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徳島県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  国府町府中の常夜灯 こくふ、こう 徳島市 <伊予街道> 石常夜灯   天明2(1782)   歴史の道2p58   (竿)「大神宮愛宕山常夜灯」「中早淵講中」    
  不動北町の常夜灯 ふどうきた 徳島市 <讃岐街道> 石常夜灯   文化元(1803)   歴史の道1p21・30 個人宅内 (竿右面)「剱山大権現」、(竿裏面)「往来安全」 4
  国府町観音寺の地蔵道標 こくふ、かんのんじ 徳島市 <へんろ道> 石道標(丸彫)   享保15(1730)   歴史の道5p67・162 設置環境やや不良 (台石正面)「左 こくぶん寺/右 ふじい寺」、(台石○面)「願主 道休」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる 2
  一宮町の地蔵道標 いちのみや 徳島市 (西丁)<へんろ道> 石道標(丸彫)   宝暦12(1762)   歴史の道5p160/同・別冊Ⅲp89 保存状態良好 (台石正面)「右 おんざん寺/左 ぢやうらく寺」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる/下記「一宮町の道標」と併設 1
  上八万町の地蔵道標1 かみはちまん 徳島市 (上中筋)<へんろ道> 石道標(丸彫)   明和9(1772)   歴史の道5p76・166/同・別冊Ⅲp51 保存状態良好 (台石正面)「左 恩山寺三里/右 一宮廿五丁」/3段の台石上に簡略化した蓮台付き地蔵坐像の丸彫を載せる 1
写真 入田町の地蔵道標1 にゅうた 徳島市 (矢那谷)<へんろ道> 石道標(舟型)   安永2(1773)   歴史の道5p159
/空海の里
移設 (光背左)「左 一宮道 是ゟ五丁」/正面に地蔵立像を陽刻 2
写真 入田町の地蔵道標2 にゅうた 徳島市 (矢那谷)<へんろ道> 石道標(舟型)   安永2(1773)   歴史の道5p159
/空海の里
移設 (光背左)「左 一宮道 是ゟ五丁」/正面に地蔵立像を陽刻 2
  勝占町の地蔵道標 かつら 徳島市 (半谷)<へんろ道・土佐街道> 石道標(丸彫)   天明8(1788)   歴史の道4p10-11
・58/同5p165/WEB
保存状態良好 (台石左面)「左 おんざんじ道/是より一里半」、(台石正面)「三界萬霊」/台石の上に蓮台付き地蔵坐像の丸彫を載せる 1
写真 国府町延命の徳右衛門道標 こくふ、えんめい 徳島市 常楽寺<へんろ道> 石道標   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p64・161/WEB(空海の里) 移設 (正面像下)「十四番/常樂寺」、(正面下部)「従是 國分寺迠 八丁」、(左面)「願主 □□ 德右衛門」/頂部を火灯窓型に削り込み弥勒菩薩像(蓮台)を陽刻〔→異例〕/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 国府町矢野の徳右衛門道標 こくふ、やの 徳島市 国分寺・駐車場
<へんろ道>
石道標   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p66・162/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 移設/下部埋設 (正面像右)「十五番」、(同左)「國分寺」、(同像下)「從是 観音寺迄 十四…」、(右面)「願主 豫州越智郡朝倉/上村 德…」/頂部、梵字下に大師坐像(?)を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 国府町井戸の徳右衛門道標 こくふ、いど 徳島市 井戸寺<へんろ道> 石道標   寛政6-文化4
(1794-1807)
  WEB(空海の里) 移設/下部埋設 (正面像下)「十七番 井…/是ヨリ 恩山寺…」、(左面)「願主、豫州越…/朝倉上村…」/頂部、梵字下を円形に削り込み大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 国府町府中の照蓮道標 こくふ、こう 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6-8(1809-11)   歴史の道5p69・163 移設/下部埋設 (正面像下)「(四國中千…)」/右指差し手印の下を蒲鉾型に刻み込み大師坐像を陽刻/地蔵と並ぶ 3
写真 国府町延命の照蓮道標1 こくふ、えんめい 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1810)   歴史の道5p64・162/WEB 原位置? (正面像下)「四國中千躰大師」、(右面下部)「世話人 徳島講中/願主 照蓮」/開いた右手差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 1
  国府町井戸の照蓮道標 こくふ、いど 徳島市 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p69・163/WEB 保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(同右/左)「新町一丁目講中/眞念再建」/右指差し手印下に大師坐像を陽刻 1
