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富山県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 浜黒崎の松並木 はまくろさき 富山市 <北陸街道(浜街道)> 松並木(黒松) 長8㎞→51本(大正13)→29本(昭和40の指定時)→9本(平成19) 慶長年間(1596-1614) 県天然 WEB ほとんど消失(戦前は、軍事用船舶建造のため、戦後は枯死) 加賀藩2代藩主・前田利長が参府の折に、街路の美観と冬季積雪時の往来の便を考えて、北陸道に植樹したのが始まりと伝えられる/樹齢500-600年の「親鸞聖人腰掛の松」が1本含まれる 4
  栗山の筏橋碑 くりやま 富山市 熊野川<飛騨街道> 石碑   文政元(1818)   WEB C台石 「熊野川 この所昔より舟渡しなりしが/みず乾のをりは徒渡りとなれり 又水いやます/ころは 人馬そむずる事もありあし 村長をはじめ/是をかなしみ 相はかりて郡の司某のみゆるしをうけ/庸杖をたをはる 郡と一村の祝かぎりなし/さて村長をはじめ 人々力をあはせ 日ならずして/筏橋となりぬ ながく往来の人の渡やすからむためぞ」 2
写真 旧・神通川舟橋常夜灯1 じんづう 富山市 (舟橋北町)<神通川(左岸)> 石常夜灯   寛政11(1799)   WEB 近接移設/笠石が一部破損 「金比羅大権現」/神通川舟橋を夜渡る場合の安全性確保のため、手伝町の町年寄・内山権左衛門が寄進/2基の常夜灯の間隔約200mが旧神通川の川幅/石基壇なし 2
写真 旧・神通川舟橋常夜灯2 じんづう 富山市 (丸の内1丁目)<神通川(右岸)> 石常夜灯   寛政11(1799)   WEB 近接移設/笠石が大きく破損 同上 3
  栗山の道標 くりやま 富山市 (筏橋の碑)<飛騨街道> 石道標(自然石)   治承4-寿永2(1180-83)??
→江戸中期以降?
  WEB 刻字が摩耗して判読困難/C台石 「右 八尾/左 髙山道」/木曾義仲の家臣・今井四郎兼平が、この地に宿陣した折、後々のために間道の道しるべにと建てたとの伝承/筏橋の碑と並んで建つ/道しるべの記載内容から推定して、江戸中期以降の建立か? 2
  弥陀ヶ原の地蔵道標1 みだがはら 富山市 <姥ヶ懐道> 石道標(舟型) 高59㎝,幅25㎝ 天明3(1783)   WEB 平成26に半世紀ぶりに再発見 (光背左)「右 う者いし道」/光背中央に地蔵立像を陽刻/立山荼羅に描かれた姥石(女人禁制を犯して入山した尼が罰を受けて石になったといういわれのある石)のくぼみに乗る/立山信仰 1
写真 大泉の道標 おおいずみ 富山市 (見龍橋)<立山道> 石道標(尖頭角柱) 高約1m,幅約30㎝ 天保11(1840)   WEB 若干の移設 (正面)「右 立山道」、(正面左隅に小さく)「左 本江湯屋」/立山信仰/建立: 尾州名古屋・杉尾佐助、杉尾佐太郎/立山温泉への道標を兼ねる 2
  弥陀ヶ原の地蔵道標2 みだがはら 富山市 <立山道> 石道標(舟型)   江戸期?   WEB 原位置? (光背右)「右 う者がふ登ころ道」、(光背左)「左 一ノ谷みち」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/立山信仰 1
  弥陀ヶ原の地蔵道標3 みだがはら 富山市 <立山道> 石道標(舟型)   江戸期?   WEB 原位置? (光背右)「右 湯之道」、(光背左)「左 立山道」/光背中央に地蔵立像を陽刻/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる 1
  笹津の道標
