兵庫県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
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価値
評価
  西国往還付替道(徳川道)   神戸市(北区・灘区)・明石市   道路 長34㎞ 慶応3(1867)   WEB 六甲山中に断続的に残る/一部ハイキングコースとして利用/一部石垣も残る 生麦事件など外国人と参勤する大名のトラブルが起こるのを避けるため、西国街道の神戸迂回路として六甲山中に急造された街道/12月7日の竣工1ヶ月後に鳥羽伏見の戦いが発生し、充分に完成が伝えられなかったとされる→維新後外国人居留地のみを迂回する道路が神戸に築造されたため廃道化/使用したのは1月11日に西宮警護に向かった新政府軍の備前藩後発隊のみとされている/長45m、高さ1.2mのごぼう積み石垣も残る 2
写真 有野町有野の題目塔道標1 ありの、
ありの
神戸市(北区) <有馬街道>  石道標(自然石) 高110㎝,幅55㎝,厚40㎝
享保15(1730)
  WEB(神戸の道しるべ) 移設(もと、堀越橋・西詰) (正面右)「右 者りま」、(同左)「左 村」/正面中央に「奉納三十三所觀世音菩薩」と陰刻 2
写真 有馬町の題目塔道標
ありま 神戸市(北区) 陵楓閣・前 石道標(自然石) 高132㎝,幅70㎝,厚60㎝ 延享5(1748)   WEB(神戸の道しるべ) 旅館前に移設 (正面右)「左、ひやうこ/ひめし」、(右面左)「右、三田 たん者"/者りま きよ水」/正面左に「南無觀世音菩薩」と陰刻 2
写真 八多町屏風の地蔵道標
はた、
びょうぶ
神戸市(北区) 頓行司池・南側 石道標(丸彫) 高120㎝(うち、台石60㎝),
幅24㎝,厚24㎝
宝暦3(1753)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/地蔵頭部は後補 (台石正面右)「右 大坂」、(同左)「左 播州」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/台石正面中央に「奉供養四國遍路」と陰刻 2
写真 淡河町神影の地蔵道標1
おうご、
みかげ
神戸市(北区)   石道標(舟型) 高30㎝(台石),
幅22㎝,厚18㎝
明和7(1770)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (台石正面右)「西 あかし」、(台石右面左)「南 ひやうこ」、(同左面)「北 よかわ/東 ありま」/台石上に光背付き地蔵坐像(蓮台)を陽刻/台石正面中央に「西國三十三所供養」と陰刻 1
写真 淡河町神影の地蔵道標2
おうご、
みかげ
神戸市(北区)   石道標(舟型) 高43㎝(台石),
幅17㎝,厚24㎝
明和7(1770)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (台石右面)「西、みき/あかし」、(同左面)「東 さんた/南 ひやうこ」/台石上に光背付き地蔵坐像(蓮台)を陽刻/台石正面中央に「奉納西國丗三処爲二世安樂」と陰刻 2
写真 有野町有野の供養塔道標
ありの、
ありの
神戸市(北区) 有馬酒蔵・東北角  石道標(自然石) 高68㎝,幅36㎝,厚33㎝ 寛政11(1799)   WEB(神戸の道しるべ) 移設? (正面右下)「右 京 大坂」、(同左下)「左 道場 川原」/正面中央に戒名を陰刻/この地で倒れた西国三十三ヶ所巡礼者の供養塔を兼ねている 2 -
写真 鈴蘭台南町の道標 すずらんだいみなみ 神戸市(北区) (9丁目) 石道標 高82㎝,幅14㎝,厚12㎝
享和2(1802)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面上部)「左 丹生山」、(その下に小さく)「右 小部村/左 下村淡/河三木、道」、(左面)「晉杜預爲二碑一沈萬山之下一立□/山之上蓋其意深矣承安年間平相國/爲丹生山之道標今而六百三十余/之春秋陵谷變而僅存少許矣鳴呼」、(裏面)「昔英雄之所爲如此況後世之人豈有/長策哉今懐古者惨状而自堕涙爲今/年同志輩交爲道表許補古人之/意矣此石置干小部村之西南一大松」、(右面)「下両岐頭矣將來数百年之後而見者/亦將有感於斯文横艾淹茂亨和二年/仲秋小河元寅建」(緑字は異体字)/左~裏~右面にかけて、平清盛が烏原谷道から丹生山へ続く道に多くの道標を建てた歴史を偲び、山田庄東下村の漢学者・小河元寅(李荘)らがこの道標を建てた事が記されている 2
写真 淡河町神影の廻国塔道標1
おうご、
みかげ
神戸市(北区)   石道標(駒型) 高78㎝,幅29㎝,厚18㎝ 享和3(1803)   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設
(道路沿いだが個人宅敷地内)
(正面最下部)「右 ひやうこ/左 ありま、道」/正面上部に「西國三十三所」と陰刻 2
写真 淡河町萩原の道標1
おうご、
はぎわら
神戸市(北区) <有馬街道>  石道標(尖頭角柱)   文化元(1804)   WEB(的形道標クラブ) 工事の際に放棄→地元の人々が移設再建立 (正面)「右 山田 ひようご」、(左面)「左 ありま 大坂」 2
写真 道場町日下部の供養塔道標 どうじょう、
くさかべ
神戸市(北区)   石道標(自然石) 高56㎝,幅51㎝,厚16㎝ 文化元(1804)   WEB(神戸の道しるべ) 道路の拡張整備で移設 (正面右)「右 とう志やうか王ら」(=道場川原)、(同左)「左 さん田」/正面中央に「四國八十八ヶ所供養」と陰刻 2 -
写真 八多町西畑北の供養塔道標
はた、
にしばたきた
神戸市(北区)   石道標(駒型) 高65㎝,幅25㎝,厚17㎝ 文化2(1805)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置/傾いて建つ (正面右)「右 三田道」、(同左)「左 大沢谷」/正面中央に「奉納西國三十三所供養」と陰刻 1 -
写真 大沢町中大沢の題目塔道標 おおぞう、
なかおおぞう
神戸市(北区) (一本松) 石道標 高67㎝,幅24㎝,厚18㎝ 文化5(1808)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/水平に3ヶ所で折損→補修せず重ねてあるだけ (正面右)「右ハ のせ 神田 あ王志ま」(=粟島神社)、(同左)「左ハ よぶ ひようこみち」(=屏風、兵庫)/正面中央に「南無大師遍照金剛」、右面に「奉納四國八十八所供養」と陰刻 3 -
写真 山田町藍那の大師道標 やまだ、
あいな
神戸市(北区) <鵯越道・白辺路> 石道標(駒型) 高69㎝,幅23㎝,厚16㎝
文化11(1814)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/像容不鮮明/下部埋設 (正面像下)「右 三木」、(左面)「左 太山寺 明石」/正面頂部を光背型に浅く削り込み弘法大師坐像を陽刻 2 -
写真 淡河町神影の供養塔道標 おうご、
みかげ
神戸市(北区)   石道標(駒型) 高60㎝,幅24㎝,厚15㎝ 文化13(1816)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置に再設置 (正面下部)「右 ありま/左 山みち」、/正面上部に「爲西國丗三所供羪」と陰刻 1 -
写真 淡河町北僧尾の道標 おうご、
きたそお
神戸市(北区) (市境・四つ辻) 石道標(駒型) 高77㎝,幅32㎝,厚19㎝ 文化13(1816)   WEB(神戸の道しるべ) C擁壁上/正面中央部が剥離 (正面)「□ □□□□ 三木/左 □□ふかう 明石」 3 -
写真 山田町中の供養塔道標 やまだ、
なか
神戸市(北区) 投町山  石道標 高90㎝,幅30㎝,厚29㎝
文化14(1817)   WEB(神戸の道しるべ) 保存状態良好 (正面)「右、木津/きよミ川、道」(=清水)、(左面)「左、淡河町/小河 吉川、道」/右面に「奉納西國三十三所供羪塔」と陰刻 1
写真 淡河町神影の地蔵道標3
おうご、
みかげ
神戸市(北区) 神影三叉路  石道標(舟型) 高55㎝,幅24㎝,厚24㎝ 文政2(1819)   WEB(神戸の道しるべ) 小さな石祠内(材質が異なる:祠がオリジナルで、中の道標は後補の可能性もある) (正面像下)「右 神田 ありま/左 石峯ち 三田」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻/左面に「四國八拾八所順拜供養」と陰刻 1 -
写真 八多町西畑の供養塔道標 はた、
にしばた
神戸市(北区)   石道標 高50㎝,幅17㎝,厚11㎝ 文政3(1820)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面右)「右ハ 三田」/(同左)「左ハ 瀧」/正面中央に「西國三十三所順禮供養塔」と陰刻 1 -
写真 八多町吉尾の道標 はた、よしお 神戸市(北区) 永徳寺 石道標 高84㎝,幅21㎝,厚18㎝ 文政5(1822)   WEB(神戸の道しるべ) 道路拡張により移設 (正面右)「神、右 兵ご 山田/左 京 大坂 中山」/施主:浮田五福(文政年間に大坂に出て五竜院と称し、漢方薬を製造 して財をなした人物) 2
写真 淡河町勝雄の道標 おうご、
かつお
神戸市(北区) 上池・東 石道標 高55㎝,29㎝角 文政8(1825)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置/頂部欠損 (正面)「右、阿可し/ありま、道」 2 -
写真 淡河町東畑の大師道標 おうご、
ひがしばた
神戸市(北区)   石道標(六角柱) 高58㎝,幅29㎝,厚20㎝
文政9(1826)   WEB(神戸の道しるべ) 山陽自動車道工事道路整備のため移設/C擁壁内 (台石正面)「左 石峯寺 三田道」/台石右前面に「四國八十八所供養」と陰刻、将棋の駒型の光背に弘法大師坐像を陽刻 3
写真 淡河町淡河の道標 おうご、
おうご
神戸市(北区) 光照寺・門前 石道標 高180㎝,幅33㎝,厚27㎝
文政10(1827)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (右面)「是より、唐戸 西光寺 三里/井の上 林鐘寺 壱里半」/正面に
「園光大師廿五拜霊場、第十四番/光照寺」と陰刻
1
写真 大沢町神付の大師道標 おおぞう、
かんづけ
神戸市(北区)   石道標(尖頭角柱) 高60㎝,幅23㎝,厚21㎝ 文政10(1827)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面像下右)「右ハ 山田 ひやうこ道」、(同左)「左 ありま 大坂道」/正面頂部を光背型に削り込み弘法大師坐像を陽刻、像下中央に「大師家 四國八十八所順拝供養」と陰刻/麓の西沢家が代々巡礼を支援した事から「大師さん」と呼ばれており、西沢家の世話で遍路を行った事が刻まれていると考えられる 1
写真 淡河町神影の廻国塔道標2
おうご、
みかげ
神戸市(北区) (払川) 石道標(舟型) 高85㎝,幅51㎝,厚21㎝ 文政11(1828)   WEB(神戸の道しるべ) 廃道化し草に覆われている (正面右下)「右 大沢 三田」、(同左下)「左 吉川 」/長方形に削り込み文字を陰刻/正面中央に「納西國三十三所」と陰刻 2
写真 淡河町木津の大師道標 おうご、きづ 神戸市(北区)   石道標 高119㎝,幅22㎝,厚18㎝
天保3(1832)   WEB(神戸の道しるべ) 中央で折損し、2つに分かれて置かれている(写真は縦につながってイメージ 「大師、右 ぎよの者ら/左 きづ 吉川、道」(=行原)/左面に「爲四國八十八所拜禮供養」と陰刻 3
写真 道場町日下部の道標 どうじょう、
くさかべ
神戸市(北区)   石道標(駒型) 高91㎝,幅22㎝,厚14㎝ 天保8(1837)   WEB(神戸の道しるべ) 移設→個人宅 (右面下部)「右、みき/あ可し」、(左面下部)「左、なた/飛よこ」(=兵庫)/左面上部に「木元氏」と陰刻 4
写真 大沢町日西原の供養塔道標 おおぞう、
ひさいばら
神戸市(北区)   石道標(自然石) 高90㎝,幅40㎝,厚20㎝ 天保11(1840)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面下部)「右 三田 道場/左 吉川 稲田」/正面上部に「西國供養」と陰刻 2
写真 淡河町南僧尾の道標 おうご、
みなみそお
神戸市(北区)   石道標 高63㎝,幅18㎝,厚18㎝
天保12(1841)   WEB(神戸の道しるべ) 移設→個人宅裏の斜面上 (正面)「南 山田 兵庫」、(右面)「東 竹原 三田」、(左面)「西」、(裏面)
「北 古市 きよみ津」/施主:観音講中
2 -
写真 長尾町宅原の道標 ながお、
えいばら
神戸市(北区) 芝名橋・北詰 石道標 高117㎝,幅32㎝,厚36㎝ 天保13(1842)   WEB(神戸の道しるべ) 道路の付け替えに伴い移設 (正面)「左 姫路、三木/やしろ」、(右面)「右 三田、喜世ミ川/多し満ゆも登」(=清水(きよみず)、但馬湯元) 2
写真 長尾町上津の題目塔道標 ながお、
こうづ
神戸市(北区)   石道標(自然石) 高103㎝,幅54㎝,厚48㎝ 弘化2(1845)   WEB(神戸の道しるべ) 移設、集約 (正面右)「右 丹波」、(正面左)「左 ひめし」/正面中央に「道祖神」と陰刻/神戸市内最北端の道標 2
写真 長尾町上津の供養塔道標 ながお、
こうづ
神戸市(北区) 長野橋<有馬大坂道> 石道標(駒型) 高156㎝,幅33㎝,厚30㎝ 嘉永2(1849)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 在所山/左 有馬 大坂、道」、(左面)「右 三木 やしろ 姫路」/正面頂部に「西國/供羪」と陰刻 2
写真 八多町深谷の供養塔道標
はた、
ふかたに
神戸市(北区) 県道38号・深谷口バス停付近<有馬街道>  石道標(駒型)   嘉永6(1853)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 ありま/左 京 大坂、道」/正面中央に小さく「奉供養西國三拾三所」と陰刻 2
写真 八多町屏風の供養塔道標 はた、
びょうぶ
神戸市(北区) 旧道・三叉路<有馬街道>  石道標(駒型) 高70㎝,幅23㎝,厚23㎝
安政4(1857)   WEB(神戸の道しるべ) 道路改修により数回移設 (正面右)「右 おふこ 三木」、(同左)「左 むらミち」/正面中央に「奉納西國供羪」と陰刻 2
写真 有野町有野の題目塔道標2
ありの、
ありの
神戸市(北区)   石道標(自然石) 高107㎝,幅39㎝,厚30㎝
安政5(1858)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面右)「すぐ、なだ/兵庫」、(右面)「すぐ 中山 大坂」、(左面)「すぐ 三木 あふこ」、(裏面)「右 道場川 京/すぐ 三田 きよ水」/正面中央に「觀世音菩薩」と陰刻 2
写真 山田町東下の大師道標 やまだ、
ひがししも
神戸市(北区)   石道標 高58㎝,幅21㎝,厚17㎝
安政5(1858)   WEB(神戸の道しるべ) 下部をC固定 (正面像下)「右 ひやうご/左 ありま、道」/正面頂部を火灯窓型に削り込み弘法大師坐像を陽刻、右面に「西國供養」と陰刻 2 -
写真 八多町深谷の廻国塔道標
はた、
ふかたに
神戸市(北区)   石道標(駒型) 高67㎝,幅22㎝,厚17㎝ 安政6(1859)   WEB(神戸の道しるべ) 移設? (正面右)「右 道場 三田」、(同左)「左 神付 大沢」、(同最下部)「道」/正面中央に「西國三十三ヶ所」と陰刻 2 -
写真 山田町中の地蔵道標 やまだ、なか 神戸市(北区) (シバンド) 石道標(駒型) 高90㎝,幅30㎝,厚29㎝
安政7(1860)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面像下)「右 ひやうご/左 兵ご まや山、道」/正面頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻 1
写真 淡河町萩原の道標2 おうご、
はぎわら
神戸市(北区)   石道標 高95㎝,幅21㎝,厚18㎝
文久4(1864)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 山田 ひようこ」、(左面)「左 ありま 大坂」/上部にある丸い窪みは盃状穴と呼ばれ、手に握った堅い石に願いを込めてひたすら円を描いた跡とされる 2
写真 大沢町上大沢の供養塔道標 おおぞう、
かみおおぞう
神戸市(北区) (善入西) 石道標(自然石) 高93㎝,幅42㎝,厚36㎝ 元治2(1865)   WEB(神戸の道しるべ) 仮置→移設 (正面右)「右 有馬 五社」、(同左)「左 三田 光山寺、道」/正面上部に「西國供養塔」と陰刻、その下に「道」/前面を長方形に浅く削り込み文字を陰刻/この道は交通の便が悪く、山賊により嫁入りの年頃の娘が拉致される事が多かったため、松の老木があったこの場所は「嫁取り松」と呼ばれたとされる 2
写真 有馬町の道標 ありま 神戸市(北区) <魚屋道> 石道標(自然石) 高125㎝,幅50㎝,厚40㎝
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 六かう山/すぐ 京 大坂、道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性/魚屋道(ととやみち)は漁港から六甲山頂付近を越えて有馬の温泉街へ新鮮な魚を運ぶための道とされる 2
写真 道場町平田の地蔵道標 どうじょう、
ひらた
神戸市(北区) 正福寺<有馬街道・大坂道> 石道標(丸彫) 高約120㎝?
(うち、台石51㎝),51㎝角
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (台石左面)「右 ありま/左 京 大坂」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 有野町有野の廻国塔道標 ありの、
ありの
神戸市(北区)   石道標(自然石) 高80㎝,幅45㎝,厚35㎝
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面右)「右 さい所ミち」、(同左)「左、三本松/はりま、ミち」/正面中央に「(梵字)奉供養西國三十三所巡禮塔」と陰刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 2
写真 八多町附物の地蔵道標 はた、
つくもの
神戸市(北区) 極楽寺墓地 石道標(舟型) 高約80㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設/中央で水平に折損→上手に修復 (台石正面右)「右 ありま」、(同左)「左 をうそうし/ミち」/台石上に光背付き地蔵立像(錫杖)を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 2
  道場町平田の道標 どうじょう、
ひらた
神戸市(北区) 稲荷神社<くらがり道> 石道標 高128㎝,幅26㎝,厚26㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設/農地より出土/倒立 (正面右)「右 阿り満、み可け/すみよし、道」、(同左)「大坂ふ年能り者まて 四里」(=船乗場)/「大坂」の標記は江戸期の可能性 3
写真 八多町吉尾の題目塔道標 はた、よしお 神戸市(北区) 吉尾公会堂・前 石道標(自然石) 高65㎝,幅60㎝,厚20㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面右)「右ハ 大坂道」、(同左)「左ハ三田ミち」/正面中央に「○南無地蔵菩薩」と陰刻/「大坂」「ミち」の標記は江戸期の可能性 2 -
  廃明要寺の町石(三丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
永徳3(1383)? 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 社務所前石段の踏石に転用→取り出して石段下の石垣脇に 廃明要寺の町石群は山麓から山頂までほぼ丁数順に並んでいる(山頂が一丁⇒逆順/(正面)「自丹生山三丁」/一連の町石群が道標的要素を兼ねる→稀/ 3
  廃明要寺の町石(六丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
永徳3(1383)? 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 社務所前石段の踏石に転用→取り出して石段下の石垣脇に (正面)「自 丹生山 六丁」/同上 3
  廃明要寺の町石(丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)   永徳3(1383)? 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 移設/残欠根部   4
  廃明要寺の町石(五丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
幅21.6㎝,厚22㎝
永徳3(1383)? 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 移設 (正面)「自 丹生山 五丁」/同上 2
  廃明要寺の町石(一丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高219.6㎝,
約20㎝角
永徳3(1383) 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 2ヶ所折損 (正面)「従 丹生山 一丁」、(左面)「自 丹生山 一丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 3
  廃明要寺の町石(二丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,約20㎝角 江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 二丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(三丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,約20㎝角 江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 三丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(四丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 四丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(五丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 五丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(六丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 六丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(七丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 七丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(八丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 八丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(九丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 九丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(十丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝
,約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 十丁」/同上 1
写真 廃明要寺の町石(十一丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(道標兼)
高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 十一丁」、(正面下部)「従是、右 淡河町/左 丹生山」」 1
  廃明要寺の町石(十二丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従丹生山十二丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(十三丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従丹生山十三丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(十四丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従丹生山十四丁」/同上 1
  廃明要寺の町石(十五丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
永徳3(1383) 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 十五丁」、(左面)「自 丹生山 十五丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 1
  廃明要寺の町石(十六丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔) 高約180㎝,
約20㎝角
江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 十六丁」/同上 1
写真 廃明要寺の町石(十七丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高110㎝,幅21㎝,厚20㎝ 永徳3(1383)→後世に再町石化 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 下部埋没 (正面)「従 丹生山 十七丁」、(左面)「自 丹生山 十七丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 4
写真 廃明要寺の町石(十八丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高75㎝,幅20㎝,厚19㎝ 江戸期 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 「従丹生山十」刻字部分が欠損 (正面)「八丁」/同上 5
写真 廃明要寺の町石(十九丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高191㎝,幅22㎝,厚21㎝ 永徳3(1383) 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 十九丁」、(左面)「自 丹生山 十九丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 1
写真 廃明要寺の町石(二十丁) めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高184㎝,21㎝角 永徳3(1383)→後世に再町石化 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 二十丁」、(裏面)「自 丹生山 二十丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 2
写真 廃明要寺の町石
(二十一丁)
めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高208㎝,21㎝角 永徳3(1383)→後世に再町石化 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 保存状態良好 (正面)「従 丹生山 二十一丁」、(右面)「自 丹生山 二十一丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 2
写真 廃明要寺の町石
(二十二丁)
めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高210㎝,22㎝角 永徳3(1383)→後世に再町石化 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 「従丹生山二十二丁」を後世に追刻し再町石化/保存状態良好 (正面)「従 丹生山 二十二丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 2
写真 廃明要寺の町石
(二十三丁)
めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高139㎝,
約20㎝角
永徳3(1383) 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 折損/隣に54㎝の折損部が置かれている (正面)「従 丹生山 二十三丁」、(右面)「自 丹生山 二十三丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 3
写真 廃明要寺の町石
(二十四丁)
めいよう 神戸市(北区) 丹生山系縦走路
<明要寺参道>
町石(五輪塔)
(花崗岩)
高171㎝,
約20㎝角
永徳3(1383) 市史跡 市教委(平成10年度指定文化財調査報告書)/WEB 地輪以外が欠損 (正面)「従 丹生山 二十四丁」、(裏面)「自 丹生山 二十五丁」/正面下部に建立年が陰刻/同上 4
写真 廃明要寺の地蔵町石
(二十五丁)
めいよう 神戸市(北区) <明要寺参道> 町石
(丸彫、花崗岩)
高206㎝(うち、台石90㎝),
幅52㎝,厚52㎝
明和7(1770) 市史跡 WEB(神戸の道しるべ)/市教委(平成37年度指定文化財調査報告書) 二十四丁石を献花台として再利用 (基壇正面)「従 丹生山 廾五丁」/上部に地蔵坐像の丸彫りが載る 1
写真 秀吉の岩風呂遺構 ひでよし 神戸市(北区) 有馬温泉・太閤の湯殿館 岩風呂 2.1m四方,深65㎝ 天正7-8(1579-80)
→慶長3(1598)
市史跡 太閤の湯殿館 平成11に湯殿館を建設し、館内で保存展示 豊臣秀吉の湯山御殿跡の発掘により発見されたもの/岩風呂は、筧で引かれたお湯が岩肌の裂け目から滝湯のように浴槽に流れ込む仕組み/温泉遺産 2
写真 秀吉の蒸し風呂遺構 ひでよし 神戸市(北区) 有馬温泉・太閤の湯殿館 蒸し風呂 竹管による蒸気式 天正7-8(1579-80)
→慶長3(1598)
市史跡  太閤の湯殿館 平成11に湯殿館を建設し、館内で保存展示 豊臣秀吉の湯山御殿跡の発掘により発見されたもの/粘土を固めた床面の8cm下に直径約6cmの竹製パイプを埋め込んで、それに蒸気を通して浴室を暖める方式/温泉遺産 2
写真 天神町の道標 てんじん 神戸市(須磨区) (2丁目)綱敷天満宮 石道標(尖頭角柱) 高90㎝,幅21㎝,厚14㎝ 寛政7(1795)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「従是 綱敷天満宮」、(右面)「□□しき天神はま」、(左面)「つ奈し起天神者ま」(= 綱敷、浜) 2
写真 須磨寺町の道標 すまでら 神戸市(須磨区) (4丁目)須磨寺 石道標(尖頭角柱) 高143㎝,幅24㎝
,厚24㎝
天保6(1835)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「従是 八十八ヶ所道」、(左面)「従是 阿波國廿三ヶ寺」 2
写真 白川の地蔵道標 しらかわ 神戸市(須磨区) (清水ケ谷) 石道標(蒲鉾型) 高107㎝,幅24㎝,厚15㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「左 阿里満ミち」、(右面)「右 山道」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1
写真 舞子台場・跡 まいこ 神戸市(垂水区) <明石藩> 石垣台場
(半星形稜堡)
幅70m,高約10m
→明治期に高6m
元治元(1864) 国史跡 WEB/市教委 上部石積み4mを撤去、ほぼ埋没し、西側の前面石垣露出部分を公園化 指導:勝海舟、施工:明石藩/4㎞の海峡を挟んだ淡路島に阿波藩の松帆台場と共に海峡を防衛するために築造された台場/文久3(1863)の将軍家茂巡視の際、明石藩の台場が小規模である事を問題視→幕府が1万両貸与、勝海舟を派遣し舞子台場を築造/明石藩砲術師範・萩野六兵衛が萩野流に適さないと砲を据えることを拒否し明治維新に至る 3
写真 橘通の道標 たちばなどおり 神戸市(中央区) (3丁目)湊川神社
<山陽道>
石道標(尖頭角柱) 高165㎝,幅30㎝,厚29㎝
弘化3(1846)   WEB(神戸の道しるべ)/WEB(的形道標クラブ) 明治期の西国街道拡幅に伴い湊川神社境内に放置→昭和9に発見、境内の現位置に建立移設 (正面)「従是 楠公石道」(緑字は異体字)、(左面)「従是 くすのき公せ起ひみち」/西国街道に建立の左面の内容を刻んだ道標が破損したため、この道標が建立されたとされる 2
写真 下山手通の道標 しもやまて 神戸市(中央区) (1丁目)生田神社・前
<山陽道>
石道標(尖頭角柱)
江戸期   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「生田森」、(右面)「右 兵庫 播磨道」、(裏面)「左 京 大坂、布引滝 十三丁/麻耶山 一里半/住吉 二里三丁/西宮 四里三丁、道」/左面に和歌「秋可勢耳 ま多こそと者め 津能國の/いく田乃毛利能 春の明保能」(=秋風に またこそとはめ 津の国の 生田の森の 春の曙)を陰刻/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 大谷町の道標
おおたに 神戸市(長田区) (1丁目)蓮池小学校 石道標 高185㎝,幅39㎝,厚38㎝
文化元(1804)以前   WEB(神戸の道しるべ) 移設/下部埋設 (正面)「従是 大山寺道」/太田蜀山人の『革令紀行(1804)』の「西代付近にて右に溜池あり、自是太山寺道といえる石表あり」としてに記載されている道標がこの道標とされる 2
写真 長田町の道標
ながた 神戸市(長田区) (4丁目)長福寺・門前 石道標 高151㎝,幅25㎝,厚15㎝
文化7(1810)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「從是 大日寺 太山寺道」、(左面)「右 長田宮 左 兵庫道」 1
  西国往還付替道(徳川道)   神戸市(灘区・北区)・明石市   道路 長34㎞ 慶応3(1867)   WEB 六甲山中に一部残存 生麦事件など外国人と参勤する大名のトラブルが起こるのを避けるため、西国街道の神戸迂回路として六甲山中に急造された街道/12月7日の竣工1ヶ月後に鳥羽伏見の戦いが発生し、充分に完成が伝えられなかったとされる→維新後外国人居留地のみを迂回する道路が神戸に築造されたため廃道化/使用したのは1月11日に西宮警護に向かった新政府軍の備前藩後発隊のみとされている 3
写真 福住通の道標 ふくずみ 神戸市(灘区) (7丁目)福住小学校・北東角<島田道> 石道標(自然石) 高74㎝,幅43㎝,厚37㎝
天和2(1682)   WEB(神戸の道しるべ) 保存状態良好 (正面)「まやみち」/17世紀の道標 1
写真 寺口町の地蔵道標 てらぐち 神戸市(灘区) 高羽ロータリー三叉路・西北角  石道標(自然石) 高79㎝(台石),
幅54㎝,厚25㎝
安政7(1860)   WEB(神戸の道しるべ) 阪神淡路大震災後移設→上部に載っていた丸彫の地蔵坐像は十善寺山門階段下で他の地蔵と共に祀る(写真は合体したイメージ (正面)「右 一王山」 4
写真 一王山町の道標 いちのうさん 神戸市(灘区) 十善寺 石道標 高120㎝,幅23㎝,厚21㎝
元治2(1865)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「四国八十八所之石此下おさむ」(後半の意味不明)/十善寺の裏山に建立される88の地蔵を巡礼すると四国八十八所を巡礼したと同じ功徳が得られるとされ、その巡礼道を示す道標 1
写真 一王山町の地蔵道標 いちのうさん 神戸市(灘区) (8丁目) 石道標(自然石) 高72㎝,幅53㎝,厚27㎝
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面像下)「右 一王山/左 ありま 三田、ミち」/正面頂部を台形に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1
写真 岩屋中町の道標 いわやなか 神戸市(灘区) (4丁目)龍泉寺・南
<浜街道>
石道標 高54㎝,幅19㎝,厚17㎝
江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 移設/下部埋設 (正面)「右 京 大坂」、(右面)「摂州路」、(左面)「龍泉寺」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 高徳町の地蔵道標 こうとく 神戸市(灘区) (2丁目)鷹匠中学校・東垣 石道標(舟型) 高50㎝,幅28㎝,厚8㎝
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) C製の安易なデザインの祠内 (光背左)「左 堂まやミち」/光背中央に地蔵立像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 摩耶山の町石(十八町) まや 神戸市(灘区) 摩耶ケーブル下駅・前 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高193㎝,幅24㎝,厚24㎝
文安4(1447)   WEB(神戸の道しるべ) 旧参堂入口→移設 (正面)「(梵字)自山上 十八町」 2
写真 摩耶山の町石(十三丁) まや 神戸市(灘区) <上野道> 町石(五輪塔)
(花崗岩)
  室町期?   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「(梵字)十三町」/摩耶山の町石(十八町)と同様の形状のため同時期の建立の可能性が考えられるが、「丁」の表記が違うなどの相違点があるため断定はできない 1
写真 伊川谷町前開の地蔵道標1 いかわだに、ぜんかい 神戸市(西区)   石道標(舟型) 高40㎝(台石),
幅30㎝,0厚30㎝
寛政6(1794)   WEB(神戸の道しるべ) 移設→C祠内 (台石正面)「右 福谷 三木 道/左 山道」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
写真 伊川谷町前開の地蔵道標2 いかわだに、ぜんかい 神戸市(西区) 太山寺・本堂裏 石道標(丸彫) 高47㎝(台石),,
幅26㎝,厚25㎝
文化3(1806)   WEB(神戸の道しるべ) 移設/地蔵の首が欠損 (台石正面右)「從是 太山寺」、(同左下)「七丁」/上部に地蔵立像の丸彫りが載る、台石正面に「三界萬霊」と陰刻 3
写真 櫨谷町長谷の大師道標 はせたに、
はせ
神戸市(西区) (南口) 石道標(蒲鉾型) 高45㎝(台石),,
幅16㎝,厚13㎝
文化7(1810)   WEB(神戸の道しるべ) 移設→C祠内/頂部が一部欠損 (正面像下)「左 如意寺道」/正面上部を削り込み大師坐像を陽刻 3
写真 伊川谷町前開の道標1 いかわだに、ぜんかい 神戸市(西区) 太山寺本堂・西横  石道標(自然石) 高82㎝,幅60㎝,厚50㎝
文化13(1816)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 「是ヨリ、兵庫/有馬、道」/前開から布施畑へ向かう道にあったものと考えられる 2
写真 伊川谷町前開の道標2 いかわだに、ぜんかい 神戸市(西区) 太山寺鐘楼・脇  石道標 高78㎝,18㎝角 文政8(1825)   WEB(神戸の道しるべ) 栃木薬師まで4㎞あるため移設 (正面)「右 栃木薬師道 六十丁」 2
写真 平野町堅田の地蔵道標 ひらの、
かただ
神戸市(西区) 上堅田公会堂・北東墓地前  石道標 高37㎝(台石),