写真 国府町和田の照蓮(?)道標 こくふ、わだ 徳島市 <伊予街道・へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道2p11・58
/同5p69・163
移設 (正面像下)「西横町三/百六十一番」、(右面)「世話人 徳嶋講中/願主 □□」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻/形態・刻字内容・建立年から恐らく照蓮道標 2
  国府町矢野の照蓮道標1 こくふ、やの 徳島市 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p67・162 移設 (正面像下)「四國中千躰大師」、(右面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/左指差し手印下に大師坐像を陽刻 2
写真 国府町矢野の照蓮道標2 こくふ、やの 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p67・162 移設/下部埋設 (正面像下)「百五十四番」、(○面)「願主 照蓮/世話人 徳嶋講中」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
写真 入田町の照蓮道標 にゅうた 徳島市 (矢那谷)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p159/同・別冊Ⅲp41 移設 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「願主 照蓮」/左指差し手印下を蒲鉾型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
  国府町矢野の照蓮道標3 こくふ、やの 徳島市 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p67・162 移設/下部埋設 (正面像下)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/○指差し手印下に大師坐像を陽刻 3
写真 国府町西矢野の照蓮道標 こくふ、にしやの 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p62・161 移設/下部がC壁と一体化 (正面像下)「四國中千躰大師」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 3
写真 国府町井戸の照蓮道標 こくふ、いど 徳島市 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p69・163 移設/下部埋設 (正面像下)「四國中千躰…」、(右面)「眞念再建 願主照蓮」/右指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 3
写真 国府町南岩延の照蓮道標 こくふ、みなみいわのぶ 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p74・165 移設/下部埋没 (正面像下)「四國中千躰…」、(○面)「眞念再建/徳嶋世話人」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 3
  八万町法花谷の照蓮道標 はちまん、ほっけだに 徳島市 <土佐街道・へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道4p58/同5p165 現況不明 (正面)「(○指差し)百七十一番…」、(○面)「世話人 徳島講中/願主 照蓮」  
写真 国府町延命の照蓮道標2 こくふ、えんめい 徳島市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化7(1810)   歴史の道5p63・161/照蓮を探せp24 移設/下部埋没 (正面像下)「四國中千躰大師」、(同右/左)「世話人 阿州徳島講中/願主 照蓮」/左指差し手印下を光背型に刻み込み大師坐像を陽刻 3
  蔵本元町の道標 くらもともと 徳島市 <讃岐街道・へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化10(1813)   歴史の道1p18・29 下部埋設 (正面)「恩山寺江 四 2 -
写真 上八万町の地蔵道標2 かみはちまん 徳島市 (下中筋)<へんろ道> 石道標(丸彫)   文化12(1815)   歴史の道5p77・166 移設/Cブロック覆屋内 (台石正面右)「右 一ノ宮 三十五丁」、(台石右面)「おんざん志/二り者ん」/台石の上に地蔵坐像(蓮台、敷茄子)の丸彫を載せる 3
  南佐古一番町の照蓮道標 みなみさこいちばん 徳島市 <伊予街道・讃岐街道> 石道標   文化13(1816)   歴史の道1p29/同2p9・57/同5p165 保存状態良好 (正面)「(右指差し袖付き)いどじミち」、(右面)「(左指差し)おんさんしみち」、(○面)「願主 照蓮」/正面手印下に大師座像を陽刻/出典の記載が正しければ、文化13の照蓮道標は異例 1