(笹津の追分道標)
ささづ 富山市 <飛騨街道→東街道・西街道> 石道標(自然石) 高約1m強,幅約30㎝ 江戸期? 市史跡 WEB 下3分の1の部分で折損→修復 「追分、 右 髙山/左 舩津、道」 2
  上滝の道標 かみだき 富山市 (大川寺前)<立山道> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB 台石とC接合(移設) (正面)「左 立山道」、(正面右に小さく)「右 ゆみち」/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる 2
  二松の道標 ふたまつ 富山市 <立山道> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB 台石とC接合(移設?) (正面)「右 立山道」/立山信仰 2
写真 牛ケ増の道標
(ふかたに湯道標)
うしがませ 富山市 <立山道> 石道標(自然石)   江戸期?   WEB 保存状態良好 (正面頂部)「立/山/下」、(正面)「是ヨリ右 四里/ふかた尓湯/右 湯ヨリ立山権現迄 十二里/同 大岩寺迄 二里/同富山迄 三里半」(「立山下」「ふかた尓湯」が大きく刻字)/立山信仰/立山温泉への道標を兼ねる 2
  舟倉用水 ふなくら 富山市 長棟川 用水路、素掘トンネル(水路) 長約14㎞ 文化13(1816) 疏水百選 WEB 旧水路、特にトンネル部分は良好に残る/親子で舟倉用水を歩く体験学習が40年以上にわたり続けられている 寛政8(1796)、算学者・石黒信由、五十嵐孫作らによって測量・設計、文化7(1810)に着工、難工事のため文化13(1816)完成 2
写真 佐々堤 さっさ 富山市 常願寺川(左岸) 玉石積堤防 長150m,高10m(建造当初の推定値) 天正8(1580)→元禄12(1701)破堤・修復→安政5(1858)地震で崩壊   WEB 常願寺川左岸を平行して流下する常西合口用水の岸辺と水底に天端部の残石が確認できる程度 施主: 戦国武将・佐々成政/常願寺川の急流が、岩峅寺の崖で左に向かい、馬瀬口で洪水を起こしていたのを止めるため、左岸側に築いた石堤防 3 写真
写真 済民堤 さいみん 富山市 常願寺川(左岸) 玉石積堤防   安政5(1858)以降   WEB 非現役 以前に築かれていた堤防が安政5 年4 月の大洪水で埋まってしまい、その上に改めて築かれたもの/常願寺川の治水に力を尽くした先人をしのび、民を助ける堤防として「済民堤」と名付けたと伝えられる 2
  葛原の榎 つづはら 富山市 神通川 榎並木(防災) 80本→3本 江戸初期 旧大沢野町天然記念物 WEB ほとんど消失 防災用 4
写真 殿様林 とのさま 富山市 常願寺川(左岸) 水害防備林 約6ha→約100本 明和6(1769)   WEB 第2次大戦中に伐採→常西合口用水沿いに残る 施主: 富山藩6代藩主・前田利與/富山城下を洪水から守るため佐々堤と同じ辺りに水防林として丹波から取り寄せた松苗を約6haにわたって植栽 2
写真 砺波平野の散居村のカイニョ となみ、
さんきょ
富山市   屋敷林   江戸期   WEB 現在の木で江戸期のものは少ないかもしれないが、「防風」という地域の伝統的風景は保全されている 「開墾した田畑は藩主に属すが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許した」加賀藩の奨励策→散居村/カイニョ(垣饒=垣のようにめぐらせた樹木)の理由→①風雨から家屋を守る、②冬暖かく夏涼しい、③目隠し、④薪用、⑤材木用〔防風が主目的の出雲平野の散居村の築地松とは異なる〕 1