幅15㎝,厚12㎝
天保2(1831)    WEB(神戸の道しるべ) 頂部から地蔵の肩にかけて大きな亀裂/西神ニュータウンの開発に伴い現位置の祠に移設 (正面像下)「右 によし/左 大山寺、道」/正面上部を削り込み地蔵坐像を陽刻 3 -
写真 玉津町二つ屋の地蔵道標 たまつ、
ふたつや
神戸市(西区)   石道標 高143㎝,幅25㎝,厚19㎝ 天保13(1842)    WEB(神戸の道しるべ) 近接移設? (右面)「右 如意寺堂前迠 廾八丁 阿リ満道」、(左面)「左 日輪寺江 五丁 押谷 三木 道」/正面頂部を削り込み小さな地蔵坐像を陽刻、その下に「如意寺地藏尊 往生極楽護持/異朝和國一之文殊授記尊」と陰刻 1
写真 平野町中津の地蔵道標 ひらの、
なかつ
神戸市(西区) 多幸屋前・三叉路  石道標
(丸彫、花崗岩)
高172㎝(うち、台石73㎝),
幅48㎝,厚42㎝
弘化4(1847)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (台石正面)「右、弥り編や/三木 小乃/左、印南 國包/加古新田」(=練部屋)/正面中央に「三界萬霊」、右面に「大乘妙典/一石一字/安産地蔵」と陰刻/台石上に地蔵半跏坐像(錫杖)の丸彫が載る 1
写真 神出町宝勢の題目塔道標 かんで、
ほうせい
神戸市(西区) 小鳥喰池 石道標 高114㎝,幅17㎝,厚13㎝
弘化~嘉永年間
(1844-54)?
  WEB(神戸の道しるべ) 基盤露出→移設 (正面)「右 明石/左 太山寺、道」/右面に「三界万霊」、裏面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 2
写真 神出町紫合の地蔵道標 かんで、
ゆうだ
神戸市(西区)   石道標(蒲鉾型) 高70㎝,幅24㎝,厚16㎝
嘉永年間(1848-54)   WEB(神戸の道しるべ) RC祠内に移設・集約 (正面像下)「右 太山寺/左 天王山、道」/正面頂部を円形に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 2 -
写真 枝吉の地蔵道標 えだよし 神戸市(西区) 報恩寺・前 石道標(丸彫)
嘉永4(1851)   WEB(的形道標クラブ) 原位置?/地蔵は後補 (台石右面)「北 下津者"し/東 太山寺道/南 加にがさか」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 3
写真 平野町西戸田の道標 ひらの、
にしとだ
神戸市(西区)   石道標(尖頭角柱) 高150㎝,幅30㎝,厚30㎝
安政5(1858)   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設? (正面)「左 三木 小野」、(右面)「右 淡河 有馬」 1
写真 押部谷町木津の道標 おしべだに、きづ 神戸市(西区) <木津→三木道> 石道標(笠付き) 高53㎝,幅25㎝,厚23㎝
安政6(1859)   WEB(神戸の道しるべ) 移設? (正面)「右 三木/左 兵庫、道」/施主:四國順拜連中/自然石風の笠を載せる 2
写真 櫨谷町谷口の道標 はせたに、
たにぐち
神戸市(西区)   石道標(蒲鉾型) 高95㎝,幅22㎝,厚18㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設→個人宅 (正面)「左 如意寺道」、(右面)「右 永井ミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 4
写真 岩岡町岩岡の地蔵道標1 いわおか、
いわおか
神戸市(西区) 三叉路 石道標(駒型) 高62㎝,幅17㎝,厚12㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面像下)「右 三木ミち/左 加こ川みち」/正面頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1 -
写真 上新地の地蔵道標 かみしんち 神戸市(西区) 上新地自治会館・前
(2丁目)
石道標(蒲鉾型) 高55㎝,幅17㎝,厚14㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/木祠内 (正面像下)「右 清水 加古川ミち/左 金可さ記ミち」(=金ケ崎)/正面頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1 -
写真 岩岡町岩岡の地蔵道標2 いわおか、
のなか
神戸市(西区) 上岩岡交差点  石道標(蒲鉾型) 高54㎝,幅15㎝,厚14㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面像下)「右 三木ミち/左 く尓可年道」(=国包)/正面頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1 -
写真 神出町広谷の明石・姫路藩境石 かんで、
ひろたに
神戸市(西区) <明石藩・姫路藩> 境界石(駒型) 高140㎝,幅30㎝,厚28㎝ 嘉永6(1853)   WEB(いなみ野溜池ミュージアム)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置/風化による摩耗が進む 「分境、東 明石領/西 姫路領」/嘉永4(1851)に明石藩、姫路藩の境界である加古新村、国岡新村と草谷郷8ヵ村で加古大溝を巡る水争いとなり、近隣の村の仲裁で付近に境界石を4基建立したとされる〔稲美町に草谷の分境石が現存〕 1
  寛政池 かんせい 神戸市(西区)   溜池(土堰堤) 堤長264m,
堤高10m
寛政12(1800)   WEB   西島、中島、森の3か村を灌漑する目的で築造された溜池/灌漑している地域は明石市内  
写真 林崎掘割用水 はやしざき 神戸市(西区)・
明石市
明石川 用水路 長5.4㎞,幅2.3m,厚1m 万治元(1658)、延伸:宝永5(1708)   明石市教委(新明石の史跡)p162-5/兵庫のため池史p134/WEB ほぼC改修?(一部素掘りのまま)/竹林の区間に遊歩道整備/雁木も多く残る 企画:庄屋・伊藤次郎左衛門、測量:和坂村測量師・山崎宗左衛門/干ばつが頻発していた旧林崎村付近を灌漑するために開削/明暦2(1656)の新井溝開削の際に直線水路で失敗し、蛇行させて成功させた事を踏まえ、水路を蛇行させたとされる/後に大久保分水の開削により延伸され、灌漑面積は622haに及んだ/西戸田村が取水しない秋の彼岸から春の彼岸まで、夏季の降雨による増水時に取水が許可され、溜池に貯留した/元文4(1739)建立の林崎堀割工事記念碑も残る 2
写真 御影本町の道標 みかげほん 神戸市(東灘区) (2丁目)東御影・交差点角 石道標(尖頭角柱) 高105㎝,26㎝角 嘉永2(1849)   WEB(神戸の道しるべ)/WEB(的形道標クラブ) 原位置?/下部C舗装内に埋没 (正面)「是ヨリ/徳本上人石碑 十八丁」、(右面)「春ぐ 兵庫 三里」、(左面)「春ぐ 大坂道、七里/西宮/三里」 1
写真 住吉南町の道標1
すみよしみなみ 神戸市(東灘区) (4丁目)呉田会館・前 石道標(尖頭角柱) 高138㎝,幅24㎝,厚25㎝
嘉永4(1851)   WEB(神戸の道しるべ)/WEB(的形道標クラブ) 昭和55移設 (正面)「住吉大明…」、(右面)「住吉大明神社」、(裏面)「左 兵庫 明石道」、/江戸期だが「大阪」と標記(稀にある) 2
写真 魚崎南町の道標
うおざきみなみ 神戸市(東灘区) (3丁目)五百地公園 石道標(自然石)
江戸期   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「右 大坂道」、(右面)「右 兵庫道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 住吉南町の道標2
すみよしみなみ 神戸市(東灘区) (4丁目)呉田会館・前 石道標(駒型)
江戸期   WEB(的形道標クラブ) 昭和55移設 (正面)「右 西宮 大阪道」、(右面)「右 兵…」、(左面)「左 大…」/左面埋没部は「大坂道」→「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
  本山北町の尼崎藩境石 もとやまきた 神戸市(東灘区) (5丁目)小路八幡宮
<尼崎藩>
境界石 高67㎝,幅20㎝,厚21㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設/上半部欠損 (正面)「従是西尼﨑領」、(右面)「従是西尼﨑領」、(左面)「従是東、尼崎領/侘領、入組」 4
写真 松原通の道標 まつばら 神戸市(兵庫区) (1丁目)真光寺 石道標(尖頭角柱) 高140㎝,29㎝角
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「左 京大坂道」、(左面)「右 者里満ミち」(=播磨)/「大坂」「ミち」の標記は江戸期 2
  湊八幡神社の「迷い子知らせ」石標 みなとはちまん 神戸市(兵庫区) 湊八幡神社 石標   江戸末期   WEB 移設/戦災で破損し鉄枠で補強/復元標柱を併設 (正面)「満よひ子のしるべ」、(右面)「しらする方」、(左面)「たづぬる方」/迷子や尋ね人を探すための告知板→側面上部の長方形に削り込んだ部分に紙を貼った/江戸・京都以外での「迷い子知らせ」石標は稀 3
  西柳原町の尼崎藩境石 にしやなぎわら 神戸市(兵庫区) <尼崎藩> 境界石   寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  尼崎の道標を訪ね歩く 中央で水平に折損/現状不明 (正面)「東 尼﨑領」/柳原惣門跡発掘の際に出土した境界石 3
写真 大輪田泊の石椋 おおわだのとまり、
いわくら
神戸市(兵庫区)   石防波堤(花崗岩) 20数個→1個 奈良時代後半~平安中期?   市教委/WEB/神戸港1500年p76 1個のみ展示/学術的検証は行われていない/現地解説板では大輪田泊の石椋として解説/その他の石は麻耶埠頭の埋立に使用されたと推定されている 天平12(740)頃に行基が定めた五泊の1つ/『日本後紀』の弘仁3(812)の条に大輪田泊修築のことが記載(造大輪田船瀬使により石椋の設置、泊の修築が行われた)/平清盛による大輪田泊の大修築(承安3(1173)に人工島である経が島の竣工で完了)/巨石を積上げ、周囲を松杭で補強した港湾施設に使用されたと推定される石材/石椋とは古代の防波堤(波消し)や突堤の基礎/昭和27の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に一定間隔で打ち込まれた松杭と共に重量4tの巨石20数個を発見→昭和42竣工の摩耶埠頭築造の際に埋立材料として使用、1つのみ摩耶埠頭竣工記念碑として公園に設置→平成15に新川運河付近で奈良時代後半~平安中期の港湾遺構が発掘されたため、石椋の石材であった可能性を考えて現位置に「古代大輪田泊の石椋」として再モニュメント化(石椋の石材であったかは多分に疑問が残る) 4 写真
写真 和田岬砲台・跡 わだ 神戸市(兵庫区) 三菱重工業・神戸造船所 石砲台(円筒形) 高11.5m,
直径15m
元治元(1864) 国史跡 市教委/WEB 星型土塁は消失/内部には当時の木造部が残る/改修のため平成26まで見学中止 設計:勝海舟/中央に円筒の堡塔を築き、周囲に長約70mの星型土塁が築かれていた/堡塔は、外郭部は石、内部は木造2階建てで1階には砲冷却用の井戸が掘られている/同時期に川崎、西宮、今津に同型の砲台が築かれたが、内部の木造部が残るのは和田岬砲台のみ 3
写真 陸本町の道標 くがほん 相生市 JR相生駅・南
<山陽道・赤穂街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)   江戸期?   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「是より右 さいこくみち」、(左面)「是より左 あ加本城下みち」(=赤穂) 2
  西国往還付替道(徳川道)   明石市・神戸市(北区・灘区)   道路 長34㎞ 慶応3(1867)   WEB 市街地化 生麦事件など外国人と参勤する大名のトラブルが起こるのを避けるため、西国街道の神戸迂回路として六甲山中に急造された街道/12月7日の竣工1ヶ月後に鳥羽伏見の戦いが発生し、充分に完成が伝えられなかったとされる→維新後外国人居留地のみを迂回する道路が神戸に築造されたため廃道化/使用したのは1月11日に西宮警護に向かった新政府軍の備前藩後発隊のみとされている 4
写真 薬師院の石橋 やくしいん 明石市 薬師院 石桁橋 (2G) 元禄元(1688)   WEB   薬師院の参道に架かる石橋 1
写真 和坂の道標 かにがさか 明石市 (1丁目)坂上寺・石段下 石道標(花崗岩) 高113㎝,15㎝角 安永9(1740)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「大師舊跡」、(右面)「かうやたうち他う」(=高野道場)、(同最下部)「女人のため/作をき多まふ」 1
写真 魚住町金ケ崎の道標 うおずみ、
かながさき
明石市   石道標 高150㎝,幅30㎝,厚32㎝ 宝暦末(1760)以前   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「左 大山寺道」/萩藩士・有馬喜惣太が作成した絵図「中國行程記」(宝暦末(1760)頃)に「此棒杭ニ左太山寺道トアリ」と記入されている 2
写真 大久保町松陰新田の地蔵道標 おおくぼ、
まつかげしんでん
明石市 大林寺・地蔵堂 石道標(丸彫) 高96㎝(台石部),幅21㎝,厚17㎝ 文政4(1821)   WEB(神戸の道しるべ) 移設/C祠内 (台石正面左)「左 金ヶ崎道 従是一丁」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/台石正面中央に「奉/納、三界萬霊」と陰刻 2
写真 二見町福里の道標1 ふたみ、
ふくさと
明石市 <山陽道と浜街道をつなぐ街道> 石道標 高110㎝,27㎝角 天保11(1840)   WEB(神戸の道しるべ)/WEB(的形道標クラブ) 上部1/3で水平に折損→修復 (正面)「西 左 明石 大坂道」、(右面)「南 すぐ 三木 市場 道」、(左面)
「北、右 尾ノ上 高砂/すぐ 二見」、(裏面)「東」
2
写真 天文町の題目塔道標 てんもん 明石市 (1丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高193㎝,幅43㎝,厚41㎝
万延元(1860)   WEB(神戸の道しるべ) 5m西に近接移設 (右面)「右 人麿山 三丁」、(左面)「左 人丸山 三丁」/正面に「正一位柿本大明神道教」と陰刻 1
写真 天文町の道標 てんもん 明石市 (2丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高133㎝(うち、台石7㎝),幅28㎝,厚25.5㎝
慶応元(1865)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置/明治43の「大日本中央標準時子午線通過地識標」と共に建つ (正面)「左、ひやうご/大阪、道」、(左面)「右、か古川/ひ免ぢ、道」/明石城下町の入口に建つ道標 1
写真 大久保町大窪の道標 おおくぼ、
おおくぼ
明石市   石道標 高91㎝,幅18㎝,厚18㎝ 元治2(1865)   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設 (正面)「左 大久保町道」、(右面)「右 江井志まミち」 1
写真 魚住町清水の道標 うおずみ、
しみず
明石市 西福寺・前 石道標(尖頭角柱) 高155㎝,幅32㎝,厚31㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「左、別府手まくら松/をのへ可年/高砂相ま川、道」(=尾上の鐘、高砂相生松)、(右面)「是よ里/者り満名所道」(=播磨)、(左面)「右 あかし道」/世話人が「松葉屋…」と氏がないので江戸期 1
写真 鍛治屋町の道標 かじや 明石市 (4丁目)<西国街道?> 石道標 高144㎝,20㎝角F 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設? (正面)「みぎ ひめぢ道」、(右面)「ひだり 大坂道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 二見町福里の道標2 ふたみ、
ふくさと
明石市   石道標(尖頭角柱) 高77㎝,幅18㎝,厚11㎝ 江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 古物商から返品され再建立/数ヶ所で折損→修復 (正面)「右 明石 大坂道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 3
写真 鳥羽の大師道標 とば 明石市 慈泉寺・前 石道標 高52㎝,幅16㎝,厚11㎝
江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「北 やしろ/東 太山寺、ミち」、(右面)「北 みきミち」、(左面)「西 ひめじミち」/正面頂部を浅く削り込み大師坐像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 明石の古波止 あかし、
ふるはと
明石市 明石川 石防波堤 長約150m,
幅約13m
慶長19(1614)?   市教委/市土木交通部海岸課 保存状態良好(干潮時に姿を見せる) 明石藩主・池田由之/明石川に入る船のために河口に築かれた防波堤 2
  明石港突堤・跡 あかし 明石市 <明石港>  船着場?   元和6(1620)   市教委 旧灯台付近のみ残存? 現在は明石港旧灯台の土台となっている突堤/明石城石垣と同じちぎり工法、合い端合わせが使用されている 4
写真 明石港旧灯台 あかし 明石市 <明石港> 灯明台(海運) 高6.7m? 明暦3(1657)   市教委/WEB 石基壇の上にRCの火袋と笠が載る(昭和7の改修)/昭和38に非現役/老朽化が目立ち、C剥落の危険性があり、周囲にフェンスを設置 企画:明石藩主・松平忠国/常夜灯型ではなく灯明台型をした灯台の中で、本体まですべて石で造られた現存する唯一の遺構 3
写真 林崎掘割用水 はやしざき 明石市・
神戸市(西区)
明石川 用水路 長5.4㎞,幅2.3m,厚1m 万治元(1658)、延伸:宝永5(1708)   明石市教委(新明石の史跡)p162-5/兵庫のため池史p134/WEB ほぼC改修?一部素掘りのまま/竹林の区間に遊歩道整備/雁木も多く残る 企画:庄屋・伊藤次郎左衛門、測量:和坂村測量師・山崎宗左衛門/干ばつが頻発していた旧林崎村付近を灌漑するために開削/明暦2(1656)の新井溝開削の際に直線水路で失敗し、蛇行させて成功させた事を踏まえ、水路を蛇行させたとされる/後に大久保分水の開削により延伸され、灌漑面積は622haに及んだ/西戸田村が取水しない秋の彼岸から春の彼岸まで、夏季の降雨による増水時に取水が許可され、溜池に貯留した/元文4(1739)建立の「播州赤石林﨑渠記碑」(下記)も残る 2
  播州赤石林﨑渠記碑 ばんしゅうあかし、はやしざき 明石市   石碑   元文4(1739)   木谷幹一 保存状態良好 (正面浮彫下最上部)「播/州/赤/石/林/﨑/渠/記」、(その下)「林﨑庄内諸村田水不足有池矣而不停豬以故苗不碩小旱輙不登百姓疾苦久之明暦三年冬十月野ヒ上組代官和坂村伊藤次/郎左衛門及庄屋和坂村甲谷五郎兵衛伊藤傳兵衛鳥羽村岸本善太夫林村伊藤六兵衛隅谷七兵衛石井六郎右衛門小網喜兵/衛東松江村實安傳右衛門西松江村岩井三郎兵衛藤江村神足多兵衛伊藤次郎右衛門胥議圖穿渠引赤石川上流畜水於池以/利漑浸當是時和坂村有工師山崎宗左衛門者頗善心計乃命測地髙下以為可引押部川入西戸田村中閘口歴印路村中村上津/橋村注平太口乃䟽聞故鎭公 松平山城侯請興人徒為渠即遺有司審問伊藤及甲谷岸本等僉曰渠就水不注罰我以嚴刑不/悔也遂立約録呈乃許之於是穿渠自中閘口抵平太口長二千九百五十六歩廣五尺以翌年萬治元秊戊戌夏四月成果水不塡閼/池扨禾大熟渠成三上下頼其利 侯甚喜之毎給功千夫糧十斛脩溝堰不廢壤其券見在和坂村又以宗左衛門特有勞令子/孫為嫡者免治渠役券在其家焉 嗣君日向侯時寛文十一年辛亥鳥羽新田村庄屋岩佐三右衛門請引林崎渠因令有司穿梁/廣加於故二尺合為七口水利益饒 侯乃賜伊藤及甲谷㟁本等十三人中谷新田五反九畝拾四歩供林﨑渠之費且 命異日得/替之浚汝等聞諸本鎭世ヒ勿絶云寳永四秊丁亥夏四月吾鎭公 松平武衛君以林崎渠於民便欲引水漑西浦邊野ヒ上二部旱/損田乃設新閘口於黒田村渠廣加於故三尺穿自平太口而下是為新渠又於平太口分定水口為故渠六尺新渠三尺中疇四尺一/寸六分乃令新渠諸落凡脩閘之費出三之一渠事無小大一以林﨑為準使庄屋爲其保納券有司乃賜其券於剏故渠者繕治伏樋/溝橋以石 命黒田常本西戸田印路中村上津橋六村民自今而後勿有生事以害水利云其券亦在和坂村焉是甲寅秋和坂村/伊藤治兵衛鳥羽村岸本清右衛門新田村岩佐三右衛門林村伊藤彌兵衛小川徳左衛門伊藤善七郎東松江村大喜多善右衛門/西松江村松尾五郎兵衛藤江村山内三右衛門伊藤利八郎諸庄屋請邦美為之記且告曰斯渠也 山城侯興諸前 武衛君弘諸/後 二賢之仁民也深矣不可以不傳焉邦美既善其報徳之有誠又信王政樂利之果不可誣也於是乎書/享保十九年甲寅七月 赤石儒臣梁田邦美謹撰/ 右林﨑渠記總八百四十言皆實録也其所謂毎給功千夫糧十斛者於渠事爲最便斷乎不可廢矣佗日必以斯言徴焉/享保廾年乙卯秋八月 郡代 井上新助實政/郡代 松田與三右衛門義敬/郡代 岩井半太夫種玄」(緑字は異体字) 1
写真 坂越の道標 さこし 赤穂市 木戸門跡広場 石道標 高95㎝,幅22㎝,厚18㎝ 江戸期   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「右 大坂/左 城下、道」、(左面)「右 み那と」/「大坂」の標記は江戸期 2
写真 塩屋の道標 しおや 赤穂市   石道標(自然石) 高68㎝,幅33㎝ 江戸期?   WEB(的形道標クラブ) 移設? (正面)「右 びぜん道」/「備前」の標記は江戸期の可能性 2 -
  廃光明寺の町石(四町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 奥の院境内・入口 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高約100㎝,
幅16.5㎝
文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→移設、集約/空・風輪、火輪、水輪がそれぞれ別石→当初のものが折損? 廃光明寺の町石群は、本来は山麓から寺に向けて丁数順に並んでいた(寺側が一丁⇒逆順)→現在はすべて移設→リストは丁数順/「(梵字)自 光明寺 二二町」(二二は四のこと) 4
  廃光明寺の町石(六町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 奥の院境内・入口 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高84㎝,幅17㎝ 文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→移設、集約/保存状態良好 「自 光明寺 六町」 2
  廃光明寺の町石(七町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 奥の院境内・入口 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高82.5㎝,幅18㎝ 文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→移設、集約/空輪、風輪上半部欠損 城喩品 第七」(緑字は異体字) 3
  廃光明寺の町石(八町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 奥の院境内・入口 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高87㎝,幅16.5㎝ 文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→移設、集約/空・風・火輪欠損 「自 光明寺 八町」 4
  廃光明寺の町石(十一町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 有年考古館  町石(五輪塔)
(花崗岩)
高55㎝,幅16.5㎝ 文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→農家保管→移設・展示/地輪のみ現存 「自 光明寺 十一町」 5
  廃光明寺の町石(十五町) くろさわ、
こうみょう
赤穂市 有年考古館 町石(五輪塔)
(花崗岩)
高88㎝,幅18㎝ 文明年間(1469-87)頃 市有形 市教委 廃寺→散逸→農家保管→移設・展示/空・風輪欠損 (右面)「自 光明寺 十五町」/正面に「妙法蓮華経妙荘厳/王本事品第二十七」と陰刻 2
写真 福浦の国境石 ふくうら 赤穂市   境界石 高190㎝,30㎝角 江戸期   WEB(的形道標クラブ) 移設?(基部露出) (正面)「従是取揚島見通シ、東 播磨國/西 備前國」、(右面)「従是東 播磨國」、(左面)「従是西 備前國」/昭和38に岡山県和気郡日生町福浦地区の住民の要求で兵庫県に編入された 2
写真 赤穂城の水手門 あこう、
みずのて
赤穂市   港湾施設 間口3.03m,
高1.82m
江戸期   市教委 門の礎石が残る/修景大/雁木復元/橋が邪魔になっている 赤穂城二の丸から海もしくは干潟に面していた門 3
写真 赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸 あこう 赤穂市   井戸   江戸期   市教委 公園化/残る石組は地上部のみ/移設? 指揮:代官・垂水半左衛門/3年がかりで赤穂藩に千種川の水を引き、元和2(1616)に完成させた上水道/日本三大上水道の1つとされる/地下を網の目のように走り、城内や町民の各戸に給水した/底に瓶を埋め、その上に土管を積み重ねて造られた/道の下を通る配水管から給水管によって屋敷内に引き込まれ、汲出枡から汲み上げられた/汲出枡とも呼ばれる 3
写真 赤穂藩上水道モニュメントの息継ぎ井戸 あこう 赤穂市   井戸   江戸期   WEB 公園化/石組は地上、地下ともオリジナル 赤穂藩上水道の給水井戸/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照 2
写真 赤穂藩上水道モニュメントの上水管(大手門前) あこう 赤穂市   上水管   江戸期   市教委 公園化/水路風のモニュメント 当時の土管が実物展示されている/サイフォンの原理を使って、この場所から堀の下を潜って城内に上水を流していた/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照 4
  赤穂藩上水道モニュメントの配水路枡 あこう 赤穂市   上水施設   江戸期   市教委 公園化/厚い鉄格子でふさがれており、中がほとんど見えない/中の石は残る 赤穂藩上水道の枡が残されている/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照 4
写真 赤穂藩上水道モニュメントの百々呂屋裏大枡 ももろや 赤穂市   上水施設 石枡:4m四方<2間> 江戸期   市教委 縁石が2枚残るのみ 赤穂城下入口にあった浄水施設/周りに竹柵を巡らして浮遊物を取り除いた/城下に流す水量調節も行われた/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照 5
  切山隧道 きりやま 赤穂市 千種川 素掘トンネル
(上水用水路)
長94m 元和2(1616)   市教委(文化財をたずねて4)/WEB 明治期に拡幅、昭和38に入口をC改修 取水用に開削された赤穂藩上水道最初期の隧道/当時の千種川(熊見川)が高雄付近で現在より南西側を流れ、隧道入口付近が安定して水量の多い淵となっていたため、この取水法が採られたとされる/浅野長直藩政時代(1645-71)には千種川の流路変化、新田開発などによる需要増加により下流の高雄船渡井堰に上水道取水口が変更され、隧道はその後農業用水路として活用された/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照 4
写真 旧・えびす橋   朝来市 金比羅神社・脇参道 石桁橋 (2G) 宝永元(1704)   WEB(石橋巡礼) 道路拡幅に伴い移設 街道橋/3本の橋脚上の横桁の上に橋桁を置く最も簡単な形式/石を穿って造られた面白い形の高欄石 2
  山東町矢名瀬町の道標 さんとう、
やなせ
朝来市 円了寺 石道標 高74㎝,24㎝角 文化2(1805)   歴史の道3p148 移設 (正面)「左 京 大坂/右 ゆしま」、(右面)「右 はり満」、(裏面)「左 志ゆんれい」 2 -
写真 慶寿の堀切(慶寿ひ)・跡 けいじゅ 朝来市 <生野銀山> 露天掘り 長約1㎞ 永禄10(1567) 市史跡 現地調査/WEB 銀の鉱石を掘り出した跡(溝)が、遊歩道を挟んで両端に保存 生野銀山は大同2(807)に開坑されたとされる鉱山/公開坑道全長1000m、未公開坑道まで含めると総延長350㎞、深880mを誇る/頂部から内部の坑道に入っていた/特有のシダが生えている 1 写真
写真 滝間歩坑・跡 たきまぶ 朝来市 <生野銀山> 坑道   慶長8(1603)→坑口は近代   現地調査/WEB 公開坑道→内部は観光用に改変(近世の狸堀の跡が数多く見られる) 不動滝の付近にある坑道/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3
写真 下川戸坑・跡 しもかわど 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査 木柵で坑口を封鎖 かなり高い崖の表面に、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3 -
写真 出賀坑・跡 しゅつが 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査 鉄格子で坑口を封鎖 遊歩道に面して、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3 -
写真 大丸坑・跡 だいまる 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査/WEB 木の棒で坑口を封鎖 粘土断層の横に、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3 -
写真 金盛ひ・跡 きんせい 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査 金網で坑口を封鎖 遊歩道に面して、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3 -
写真 辰巳坑・跡 たつみ 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査 鉄格子で坑口を封鎖 遊歩道に面して、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3 -
写真 小日向坑・跡 こひなた 朝来市 <生野銀山> 坑口   江戸期   現地調査 鉄格子と金網で坑口を封鎖 遊歩道に面して、坑口が見えている/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 4 -
  表米神社の相撲桟敷 ひょうまい 朝来市 <表米神社> 桟敷 4段 江戸末期 県有形民俗 WEB 保存状態良好 表米宿禰命の格技を好んだとされるという言い伝えに基づき、神社境内内に設けられた土俵を三方から観覧できるように造られた桟敷/山口や小豆島で見られる桟敷と異なり、神事と密接に結びついている 1
写真 三条町の尼崎藩境石 さんじょう 芦屋市 三条八幡神社境内<尼崎藩> 境界石(尖頭角柱) 高141㎝,幅28㎝,厚21㎝ 延享5(1748)   WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設 (正面)「従是西、尼﨑領/他領、入組」、(右面)「従是東尼﨑領」、(左面)「従是東尼﨑領」/芦屋市内は当初尼崎藩領三条・津知・芦屋・打出村があり、明和6(1769)に芦屋・打出村は天領となったとされる 2
写真 伊勢町の尼崎藩境石 いせ 芦屋市 芦屋市立美術博物館・裏
<尼崎藩>
境界石 高157㎝,21㎝角 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設(もと、打出小槌町) (3面に同じ表記)「従是 東尼﨑領」 2
写真 東六甲採石場
(奥山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(おくやま) 芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28) 市史跡
(一部)
市教委 国有林の山中にそのままの形で残る(特に遊歩道や案内板はない)/市有地に移設した一部遺構のみ史跡指定 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/A-J地区:越前福井藩松平家(「二つ串団子」「一と三角に点」「Z字」など多様な刻印)、K地区:長州藩毛利家(「一品」の刻印)/芦屋市での3刻印群の中では最も大規模 1-3 写真
  東六甲採石場
(城山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(しろやま) 芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委(芦屋市文化財報告書44p23-26) 山中にそのままの形で残る(特に遊歩道や案内板はない) 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/A地区:日向佐土原藩島津家(「轡」の刻印)、D地区:豊後臼杵藩・丹波福知山藩稲葉家(「折敷に三文字」の刻印) 1
写真 東六甲採石場
(岩ヶ平刻印群)
・跡
ひがしろっこう(いわがひら) 芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委(芦屋市文化財報告書44・60・61) 宅地開発のため発掘調査が唯一進展→理解の得られた場合、小公園化して展示保存 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/出雲松江藩、若狭小浜藩、因伯鳥取藩、肥前唐津藩、肥後熊本藩、播磨赤穂藩の刻印/全国的に見て発掘調査が最も完璧に行われた徳川大坂城に関わる採石場遺構 1-3
写真 南武庫之荘の道標 みなみむこのそう 尼崎市 (8丁目)須佐男神社 石道標(駒型) 高91㎝,幅21㎝,厚21㎝ 元文5(1740)頃   尼崎の道標を訪ね歩く 移設 (正面)「左 か婦と山道、是ゟ/五十丁」、(左面)「右 大坂」/施主:大坂新町・折屋徳兵衛/折屋徳兵衛の建立した甲山神呪寺への同票は6基〔西宮市に5基〕建立されている 2
  食満の題目塔道標 けま 尼崎市 (6丁目)西明寺門前
<有馬街道>
石道標(花崗岩) 高174㎝(うち、台石44㎝),30㎝角 寛保元(1741)   尼崎のみちしるべp23 移設 (左面)「川辺郡三十三ヶ所廿一番札所/觀世音菩薩/是より壱町東へ入」/正面に「圓光大師 船中御自身二尊像」と陰刻、右面に「南無阿弥陀佛」と陰刻(蓮花付き)、左面上に「天下太平/國土安全」と陰刻 2
写真 次屋の道標1 つぎや 尼崎市 (2丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高153㎝,幅23㎝,厚20㎝ 安永8(1779)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 現位置に再建立の際に表面を補修/一部欠損 (正面)「左ハ 次屋村大辨財天女、是ゟ/三丁南」、(右面)「右ハ 久々知村妙見町、是ゟ/十二丁」 2
写真 次屋の道標2 つぎや 尼崎市 (1丁目)次屋伊邪岐神社 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高88㎝,幅23㎝,厚11㎝ 安永8(1779)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設/下部埋没 (正面右上)「是ゟおく」、(正面)「大辨財天女御」 2
写真 猪名寺の題目塔道標 いなでら 尼崎市 (1丁目)杜若寺墓地・門脇
<有馬街道・尼崎伊丹道>
石道標(尖頭角柱) 高121㎝,幅24㎝,厚19㎝ 寛政5(1793)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設/中央で折損→修復 (正面下部)「右 尼崎/左 大坂、道」/正面上部に「南無阿彌陀佛」と陰刻 2
写真 西川の地蔵道標 にしかわ 尼崎市 (2丁目) 石道標(花崗岩) 高138㎝(うち、台石12㎝),31㎝角 文化元(1804)以前   尼崎の道標を訪ね歩く 祠(C製)内で祀られている (正面(「右 伊丹 中山/左 尼﨑 西宮」、(右面)「左 大阪」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台付き)を陽刻、左面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/建立年は太田蜀山人『革令紀行(1804)』の記載により推定 1
写真 長洲中通の道標 ながすなか 尼崎市 (2丁目)大門緑地公園
<中国街道>
石道標(尖頭角柱) 高約146㎝,
幅30㎝,厚30㎝
文化5(1808)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道標を訪ね歩く・長洲本通の道標) 原位置に再建立 (正面)「右 大坂 京/左 伊丹 有馬、道」、(右面)「左 尼崎 西宮」、(左面)「右 尼崎 大坂」
1
写真 上坂部の道標 かみさかべ 尼崎市 (2丁目)
<有馬街道間道・伊丹道>
石道標(凝灰岩) 高120㎝,幅33㎝,厚21㎝ 天保6(1835)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「すぐ あま可"崎/左 かん崎 大坂」、(左面)「右 小はま 中山 有馬」/正面頂部を扇形に浅く削り込み「分銅」の刻印 1
写真 久々知の道標 くくち 尼崎市 (1丁目)広済寺・西
<有馬街道間道>
石道標(駒型) 高127㎝→96㎝,幅25㎝,厚21㎝ 天保6(1835)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/下部埋没大 (正面)「右 中山 有馬/左 尼崎 西宮、…」、(右面)「左 大坂」、(左面)
「右 服部」
2
写真 北城内の道標 きたじょうない 尼崎市 (1丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高101㎝,幅22㎝,厚16㎝ 天保7(1836)   尼崎の道標を訪ね歩く 尼崎市立中央図書館横の空き地に移設(もと、大庄西)→フェンスにより接近できない (正面)「右、西宮/兵庫、道」、(右面)「左、尼嵜/大坂、道」 2
写真 西川の地蔵道標 にしかわ 尼崎市 (2丁目)
<中国街道・有馬街道>
石道標 高125㎝,31㎝角 天保12(1841)以前   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/C祠内/保存状態最良 (正面像下)「右 伊丹 中山/左 尼崎 西宮」、(右面)「左 大坂」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/施主の神南辺隆光
(道心)は天保12に没するまで諸国に道標を建立した堺の出家者
1
写真 西本町の道標 にしほん 尼崎市 (8丁目)<中国街道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高153㎝,幅21㎝,厚20㎝ 弘化3(1846)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB 保存状態良好 (正面)「左 西ノ宮 兵庫」、(左面)「右 大坂道」 1
写真 東園田の道標 ひがしそのだ 尼崎市 (4丁目)穴太白井神社 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高91㎝,幅25㎝,厚24㎝ 寛永5(1852)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設・集約 (正面)「右 阿の村 者可"み/すぐ 伊丹 中山、道」(=穴太、歯神)、(同右下隅)「是ゟ四丁」 2
写真 下坂部の道標 しもさかべ 尼崎市