写真 国府町井戸の道標 こくふ、いど 徳島市 井戸寺<へんろ道> 石道標(自然石) 高338㎝ 文政2(1819)   歴史の道5p73・164/同・別冊Ⅲp8 保存状態良好 (正面)「四國十七番 井戸寺霊場」、(正面右端)「(右指差し)これより おんざんしへ 五り」、(正面左下)「願主 出來嶌中」/高さ3mを超える道標 1
  入田町の道標3 にゅうた 徳島市 (神の池)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文政2(1819)   歴史の道5p59・159 設置環境やや不良 (正面)「(右指差し)是与り 一ノ宮」 2 -
写真 国府町府中の地蔵道標1 こくふ、こう 徳島市 <へんろ道> 石道標   文政4(1821)   歴史の道5p71・164 移設/磨耗大/下部埋没 (正面像下)「いどじ」、(同左)「右 くハん…」/上部を火灯窓型に刻み込み地蔵坐像を陽刻 3 -
  一宮町の道標 いちのみや 徳島市 (西丁)<へんろ道> 石道標   文政12(1829)   歴史の道5p61・160 設置環境やや不良 (正面)「右 恩山寺/左 ぢやうらく寺」/上記「一宮町の地蔵道標」と併設 2
  上八万町の地蔵道標 かみはちまん 徳島市 (樋口)<へんろ道> 石道標(墓石型)   天保14(1843)   歴史の道5p77・167/同・別冊Ⅲp52 保存状態良好 (台石右面)「右 一のミや 三十五丁」、(台石左面)「左 あづ里こへ」/塔身正面上部を削り込んで地蔵座像を陽刻 1
  加茂名町の大師道標 かもな 徳島市 (東名東山)<へんろ道> 石道標   天保15(1844)   歴史の道5p79・167 保存状態良好 (正面)「(左指差し)」、(裏面)「左 地蔵道」/正面手印下に大師坐像の浮彫 1
  名東町の道標 みょうどう 徳島市 (1丁目)<へんろ道> 石道標   安政2(1855)   歴史の道5p167 現況不明 (正面)「(○指差し)あんさん目ひき地蔵/從是西南 生寺相領」    
  北島田町の道標 きたしまだ 徳島市 <讃岐街道> 石道標   文久2(1862)   歴史の道1p19・29 移設 (正面)「右 一ばん霊山寺/左 十七ばん井戸寺」、(右面)「右 金毘羅」、(左面)「右 恩山寺」 2 -
  二軒屋町の道標 にけんや 徳島市 (2丁目)<土佐街道> 石道標   慶応2(1866)   歴史の道4p9・57/同・別冊Ⅱp37 下部C、剥落大 (正面)「遍ん路/恩山寺」、(右面)「金剛道/是より二丁」 2
写真 国府町府中の地蔵道標2 こくふ、こう 徳島市 <へんろ道> 石道標(丸彫) 高約2m 江戸期?   歴史の道5p69・163 移設、集約 (六角台石正面)「右 井戸寺」、(六角台石右面)「左 觀音寺」/背の高い六角柱の台石上に地蔵坐像(蓮台、敷茄子)の丸彫が載る/形態から江戸期の可能性 2
写真 国府町井戸の大師道標 こくふ、いど 徳島市 <へんろ道> 石道標(舟型)   江戸期?   歴史の道5p73・164 移設 (光背頂部)「廿二丁」、(同右)「右 五百らかんミち」/中央に大師立像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性 2
写真 国府町矢野の道標 こくふ、やの 徳島市 <へんろ道> 石道標   江戸期?   歴史の道5p67・162 移設、鉄柱に縛り付けてある (正面)「左 とく志まミち」、(裏面)「右 こくぶんしてら」/「ミち」の標記は江戸期の可能性 3
  別宮渡し・跡 べつく 徳島市 <下板街道>/吉野川 渡し場   享保10(1725)   歴史の道1p59・70 昭和19まで使用 川内町別宮~上吉野町 3
  鮎喰渡し・跡 あくい 徳島市 <高瀬街道>/鮎喰川 渡し場   江戸期   歴史の道5p75・165 渡しの面影はないが、常夜灯をはじめ関連遺構が数多く残る 国府町南岩延~中島田町4丁目(下記「上鮎喰渡船場」の1㎞下流) 2
  上鮎喰渡し・跡 かみあくい 徳島市 <伊予街道>/鮎喰川 渡し場(石組)   江戸期   歴史の道2p11・12・57/同5p166 明治8架橋により廃止/石組に用いた石塊が残る 鮎喰町2丁目(上記「鮎喰の渡し」の1㎞上流)/通称「亀胴」/通常は徒渉→水量の多い時には仮橋や渡し舟を使用 3
  国府町南岩延の常夜灯 こくふ、みなみいわのぶ 徳島市 <高瀬街道>/鮎喰川(砂岩) 石常夜灯(砂岩) 高2.83m 文化4(1807)   歴史の道5p74・164 設置環境やや不良 上記「鮎喰渡し」の常夜灯/(竿)「石鉄山大権現」、(竿東面)「金毘羅大権現」 2
写真 金比羅神社の常夜灯 ことひら 徳島市 (勢見町)金比羅神社・参道階段入口の鳥居脇 石常夜灯 高10.24m 天保10(1839) とくしま市民遺産 WEB/現地解説板/市教委 原位置 総石造の交通関連の常夜灯としては全国で最も背が高い/本来は神社に寄進されたものだが(竿正面に「獻燈」と陰刻/藍と関連→徳島らしさ)、津田港に入港する船の目印となっていた/石工: 東新/竿石が角柱状/石基壇は2段目地・割肌仕上げの長方形角材を組み合せて3段積みにしている(江戸期としては稀) 1
  川内町上別宮南の常夜灯 かわうち、かみべつくみなみ 徳島市 <下板街道>/吉野川 石常夜灯(自然石、青石)   嘉永7(1854)   歴史の道1p59・70 移設 上記「別宮渡し」の常夜灯 2
  以西用水 いさい 徳島市・
(名西)石井町
鮎喰川 用水路   鎌倉・室町期?