写真 大場の大転石 おおば 富山市 常願寺川(左岸) (災害遺産)   安政5(1858)   WEB 修景保存 安政5 年4 月に富山平野に大きな被害を与えた大土石流で、径約4-7m(重量約100-600t)の巨石が40 数個残存するうちの1ヶ所 2
  西大森の大転石 にしおおもり 富山市 常願寺川(右岸) (災害遺産) 高8.7m,周囲32.5m 安政5(1858)   WEB 堤防に縦に埋まっているのが本体/上に載せてある石は飾り 同上 2
  的場の清水 まとば 富山市   湧水   江戸初期?   WEB 水枯れ 織田信長の部下・斉藤新吾の娘が皮膚病にかかり医薬の効果もないので刀尾権現に祈願したところ、枕元に権現が現れ弓・白羽の矢を与えた→お告げの通り丑寅の方角に射た矢を抜いて霊水を発見したとの伝承あり 3
  小糸の弘法清水 こいと 富山市   湧水(石手水)   江戸期?   WEB 保存状態良好/飲用可 水を所望した弘法大師に、老女は遠くから水を汲んできて飲ませたのを見て、清水を湧き出させたとの伝承 1
  小島の石名橋 こじま 射水市   橋地蔵(砂岩) 160㎝×175㎝ 江戸期 市有形民俗 市教委/WEB 平成20公園内に移設 裏面に地蔵菩薩が彫られた石をもつ橋(現在は、セメントで接合されていて確認不可能)/地蔵が村人のために横になったまま橋になったとの伝承がある/富山の地域性 3
  三ケの一里塚 さんが 射水市 <北陸街道> 一里塚(1基)   正保年間(1644-47)以前 市史跡 市教委/WEB 元は盛土状→地盤嵩上げし平地に/塚木は杉(昭和42補植) 正保年間の「越中四郡絵図」に描かれている→中田往来が脇往還であった時代に構築 4 -
  手崎の道標 てさき 射水市 <北陸街道> 石道標(自然石、板状) 高100㎝,幅50㎝ 1650頃? 市史跡 市教委/WEB 「い」の部分が欠損 「右とやま/左いわせ」/願海寺街道が形成された1650頃のものと言われている(伝承であって史料上の証拠はない) 2
  道番の道標 みちばん 射水市 <北陸街道> 石道標 高66㎝,幅23㎝,厚17㎝ 文化12(1815) 市史跡 WEB 木祠に安置 (正面)「右 江戸道」、(左面)「左 はまみち」 2 -
  三ケ新の道標 さんがしん 射水市 <北陸街道(浜街道)> 石道標(花崗岩) 高75㎝,幅25.5㎝,厚21.5㎝ 安政6(1859) 市史跡 市教委/WEB 4つの部分に折損→補修(最上部を除き石材変色)/移設 (南面)「(元禄袖付き指差し)越後出羽道」、(東面)「右 能登 A//左 京 B、道」(Aは「氷見/古府/伏木」、Bは「金沢/高岡」)/「越後出羽道」を指示する県内唯一の道標/北前船で運ばれた瀬戸内産の花崗岩 3
写真 万灯台 まん 魚津市 <魚津湊(角川河口の湊> 石灯台 高約5m 慶応4(1868) 市史跡 市教委/WEB 戦後、開発のため何度か移転→昭和57に原位置のすぐそばに最終移設 慶応元(1865)に町奉行・土方与八郎が加賀藩に願い出て、慶応4に町奉行・小川渡が建立した魚津湊最初の灯台/非常にスレンダーな布積の石基壇(数度の移設に伴うオーセンティシティ不明)/灯台を維持するため、油屋12軒に貸し渡した360貫の利息を油代にあてた 2
  高円堂用水 こうえんどう 魚津市 片貝川(右岸)→高円堂谷→天神野台地 用水路(土堤) 長約200m,高20m 慶安5(1652) 市史跡 市教委/WEB 木樋→C化 計画: 郡奉行・山本清三郎/取水口と台地の間にある高円堂谷に土堤を築き、導水のために木樋を敷設したもの/長大な土堤を鍬とモッコだけで構築する大工事(完成後も、度々決壊した) 3