(2丁目)蓮生寺・北三叉路
<有馬街道間道>

石道標
(駒型、砂岩)
高70㎝,幅22㎝,厚12㎝ 文久3(1863)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 保存状態良好 (正面)「右 中山 有馬/左 尼崎、道」、(右面)「左 神崎 大坂道」 1 -
写真 久々知の地蔵道標 くくち 尼崎市 (3丁目)<尼崎伊丹道> 石道標(五輪塔) 高87㎝,幅18㎝,厚18㎝ 江戸期   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/C祠内 (正面)「大坂道」、(右面)「右 尼崎道」/地輪のない五輪塔で一体成形/五輪塔下に地蔵上半身像を線刻/「大坂」の標記だけでなく、町石でしか見られない五輪塔であること、像容の磨耗から江戸期 1
写真 富松町の地蔵道標 とまつ 尼崎市 (1丁目)<有馬街道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高44㎝(上部),
13㎝各
江戸期   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設/2ヶ所で折損→上部のみ移設、中部は円受寺で保管、下部は紛失 (右面)「右、行基 中山/小濱 有馬」、(裏面)「左、尼崎神崎/大坂」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻/「大坂」の標記は江戸期の可能性 4
写真 塚口本町の道標 つかぐちほん 尼崎市 (1丁目) 石道標
(自然石、花崗岩)
高68㎝,幅56㎝,厚30㎝ 江戸期   尼崎の道標を訪ね歩く 下部C固定(埋設) (正面)「右 昆陽 中山/左 西」、(右面)「左 大坂」/「大坂」の標記は江戸期の可能性/確認されている中では市内唯一の自然石道標 2 -
  西長洲町の尼崎藩境石 にしながす 尼崎市 <尼崎藩>(2丁目) 境界石 高88㎝,幅18㎝,厚17㎝ 元禄7(1694)   尼崎の道標を訪ね歩く 個人宅に移設/下半分埋没 (正面)「従是 尼﨑領」 5
写真 塚口本町の尼崎藩境石1 つかぐちほん 尼崎市 (2丁目)
清水町福祉会館・前
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高166㎝,幅21㎝,厚17㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  尼崎の道標を訪ね歩く 移設(塚口城清水町門前に建てられたとされる) (正面)「従是南 尼﨑領」、(右面)「従是南 尼﨑領」、(左面)「従是南 尼﨑領」/境界石 2
写真 塚口本町の尼崎藩境石2 つかぐちほん 尼崎市 (1丁目)<尼崎藩> 境界石 高187㎝,幅21㎝,厚18㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  尼崎の道標を訪ね歩く 移設(塚口城南町門前に建てられたとされる)→個人宅 (正面)「従是西北 尼﨑領」、(右面)「従是西北 尼﨑領」、(左面)「従是西北 尼﨑領」、(背面)「従是西北 尼﨑領」 4
  塚口本町の尼崎藩境石3 つかぐちほん 尼崎市 (1丁目)<尼崎藩> 境界石 高187㎝,幅21㎝,厚18㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  尼崎の道標を訪ね歩く 個人宅に移設 (正面)「従是西北 尼﨑領」、(右面)「従是北 尼﨑領」、(左面)「従是北 尼﨑領」 4
写真 西川の尼崎藩境石 にしかわ 尼崎市 (2丁目)西川八幡神社
<中国街道・尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高165㎝,幅19㎝,厚20㎝ 宝永8(1711)   尼崎の道標を訪ね歩く/WEB(神戸の道しるべ) 移設(旧西川村樋ノ口に建っていたものとされる) (正面)「従是北 佗領」、(右面)「従是西 佗領」、(左面)「従是東 尼﨑領」/西川村は西を旗本・青山知行地の次屋・浜両村、南を大和国小泉領の常光寺村、東を尼崎領神崎村に接していた 2
写真 髭の渡し・跡 ひげ 尼崎市・西宮市 <西国街道>/武庫川 渡し場   文政8(1825)以前   WEB(的形道標クラブ) 場所が特定 渇水期は徒行渡し、増水時は肩車か輦台渡し→文政8に渡船が許可 4
写真 髭の渡しの常夜灯 ひげ 尼崎市 <山陽道・武庫川> 石常夜灯   文政元(1818)   歴史の道2p139 移設(渡し場の河原にあった) 竿が角柱 2
写真 神崎町の金毘羅常夜灯
(金比羅さんの石常夜灯)
かんざきちょう 尼崎市 神崎川<神崎の津> 石常夜灯(舟運) 高3.21m 文化元(1804)   WEB 堤防改修に伴い移設 「金毘羅大權現」/宝珠、笠、火袋、中台、竿、台石がすべて円形断面 2
写真 下司の供養塔道標 くだし 淡路市 <淡路往還> 石道標 高153㎝ 文化6(1809)   市教委/歴史の道6p85 C製台座/近接移設? (正面)「(梵字)、右 いわやミち/左 志ゆんれい道」/側面に「光明真言百万遍西國供養」と陰刻 2
写真 久留麻(浦川)疎水のトンネル くるま
(うらがわ)
淡路市 <浦川> 素掘トンネル
(水路)
長364m 着工:安政3(1856)
→完成:明治5(1872)
  市教委 ほぼ素掘りのまま(底部にC製のU字溝を設置?) 企画:来馬村商人・森嘉四郎/来馬村は用水を溜池に頼っていたが水量が少なかったため、久留間の溜池に浦川から水路、トンネルにより導水する久留麻疎水が開削された/井水奉行の裁定による浦村との協議の結果、9月~3月のみ通水が許可されたとされる 2
写真 路谷池 ろだに 淡路市 浦川 溜池(土堰堤) 長約70m 文化11(1814)   市教委/WEB 昭和32に大規模改修/C護岸 企画:浦村庄屋・善見新兵衛、施工監督:井水奉行・八田吉之丞/ほぼ毎年水不足となっていた浦川の水量確保を目的とした溜池/浦村はほぼ浦川に用水を頼っていたため、水量不足を補う溜池を小田村路谷に計画した/現在も中心となった善見新兵衛の功績を称える祭りが行われている 3
写真 洲合池 すごう 淡路市   溜池(土堰堤) 堤長約30m 文政6(1823)以前   市教委 C護岸 久留麻を灌漑する溜池/水量が少なくなりやすかったため文政6(1823)にはこの池へ導水する用水路が開削された 3 -
写真 松帆台場(松尾台場)・跡 まつほ 淡路市 神戸製鋼・保養所
<阿波藩>
台場(半星形稜堡、石垣) (砲台部)長150m
(目隠し土塁)約250m,
80・60・24ポンド砲各4・3・5門,
29ポンド臼砲1門
文久元(1861) 国史跡 WEB/市教委 台場上に保養所施設を建造→立入には神戸製鋼の許可が必要/一部の石垣、火薬庫、弾薬置き場が残る→添付写真は発掘調査時のもの(現状はもう少し埋設) 4㎞の海峡を挟んだ舞子台場と対となって明石海峡を防衛する目的で築造された台場/三角形の突出部が2基並んだM字型/基礎に高約2mの切石積み、その上に粘土を傾斜約50度で土塁を持った構造/台場本体の東側に150mの目隠し土塁が続く/文久3に幕府旗を揚げずに台場に接近航行した幕府軍艦に対して砲撃、舵に着弾させている 4
写真 松尾湊(松帆湊)・跡 まつお 淡路市 <阿波藩> 軍事掘込港湾 北東長約43m,
南東長約41.5m,深約4m
着工:安政6(1859)
→工事中止:文久3(1863)
国史跡 市教委/WEB 普段は水が溜まり詳細が分かりにくい→添付写真は調査のために水位を下げた時のもの(現状ではただの池にしか見えない) 明石海峡の両岸に位置する松帆・舞子台場の射程外を航行する敵を迎撃する小型船を係留する港湾施設(全国的に見てきわめて珍しい)/松帆台場の後方南側の風化花崗岩を掘削し築造/船先端部の大砲積み下ろし用の凹状の岸壁2ヶ所、接岸用の階段状の岸壁が残る/発掘調査報告書(平成16)では開口部は西側とされるが、明治期の測量図では東側が開口しているため、詳細不明であるものの明治期に再び東側を開口し利用されたためとされる 4
写真 中野北の常夜灯1 なかのきた 伊丹市 (2丁目) 石常夜灯(道標兼) 高1.7m 弘化3(1846)   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設? (竿正面)「六甲山大權現」、(台石正面)「左/小/濱」、(台石右面)「右/大/坂」 1
写真 中野北の常夜灯2 なかのきた 伊丹市 (3丁目) 石常夜灯 高2.0m 慶応2(1866)   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設? (中台正面)「妙/見/宮」 2
写真 千僧の題目塔道標1
(北伊丹寛文9年銘道標)
せんぞ 伊丹市 (1丁目)伊丹市立博物館
<西国街道・池田伊丹道>
石道標 高79㎝,25㎝角 寛文9(1669) 市有形 市教委/WEB(神戸の道しるべ) 下部欠損/館内展示(もと、北伊丹) (正面右)「右 ひやうこ にしのミや」、(同左)「左 あまかさき いたみ」、
(同最下端)「道」/正面中央上部に「南無阿弥陀佛」と陰刻/17世紀の道標
3
写真 千僧の題目塔道標2
(荒牧延宝2年銘道標)
あらまき 伊丹市 (1丁目)伊丹市立博物館
<中山道>
石道標(駒型) 高91㎝,30㎝角 延宝2(1674)   絲海「市内の古式道標」/WEB(神戸の道しるべ) 館内展示(もと、荒牧) (正面右下)「右ハ たんばみち」、(同左下)「左ハ ゆの山みち」(=有馬温泉)/正面中央上部に「南無阿弥陀佛」と陰刻/17世紀の道標 3
写真 北伊丹の道標1 きたいたみ 伊丹市 (1丁目)
<西国街道・多田街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高127㎝,
18㎝角
元禄14(1701)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp22/WEB(神戸の道しるべ) 道路向かい側から近接移設 (正面)「従是 多田神社江 一里半」/下記「北伊丹の道標2」の近くに建つ 2
写真 松ケ丘の地蔵道標 まつがおか 伊丹市 (1丁目) 石道標(丸彫) 高170㎝ 宝暦3(1753)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp11 近接移設/瓦葺RC祠内 (台石正面)「右/行基菩薩道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫が載る 2
  東有岡の題目塔道標 ふなはし 伊丹市 (5丁目)社若寺墓地
<大坂道・尼崎道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高120㎝,幅24㎝,厚20㎝ 寛政5(1793)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp25 移設/中央で水平に折損→修復 (正面)「右 尼崎/左 大坂、道」/正面中央に「南無阿彌陀佛」と陰刻 1
写真 北伊丹の道標2(辻の碑) きたいたみ 伊丹市 (1丁目) 石道標(自然石) 高118㎝,幅77㎝,厚33㎝ 寛政10(1798)以前 市史跡 WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 摩耗、下部表面剥離によりほとんどの字が判読不能/平成7の兵庫県南部地震により下部で水平に折損、修復、平成9に覆屋を新たに建設 (正面中央上)「從東寺拾里」/『摂津名所図会』(1798)によると、その下に「距関戸 七里/距須磨 七里/距天王 七里/距大小路 七里」と陰刻されていたとされる/関戸、須磨、天王、大小路は摂津国の四方の国境であり、辻の碑は摂津国の中心が辻村である事を示していると考えられる 3
写真 大鹿の道標1 おおじか 伊丹市 (4丁目)妙宣寺・門前 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高101㎝,幅19㎝,厚13㎝ 文化8(1811)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp20/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「大覺大僧正杖竹古跡」、(右面)「古れより 壹町北」 2
写真 瑞穂町の地蔵道標 みずほ 伊丹市 (3丁目)瑞穂小学校 石道標
(駒型、凝灰岩)
高95㎝,幅22㎝,厚16㎝ 文化12(1815)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp17/WEB(神戸の道しるべ) 学校内に移設 (正面右)「右、いけ多/妙けん」(=池田、妙見山)、(同左)「左、東野/乃ざ登」(=野里)、(同下部)「道」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 3
写真 千僧の道標 せんぞ 伊丹市 伊丹市立博物館 石道標
(駒型、凝灰岩)
高57㎝,幅17㎝,厚12㎝ 文政12(1829)   WEB(神戸の道しるべ) 館内展示(もと、荒)/中央で折損 (正面)「春ぐ 京 池田/左 中山、道」 2 -
写真 寺本の道標 てらもと 伊丹市 (2丁目)昆陽寺墓地 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高117㎝(基部含む),幅14㎝角 天保2(1831)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp8/WEB(神戸の道しるべ) 墓地に移設/基部露出 (正面)「大師道」 3
写真 寺本の地蔵道標 てらもと 伊丹市 (3丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高91㎝,15㎝角 嘉永3(1850)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp10/WEB(神戸の道しるべ) 現位置 (正面像下)「左、池田/妙見、道」/正面頂部を長方形に浅く削り込み地蔵立像(?)を陽刻 1
  千僧の弁財天像道標 せんぞ 伊丹市 伊丹市立博物館 石道標(花崗岩) 高127㎝,23㎝角 江戸期   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp32 移設 (右面)「右 行基/左 伊丹 大坂、道」、(左面)「すぐ 中山 小濱 道」/正面頂部に弁財天像を浮彫/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 荒牧の地蔵道標 あらまき 伊丹市 (3丁目)<京伏見街道> 石道標(竜山石) 高77㎝,幅16㎝,厚11㎝ 江戸期   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp14/WEB(神戸の道しるべ) 現位置?/像容不明瞭 (正面像下)「左、伊丹/大坂、道」、(右面)「すぐ、池田/京、道」、(左面)「右 中山道」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 昆陽の道標 こや 伊丹市 稲野小学校・」前
<西国街道・有馬街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高105㎝,22㎝角 江戸期   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp4/WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「すぐ、中山/小濱」、(右面)「すぐ 西之宮」、(左面)「すぐ 京都」、(裏面)「すぐ、尼崎/大坂」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 大鹿の道標2 おおじか 伊丹市 (3丁目)
大鹿交流センター・前
<西国街道>
石道標(尖頭角柱) 高75㎝,幅22㎝,厚21㎝ 江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「すぐ 京」、(右面)「すぐ、中山/ありま」、(左面)「すぐ 大坂」、(裏面)「すぐ 西宮」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 金剛院の町石(十二丁) こんごう 伊丹市 (3丁目) 町石(五輪塔?)
(花崗岩)
高113㎝,幅25㎝,厚17㎝ 永正14(1517)   伊丹の道標をたずねて古道を歩くp28/WEB(的形道標クラブ) 笠塔婆の塔身のみ残る (正面最下部)「十二丁」/正面上部に「南無阿弥陀佛」と陰刻、その下に蓮華座を陰刻 3
写真 荒牧の尼崎藩境石1 あらまき 伊丹市 (3丁目)天日神社
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高187㎝,幅21㎝,厚20㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設(荒牧2丁目の荒牧村字畦道に建っていたとされる)(写真右) (正面)「従是東 尼﨑領」、(右面)「従是東 尼﨑領」、(左面)「従是東 尼﨑領」/下記「荒牧の尼崎藩領境石2」と並ぶ 2
写真 荒牧の尼崎藩境石2 あらまき 伊丹市 (3丁目)天日神社
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高200㎝,幅19㎝,厚21㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設(荒牧4丁目の荒牧村字堂ヶ本に建っていたとされる)/鉄柱で四隅を固定・補強(写真左) (正面)「従是西南 尼﨑領」、(右面)「従是西南 尼﨑領」、(左面)「従是西南 尼﨑領」/上記「荒牧の尼崎藩領境石1」と並ぶ 3
写真 千僧の尼崎藩境石 せんぞ 伊丹市 (4丁目)伊丹市立博物館
<尼崎藩>
境界石 高114㎝,幅19㎝,厚17㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く/WEB 収蔵庫内に保管(もと、鴻池村) (正面)「従是南 尼﨑領」、(右面)「従是南 尼﨑領」、(左面)「従是南 尼﨑領」 3
写真 猪名川の渡し・跡 いな 伊丹市 <西国街道>/猪名川 渡し場   江戸期   WEB(的形道標クラブ) 場所がだいたい特定されている程度   5 -
写真 昆陽池 こや 伊丹市 昆陽池公園  溜池(土堰堤) 東西約900m,
南北約550m
(築造当時)
→約50ha
天平13(741)   日本土木史探訪p36-37/ひょうご全史・上p274 昭和35に東側1/3を埋立、4.5haを貯水池化/公園整備 行基が築造した溜池の代表例の一つ(天平13に5つ築造された溜池のうち「昆陽上池」が現在の昆陽池にあたるとされる)/昆陽池陥没帯上に築造→東西に走る溝状の昆陽池陥没帯が上流側にあったため導水できなかった伊丹台地南部への灌漑、陥没帯の洪水防止、堤長の削減に成功/洪水防止・灌漑の多目的溜池としては最も古いとされる 4
写真 昆陽寺の閼伽井 こや、あかい 伊丹市   石井戸(組石)   天平9(737)   歴史の道2p146/現地調査 復元 疱瘡が流行し、行基自ら井戸を掘り、天竺無熱地の水を移し、病人の救護の水として与えたとされる/石の組み方と、丸味を帯びた加工が非常にユニーク 3
  来住町の道標1 きし 小野市 (船本) 石道標 高116㎝,幅24㎝,厚24㎝ 寛政8(1796)   市教委   「右 たきの □□□/左 □□□□ □□□  
  万勝寺町の道標1 まんしょうじ 小野市   石道標 高60㎝,幅20㎝,厚20㎝ 寛政11(1799)   市教委   (正面)「右 やしろ道/左 小の たる以」   -
  脇本町の道標 わきもと 小野市   石道標 高112㎝,幅55㎝,厚20㎝ 寛政12(1800)   市教委   「右 志やう/左 三木」  
写真 東本町の道標 ひがしほん 小野市 小野商店街  石道標(尖頭角柱) 高150㎝,幅30㎝,厚30㎝ 文化4(1807)   市教委(おのふるさとマップ4) 原位置?  (正面)「左、やしろ/きよ水へ 六り」、(右面)「右、志"やうどじへ 三十丁/大深山へ 二り半」 1
写真 浄谷町の道標1 きよたに 小野市 南池・湖畔 石道標(尖頭角柱) 高90㎝,幅33㎝ 文化7(1810)   市教委/現地解説板 近接移設/刻字の摩耗大 (正面)「右 浄土寺、万勝寺/脇川」、(左面)「左 きよ水、やしろ/たん者"/東条」(=丹波)、(右面)「左 あ可志、三木/須磨/高砂 小在家」(=明石)、(裏面)「右 村道」 2
  樫山町の道標1 かしやま 小野市   石道標 高72㎝,幅23㎝,厚22㎝ 文化9(1812)   市教委 200m南に移設 (正面)「右 あかし」、(左面)「左 ひやうこ」   -
写真 浄谷町の道標2 きよたに 小野市   石道標(尖頭角柱) 高150㎝(うち、台石9㎝),幅29.5㎝,厚29.5㎝ 文化10(1813)   市教委/WEB(的形道標クラブ) 移設? (正面)「右 法花山、(同下部)「あを/本う志"やう/飛めじ」、(左面)「左 明石]、(同下部)「を能/た可さご/みき」 2
  池尻町の道標 いけじり 小野市 <丹波道> 石道標 高81㎝,幅24㎝,厚24㎝ 文化13(1816)   市教委 原位置? (正面)「右 むら/左 やしろ □□□ 1
  樫山町の道標2 かしやま 小野市 樫山駅前 石道標 高75㎝,幅24㎝,厚24㎝ 文政6(1823)   市教委   (正面)「右 清水 の 北条 やしろ」、(左面)「左 むら道」   -
写真 西脇町の供養塔道標 にしわき 小野市   石道標   文政6(1823)   WEB(的形道標クラブ) 原位置?/下部埋設 (右面)「右 法花山 ひめ…」、(左面)「左 細工所 そ…」/正面に「四國供養」と陰刻 1 -
  市場町の道標1 いちば 小野市 (野入) 石道標(尖頭角柱) 高120㎝,幅23㎝,厚23㎝ 文政8(1825)   市教委   (正面)「南 左 法花山 ひめし 北条 来住/北 すく大坂 ひゃうこ 阿かし 三木」、(右面)「西」、(左面)「東 右 清水 たきの/やしろ 小野」  
  浄谷町の道標3 きよたに 小野市 浄土寺 石道標 高125㎝,
幅27.5㎝,
厚23.5㎝
文政12(1829)   市教委 原位置? (正面)「(梵字)、右 新四國大師道/左 万勝寺 吉川道」/「新四国大師道」は浄土寺裏山に四国遍路道を模して文化~文政年間(1804-30)に築かれた巡礼道であり、浄土寺境内東北から万勝寺への道が続いていたとされるため、原位置にあると考えられる 1
  万勝寺町の道標2 まんしょうじ 小野市   石道標 高140㎝,幅28㎝,厚28㎝ 天保3(1832)   市教委   (正面)「左 吉川 大坂/□□」、(右面)「右 万勝寺 三木 明石/右 よかわ」  
写真 黒川町の道標 くろかわ 小野市   石道標(蒲鉾型)   天保13(1842)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 小 たる以/左 三木 あ可し」 1 -
  来住町の道標2 きし 小野市 (船本) 石道標 高98㎝,幅23㎝,厚20㎝ 弘化3(1846)   市教委   (正面)「右 じけ 高砂/左 三木 ひゃうご」  
  小田町の道標1 おだ 小野市   石道標 高70㎝,幅20㎝,厚20㎝ 慶応3(1867)   市教委 小田町の道標2から400m離れた場所に建つ (正面)「左、脇川 山大師/三木 吉川、道」、(右面)「右 むら道」   -
  小田町の道標2 おだ 小野市   石道標 高60㎝,幅20㎝,厚20㎝ 慶応3(1867)   市教委 小田町の道標1から400m離れた場所に建つ (正面)「左、脇川大師/三木 吉川、道」、(右面)「右 まん志うじ」   -
  中島町の道標 なかしま 小野市 中島町大歳神社 石道標 高94㎝,幅24㎝,厚24㎝ 慶応2(1866)   市教委 移設 (正面)「すぐ あを 北条 法花」、(右面)「すぐ 浄土寺 吉川 大坂」、(左面)「すぐ たきの 水」、(裏面)「すぐ 小野 高砂 明石」 2
  市場町の道標2 いちば 小野市 (寺脇) 石道標 高81㎝,幅24㎝,厚24㎝ 文化6(1869)   WEB(神戸の道しるべ)/市教委 下部埋没 (正面)「左 髙砂、包/北/加古川」、(左面)「左 大坂、三木/大山寺/明石」 2
写真 浄谷町の道標4 きよたに 小野市 浄谷町公民館・前 石道標(尖頭角柱) 高110㎝,幅33㎝ 江戸期   現地解説板 原位置?  (正面)「すぐ 浄土寺、江 三丁」、(右面)「すぐ 清水、や登村/登う原/や志ろ/た起の」、(左面)「すぐ 高砂、小野/三木/小在家/明石」、
(裏面)「すぐ 姫路、あ於/むろ/ほう条/たじ満」
1
写真 市場の加古川開削路 いちば 小野市 (黍田町)加古川 舟通し   文禄3(1594)   市教委(小野市史p508-514)/WEB 流紋岩を破砕した遺構がはっきりと残る 企画:秀吉の一族の木下家定の奉行・生駒玄藩、施工:滝野村の大庄屋阿江家の養子・与助(阿江家の財力)→代わりに加古川舟運の独占権を得た/滝野~高砂の区間を通航可能にした戦国末期の加古川開削の代表的遺構(加古川最大の難所・闘竜灘の開削は明治6になるまで不可能だった) 2 写真
写真 大門の河岸・跡 だいもん 小野市・加東市 (大門橋下流)加古川 河岸   文禄3(1594)   WEB   阿江与助(上記参照)による加古川開削で誕生した代表的な河岸 3
写真 南池分水 みなみ 小野市   水量調整用の置き石 置き石間隔:
黒川22.0㎝,
浄谷南郷32.5㎝,
中島16.7㎝,
浄谷北郷33.2㎝
安政2(1855)以前   市教委(おのふるさとマップ4)/WEB(小野市HP) 置き石が残る(江戸期?)/水路はC改修 南池から流れる水を浄谷、黒川、中島町へ正確な水量比で分水するための施設/現在も安政2の古文書と同じ間隔で置き石が置かれており、この比は各地域のかつての水田面積比とほぼ一致するとされる/この比に従って各地域が池の維持管理費を負担/流速が速いと中央の水路の流量が多くなってしまうため、毎年田植えの前に3町の代表者が杭と竹の流速緩衝施設を更新し、流量が適正か確認する「ゴウ定め」が行われている 4
写真 にごり池   小野市   溜池(土堰堤)? 堤長30m 建永元(1206)以前?   市教委(おのふるさとマップ4)/WEB(小野市HP) C護岸化? 西に広がる原田野は重源(1121-1206)が開墾した鹿野ケ原だとされ、開墾に使用した鍬、鋤をにごり池で洗ったため、濁るようになったとの伝説が残る 4
  浄谷北池 きよたにきた 小野市   溜池(土堰堤) 堤長160m 鎌倉期   WEB(農林水産省)   隣接する浄土寺の三尊像が夕陽と北池の水に反射した光に包まれる景観が観光利用に繋がっているとされる  
  鶴池 つる 小野市   溜池(土堰堤) 堤長190m 文政11(1828)   WEB C護岸 企画:加古川舟運の豪商・近藤亀蔵/地域の水不足解消のため近藤亀蔵の私財で築造された溜池/山田川上流から亀池、鶴池の順に並んでいる/畔には天保14(1843)の近藤亀蔵顕彰碑も残る 4
  亀池 かめ 小野市   溜池(土堰堤) 堤長85m 文政11(1828)   WEB C護岸 「鶴池」参照 4 -
写真 南池 みなみ 小野市   溜池(土堰堤) 堤長240m 安政2(1855)以前     C護岸   3
写真 志方町横大路の地蔵道標 しかた、
よこおおじ
加古川市   石道標(舟型) 高29㎝(台石) 享保14(1729)?   WEB(神戸の道しるべ) 瓦葺の木祠内 (台石正面右端)「右 法花山 一り半」、(同左端)「左 石の本うでん/十八丁」/台石上に光背付の地蔵○像(蓮台)を載せる/『加古川の道標を訪ねて』には、台石の制作は地蔵より後であろうと書いてあるが、根拠不明(市内最古の道標を、下記の「八幡町中西条の道標」としているためか?)→ここでは、写真判定により同時代とみなす 2
写真 八幡町中西条の道標 やはた、なかさいじょう 加古川市 中西条集落の中ほどの四辻  石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高74㎝,幅23㎝,厚22㎝ 安永2(1773)   加古川の道標を訪ねてp24/WEB(神戸の道しるべ) 近接移設? (正面)「左、三木 やしろ/ありま、道」、(左面)「右、加古川 高砂/北在家、道」 2
写真 尾上町長田の道標 おのえ、
ながた
加古川市 尾上神社・北門前
<浜街道>
石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高152㎝,幅23㎝,厚24㎝ 安永7(1778)   加古川の道標を訪ねてp12/WEB(的形道標クラブ) 原位置/下部埋没/中央で水平に折損→修復 (正面)「右 石の本うでんへ 一り半」、(右面)「往古之立石ハ弐十間北ニ有」/左面に「高砂尾上社、相生能松并/可年あり」(相生の松、鐘)と陰刻 2
写真 別府町元町の道標1 べふ、もと 加古川市 <浜街道> 石道標(花崗岩) 高68.5㎝,幅23.5㎝,厚21.5㎝ 寛政元(1789)   加古川の道標を訪ねてp15/WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面)「右、おのへ/た可砂、道」、(右面)「左、あ可し/大坂、道」 1
写真 志方町細工所の道標1 しかた、
さいくじょ
加古川市 細工所・西  石道標
(駒型、凝灰岩)
高83.5㎝,幅21㎝,厚14㎝ 寛政11(1799)   加古川の道標を訪ねてp39 原位置 (正面)「右 ほつけ山/左 ひろミね」 1
写真 志方町西中の道標 しかた、
にしなか
加古川市   石道標 高69㎝,14㎝角 享和元(1801)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「左 長樂寺」、(右面)「右 法花山」 2 -
写真 志方町西飯坂の道標 しかた、
にしいいざか
加古川市 天満宮参道・脇
<北条街道>
石道標(凝灰岩) 高67㎝,幅16㎝,厚17.5㎝ 文化2(1805)   加古川の道標を訪ねてp41/WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面)「左 ほつけ山」、(同・最下部左端に小さく)「是より 三十六丁」、
(左面)「右 めい志よみち」、(同・最下部左端に小さく)「并ニ かこ川」
1 -
写真 平岡町新在家の道標1 ひらおか、
しんざいけ
加古川市 市立総合文化センター 石道標
(駒型、凝灰岩)
高100㎝,幅24.5㎝,厚15.5㎝ 文化9(1812)   加古川の道標を訪ねてp19 総合文化センター収蔵庫で保管
(もと、加古川町河原)
(正面)「左、高砂/刀田山/寺家 北在家、道」、(右面)「右 加古川王多し」(=渡し) 3
写真 平岡町新在家の道標2 ひらおか、
しんざいけ
加古川市 市立総合文化センター 石道標(凝灰岩) 高93㎝,幅23㎝,厚15㎝ 文政3(1820)   加古川の道標を訪ねてp20 総合文化センター収蔵庫で保管 (正面)「是より、刀田山 於能へ/高砂 北在家、道」 3
写真 志方町畑の道標 しかた、はた 加古川市 <西国三十三所巡礼道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高220㎝(うち、台石40㎝),46㎝角 文政4(1821)   加古川の道標を訪ねてp44/歴史の道1p166 原位置 (正面)「直 法華山道」、(右面)「すく たしま道」、(左面中央)「すく めい志よ道」、(同左下に小さく)「かこ川 大坂」、(裏面)「直 書寫山 道」、(同右端に小さく)「すく 志よしやさん」(→この部分、振り仮名)、(同左下に小さく)「ひめち」 1
写真 加古川町中津の道標 かこがわ、
なかつ
加古川市 中津常夜灯・前 石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高76㎝,幅23㎝,厚12㎝ 文政6(1823)   加古川の道標を訪ねてp9/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「右 加古新田/左 國可ね 三木、道」 1 -
写真 神野町西条の道標 かんの、
さいじょう
加古川市 西条会館  石道標(凝灰岩) 高72㎝,幅21.5㎝,厚21㎝ 文政8(1825)   加古川の道標を訪ねてp24 原位置 (正面)「左、加古川 高砂/北在家 於のえ、道」、(左面)「右、三木 阿里ま/國包 小野社、道」 1
写真 上荘町井ノ口の聖観音像道標 かみそう、
いのくち
加古川市 常楽寺・門前 石道標(凝灰岩) 高150㎝,幅27㎝,厚22㎝ 文政8(1825)   加古川の道標を訪ねてp29 移設(もと、国包渡し場河川敷) (正面像下)西國三十三所霊場、日光山江/是ヨリ五丁」/正面上部を長方形に削り込み、聖観音坐像と蓮台を陽刻/道標頂部がくびれたような形状 2
写真 加古川町大野の道標1 かこがわ、
おおの
加古川市 日岡公園・南  石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高84㎝,幅22㎝,厚19㎝ 文政10(1827)   加古川の道標を訪ねてp10/WEB(的形道標クラブ) 台石がなくC舗装にC接合→移設 (正面)「右 大野 御みや/左 高砂 加古川、道」、(右面)「す久" 北在家道」、(左面)「すく 國加ね 三木道」(=国包)、(裏面)「すく 加古新田道」 2
写真 平岡町一色の地蔵道標 ひらおか、
いしき
加古川市 一色公会堂・前 石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高95㎝,幅24㎝,厚19㎝ 文政11(1828)   加古川の道標を訪ねてp19/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面像下)「右 の口 加古川/左 本庄 二見、道」、(右面)「右 遍"ふミち」(=別府)/正面頂部を蒲鉾型に削り込み地蔵半跏坐像を陽刻 2
写真 神野町福留の地蔵道標 かんの、
ふくどめ
加古川市 福留三叉路  石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高70㎝,幅18.5㎝,厚11.5㎝ 天保10(1839)   加古川の道標を訪ねてp22/WEB(的形道標クラブ) 基部露出→移設 (正面像下)「右 加古新田/左 國可年 みき、道」(=国包)/正面頂部を丸味を帯びた矩形に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻 2
写真 神野町石守の道標1 かんの、
いしもり
加古川市   石道標
(駒型、凝灰岩)
高104㎝,幅20㎝,厚11.5㎝ 弘化3(1846)   加古川の道標を訪ねてp21 下部埋設 (正面)「右 さと王し/左 大の 御みや、みち」、(右面)「すく 仁志谷道」  
写真 東神吉町神吉の道標 ひがしかんき、かんき 加古川市 東神吉町交差点・東
<北条街道>
石道標 高116㎝,24㎝角 嘉永2(1849)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 基部C舗装(近接移設?) (正面)「右 法花山 北条」、(右面)「右、高砂 相生松/左 加古川 北在家、道」 2
写真 八幡町宗佐の地蔵道標 やはた、
そうさ
加古川市 常観寺・参道 石道標
(駒型、凝灰岩)
高75㎝,幅28㎝,厚16㎝ 嘉永2(1849)   加古川の道標を訪ねてp26/WEB(神戸の道しるべ) 移設/像容不明瞭 (正面像下)「右 飛めち/左 た可さ…」(=姫路、高砂)/正面頂部を駒型に削り込み地蔵坐像を陽刻」 2
写真 志方町志方町の道標 しかた、
しかた
加古川市 皿池交差点・付近
<北条街道>
石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高94㎝,幅23㎝,厚21.5㎝ 嘉永5(1852)   加古川の道標を訪ねてp41/WEB(神戸の道しるべ) 原位置/表面の磨耗が進行 (正面)「右 飛免ち ひろミ年/左 石のほうでん そねのまつ」、(右面)「左 三木 り満」、(左面)「右 法花山」 2
写真 志方町細工所の道標2 しかた、
さいくじょ
加古川市 細工所北交差点・北東角
<北条街道>
石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高86㎝,16.5㎝角 嘉永5(1852)   加古川の道標を訪ねてp38/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面上部)「す・く、北条 た志゛ま」、(右面)「東 ありま 三木」、(左面)
「西 ひめじ ひみね」、(裏面)「す・く、高砂 加こ川」/「すく」は扇形に削り込んで刻字されている
1
写真 上荘町都染の道標 かみそう、
つぞめ
加古川市 上荘小学校 石道標(凝灰岩) 高82㎝,20㎝角 嘉永5(1852)   加古川の道標を訪ねてp28/WEB(神戸の道しるべ) 小学校内に移設 (正面右)「右 田者ら 北条」、(同左)「左、志か多/法華山、姫路」、(同最下部)「道」、(左面)「東 三木ありま道」 3
  別府町本町の道標1 べふ、ほん 加古川市 (2丁目)<浜街道・浜宮天神社参道入口> 石道標(凝灰岩) 高167㎝,幅36㎝,厚35.5㎝ 嘉永7(1854)   加古川の道標を訪ねてp16 移設→個人宅(もと、別府町新野辺) (右面)「右 濱能宮 尾上 高砂道」、(左面)「すぐ 手満くら能ま津」(=手枕の松)/正面に「當所 頭司中」と陰刻 5
写真 神野町石守の道標2 かんの、
いしもり
加古川市   石道標(自然石、凝灰岩) 高93㎝,幅33.5㎝,厚21㎝ 安政4(1857)   加古川の道標を訪ねてp21 原位置 (正面)「右 國可祢 小野/すぐ 里渡し 法花山/左 日向社 加古川」 1
  加古川町大野の道標2 かこがわ、
おおの
加古川市 加古川刑務所 石道標(凝灰岩) 高88.5㎝,幅24.5㎝,厚24㎝ 安政4(1857)   加古川の道標を訪ねてp10/WEB(的形道標クラブ) 移設(刑務所内) (正面)「南、左 石守 加古新田/右 西谷」、(右面)「東 国可称 小野」
(=国包)、(左面)「西 日向社 加古川」、(裏面)「北 里渡し 法花山」
4
写真 志方町永室の道標 しかた、
ながむろ
加古川市 <北条街道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高66㎝,18㎝角 安政4(1857)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/中央で斜めに亀裂 (正面)「右 谷ぢぞう」(「谷」は小さく右に刻字)、(右面)「すぐ ひめぢ」、
(左面)「春ぐ、おの/いち者"」(=すぐ、市場)
1 -
写真 東神吉町天下原の道標 ひがしかんき、あまがはら 加古川市 少年自然の家 石道標(蒲鉾型) 高59㎝,幅21㎝,厚15㎝ 安政4(1857)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「すく、ほう条/法花山」、(裏面)「右 中山 加古川/加げ山 國包」 2 -
写真 尾上町安田の道標 おのえ、
やすた
加古川市 十五社大神・前 石道標(凝灰岩) 高117㎝,27㎝角 安政7(1860)   加古川の道標を訪ねてp11/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「右 久ちりい奈り 別府/左 すく ふたこ、道」(=口里稲荷)、
(右面)「左、たうたさん/きたざいけ、道」
1
写真 八幡町野村の大師道標 やはた、
のむら
加古川市 厄除八幡神社・参道の常夜燈・前  石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
  万延元(1860)   WEB(的形道標クラブ) C基礎→移設 (正面像下)「右 二見 別府/左 明石 神出、道」/正面頂部を隅丸矩形に削り込み弘法大師坐像を陽刻 2
写真 平岡町新在家の道標3 ひらおか、
しんざいけ
加古川市 市立総合文化センター 石道標(凝灰岩) 高97㎝,幅24.5㎝,厚11.5㎝ 文久2(1862)   加古川の道標を訪ねてp19 総合文化センター収蔵庫で保管
(もと、加古川町河原)
(正面)「右 日向社/左 三木 ありま、道」 3
写真 上荘町井ノ口の道標 かみそう、
いのくち
加古川市 上之庄神社・南  石道標(凝灰岩) 高87㎝,幅21.5㎝,厚19.5㎝ 文久3(1863)   加古川の道標を訪ねてp28 原位置 (正面)「東、國包 三木/阿里ま、道」、(左面)「西 田原 北条道」 1
写真 東神吉町神吉の地蔵道標 ひがしかんき、かんき 加古川市 神吉公会堂・付近
<北条街道>
石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
高55㎝,幅16㎝,厚13㎝ 江戸期(延享3 or 文化3 or 慶応2)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/像容不明瞭 (正面像下)「左、大/国包」/正面頂部に地蔵坐像の陽刻/右面に「丙寅十二月」→可能性のあるのは延享3(1746)、文化3(1806)、慶応2(1866)の何れか 1 -
写真 平岡町新在家の道標4 ひらおか、
しんざいけ
加古川市 市立総合文化センター 石道標 高190㎝,30㎝角 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設→保管 (正面)「右 京 江戸」、(左面)「左 日向社、國可祢/三木/阿りま、道」/「江戸」の標記は江戸/遠方の「江戸」が記されている稀な例 3
写真 別府町元町の道標2 べふ、もと 加古川市 別府町民会館・前
<浜街道>
石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
高174㎝,幅24㎝,厚175㎝ 江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「右 田まく良の松 明石 大坂…」(=手枕の松)/「大坂」の標記は江戸期の可能性 1
写真 別府町東町の道標1 べふ、ひがし 加古川市   石道標(駒型) 高135㎝,
幅21㎝,厚16㎝
江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「すぐ 明石 大坂道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 1
写真 別府町東町の道標2 べふ、ひがし 加古川市 <浜街道> 石道標(駒型) 高95㎝,
幅19.5㎝,厚13㎝
江戸期   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「右 たまく良の松」(=手枕の松)、(右面)[左 おのへ 高砂ミち」(=尾上)/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1
写真 別府町西脇の道標 べふ、
にしわき
加古川市 (3丁目)歓福寺・門前 石道標
(駒型、凝灰岩)
高128㎝,幅32.5㎝,厚17.5㎝ 江戸期   加古川の道標を訪ねてp16 道路工事の際に埋設→掘り出し、移設 (正面)「左、尾上/高砂、手枕松道」、(裏面)[すぐ 明石 大坂道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 別府町本町の道標2 べふ、ほん 加古川市 (1丁目)<浜街道> 石道標(凝灰岩) 高155㎝,
幅29㎝,厚30㎝
江戸期   加古川の道標を訪ねてp16/WEB(神戸の道しるべ) 移設→私有地(道路沿い)/常夜灯の上部欠損 (正面)「右 本庄/あ可し/左 西谷」、(同最下部)「ミち」/右面に「□□霊符常夜燈」と陰刻されているため、常夜灯の竿だけ残ったと考えられる/「ミち」の標記は江戸期の可能性 3
写真 加古川町平野の地蔵道標 かこがわ、
ひらの
加古川市 龍泉寺歴代住職墓地  石道標(凝灰岩) 高71㎝,幅21㎝,厚14.5㎝ 江戸期   加古川の道標を訪ねてp11/WEB(神戸の道しるべ) 移設・集約(墓地内)/下部埋没 (正面像下)「左、刀た山 お能…/高砂ミち」(=尾上)/正面頂部に梵字を陰刻、その下に地蔵坐像を陽刻/室町時代の石仏に江戸後期になって道しるべを追刻した可能性が指摘されている 3
写真 平荘町西山の道標 へいそう、
にしやま
加古川市   石道標   江戸期?   WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面)「右 をふのかこ川/左 志者"王多し」(=大野加古川、しば渡し)/渡し場への道標/江戸期建立の根拠はないが渡し場道標なので掲載 1 -
写真 常楽寺の町石(一丁) じょうらく 加古川市   町石
(五輪塔、凝灰岩)
高95㎝,20㎝角 永徳2(1382)   WEB 阿弥陀坐像背後に円光・舟型光、下部に蓮華座を墨描/他の石造物と共に移設集約 (正面像下部)「自 日光寺 一丁」/中央に阿弥陀如来坐像を半肉彫 3
写真 高御位山の町石(十八丁) たかみくらやま 加古川市 志方町成井、登山口の常夜灯・脇 町石 高74㎝,29㎝角 安政2(1855)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「是ヨリ 十八丁」(山頂が一丁) 1 -
写真 志方町畑の石橋供養塔 しかた、はた 加古川市   石樋(蒲鉾型、道標兼、凝灰岩) 高105㎝,幅23.5㎝,厚15.5㎝ 文化9(1812)   加古川の道標を訪ねてp45/WEB(神戸の道しるべ) 簡易祠内に移設 (正面像下中央)「奉石橋供羪」、(同右)「本つけさんみち」、(同左)「是より 十八丁」/正面頂部を円形に削り込んで地蔵坐像(蓮台)を陽刻/関西圏で石橋供養塔は非常に稀 2
写真 国包渡し・跡 くにかね 加古川市 <有馬街道>/加古川 渡し場   元禄以前(江戸初期)   WEB(的形道標クラブ)/現地解説板 往時を思わせるものは何も残っていない 有馬街道の渡し場と加古川舟運の船着場を兼ねていた/元文2(1737)の村明細帳によれば、大工・桶屋・医師・木挽・紺屋・材木屋・旅篭・川船宿などが軒を連ね賑わいを見せていた 4
  駅ヶ池 うまやがいけ 加古川市   溜池(土堰堤) 約12ha 承和3(836)   WEB   教信上人により築造されたとされる溜池/賀古駅が周辺にあったと考えられており、名称はそれに由来すると推定される 2
  寺田池
てらだいけ 加古川市 曇川 溜池(土堰堤) 堤長519m,堤高5.7m 寛平5(893)   WEB(寺田池協議会) 堤体を大きく改修 加古川市最大の溜池/江戸期には上流の新田開発により水量が不足し、曇川から導水するための寺田用水が開削された 3
  五ヶ井堰 ごかい 加古川市 加古川(左岸) 用水路 総延長約73㎞,
灌漑面積743ha→400ha
室町~戦国期   WEB(ひろかずのブログ)/兵庫のため池史p123-124 C改修 非常に分岐が多い事から総延長は73㎞にも達するとされる用水路/明暦3(1657)以前の記録はないものの、暴れ川である加古川からの導水技術、灌漑地域の郷村制解体前と考えられる→名称から、室町~戦国期の築造と推定される(由来:北条之郷、加古之庄、岸南之庄、長田之庄、今福之庄の5地域) 3
  新井用水 しんい 加古川市・(加古)播磨町 加古川・五ヶ井堰 用水路 総延長13.7㎞ 明暦2(1657)   WEB(ひろかずのブログ)/兵庫のため池史p128-133/播磨町教委 C改修 計画:古宮村庄屋・今里伝兵衛/五ヶ井堰で取水した水を直後に分流する形で造られた用水路/五ヶ井堰灌漑地域に隣接する野口台地で干ばつが頻発してたため、築造された/渇水時は五ヶ井堰への導水を優先する条件で導水していたため、溜池を多く併用したとされる/由来:新しい五ヶ井堰 3
  寺田用水 てらだ 加古川市・(加古)稲美町 曇川→寺田池 用水路 総延長約2.5㎞ 寛文3(1663)→
寛文12(1672)に高畑分水を設置
  WEB(ひろかずのブログ) ほぼC改修? 寺田池に曇川から導水するための用水路/寺田池水源地帯に幸竹新田などの溜池が開発されたため寺田池の水量が不足した事により築造/曇川郷との取り決めにより5月2日~6月23日のみ取水 4
写真 北条町北条の常夜灯 ほうじょう、
ほうじょう
加西市 神明神社・対岸 石常夜灯   寛政12(1800)   WEB(宮様の石橋) 原位置? 石基壇なし 1
写真 中西町の太神宮常夜灯 なかにし 加西市   石常夜灯 約6m 文政12(1829)   鈴木欣也 原位置(南側が街道筋) (竿正面)「伊/勢、太神宮」/石基壇あり 1
写真 上野町の太神宮常夜灯 うえの 加西市 石部神社・参道入口 石常夜灯 約5m 天保2(1831)   鈴木欣也 原位置? (竿正面)「太神宮」、(最上段台石正面)「於か希」、(2段目台石正面)
「當村中」/石基壇なし
1
写真 北条町北条の太神宮常夜灯 ほうじょう、
ほうじょう
加西市 神明神社・横 石常夜灯 約5m 江戸末期~明治中期   WEB(宮様の石橋)
/鈴木欣也
原位置? (竿正面)「伊/勢、兩皇太神宮」、(竿右面)「五穀成就」、(竿左面)「永代常夜燈」、(竿裏面)「天下泰平」/笠の4面に唐破風/竿石と猫脚と間に4面に浮彫りを入れた飾り石/石基壇あり/建立年が記されていない→台石一面に書かれた邑名から江戸末期~明治22(町村制施行)と考えられる 1
写真 北条町横尾の題目塔道標 ほうじょう、
よこお
加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高65㎝,幅25㎝,厚16㎝ 享保13(1728)   加西の道標p26/WEB(的形道標クラブ) 移設、集約 (正面下部)「右 やしろ/左 明らくじ、道」/正面上部に「無縁塔」と陰刻 3 -
  坂元町の地蔵道標 さかもと 加西市   石道標
(丸彫、凝灰岩)
高110㎝,幅22㎝,厚21.5㎝ 寛延4(1751)   加西の道標p39 原位置? (右面)「右ハ ひめじ」、(左面)「左ハ かこ河道」/台石上に地蔵立像の丸彫りが載る/建立:坂本村念仏講中 1
写真 坂本町の地蔵道標 さかもと 加西市 一乗寺・門前 石道標
(丸彫、凝灰岩)
高150㎝,幅39㎝,厚39㎝ 明和2(1765)   加西の道標p84 保存状態良好 (正面)「右 志よしや道」/2段の台石上に地蔵坐像(手に蓮の実、蓮台)の丸彫が載る(全体の規模の割に地蔵像が小さい) 1
写真 坂本町の道標 さかもと 加西市 <西国三十三所巡礼道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高116㎝,幅25㎝,厚23㎝ 安永5(1776)   加西の道標p80 保存状態良好 (正面)「右 浄土寺江 三里」、(左面)「左 きよ水江 八里」 1
写真 三口町の道標 みくち 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高50㎝,幅23.5㎝,厚16㎝ 安永10(1781)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 か古川/左 浄土寺」 1 -