→文化7(1810)
  WEB C三面張り 文化年間のはじめに以西地域約500haで水不足が起こり、文化7に国府町延命の鮎喰川底に木樋を埋設し増水 4
写真 袋井用水の水源地 ふくろい 徳島市 鮎喰川 用水池 長180m,幅18m 元禄12(1699) 県史跡 現地解説板/WEB 保存状態良好 島田村の庄屋・佐藤吉左衛門が島田・庄・蔵本村の水不足解消のため7年をかけて開削/用水池の三方を堤で囲い、袋の口から水が出るようにしたので「袋井用水」と名付けられた(伝承) 1
写真 蓬庵堤 ほうあん 徳島市 鮎喰川右岸 土堤防 長5.2㎞ 天正14(1586)   現地解説板/四国三郎物語p49 ほとんどは旧道化し、堤防らしさが残るのは僅か 徳島藩初代藩主・蜂須賀家政が、徳島城の築城に際して、鮎喰川の洪水防御と城の外堀を兼ねて築造 4
  龍蔵堤 りゅうぞう 徳島市 (国府町芝原)<吉野川・新宮川> 土堤防   元文5(1740)頃   WEB 現況不明 藍栽培が盛んだった芝原を例年のように襲う洪水に窮策した村の庄屋や役人が、水の神を鎮めるため人柱を埋めることになった→庄屋が自ら犠牲になろうとしたのを察した龍蔵が身代わりとなり、堤防が築造    
写真 国府町日開の法光寺前の地蔵 こくふ、ひがい、ほうこう 徳島市 鮎喰川 高地蔵(洪水遺産) 高277㎝
(うち、台石194㎝)
文化3(1806)   WEB 基壇がC被覆 「三界萬霊」/C基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 3
写真 国府町日開の東の地蔵 こくふ、ひがい 徳島市   高地蔵(洪水遺産) 高363㎝
(うち、台石263㎝)
文化4(1807)   WEB C基盤 「三界萬霊」/石基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
写真 国府町東黒田のうつむき地蔵 こくふ、ひがしくろだ 徳島市 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高419㎝
(うち、台石298㎝)
文化8(1811)   WEB 保存状態良好 「法界萬霊」/4段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水で分りにくくなった土地境界の目印、水没者の供養、洪水時に水没しないため)/100基以上ある高地蔵の中で最大/うつむいていた姿が特徴 1 写真
  国府町和田の地蔵 こくふ、わだ 徳島市 (居内)鮎喰川 高地蔵(洪水遺産) 高323㎝
(うち、台石203㎝)
安政6(1859)   WEB 祠内/どの部部が後補か不明 3段の板状台石上に2種類の蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/夜泣き地蔵だか、恐らく洪水遺産(洪水時に水没しないため)を兼ねる 3
写真 蛭子神社の百度石 ひるこ 徳島市 (南沖洲) 津波記念碑(砂岩)
(安政南海地震)
  文久元(1861)   徳島県の地震・津波碑~資料編p4 平成15移設/石材の表面劣化がひどく4面のうち2面が剥落 (正面)「百度石」、(左面)永七寅年十一月五日大イに地震ふ人ヽうろたへ木竹の根からみ/せし中へかけ込津波來ると騒く聲におとろき舟に乘しは/おし流され危きを助り又舟覆りて命を失ふも有」、(裏面)「必ふねには乘へからす家潰巨燵竃より火起り家/藏多くやけぬかゝる折はこゝろを靜め火の元に心を/つける事肝要也もゝとせ經ぬる程にはかやうの」、(右面)「震濤有と聞故こたひ氏神の廣前にもゝ度/石を建る序このよし誌侍りぬ」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 3
写真 おもかげの井戸
(日限大師)
(ひかぎり) 徳島市 井戸寺 石井戸 径約90×80㎝,高約60㎝ 平安初期(井戸枠の年代は不詳)   現地 木造檜皮葺きの建屋内 井戸=「日限大師」として信仰の対象/弘法大師が錫杖で清水を湧き出させたとの伝承→「井戸寺」の名称/ご詠歌:「おもかげを うつして見れば 井戸の水 むすべば胸の あかや落ちなん」/井戸枠の石組はかなり古い形式 1
写真 大神子の狼煙場・跡 おおみこ 徳島市 大神子広域公園・北尾根遊歩道 狼煙場 2.8m×2.8m
(内寸)
文化年間(1804-18)   現地解説板/図説徳島県の歴史p157 遊歩道に沿って展示整備 徳島藩によって異国船の来航を監視するために設けられた大島~徳島を結ぶ狼煙場群/解説板等に構築年代として「元禄年間」とあるのは間違い 2
写真 津田台場・跡 つだ 徳島市 津田砲台場史跡公園
<徳島藩>
台場(土塁) 長約110m,15㎝砲2門を含む30門の大砲 元治元(1864)   台場事典p535
/WEB(城めぐ)
公園整備/残存規模は当初の一部/台場の土塁の一部と火薬庫の壁の一部が残る 築造:徳島藩士・勝浦安右衛門、小出由岐右衛門/徳島藩内では最大規模の台場 3
写真 沖洲台場・跡 おきす 徳島市 沖洲公園<徳島藩> 台場(土塁) 砲5門 幕末   台場事典p535
/WEB(城めぐ)
土塁の一部が残るとされるが… 津田台場の副台場 4
  動々原一里松付近の土佐街道 どうどうばら 阿南市 <土佐街道> 道路   江戸期   歴史の道4p25 保存状態良好 竹林の間に昔の街道の面影が手付かずで残る=距離短い 1
写真 大根峠の切通し おおね 阿南市 <土佐街道> 切通し   江戸期   歴史の道・別冊Ⅲp70 遍路観光用に整備 県下で最も大規模な切通し 2
写真 加茂町の道標1 かも 阿南市 <へんろ道(太龍寺道)> 町石
→石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高128.5㎝,
幅15㎝
貞冶4(1365)
→後世に道標化