  倶利伽羅峠道 くりから 小矢部市・石川/
(河北)津幡町
<北国街道> 道路 西側:1.5㎞,東側:2.5㎞,幅5~9m 江戸期   WEB 歩道として修景整備 富山と石川の境界に位置する北国街道の要衝 2
  埴生護国八幡宮の石階段 はにゅう 小矢部市 埴生護国八幡宮参道 石階段 103段 永正・大永年間(1504-27)   市教委 元は108段あったとされる→昭和初期の改修で2段取り壊し 埴生村蓮沼の城主・遊佐慶親が寄進 2
  倶利伽羅峠の矢立観音 くりから 小矢部市 <北国街道> 町石(舟型)   江戸末期   WEB 33基中唯一原位置(廃仏毀釈の際、一時移動)/祠内 (光背右)「二十五番」/中央に徳王観音像を陽刻/倶利伽羅峠越え山道(7㎞)に道しるべと旅人の安全を祈念して置かれた観音仏/建立: 白山屋小兵衛、高岡大長(蓮華寺屋伝右衛門) 2
  十二貫野用水 じゅうにかんの 黒部市 黒部川支流・尾沼谷川 用水路 長21㎞,灌漑面積220ha 天保10(1839)   市教委/現地解説板 大規模な修復→ルート変更し2㎞短縮/上流部の崖沿いの水路は平成16までにすべて暗渠化 施工:椎名道三/標高250mの地点にまで水を引くため、黒部川の支流・尾沼谷川から取水し、崖伝いに用水路を通し、山中にもかかわらず21㎞を高低差わずか100mの緩勾配で通水した高い技術力/龍ノ口用水への分水では逆サイフォンの原理を採用 4
写真 竜の口用水の逆サイフォン石管1 たつのくち 黒部市 十二貫野用水の第一分水→龍ノ口用水 石管(凝灰角礫岩) 下げ管延長32.7m,上げ管延長30.9m 嘉永元(1848)   現地解説板/市教委 昭和46C管に改修→石管を2ヶ所に分けて保存(屋内、かつ、解説付き) 施工:椎名道三/天保12(1841)に完成した時点では木管を使用(辰巳用水の逆サイフォンの石管化は天保14(1843)以降)→辰巳用水の逆サイフォンの石管のノウハウを使用/石管は長79-135㎝、幅45㎝、高31㎝/継ぎ目は水漏れしないよう、檜皮、松脂、テレピン油を練り合せたもので接合した 2
写真 竜の口用水の逆サイフォン石管2 たつのくち 黒部市 同上 同上 同上 嘉永元(1848)   市教委 同上(道路脇に積んであるだけ) 同上 3
  村椿の霞堤の松並木 むらつばき 黒部市 黒部川 霞堤   江戸期   WEB 霞堤としては非現役      
写真 生地台場 いくじ 黒部市 加賀藩 台場(弧状土塁) 長63m,幅8m,大砲5門 嘉永4(1851) 県史跡 市教委/現地解説板 復元(現在の土塁の下に、台場の原形が保存)=復元の盛土高1.5m 土塁だけでできた弧状台場としては先駆的な存在(青森の平舘台場(嘉永2)に次いで古い)/台場構築年代としては、第Ⅰ期に該当 2
  旧・中田舟渡場の常夜灯 なかだ 高岡市 常国神社<庄川> 石常夜灯(2基)   寛文9(1669)?   WEB 移設 地元では、舟渡場開設時から常夜灯があったとされる→後年設置の可能性あり/石基壇あり 2
  弓の清水 ゆみのしょうず 高岡市   湧水(石枠)   中世? 平成の名水百選 WEB 保存状態良好 木曽義仲が、平家との戦いの時、家臣の勧め崖下に矢を射ったところ、清水が湧き出たとの伝承 1
  多難橋 たなん 砺波市 (専念寺近くの地蔵堂) 橋地蔵   江戸期   WEB アスファルトで覆われている 地蔵堂の隣の道に鍋六という村人が地蔵を建てたところ、その日の夜に倒れて小川に架かった→元に戻すと村で火事などが起こるので、「多難橋」と呼ぶようになったとの伝承/富山の地域性 4