写真 西笠原町の地蔵道標 にしかさはら 加西市   石道標(凝灰岩) 高87㎝,幅24㎝,厚21㎝ 寛政9(1797)   加西の道標p76 近接移設? (正面像下)「右 加古川/左 三木、道」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
  三口町の地蔵道標 みくち 加西市   石道標(凝灰岩) 高50㎝,幅23.5㎝,厚16㎝ 寛政12(1800)   加西の道標p80 下部埋没 (正面像下)「右 浄土寺/左 北条」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 2 -
  上道山町の道標 かみみちやま 加西市   石道標(凝灰岩) 高62㎝,幅24㎝,厚15㎝ 文化2(1805)   加西の道標p144 原位置? (正面)「右 北条 ひめじ/左 ふけ やしろ」 1 -
写真 鶉野町の道標1 うずらの 加西市   石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高117㎝,幅29㎝,厚25㎝ 文化3(1806)   加西の道標p105 原位置?/下部若干C埋設 (正面)「右 ほつけ山」、(同最下部)「ひ/め/じ」、(右面)「左 きよ水」、(左面)「左、そね/高砂、道」 1
  別府町の道標 べふ 加西市   石道標(凝灰岩) 高84㎝,26.5㎝角 文化12(1815)   加西の道標p109 倒立 (正面)「右 ふけ」/右面に「西國供養」と陰刻 3
  網引町の地蔵道標 あびき 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高92.5㎝,幅25㎝,厚22.5㎝ 文化14(1817)   加西の道標p96 原位置? (正面像下)「右 きしの みき/左 あ を 志うど寺」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 1
  油谷町の地蔵道標1 ゆだに 加西市   石道標(凝灰岩) 高60㎝,幅24㎝,厚18㎝ 文政5(1822)   加西の道標p132 原位置? (正面像下)「右 □□□/左 たきの」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻 1
  北条町栗田の地蔵道標 ほうじょう、
くりだ
加西市   石道標(凝灰岩) 高68㎝,25㎝角 文政10(1827)   加西の道標p25 原位置? (正面像下)「右 小谷 辻川/左 ほうぢよう」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 1
写真 西横田町の供養塔道標 にしよこた 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高70㎝,幅19㎝,厚13.5㎝ 文政13(1830)   加西の道標p51/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面右)「右 法花山」、(同左)「左 やしろ 大坂」/正面中央に「奉順拝四國西國供養塔」と陰刻 1 -
  油谷町の地蔵道標2 ゆだに 加西市   石道標(凝灰岩) 高50㎝,幅18㎝,厚12.5㎝ 文政13(1830)   加西の道標p132 原位置? (正面)「右 たきの/左 おくさん」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 1 -
写真 田原町の地蔵道標 たはら 加西市   石道標(凝灰岩) 高89㎝,幅20㎝,厚17.5㎝ 天保4(1833)   加西の道標p94/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「右 ほうぢやう 但馬/左 ほつけ山 姫路」/正面頂部を光背型に浅く削り、地蔵坐像を陽刻 1
写真 三口町の廻国塔道標 みくち 加西市   石道標(凝灰岩) 高75㎝,24.5㎝角 天保4(1833)   加西の道標p78 原位置?/下部埋設 (左面)「右 きよみず/左 ひめじ」/正面に「奉納、四國/西國/女父/坂東、百八十八所 当村行者」と陰刻 2
  鶉野町の道標2 うずらの 加西市   石道標(凝灰岩) 高118㎝,24㎝角 天保5(1834)   加西の道標p105 私有地内?/裏面に「なつかしの思い出深き道しるべ 鶉野町より購入」と追刻  (正面)「右 ほつけ山 ひめじ たかさご/左 たわら」、(右面)「左 きよみ川、京/たんご」 3
写真 北条町横尾の道標 ほうじょう、
よこお
加西市   石道標(凝灰岩) 高86㎝,幅28㎝,厚20.5㎝ 天保7(1836)   加西の道標p27/WEB(的形道標クラブ) 移設、集約/下部斜めに折損→修復、下部一部埋設 (正面)「右 やしろ 大坂 京/左 明ら久じ たん…」 3
  中富町の道標 なかとみ 加西市   石道標(凝灰岩) 高174㎝,幅18㎝,厚14㎝ 天保11(1840)   加西の道標p149 原位置? (正面)「右 はん昌 三木/左 つそめ やしろ」 1
写真 福居町の地蔵道標 ふくい 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高50㎝,幅18.5㎝,厚11.5㎝ 天保11(1840)   加西の道標p40/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下右)「南 ほつけ」、(同左)「東 たん者"」/正面頂部を円形に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻、その下に「蓮空童女」と陰刻 1 -
  朝妻町の道標 あさづま 加西市   石道標(凝灰岩) 高123㎝,29.5㎝角 天保14(1843)   加西の道標p115 原位置? (正面)「左 京 大阪、やしろ/べふ」、(右面)「右、ひようご み/あかし んじ□□ 1
  西谷町の地蔵道標 にしたに 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高55㎝,幅18.5㎝,厚12.5㎝ 天保14(1843)   加西の道標p36 原位置? (正面像下)「右 若井乃山/左 やまみち」/正面上部を削り込み地蔵坐像を陽刻 1 -
  常吉町の道標 つねよし 加西市   石道標(凝灰岩) 高65㎝,幅25㎝,厚17.5㎝ 天保14(1843)   加西の道標p114 倒立 (正面)「右 ほうじやう/左 たかさご」 3 -
写真 三口町の題目塔道標 みくち 加西市   石道標(凝灰岩) 高95㎝,24.5㎝角 天保15(1844)   加西の道標p77 原位置?/下部3分の1で水平に折損→修復/右面に一部剥離 (右面)「右 飛ろみ祢 ひ/左 本つけひめ」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 2
写真 別府町の聖観音像道標 べふ 加西市   石道標(笠付き) 高154㎝,幅25㎝ 嘉永7(1845)   WEB(的形道標クラブ) 移設、集約 (正面)「(像下)右 高砂 者んじやう/左 清水 やしろ」(=繁昌) /正面上部を光背型に削り込み、聖観音立像(光輪、蓮台)を陽刻 2
  北条町東高室の道標 ほうじょう、ひがしたかむろ 加西市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高147㎝,幅42㎝,厚17㎝ 嘉永4(1851)   加西の道標p28 原位置?/塀にたてかけられる (正面)「右 志ゆんれい/左 ほう志やう、道」 2
写真 北条町黒駒の道標 ほうじょう、
くろこま
加西市   石道標   嘉永5(1852)   WEB(的形道標クラブ) 下部埋没 (正面)「右 よでん 庄…/左 ひめじ 飛ろ…」(=余田) 2 -
  別府町の地蔵道標1 べふ 加西市   石道標(凝灰岩) 高101㎝,幅24㎝,厚24㎝ 嘉永6(1853)   加西の道標p108 下部埋没 (正面像下)「すぐ ほう条/南はんじやう」、(裏面)「すぐ やしろ/北 おくさんじ」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻、左面に「西國供養」と陰刻 2
  別府町の地蔵道標2 べふ 加西市   石道標
(五輪塔、凝灰岩)
高154.5㎝,幅24.9㎝,厚25㎝ 嘉永7(1854)   加西の道標p108 笠を更新? (正面像下)「右 高砂 はんじよう/左 清水 やしろ」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 2
  鶉野町の地蔵道標 うずらの 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高76㎝,幅19㎝,厚15㎝ 安政2(1855)   加西の道標p104 原位置? (正面像下)「右 三木 兵庫/左 しんぺ 袷ノ宮」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 1
写真 山下町の地蔵道標 やました 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高60㎝,幅21.5㎝,厚15.5㎝ 安政2(1855)   加西の道標p48/WEB(的形道標クラブ) 前掛けが架けられている (正面像下)「村道/ひめじ 小原」/正面頂部に地蔵立像を陽刻 1
  油谷町の道標 ゆだに 加西市   石道標(凝灰岩) 高88㎝,幅23.5㎝,厚16㎝ 安政3(1856)   加西の道標p133 下部埋没 (正面)「(梵字)、右 牛馬無用/左 たきの 三草」/「牛馬無用」のような規制標識が刻字された道標は珍しい 2
  国正町の道標 くにまさ 加西市   石道標(凝灰岩) 高66㎝,幅21㎝,厚30㎝ 安政3(1856)   加西の道標p134 原位置? (正面)「(梵字)、右 のま/左 ふけ」 1 -
写真 網引町の道標 あびき 加西市   石道標(凝灰岩) 高79㎝,幅29㎝,厚25㎝ 文久4(1864)   加西の道標p96/WEB(的形道標クラブ) 原位置?/上半分→風化により判読困難な部分あり (正面)「右 くさき たしま/左 ほつけ山 ひめじ」、(裏面)「木 ひやうこ」 3
  西横田町の地蔵道標 にしよこた 加西市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高50㎝,幅19㎝,厚16㎝ 江戸期   加西の道標p51 下部Cに埋没 (正面像下)「右 やしろ/たかむろ/左 むらミち」/正面上部に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 一乗寺の町石 いちじょう 加西市 一乗寺 町石(五輪塔、石英流紋岩) 高290㎝,30㎝角 正和5(1316) 県史跡 WEB 保存状態良好/町石全体を低い石高欄で囲う 「(梵字) 金輪聖王 自 金堂 一町」→「自 金堂 一町」のように道標的要素を兼ねる/台石上端に複弁反花の浮彫/西国三十三ヶ所の第二十六番札所・一乗寺入口の正面に建つ 1
写真 上滝野の道標 かみたきの 加東市   石道標
(駒型、花崗岩)
高112㎝,幅30.0㎝,厚22.8㎝ 天和2(1682) 市有形 市教委 移設 「(梵字)、右 たんは/左 のま谷」/17世紀の道標 2
  社の道標 やしろ 加東市 佐保神社・門前
<西国三十三所巡礼道>
石道標 高138㎝ 寛政9(1797)   歴史の道1p161   「左 ほつけ山/右 きよみヅ」  
  平木の道標 ひらき 加東市 <西国三十三所巡礼道> 石道標 高137㎝ 弘化2(1845)   歴史の道1p156   「(指差し)左 中山路」  
  上鴨川の道標 かみかも 加東市 <西国三十三所巡礼道> 石道標 高185㎝ 文化5(1808)   歴史の道1p158   「右きよみツ 左ほつけ山」  
写真 上久米の道標 かみくめ 加東市   石道標 高130㎝(塔身のみ),幅34㎝,厚30㎝ 安政6(1859)   WEB(宮様の石橋) 原位置? (正面)「本尊大日如来」、(同右下)「當國八十八箇所」、(同左下)「第廿五番 東光寺」、(右面)「右 東光寺 きよ道/左 屋しろ たき道」、(左面)「すぐ 京 大坂」 1
写真 闘龍灘の常夜灯1 とうりゅうなだ 加東市 加古川 石常夜灯(舟運) 高2.55m 宝暦12(1762)   現地調査 原位置? (正面)「奉献夜燈」、(左面)「龍神水神」/明治6に滝である闘龍灘に水路が開削されるまで、積荷はここで一度陸揚げされていた→船着場の常夜灯/下記「闘龍灘の常夜灯2」と並ぶ 1
写真 闘龍灘の常夜灯2 とうりゅうなだ 加東市 加古川 石常夜灯
(舟運、自然石)
高2.64m 江戸期   現地調査 原位置/火袋→木製 闘龍灘の開削後はこの位置に常夜灯は不要なため上記同様、船着場の常夜灯であったと思われる→江戸期/上記「闘龍灘の常夜灯1」と並ぶ 2
写真 大門の河岸・跡 だいもん 加東市/小野市 (大門橋下流)加古川 河岸   文禄3(1594)   WEB   阿江与助(上記参照)による加古川開削で誕生した代表的な河岸 3
写真 新町の船着場・跡 しん 加東市 加古川 船着場   慶長10(1605)   歴史の道5p13,72/現地調査/姫路河川国道事務所 川岸の岩場に船着場の跡が残る
(階段付きのスロープ)/船着場としては最良の保存状態
企画:姫路藩主・池田輝政/対岸の滝野の船着場のみでは不十分とされ造成された船着場/奥丹波・東播磨の諸荷物の中継地として発展した 1
写真 加茂の道標 かも 川西市 (2丁目) 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高84㎝,21㎝角 寛文12(1672)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「右 小濱 三田/左 伊丹 西宮、道」/17世紀の道標 1
写真 多田院の地蔵道標 ただいん 川西市 芋生川沿い旧道 石道標
(舟型、花崗岩)
高111㎝,幅44㎝,厚21㎝  元禄6(1693)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/瓦屋根の木祠内 (光背右上)「右 銀山道」、(同左上)「左 いもみち」/光背中央に地蔵立像を陽刻/17世紀の道標 1
写真 満願寺町の地蔵道標 まんがんじ 川西市 満願寺参道 石道標(蒲鉾型) 高70㎝,幅28㎝,厚16㎝  明和5(1768)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面像下)「是より/本堂」/上部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
写真 多田桜木の道標 たださくらぎ 川西市 (2丁目)多田駅前 石道標 高158㎝,29㎝角  明和7(1770)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「多田御社道」/正面頂部を長方形に削り込んであるが像容不明 2
写真 満願寺町の道標1 まんがんじ 川西市   石道標(蒲鉾型) 高98㎝,幅31㎝,厚18㎝  寛政元(1789)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 中山寺/左 池田 大坂、道」、(左面)「右 満願寺奥院」 2
写真 満願寺町の道標2 まんがんじ 川西市 最明寺滝の北300m 石道標(尖頭角柱)   天保6(1835)   WEB(宮様の石橋) 原位置? (正面)「右 満願寺遍/左 たん者"み…」 1 -
写真 柳谷の題目塔道標 やなぎたに 川西市 (寺ノ上)柳谷墓地 石道標(墓石型)   嘉永2(1849)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (2段目台石右端)「右 中山道」/正面に「柳川利助」(力士)と陰刻 2
写真 栄町の道標 さかえ 川西市   石道標(尖頭角柱) 高115㎝,24㎝角  元治元(1864)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「多田御社道」、(右面)「すぐ 中山道」、(左面)「すく みの於ミち」 2
  緑台の地蔵道標 みどりだい 川西市 (5丁目)船公園 石道標(尖頭角柱) 高77㎝,幅14㎝ 慶応3(1867)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面像下)「右 多田 満願寺/左 新田、道」/頂部を火灯窓型に削り込み地蔵坐像を陽刻 2
写真 平野の地蔵道標1 ひらの 川西市 多太神社・入口 石道標(舟型) 高81㎝,幅34㎝,厚24㎝  江戸後期~明治初期?   能瀬地方の旧街道・石造物p73/WEB
(神戸の道しるべ)
移設?/瓦屋根の木祠 (光背右)「右 ゆもと」、(光背左)「左 のせ道」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/行き先、能瀬街道の経路の変遷から江戸後期~明治初期と考えられている/下記「平野の地蔵道標2」と並ぶ 2
写真 平野の地蔵道標2 ひらの 川西市 多太神社・入口  石道標(舟型) 高81㎝,幅32㎝,厚13㎝  江戸後期~明治初期?   能瀬地方の旧街道・石造物p73/WEB
(神戸の道しるべ)
移設?/中央で水平に折損→固定せず載せてあるだけ/瓦屋根の木祠 (光背右)「右 湯元道」、(光背左)「左 山下道」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/年代推定は上記参照/上記「平野の地蔵道標1」と並ぶ 2
写真 赤松の題目塔道標 あかまつ 川西市 (北谷)高源寺浄園 石道標(自然石) 高89㎝,幅38㎝,厚33㎝  江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設、集約 (正面右)「右 中山寺ミち」、(同左)「左 いけだみち」/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 3
写真 若宮の道標 わかみや 川西市 (紺青山) 石道標(駒型) 高72㎝,幅43㎝,厚22㎝  江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面右)「右 中山 西宮」、(同左)「左 池田、伊丹/大坂」、(同最下部)「道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 中山寺の町石(十四丁) なかやま 川西市 (加茂2丁目)
阿弥陀寺庫裡庭園
町石 高122㎝,幅26㎝,厚18㎝ 永正14(1517)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「(梵字)十四丁」 3
写真 国崎の間歩群・跡 くにさき 川西市 <多田銀銅山> 間歩 坑口:55ヶ所 古代~近世   市教委 国崎クリーンセンター内散策路の2基のみ見学可能/造成に伴う盛土により7基埋没/山中にその他多くの間歩が残るものの未整備のため入山禁止 多田銀銅山は、長暦元(1037)以前から採掘されている兵庫県川西市北部から猪名川、箕面市の10数㎞四方の広範囲に広がっていた鉱山/近世の文献では2000ヶ所以上の間歩があったとされる/江戸期には幕府直轄領となった/国崎地区は近代以降大鉱山として発展しなかった事から近世以前の間歩が多く残るとされる/坑道断面が幅2尺、高3尺(60.6×90.9㎝)のため、近世の間歩であると考えられている 3
写真 今田町下小野原の道標 こんだ、
しもおのばら
篠山市 国道372号・今田交差点北西角 石道標 高105㎝,最大幅30㎝(台形断面),厚20㎝ 宝暦12(1762)   WEB(宮様の石橋) 原位置or近接移設 (正面)「左、京 いせ/奈れ相、道」、(右面)「右 大坂道」 1
写真 (再現)古市の道標
(辻の立石)
ふるいち 篠山市 蛭子神社・西50m 石道標 高166㎝,幅31㎝,厚31㎝ 文化14(1817)   WEB(神戸の道しるべ) 平成25に交通事故により全壊→再現 (正面)「右 者りま道」、(右面)「すぐ、京 いせ/たんこ 但馬、道」、(左面)「左 大坂 阿りま」/裏面に「為往来安全」と陰刻 3
  北野新田の道標 きたのしんでん 篠山市 <山陰道> 石道標(尖頭角柱) 高129㎝,幅28.5㎝,厚26.5㎝ 文政4(1821)   歴史の道3p143 下部埋没 (正面)「右 きょ水 大坂/左 京 いせ、道」、(右面)「左 な礼あい」、(同下)「丹後□□/因幡□□/出雲□□ 2
  宮田の道標 みやだ 篠山市 <山陰道> 石道標(尖頭角柱) 高132㎝,
幅26.5㎝
天保15(1844)   歴史の道3p142 下部埋没 (正面)「右、なりあい/兵主山」、(右面)「すく きよ水 大坂/左 京 いせ」、(左面)「左 たしま」、(裏面)「すく 京 いせ」 2
  大山上の道標 おおやまかみ 篠山市 大山小学校<山陰道> 石道標(自然石) 高75㎝,幅49㎝,厚23㎝ 享保8(1723)   歴史の道3p143 移設 (正面)「右 たんこミち/左 たじまミち」 2 -
  大山宮の供養塔道標 おおやまみや 篠山市 <山陰道> 石道標(自然石) 高102㎝,幅43㎝,厚45㎝ 文化13(1816)   歴史の道3p143 原位置? (正面)「大乗寺」、(同右)「是ヨリ本堂マデ八丁」/右面に戒名と「菩提」、「爲 先祖代々有無良縁」と陰刻 1
  河原町の常夜灯 かわら 篠山市   石常夜灯   文政年間(1819-29)   WEB 原位置? 篠山城下入口にあたる篠山川京口橋付近の常夜灯 1
  川原の猪垣 かわら 篠山市 ささやまの森公園 猪垣(石塁) 長約100m,
高約1.5m
江戸期?   WEB(ささやまの森公園) 散策路沿いに残る/石垣上に木が植えられている   3
  星丸池 ほしまる 篠山市   溜池(土堰堤) 堤長約50m 文治元(1185)以降   市教委/WEB 当時のまま 一印谷に築造されたた谷池 1
  池尻池 いけじり 篠山市   溜池(土堰堤) 堤長約120m 平安期   市教委 当時のまま 池尻谷に築造された谷池 1
  三田町の秋葉山常夜灯 さんだ 三田市 (上鍛冶屋) 石常夜灯 高3.12m 文化15(1818)   三田の石灯篭p98,112 秋葉神社前へ移設 「秋葉山」 2
  母子の常夜灯 もうし 三田市 (新田) 石常夜灯(自然石) 高2.60m 嘉永4(1851)   三田の石灯篭p56,105 原位置/火袋更新 「愛宕山」 2
  母子の金毘羅常夜灯 もうし 三田市 (新田) 石常夜灯(自然石) 高2.54m 嘉永5(1852)   三田の石灯篭p55,104 原位置/火袋更新 「金」 2
  藍本の供養塔道標 あいもと 三田市   石道標(凝灰岩) 高44㎝,幅20㎝,厚16㎝
元禄5(1692)   市教委/さんだの道標p106 道路拡張時に近接移設/正面右頂部が大きく欠損/下部C固定 (正面右)「右 はいま見ち」、(同左)「左 大さか見ち」/正面中央に「奉納百八順礼供養塔」、右面に「同行廿壱人」と陰刻/17世紀の道標 3
  永沢寺の聖観音像道標 えいたくじ 三田市 永沢寺 石道標
(舟型、凝灰岩)
高100㎝,幅50㎝,厚22㎝ 元禄12(1699)   さんだの道標p56 移設 (光背右)「右 三田 いけ田道」、(同左)「左 やうたく寺」/光背中央に聖観世音立像を陽刻/17世紀の道標 2
  上青野の地蔵道標 かみあおの 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高103㎝,幅74㎝,厚30㎝
安永4(1775)   さんだの道標p45 原位置 (正面像右)「右 やま」、(同左)「左 たんば」/正面中央を光背型に削り込み地蔵菩薩立像を陽刻 1
  大川瀬の題目塔道標 おおかわせ 三田市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高72㎝,幅27㎝,厚19㎝ 文化3(1806)   さんだの道標p96 原位置/下部折損 (正面右下)「右 きよ水」、(同左下)「左 東条」/正面中央に「南無觀世音菩薩」と陰刻 2 -
  桑原の供養塔道標 くわばら 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高103㎝,幅70㎝,厚40㎝ 文化4(1807)   さんだの道標p12 原位置 (正面右)「右 山中やくしかむらぢ」、(同左)「左 京阿たご妙見道」/正面中央に「西國三十三所順礼供養塔」と陰刻 1
  小柿の供養塔道標1 こがき 三田市   石道標(凝灰岩) 高80㎝,幅38㎝,厚22㎝
文化4(1807)   さんだの道標p55 原位置 (正面最下部右)「右 志つ川」、(同左)「左 さゝ山」/正面中央に「奉納西國三十三所供養塔」と陰刻 1
  香下の道標 かした 三田市 香下寺参道 石道標(凝灰岩) 高65㎝,23㎝角 文化8(1811)   さんだの道標p30 原位置? (正面)「従是 本堂江 十五丁」 1 -
  藍本の道標 あいもと 三田市 <村山道> 石道標
(自然石、凝灰岩)
高78㎝,幅32㎝,厚57㎝ 文化10(1813)   さんだの道標p107 原位置/C製台座に載る (正面)「右 やま/左 古市、道」 2 -
  香下の題目塔道標 かした 三田市 香下寺参道 石道標(花崗岩) 高70㎝,25㎝角 文化13(1816)   さんだの道標p29 原位置? (正面)「右 京 あたご山 妙けん/左 はつか山 従是十七丁」、(左面)
「右 くわさんの院 きよみづ/左 三田 」/右面に「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻
1 -
  木器の供養塔道標 こうづわ 三田市   石道標(波豆石) 高95㎝,幅18㎝,厚15㎝ 文化14(1817)   さんだの道標p71 原位置 (正面右)「右 丹波 ささ山」、(同左)「左 花山院 清水」/正面中央に「奉供養西國三拾三所」と陰刻 1
  母子の道標 もうし 三田市   石道標(凝灰岩) 高84㎝,16㎝角 文政元(1818)   さんだの道標p59 移設 (正面)「右 妙見みち/左 篠山 ぎをん」 2
  大川瀬の廻国塔道標 おおかわせ 三田市 (湯谷坂ン谷) 石道標(凝灰岩) 高75㎝,幅26㎝,厚26㎝ 文政8(1825)   さんだの道標p84 原位置 (正面)「右 大川瀬/左 東条 吉川、道」/左面に「奉納西國三十三所」と陰刻 1 -
  下田中の供養塔道標 しもたなか 三田市 神明寺 石道標
(自然石、凝灰岩)
高95㎝,幅65㎝,厚30㎝ 天保3(1832)   さんだの道標p11 移設 (正面右)「右 大坂 中山」、(同左)「左 京 あたご道」/正面中央に「奉納西國順礼供養塔」を陰刻 2
  小柿の供養塔道標2 こがき 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高85㎝,幅41㎝,厚38㎝
天保6(1835)   さんだの道標p53 原位置 (正面右下)「右 きよ水 三田」、(同左下)「左 池田 いた・・・」/正面中央に「奉供養西國三拾三所」と陰刻 1
  大川瀬の供養塔道標 おおかわせ 三田市   石道標
(舟型、凝灰岩)
高74㎝,幅24㎝,厚20㎝ 天保9(1838)   さんだの道標p89 原位置 (正面像下右)「右 少分谷」、(同左)「左 天神町」/光背中央に地蔵坐像(蓮台)の陽刻、その下に「四國供養塔」と陰刻 1
  永沢寺の地蔵道標 えいたくじ 三田市   石道標(砂岩) 高70㎝,幅26㎝,厚14㎝ 天保10(1839)   さんだの道標p57 原位置/中央で水平に折損 (右面)「右 三田」/正面上部に地蔵坐像を陽刻/下記「永沢寺の道標」と並ぶ 2
  末吉の地蔵道標 すえよし 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高85㎝,幅65㎝,厚50㎝ 天保11(1840)   さんだの道標p80 原位置/現在も信仰の対象 (正面右)「右 のせ かめやま」、(正面左)「左 ざい」/正面中央に地蔵坐像を陽刻 1
  桑原の道標 くわばら 三田市   石道標(凝灰岩) 高125㎝,幅30㎝,厚28㎝ 弘化3(1846)   さんだの道標p13 移設 (正面)「左、聖徳太子/薬師如来、霊場山中光明寺道十二丁」、(右面)「右 かぶらい寺道十五丁」 2
  上相野の供養塔道標 かみあいの 三田市   石道標(凝灰岩) 高80㎝,幅23㎝,厚25㎝ 嘉永元(1848)   さんだの道標p82 原位置 (正面)「右 さん田 大坂/左 たん波 古市、道」/右面に「奉巡拝、西國三拾三所/如来、供養塔」と陰刻 1
  木器の供養塔道標 こうづわ 三田市   石道標(凝灰岩) 高83㎝,25㎝角 嘉永3(1850)   さんだの道標p72 原位置 (正面最下部右)「右 ざい志よう」、(同左)「左 池田 伊丹」/正面中央に「(梵字)奉供養西國卅三所順礼爲二世」と陰刻 1
  成谷の供養塔道標 なるたに 三田市 成谷公会堂・北 石道標(凝灰岩) 高101㎝,25㎝角 安政4(1857)   さんだの道標p27 原位置 (正面右)「右 」、(同左)「左 妙見 あたご道」/正面中央に「奉納西國三拾三所供養塔」と陰刻 1
  志手原の供養塔道標 しではら 三田市   石道標(凝灰岩) 高87㎝,幅36㎝,厚19㎝ 安政5(1858)   さんだの道標p26 原位置/表面風化、剥離 (正面右)「右 三道」、(同左)「左 さ」/正面中央に「西國三拾三所供養塔」と陰刻 2
  三輪の道標 みわ 三田市 三輪神社・門前 石道標(凝灰岩) 高86㎝,幅26㎝,厚16㎝ 元治2(1865)   さんだの道標p16 原位置 (正面)「右 花山院道」 1
  大川瀬の地蔵道標 おおかわせ 三田市   石道標
(舟型、凝灰岩)
高78㎝,幅34㎝,厚14㎝ 慶応元(1865)   さんだの道標p93 原位置 (光背右)「右 丹波 古市」、(同左)「左 清水 かも川」/正面中央に地蔵立像を陽刻 1 -
  上相野の供養塔道標 かみあいの 三田市   石道標
(駒型、凝灰岩)
高70㎝,幅25㎝,厚20㎝ 慶応2(1866)   さんだの道標p103 原位置 (正面)「右 さん田 中山 大阪/左 花山院 妙見、道」/右面に「西國三十三所供養塔」と陰刻 1 -
  下槻瀬の道標 しもづきせ 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高140㎝,幅55㎝,厚30㎝ 江戸期   さんだの道標p74 原位置 (正面)「右 池田 大坂/左 妙見 京、道」 1
  永沢寺の道標 えいたくじ 三田市   石道標
(自然石、凝灰岩)
高100㎝,幅83㎝,厚38㎝ 江戸期   さんだの道標p58/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「右 ありま 大坂/左 永沢寺、道」/上記「永沢寺の地蔵道標」と並ぶ 1
  上井沢の道標 かみいさわ 三田市 廣沢揚水ポンプ場 石道標(凝灰岩) 高91㎝,幅37㎝,厚40㎝
江戸期   さんだの道標p39 私有地内(道路沿い)/下部折損 (正面)「左 中山 大坂」、(左面)「大川□□□ 3
  上相野の地蔵道標 かみあいの 三田市   石道標
(蒲鉾型、凝灰岩)
高60㎝,幅21㎝,厚12㎝ 江戸期   さんだの道標p81 中央で水平に折損→修復 (正面)「右 三田 大坂/左 花山院、道」/右面に「四國八十八所」と陰刻 2
  廃大舟寺の町石(十二町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高151㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形 現地解説板/WEB 原位置? 廃大舟寺の地蔵町石は、参道入口から寺に向かって町順に並んでいる(寺が一丁⇒逆順/五輪塔町石に地蔵を陽刻した唯一の事例/大舟寺は明応8にふもとに移転したためそれ以前のものと考えられる/(正面像下)「十二町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(十三町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高84㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形   移設/地輪欠損 (正面像下)「十三町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 3
  廃大舟寺の町石(十一町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高114㎝,幅26㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「十一町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(十町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高134㎝,幅34㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「十町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(九町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高160㎝,幅26㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「九」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻/「町」がない 1
  廃大舟寺の町石(八町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高129㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「八」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻/「町」がない 1
  廃大舟寺の町石(七町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高147㎝,幅27㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「七」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻/「町」がない 1
  廃大舟寺の町石(六町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高118㎝,幅27㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「六町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(五町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高145㎝,幅24㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「五町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(四町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高135㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「四町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
写真 廃大舟寺の町石(三町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高130㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「三町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
  廃大舟寺の町石(二町) だいしゅう 三田市 <大舟寺参道> 町石(五輪塔、石英粗面岩) 高144㎝,幅25㎝ 明応8(1499)以前 県有形   原位置 (正面像下)「二町」/角柱最上部に小さな地蔵立像(蓮台)を陽刻 1
写真 福島大池 ふくしまおお 三田市 有馬富士自然公園 溜池(土堰堤) 満水面積:8.5ha 天平3(731)   市教委/WEB(いなみ野溜池ミュージアム) 堰堤は大規模な改修 行基により築造されたとされる溜池/行基の溜池群としては最初期にあたる 3
  波賀町斉木の道標 はが、さいき 宍粟市   石道標(自然石) 高約80㎝? 宝暦7(1757)   市教委(波賀町ふるさとの文化財p31) 原位置 (正面中央)「從是」、(同右)「右 ありが村、 但州/因州」、(同左)「左 さいき村行き、因州/作州」、(同中央下部)「道筋」 1
写真 山崎町山田の道標 やまさき、
やまだ
宍粟市 国道29号・脇<因幡街道>  石道標(笠付き) 高150㎝,27㎝角 寛政9(1797)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「右、志ん宮 あ本し/たつの むろ川、道」(=新宮,網干)、(左面)「左、あんじ 本うでう/はやし田 ひめぢ、道」(=安志,北条) 2
写真 山崎町山崎の道標 やまさき、
やまさき
宍粟市 総道神社・境内<因幡街道>  石道標(自然石) 高約90㎝(塔身) 寛政11(1799)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「當國一ノ宮道」、(同左下)「是ヨリ 三里北」 2
  波賀町有賀の道標 はが、ありが 宍粟市   石道標(自然石) 高約80㎝? 文政元(1818)   市教委(波賀町ふるさとの文化財p49) 移設? (正面)「南ハ 一宮へ 三り/西ハ ちくさ町へ 三り/引原村ヘ 三り」、
(裏面)「東へ みかた町へ 三里」
2
写真 出石船着場・跡 いだいし 宍粟市 (山崎町中広瀬)揖保川 石水制、
舟見台石垣
長約20-30m,
高2m
元和3(1617)以降   市教委/WEB 河川敷の土砂、雑草に埋もれるように残る/住民による除草が行われている/代官舟見台の石垣なども残る 揖保川舟運最上流部の出石船着場/「石出し堤防」と呼ばれる水制を設置/両岸に船着場の石垣が残る/出石船着場まで元和年間に舟運路が延伸され、鉄の積出港として利用された 4
写真 天児屋鉄山・跡 てんごや 宍粟市 (千種町西河内) たたら場石垣 指定面積:13777.1㎡ 慶安年間(1648-52) 県史跡 市教委/WEB 石垣、礎石などが残る/公園整備 千種鉄を産出した天児屋鉄山のたたら場跡/中世には長船に刀剣用の鉄を供給し、揖保川舟運路が出石船着場まで延伸された江戸初期以降には姫路・大坂方面に鉄を供給したとされる 1
写真 荒尾鉄山・跡 あらお 宍粟市 (千種町岩野辺) たたら場石垣   江戸期 市史跡 市教委/WEB 山林内に鉱山施設の石垣などが残る 天児屋鉄山と共に多く鉄を産出した荒尾鉄山の遺構 2
  森の上の鉄穴流し場・跡 もりのかみ 宍粟市 (千種町西河内) 鉄穴流し場 長約300m 江戸期 市史跡 市教委 石積の水路が残る 天児屋鉄山に残る鉄穴流し場/通常2㎞以上必要な水路を約300mに短縮するため→直角に曲げる、水路に段差を設けるなどの工夫 2
写真 高崎台場・跡 たかさき 洲本市(成ヶ島) 高崎灯台<徳島藩> 台場(半楕円形) 東西100m,南北370m 文久元(1861)   WEB(城めぐ)/幕末海防史の研究p172,251/台場辞典p420 南側の一部をC護岸化/明治期に洋式台場として改築/灯台を設置/石積の火薬庫が残る 設計:徳島藩西洋砲術指導者・勝浦安右衛門/徳島藩の紀淡海峡防衛の中核として築造された洋式台場/安政3に幕府から大坂防御計画の一部として紀淡海峡に台場築造が命じられる→徳島藩は12基の台場を築造/高崎、六本松、生石、丸山の4基の台場で計64門の砲を設置/北面から南面にかけて大規模な花崗岩の宮積みの石垣が残る/淡路島は花崗岩が採れないため、廃城した由良城の石垣を転用→由良城の石垣も岩屋城のものを転用したと推測されている 1 写真
写真 六本松台場・跡
(白浜台場、オランダ台場)
ろっぽんまつ 洲本市(成ヶ島) <徳島藩> 台場(五角・星型)   文久元(1861)   台場辞典p.421/WEB(城めぐ)/幕末海防史の研究p172,251/市教委 西側の後背部の石垣・土塁の一部残る/東側の前面部が遊歩道、堤防整備のため消失/無人島だが渡し船が運行 紀淡海峡防衛の台場群の比較的小規模な台場 3
写真 炬口台場・跡 たけのくち 洲本市 淡路水産センター
<徳島藩>
台場   文久3(1863)   台場辞典p.421
/WEB(城めぐ)
石垣・土塁の一部残る 大坂湾防衛のため紀淡海峡を守る台場として築造/北東の海に面して石垣を築き、その上に盛土により築造 3
写真 生石台場・跡 おいし 洲本市 <徳島藩> 台場   文久3(1863)   台場辞典p.421/WEB(城めぐ)/幕末海防史の研究p172,251 生石梅林園駐車場の東方に石垣の一部が残存 紀淡海峡防衛の台場群の1つ/小規模な台場で大砲も常設していなかったとされる 3 -
写真 曽根天満宮の庭園橋 そねてんまんぐう 高砂市 曽根天満宮 石桁橋 長6.2m(3G) 享保8(1732)   WEB(石橋) 保存状態良好 石梁の上に橋面石を載せた構造/擬宝珠付き高欄(装飾性が高い) 1
写真 阿弥陀の道標 あみだ 高砂市 (1丁目)曽根跨線橋下 石道標(尖頭角柱) 高106㎝,28㎝角 明和2(1765)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 高架下に移設、集約 (正面)「右 高砂 十輪寺道」、(左面)「圓光大師二十五霊場」 2
写真 荒井町東本町の題目塔道標 あらい、
ひがしほん
高砂市 荒井公民館・前<浜街道> 石道標(蒲鉾型) 高86㎝,幅24㎝,厚21㎝ 安永6(1777)   高砂の道標p33/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面最下部)「右/石の本うてん/そ祢の松/ひめし」/正面に「南無
阿彌陀佛」と陰刻
2
写真 荒井町千鳥の道標 あらい、
ちどり
高砂市 荒井神社・北門角
<浜街道>
石道標 高132㎝,幅29㎝,厚28㎝ 天明2(1782)   高砂の道標p11/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「右、いし能宝天ん/そ祢の末川/比免知、道」(=石の宝殿、曽根の松、姫路)、(右面)「左、た可左こ/を乃へ/多うたさん、道」(=高砂、尾上、刀田山) 1
写真 北浜町西浜の地蔵道標 きたはま、
にしはま
高砂市 馬がら地蔵堂・脇 石道標 高91㎝,23㎝角 寛政8(1796)   高砂の道標p34/WEB(的形道標クラブ) 移設 (右面)「東」、(左面)「西 右 神谷山」、(裏面)「北 左 大坂道」/正面上部に地蔵坐像を陽刻 2
写真 荒井町中町の道標1 あらい、なか 高砂市 荒井神社・東<浜街道> 石道標 高107㎝,幅24㎝,厚23㎝ 寛政12(1800)   高砂の道標p10/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「左、いし能宝天ん/祢のま川/ひめ知"」(=石の宝殿、曽根の松、姫路)、(左面)「右、た可左ご/を乃へ/多う多さん、道」(=高砂、尾上、刀田山) 1
写真 阿弥陀町生石の道標 あみだ、
おおしこ
高砂市 石の宝殿(生石神社) 石道標(蒲鉾型) 高98㎝,幅47㎝,厚26㎝ 文化4(1807)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 移設/□□□の部分は最初からないか、消されたか不明 (正面右)「右、姫路/曽根/高砂/尾上」、(同左)「左、□□□/法華山/加古川」 2
写真 高砂町農人町の道標 たかさご、
のうにん
高砂市 西畑児童公園口 石道標 高127㎝,幅25㎝,厚23㎝ 文化8(1811)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「高砂 相生 う多ひ能名所」、(左面)「右 姫路、石能ほうてん/楚年能末川、道」(=石の宝殿、曽根の松) 2
写真 曽根町の道標1 そね 高砂市 (4丁目)曽根天満宮・門前
<浜街道>
石道標 高166㎝,38㎝角 天保2(1831)   高砂の道標p16/WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面)「右 飛免ぢ/左 石宝でん、道」(=姫路)、(右面)「當社そね松」、(左面)「當社曽根松」 1
写真 荒井町中町の道標2 あらい、なか 高砂市 荒井観音寺・南<浜街道> 石道標(尖頭角柱) 高59㎝,幅17㎝,厚20㎝ 天保3(1832)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「ひだり、本うてん/そねノ松」、(左面上部)「□□□□□
□□
」、(同下部)「ひめぢ/あ本志(?)」(=網干?)
1 -
写真 曽根町の道標2 そね 高砂市 教育センター 石道標(尖頭角柱) 高111㎝,幅21㎝,厚20㎝ 嘉永6(1853)   高砂の道標p15/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 地德/左 姫路、道」 2
写真 高砂町横町の道標 たかさご、
よこ
高砂市 三叉路<浜街道> 石道標(尖頭角柱) 高115㎝,幅22㎝,厚18㎝ 安政2(1855)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 近接移設/C擁壁に半分埋もれる (正面)「左 相生松 大阪道」、(左面)「右、石能宝でん 曾根松/十輪寺 姫路、道」/「大阪」を使用 2
  米田町米田の道標 よねだ、
よねだ
高砂市 (南條) 石道標(尖頭角柱) 高75㎝,幅17㎝,厚13㎝ 安政2(1855)   WEB(神戸の道しるべ) 平成9道路拡幅工事中に発見 (正面)「す久" 高砂」、(右面)「す久" か古川」、(左面)「す久" そ祢の松」、(裏面)「す久" 北條」   -
  高砂堀川 たかさご 高砂市   運河 南堀川:長161.8m,幅50.9m→長約150m,幅約20m 慶長年間(1596-1614)   市教委/WEB 南堀川のみ現存/減幅、C改修 企画:姫路藩主・池田輝政/高砂を加古川流域からの積出港とするため開削された運河/東側の高砂川と、高砂町を囲む形で開削した北堀川、西堀川、南堀川を合わせて運河として利用した/運河に沿って米蔵が建てられ、百間蔵と呼ばれた 4
写真 金時井 きんときゆ 高砂市   サイフォン・用水路 中村開削区間
(石積):
長680m,幅2.7m
天保2(1831)   市教委/WEB 石積の水路が残る 企画:魚崎村庄屋・中村五郎右衛門、魚崎村・金時宗五郎/魚崎村東部は神吉、阿弥陀を流れる上部井堰の末端であったため水量が少なく、金時宗五郎は土地を売り、法華山谷川から金時井を開削→中村五郎右衛門が加古川から平津を流れ法華山谷川へ至る上部井堰を金時井へ法華山谷川を越えて繋ぐ水路を開削 4
  竜山採石場・跡 たつやま 高砂市   石切場(竜山石)   古代~近世   市教委/WEB(高砂市HP) 山頂部に近世以前の採石遺構が残る 竜山石を古代から採石し続けている採石場/海が近く搬出がしやすいため、大仙古墳などの石棺、鎌倉室町期の五輪塔や石仏、江戸期の姫路城や明石城、鳥居、近代の旧造幣局鋳造所など長期に渡って使用されている 3
写真 藤の井 ふじのい 高砂市   石井戸   近世以前 市史跡 市教委/WEB/WEB(的形道標クラブ 修景/藤井八幡宮として祠を設置 真水の乏しい現地で生活用水として利用された井戸/井戸としては異例に大きな井戸枠/西浜の船頭にこの地を案内された八幡大神が一夜の宿のお礼にこの井戸を掘り与えたとの伝説が残る 2
  高砂砲台(向島砲台)・跡 たかさご
(むこうじま)
高砂市 高砂海浜公園<姫路藩> 台場 大砲3基 文久3(1863)   市教委/WEB(城めぐ) 公園化/一部当時の石積が残る? 姫路藩によって築造された台場 4 -
写真 中山寺の常夜灯 なかやまでら 宝塚市 (2丁目)信徒会館・前
<西国三十三所巡礼道>
石常夜灯
(道標兼、花崗岩)
高2.30m 安政4(1857)   歴史の道1p150/たからづかの道標p48 移設 (竿左面)左 中山寺/八丁」、(同右上に小さく)「「右 大坂」/右面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 2
写真 安倉南の題目塔道標
(姥ケ茶屋の道標)
あくらみなみ(ばんが) 宝塚市 <有馬街道> 石道標
(駒型、花崗岩)
高84㎝,幅23㎝,厚14㎝ 寛文8(1668) 市歴史資料 現地解説板/WEB/たからづかの道標p18 ほぼ原位置にある木祠内に他の石造物と共に保存 (右面)「右ハ あまかさきみち」、(左面)「左ハ いたミノみち」/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻/伊丹の大鹿と尼崎から、小浜に到る三又路に作られた/17世紀の道標(西日本の一般用道標としては、判明している限り最古) 2
写真 中山寺の道標1 なかやまでら 宝塚市 (2丁目)華蔵院
<中山寺参道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高89㎝,幅24㎝,厚18㎝ 天和3(1683) 市考古資料 たからづかの道標p47 2・3回移設 (正面)「右ハ きよ水/左ハ ひやうご、道」/17世紀の道標/永正14(1517)に建立された中山寺参道の町石を再利用したもの→裏面に町石時代の「(梵字)六丁」の刻字がある 2
写真 小浜の題目塔道標1 こはま 宝塚市 (5丁目)
<西宮街道・小浜宿>
石道標(花崗岩) 高127㎝,幅24㎝,厚23㎝ 貞享4(1687)   たからづかの道標p25/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/下部C埋設 (正面最下部)「右ハ 西宮道/左ハ の道」、正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻、その下に蓮花を線刻/17世紀の道標 2
写真 小浜の道標1 こはま 宝塚市 (5丁目) 石道標(尖頭角柱) 高67㎝,18㎝角 元禄15(1702)   WEB(神戸の道しるべ) ほぼ原位置(道路工事中に地中から発見→建立) (正面)「従是右 崑陽寺行」、(右面)「きやうきゟ 尼嵜江」 1 -
写真 小浜の題目塔道標2 こはま 宝塚市 (5丁目)小浜宿資料館
<西宮街道>
石道標 高69㎝,17㎝角 元禄15(1702)   WEB(神戸の道しるべ) 資料館に移設(もと、小林) (正面最下部)「 西宮道」、(左面)「右 小濱道/ 有馬道」/正面上部に「南無阿彌陀佛」と陰刻 2 -
写真 大原野の地蔵道標 おおはらの 宝塚市