県史跡 阿波遍路道報告書1p37・47・53/同2p34・64 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「(左手差し)左 く王く里んじ 」、(右面)「右 たい里うじ」、(左面)「右、かも/とミお可、道」、(正面旧刻)「二丁、貞冶ニニ/正月一三、願主」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 阿瀬比町の真念道標 あせび 阿南市 (大根)<へんろ道> 石道標(尖頭角柱)   1680年代?   WEB(空海の里) 下部欠損→木にバンドで結束して立ててある (正面)「右 編ん路み…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 3
写真 加茂町の道標2 かも 阿南市 (黒河)<へんろ道> 石道標(笠付き)   元文2(1737)   歴史の道5p104・179 原位置? (正面)「左 ふだらく山/ほんだうへ すぐ道」 1
  新野町の道標1 あらたの 阿南市 (広重)<へんろ道> 石道標   延享3(1746)   歴史の道5p182 現況不明 (正面)「左 へんろ道」/下記「新野町の大師道標2」と同所    
  上中町の地蔵道標1 かみなか 阿南市 (南島)<土佐街道> 石道標(丸彫)   明和元(1764)   歴史の道4p20・62 信仰の対象 (台石正面)「左 王らい道」/台石上に地蔵尊坐像の丸彫を載せる 1
  羽ノ浦町岩脇の道標 はのうら、いわわき 阿南市 <土佐街道> 石道標 高47㎝ 明和3(1766)   歴史の道4p19・62 保存状態良好 (正面)「右 とくしま道」 1 -
写真 新野町の徳右衛門道標 あらたの 阿南市 平等寺<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   寛政6-文化2
(1794-1805)
  WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 移設 (正面像下)「これより/薬王寺迠、五り」、(右面)「施主 徳嶋佐古町、大師講中/坂東氏蓮」、(左面)「願主 与州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を浮彫り/『四國中道筋日記』(文化2)で道標のことが紹介されているので、建立はそれ以前/真念の『四國邊路道指南』の「七リ」という記載と異なる里程数を刻字(実測値は19.7㎞=5里=間違いを訂正した)→施主の徳嶋大師講と齟齬(?)→徳嶋講中と照蓮による「願主真念」を標榜した標石設置運動が文化6から阿波を中心にスタート/へんろ道標の変遷史上、大きな意味を持つ徳右衛門道標 2
写真 加茂町の徳右衛門道標 かも 阿南市 太龍寺・参道階段
<へんろ道>
石道標(尖頭角柱)   寛政9(1797)   歴史の道5p102・179/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 原位置? (正面像下)「是より 平等寺へ 二里/靏林寺 一里半」、(右面)「願主/州越智郡 徳右衛門」/頂部梵字下を蒲鉾型に削り込み大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 1
写真 福井町の徳右衛門道標 ふくい 阿南市 (鉦打)<へんろ道> 石道標(尖頭角柱)   寛政12(1800)?   歴史の道5p109・182/同・別冊Ⅱp46/WEB(徳右衛門丁石) 原位置? (正面像下)「従是 薬王寺 五里半」、(正面左下隅)「本願主 豫州人」、(左面)「四つの國あゆミをはこぶくりきニて/飛と阿しづヽ尓きゆるつミとが」/頂部を蒲鉾型に削り込み大師坐像を陽刻/原簿の里程数に間違い(実際は薬王寺まで1里程度)/「本願主 豫州人」の標記と添え歌の刻字は異色/美波町の「田井の徳右衛門道標」と似ているので、同時期の建立か?/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 1
  新野町の供養塔道標 あらたの 阿南市 西光寺<へんろ道> 石道標   文化4(1807)   歴史の道5p181 現況不明 (正面)「是より 平等寺 十町」/光明真言供養塔を兼ねる    
写真 大井町‎の照蓮道標 おおい 阿南市 <へんろ道(太龍寺道)> 石道標(蒲鉾型、砂岩) 高90㎝,幅21㎝,厚15.5㎝ 文化6(1809) 国史跡 阿波遍路道報告書1p33・46・52/歴史の道・別冊Ⅲp64 保存状態良好 (正面)「(左指差し)四國中千躰大師」、(正面右下)「是より 太龍寺へ 四十丁」、(右面右)「願主照蓮 世話人徳嶋講中」/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻 1
  羽ノ浦町岩脇の地蔵道標 はのうら、いわわき 阿南市 <土佐街道> 石道標(丸彫)   文化7(1810)   歴史の道4p18・61 祠内 (台石左面)「左 かいふ道」/台石上に地蔵尊坐像の丸彫を載せる 1
  長生町の道標 ながいけ 阿南市 (松道)<土佐街道> 石道標   文政2(1819)   歴史の道4p63 現況不明 (正面)「つの峯道 是 廿八丁」    
  加茂町の道標3 かも 阿南市 <へんろ道(太龍寺道)> 石道標(砂岩) 高103㎝,幅21.5㎝,厚17.5㎝ 文政6(1823)   阿波遍路道報告書1p37・47・54 「丁」の下半部からC埋設 (正面)「右 太龍寺 五丁」、(右面)「左 鶴林寺 一 2
写真 新野町の大師道標1 あらたの 阿南市 (岡花)<へんろ道> 石道標   文政13(1830)   歴史の道5p106・181/WEB 移設、集約 (正面像下)「(左指差し)左 平等寺/十五丁」/上部を火灯窓型に削り込み大師座像を陽刻 2
  新野町の地蔵(?)道標 あらたの 阿南市 西光寺<へんろ道> 石道標   天保2(1831)   歴史の道5p107・181/WEB 保存状態良好 (正面)「(○指差し)平等寺江 六丁」/上部を光背型の削り込み地蔵坐像?を陽刻/墓を兼ねる/大正13道標と接するように立つ 1  