写真 千光寺石塔道標 せんこう 砺波市 <巡見使道(井波往来)> 石道標(墓石型) 高174㎝,幅25.7㎝ 延享元(1744) 市ふるさと文化財 市教委 折損・転倒していたものを平成18に修復 (右面)「芹谷山観音堂 従是八丁」/石工: 井波善太郎/正面には、梵字とともに、千光寺の観音を参拝することを勧めた長い銘文(惶苦欣福生霊旧理救殃脱咎□□畏無苦海印麁妙等応像梵国見大鎮此萬流功至龍庭)が刻字されている 2
  二万七千石用水取水口・跡 にまんしちせんごく 砺波市 庄川(左岸) 川倉(木と石でできた堰)→石堰堤+C水門 長12.7m(7門)(改修後) 延享3(1746) 市史跡 市教委/WEB 明治31(1898)大改修(構造物は全面改築) 庄川の流れが赤岩地点で直角に変わる自然立地を巧みに利用し、川倉を組み導水堰を設けたもの/延享3は、新用水、山見八ヶ用水、野尻岩屋口用水の3用水が合口化した年 5
  松川除 まつかわよけ 砺波市 庄川(右岸) 土堤防、松並木
(赤松)
長1.5㎞、松数百本(当初) 正徳4(1714)→天保13(1842)盛足→嘉永4(1851)盛足 市史跡 市教委/WEB 大規模な修復=土手は視認可/松は戦時中に伐採→ほぼ消滅 加賀藩は高岡城下と穀倉地帯の砺波平野を水害から守ろうと、扇頂部に川除け(堤防)を造り、当時乱流していた庄川の流れを一本化しようとした(44年かかった)/後年、堤防を強化するため松を植栽→「松川除」の名の由来 3
写真 御旅屋の井戸 おたや 砺波市   石井戸(上段は木枠、石材は金屋石) 外寸120㎝角,内部は深18.2m,径90㎝(8角) 寛文4(1664) 市史跡 市教委/WEB 木で蓋 寛文4年5月、加賀藩4代藩主・前田綱紀が当地で鷹狩をした際、中神村肝煎・義右衛門が休息のための御旅屋の建設とともに、御膳水用として掘ったもの/17世紀の井戸としては深い 2
  瓜裂清水 うりわりしょうず 砺波市   湧水(石組)   中世? 市名勝/名水百選 WEB 保存状態良好 約600年昔、綽如上人がこの地で休息した際、馬の蹄が突然陥没し、清水がこんこんと湧き出て、その水の冷たさに瓜が自然に裂けたため、上人自ら「瓜裂清水」と命名したとの伝承 1
  増山城下町土塁・跡 ますやま 砺波市 <増山城> 土塁、空堀 長約80m,土塁幅約10m,堀幅約10m 天正年間(1573-91)頃 市史跡 市教委 史跡保存 増山城の城下町の西口(蛇行する和田川の左岸段丘が南東に張り出した先端部)を防御するための施設 3
  高塚の門松 たかつか・もんまつ 滑川市 <北陸街道> 松並木(1本) 高16.6m 江戸中期 市天然 WEB 1本のみ残る 樹齢200年以上/道路を覆うように立っている 3 -
  坪川の一里塚 つぼかわ 滑川市   一里塚(1基)   寛永年間(1748-51) 市史跡 WEB/市教委 南側のみ残る 土塚だが、河原石で覆われ、上部に石碑(3基)が建っている 4 -
写真 神明町の常夜灯 しんめい 滑川市 (琴比羅社入口)<北陸街道> 石常夜灯 高3.5m 文化12(1815) 市史跡 市教委 現役で点灯(電気) 「金比羅大権現」/滑川の有力町人川瀬屋が寄進/周囲を石柵で囲む 1
  加島町の道標
(立山・大岩道しるべ)
かしま 滑川市 <北陸街道> 石道標(自然石)   文化8(1811) 市史跡 WEB 何度も移設 「大岩道/是より四里」/山岳信仰 2
  加島町の地蔵道標
(雪嶋神社横の地蔵道標)
かしま 滑川市 (雪嶋神社横)<北陸街道> 石道標(自然石、丸彫)   江戸期   WEB 何度も移設/祠内 (台座裏)「是より/立山道/大岩山道」/直方体の大きな台座の上に自然石に延命地蔵坐像を陽刻(丸彫に近い)したものと、小型の丸彫地蔵が載る/山岳信仰 2