(茶谷)<銀山大原野道>

石道標(丸彫) 高33㎝(台石) 宝永5(1708)   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (台石正面右)「右 高平 さゝ山(?)」、(同左)「左 三田 ありま」/台石正面中央に「髙眼阿闇梨」と陰刻、台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
写真 中山荘園の道標 なかやまそうえん 宝塚市 (4丁目)
中山寺・奥の院参道
石道標(花崗岩) 高93㎝,24㎝角 享保19(1734)   たからづかの道標p50/WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「 本山道」、(右面)「宿坊寶蔵院」 1
写真 安倉南の道標 あくらみなみ 宝塚市 (4丁目)<有馬街道> 石道標 高105㎝(本体),25㎝角 享保21(1736)   WEB(神戸の道しるべ) 私有地内から原位置に再建立/基部露出 (正面)「右 中山 く王んおん道」、(左面)「左、小者ま さん多/阿り満 たしま」(=小浜、三田、有馬、但馬) 1
写真 小林の聖観音像道標 おばやし 宝塚市 (1丁目)<西宮街道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高133㎝,20㎝角 寛保2(1742)   たからづかの道標p26 原位置? (右面)「是より一丁余 西山道/但し西宮ぬけ道阿里」/正面頂部を円に削り込み聖観音(?)坐像を陽刻、像下に「武庫山平林寺 聖徳太子開基/本堂釋迦尊薬師佛、當国・第二、観音堂」と陰刻/右、左、裏各面上部を円に削り込み梵字を陰刻 1
写真 波豆の供養塔道標 はず 宝塚市 (向井山)<三田街道> 石道標(自然石) 高136㎝,幅77㎝,厚24㎝ 延享2(1745)   たからづかの道標p60/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面左下)「左 京 あたご」/正面中央に「(梵字)奉大峯山三十三度供養」と陰刻 1
写真 山本台の地蔵道標 やまもとだい 宝塚市 (1丁目)正念寺墓地
<西国三十三所巡礼道>
石道標
(丸彫、花崗岩)
高140㎝(うち、台石30㎝) 延享4(1747)   たからづかの道標p42 移設、集約→墓地 (台石正面左)「左 中山 是よ里 六丁」/台石上に地蔵立像(蓮台)の丸彫を載せる 3
写真 中筋山手の道標 なかすじやまて 宝塚市 (4丁目)
<西国三十三所巡礼道>
石道標
(丸彫、花崗岩)
高98㎝,幅22㎝,厚20㎝ 宝暦3(1753)   たからづかの道標p42 移設(ポケットパーク) (正面)「す久 中山寺道」、(左面)「左 ざい所道」 2
写真 山本東の供養塔道標 やまもとひがし 宝塚市 (1丁目)松尾神社・南
<西国三十三所巡礼道
(勝尾寺→中山寺)>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高65㎝,18㎝角 安永7(1778)   たからづかの道標p41/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面右上)「右 満願寺千手觀音」、(同左上)「左 中山寺」、(裏面)「右 中山」/正面中央に「六拾六部七百五拾人報謝宿供養塚」と陰刻/六拾六部は諸国を旅する修行者で、彼らを無料で宿泊させる宿が泊めた人数が750人に達した事を記念するもの 1 -
写真 大原野の供養塔道標 おおはらの 宝塚市 (岡田)<木器道> 石道標(凝灰岩) 高74㎝,幅28.5㎝,厚16㎝ 寛政4(1792)   たからづかの道標p58/WEB(神戸の道しるべ) 原位置?/正面左下部が剥離 (正面右)「右 さそり むつのせ」(=佐曽利、六瀬)、(同左)「左 者ず川」
(=波豆川)/正面中央に「(梵字)西國三拾三所供養」と陰刻
2 -
写真 大原野の題目塔道標 おおはらの 宝塚市 (南大中)紙屋三叉路
<木器道>
石道標(凝灰岩) 高76㎝,幅30㎝,厚28㎝ 文化10(1813)   たからづかの道標p59/WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (左面)「右 池田 伊丹/左 多田院 妙見」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 1 -
写真 切畑の道標 きりはた 宝塚市 (1丁目)<丹波街道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高69㎝,幅25㎝,厚23㎝ 天保6(1835)   たからづかの道標p38 昭和49に谷から引き揚げて設置 (正面)「右 満願寺 多田/左 たん者"みち」 3 -
写真 中山寺の道標2 なかやまでら 宝塚市 (2丁目)中山寺・門前
<西国三十三所巡礼道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高215㎝,幅40㎝,厚39㎝ 天保12(1841)   歴史の道1p149/大阪の街道と道標p256/WEB

移設

(正面)「日本/第一、清荒神王道」、(同右下隅に小さく)「十二丁」、(右面右)「有馬 清水 小濱」、(同左)「西宮 大坂通ぬけ」、(左面最下部)「すぐ、京 池田/伊丹」 2
写真 米谷の道標1 まいたに 宝塚市 (1丁目)<有馬街道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高105㎝,幅25㎝,厚22㎝ 弘化3(1846)   たからづかの道標p22 移設→個人宅 (正面)「右、西の宮/兵庫、道」 3
写真 小浜の道標2 こはま 宝塚市 (5丁目)<有馬街道> 石道標(駒型、花崗岩) 高60㎝,幅18㎝,厚14㎝ 嘉永5(1852)   たからづかの道標p20/WEB(神戸の道しるべ) 移設→個人宅/中央で折損→修復 (正面)「右、中山/大坂、道」、(右面)「左 三田 有馬」 4 -
写真 中山寺の道標3 なかやまでら 宝塚市 (2丁目)中山寺・門前
<西国三十三所巡礼道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高155㎝,幅36㎝,厚33㎝ 安政2(1855)   大阪の街道と道標p256/たからづかの道標p43 移設 (正面)「右 花山院道」、(同右上に小さく)「菩提寺」、(同最下部に小さく)「 五里半」、(同右端)「西國巡禮御ゑい可能元祖」、(同左端)「清水江通りぬけち可道あり」/左面に「ありまふし ふもと能きりを/海とみて なみかときけば/小野乃まつかぜ」と陰刻 2
写真 波豆の道標 はず 宝塚市 (大畑東掛)
ドライブイン千刈庭
石道標(自然石、花崗岩) 高100㎝,幅40㎝,厚30㎝ 文久3(1863)   たからづかの道標p59/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「右 清水/左 三田、道」、(右面)「すく 妙見」、(左面)「右 妙見道」、(裏面)「左 三田道」 2
写真 平井の題目塔道標 ひらい 宝塚市 (2丁目) 石道標(駒型) 高117㎝,幅40㎝,厚20㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 近接移設 (右面)「最明寺/是ヨリ八丁」/正面「大/坂、御瀧講」と陰刻/建立が大坂の講→江戸期の可能性 1
写真 米谷の道標2 まいたに 宝塚市 (1丁目)国府橋・北
<有馬街道>
石道標(花崗岩) 高85㎝,20㎝角 江戸期   たからづかの道標p21 原位置? (正面)「右 大坂/左 の道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 1
  中筋の道標 なかすじ 宝塚市 (7丁目) 石道標(花崗岩) 高80㎝,16㎝角 江戸期   たからづかの道標p34 保存状態良好 (正面)「左 いたミ/右 小者ま」、(左面)「右 中山/すぐ 小者ま」/願主に「大坂」とある→江戸期の可能性 1
写真 中山寺の道標4 なかやま 宝塚市 (2丁目)
中山寺信徒会館・西
石道標(花崗岩) 高146㎝,30㎝角 江戸期   たからづかの道標p48 移設? (正面)「すぐ おくのゐん道、是より/十八丁」/建立に「大坂傘講/大和屋与八」とある→「大坂」「氏なし」による」江戸期の可能性大 2
写真 安倉北の道標 あくらきた 宝塚市 (2丁目)安倉会館 石道標(自然石) 高70㎝,幅50㎝,厚30㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面下部右)「右 大坂ミち」、(同左)「左 京ミち」/「大坂」「ミち」の標記は江戸期の可能性 2
写真 売布ガ丘の道標 めふがおか 宝塚市 (1丁目)売布小学校 石道標(砂岩) 高133㎝,幅27㎝,厚18㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ)/たからづかの道標p51 移設/中央で折損→修復 (正面)「左 中山ミち」、(裏面)「右 きよ水 ありま」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 3
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(壹丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道> 町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   たからづかの道標p49/歴史の道1p150 原位置 中山寺(奥の院参道)の町石は中山寺本堂から奥の院に向けて丁数順に並んでいる(本堂が1丁)/(正面上部)「壹丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(貮丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高120㎝,24㎝角 享保19(1734)   たからづかの道標p50/WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「貮丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(三丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「三丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(四丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面上部)「四丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(五丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「五丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(六丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「六丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(七丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道> 町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「七丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(八丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「八丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(九丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「九丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道> 町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「中山寺、右 舊道/左 新道」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十一丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置   (正面上部)「十一丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十二丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置   (正面上部)「十二丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十三丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置   (正面上部)「十三丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十四丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道> 町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十四丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十五丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十五丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十六丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十六丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十七丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十七丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺(奥の院参道)の町石(十八丁) なかやま 宝塚市 <奥の院参道・十七丁>  町石(尖頭角柱) 高135㎝,24㎝角 享保19(1734)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面上部)「十八丁」、(右面下部)「宿坊宝蔵院」、(左面)「亨保十九甲寅年十一月/施主 辰巳休海」 1
写真 中山寺放生地碑 なかやま 宝塚市 <奥の院参道>  境界石(尖頭角柱) 高115㎝,16㎝角 元禄11(1698)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置  (正面)「従是、南・東、放生地」/生類を放す境界を示す碑 1
写真 宝積禅寺の石橋 ほうしゃく たつの市 参道/放生池 石桁橋(弓型) (4G) 江戸前期?   市教委
WEB(石橋巡礼)
保存状態良好 2本橋脚上に横桁、その上に3本の石桁、その上に橋面石を2列に並べる/高欄なし 1
写真 新宮町平野の常夜灯 しんぐう、
ひらの
たつの市 <美作道> 石常夜灯(道標兼) 高1.95m 万延元(1860)   歴史の道4p44,107 原位置?  (竿正面)「八幡宮」、(最上段の角形台石正面)「左/徃/還」、(同左面右)「(左指差し)」/宝珠、笠、中台、竿、猫脚、蓮台のすべてが円形断面(火袋は立方体だが丸味を帯びている、3段の台石は正方形) 1
写真 新宮町平野の道標 しんぐう、
ひらの
たつの市 道の駅しんぐう<美作道> 石道標 高85㎝,幅31㎝,厚26㎝ 元禄15(1702) 市史跡 市教委/歴史の道4p106 C台石→下部埋設/左面の中央剥離→刻字読めない/屋外展示に変更されてから劣化が進行 (正面)「左 ひめち道」、(左面)「右 □□乃道」(=龍野) 3
  新宮町新宮の道標 しんぐう、
しんぐう
たつの市 <美作道> 石道標 高80㎝,幅24㎝,厚22.5㎝ 天保11(1840)   歴史の道4p106   (正面)「右 王うくわん道」、(左面)「左 王うくわん道」  
写真 御津町苅屋の道標1 みつ、かりや たつの市   石道標(花崗岩) 高96㎝,21㎝角 慶応4(1868)   市教委/WEB 原位置 (正面)「左 飛め知"道」(=姫路)、(左面)「右 むろ津道」/御津町苅屋の道標1・2は建立年月、内容が全く同じの道標 1
写真 御津町苅屋の道標2 みつ、かりや たつの市   石道標(花崗岩) 高71㎝,21㎝角 慶応4(1868)   市教委/WEB 移設/C台座、下部埋設 (正面)「左 飛め知"…」(=姫路)、(左面)「右 むろ津…」/御津町苅屋の道標1・2は建立年月、内容が全く同じの道標 2
写真 神岡町東觜崎の道標 かみおか、 ひがしはしさき たつの市 <釈迦の渡し> 石道標(尖頭角柱、花崗岩)   江戸期   WEB(的形道標クラブ) 復元 (正面)「寝釈迦のわたし」、(右面)「右 千本、みま/さか、ミち」、(左面)「左 たつの、むろ/つ、みち」、(裏面)「スグ上ミ/いぼがミさん」/「ミち」の標記は江戸期 4
写真 正條の渡し・跡 しょうじょう たつの市 <山陽道>/揖保川  渡し場   18世紀中葉以前   WEB(的形道標クラブ) 場所が特定されている程度で遺構はない 1750年代の絵図『中國行程記』に、「川広八十間、地水広三十間、船渡り」「地水弐文、中水八文、満水十六文」と記載 4
写真 室津の舟つなぎ石・跡 むろつ たつの市 <室津湊>  舟繋石 高約30㎝→5㎝ 近世?   市教委 ほぼC埋設 室津湊に残る船つなぎ石 4
写真 室津の常夜灯 むろつ たつの市 賀茂神社・門前<室津湊> 石常夜灯
(海運)(花崗岩)
高4.00m 弘化2(1845)   市教委 移設 豪商「嶋屋」西側の雁木付近にあった常夜灯/石基壇なし 2
写真 室津の湊口御番所・石垣 むろつ、
みなとぐち
たつの市 <室津湊>  番所   江戸期   現地解説板/WEB 一部積直し 室津湊の番所石垣 2
写真 室津の大坂城石垣・残石 むろつ たつの市 <大坂城石垣>
<室津湊>
残石(花崗岩) 2基,長4.1m,幅1.7m,高1.4m 元和6~寛永5(1620-28)   芦屋市文化財報告書61p3/現地解説板 湊口御番所・跡に設置 徳川大坂城築造の際に西から運ばれ、室津海岸で海中に落下したとされる石材/長く港の海底に沈んでいたが、昭和47の室津漁港修築工事の際に引揚げ、湊口番所跡に設置された/現地解説版では豊臣大坂城の残石と書いてあるが、矢穴寸法から見て間違い(左記・報告書61) 2
写真 貝掘の井戸 かいぼり たつの市 <室津湊>  井戸   鎌倉期?   現地解説板/WEB/市教委 上部石組は新設? 土佐へ流罪となった法然が室津に滞在した際に飲料水に困る住民のために貝で掘ったとの伝説が残る井戸 3
写真 柏原町柏原の愛宕常夜灯 かいばら、
かいばら
丹波市 西楽寺・北西 石常夜灯   寛延2(1749)   WEB(宮様の石橋) 原位置  (竿正面)「愛宕常夜燈」/石基壇なし 1
写真 氷上町三原の愛宕常夜灯 ひかみ、
みはら
丹波市   石常夜灯   文政2(1819)   WEB(宮様の石橋) 原位置  (中台正面)「愛宕山」/石基壇あり 1
写真 柏原町柏原の太神宮常夜灯(新町高灯籠) かいばら、
かいばら
丹波市 <山陰道> 石常夜灯 高5.21m 天保7(1836) 市建造物 歴史の道3p43/現地解説板 原位置  (竿)「内外/両宮、奉燈」、(2段目台石正面)「御/領/中」/柏原下町の田村重三郎の発意と柏原藩領内の民衆の寄進により伊勢神宮の内外両宮を遙拝献灯するために建立された/石工・初代難波金兵衛/和泉砂岩(大阪・泉南)を用いた常夜灯は、大型であるだけでなく、宝珠の先端、 笠の四隅の反りなどが鋭角的で、火袋の隅柱や竿のくびれも細く、全体に精緻に仕上げられている 1
写真 春日町上三井庄の太神宮常夜灯 かすが、かみみのしょう 丹波市 東漸寺・参道入口 石常夜灯   嘉永2(1849)   WEB(宮様の石橋) 原位置  (竿正面)「太神宮」、(最上段台石正面)「村/内/安/全」/石基壇あり 1
写真 氷上町香良の常夜灯 ひかみ、
こうら
丹波市   石常夜灯   安政6(1859)   WEB(宮様の石橋) 移設  (最上段台石正面)「附/油/田」/石基壇なし 2
  春日町小多利の題目塔道標 かすが、
こたり
丹波市   石道標(板碑型)   元禄元(1688)   市教委(氷上郡の道標)   (正面右)「右ハ 川合 大はらミち」、(同左)「左ハ じゅんれいみち」/正面中央に「(梵字)南無大悲觀世音菩薩」と陰刻/正面全面を蒲鉾型に削り込み文字を陰刻、最下部に蓮花を陰刻/17世紀の道標  
写真 春日町小多利の供養塔道標 かすが、
こたり
丹波市   石道標(駒型) 高151㎝
(塔身のみ)
宝永元(1704)   市教委(氷上郡の道標)/WEB(宮様の石橋) 原位置?(石基壇の上にC) (正面右)「右ハ 山の内道」、(同左)「左ハ たんご道」/正面中央に「奉供養 西國卅三所順礼爲二世安樂」と陰刻、最下部に蓮花を陰刻/石基壇あり 1
  市島町戸平の道標 いちじま、
とべら
丹波市   石道標(駒型)   宝永6(1709)   市教委(氷上郡の道標)   (正面右端)「右 やまミち」、(同左端)「左 くろいミち」/正面中央を卒都婆型に削り込み中央に「觀世音菩薩」と陰刻    
  市島町下竹田の地蔵道標1 いちじま、
しもたけだ
丹波市 (才田) 石道標   宝暦元(1751)   市教委(氷上郡の道標)   「右 ほうらく寺道/左 なりあいミち」/○○に地蔵○像を陽刻、○○に「南無觀世音菩薩」と陰刻    
  市島町上田の地蔵道標 いちじま、
かみだ
丹波市   石道標(変形舟型)   宝暦7(1757)   市教委(氷上郡の道標)   (正面像左)「左 志ゆん連い道」/正面右側に地蔵立像(錫杖、蓮台、右手で左方向を指差し)を浮彫   -
  春日町野村の題目塔道標1 かすが、
のむら
丹波市   石道標(自然石)   安永4(1775)   市教委(氷上郡の道標)   (正面右)「右 なが谷 おいれ」、(同左)「左 こく里やう ささ山」/正面中央に「南無觀世音菩薩」と陰刻    
  氷上町伊佐口の地蔵道標 ひかみ、
いさくち
丹波市   石道標(舟型) 高88㎝,幅34㎝,厚16㎝ 天明7(1787)   歴史の道3p146/市教委(氷上郡の道標) 上部折損→修復 (光背右)「右 う道」、(同左)「左 いくう庵」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
  氷上町鴨内の道標 ひかみ、
かもうち
丹波市   石道標(自然石)   天明7(1787)   市教委(氷上郡の道標)   (正面右下)「右 たんご道」、(同左下)「左 たじま道」/正面中央に「奉納 石書寫大乗妙典全部」と陰刻    
  春日町野上野の題目塔道標 かすが、
のこの
丹波市   石道標(板碑型?)   寛政5(1793)   市教委(氷上郡の道標)   (正面下部)「右 たなはら/左り京 大坂/左 たんご」/正面上部に「南無阿弥」と陰刻    
  春日町牛河内の道標 かすが、
うしがわち
丹波市   石道標(自然石)   寛政8(1796)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「みぎ たじまミち さじ/ひだり はりまミち わだ」 2 -
写真 氷上町常楽の道標 ひかみ、
じょうらく
丹波市   石道標(自然石) 高262㎝,幅128㎝,厚70㎝ 寛政11(1799)   歴史の道5p146 原位置? (正面)「(梵字)高山寺道」 1
  氷上町横田の大師道標 ひかみ、
よこた
丹波市 <山陰道> 石道標(自然石) 高63㎝,16㎝角 寛政13(1801)   歴史の道3p45,145/市教委(氷上郡の道標) 下部埋没 (正面像下)「右 たしま/左 はり満、道」/正面上部を削り込み弘法大師坐像を陽刻 2
写真 青垣町遠阪の道標 あおがき、
とおざか
丹波市 <山陰道> 石道標(頂部刳り込み角柱) 高120㎝,
幅25.5㎝,厚25㎝
享和3(1803) 市建造物 歴史の道3p147/WEB(指定文化財リスト)/市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 たしま ゆしまみち/これより五丁/左 今出 在所 みち」、
(右面)「左 京 大坂 道」/正面上部に「熊野權現宮」と陰刻
 