  新野町の大師道標2 あらたの 阿南市 (広重)<へんろ道> 石道標   天保3(1832)   歴史の道5p109・182 保存状態良好 (正面右)「(左指差し袖付き)左 日和佐 薬王寺」、(正面左)「(右指差し袖付き)」、(○面)「平等寺江 二十五」/正面上部を光背型に削り込んで大師坐像を陽刻/上記「新野町の道標1」と同所 1
  上中町の地蔵道標2 かみなか 阿南市 (南島)<土佐街道> 石道標(丸彫)   天保4(1833)   歴史の道4p62 現況不明 (台石○面)「右 とくしま満/左 津之峰 日和佐道」/台石上に地蔵尊坐像の丸彫を載せる    
  福井町の地蔵道標 ふくい 阿南市 (日の地上)
<土佐街道・へんろ道>
石道標(舟型)   弘化2(1845)   歴史の道4p33・66/同5p185 保存状態良好 (光背○ or 台石)「薬王寺 二里余」/台石上に蓮台付き舟型地蔵を載せる 1
  長生町の聖観音像(?)道標 ながいけ 阿南市 (岩ノ下)<土佐街道> 石道標   嘉永6(1853)   歴史の道4p22・63 中央で水平に折損→修復 (○面)「是より 日和佐江 六里」、(○面)「徳島江 六里/処観音江 二丁」/正面上半分を光背型に削り込み聖観音坐像(?)を陽刻 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(四十一丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高85㎝,幅18㎝,厚16㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p29・57 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 一宿寺~太龍寺の角柱町石は、貞冶4の旧町石を再利用したもので、二十一番太龍寺に向けて丁数順に並んでいる(二十一番太龍寺側が一丁⇒逆順/(正面)「四十一丁」、(正面旧刻)「四、貞冶ニニ年/月十三日、願主 道…」(左記報告書では貞冶6と書かれているが、p57の拓本から「六」とも「ニニ」とも読め、日が十三日なので貞冶4と推定)/旧刻年の「ニニ」は二が横に並んだもので貞冶4のこと(以下同じ)/頂部は水平/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
  一宿寺~太龍寺の角柱町石(三十八丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高101.5㎝,幅17㎝,厚17㎝ 貞冶4(1365)?
→後世に再町石化
  阿波遍路道報告書2p29-30・57 南北朝期の町石の再利用 (正面)「三十八丁」、(裏面旧刻)「月十三日 願主 氏女」/以下の貞冶4の再利用町石に旧刻されている月日はほとんど「正月十三日」となっているため、この町石も貞冶4の町石の再利用と推測/頂部四周の2本線はないが、それは上部が折損しているため(「三十三丁」の旧刻と文字配置が酷似) 3
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(三十五丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高101.5㎝,幅17㎝,厚17㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p30・58 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「三十五丁」、(正面旧刻)「四町、貞冶ニニ年/正月十三日、願主 浄繁」/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(三十三丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石 (尖頭角柱、花崗岩) 高121㎝,幅15㎝,厚16㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
市史跡 阿波遍路道報告書2p30・58 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面 (正面)「三十三丁」、(右面旧刻)「卅七丁 貞冶ニニ年正月十三日 願主 妙智」/頂部は水平/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 1
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(三十二丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高115㎝,幅17㎝,厚17.5㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p30・59 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「三十二丁、(正面旧刻)「四十丁、貞冶ニニ年/正月十三日、願主 比丘浄繁」、(左面)「右 かも」/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(廾八丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高115.5㎝,幅17㎝,厚16㎝ 貞冶4(1365)?
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p31・59 南北朝期の町石の再利用 (正面)「廾八丁」/(正面旧刻)「二親造立之」→紀年銘なし→一連のもの同一と解釈し貞冶4と推定/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 3
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(廾六丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高96.5㎝,幅16㎝,厚16.5㎝ 貞冶4(1365)?