  東金屋たたら製鉄場・跡 ひがしかなや 滑川市   たたら製鉄   文化4(1807)以降 市史跡 WEB 昭和48、圃場整備中に発見→発掘調査→現物保存 小出屋嘉助という売薬業者が、伯耆へ行商の折にたたら製鉄の現場を見聞し、滑川浜にある黒砂(砂鉄)から製鉄が可能であることを教えられ、仲間8人とともに出資し伯耆国から職人を雇い入れて始めたもの/製鉄炉の下部構造が良好な状態で残り、かつ、文献史料が残っている点で、近世におけるたたら製鉄遺構の研究に参考となる遺跡 3
  室山野用水 むろやまの 滑川市 早月川 用水路 長約16㎞ 文政10(1827)   市教委 小規模な修復を繰り返しながら使用していたが、平成10に一部パイプライン化 施工: 椎名道三/難所を通る施工の困難だった用水(完成までに中断を含み24年かかった=椎名道三が参加して初めて完成に漕ぎ着けた) 4
  唐木峠の石畳 からき 南砺市 若杉~峠<五箇山街道> 石畳道 約200m 文政12(1829)? 市史跡 市教委/WEB 放置状態 標高690m/赤土で滑り易いため、近くの谷間にあるざらざらした凝灰岩が敷かれた/幅は狭く不規則 3
  朴坂峠の石畳 ほうさか 南砺市 <五箇山街道> 石畳道   文政12(1829)? 市史跡 市教委/WEB 昭和55頃にブルが入り、石畳は壊滅状態 標高880m/加賀藩の時代になって、この街道を「殿様道」として拡幅し敷石を施した 5
  安居の三本松 やすい 南砺市 津沢-福光間の県道沿い 盛土   江戸期 市史跡 WEB 近年まで塚上に3本の松の大木があった 安居寺に伝わる江戸時代中頃の絵図に一里塚と記されている。また、安居寺が兵火にかかった際の米倉の灰を集めて築いた塚(米塚)ともされる 5 -
  臼浪水 きゅうろう 南砺市 瑞泉寺 石積井戸 径1m弱 明徳元(1390)? 市史跡 WEB 保存状態良好/木柵で囲む/非飲用 杉谷の山里に住んでいた綽如が、京都へ向かう途中、乗っていた馬が足で地面をかいたところ、そこから清水が湧きでた跡と伝えられている 2
写真 臼が峰往来 うすがみね 氷見市・/石川
(羽咋)宝達志水町
<臼が峰往来> 道路   古代~江戸期 歴史の道百選 市教委/WEB 旧街道らしい整備 古代には『万葉集』の「之乎路から ただ越えくれば 羽咋の海 朝凪したり 船楫もがも」の歌(大伴家持)で知られ、『平家物語』では「木曽殿…氷見の湊を…志保の山打越えて」と書かれた道/江戸期には、諸国巡察のため幕府から派遣される巡見使が通る御上使往来と呼ばれた/切通し、痩せ尾根などがある 2
  石動山道(大窪道) せきどうざん 氷見市 <石動山参詣道> 道路   中世~江戸期   市教委 旧道部分が所々に残る 石動山に登る道/この地域では、白山に次ぐ山岳信仰の拠点/切通しがある 3
  平沢道 ひらそ 氷見市 <石動山参詣道> 道路   元禄10(1697)以前   市教委 一部林道と重なるが、旧状を留める 石動山に登る脇道/この地域では、白山に次ぐ山岳信仰の拠点 2
  見田窪の石畳 みたくぼ 氷見市 <石動山参詣道> 石敷道   江戸期   市教委/WEB 展示的に1列に石を残す 石畳の道が峠手前の見田窪集落内に一部残っている 3
  臼が峰往来の道標 うすがみね 氷見市 (尼谷地蔵)<臼が峰往来> 石道標   江戸期?   市教委/WEB 保存状態良好 「右 見砂道」「左 子浦往来」 1
  白川の地蔵道標 しらかわ 氷見市 <石動山参詣道> 石道標(丸彫、石祠) 高約50㎝ 江戸期?   市教委 石祠内 (石祠右柱)「右 宇波道」、(石祠左柱)「左 石動山道」/石祠内に地蔵尊の丸彫像が安置 1
  平沢道の道標 ひらそ 氷見市 <平沢道> 石道標(塔婆型) 高50㎝,幅27㎝,厚18㎝ 江戸期?   市教委 置いてある 「右ハ 平邑道/左ハ 石道山道」 2 -