  春日町野瀬の道標1 かすが、
のせ
丹波市   石道標(自然石)   文化5(1808)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 のせ ほそみ ミち/左 古く料 かやの道」    
  春日町野瀬の道標2 かすが、
のせ
丹波市   石道標(自然石)   文化5(1808)   市教委(氷上郡の道標) 頂部一部欠損 (正面)「右 古く料 かや乃ミち/左 京 大坂 さゝ山道」 2
  氷上町三方の題目塔道標 ひかみ、
みかた
丹波市   石道標(自然石)   文化8(1811)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 二代みち/左 さかみち」/正面に「南無阿弥陀佛」と、蓮花を陰刻    
  春日町野瀬の道標3 かすが、
のせ
丹波市   石道標(自然石)   文化10(1813)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 くりから そのべ道/左 ほそみ 大原道」    
  市島町下竹田の地蔵道標2 いちじま、
しもたけだ
丹波市 (才田) 石道標(舟型)   文化12(1815)   市教委(氷上郡の道標)   (光背左)「さいこくみち」/光背中央に地蔵立像(蓮の花)を陽刻  
  山南町和田の道標1 さんなん、
わだ
丹波市   石道標(自然石)   文化13(1816)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「 京 大阪 久下/左 んご たじま」    
  柏原町見長の道標 かいばら、
みなが
丹波市 <山陰道> 石道標(尖頭角柱) 高120㎝,幅27㎝,厚26㎝ 文政3(1820)   歴史の道3p144/市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 者り満」、(左面)「左 京 大坂」/正面に「(梵字)爲光明眞言三百万遍供養之」と陰刻  
  氷上町上成松の題目塔道標 ひかみ、
あげなりまつ
丹波市   石道標(自然石)   文政3(1820)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 かどの/左 高山寺」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻    
  氷上町黒田の題目塔道標 ひかみ、
くろだ
丹波市   石道標(自然石)   文政4(1821)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「 高山寺みち/是より十六丁」/正面に「南無阿弥陀佛」と、蓮花を陰刻    
  氷上町福田の地蔵道標 ひかみ、
ふくた
丹波市   石道標(丸彫)   文政5(1822)   市教委(氷上郡の道標)   (台石正面)「右 山道/左 くわんをん」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる  
  市島町多利の地蔵道標 いちじま、
たり
丹波市   石道標(舟型)   文政6(1823)   市教委(氷上郡の道標)   「右 神池寺道」「左 村道」/光背中央に地蔵像を陽刻    
  春日町野村の題目塔道標2 かすが、
のむら
丹波市   石道標(尖頭角柱)   文政10(1827)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 むら/左京 大坂道」/正面に「南無觀世音菩薩」と陰刻    
  春日町野上野の地蔵道標 かすが、
のこの
丹波市   石道標(舟型)   天保元(1830)   市教委(氷上郡の道標)   (光背右上)「なりあい」/光背中央に地蔵立像(左手で右方向を指差し)を陽刻  
  市島町喜多の道標 いちじま、
きた
丹波市   石道標(自然石)   天保2(1831)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「(梵字)、右 竹田 福知山/左 梶原 一じま」    
  氷上町佐野の道標 ひかみ、さの 丹波市   石道標(尖頭角柱)   天保4(1833)   市教委(氷上郡の道標) 頂部一部欠損  (正面)「すく、かい原 黒井/たんご道」、(左側面)「左、なり松 さし/たしま道」 2
  氷上町新郷の道標 ひかみ、
しんごう
丹波市   石道標(自然石)   天保4(1833)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 いそ かいば/左 むら」    
写真 青垣町佐治の道標 あおがき、
さじ
丹波市 <山陰道> 石道標(尖頭角柱) 高125㎝,幅28㎝,厚28㎝ 天保6(1835) 市建造物 歴史の道3p147/市教委(氷上郡の道標) 原位置 (正面)「右 由し満」(=湯島)、(右面)「左 京 大坂」、(左面)「左 いくの」 1
  春日町国領の道標1 かすが、
こくりょう
丹波市   石道標   天保6(1835)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右、神池寺/三井乃庄」、(左面)「左 なりあい」  
  山南町上滝の地蔵道標1 さんなん、
かみたき
丹波市   石道標(舟型)   天保6(1835)   市教委(氷上郡の道標) 中央で水平に折損→修復 (光背右)「右 やまみち」、(同左)「左 かい者"ら」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
  春日町国領の道標2 かすが、
こくりょう
丹波市   石道標(自然石)   天保8(1837)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「左 京 ささ山道」    
  市島町与戸の道標 いちじま、
よと
丹波市   石道標(自然石)   天保9(1838)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 音河内/左 香良」    
  山南町上滝の地蔵道標2 さんなん、
かみたき
丹波市   石道標(舟型)   天保12(1841)   市教委(氷上郡の道標) 原位置?/木祠内 (光背右)「右 於いれ 古くりやう」、(同左)「左 かい者"ら さしみち」/光背中央に地蔵立像、頭部の後ろに輪光を陽刻 1
  柏原町下小倉の道標 かいばら、
しもおぐら
丹波市   石道標(丸彫)   天保13(1842)   市教委(氷上郡の道標) 地蔵の上半身欠損 (台石正面)「 太田 白志/左 ささは」/上部に地蔵坐像の丸彫りが載る、台石正面中央に「天下泰平國家安」と陰刻 3  
  春日町野村の題目塔道標3 かすが、
のむら
丹波市   石道標   弘化元(1844)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右、国里やう/かひ原/左 むら道」/正面に「南無觀世音菩薩」と陰刻    
  氷上町絹山の大日如来像道標 ひかみ、
きぬやま
丹波市 絹山公民館・前 石道標(尖頭角柱) 高83㎝,幅24.5㎝,厚22㎝ 天保15(1844)   歴史の道3p146/市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 浅山ふ堂うみち」/正面上部に大日如来坐像を陽刻、像右に「大日如来」、像下に「兵法一傅流授け/堂もふ古跡也」と陰刻  
  氷上町香良の不動明王像道標 ひかみ、
こうら
丹波市   石道標(尖頭角柱)   弘化元(1844)   市教委(氷上郡の道標)   (正面左下隅)「左 ふどう道」/正面上部に小さな不動明王坐像(一面二臂、背景に迦楼羅焔)を陽刻、その下に「奉讀誦金剛経一石一字供養塔」と陰刻  
  山南町和田の道標2 さんなん、
わだ
丹波市 (富田) 石道標(自然石)   弘化2(1845)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 以王や山/左 すき原」    
  春日町国領の道標3 かすが、
こくりょう
丹波市   石道標(自然石)   嘉永5(1852)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 大坂/左 山道」    
  山南町金屋の地蔵道標 さんなん、
かなや
丹波市   石道標(自然石)   嘉永5(1852)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 わだ/左 の道」/○○に地蔵を陽刻    
  山南町青田の道標 さんなん、
あおだ
丹波市   石道標(自然石)   嘉永6(1853)   市教委(氷上郡の道標)   「右 京 大坂」「左 ささ山」/地蔵像を    
  市島町徳尾の道標 いちじま、
とくお
丹波市   石道標(自然石)   安政元(1854)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 大はら/左 山みち」    
  春日町稲塚の道標 かすが、
いなづか
丹波市 (大野) 石道標(自然石)   安政3(1856)   市教委(氷上郡の道標) 正面一部剥離 (正面)「右 むら くわんのん/左 ふくち山じゅん□□ 2 -
  山南町金屋の道標 さんなん、
かなや
丹波市   石道標(自然石)   安政3(1856)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 竹林山」    
  氷上町香良の道標 ひかみ、
こうら
丹波市   石道標(自然石)   安政5(1858)   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「左 ふどう道」    
  柏原町大新屋の地蔵道標 かいばら、
おおにや
丹波市   石道標(自然石)   文久3(1863)   市教委(氷上郡の道標)   「左 なり松」/地蔵○像を○刻    
  氷上町常楽の供養塔道標 ひかみ、
じょうらく
丹波市   石道標(自然石) 高128㎝,幅59㎝,厚36㎝ 元治元(1864)   歴史の道5p146   (正面右)「右 加以波良」、(同左)「左 奈り松 者りま」(=成松,播磨)/正面中央に「南無觀世音一字一石供養塔」と陰刻  
  市島町戸坂の題目塔道標 いちじま、
とさか
丹波市   石道標(自然石)   慶応元(1865)   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 ふくち山/左 むら道」/正面に「奉書寫 南無阿弥陀佛一万數供養」と陰刻    
  柏原町柏原の道標 かいばら、
かいばら
丹波市 (屋敷)<山陰道> 石道標(尖頭角柱) 高99㎝,23.5㎝角 江戸期   歴史の道3p145 下部埋没 (正面)「左 者り・・・」、(右面)「右 たんこ 多し・・・)」 2
  市島町中竹田の地蔵道標 いちじま、
なかたけだ
丹波市 (高坂) 石道標(舟型)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (光背右)「右 一ノかい あらき」、(同左)「左 やまミち」/光背中央に地蔵○像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期    
  柏原町石戸の道標 かいばら、
いしど
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 山ミち/左 久下 谷川」/「ミち」の標記は江戸期    
  山南町阿草の道標 さんなん、
あくさ
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「左 京 大坂 道」/「大坂」の標記は江戸期    
  山南町上滝の道標 さんなん、
かみたき
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 おいれ/左 かいばら、ミち」/「ミち」の標記は江戸期    
  山南町金屋の題目塔道標 さんなん、
かなや
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (○面)「右 ふどうミち/左 いわやミち」/「南無阿弥陀佛無縁結界」と正面に陰刻/「ミち」の標記は江戸期    
  山南町谷川の地蔵道標 さんなん、
たにがわ
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 やま道/左 清水 大坂」/正面上部に地蔵立像を陽刻/「大坂」の標記は江戸期  
  山南町谷川の道標1 さんなん、
たにがわ
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右ハ 大坂道」/「大坂」の標記は江戸期    
  山南町谷川の道標2 さんなん、
たにがわ
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面右)「右 ふ江ぢ/ひらいし」、(同左)「左、山田 きよ水/大坂 しろ山いなり」)、(同中央下部)「道」/「大坂」の標記は江戸期  
  山南町谷川の道標3 さんなん、
たにがわ
丹波市   石道標(自然石)   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   「(梵字)、右 ささ山 京 大坂/左 かい原 丹ご たしま、道」/「大坂」の標記は江戸期    
  氷上町北油良の地蔵道標 ひかみ、
きたゆら
丹波市   石道標(舟型)   江戸期   市教委(氷上郡の道標) 光背左上が欠損  (光背右)「右 坂 ふどう道」、(同左)「左 やまミち」/光背頂部に梵字を陰刻、中央に地蔵立像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期 2
  氷上町絹山の道標 ひかみ、
きぬやま
丹波市   石道標   江戸期   市教委(氷上郡の道標)   (正面)「右 村ミち/左 ふどうミち」/「ミち」の標記は江戸期    
  石龕寺の岩屋道町石
(基石)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高73㎝,幅20㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 市教委(山南町文化財のすがた/兵庫県指定文化財調査報告昭和39年度) 移設/空・風輪欠損 石龕寺の岩屋道町石は、麓から山頂に向けて丁数順に並んでいる/石龕寺の岩屋道町石の基石?/地輪頂部に地蔵立像を陽刻→五輪塔町石で地蔵像が彫られた最初の事例/石龕寺の町石は大正期の石龕寺移転に伴って全基移設されている 3
  石龕寺の岩屋道町石
(卅五町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高51㎝,幅19㎝,厚16㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設 (正面)「卅五町」/以下同上 3
  石龕寺の岩屋道町石
(卅二町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高80㎝,幅22㎝,厚20㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空輪欠損/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)卅二町」/以下同上 3
  石龕寺の岩屋道町石
(卅一町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高53㎝,幅18㎝,厚15㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)卅一町」/以下同上 4
写真 石龕寺の岩屋道町石
(廿八町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高105㎝,幅17㎝,厚17㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設→石龕寺境内に再移設/基部露出(高さに含まれる) (正面)「(梵字)廿八町」/以下同上 2
写真 石龕寺の岩屋道町石
(廿二町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔)   室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設→刻字が見えない (正面)「廿…」/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(廿一町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高70㎝,幅18㎝,厚18㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪欠損/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)廿一町」/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(廿丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高79㎝,幅20㎝,厚20㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/「廿丁」と後世に追刻し、再町石化/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)廿丁」/薄く「卅六丁」と陰刻→後世に再町石化/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十九丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高59㎝,幅20㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪欠損/地輪下部埋設/平成13に工事用ダンプがぶつかり毀損 (正面像下)「十九丁」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻/以下同上 4
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十八町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高67㎝,幅19㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設→平成15に河川改修に伴い橋上に再移設/空・風・火・水輪欠損/地輪下部埋設 (正面像下)「十八町」/地輪頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻/以下同上 3
  石龕寺の岩屋道町石
(十七町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高39㎝,幅20㎝,厚17㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪と地輪の上半分以上欠損 (正面)「…(梵字)十七町」/以下同上 5
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十六町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高114㎝,幅22㎝,厚21㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設 (正面像下)「十六町」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 2
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十五町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高92㎝,幅20㎝,厚20㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設 (正面像下)「十五町」/地輪頂部を削り込み地蔵坐像を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十四町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高95㎝,幅20㎝,厚18㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/C庵内/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)十四町」/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十三町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高121㎝,幅22㎝,厚22㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/C庵内 (正面像下)「十三町」/地輪頂部を削り込み地蔵立像を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(十二
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔)   室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪は後補の可能性/地輪下部埋設 (正面像下)「十二丁」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(錫杖)を陽刻/以下同上 3
  石龕寺の岩屋道町石
(十町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高43㎝,幅19㎝,厚20㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪欠損/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)十町」/以下同上 4
写真 石龕寺の岩屋道町石
(八町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高90㎝,幅20㎝,厚17㎝ 応永6(1399) 県史跡 同上 移設 (正面像下)「八町」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/唯一建立年が刻字されている/以下同 2
写真 石龕寺の岩屋道町石
(七丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高96㎝,幅21㎝,厚21㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/「七丁」を後世に追刻し、再町石化 (正面像下)「七丁」/薄く「廿五」と陰刻→再町石化/地輪頂部を削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 3
  石龕寺の岩屋道町石
(六町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高67㎝,幅17㎝,厚17㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪欠損 (正面)「(梵字)六町」/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(五丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高61㎝,幅19㎝,厚18㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設 (正面像下)「五丁」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 2
写真 石龕寺の岩屋道町石
(四丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高117㎝,幅23㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設 (正面像下)「四丁」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/水輪正面に梵字を線刻/以下同上 2
  石龕寺の岩屋道町石
(三丁)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高64㎝,幅20㎝,厚18㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪欠損/地輪下部埋設 (正面)「(梵字)三丁」/以下同上 3
写真 石龕寺の岩屋道町石
(二町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高125㎝,幅18㎝,厚15㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設 (正面像下)「二町」/地輪頂部を削り込み地蔵立像(錫杖)を陽刻/以下同上 2
  石龕寺の岩屋道町石
(一町)
せきがん、
いわや
丹波市 <岩屋道> 町石(五輪塔) 高93㎝,幅19㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/地輪下部埋設? (正面)「(梵字)一町」/大正期の石龕寺移転に伴って移設された/以下同上 3
  石龕寺の寺坂道町石
(十丁)
せきがん、
てらさか
丹波市 <寺坂道> 町石(五輪塔) 高55㎝,幅18㎝,厚10㎝ 室町期? 県史跡 市教委(山南町文化財のすがた/兵庫県指定文化財調査報告昭和39年度) 移設/空・風輪欠損/地輪下部埋設 石龕寺の寺坂道町石は、麓から山頂に向けて丁数順に並んでいる/(正面)「(梵字)十丁」/以下同上 4
  石龕寺の寺坂道町石
(五町)
せきがん、
てらさか
丹波市 <寺坂道> 町石(五輪塔) 高53㎝,幅17㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風・火・水輪・地輪下部埋設 (正面)「(梵字)五町」/以下同上 4
  石龕寺の寺坂道町石
(基石)
せきがん、
てらさか
丹波市 <寺坂道> 町石(五輪塔) 高111㎝,幅20㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設/空・風輪欠損 石龕寺の寺坂道町石群の基石?/地輪頂部を削り込み地蔵立像を陽刻/以下同上 2
  石龕寺の寺坂道町石
(六丁)
せきがん、
てらさか
丹波市 <寺坂道> 町石(五輪塔) 高110㎝,幅19㎝,厚19㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設 (正面)「(梵字)六丁」/以下同上 2
  石龕寺の寺坂道町石
(四丁)
せきがん、
てらさか
丹波市 <寺坂道> 町石(五輪塔) 高120㎝,幅18㎝,厚18㎝ 室町期? 県史跡 同上 移設 (正面)「(梵字)四丁」/以下同上 2
  広小路土塀 ひろこうじ 丹波市   土塀 長41m 江戸末期 市史跡 市教委 平成7の修復は原型復帰ではなく、 「土塀があった」という歴史を示すだけの「別物」 柏原陣屋から北へ延びる道と柏原藩士居宅群の間に構築された土塀 4
  野上の地蔵道標 のじょう 豊岡市   石道標 高72㎝ 安永7(1778)   市教委(豊岡市の石造遺物p82)   (正面)「右ハこんかう寺道/左ハゆしま道」  
  木内の道標 きなし 豊岡市   石道標 高79㎝ 文政8(1825)   市教委(豊岡市の石造遺物p82)   (正面)「右 八十七番見発道/左 一番金願寺道」   -
写真 栃江の地蔵道標 とちえ 豊岡市   石道標(駒型) 高98㎝ 江戸期   市教委(豊岡市の石造遺物p82) 原位置 (正面像下)「右 とよおか/左 由しま、道」/正面上部を円形に削り込み小さな地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
  今森の地蔵道標 いまもり 豊岡市   石道標 高76㎝ 江戸期   市教委(豊岡市の石造遺物p82)   (正面)「右、志やうでん/いづし、道」  
  庄の地蔵道標 しょう 豊岡市   石道標 高50㎝ 江戸期   市教委(豊岡市の石造遺物p82)   (正面)「すぐ とよおかへ/左 ゆしま」   -
  三原の豊岡藩境石 みはら 豊岡市   境界石 高150㎝ 享保11(1726)以前   市教委   (三面に)「從是西 豊岡領」  
写真 京口の渡し・跡 きょうぐち 豊岡市   渡し場・船着場   江戸後期   豊岡河川国道事務所/WEB 石垣は更新 出石街道の渡し場兼円山川舟運の船着場/移設された常夜灯と共に石垣は江戸後期の豊岡小田井の石工・森田紋左衛門の作とされる/京都へ向かう城下町の出口に当たるため京口と呼ばれる 4
  元・京口の渡しの常夜灯 きょうぐち 豊岡市 豊岡高校内達徳会館・前
<円山川・出石街道>
石常夜灯
(河川舟運)
高4.85m→3.50m 天保7(1836)   WEB/豊岡市の石造遺物p98/歴史の道5p252 移設 出石街道の渡し場兼円山川舟運の船着き場であった京口の渡しの常夜灯/寄進:金毘羅講中、伊勢講 3
写真 瀬戸の方角石 せと 豊岡市   方角石 直径35㎝,高79㎝(うち、台石59.5㎝) 文政8(1825)or明治18(1885)   豊岡市の石造遺物p122 保存のためホテル金波楼庭園内へ移設 側面に「乙酉秋 建設 和泉太左衛門」と陰刻→瀬戸村 和泉太左衛門により文化7(1810)に寄進された常夜灯が金毘羅神社に存在し、同一人物による建立と考え、文政8建立とする説と、「建設」の刻字、風化状況から明治18とする説が存在 3
写真 津居山港の北前船係留施設 ついやま 豊岡市   舟繋石・舟繋杭 石杭2基,目繰り10基,もやい岩6基     但馬の湊と和船係留跡についてp79-81/WEB   津居山湾西岸に残る北前船の係留施設/「長磯」と呼ばれる500m続く岩礁地帯に点在する/港町に近い付近に見張り岩と呼ばれる岩礁を階段状に掘削した岩も残る 1
  竹野の北前船係留施設 たけの 豊岡市   舟繋石・舟繋杭
(花崗岩)
目繰り1基,石杭10基     但馬の湊と和船係留跡についてp77-79   猫崎半島東側の岩礁地帯「アド」に残る北前船の係留施設/石杭は地元産の石材が使用されている 1
写真 円山川の護岸石垣 まるやま 豊岡市 戸牧川(左岸)<円山川> 石堤防(玄武岩) 長約40m 江戸期   豊岡あっちこっち歩いて見まっぷ 河道変更によって市街地の小河川の護岸として再利用 高さは異なるが水平方向に目の通った布積み→江戸期の石積みとしては異例 3
写真 大保恵堤・跡 おおぼえ 豊岡市 (上郷)
<円山川(右岸)・出石藩>
土堤防 長約500m,高2m 江戸末期   豊岡河川国道事務所/上坂晴生/WEB 国道482号線により寸断 上郷を守るため出石川右岸に構築された堤防/堤高が低く、軽い増水時の洪水防止と、中程度以上の増水時に越流した水を遊水地で貯留する機能があったとされる/近代に左岸に堤防を構築した事により無効化/同様の堤防が円山川・出石川・八代川一帯に7つ築かれ、合わせて七堤と呼ばれていたとされる→大正9~昭和9の円山川大改修に伴い多くは消滅 2
  上郷の水害防備林 かみごう 豊岡市 円山川(右岸) 水害防備林 約1.5㎞ 江戸末期~明治初期   上坂晴生/WEB 当初は竹→現在は雑木林化 円山川右岸に植えられた水害防備林/周辺の農民が水害防備の目的で竹を植樹 3
写真 瀬戸奥面台場・跡 せと、
おくめん
豊岡市 マリンワールド敷地内
<豊岡藩>
台場   文久2(1862)   WEB(城めぐ) 石垣が一部残るものの波により崩壊が進む   4  
写真 西宮神社の反橋 にしのみや 西宮市 西宮神社・茶屋前 石桁橋(弓型) (2G) 嘉永元(1848)   WEB(石橋巡礼) 保存状態良好 全体の規模の割に2本の細い橋脚(間隔かなり大)の上に横桁を置き、横桁とは関係なくさらにその上に載せた両端の弧状の桁石上に橋面石を載せる/高欄に雲形装飾 1
写真 社家町の常夜灯 しゃけ 西宮市 西宮神社<山陽道> 石常夜灯
(道標兼、花崗岩)
高2.58m 寛政11(1799) 市有形 市教委/歴史の道2p159 移設/火袋更新(原形と異なる) (正面)「西宮太神宮 左、京都/大坂、道」、(左面)「右、兵庫/はり満、道」/本町筋すぐ南路側に建てられていたとされる 4
写真 下大市西町の道標 しもおおいちにし 西宮市 <西国街道> 石道標(尖頭角柱) 高100㎝,21㎝角 元文5(1740)頃   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面)「すぐ 加婦と山観音、是より/十五丁」(=甲山)/右面に施主として「大坂新町 折屋徳兵衛」の名があり、建立年代が特定できる 2
写真 津門西口町の道標 つと、
にしぐち
西宮市 昌林寺・門前<山陽道> 石道標(尖頭角柱) 高140㎝ 嘉永2(1849)   歴史の道2p158 移設 (右面)「従是北二丁余/津門村、松原山昌林寺」、(左面)「四天王手植松 村東に鬼塚あり」/正面に「頼光卿御影堂□幸壽丸舊地」と陰刻 2
写真 門戸岡田町の道標 もんどおかだ 西宮市 <西国街道・有馬道> 石道標(尖頭角柱) 高147㎝,幅32㎝,厚30㎝ 文久2(1862)   WEB(的形道標クラブ)/WEB(神戸の道しるべ) 原位置だが面の向きが違う(追刻字に回転?)/最下部アスファルト舗装で埋設 (正面)「(左指差し)日本・三躰、厄神明王社」、(右面)「すぐ 京都 伊丹 池田道」、(同左下端)「左ハ 参詣ちかみち」、(左面)「すぐ 西宮 兵庫」、(裏面)「是より門前迄 西へ五丁/中山神 三田 有馬道」/正面の刻字は他面に比べ新しく字体が異なるため、追刻と考えられている 2
写真 甲山太師町石(十三丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 原位置?/基部C(?)固定 甲山太師(神呪寺)の町石は、町数順に遠方から並べてある(本堂下の仁王門が一丁⇒逆順/「(梵字) 十三丁」/この町石のみ寄進者名が刻字 2
写真 甲山太師町石(十一丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 原位置? 「(梵字) 十一丁」 1
写真 甲山太師町石(九丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 「九」の中央から下部欠損 「(梵字) 九丁」 4 -
写真 甲山太師町石(八丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 下部埋設 「(梵字) 八丁」 3 -
写真 甲山太師町石(七丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 移設?/基部露出 「(梵字) 七丁」 2
写真 甲山太師町石(四丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 移設 「(梵字) 四丁」 2
写真 甲山太師町石(三丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 移設(撤去→放置→昭和58再設置) 「(梵字) 三丁」 2
写真 甲山太師町石(一丁) かぶとやま 西宮市 <甲山参詣道> 町石(尖頭角柱)   宝暦年間(1751-63)以降   WEB 原位置?  「(梵字) 一丁」 1
写真 小松南町の尼崎藩境石 こまつみなみ 西宮市 (2丁目)岡太神社
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高164㎝,22㎝角 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設 (正面)「従是東 尼﨑領」、(右面)「従是東 尼﨑領」、(左面)「従是西、尼﨑/他領、入組」 2
写真 段上町の尼崎藩境石 だんじょう 西宮市 (3丁目)西広寺・門前
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱) 高171㎝,幅21㎝,厚18㎝ 寛文4(1664)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 昭和37に西広寺で工事の際に発見→再建立(移設) (3面に同じ表記)「従是東北尼﨑領」/段上と上大市の境界に建っていたと推定される 2
写真 津門西口町の尼崎藩境石 つとにしぐち 西宮市 津門神社<尼崎藩> 境界石(尖頭角柱) 高185㎝,幅22㎝,厚22㎝ 寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
  WEB/尼崎の道標を訪ね歩く 移設 (正面)「従是西尼﨑領」、(右面)「従是西尼﨑領」、(左面)「従是東、尼﨑/侘領、入組」 2
写真 髭の渡し・跡 ひげ 西宮市・尼崎市 <西国街道>/武庫川 渡し場   文政8(1825)以前   WEB(的形道標クラブ) 場所が特定 渇水期は徒行渡し、増水時は肩車か輦台渡し→文政8に渡船が許可 4
写真 今津灯台 いまづ 西宮市   灯明台(海運) 高6.7m
(うち、基壇0.7m)

文化7(1810)
→安政5(1858)再建

市建造物 市教委/WEB 現役の航路標識として点灯(電気)/長部本店の後身である大関酒造が維持管理/昭和40に解体修理、59に行灯の格子、銅板屋根、基壇を更新 創建:酒造「長部本店」・長部長兵衛、再建:長部分次郎/今津に出入りする灘酒廻船のため設置された常夜灯型の木造灯台/寛政11(1799)長部本店の樽廻船が海難事故を起こした→海上安全のため大坂谷町奉行所の許可を得て築造/安政5に長部分次郎により基盤の嵩上げ、櫓の補強等が行われた 3
  今津港 いまづ  西宮市 新川 港湾 長約200m 寛政5(1793)   WEB 開削流路部分を現在も港として利用 開発:今津酒造家・米屋伊兵衛/今津に出入りする灘酒廻船のため、今津村南の新川から運河を砂州に開削し、河口を港とした/港入口に上記「今津灯台」が残る 4
写真 二テコ池   西宮市 剣谷川・社家郷用水 溜池(土堰堤) 堤長約50m 室町~江戸期   市教委 阪神淡路大震災により堤防に大きな亀裂が入り、大幅な改修 室町期に西宮神社の大練塀(下記参照)を造る土を掘り出した跡が池となり、土を運ぶ掛け声からニテコの名がついたとされる/農業用溜池として使用されていたが、大正13から越水浄水場の取水溜池として利用され、取水停止された現在も水道局により管理 4
  甲陽大池 こうようおお 西宮市 社家郷用水 溜池(土堰堤) 面積9ha 正保3-承応2(1646-53)   市教委/WEB(環境学習都市・にしのみや) 阪神淡路大震災により堤防決壊/西半分が埋め立てられ甲陽園小学校となる 企画:尼崎藩主・青山幸成/仁川上流で取水する社家郷の取水量を減らし、上ヶ原台地の新田開発と下流の大市庄の用水確保を行う目的で築造 4
  百間樋用水 ひゃっけんび 西宮市 武庫川(右岸) 用水路 導水樋:長240m 永禄年間(1558-70)
~天正2(1574)
  市教委/WEB 現役/導水樋江戸期に4回更新、大正8にC製に更新/水路はC改修/現在も井親であった旧5村が百間樋井組として管理 武庫川下流右岸へ導水する用水(武庫川・仁川は下流で伏流水となり夏季に干上がることもあったため武庫川上流で取水)/天井川である仁川と交差する地点に川底を通す木製水樋を設置→百間(180m)あったため百間樋用水と呼ばれる/5村が井親として年番で用水を運営し、用水を使用する残りの村は井親に米・酒を納めた(渇水の際は井親が最優先で利用) 4
  上ヶ原用水路の岩穴 うえがはら 西宮市 仁川(右岸) 素掘トンネル
(水路)
長127m,高106㎝,幅54.5㎝ 享和2(1802)   市教委 出口をC改修/数ヶ所のズリ出し穴から内部を見る事ができる 34年の工期を経て開削された上ヶ原用水のトンネル/大井滝の取水口付近から仁川に沿うように開削 3
  山之井用水の隧道 やまのゆ 西宮市 仁川(右岸) 素掘トンネル
(水路)
  文政7(1824)頃   WEB(西宮の新田開発と用水の歴史) 素掘りのまま 企画:段上村庄屋・松山五郎右衛門/武庫川の渇水に悩む段上村のため開削された→周囲の村との水争いの元となった/上ヶ原用水路より下流で取水した直後にトンネル 1
  社家郷用水 しゃけごう 西宮市 仁川(右岸) 用水路   寛永18(1641)~慶安年間(1848-51)   WEB(西宮の新田開発と用水の歴史) 在取水口付近は鉄管で送水、流路に北山貯水池を設置、北山貯水池から夙川までの水分け谷の区間は素掘りのまま、二テコ池まではC改修 仁川上流の湯の口で取水し、夙川流域の甲陽大池・ニテコ池などへ流れる用水/寛永18の旱魃の際に夙川流域の社家郷が「社家郷村の持ち山から出る仁川の水は社家郷村のもの」と主張し、仁川上流から夙川支流の水分け谷へ水路を開削し社家郷へ導水(開削の際、仁川下流民が水路を埋めるなどの妨害を行ったが中村庄屋・中村紋左衛門が天狗に扮し妨害を退けたとされる) 3
写真 上ヶ原用水 うえがはら 西宮市 仁川(右岸) 用水路 長約800m 慶安年間(1848-51) 市史跡 市教委/WEB(環境学習都市・にしのみや) C改修/分水樋は江戸期の資料では分水木の表記しかないため分水樋が設置されたのは後世の可能性がある 上ヶ原台地への導水を目的として開削された用水路/大井滝から取水し、当初は竹や木の掛樋を用いたが明和5(1768)に大井滝周辺の用水が大破した事を機に127mの隧道(上記参照)を開削 4 -
写真 東六甲採石場
(甲山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(かぶとやま) 西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 G地区(甲山森林公園)では遊歩道が整備され、巨石の分布状態も最良 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/C・D地区:肥前平戸藩松浦家(「三つ星」の刻印)、F地区:筑後久留米藩有馬家(「四角に丸」の刻印)/西宮市での3刻印群の中では最も大規模 1 写真
  東六甲採石場
(越木岩刻印群)
・跡
ひがしろっこう(こしきいわ) 西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 山中に残石が点在 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/備中松山藩池田家、出雲松江藩堀尾家(「分銅」の刻印)/西宮市での3刻印群の中では中規模 1
  東六甲採石場
(北山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(きたやま) 西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 山中に残石が点在 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/出雲松江藩堀尾家(「分銅」の刻印/西宮市での3刻印群の中では小規模 1
写真 武庫川の量水標 むこ 西宮市 武庫川・河川敷 石標(尖頭角柱) 高162㎝,21㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 原位置/刻字に墨入れ 地上4㎝の位置から1寸ごとに横線の刻みが目盛状に入り、1尺ごとに下から「一」~「五」の数字が刻字 1
写真 武庫川の旧・表示石杭1 むこ 西宮市 <武庫川>松並墓地 石杭(尖頭角柱) 高約160㎝,約20㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 移設 (正面)「人足五拾人 西宮町方詰所」 2
写真 武庫川の旧・表示石杭21 むこ 西宮市 <武庫川>松並墓地 石杭(尖頭角柱) 高約160㎝,約20㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 移設 (正面)「人足五拾人 中村詰所」 2
写真 西宮砲台・跡 にしのみや 西宮市   石砲台(円筒形) 高約12m,内径約17m,壁厚1.21m,底部1.53m 慶応2(1866) 国重文 市教委/WEB 明治期の火災により内部の木造構架が焼失、昭和9の室戸台風後屋根を復元補修、50に鉄骨補強 石造三層の円堡/1階は中央に井戸、一部に弾薬庫を設置し、木造の2階は砲眼11基、窓口1基、大砲2門が周囲に向けられていた/和田岬砲台と並び円筒形砲台の代表(4基→2基現存)/換気悪く実用に耐えず 2
写真 西宮神社大練塀 にしのみや、おおねりべい 西宮市 西宮神社内 土練塀 総延長247m,高約4m 室町期(推定) 国史跡   阪神淡路大地震で倒壊→再建→場所に風化 単位築地62ヶ塀を連ねたもので、須柱はなく、出隅のみに石柱を立て、門脇や塀の両端には貝形を組み、これに横羽目板を打ってある 2
写真 黒田庄町船町の道標 くろだしょう、ふなまち 西脇市 <土居街道> 石道標 高54㎝,23㎝角 18世紀後半以降?   WEB(神戸の道しるべ)/現地解説版 原位置?/下部C埋設 (正面)「右 京 さゝ山/左 奈り松 さ…」(=成松、佐治)、(左面)「すく たきの高…」(=滝野高松)/解説板によれば、慶長11(1606)に田高川他の航路が開かれ、本郷まで高瀬舟が就航した頃に作られたと伝えられる」とあるが、京都の高瀬川水運は慶長19なので高瀬舟の名称もおかしいし、17世紀の道標しては記載内容が18世紀後半以降を思わせる 2
写真 野村町の道標1 のむら 西脇市 旧道への三叉路  石道標(自然石) 高106㎝,幅36㎝,厚32㎝ 安永9(1780)   西脇市の道標p11
/WEB(神戸の道しるべ)
移設 (正面)「(梵字)、右 たんば/左 いく乃、道」 2
写真 平野町の地蔵道標 ひらの 西脇市 蓬莱堂・横  石道標(蒲鉾型) 高80㎝,幅15㎝,厚11㎝ 寛政3(1791)   西脇市の道標p9/WEB(神戸の道しるべ) 移設(立てかけてあるだけ) (正面像下)「右 やしろ 高さご/左 大坂 きよミづ、道」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵立像(蓮台)を陽刻 3
写真 比延町の道標1 しかの 西脇市 比延公民館・前  石道標 高80㎝,17㎝角 文政10(1827)   西脇市の道標p14
/WEB(神戸の道しるべ)
転倒(下部折損?) (正面)「上り道 右 者た 笹山/左 くげ 柏原」、(左面)「右 新町 高砂」 3
写真 鹿野町の地蔵道標1 しかの 西脇市 城山公園・南  石道標(蒲鉾型) 高63㎝,幅18㎝,厚13㎝ 文政10(1827)   西脇市の道標p23
/WEB(神戸の道しるべ)
移設、集約 (正面像下)「右 くげ 柏原/左 す起者ら」(=杉原)/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 2 -
写真 高松町の道標 たかまつ 西脇市   石道標 高148㎝(うち、台石30cm),
幅34㎝,厚35㎝
文政12(1829)   市教委/西脇市の道標p7/WEB(神戸の道しるべ) 近接移設 (正面上部)「本堂」(=長明寺)、(同右端)「是ヨリ二丁 源頼政公廟所」、
(同下部)「四國霊場之写」、(左面)「左 丹州 杉原道」、(裏面)「右 大阪 有馬道」/文政年間で「大阪」を使用
1
写真 比延町の道標2 ひえ 西脇市 比延公民館・前  石道標(自然石) 高80㎝,幅60㎝,厚45㎝ 嘉永5(1852)   西脇市の道標p15 移設? (正面)「右 きよ水 大坂/左 ささ山 京、道」/左面に「西國/善光寺/白光山、巡拝」と陰刻 2
写真 野村町の道標2 のむら 西脇市   石道標(尖頭角柱) 高119㎝,幅29㎝,厚28㎝ 慶応2(1866)   西脇市の道標p12
/WEB(神戸の道しるべ)
移設 (正面)「本堂、是よ里 源頼政公廟所/四丁 四國霊場写」、(左面)「右、柏原/久下、和布」、(裏面)「左、杉者ら/中むら町、野むら」 2
写真 和布町の道標 わぶ 西脇市 公民館・向前角  石道標 高112㎝,幅28㎝,厚20㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置?  (正面)「右 たんば 久下 かい原 清水/左 中むら すぎ原 いくの、ミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1
写真 鹿野町の地蔵道標2 しかの 西脇市 ゴールデンバレー・入口  石道標 高102㎝,23㎝角 江戸期   西脇市の道標p22
/WEB(神戸の道しるべ)
近接移設? (正面像下右)「右 やま道」、(同左)「左、京 大坂/きよみづ」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/「大坂」の標記は江戸期の可能性 1
写真 黒田庄町小苗の地蔵道標(わたりこしの地蔵) くろだしょう、こなえ 西脇市 篠山川沿い  石道標(舟型) 高54㎝,幅26㎝,厚11㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (光背右)「右 京ミち」、(同左)「左 たんば」/光背中央に地蔵立像の陽刻/「わたりこしの地蔵」→篠山川を渡る際の基準点の役割 1
写真 市原町の道標 いちはら 西脇市 旧市原駅近く  石道標(自然石) 高92㎝,幅50㎝,厚40㎝ 江戸期   西脇市の道標p4/WEB(神戸の道しるべ) 移設  (正面)「右 西仙寺/左 大坂 たきの、道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
写真 塚口町の道標 つかぐち 西脇市 旧道三叉路 石道標(駒型) 高60㎝,幅24㎝,厚13㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「右 大坂湊道/左 やま道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 1 -
写真 比延町の道標3 ひえ 西脇市 友遊公園・向かい 石道標 高77㎝,幅38㎝,厚23㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設 (正面右)「右、新町 高砂 あ可し/ひ延 きよ水 大坂」、(同左)「左 中畑 さゝ山」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2 -
写真 郷境目檣 ごうさかいめのしょう 西脇市 <野村郷・中之郷> 境界石(自然石) 高160㎝,幅80㎝,厚40㎝ 延宝3(1675)   市教委/WEB(神戸の道しるべ) 現在も野村町と和田町の境界に建つ (正面)「郷境目檣」/寛文9(1669)に野村郷(野村、板波村、高松山、平野新田)と中之郷(和田村、高田井村、下戸田村、上野村、谷村)で境界争いが起り、裁判の結果現地に境界が設定された 1
  太田井堰の懸樋 おおた 西脇市   水路橋(石造) 長3.8-3.9m,幅0.86m,深0.45m 安政年間(1854-9)   市教委 非現役 3枚の石で構成された懸樋/側面と底面左右を担う鉤型の石2枚と、53㎝幅の底石で構成されている 2
写真 旧・境橋 さかい 姫路市 網干 石桁橋 (G) 万治元(1658)以降   WEB(宮様の石橋)/現地解説板 昭和60撤去→道路の片側に寄せて両高欄のみ展示・保存 丸亀藩と龍野藩の境界掘割に架けられ、通行門が設けられていた(朝夕時刻を定めて門を開閉した)/「備前児嶋」の石工が施工 4
写真 天川橋 あまかわ 姫路市 天川→御着城の濠跡
<西国街道>
石桁橋(亀山石) 長26.6m,幅4.45m
(6G)
文政11(1828)
→昭和47落橋
→昭和53復元・移設
  市教委(文化財見学シリーズ1)/歴史の道2p66 昭和期大水により中央部が崩壊したため解体→御着城跡に移築/流失したものを復元したため、橋の大半が半分の幅に縮小し復元 施工:石工・瀬助、仲右衛門/総亀山石製カーブをとって木造橋のように設計/総竜山石製の太鼓橋/姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれる 3
写真 旧・石棺橋 せっかん 姫路市 吉備神社 石桁橋 長76㎝,幅97㎝,厚12㎝ 不詳   市教委(文化財見学シリーズ)/WEB(石橋) 石棺の蓋石を移設 家型石棺の墓石を転用した橋/吉備神社南の用水路に架かっていた 3 -
写真 下手野の常夜灯 しもての 姫路市 夢前川<山陽道> 石常夜灯 高3.50m 文政10(1827)   市教委(文化財見学シリーズ5) 原位置? 堤防上に建つ渡し場の常夜灯/宝珠の装飾が細かい 1
写真 上大野の常夜灯 かみおおの 姫路市 (5丁目) 石常夜灯(自然石) 高4.02m 嘉永2(1852)   市教委(文化財見学シリーズ36) 原位置?/火袋更新/自然石の台石→C被覆 「天下太平/國家安全、常夜燈」/火袋の中心線がずれている/中台、笠は自然石/石基壇なし 2
写真 飾磨区山崎の金毘羅常夜灯 しかま、
やまざき
姫路市 夢前川<室津道> 石常夜灯(渡し場) 高3.6m 弘化3(1846)   市教委(文化財見学シリーズ11)/WEB(的形道標クラブ) 12m近接移設/火袋後補 (竿正面)「金常夜燈」/金毘羅参詣の旅人が往来したとされる「才の渡し」の常夜灯/石基壇なし 2
写真 町坪の金比羅常夜灯 ちょうのつぼ 姫路市 棚田交差点・南東
<室津道>
石常夜灯(凝灰岩) 高2.13m 慶応2(1866)   市教委(文化財見学シリーズ11,23)

移設?

(竿正面)「金毘羅大權現」 2
写真 千代田町の金毘羅常夜灯 ちよだ 姫路市 千代田公園<室津道> 石常夜灯(道標兼)   慶応4(1868)   市教委(文化財見学シリーズ11) 移設 (竿正面)「金常燈」、(基盤最上部)「あ/ぼ/し/む/ろ/つ/み/ち」 2
写真 飾東町豊国の廻国塔道標 しきとう、
とよくに
姫路市 <西国三十三所巡礼道・但馬道> 石道標
(駒型、凝灰岩)
高約120㎝ 延宝5(1677) 市歴史資料 市教委(文化財見学シリーズ4)/WEB(的形道標クラブ) 原位置 (右面)「(梵字)これより右ハ 志よしやミち」/正面に「(梵字)奉納西国卅三所順礼成就攸」と陰刻(「國」「禮」を用いないのは稀)/17世紀の道標/下記「飾東町豊国の聖観音像道標」と並ぶ 1
写真 夢前町古知之庄の聖観音像道標 ゆめさき、
こちのしょう
姫路市 置塩神社・前 石道標(舟型) 高160㎝,幅48㎝,厚35㎝ 元禄6(1693)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面右端)「従是 丹後成合 廿三里」/正面に聖観音立像の陽刻/17世紀の道標 2
  御立西の地蔵道標
(四軒屋地蔵)
みたつにし 姫路市   石道標(丸彫)   寛延3(1750)以前   WEB(的形道標クラブ) 原位置/立派な瓦屋根付き木祠、信仰の対象 (台石正面)「左 志よしや道/右 かやミち」(=鹿谷)/台石上に地蔵○像の丸彫を載せる/寛延3の『飾西郡御立村明細帳』に地蔵の記載がある 1
写真 香寺町中村の題目塔道標 こうでら、
なかむら
姫路市   石道標(蒲鉾型)   宝暦10(1760)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (台石正面)「右 姫路道/左 北条道」/正面に「南無妙法蓮華経南無日蓮大士」と陰刻 2
写真 山田町北山田の地蔵道標 やまだ、
きたやまだ
姫路市 法華山一乗寺方面から但馬街道へ通じる道 石道標(自然石) 高約100㎝? 明和2(1765)   市教委(文化財見学シリーズ18)/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「右 たじま道」/正面中央に地蔵坐像を浮彫 1
写真 下手野の道標 しもての 姫路市 (3丁目)
<山陽道・美作道・因幡道・龍野道>
石道標(頂部刳込み角柱、花崗岩) 高158㎝ 明和4(1767)   市教委(文化財見学シリーズ27)/WEB(的形道標クラブ) 原位置?  (正面)「圓光大師 二十五靈場」、(右面)「右 第一番、みま・さ可、誕生寺道」(=美作)、(左面下部)「左 たつの道」 1
写真 的形町福泊の道標 まとがた、
ふくどまり
姫路市 福泊神社・前 石道標   明和6(1769)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 地そう道」、(右面右下)「自是 二丁」、(左面)「左 そ年の松」
(=曽根)
1
写真 書写の道標1 しょしゃ 姫路市 如意輪寺・西 石道標(五輪塔) 高120㎝,幅25㎝,厚22㎝ 安永8(1779)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 志よしや道/左 祢んぶ川とう道」 1
写真 書写の地蔵道標 しょしゃ 姫路市 如意輪寺 石道標(舟型)   寛政元(1789)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (台石正面右)「右 飛めぢミち」(=姫路)、(同左)「左 ほ川けミち」(=法華山)/台石上に光背付きの地蔵坐像(蓮台)の陽刻を載せる 2
写真 夢前町又坂の題目塔道標 ゆめさき、
またさか
姫路市   石道標(尖頭角柱) 高204㎝(うち、台石2段51㎝),幅40㎝,厚39㎝ 寛政4(1792)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (台石左面)「右/順礼/道」/正面に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩」と陰刻 2
写真 青山の道標1 あおやま 姫路市 (6丁目)人丸神社・前の七叉路 石道標   寛政7(1795)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 志よしや道」、(左面)「左 やま道」/正面は枠だけ残し深く削り込んで刻字 1
写真 辻井の聖観音像道標 つじい 姫路市 辻井観音堂 石道標(蒲鉾型)   寛政10(1798)   WEB(的形道標クラブ) 近接移設(50m)/観音堂内、信仰の対象 (正面像下)「左 しよしや道」、(右面)「さい所みち」/正面頂部を光背型に削り込み聖観音坐像(蓮台)を陽刻 2
写真 広嶺山の道標 ひろみねやま 姫路市 随願寺から広峯神社への下山道(四丁付近) 石道標(駒型)   文化2(1805)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「左、志よしや/ひめぢ、道」、(裏面)「右 さんけ以道」 1
写真 飾東町佐良和の地蔵道標 しきとう、
さろお
姫路市 <法華山一乗寺~書写山圓教寺への巡礼道?> 石道標   文化8(1811)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「春ぐみち たじま」、(右面)「春ぐみち 志よしや」、(左面)「春ぐみち ほつけ」、(裏面)「春ぐみち ひめじ」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
写真 夢前町宮置の道標 ゆめさき、
みやおき
姫路市   石道標 高76㎝,21㎝角 文化8(1811)   WEB(的形道標クラブ) 移設/頂部一部欠損 (正面)「これより/とみ多さん道」 2 -
写真 夢前町前之庄の道標 ゆめさき、
まえのしょう
姫路市 示現寺・南南西160m 石道標 高51㎝,幅30㎝,厚29㎝ 文化8(1811)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「右 本うぜやう/左 なれあい、道」(=北条, 成相) 2 -
写真 豊富町神谷の地蔵道標1 とよとみ、
こだに
姫路市 細野バス停・前<但馬道> 石道標(蒲鉾型)   文化10(1813)   WEB(的形道標クラブ) 移設(C基壇上)/中央より上で大きく水平に折損→Cで太く修復 (正面像下)「右 ほつけ山/左 やしろ」、(裏面)「右 つじかわ/左 ひめじ」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/下記「豊富町神谷の地蔵道標2」と並ぶ 3
写真 夢前町古知之庄の地蔵道標 ゆめさき、
まえのしょう
姫路市 古知小学校・南門前 石道標(蒲鉾型) 高76㎝,幅24㎝,厚16㎝ 文化12(1815)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「右 なれあい/左 むら道」(=成相寺)/正面上半分を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
写真 夢前町前之庄の地蔵道標 ゆめさき、
こちのしょう
姫路市 宝積院・東800m 石道標 高86㎝,幅33㎝,厚28㎝ 文政9(1826)   WEB(的形道標クラブ) 移設(C基礎)/石とCブロックの祠内 (正面像下)「ひたり なれあい」/正面上半分を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 2
写真 書写の道標2 しょしゃ 姫路市 東坂 石道標   天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「春く 書山/左 女人堂」 1 -
写真 豊富町豊富の道標 とよとみ、
とよとみ
姫路市 太尾北口バス停・前
<但馬道>
石道標(尖頭角柱)   天保3(1832)   WEB(的形道標クラブ) 原位置?/左面、裏面の頂部が欠損 (正面)「此方、たん者"/不うでう、道」(=丹波、北条)、(左面)「此方、ひめじ/飛ろミね、道」(=広峯)、(裏面)「此方、たじま/志そう、道」 2
写真 飾磨区細江の道標 しかま、
ほそえ
姫路市 飾磨中部中学校
<室津道>
石道標 高112㎝,幅27.5㎝,厚28㎝ 天保3(1832)   市教委(文化財見学シリーズ14) 移設

(正面)「左、ひめぢ 高さこ/やか そ祢」、(右面)「春ぐ、ひろみ祢/志よしや山」(=書写山)、(左面)「右、阿ぼし むろ川/春ぐ ふ祢のり者、…」(=室津,舟乗場)

