られた→「もようげん」の名の由来 2
  土出し堤 つちだし 南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約80m 文政12(1829)?   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 恐らく、当時のものが現存 将監堤、八幡下堤とセットで、治水システムとして機能 2
  浅原村の避水台 あさばら 南アルプス市 釜無川(右岸) 助命壇   享和2(1802)由来   堤の風景 C基壇化 水害に多くみまわれた浅原村の厳しい状況を物語る史跡 3
  鍵懸の関 かぎかけ 山梨市 秩父裏街道 関所   天文19(1550) 市史跡 WEB 一部復元 武田信玄の頃には軍事上攻防の秘密道路にある関所 3
写真 差出堰 さしで 山梨市・笛吹市・
甲府市
笛吹川(左岸)、万力公園 用水路 長約12㎞ 17C頃 疎水百選 現地調査 万力公園内の一部を除きC改修   4
写真 雁行堤 がんこう 山梨市 笛吹川(左岸)、万力公園 石堤防 高5.45m→約1m,総延長32.58m 天正11(1583)の大水害以降の由来→現存堤は近世中期の修築と推測 市史跡 県博/市教委/現地解説板 天正期の大水害後の由来だが、現存施設は恐らく近世のもの/万力公園内に棒状に残存 幕末まで利用されていた/棒状で雁行の形は喪失 3
写真 万力林 まんりき 山梨市 笛吹川(左岸)、万力公園 水害防備林 長約1㎞ 天正11(1583)の大水害以降? 一部市天然 県博/現地解説板 松の樹高から、天正由来のものも相当数含まれていると推測 武田信玄によって造られた治水遺産のひとつ/万力林の樹木は松、クヌギ、コナラ、藤、桑などがあり、そのうちアカメヤナギ、ヤブ椿、桑の3本がそれぞれ市指定天然記念物に指定されている 2
      (北都留)小菅村                    
      (北都留)丹波山村                    
  昭和町の旧霞堤 しょうわ (中巨摩)昭和町・中央市 <釜無川(左岸)> 道路<土堤防> 長891m(昭和町)+330m(中央市) 近世由来   県博/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世の土堤防の上から、近代に補強→道路化/宅地化しているが、旧堤防を感じさせる部分も多い 釜無川の大型の霞堤だが、現在は内陸部(宅地化)
3
      (南巨摩)早川町                    
  富士水碑 ふじ (南巨摩)富士川町 <鰍沢> 石碑   寛政9(1797)   WEB 原位置 富士川水運に貢献のあった角倉了以の功績を称えた石碑 2
  富士川のデンボ穴 ふじかわ (南巨摩)身延町 <富士川用水> 素掘トンネル
(水路)
  江戸末期? 町史跡 WEB 当時のまま(使用停止) 富士川沿いの断崖に掘られた農業用水のトンネル群(一つ一つは短い) 2
写真 中山金山 なかやま (南巨摩)身延町 <湯之奥金山> 金鉱 露天掘り77ヶ所,坑道16ヶ所 元亀2(1571)以前→17世紀中頃が盛期→17世紀末終焉 国史跡 WEB 露天掘り跡、坑道跡とも、保存状態良好 武田軍の軍資金として使われた=鉱山そのものは、信玄以前(16世紀初頭)から存在していた/戦国期の鉱山の姿を残している(露天掘りから始まり、地表面に出た鉱脈を追った「ひ押し掘り」へと進歩) 2
写真 内山金山 うちやま (南巨摩)身延町 <湯之奥金山> 金鉱 露天掘り 戦国~江戸期   WEB 坑道跡は10ヶ所前後→土石流で荒廃/アクセスは不可能に近い
(上の写真は現況、下の写真は同位置の土石流被災前の坑口)
同上/最も大掛かりに採掘された金山で「中山千軒」という表現も伝わっている 4
  茅小屋金山 かやごや (南巨摩)身延町 <湯之奥金山> 金鉱   戦国~江戸期→17世紀末終焉   WEB   同上/宮屋敷、寺屋敷、集落跡、当時の人々の墓地などがある 3
  明沢井戸 あけさわ (南巨摩)身延町 <菅沼城> 石積井戸   戦国期? 町史跡 WEB C改修(内部は石積み)/石構造の構築年代は確定していない 菅沼城主の小金城攻略にあたり、河内の郷士21騎がこの井戸で身を浄めて出陣したという故事がある 4
  忍野八海 おしの (南都留)忍野村 富士山 湧水群   (平安中期)→天保14(1843)現在の形に改修 世界遺産・国天然・名水百選 WEB 観光地化→水質悪化防止が課題 出口池・御釜池・底抜池・銚子池・湧池・濁池・鏡池・菖蒲池の8つからなる湧水群 1
      (南都留)道志村                    
      (南都留)鳴沢村                    
      (南都留)西桂町                    
写真 河口湖(新倉)掘抜(呑口) かわぐちこ
(あらくら)
ほりぬき
(南都留)富士河口湖町・富士吉田市 河口湖・新倉堀抜史跡館 素掘トンネル
(水路)
長約3.8㎞ 元禄14(1701)失敗→嘉永6(1853)失敗→慶応2(1866)→大正2(1913)使用停止 町史跡 河口湖・新倉堀抜史跡館 トンネルの一部を観光用に整備 農業用水の常識である一定勾配ではなく、上下方向に屈曲した地層に沿って掘られた異例な水路トンネル/河口湖→新倉村に導水する藩直轄の工事(普請奉行:大久保庄太夫他)として元禄3-14(1690-1701)に施工⇒通水失敗/新倉村民の自普請として弘化4-嘉永6(1848-53)に施工⇒通水後1年で断水/同・自普請として文久3-慶応2(1863-66)に施工⇒通水成功 1 写真
      (南都留)山中湖村