写真 境一里塚 さかい (下新川)朝日町 <北陸街道> 一里塚(1基) 径9m 慶長14(1609)以降 県史跡 WEB/町教委 北塚のみ残る/塚木の榎はオリジナル 加賀藩領内における一里塚の起点(この塚から一里を数えた)/塚上に庚申祠が祀られている 2
  横水一里塚 よこみず (下新川)朝日町 <舟見街道> 一里塚(1基)   天和3(1683)以前 町史跡 町教委 東塚のみ残る 黒部川を迂回する形で、恐らく寛永3(1626)の初代・愛本橋の架設と同時に開通した街道沿いに造られたと思われる 3
  君島の道標 きみじま (下新川)入善町   石道標   享和3(1803)   町教委 下3分の2を鉄枠で補強/C台石 (正面)「左 横山道」、(右側面)「右 ???」/正面下部に○○像の陽刻 3
  舟見野用水 ふなみの (下新川)入善町   用水路   明暦年間(1655-58)   町教委   何回改修したが、用水路になったのは寛延2(1749)    
  小摺戸の霞堤の松並木 こすりど (下新川)入善町 黒部川(右岸) 霞堤   江戸期   町教委 霞艇としては非現役      
  石仏の橋地蔵 いしぼとけ (中新川)上市町   橋地蔵   江戸期   WEB 円筒状の祠は後年のもの 昔、道に迷う人たちを救うため、地蔵を橋にするようにお告げがあり、村人は、地蔵を分かれ道の橋として渡したとの伝承/富山の地域性 2
写真 布橋 ぬの (中新川)立山町 姥堂川 木桁橋 長45m(=25間)
〔25菩薩に由来〕,敷板108枚〔煩悩の数に由来〕
江戸初期
→文政3(1820)再建
  立山博物館/WEB 明治初年に廃仏棄釈で取り壊し→昭和45再現(橋脚は鋼製)
→平成22修復
文政3の布橋再建の橋札銘文に、慶長11に造営されたと記されている
〔追記の可能性も〕/寛永元(1624)の擬宝珠が現存〔追刻の可能性も〕
/女人禁制の立山で、極楽往生を願う女性の救済のために営まれた儀式・布橋灌頂会の際に橋に白い布を敷いたことから来た呼称/此岸と彼岸をつなぐ境界の橋と観念されていた〔下記の「三途の大石」は別の川にの橋の所に置かれていた→町内に三途の川が2つあることになる〕
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  三途の大石 さんず (中新川)立山町 立山博物館<立山道> 石道標(自然石) 高130㎝,幅190㎝,厚200㎝ 幕末   WEB 博物館正面に移設 「此所三づ川/是より しでの山」/現実の道標ではなく、立山信仰と結び付いた一種の道しるべ/常願寺川の川石を使用 2
  二十六番石仏脇の地蔵道標   (中新川)立山町 <立山道> 石道標(舟型) 高54㎝,幅28㎝ 文化年間(1804-17)?   WEB C製の祠内 (光背右)「右 うばがふところみち」、(光背左)「左 一ノ谷みち」/中央に地蔵尊立像を陽刻/立山道の33体の石仏は、すべて文化年化の建立→関連する地蔵道標も同年代と推定 2 -
  立山道道標 たてやま (中新川)立山町 (立山駅裏)<立山道> 石道標 高約80㎝ 江戸期?   WEB 昭和29以前までは、藤橋を渡った正面にあった 「左 立山道」/立山信仰 2
  四谷尾用水旧隧道 しだにお (中新川)立山町 白岩川 素掘トンネル(水路、凝灰岩) 用水路延長4㎞(トンネル長不明) 1400前後?   町教委(立山町史・下p498-504) 保存状態良好 城の濠の水を取り入れるため開削されたとされる=別名、殿様用水/水路トンネルとしては、開削時期が古い 2
      (中新川)舟橋村