3
写真 網干区宮内の道標 あぼし、
みやうち
姫路市 <室津道> 石道標   天保9(1838)   WEB(的形道標クラブ)   (正面)「右 あぼし 是より拾六丁」 2
写真 広畑区才の道標 ひろはた、
さい
姫路市 <室津道> 石道標(尖頭角柱) 高約80㎝ 天保9(1838)   市教委(文化財見学シリーズ35)
/WEB(的形道標クラブ)
自動車の接触で折損→近接移設、基部C補強 (正面)「右、びぜん/たつの、道」、(右面)「左 志よ志や ひめ…」、(左面)「左、あぼし/むろ津、道」 2
写真 御国野町国分寺の地蔵道標 みくにの、
こくぶんじ
姫路市 播磨国分寺<山陽道> 石道標   天保13(1842)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面右上)「川渡左 遍路道」、(左面)「是より札所へ 廿五丁」/正面・左面の頂部角を四角に削り込んでリアルな地蔵立像(杖をついて歩行)を陽刻 2
写真 香寺町相坂の道標 こうでら、
あいさか
姫路市 若都王子神社・北70m 石道標   天保13(1842)   WEB(宮様の石橋) 移設/中央で水平に折損→修復 (正面)「左 八徳山道」(八徳山八葉寺) 2
写真 西中島の地蔵道標 にしなかじま 姫路市 法林寺・西 石道標(蒲鉾型)   弘化4(1847)   WEB(的形道標クラブ) 原位置?/簡易祠内 (正面像下)「左 ほつけ」(=法華山)、(左面)「しよしや」(=書写山)/正面頂部に地蔵○像の陽刻 1
写真 飾磨区東堀の道標 しかま、
ひがしぼり
姫路市 東堀公民館<室津道> 石道標(尖頭角柱) 高97㎝,幅27㎝,厚27㎝ 嘉永元(1848)   市教委(文化財見学シリーズ14)/WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「左、飛面ぢ ひろみ年/やか そ祢 高砂」(=姫路、広峯、曽根)、(左面)「右 川口、あぼし/むろ津」 2
写真 豊富町神谷の地蔵道標2 とよとみ、
こだに
姫路市 細野バス停・前<但馬道> 石道標(蒲鉾型)   嘉永2(1849)   WEB(的形道標クラブ) 移設(C基壇上) (正面像下)「右 きれいけやしろ/左 山みち」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻/上記「豊富町神谷の地蔵道標1」と並ぶ 2 -
写真 飾磨区阿成渡場の地蔵道標 しかま、あなせわたしば 姫路市 <阿成の渡し場> 石道標(蒲鉾型) 高約60㎝ 安政年間(1854-60)   WEB(的形道標クラブ) 昭和43に移設/木製の簡易祠内の祭壇上 (正面像下)「右 ひめぢ/左 かめ山、みち」、(右面)「右 わたしば/きたが一中」/正面頂部に小さな地蔵坐像(光輪)を陽刻 3
写真 青山の道標2 あおやま 姫路市 <山陽道・因幡街道> 石道標(頂部に刳込み、花崗岩) 高223㎝ 安政2(1855) 市歴史資料 姫路の文化財石造遺品銘文集p448
/歴史の道2p71,167-8、4p
102/市教委(文化財見学シリーズ5、40)/WEB(的形道標クラブ)
原位置 (正面上部)「圓光大師二十五礼場、美作國/誕生寺、道」、(右面上部)「右、因州 伯州/作州 雲州、往来」、(右面下部1/3に小さく)「是ヨリ 津山へ 二十り十八丁 倉吉へ 三十五り/鳥取へ 二十九り二十八丁 米子へ 四十二り/大仙へ 三十八り 松江へ 六十一り二十七丁/出雲大社へ 六十り」、(左面上部)」「左、備前 九州/金毘羅 宮嶋、往来」、(左面下部1/3に小さく)「是ヨリ 岡山へ 二十り一丁 萩へ 百り/田野へ 二十六り 下ノ関へ 百六り/下村へ 二十七り 熊本へ 百五十八り/広嶋へ 六十り三十五丁 長崎へ 百六十九り二十七丁」、(裏面)「す久"、姫路 大坂/京 江戸、往還」(=すぐ)/百里以上も離れた遠方の都市まで克明に記された特異な道標 1
写真 御立北の道標1
(北山の道標1)
みたちきた 姫路市 <西国三十三所巡礼道> 石道標(尖頭角柱)   安政3(1856)   市教委(文化財見学シリーズ22)
/WEB(的形道標クラブ)
原位置?/基部C固定 (正面)「右、ほつけさん/ひろミ祢、道」「、(右面)「左 志よしやさん道」、(左面)「す久" やまみち」(=すぐ) 1
写真 御立北の道標2
(北山の道標2)
みたちきた 姫路市 <西国三十三所巡礼道> 石道標(尖頭角柱) 高166㎝ 安政6(1859)   市教委(文化財見学シリーズ22)/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 書寫山 鹿谷道」、(右面)「左、ひろみね/ほつけ山、ミち」、
(左面)「左、たつの むろつ/びぜん あぼし、道」
1
写真 四郷町山脇の地蔵道標 しごう、
やまわき
姫路市 <山陽道> 石道標(尖頭角柱) 高約80㎝ 安政6(1859)   市教委(文化財見学シリーズ31)/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「右 他可知"ぞう」(=八家地蔵)、(同最下部左に小さく)「是より 一り」/正面上部を円型に削り込み小さな地蔵坐像(蓮台)を陽刻/左面下部の年号の上に「右 ヒメジ/左 神戸」と後年の追刻 1
写真 田寺の道標 たでら 姫路市 (3丁目) 石道標(尖頭角柱) 高約120㎝ 文久2(1862)   市教委(文化財見学シリーズ22)/WEB(的形道標クラブ) 原位置/下部埋設 (正面)「左 姫路宿屋町、江/二十…」、(右面)「右 車崎六丁目道」、(左面)「従是 書寫山、江/二十…」 1
写真 飾磨区下野田の道標 しかま、
しものだ
姫路市   石道標(尖頭角柱)   文久2(1862)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「右 曽根 高砂/左 御着 野田」、(右面)「左 室津 阿本"し」、(左面)「左 ひめぢ」 1
写真 飾東町豊国の聖観音像道標 しきとう、
とよくに
姫路市 <西国三十三所巡礼道・但馬道> 石道標(尖頭角柱)   文久3(1863)     原位置/下部埋設 (右面)「すぐ 保つ…」、(左面)「此方 ひめち」、(裏面)「西 志よし…」/正面頂部を光背型に削り込み小さな聖観音立像(蓮の花、蓮台)を陽刻、その下に「西國 秩父 阪…」と陰刻/上記「飾東町豊国の廻国塔道標」と並ぶ 2
写真 書写の道標3 しょしゃ 姫路市 如意輪寺・西  石道標(宝珠付き) 高165㎝,30㎝角 慶応2(1866)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「本堂道」、(右面右)「是ゟ法花山へ 五里」、(左面)「左 祢ん仏堂」/頂部に蓮花台付き宝珠を載せる 1
写真 書写山(東坂参道)の町石(一丁)? しょしゃざん 姫路市 円教寺東坂参道 町石(丸彫)   享保9(1724)   市教委/姫路の文化財・石造遺品銘文集p492/WEB(的形道標クラブ) 移設、集約 書写山(東坂参道)の町石は山麓から山頂まで丁数順に並んでいる(山麓が一丁)/台石正面には「法界」としか記されていないが、同形式と思われる二丁・三丁石が同年の建立なので、一丁石である可能性は高い/台石上に地蔵立像(光輪)の丸彫(蓮台付き)を載せる 3
写真 書写山(東坂参道)の町石(二丁) しょしゃざん 姫路市 円教寺東坂参道 町石(丸彫)?   享保9(1724)   同上p492/WEB(的形道標クラブ) 移設/台石のみ (台石正面右上)「二丁」/台石正面に「法界」と陰刻、台石天端に円形の穴があり、そこに蓮台付き地蔵立像があった可能性が高い 4 -
写真 書写山(東坂参道)の町石(三丁) しょしゃざん 姫路市 円教寺東坂参道 町石(丸彫)?   享保9(1724)   同上p493/WEB(的形道標クラブ) 移設/台石のみ (台石正面右上)「三丁」/台石正面に「法界」と陰刻、台石天端に円形の穴があり、そこに蓮台付き地蔵立像があった可能性が高い 4 -
写真 随願寺の地蔵町石(一丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道  町石(角柱) 高65㎝,幅23㎝,厚18㎝  天保2(1831)   同上p493/WEB(的形道標クラブ) 移設(台石後補) 随願寺の地蔵町石は麓から寺まで丁数順に並んでいる(麓が一丁)/享保期のものは舟型地蔵、天保期のものは角柱地蔵/(正面像下)「一丁」/正面上半分に地蔵坐像(光背、蓮台)の浮彫り 2 -
写真 随願寺の地蔵町石(三丁)1 ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(舟型)   享保12(1727)   同上p493/WEB(的形道標クラブ) 原位置?/塔身下部で折損→修復 (台石正面)「三…」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻 2
写真 随願寺の地蔵町石(三丁)2 ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置?  (正面像下)「三…」/正面上半分に地蔵坐像(蓮台)の浮彫り 1
写真 随願寺の地蔵町石(五丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱) 高68㎝(うち、台石20㎝),幅23㎝,厚15㎝ 天保11(1840)   WEB(的形道標クラブ) 移設(下記の「六丁」と並ぶ) (台石正面)「五/丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 2 -
写真 随願寺の地蔵町石(六丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱) 高81㎝(うち、台石24㎝),幅22㎝,厚16㎝ 天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「六丁」、(台石正面)「六丁」/正面上部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 1
写真 随願寺の地蔵町石(七丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)?   WEB(的形道標クラブ) 移設(下記の「八丁」と並ぶ)/ (台石正面)「七丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻/塔身下半分が欠損しているため、建立年も「天保…」と不明だが、他の地蔵石と同年の建立と推定される/「八丁」と並ぶ 4 -
写真 随願寺の地蔵町石(八丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「八丁」、(台石正面)「八丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 1
写真 随願寺の地蔵町石(九丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面像下)「九丁」、(台石正面)「九丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 1
写真 随願寺の地蔵町石(拾丁) ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)   WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面像下)「拾丁」、(台石正面)「十丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 1
写真 随願寺の地蔵町石
(十一丁)1
ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(舟柱)   享保12(1726)?   WEB(的形道標クラブ) 原位置?/塔身の上半分欠損 (台石正面)「十一丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻 3 -
写真 随願寺の地蔵町石
(十一丁)2
ずいがん 姫路市 随願寺参道 町石(角柱)   天保2(1831)   同上p493/WEB(的形道標クラブ) 原位置 (正面像下)「十一丁」、(台石正面)「十一丁」/正面を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)の陽刻 1
写真 広峯神社の町石(一丁) ひろみね 姫路市 広峯神社・前 町石(角柱)   文政8(1825)   WEB(的形道標クラブ) 原位置? 広峯神社の町石は寺から麓に向かっているように見える(リスト何の2基)(寺側が一丁⇒逆順/(正面頂部)「一丁」/その下に「備中國松山城下/爲 長屋善六/爲 長屋善三郎」と陰刻 1
写真 広峯神社の町石(八丁) ひろみね 姫路市 広峯神社参道  町石(角柱) 高160㎝,幅41㎝,厚30㎝  文政8(1825)   同上p493/WEB(的形道標クラブ) 原位置  (正面)「従是/廣嶺山 八丁」/その下に「備中國松山城下/本町/下町、講中」と陰刻 1
写真 鵤荘の牓示石(大谷〕 いかるがのしょう
〔おおたに〕
姫路市 (勝原区大谷)<鵤荘> 境界石(自然石) 高55㎝ 推古14(606)頃?   WEB/現地解説板 原位置 聖徳太子が斑鳩寺創建の際、布施地として推古天皇から拝受した方六町、三百六十町歩の鵤荘の境界を示すために置かれた石とされる/鵤荘の牓示石のほとんどは太子町に所在 1
写真 飾西・町田境界石 しきさい、
ちょうだ
姫路市   境界石 高約60㎝ 江戸期   市教委(文化財見学シリーズ44) 下部埋没/背面が塀に密着 「従是西、餝西/町田、立 3 -
  八代本町の雁木 やしろほん 姫路市 (2丁目)船場川 雁木   江戸期   市教委(文化財見学シリーズ19) 保存状態良好 船場川舟運の船着場の雁木/船場川に残るのは唯一とされる 1 -
  龍野町の船つなぎ石 たつの 姫路市 船場川 舟繋石(1基)   江戸期   市教委(文化財見学シリーズ5)/現地解説板 現地に建つ宅地の庭石として使用/見学可能 船場川舟運の船に使用された船つなぎ石/船場川は本多忠政により城下から飾磨津を繋ぐ舟運路として整備された/龍野町の豪商「せんざき屋」の船着場のものと考えられる 4 -
  三左衛門堀 さんさえもん 姫路市 運河公園(外堀川) 運河 長約2㎞,幅約25m 慶長6-18(1601-13)   市教委(文化財見学シリーズ43)/WEB 昭和37に運河公園として整備/C改修/下流側を野田川として繋ぎ、海まで流している 企画:姫路藩主・池田輝政/姫路城外堀と飾磨津の約4㎞を結ぶ目的で開削されていた運河/外堀と飾磨津は10m以上高度差があるため工事が難航し、慶長18(1613)の輝政死去により開削を中止した/三左衛門は池田輝政の異名 3
写真 青山の掛樋 あおやま 姫路市 青山川 石桁橋(水路)
(花崗岩)
長3.02m,上幅0.53m,底幅0.40m,深0.37m,外側深0.50m 江戸期   市教委(文化財見学シリーズ40) 非現役(排水路化)/側壁C嵩上げ 稲岡山西側山麓では北東の上池から流れる水路が低い西に流れてしまうため、北の青山川から引いた水を掛け樋で渡す事により導水している 3
  書写井堰(待井堰) しょしゃ 姫路市 夢前川 取水堰 長約50m 江戸期?   市教委(文化財見学シリーズ38) 自然石の斜め堰が残る/C製の堰も併設されている 西坂・田井・東坂の灌漑用水を取水するための堰/自然石の斜め堰/西坂・田井が坂井雅楽頭領、東坂が書写山寺領→用水配分の争いが絶えなかった 1
  花田井 はなだ 姫路市   用水路   正徳3(1713)→取水口付け替え:天保元(1830)   市教委(文化財見学シリーズ32) C改修 高木、小川、勅旨、上原田、加納原田、豊国、深志野、国分寺、御着を灌漑していた/取水口を上流に変更した際は約270mの隧道を掘ったとされる 4
写真 勘兵衛新田の大手囲堤 かんべえ 姫路市 (大津区勘兵衛町2丁目) 石堤防(干拓) 長約600m 天保13~嘉永6(1843-53)
  市教委(文化財見学シリーズ37) 上部に大正期と考えられる石積が載る/大半が企業の私有地内 勘兵衛新田の干拓堤防 3
  太佐新田の干拓堤防 ふとさ 姫路市 (飾磨区妻鹿) 石堤防(干拓) 長約300m 天保9~安政5(1838-58)   市教委(文化財見学シリーズ48) 間知積みの石垣のため、おそらく大正期に更新/出光興産敷地内 企画:太物屋・山本佐兵衛、山本佐一郎、平福屋・井上弥太郎/太佐新田南端に残る石堤防/山本佐兵衛、井上弥太郎によって開発された太平新田と、佐兵衛の子である、山本佐一郎が開発した太太新田を合わせて太佐新田と呼ばれる 5 -
写真 東山の固寧倉 ひがしやま、こねいそう 姫路市   郷倉(土蔵造) 正面3.93m
×側面9.8m
文化6~弘化3(1809-48) 市有形 現地解説板/WEB
(的形道標クラブ)
修復済み 姫路藩独自の社倉米の貯蔵庫/288ヶ所→5ヶ所/穀物倉庫の後方に別の平入りの倉庫が組み合わされた特殊な構造 2
写真 妻鹿の固寧倉 めが、
こねいそう
姫路市   郷倉(土蔵造) 正面3.93m
×側面4.92m
文化6~弘化3(1809-48) 市有形 現地解説板/WEB
(的形道標クラブ)
修復済み 姫路藩独自の社倉米の貯蔵庫/288ヶ所→5ヶ所/民家の土蔵と似た造り 2
写真 白浜の固寧倉 しらはま、
こねいそう
姫路市   郷倉(土蔵造)   文化6~弘化3(1809-48) 市有形 現地解説板/WEB
(的形道標クラブ)
修復済み 姫路藩独自の社倉米の貯蔵庫/288ヶ所→5ヶ所 2
  刀出の固寧倉 かたなで、
こねいそう
姫路市   郷倉(土蔵造) 正面3.6m
×側面5.4m
文化6~弘化3(1809-48) 市有形 現地解説板 修復済み 姫路藩独自の社倉米の貯蔵庫/288ヶ所→5ヶ所 2
  野里の固寧倉 のざと、こねいそう 姫路市   郷倉(土蔵造) 正面3.73m
×側面2.82m
文化6~弘化3(1809-48) 市有形 現地解説板 修復済み 姫路藩独自の社倉米の貯蔵庫/288ヶ所→5ヶ所 2
  御用水車の用水路 ごよう 姫路市 (八代本町1丁目) 用水路(産業用)   宝暦12(1762)   市教委(文化財見学シリーズ19) 整形された矩形石が一列に並ぶ護岸 米粉・菜種油・綿実油を絞るのに用いられた水車のための水路 2
  福井の常夜灯 ふくい 三木市 光明寺 石常夜灯(道標兼) 高1.8m 江戸期   三木の道しるべp17 移設 (竿正面)「すぐ/東 有馬 三田」、(竿右面)「すぐ/北 小野 社北条」、
(竿左面)「すぐ/南 明石 兵庫 大坂」、(竿裏面)「すぐ/西 高砂 姫路」/「大坂」の標記は江戸期の可能性
2
写真 鳥町の地蔵道標 とり 三木市 大師堂・横  石道標 高50㎝,幅20㎝,厚12㎝ 安永2(1773)   三木の道しるべp29 昭和29に移設/石の祠内/最下部の刻字欠損(推定可能)/像容磨耗大 (正面像下右)「右 やしろ」、(同像下左)「左 むろ山」/正面頂部に地蔵坐像(蓮台)を浮彫り、その下に「西國供養」と陰刻 3 -
写真 本町の道標 ほん 三木市 (2丁目)<有馬街道> 石道標(尖頭角柱) 高50㎝,幅20㎝,厚12㎝ 安永2(1773)   WEB(的形道標クラブ) 破損→昭和7再建 (正面)「右 ひめぢ道」、(左面)「左 あかし道」 5 -
  志染町三津田の供養塔道標 しじみ、
みつだ
三木市   石道標 高74㎝,幅21㎝,厚11㎝ 寛政元(1789)   三木の道しるべp33 移設、集約 (正面右)「右 ありま」、(同左)「左 みき」/正面中央に「奉 西國供養 道」と陰刻 2 -
  別所町石野の地蔵道標 べっしょ、
いしの
三木市   石道標 高76㎝,幅20㎝,厚18㎝ 寛政2(1790)   三木の道しるべp33 移設、集約/風化のためほとんど読めない (正面)「右 やま/左 ありま」/正面上部に地蔵坐像を陽刻、その下に「奉供養□国」と陰刻 3 -
写真 細川町高畑の供養塔道標 ほそかわ、
たかはた
三木市   石道標 高70㎝,幅25㎝,厚22㎝ 寛政3(1791)   三木の道しるべp75 道路下に倒れたまま放置/裏面(建立時)しか視認できない/下部欠損 (裏面)「右 くらのたに」、(右面)「左 やぐち」/正面(現在は裏向け置いてある)に「西國供養」と陰刻/左面の「やぐち」の字は長方形に削り込まれた中に刻字 4 -
写真 久留美の供養塔道標 くるみ 三木市   石道標(尖頭角柱) 高70㎝,24㎝角 寛政11(1799)   三木の道しるべp24 移設(基部露出) (左面)「右 三木/左 西村」/正面中央に「西國供養」と陰刻 2 -
写真 細川町高畑の道標 ほそかわ、
たかはた
三木市   石道標(板碑型) 高110㎝,幅56㎝,厚20㎝ 寛政12(1800)   三木の道しるべp73 移設/下部剥落(刻字は推定可能) (正面)「(梵字)、右 志"やうどじ/左 三木 市場」 2
  吉川町湯谷の地蔵道標 よかわ、
ゆだに
三木市   石道標 高約60㎝?(うち、台石46㎝),
幅24㎝,厚24㎝
享和3(1803)   WEB(神戸の道しるべ) 光背上部欠損 (右面)「東 有馬/」、(左面)「西 三木/南 兵庫 明石」/正面中央に「西國順禮/信州善光寺、供養」と陰刻、光背中央に地蔵立像を陽刻 2
写真 細川町豊地の道標 ほそかわ、
とよち
三木市 観音堂・前  石道標 高107㎝,幅61㎝,厚18㎝ 文化6(1809)   三木の道しるべp66 移設 (正面)「(梵字)、右 小川 ありま/左 よ川 きよみず」 2
写真 久留美の地蔵道標1 くるみ 三木市   石道標 高58㎝,18㎝角 文化9(1812)   三木の道しるべp21 移設、集約/木祠内/背面と左面の刻字が読みにくい/磨耗大 (正面像下)「南 兵庫」、(右面)「東 吉川」、(左面)「西 三木」、(裏面)「北 東条」/正面頂部に地蔵坐像を浮彫り 4 -
写真 細川町細川中の道標 ほそかわ、ほそかわなか 三木市 三叉路  石道標 高72㎝,幅26㎝,厚28㎝ 文化11(1814)   三木の道しるべp76 原位置/頂部の磨耗大 (正面)「右 三木」、(左面)「左 明石」 1 -
  口吉川町保木の地蔵道標 くちよかわちょうほき 三木市   石道標 高57㎝,幅26㎝,厚24㎝ 文化13(1816)   WEB(神戸の道しるべ) 移設/下半部埋没 (正面)「是 (以下埋没)」、(右面)「右 ひょうご/左 ありま」/正面上部を光背型に削り込みその中に地蔵坐像を陽刻 3 -
  口吉川町殿畑の供養塔道標 くちよかわ、とのはた 三木市   石道標 高67㎝,幅26㎝,厚24㎝ 文化15(1818)   三木の道しるべp88 原位置? (正面)「右 大谷 大深社/左 寺 高砂、道」/左面に「爲 西國供養」と陰刻 1 -
  吉川町有安の道標 よかわ、
ありやす
三木市   石道標 高110㎝,幅29㎝,厚29㎝ 文政2(1819)   WEB(神戸の道しるべ) 「阿りま」の刻字部が剥落 (正面)「右 山田」、(左面)「左 大阪 阿りま」/右面に「旅人安全」と陰刻/現地では「たて石」と呼ばれる 2
  細川町瑞穂の聖観音(?)像道標 ほそかわ、みずほ 三木市   石道標 高100㎝,幅22㎝,厚21㎝ 文政3(1820)   三木の道しるべp54 移設(C台石) (正面像下)「北 大殿林 大道」、(右面)「西 三木 明石道」、(左面)
「東 奥谷 三田道」」、(裏面)「南 山田 兵庫道」/正面頂部を削り込み聖観音(?)立像を陽刻
2
  志染町広野の地蔵道標 しじみ、
ひろの
三木市   石道標 高80㎝,30㎝角 文政4(1821)   三木の道しるべp53 原位置/風化のため刻字判読困難 (正面)「右 ひよどりごえ/左 丹生山」 2
  細川町中里の道標 ほそかわ、
なかざと
三木市   石道標(駒型) 高66㎝,24㎝角 文政4(1821)   三木の道しるべp61 原位置 (正面)「南 小川 法輪寺」、(右面)「北 大殿林 清水」、(左面)「西 南畑 大深山」/裏面に「四國供養」と陰刻 1 -
写真 口吉川町蓮花寺の供養塔道標 くちよかわ、れんげじ 三木市 蓮花寺 石道標 高150㎝,36㎝角 文政5(1822)   三木の道しるべp99 原位置? (右面)「北 清水寺、者"ゝ村/東中村」、(左面)「南 大谷山、小川谷/太山寺、道」、(裏面)「西 浄土寺、毛ゝ佐可/屋しろ、道」/正面中央「西国順礼供羪」と陰刻 1
写真 別所町石野の道標 べっしょ、
いしの
三木市 覚法寺・東<有馬街道> 石道標(尖頭角柱) 高115㎝,幅29㎝,厚27㎝ 文政6(1823)   三木の道しるべp32
/WEB(的形道標クラブ)
原位置?/下部埋設 (正面)「左、三木/ありま」、(左面)「従是西、国包 十八丁 姫…/加古川(?) 二里半 高…」/右面下部に「四國西國供養」と陰刻/正面の「左」が非常に大きく刻字されている 1
写真 福井の道標 ふくい 三木市 鶯谷交差点 石道標 高134㎝,27㎝角 天保8(1837)   三木の道しるべp19/WEB(神戸の道しるべ) 中央で折損→2つ分かれたまま放置(写真は割れた部分) 「右 あかし/左 たいさんじ」/左面に「西國同行十七人」と陰刻 4
写真 平田の道標 ひらた 三木市 平田橋東詰  石道標 高133㎝,幅30㎝,厚26㎝ 天保11(1840)   三木の道しるべp25 移設 (正面)「左 小野 やしろ道」、(右面)「右 古んごう寺道」 2
写真 久留美の地蔵道標2 くるみ 三木市   石道標(尖頭角柱) 高97㎝,26㎝角 天保13(1842)   三木の道しるべp20 移設/左右が密生した植栽で刻字が見えない (右面)「右 吉川 小川」、(左面)「左 東条 清水」/正面頂部を火灯窓型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻、その下に「西國供養」と陰刻 3
  口吉川町久次の供養塔道標 くちよかわ、ひさつぐ 三木市   石道標 高60㎝,幅28㎝,厚16㎝ 天保13(1842)   三木の道しるべp82 正面左下部剥落 (正面)「右 きよ水/左 や」/正面中央に「西國順拝供養」と陰刻 2 -
写真 別所町花尻の道標 べっしょ、
はなじり
三木市 <湯ノ山街道(有馬街道)> 石道標(尖頭角柱) 高60㎝,幅26㎝角 天保14(1843)   三木の道しるべp31
/WEB(的形道標クラブ)
原位置 (正面)「右 ひめじ たかさご/左 編"ふ 婦多み」(=別府、二見) 1 -
  口吉川町東の廻国塔道標 くちよかわ、ひがし 三木市   石道標 高60㎝,幅24㎝,厚20㎝ 天保15(1844)   三木の道しるべp95 正面下部剥落 (正面)「左 蓮」、(右面)「右 小田 社」 2 -
  吉川町楠原の供養塔道標 よかわ、
くすはら
三木市   石道標 高120㎝,幅29㎝,厚29㎝ 嘉永2(1849)   WEB(神戸の道しるべ)   (正面)「すぐ きよミつ」、(右面)「すく ふる市」、(左面)「すく ありま」、(裏面)「すく おがわ」/正面中央に「西國三十三所 供養」 3
  志染町志染中の道標 しじみ、
しじみなか
三木市   石道標 高53㎝,幅19㎝,厚17㎝ 嘉永5(1852)   三木の道しるべp44 原位置?/風化のため刻字判読困難 (正面下部)「右 志染 中村/左 いの上」/正面上部に「四國供八十八ヶ所供養」と陰刻 2 -
写真 上津の船着場・跡 かみつ 三木市