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p31・60 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面 (正面)「廾六丁」、(裏面旧刻)「(梵字)三十四丁」→紀年銘なし→一連のもの同一と解釈し貞冶4と推定/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(廾三丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高118㎝,幅16.5㎝,厚16㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p31・60 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「廾三丁」、(正面旧刻)「造立之 貞冶ニニ年/五月八日、願主/敬白」(これだけ「正月十三日」ではない)/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(二十一丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高103.5㎝,幅16㎝,厚17㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
市史跡 阿波遍路道報告書2p32・61 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「二十一丁」、(正面旧刻)「四四丁、貞冶ニニ/月十三、願主 幸賢」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(十六丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高68㎝,幅15㎝,厚16.5㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p32・61 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/下部埋設or欠損 (正面)「十六丁」、(正面旧刻)「冶ニニ/月十三、願主…」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 3
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(十三丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高98.5㎝,幅18㎝,厚16.5㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p32・62 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「十三丁」、(正面旧刻)「三、貞冶ニニ/月十三、願主 幸賢」/頂部は水平/上部に左右に2本線を線刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(十丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高95㎝,幅18㎝,厚15㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
市史跡 阿波遍路道報告書2p32・62 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「十丁」、(正面旧刻)「丁、貞冶ニニ/正月十三、願主 妙阿」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(七丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高121㎝,幅14.5㎝,厚16.5㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p32・63 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「七丁」、(正面旧刻)「貞冶第四年/三月三日、比丘尼源明大」
(「第四年」「三月三日」は異例)/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱
2
写真 一宿寺~太龍寺の角柱町石(三丁) いっしゅく、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(かも道)> 町石(花崗岩) 高149㎝,幅15.1㎝,厚17.8㎝ 貞冶4(1365)
→後世に再町石化
県史跡 阿波遍路道報告書2p34・63 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「三丁」、 (正面旧刻)「六or八丁、貞冶ニニ/月十三、願主 幸賢」/頂部は水平/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 一宿寺境内の旧・角柱町石(四十二町) いっしゅく 阿南市 一宿寺
<へんろ道(かも道)>
<町石(花崗岩)> 高75.4㎝,幅17.5㎝,厚17.5㎝ 貞冶4(1365) 市史跡 阿波遍路道報告書2p35・65 移設/頭部左側半分を欠損/基部C固定 一宿寺境内の角柱町石は、町石としての機能を果たしていないので、ランク順にリスト化/(正面)「四十二町、貞冶ニニ年/正月十三日」/頂部は水平(当初は尖頭角柱)/上部に左右に2本線を線刻/オリジナルの南北朝町石だが、町石と機能は果たしていない 2
  一宿寺境内の旧・角柱町石(卅三丁) いっしゅく 阿南市 一宿寺
<へんろ道(かも道)>
<町石(尖頭角柱、花崗岩)> 高51㎝,幅16.7㎝,厚17.5㎝ 貞冶4(1365)? 市史跡 阿波遍路道報告書2p35・66 移設/下半分欠損→Cで固定 (正面)「卅三丁、貞冶…/正月十…」/頂部は浅型の尖頭/上部に左右に2本線を線刻/当初は尖頭角柱/オリジナルの南北朝町石だが、町石と機能は果たしていない 3 -
  一宿寺境内の旧・角柱町石(四十四町) いっしゅく 阿南市 一宿寺