<東條街道>
/美嚢川<三木川>

船着場   江戸期   WEB(的形道標クラブ)
/現地解説板
場所が特定されているが、遺構はない 上津は東條街道筋庶民の物資の集積地、中津は奉行所の専用船着場、下津は宿場の流通品の集積地 4
  亀の井用水 かめのい 三木市 美嚢川 用水路 長約5.5㎞ 文化11(1814)   WEB/兵庫のため池史p158   企画:国包村・畑平左衛門/国包村、船町村、宗佐村を灌漑するために開削された用水路/流域が姫路藩、明石藩にまたがっていたため、計画は難航したとされる  
写真 諭鶴羽神社の町石(一町) ゆづるは 南あわじ市 <諭鶴羽表参道> 町石
(五輪塔、砂岩)
高111㎝,幅16㎝ 建武元(1334) 市史跡 市教委 保存のため木箱が被せられている/最上段の空・風輪が欠損/大正2参道修理の際に発見 諭鶴羽神社の五輪塔町石は、登山口から頂上に向けて丁数順に並んでいる(山頂の諭鶴羽神社が1丁⇒逆順/(正面)「(梵字2)一町 建武元年、歳次十月/甲戌十八日、願主阿闍利行範」 3
写真 諭鶴羽神社の町石(二町) ゆづるは 南あわじ市 <諭鶴羽表参道>  町石(五輪塔) 高約70㎝ 建武元(1334)   WEB/
WEB(みさき道人)
最上段の空・風輪が欠損/平成13に土中より発見し再建立 「(梵字)二町」 2
  観音寺の町石 かんのん 南あわじ市 六度山観音寺・境内  町石 1基 康永2(1343)   WEB(淡路島西國三十三ヶ所霊場)      
  金剛寺の町石( こんごう 南あわじ市 <成相寺> 町石(五輪塔) 高81㎝ 康永年間(1342-45)   市教委 金剛寺に2基並んで移設/空・風・火輪が欠損 「(梵字)(?)」/成相寺は実弘上人が高野山を手本に建立したと伝えられる→町石の形態が類似/下記の「町石(十)」と並ぶ 3
  金剛寺の町石(十 こんごう 南あわじ市 <成相寺> 町石(五輪塔) 高53㎝ 康永2(1343)   市教委 金剛寺に2基並んで移設/地輪以外欠損 「(梵字)十(?)」/同上/上記の「町石(十)」と並ぶ 4
写真 諭鶴羽裏参道の道標 ゆづるは 南あわじ市 <諭鶴羽裏参道> 石道標(尖頭角柱)   文政12(1829)   WEB/WEB(みさき道人) 原位置 (正面)「右、十番 六を寺/な利あひやくし、道」(=六遠寺、成相薬師)、
(左面)「左、こくがやくし/ふくら、道」(=国衙薬師)/淡路島西国三十三ヶ所第十番は六度山観音寺なので、「十番 六を(遠)寺」の意味不明
1
写真 慶野松原 けいの 南あわじ市 <徳島藩> 海岸防砂林 長1㎞,幅60m 寛文年間(1661-72)以前 国名勝 WEB/WEB(みさき道人) 第二次大戦下で陸軍省の管轄となり、燃料用として伐採,食糧増産のために開墾し縮小 起源は中世とされるが,文献上の初見は寛文年間(1661-72)/江戸期には徳島藩の所有として育成 3
  大屋町大杉の常夜灯 おおや、
おおすぎ
養父市 (堂横) 石常夜灯
(道標兼、自然石)
高3.00m 弘化3(1846)   市教委(大屋町史・史料編p751)   (竿正面)「御佛燈」、(竿○面)「右 くわんをんミち」/大福寺聖観音の御神燈に刻字  
  八鹿町浅間の地蔵道標 ようか、
あさま
養父市 <進美寺道> 石道標(舟型) 高80㎝ 宝暦11(1761)   市教委(八鹿町の石造遺物)   「右ハ山みち」「左 くわんをん道」/光背中央に地蔵像を陽刻  
  八鹿町上小田の地蔵道標 ようか、
かみおだ
養父市   石道標(丸彫) 高98㎝ 安永5(1776)   市教委(八鹿町の石造遺物)   「右 いつし/左 ゆしま、道」/地蔵像の丸彫りが載る  
  八鹿町浅間の地蔵道標 ようか、
あさま
養父市 (村口) 石道標(丸彫) 高100㎝ 寛政11(1799)   市教委(八鹿町の石造遺物)   「進美觀音道」/地蔵像の丸彫りが載る  
  森の地蔵道標 もり 養父市 地蔵堂 石道標   文政4(1821)   市教委(養父町史3p875)   「右ハやま/左ハ□□みち」    
  八鹿町三谷の地蔵道標 ようか、
みたに
養父市   石道標   天保4(1833)   市教委(養父町史3p875)   「右 大屋道三谷村/左 山道法花」    
  長野の地蔵道標 ながの 養父市 (内山) 石道標   天保14(1843)   市教委(養父町史3p875)   「右 さなかみち」    
  八鹿町伊佐の道標 ようか、いざ 養父市 旧・青渓中学校 石道標(自然石) 高95㎝ 弘化3(1846)   市教委(八鹿町の石造遺物)   「右 いつし/左 ゆしま、道」  
  別宮の地蔵道標 べっぐう 養父市   石道標(舟型) 高57㎝ 安政6(1859)   市教委(関宮町史資料集6p71・72) 原位置?/光背頂部欠損  (光背右)「右 はやまみち」、(同左)/左 たんどむら」/光背中央に地蔵立像を陽刻 1
  外野の地蔵道標 との 養父市 外野・別宮分岐点 石道標(自然石) 高69㎝ 慶応3(1867)   市教委(関宮町史資料集6p71)   (正面)「右 むらみち/左 やまみち」/正面○を光背型に削り込み地蔵○像を陽刻  
  尾崎の地蔵道標 おさき 養父市   石道標(自然石) 高150㎝ 江戸後期?   市教委(関宮町史資料集6p71・72) 移設→個人宅内 (正面)「是ヨリ 妙見道」 4
  妙見山(作山道)の地蔵町石(二丁) みょうけん、ひばた 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高69㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  妙見山(作山道)の地蔵町石は、麓(香美町)から妙見宮日光院(現・名草神社)までほぼ順番に並んでいる(妙見宮が1丁⇒逆順/(光背右)「二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(一丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高99.5㎝(うち台石33.5㎝) 寛政2(1790)   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  (光背右)「一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻  
  妙見山(作山道)の地蔵町石(丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高54㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
上部欠損 (光背右)「丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻/所在地から5丁石とされる   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(四丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高72㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  (光背右)「四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(六丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高75㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  (光背右)「六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(七丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型)   江戸後期?   市教委(八鹿町の石造遺物)   「七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(八丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型)   江戸後期?   市教委(八鹿町の石造遺物)   「八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(九丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高75㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  (光背右)「九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(十一丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型) 高77㎝ 江戸後期?   香美町教委
/市教委(八鹿町の石造遺物)
  (光背右)「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(十二丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型)   江戸後期?   市教委(八鹿町の石造遺物)   「十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(十三丁) みょうけん、つくりやま 養父市 (八鹿町日畑) 町石(舟型)   江戸後期?   市教委(八鹿町の石造遺物)   「十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山の地蔵町石群 みょうけん 養父市 (八鹿町日畑)日光院 町石(舟型)   宝暦7(1757)?   市教委(八鹿町の石造遺物) 移設集約/全48基 日光院に移設集約されてた妙見道の地蔵町石群/明治9に政府通達により妙見宮日光院が名草神社として改宗された事に伴い、信者により日光院の仏像、教典等と共に末寺成就院(現・日光院)に移設集約されたもの(1つの町石道か複数の町石道のものかも不明) 3 -
  進美寺の地蔵町石(二丁) しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高57㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   進美寺の地蔵町石は、麓から寺に向けて丁数順に並んでいる(麓が1丁)/「二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  進美寺の地蔵町石(三丁) しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高56㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   「三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  進美寺の地蔵町石(五丁) しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高55㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   「五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  進美寺の地蔵町石(九丁) しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高57㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   「九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  進美寺の地蔵町石
(十一丁)
しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高57㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  進美寺の地蔵町石
(十二丁)
しんめい 養父市 (八鹿町浅間)<進美寺道> 町石(舟型) 高55㎝ 江戸中期以降   市教委(八鹿町の石造遺物)   「十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
写真 米地峠の駕籠置き石 めいじ 養父市 <出石街道> 駕籠置き石
(花崗岩)
130㎝×150㎝ 文化13(1816)以前 市史跡 WEB 近接移設/公園化 平成9に土中より発見された大名行列の駕籠を置くための石 3
  養父市場の出石領境石 やぶいちば 養父市   境界石 高180㎝,幅24㎝,厚24㎝ 江戸期?   歴史の道5p244 亡失の可能性 (正面・左面)「従是北 出石領」  
  鳳宮池 ほうぐう (赤穂)上郡町   溜池(土堰堤) 堤長約50m 元禄14(1701)以前   町教委/WEB 小規模な修復 企画:赤穂藩主・浅野長矩 2 -
写真 鵤荘の牓示石1
(松ヶ下の牓示石)
いかるがのしょう
〔まつがした〕
(揖保)太子町 (松ヶ下)<鵤荘> 境界石(自然石) 高約95㎝,幅約180㎝,厚約110㎝ 推古14(606)頃   WEB(日本の測量史)/現地解説板 水田から移設(60m) 聖徳太子が斑鳩寺創建の際、布施地として推古天皇から拝受した方六町、三百六十町歩の鵤荘の境界を示すために置かれた石とされる/「投げ石」とは、聖徳太子が檀特山から石を投げ、その範囲を領地として頂いたとの伝説に基づく呼称/鵤荘の牓示石の中で最大/江戸時代後期の絵図に「太子なげ岩」と記載されている 2
写真 鵤荘の牓示石2
(東出の牓示石)
いかるがのしょう〔とうで〕 (揖保)太子町 (東出)<鵤荘> 境界石(自然石)
2個
1:高約70㎝,底辺100-110㎝/2:高約60㎝,幅約80㎝
推古14(606)頃 県史跡 WEB(日本の測量史)/現地解説板 昭和30-40頃移設 一般的解説は上記参照/荘園の境界に位置するため牓示石の定義と合致する 2
写真 鵤荘の牓示石3
(平方の牓示石)
いかるがのしょう
〔ひらかた〕
(揖保)太子町 (佐用岡・平方)<鵤荘> 境界石(自然石) 高約60㎝,幅・厚80-90㎝ 推古14(606)頃 県史跡 WEB(日本の測量史)/現地解説板 原位置/中央分離帯に残る→局所的に中央分離帯とし牓示石を避けている 一般的解説は上記参照/鵤荘の牓示石で最も有名/荘園の真ん中にあり牓示石の定義から外れる 1
写真 鵤荘の牓示石4
(北山根の牓示石)
いかるがのしょう〔きたやまね〕 (揖保)太子町 (鵤・北山根)<鵤荘> 境界石(自然石) 高103㎝ 推古14(606)頃 県史跡 WEB/現地解説板 原位置/畑内に残る 一般的解説は上記参照/鵤荘の牓示石で2番目に大きい/荘園の真ん中にあり牓示石の定義から外れる 1
写真 鵤荘の牓示石5
(桜ヶ坪の牓示石)
いかるがのしょう (揖保)太子町 (佐用岡・桜ヶ坪)<鵤荘> 境界石(自然石) 高約30㎝,幅約60㎝ 推古14(606)頃   WEB(日本の測量史) 原位置/水田の畔に残る 一般的解説は上記参照/「播磨国鵤荘絵図」(14世紀)に記されている牓示石の位置と唯一合致するが、この石に関して聖徳太子伝説はなかった 1
写真 鵤荘の牓示石6
(東南の牓示石)
いかるがのしょう
〔とうなん〕
(揖保)太子町 (東南)<鵤荘> 境界石(自然石) 径40-50cm 推古14(606)頃 県史跡 WEB(日本の測量史)/現地解説板 加工されている/石祠内(昭和30-40頃に50m移設) 一般的解説は上記参照/荘園の境界に位置するため牓示石の定義と合致する 4
写真 上太田の砂留 かみおおだ (揖保)太子町   砂防堰堤(石積) 高約10m 江戸期?   町教委 当時のまま 石積構造から江戸期と推定される/江戸期の砂防堰堤は福山藩(広島県)以外では稀 1
写真 北山の常夜灯 きたやま (加古)稲美町 曇川沿い  石常夜灯(道標兼) 高2.49m 安政6(1859)   WEB(神戸の道しるべ) 燈籠橋が100m移設されるに伴い移設 (竿正面)「池大明神」、(台石2段目左面右隅)「右 かこ川」、(同左隅)「左 の口」/火袋に日月の開口部 2
写真 草谷の地蔵道標 くさだに (加古)稲美町 荒内墓地 石道標(蒲鉾型) 高91㎝,幅29㎝,厚27㎝ 寛政11(1799)   WEB(神戸の道しるべ) 移設→墓地内 (正面像下右)「右 ありま道」、(同左)「左 みきミち」/頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻、像下中央に「四國西國同行志」と陰刻 3
写真 加古の大師像道標 かこ (加古)稲美町 (上新田) 石道標 高67㎝,幅21㎝,厚20㎝ 弘化5(1848)   WEB(神戸の道しるべ) 移設/像容不鮮明 (正面像下右)「右、大野/西条、王たし」、(同左)「左 寺家 高砂」、(右面)「北、右 二見道/左 太三じ 阿かし」(=太山寺、明石)/正面頂部を四角に削り込み大師坐像を陽刻 3 -
  草谷の庚申塔道標 くさだに (加古)稲美町 (上新田) 石道標(蒲鉾型) 高約60㎝? 寛政11(1799)   WEB 移設 (正面像下)「右 有馬道/左 みきみち」/正面上部を削り込み青面金剛坐像を陽刻 2
写真 国岡の道標 くにおか (加古)稲美町   石道標(駒型) 高90㎝,幅23㎝,厚16㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 原位置? (正面)「右 北山 大の日向社/左 別府 北在家、ミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 1
写真 草谷の分境石 くさだに (加古)稲美町 <明石藩・姫路藩> 境界石(駒型) 高140㎝,幅30㎝,厚28㎝ 嘉永6(1853)   WEB(神戸の道しるべ) 原位置 (正面)「分境、東 明石領/西 姫路領」/嘉永4(1851)に明石藩、姫路藩の境界である加古新村、国岡新村と草谷郷8ヵ村で加古大溝を巡る水争いとなり、近隣の村の仲裁で付近に境界石を4基建立したとされる〔神戸市西区に神出町広谷の分境石が現存〕 1
写真 天満大池 てんま (加古)稲美町 東播用水<手中流>→喜瀬川 溜池(土堰堤) 堤長1400.0m,堤高6.30m 白鳳3(675)頃?   稲美町ため池調査表/文化的景観「稲美のため池群」保存活用計画報告書 数度の改修により堰堤は当時の面影は少ない 加古大池に次ぐ規模の溜池/古代に岡大池と呼ばれていた溜池とされる/由来かつては「大池」と呼ばれ、明治21に天満村ができた際に「天満大池」との呼称が生まれたとされる 3 写真
写真 入ヶ池 にゅうが (加古)稲美町 芦池・東播用水→長府池・千波池 溜池(土堰堤) 堤長860.0m,堤高6.45m 和銅7(714)頃   稲美町ため池調査表/文化的景観「稲美のため池群」保存活用計画報告書 昭和52に改修/堰堤が大きく改修されている 由来:「北側に洪水吐を造り、通りがかった美女を人柱に」との夢の僧のお告げに従い人柱にされた女性「お入」の名前からとされる 3
写真 経ノ池 きょうの (加古)稲美町 東播用水<山田川>→加古大池 溜池(土堰堤) 堤長662.0m,堤高4.70m 大同元-4(806-9)?   稲美町ため池調査表 保存状態良好 西に向かっての緩い傾斜に築造、西、南側全てが堰堤/由来:築造の際に、池東側の野寺の僧達が完成祈願の読経したためとされる 1
写真 幸竹池 こうたけ (加古)稲美町 手中流→駒池・梶ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長452.0m,堤高4.80m 寛永19(1642)   稲美町ため池調査表 C護岸化 西側が全て堰堤 3
写真 加古大池 かこ (加古)稲美町 <草谷川> 溜池(土堰堤) 堤長2993.0m,堤高7.30m 寛文元(1661)   稲美町ため池調査表/文化的景観「稲美のため池群」保存活用計画報告書 昭和24の大改修で5つの池を統合、平成13に大改修、遊歩道、親水護岸等を設置/中池と北池の土堰堤がよく残る 企画:庄屋・加古沢兵衛、沼田喜平次、本岡治兵衛/中池、大池、北池など5つの池の集合体/全国で3番目の大きさ/各種スポーツ、レジャーなどの対象として、最大限に活用/池と池を隔てる細い土手が特徴/当初3㎞上流から四百間溝(風呂谷池流)、風呂谷池を経た水を利用していたが、急激な新田開発により水不足となったため、延宝8(1680)に草谷川から取水する加古大溝が開削された 2
写真 千波池 せんば (加古)稲美町 入ヶ池・下棒池→琴池 溜池(土堰堤) 堤長780.0m,堤高5.00m 寛文元-12(1661-72)   稲美町ため池調査表 C護岸化/天端アスファルト舗装 南東側以外が全て堰堤のため、堰堤割合が高い 2
写真 芦池 あし (加古)稲美町 中池・辰巳池→入ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長140.0m,堤高3.60m 寛文元-12(1661-72)   稲美町ため池調査表 堰堤に沿って転落防止の鉄柵 中池、辰巳池の余水が流入/西側を全て堰堤とし、斜面に形成されている 2
  城ノ池 じょうの (加古)稲美町 愛宕池→竜ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長170.0m,堤高4.00m 寛文元-12(1661-72)   稲美町ため池調査表   溜池全体を掘り下げ、西側に堰堤を築造  
写真 六軒屋池 ろっけんや (加古)稲美町 加古大池→カルト池 溜池(土堰堤) 堤長900.0m,堤高1.50m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化/天端アスファルト舗装 西側、南側に堰堤を築造 2
写真 茨池 いばら (加古)稲美町 東播用水<加古大池> 溜池(土堰堤) 堤長693.0m,堤高2.70m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 昭和54、老朽化のため改修 堤高が低く、主に掘削により構築した溜池/江戸期に新田開発の用水源として、加古大池の築造後すぐ造られたとされる 2
写真 下ノ池 しもの (加古)稲美町 中ノ池→曇川・尻ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長251.0m,堤高5.00m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 大規模な改修がなく当時のまま 稲美町の溜池では比較的低地に位置する/南西から西側が全て堰堤 1
写真 三軒屋池 さんけんや (加古)稲美町 <加古大池> 溜池(土堰堤) 堤長251.0m,堤高2.30m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 保存状態良好 現在農業用水として利用されていない数少ない溜池 1
写真 奥ノ池 おくの (加古)稲美町 東播用水→谷ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長170.0m,堤高3.20m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 保存状態良好 比較的小規模な溜池であり、斜面の谷側となる南側が全て堰堤/茨新池との間の細い堰堤が特徴的 1
写真 八軒屋池 はっけんや (加古)稲美町 加古大池→曇川 溜池(土堰堤) 堤長450.0m,堤高2.00m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 堰堤に沿って転落防止の柵/天端アスファルト舗装 加古大池の小出し池として築造 2
写真 中ノ池 なかの (加古)稲美町 天井池→下ノ池 溜池(土堰堤) 堤長177.0m,堤高6.20m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 西側が全て堰堤 2
写真 下棒池 しもぼう (加古)稲美町 東播用水→千波池 溜池(土堰堤) 堤長196.0m,堤高4.00m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 ほぼ傾斜のない場所に溜池全体を掘り下げる形で築造 3
  南池 みなみ (加古)稲美町 東播用水→中池 溜池(土堰堤) 堤長624.0m,堤高6.50m 寛文4(1664)以前   稲美町ため池調査表   近世以前に築造された稲美町の溜池群の中では比較的高い標高に位置する溜池  
写真 溝ヶ沢池 みぞがさわ (加古)稲美町 手中流→喜瀬川・新仏池・琴池 溜池(土堰堤) 堤長564.0m,堤高7.25m 寛文4(1664)頃   稲美町ため池調査表 嵩上げ/C護岸化 急速な新田開発の際に天満大池を補助する目的で築造されたとされる/緩やかな斜面に築造 3
  野々池 のの (加古)稲美町 東播用水→中池 溜池(土堰堤) 堤長915.0m,堤高5.60m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表   近世以前に築造された稲美町の溜池群の中では最も高い標高に位置する  
写真 風呂ノ谷池 ふろのたに (加古)稲美町 東播用水<四百間溝(風呂谷池流)>→風呂ノ谷中池 溜池(土堰堤) 堤長200.0m,堤高6.00m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 保存状態良好 急斜面の上に位置する皿池で、谷に立地する風呂ノ谷中池、風呂ノ谷下池に余水を流す構造が名称からもわかる 1
写真 琴池 こと (加古)稲美町 溝ヶ沢池・千波池→小池 溜池(土堰堤) 堤長550.0m,堤高5.85m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 平成6に改修→C護岸化/天端アスファルト舗装 北岸に福祉施設などが並ぶ/由来:よく決壊していたため、琴を埋めて治めたという伝説からとされる 2
写真 跡池 あと (加古)稲美町 溝ヶ沢池→琴池・喜瀬川 溜池(土堰堤) 堤長280.0m,堤高5.90m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 溝ヶ沢池の補助的な機能を果たしたとされる 2
写真 長府池 ちょうふ (加古)稲美町 加古大池・入ヶ池→満溜池 溜池(土堰堤) 堤長209.0m,堤高7.31m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化/天端アスファルト舗装 西側に堰堤を築き、その他の面は掘り下げられている/上流の入ヶ池と同時期に築かれたとされる 2
写真 内ヶ池 うちが (加古)稲美町 手中流→溝ヶ沢池 溜池(土堰堤) 堤長680.0m,堤高4.50m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 嵩上げ/C護岸化/天端アスファルト舗装 村十七丁の新田開発に伴って築造されたとされる/かつて「岡村あし池」と呼ばれ、新池が完成した際に「内ヶ池」と改称されたとされる 3
  野村池 のむら (加古)稲美町 竹谷池→加古大池 溜池(土堰堤) 堤長465.0m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表   加古大池の補助的な溜池として築造されたと考えられる  
  小池 (加古)稲美町 琴池→国安川 溜池(土堰堤) 堤長180.0m,堤高4.00m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表   南西側に堰堤を築造  
  上棒池 かみぼう (加古)稲美町 東播用水→千波池 溜池(土堰堤) 堤長150.0m,堤高2.50m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表   ほぼ傾斜のない場所に溜池全体を掘り下げる形で築造  
写真 三ッ池 みつ (加古)稲美町 東播用水<雁戸井>→草谷川 溜池(土堰堤) 堤長68.0m,堤高5.35m 延宝4(1676)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 貯水した水は全て農業用水に利用/稲美町では数少ない急斜面に築造された谷池 2 -
写真 見谷上池 けんだに (加古)稲美町 東播用水<加古大池>→谷ヶ池 溜池(土堰堤) 堤長475.0m,堤高2.20m 延宝4(1676)   稲美町ため池調査表 C護岸化 池と池を隔てる細い土手が特徴/山側である東側は湖底が掘り下げられている 2
写真 広沢池 ひろさわ (加古)稲美町 東播用水 溜池(土堰堤) 堤長452.0m,堤高5.00m 元禄16(1703)   稲美町ため池調査表 C護岸化/天端アスファルト舗装 ほぼ傾斜のない場所に溜池全体を掘り下げる形で築造 2
写真 河原山池 かわらやま (加古)稲美町 天満大池→喜瀬川 溜池(土堰堤) 堤長769.0m,堤高7.70m 宝永2(1705)   稲美町ため池調査表 C護岸化 全て農業用水に利用されている 2
写真 新仏池   (加古)稲美町 溝ヶ沢池・長法池→天満大池 溜池(土堰堤) 堤長900.0m,堤高3.00m 文政10(1827)以前   稲美町ため池調査表 保存状態良好 天満大池の砂溜めとして築造されたとされる 1
写真 大澤池 おおさわ (加古)稲美町 東播用水<加古大池>→猫池 溜池(土堰堤) 堤長820.0m,堤高2.50m 文政10(1827)以前   稲美町ため池調査表 堰堤に沿って転落防止の鉄柵/C護岸化(部分的)/天端アスファルト舗装 農業用水としての利用率が低く、防災の役割が大きい 2
写真 風呂ノ谷中池 ふろのたに (加古)稲美町 風呂ノ谷池→風呂ノ谷下池 溜池(土堰堤) 堤長50.0m,堤高6.00m 文政10(1827)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 稲美町では少ない谷池 2 -
写真 風呂ノ谷下池 ふろのたに (加古)稲美町 風呂ノ谷中池→加古大溝 溜池(土堰堤) 堤長48.0m,堤高5.00m 文政10(1827)以前   稲美町ため池調査表 C護岸化 稲美町では少ない谷池 2 -
写真 亀ヶ池(下草谷)  かめが(しもくさだに) (加古)稲美町 稲荷池→草谷川 溜池(土堰堤) 堤長70.0m,堤高4.00m 天保元-14(1830-43)   稲美町ため池調査表 C護岸化 稲美町では数少ない急斜面に築造された谷池 2 -
写真 青野池 あおの (加古)稲美町 東播用水→加古大池 溜池(土堰堤) 堤長750.0m,堤高5.00m 江戸中期   稲美町ため池調査表 C護岸化 加古大池の補助的な機能を果たしたとされる 2
  寺田用水の高堀 てらだ (加古)稲美町 曇川 切通し(水路) 長約350m 寛文3(1663)   WEB(ひろかずのブログ) C護岸化 寺田用水が曇川の標高より約12m高い丘を越えるために掘られた深い水路区間/高堀の「高」は村高によって、村々が費用を出して開削した事を意味する 3
写真 加古大溝(大溝用水) かこおおみぞ
(おおみぞ)
(加古)稲美町 草谷川 用水路 長約3㎞,幅2.3m,深約1.8m 延宝8(1680)   WEB(ひろかずのブログ) わずかに墓地周辺のみ旧状を留める/補助用水、排水路として現役使用 国岡新村と加古新村の新田開発に伴い発生した水不足解消のため開削された用水路/草谷郷から加古新村が許可を得て、草谷川上流から非灌漑期である7~4月のみ取水し、加古大池、入ヶ池などに貯留していた/姫路藩領内で最大限高い標高で取水するため、明石藩との境界となる草谷の分境石付近から取水している 4
  寺田用水 てらだ (加古)稲美町・加古川市 曇川→寺田池 用水路 総延長約2.5㎞ 寛文3(1663)→
寛文12(1672)に高畑分水を設置
  WEB(ひろかずのブログ) ほぼC改修? 寺田池に曇川から導水するための用水路/寺田池水源地帯に幸竹新田などの溜池が開発されたため寺田池の水量が不足した事により築造/曇川郷との取り決めにより5月2日~6月23日のみ取水 4
写真 大中の道標 おおなか (加古)播磨町 郷土資料館 石道標 高90㎝,幅23㎝,厚21㎝ 江戸期   WEB(神戸の道しるべ) 移設→館内展示 (正面)「右、明石/大坂、道」、(右面)「左、別府/高砂、道」/「大坂」の標記は江戸期の可能性 2
  新井用水 しんい
(しんゆ)
(加古)播磨町・加古川市 加古川・五ヶ井堰 用水路 総延長13.7㎞ 明暦2(1657)   WEB(ひろかずのブログ)/兵庫のため池史p128-133/町教委 C改修 計画:古宮村庄屋・今里伝兵衛/五ヶ井堰で取水した水を直後に分流する形で造られた用水路/五ヶ井堰灌漑地域に隣接する野口台地で干ばつが頻発してたため、築造された/渇水時は五ヶ井堰への導水を優先する条件で導水していたため、溜池を多く併用したとされる/由来:新しい五ヶ井堰 3
写真 銀山の金毘羅常夜灯 ぎんざん (川辺)猪名川町   石常夜灯 高約3m 文化11(1814)   現地調査 火袋改修/竿上部金属で補修 (竿正面)「金毘羅大權現」/猫脚/基壇なし 2
  民田の題目塔道標 たみだ (川辺)猪名川町 <丹州街道古道> 石道標 高103㎝,幅40㎝,厚26㎝ 文政11(1828)   大阪の街道と道標改訂版p180   「右ハ たみ田/左ハ いけ田、道」/中央に「南無觀世音」と陰刻  
写真 瓢箪間歩・跡 ひょうたん (川辺)猪名川町 <多田銀銅山> 間歩   室町期   現地解説板/町教委/WEB(日本鉱業史要) 進入不可/坑口を厳重に封鎖 室町期に採掘が始められ、秀吉が統治していた永禄から天正期に最盛期を迎えたとされる/産出が多大であったため秀吉から先山(せんざん)・原丹波、原淡路父子に馬印の千成瓢箪が与えられ、これを坑口に立てたところから名付けられた/多田銀銅山については「台所間歩」参照 3
写真 台所間歩・跡 だいどころ (川辺)猪名川町 <多田銀銅山> 間歩   戦国期以前   現地解説板/町教委/WEB(日本鉱業史要) 進入不可/坑口から鉱物の光る坑道が続くのを見る事が出来る 多田銀銅山は天正年間(1573-92)に銀の産出が盛んとなり、豊臣秀吉が直轄領とした鉱山/台所間歩の税収で大坂状の経費が賄えるほどであったため、台所を支える間歩としてこの名がつけられたとされる/猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町にまたがる10数㎞四方に広がっていた鉱山であったとされる 2
写真 上牛尾の地蔵道標1 かみうしお (神崎)市川町 (寺家) 石道標(丸彫) 高141㎝,幅47㎝,厚44㎝ 享保9(1724)   町教委(市川の道標p16) 笠形神社の茂みの中に残る (台石正面)「右 た可能こ保り道/左 加さ可多さん」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
  下牛尾の地蔵道標1 しもうしお (神崎)市川町 (河内) 石道標 高79㎝,幅23㎝,厚19㎝ 文政5(1822)   町教委(市川の道標p13) 地蔵の上が欠損 「右 かなくら/左 みうの」/中央に地蔵坐像を陽刻、その下に「南無阿彌陀佛」と陰刻 2
  上牛尾の地蔵道標2 かみうしお (神崎)市川町 (塩谷) 石道標 高94㎝,幅18㎝,厚4㎝ 文政6(1823)   町教委(市川の道標p13) 保存状態良好 「右 □□/左 あハが」/上部を削り込み地蔵坐像を陽刻 1
  下牛尾の地蔵道標2 しもうしお (神崎)市川町 (忍辱) 石道標(自然石) 高78㎝,幅60㎝,厚14㎝ 文政11(1828)   町教委(市川の道標p17) 保存状態良好 「右 満ぐわんじ/左 太゛り山」/中央に地蔵坐像を線刻 1
  上瀬加の地蔵道標1 かみせか (神崎)市川町 (御室) 石道標 高60㎝,幅15㎝,厚12㎝ 安政2(1855)   町教委(市川の道標p14) 摩耗して像、文字共に判読が難しい 「右 ひめじ/左 」、(左面)「右 牛尾/左 栗か」/正面上部に地蔵立像を陽刻 2 -
  上瀬加の地蔵道標2 かみせか (神崎)市川町 (御室) 石道標(蒲鉾型) 高60㎝,幅21㎝,厚12㎝ 文久3(1863)   町教委(市川の道標p14) 保存状態良好 「右 うえの道/左 あわが」/上部を削り込み地蔵坐像を陽刻←像はシルエットに近い形で陽刻されている 1
  笠形寺の板碑町石
(十一丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(駒型)   不詳(下記の地蔵町石よりはかなり古い)   町教委(市川の道標p37)   笠形寺の板碑町石は、麓から山腹の寺に向けて丁数順に並んでいる(寺が一丁⇒逆順/「(梵字)二十二丁」?   -
  笠形寺の板碑町石
(二十二丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(駒型) 高68㎝,幅27㎝,厚17㎝ 不詳(同上)   町教委(市川の道標p35) 保存状態良好 「(梵字)二十二丁」 1 -
写真 笠形寺の板碑町石
(二十七丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(駒型) 高92㎝,幅23㎝,厚22㎝ 不詳(同上)   町教委(市川の道標p34) 笠形神社の茂みの中に残る 「(梵字)二十七丁」 2 -
写真 笠形寺の板碑町石
(二十九丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(駒型) 高73㎝,幅24㎝,厚17㎝ 不詳(同上)   町教委(市川の道標p34) 倒立 「(梵字)二十九丁」 3 -
写真 笠形寺の板碑町石
(三十三丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(駒型) 高102㎝,幅28㎝,厚25㎝ 不詳(同上)   町教委(市川の道標p33) 保存状態良好 「(梵字)三十三丁」/下記「地蔵町石(五丁)」と並ぶ 1 -
  笠形寺の板碑町石
(三十七丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾塩谷)
<笠形寺参道>
町石(駒型) 高120㎝,幅20㎝,厚30㎝ 不詳(同上)   町教委(市川の道標p33) 保存状態良好 「(梵字)三十七丁」 1 -
  笠形寺の地蔵町石(道標) かさがた (神崎)市川町 (上牛尾塩谷)
<笠形寺参道>
町石(舟型) 高82㎝,幅35㎝,厚25㎝ 享保10(1725)   町教委(市川の道標p35) 保存状態良好 笠形寺の地蔵町石は、麓から山腹の寺に向けて丁数順に並んでいる(麓が一丁)/(光背右)「從是本堂迄 三十六丁」→下記の「一丁」の手前に建つ(寺に近い「三十五丁」とは違い、一種の道標/地蔵立像(錫杖)が陽刻 1
  笠形寺の地蔵町石(一丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  笠形寺の地蔵町石(二丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  笠形寺の地蔵町石(三丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  笠形寺の地蔵町石(四丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
写真 笠形寺の地蔵町石(六丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型) 高71㎝,幅25㎝,厚20㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 保存状態良好 (光背右)「六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 1 -
写真 笠形寺の地蔵町石(五丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型) 高71㎝,幅26㎝,厚20㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 保存状態良好 (光背右)「五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻/上記「板碑町石(三十三丁)」と並ぶ 1 -
  笠形寺の地蔵町石(七丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 亡失の可能性 (光背右)「七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
写真 笠形寺の地蔵町石(八丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型) 高79㎝,幅25㎝,厚20㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 倒立 (光背右)「八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 笠形寺の地蔵町石(十丁) かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型) 高65㎝,幅25㎝,厚16㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)/WEB 下部C埋設→移設?/光背頂部欠損 (光背右)「十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 笠形寺の地蔵町石
(十一丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型) 高43㎝,幅27㎝,厚13㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 本来三角錐状のものを平坦に調整 (光背右)「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
  笠形寺の地蔵町石
(十三丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37) 頭部破損 道側に大きく傾く  (光背右?)「十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(十五丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)/WEB 保存状態良好 (光背右?)「十五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻? 1 -
  笠形寺の地蔵町石
(十六丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(十七丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(十八丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「十八丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(十九丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右)「二十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十一丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十二丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十三丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十四丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(舟型) 高77㎝,幅23㎝,厚18㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p36)/WEB 保存状態良好 (光背右)「二十四丁」/地蔵立像(手は合掌)を陽刻 1 -
  笠形寺の地蔵町石
(二十五丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十六丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十六丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十七丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十七丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(二十九丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「二十九丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(三十丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(舟型) 高60㎝,幅26㎝,厚17㎝ 享保10(1725)?   町教委(市川の道標p36)/WEB 保存状態良好 (光背右)「三十丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)が陽刻 1 -
  笠形寺の地蔵町石
(三十二丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「三十二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(三十三丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)   (光背右?)「三十三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻?   -
  笠形寺の地蔵町石
(三十四丁)
かさがた (神崎)市川町 <笠形寺参道> 町石(舟型)   享保10(1725)?   町教委(市川の道標p37)/WEB 切り株に埋もれるように残る (光背右?)「三十四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻? 3 -
  笠形寺の地蔵町石
(三十五丁)
かさがた (神崎)市川町 (上牛尾寺家)
<笠形寺参道>
町石(舟型) 高68㎝,幅25㎝,厚18㎝ 享保10(1725)   町教委(市川の道標p37) 保存状態良好 (光背右)「三十五丁」/光背中央に地蔵立像(手に数珠)を陽刻 1 -
  福本の常夜灯 ふくもと (神崎)神河町   石常夜灯 高約2m 近世   町教委 移設   2
写真 中村の地蔵道標 なかむら (神崎)神河町 観音橋・南詰<但馬道> 石道標(自然石)   嘉永3(1850)   町教委/WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面下部右)「右、京/たん者"」(「京」のみ小さく刻字)、(同左)「左、たじま/たんご」/正面を円形に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 2
写真 岩尾神社の石橋 いわお (神崎)福崎町 (東田原)岩尾神社参道 石桁橋(凝灰岩) 長6.2m,幅1.76m
(2G)
慶長16(1611) 県重文 町教委/WEB(福崎町HP) 高欄が欠損 岩尾神社参道の小川に残る石橋/小規模だが、石桁の上に橋面石を載せる/様式から岩尾神社石造鳥居と同時期のものとされる/完形で残る沖縄以外で国内最古級の石桁橋 2
  西田原の地蔵道標 にしたわら (神崎)福崎町 (北野)地蔵堂 石道標(舟型)   正徳3(1713)   町教委 移設 (光背右)「右ハ ひ免し」(=姫路)、(同左)「左ハ 北条道」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
写真 福崎新の題目塔道標 ふくさきしん (神崎)福崎町 <但馬道>  石道標 高257㎝(うち、台石79㎝) 明和2(1765)   WEB(的形道標クラブ) 最下段の基壇上辺がC→移設? (台石右面)「右 北条/左 生野」/塔身正面に「南無妙法蓮華経 法界萬靈」と陰刻 2
写真 福崎新の道標 ふくさきしん (神崎)福崎町 三叉路<但馬道>  石道標   天明5(1785)   町教委/WEB(的形道標クラブ) 移設(基部露出)/中央で斜めに折損→修復 (正面)「右 たしま/左 なくさ、道」 2
写真 大貫の道標 おおぬき (神崎)福崎町 県道・三木~宍粟線沿い 石道標 高110㎝,幅20㎝ 文化8(1811)   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面)「右 志楚う いくの」(=宍粟) 2
写真 福崎新の地蔵道標 ふくさきしん (神崎)福崎町 (出屋敷)七種橋・西詰 石道標(蒲鉾型) 高64㎝ 嘉永4(1851)   町教委/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面像下)「右 田口 な久さ/左 まいの所安じ」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
写真 東田原の道標1 ひがしたわら (神崎)福崎町 (亀坪)日光山登山口 石道標(蒲鉾型)   嘉永5(1852)   町教委/WEB(的形道標クラブ) 原位置? (正面)「(左指差し袖付き)日光寺」 1 -
写真 東田原の道標2 ひがしたわら (神崎)福崎町 (大門) 石道標(尖頭角柱)   元治元(1864)   町教委/WEB(的形道標クラブ) C台石→近接移設? (正面)「従是 妙德山道」、(右面)「慶芳上人開基」、(右面最下部)「本堂 四丁/文殊堂 三丁」 2
写真 東田原の地蔵道標 ひがしたわら (神崎)福崎町 (亀坪) 石道標   江戸期   WEB(的形道標クラブ) 移設 (正面像下右)「みぎは、う志"やう/かめつぼ」、(同左)「飛多"り 日かふ寺」(=日光寺?)/正面頂部を隅丸角形に削り込み地蔵坐像を陽刻/年代不明だが像容の磨耗度から江戸期は確実 2
  岩尾神社の井筒 いわお (神崎)福崎町 岩尾神社 井戸   文久3(1863)   町教委 井戸周囲をC改修 石造の井戸枠/4枚の凸の字型の石材4枚が井の字型に組まれている 2
写真 口長谷の道標 くちながたに (佐用)佐用町 <美作道> 石道標(自然石) 高110㎝,幅50㎝,厚67㎝ 寛政3(1791)   歴史の道4p108/WEB(的形道標クラブ) 原位置  (正面)「右 加ミ可"た/左 志楚う」(=上方,宍粟) 1
写真 横坂の道標 よこさか (佐用)佐用町 国道373号沿い<美作道> 石道標(駒型) 高122㎝,幅51㎝,厚38㎝ 弘化3(1847)   WEB(的形道標クラブ) 再設置(不安定)  (正面)「右 あか本 古んひ良/左 ひめぢ いせ、道」(=赤穂,金毘羅)、(左面)「右 いなば/左 つやま」 3
写真 平福宿の川座敷 ひらふく (佐用)佐用町 <智頭往来・平福宿/佐用川>  通路・船着場   江戸期   WEB(田舎暮らしdeほっ!) 保存状態良好/映画のロケ地にも  川端沿いに川座敷(低い石護岸上の通路)、土蔵の石垣が延々と続く風景は類例がない 1 写真
  乙大木谷の棚田 おつおおきだに (佐用)佐用町   棚田 998枚 江戸後期~明治? 日本の棚田百選 WEB 保存状態良好  古くから開墾された記録はあるものの現在の石垣は江戸後期から明治期のものと考えられる 1
写真 念仏橋 ねんぶつ (多可)多可町 (八千代区中野間)極楽寺 石桁橋(弓型) 長3.7m(2G) 寛政4(1792)   町教委/WEB(石橋) 保存状態良好 石桁上に橋面石を置く形式 1
写真 加美区三谷の愛宕山常夜灯1 かみ、みだに (多可)多可町   石常夜灯(自然石) 高1.93m 嘉永5(1852)   町教委   (竿)「愛宕山常燈」 2
写真 加美区三谷の愛宕山常夜灯2 かみ、みだに (多可)多可町   石常夜灯(自然石) 高1.96m 嘉永5(1852)?   町教委   (竿)「愛宕山常燈」/建立年は刻字されていないが、上記「常夜灯1」と同地区内、同型、同サイズであり、ほぼ同年代と推測されている 1
  加美区三谷の愛宕山常夜灯3 かみ、みだに (多可)多可町   石常夜灯(自然石)   嘉永5(1852)?   町教委   (竿)「愛宕山常燈」/建立年は刻字されていないが、上記「常夜灯1」と同地区内、同型、同サイズであり、ほぼ同年代と推測されている  
  加美区多田の道標 かみ、ただ (多可)多可町   石道標 高73.5㎝,幅29.5㎝,厚18.5㎝ 嘉永2(1849)   町教委 原位置? 「(左指差し)大はた/いくの」 1 -
  加美区的場の地蔵道標 かみ、まとば (多可)多可町   石道標 高84㎝ 享保8(1723)or20(1735)   町教委 地蔵、「まへ」刻字部分を下部道標部分と分離 (左面)「まへて 十六丁」、「右 いくの/左 く」/上部に地蔵坐像を陽刻、像の上に舟型の線刻 3
  中区田野口の地蔵道標 なか、
たのくち
(多可)多可町   石道標(自然石) 高106㎝ 江戸期   町教委 原位置? (正面右)「右 たんば/左 やま、道」/上部に地蔵立像、蓮台を陽刻、像の上に舟型を陰刻、正面中央に「三界萬霊」と陰刻 1
  中区安楽田の地蔵道標 なか、あらた (多可)多可町   石道標(自然石)   元文4(1739)   町教委 原位置? (正面)「右 大坂 ひめじ道/左 京 たん者"道」 1
  八千代区大屋の地蔵道標 やちよ、
おおや
(多可)多可町 薬師堂 石道標(丸彫) 高100㎝(うち、台石35㎝) 享保10(1725)   町教委 移設/地蔵が首で折損→荒く修復 (台石裏面)「右 かなくら/左 ひめじ」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
  八千代区坂本の地蔵道標(あご無地蔵) やちよ、
さかもと
(多可)多可町 地蔵堂 石道標(丸彫) 高117㎝(うち、台石46㎝) 享保12(1727)   町教委 移設/像と台石の石質が違うため、像は後のものと考えられる (台石正面)「右 京道/左 生野道」/台石上に地蔵立像(蓮台)の丸彫を載せる 2
  八千代区大屋の道標 やちよ、
おおや
(多可)多可町 鹿子神社・前 石道標(自然石)   文化2(1805)   町教委 下部C接着 「右 かなくら/左 ひめじ、道」 2 -
  勝浦鉱山・跡 かつうら (多可)多可町 <多田銀銅山> 坑道 矩形坑道:1基,
たぬき掘り坑道:数基
寛延元(1748)   町教委/妙見山麓遺跡調査会 矩形坑道の坑口が一部崩れている 1700年代に開坑された鉱山/2人の人間が立てる程度の大きさの主要坑道と、たぬき掘りの坑道数基が残る/近代まで操業/猪名川町を中心とした多田銀銅山から生野銀山へ続く鉱山帯の一部 2
  金堀鉱山・跡 かなほり (多可)多可町   坑道 矩形坑道:1基,
たぬき掘り坑道:2基
宝暦年間頃~大正期   町教委/妙見山麓遺跡調査会 矩形坑道の坑口が一部崩れている 宝暦年間以前から開坑していたとされる鉱山/2人の人間が立てる程度の大きさの主要坑道と、たぬき掘りの坑道2基が残る/猪名川町を中心とした多田銀銅山から生野銀山へ続く鉱山帯の一部 2
  宮前鉱山・跡 みやまえ (多可)多可町 <多田鉱山> 坑道 坑口:13基 開坑:享保12(1727)   町教委/製銅遺産p22 坑口などが残る 猪名川町を中心とした多田銀銅山から生野銀山へ続く鉱山帯の一部 2
写真 岩座神の棚田 いさりがみ (多可)多可町 (加美区岩座神) 棚田 344枚 近世 棚田百選 WEB 石垣の一部に補修 現在残る石垣は全て近世のもの/石垣が立派な棚田 2
  村岡区黒田の題目塔道標 むらおか、
くろだ
(美方)香美町   石道標 高65㎝,18㎝角 寛政12(1800)   町教委/歴史の道3p150   (正面)「右 めうけん/左 むらおか」/正面中央に「南無地蔵尊」と陰刻   -
  村岡区市原の道標 むらおか、
いちばら
(美方)香美町   石道標 高120㎝ 江戸期?   町教委   (正面)「右 京/左 めうけん、みち」  
  妙見山(作山道)の地蔵町石(十六丁) みょうけん、つくりやま (美方)香美町 (村岡区作山) 町石(舟型) 高65㎝ 江戸後期?   町教委 上部欠損 妙見山(作山道)の地蔵町石は、麓から妙見宮日光院(現・名草神社)まで大まかに順番に並んでいる(妙見宮が1丁⇒逆順/始点である養父市側と比べ移動が激しい/(光背右)「十六丁」 2 -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(十一丁) みょうけん、つくりやま (美方)香美町 (村岡区作山) 町石(舟型) 高75㎝ 江戸後期?   町教委   (光背右)「十一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(五丁) みょうけん、つくりやま (美方)香美町 (村岡区日影) 町石(舟型) 高70㎝ 江戸後期?   町教委 移設?/光背上部欠損 (光背右)「五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
  妙見山(作山道)の地蔵町石(四丁) みょうけん、つくりやま (美方)香美町 (村岡区作山) 町石(舟型) 高54㎝ 江戸後期?   町教委   (光背右)「四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻   -
写真 香住区余部の領境石 かすみ、
あまるべ
(美方)香美町 (梶原)八坂神社・石段脇 境界石 高156㎝,25㎝角 江戸期   米田信夫 移設(もと、桃観トンネルの真上辺り) (正面・右面・左面)「従是東 出石領」 2
  村岡用水 むらおか (美方)香美町   用水路 約4㎞ 江戸期?   町教委 管理されずに放置 村岡水上から用野上の山の中腹に掘られた農業用水路 3
写真 今子浦の和船繋留・跡 いまごうら (美方)香美町 (香住区境) 舟繋石・舟繋杭 目繰り18基,
石杭14基,
もやい岩4基
江戸期   但馬の湊と和船係留跡についてp75-76/町教委 波による風化が進む 今子浦の千畳敷、その沖の黒島に残る北前船の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る 3
  クツイ湾の和船繋留・跡   (美方)香美町 (香住区下浜) 舟繋石   江戸後期   町教委 波による風化が進む クツイ湾に残る北前船の係留施設 3  
写真 対田一里塚 たいた (美方)新温泉町 久斗川左岸の山側
<対田街道>
一里塚(1基) 5×3m,高3m,
塚木:榎
江戸期   町教委(教育はまさか18号) 道路沿いの杉林の中に残る/塚木は補植 周囲の石から石積で周囲が囲われていたと考えられる 3 -
写真 竹田の太神宮常夜灯 たけだ (美方)新温泉町 公民館・南西20m 石常夜灯(自然石) 高約3m 天保14(1843)   米田信夫 移設/火袋後補 (竿正面)「太神宮」、(同右端)「愛宕山」、(同左端)「秋葉山」 2
写真 竹田の地蔵道標 たけだ (美方)新温泉町 公民館・南西20m 石道標(丸彫) 高88㎝(うち、台石50㎝),
幅50.5㎝,厚52㎝
嘉永3(1850)   歴史の道3p151 移設/地蔵頭部欠損 (台石正面右端)「みぎ/京 由村道」、(同左端)「すぐ/はま坂道」、(同右面中央やや右下)「村中」、(同左端)「左/い奈ば道」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる 3
写真 小西いで こにし (美方)新温泉町 久斗川 石組地下水路 長約1㎞ 着工:安政(1854-60)頃?
→完成:明治4(1872)以降
  町教委(教育はまさか16号) 石組地下水路は現存/平成11の耕地整理事業で、縦坑がCマンホール化/上の写真は発掘調査時、下の写真は耕地整理前→現在は共にない 企画:7代目・8代目の小西安兵衛(伝承)/田の下を貫通して下流に水を送るための暗渠水路(マンボのようなもの)/底板、側壁、天井板の4枚の石板で造られた用水路は他に例がない(底樋などでは見かけるが長さ1㎞もある用水路としては唯一) 3
写真 諸寄湊の和船繋留・跡 もろよせ (美方)新温泉町 諸寄漁港 舟繋石・舟繋穴 目繰り7基,
杭穴15基,
もやい岩5基
江戸~幕末   町教委(諸寄漁港にのこる船繋ぎ施設について)/安本恭二 諸寄港の東岸、西岸に比較的集中して残る/詳細な報告書が刊行された稀な例 北前船の風待港であった諸寄港の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る/もやい岩は岩を繋船柱状に削り出した形/杭穴は幅約30㎝、深約60㎝の直方体、円筒形であり、一部は朽ちた杭も残る 2
写真 居組港防波堤 いぐみ (美方)新温泉町 <居組港> 石防波堤   江戸期   町教委/安本恭二 改修の程度は不明    
写真 居組湊の和船繋留・跡 いぐみ (美方)新温泉町 <居組港> 舟繋石・舟繋穴 目繰り9基,
杭穴22基,
もやい岩10基
江戸期   町教委/安本恭二 岩場に数多くの船繋ぎ施設が残る 北前船の風待港であった居組港の係留施設/3種類の繋留施設がよく残る 2
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

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