<へんろ道(かも道)>
<町石(花崗岩)> 高16.6㎝,幅16.6㎝,厚17.7㎝ 貞冶4(1365)??   阿波遍路道報告書2p35・66 移設/頂部のみ残存 (正面)「四十四 or 四十七町」/頂部は水平/上部に左右に2本線を線刻/当初は尖頭角柱/オリジナルの南北朝町石だが、町石と機能は果たしていない 4 -
  一宿寺境内の旧・角柱町石(町)1 いっしゅく 阿南市 一宿寺
<へんろ道(かも道)>
<町石(花崗岩)> 高78.5㎝,幅15.6㎝,厚13.8㎝ 貞冶4(1365)?? 市史跡 阿波遍路道報告書2p35・66 移設/上部欠損 (正面)「貞冶ニニ年/正月十三日、願主 蓮妙」/上部に左右に2本線を線刻/当初は尖頭角柱/現存状態では町石とは言えない 2
  一宿寺境内の旧・角柱町石(町)2 いっしゅく 阿南市 一宿寺
<へんろ道(かも道)>
<町石(花崗岩)> 高75.4㎝,幅16㎝,厚17.5㎝ 貞冶4(1365)? 市史跡 阿波遍路道報告書2p35・65 移設/上部欠損 (正面)「月十三日 願主 藤原氏女」(上記「三十八丁」と同じ理由で貞冶4と推定)/現存状態では町石とは言えない 3
  鶴林寺~太龍寺の角柱町石(三丁) かくりん、
たいりゅう
阿南市 <へんろ道(太龍寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高105㎝,幅18.5㎝,厚18㎝ 貞冶3(1364)
→後世に再町石化
国史跡 阿波遍路道報告書1p22・47・54 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/C打設 鶴林寺~太龍寺の町石は、二十一番太龍寺に向けて丁数順に並んでいる(二十番鶴林寺が一丁)/(正面)「三丁」、(正面旧刻)「貞冶三年三月十三日」/頂部は水平(当初は尖頭角柱)/頂部四周に2本線を陰刻/一丁~二十八丁のうち、江戸期の「一丁」と、南北朝期の再利用の「三丁」を除きすべて舟型の地蔵町石で、かつ、年代不詳 3
  岩脇の渡し・跡 いわわき 阿南市 <土佐街道>/那賀川 渡し場   江戸期   歴史の道4p19・62 場所がほぼ特定できる程度 すぐ上流に「上中町南島の渡し・跡」もあるとされるが、両者の関係も不明な上、何も残っていない 5
  万代堤 ばんだい 阿南市 那賀川 土堤防(霞堤) 長1070m,
幅44m,高7m
天明7(1787)   四国地方整備局 全面改修/万代祭りとして残る 徳島藩の命によって那賀川北岸の古毛(元羽ノ浦町)に工事責任者となった庄屋・吉田宅兵衛が私財を投じて構築/建造当時、阿波国最大 4
写真 古毛の大岩 こもう 阿南市 那賀川 石水制(1つの岩) 長約9m,幅約7m,周囲約23m 慶応3(1867) 市史跡 四国地方整備局 当時のまま 上記「万代堤」の庄屋・吉田宅兵衛の孫が、増水時の万代堤の決壊を防ぐため、那賀川に迫って立っている覗石山から、水勢の最も強い所に巨岩を落とし「水はね岩」とした/事例がきわめて少なく貴重 1
写真 椿町の八幡神社常夜灯 つばき、
はちまん
阿南市 (浜)八幡神社 津波記念碑(2基)
(安政南海地震)
高3.63m 安政3(1856)   徳島県の地震・津波碑~資料編p9 保存状態良好/刻字は右側常夜灯台石→左側常夜灯台石と続く (右側常夜灯の台石2段目・正面)「古き代より此處に祭れる/八幡宮御廣前に大松あり/囲り二丈餘根際より一の枝へ/四間髙サ三十間に餘りぬれは/遠近是を稱譽して御國内/無類の大木と申侍りしに去ル弘/化三年丙午九月二日の夜の/大風に倒れけるはいと〱惜む/へきことなりけりのち嘉永/七年甲寅 十二月改元安政といふ 十一月四日/四ツ時地震す髙潮濱土堤を/こえ川筋奥手迠上れは人ヽ/津浪の再ひ來らんことを恐れ/豫其設をなしけるに海上靜に/なりて其日はさもなく暮ぬ/翌五日天氣快晴夕七ツ時大地震/樹木動揺して響山谷に亘り/西の方しきりに鳴て止ず酉の/刻にいたりて潮嵩見上るばかりに/來りけれは若きハ老を扶け/幼を携へあるは牛馬を驅り/器財を夯ひおのかさま〱に奔走/して周章騒動詞に盡かたし/漸く山に登りて村内を見おろせは」、(左側常夜灯の台石2段目・正面)「香の谷中村迠一面しはしか程は/海となりぬ猶其中も震動絶す/夜四ツ時大に震す諸人又ヽ潮の/變あらんことを患ひて瞬息の/間も心を安んせす且昼ゟ食せ/されは膚を侵す寒風も亦すさ/ましく覺え一夜千宵の思ひを/なして其夜をそ明しける凡此時の/變に罹るもの堤板橋ハいふもさら也/流れし家九軒浸りし家十八軒/泥土去て砂石を堆くせる田三十餘町に覃ふといへり今思ひ/合すれはさはかりの大變に氏子共乃/身にことなかりしハ此御神の冥助/にして彼巨松をして諸人の横難に/代らしめたまひしなるへし/粤に池内清壽武田嘉矩等/志を起し永く神德の威靈を/輝さまく欲して雙の石檠を/造献せんことをはかるに人/これを悦ひて力を扶け事既/成に及むてしものかたに/このことをゑりて千歳不朽に/傳ふるになむ」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
  阿波町川久保の常夜灯 あわ、
かわくぼ
阿波市 <撫養街道> 石常夜灯   天明8(1788)   歴史の道3p50 現況不明 (竿)「金毘羅大権現/天照皇大神宮/惣氏神」    
  阿波町勝命の常夜灯 あわ、
かつみょう
阿波市 <撫養街道> 石常夜灯   慶応2(1866)   歴史の道3p24・49 保存状態良好 基壇なし 1
写真 市場町切幡の真念道標 いちば、
きりはた
阿波市 (切幡寺参道口)<へんろ道> 石道標   1680年代?   WEB(空海の里)/歴史の道5p137 移設/正面がC擁壁と接近し見えにくい/写真は裏面 (正面)「右 大くわんみち/左 き里者た寺のみち、願主 真念」、(裏面)「(右指差し袖付き)十一者ん」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 3
  市場町犬墓の道標 いちば、
いぬのはか
阿波市 大師堂<へんろ道> 石道標(自然石)   安永2(1773)   歴史の道5p136
/WEB
保存状態良好 (正面)「是ゟ/六十三丁/切幡寺本堂」 1
  土成町吉田の道標 どなり、
よしだ
阿波市 <へんろ道> 石道標   安永4(1775)   歴史の道5p34・133 移設 (右面)「是より 七ばん十楽寺 三十丁/是より 八ばん熊谷寺 十丁」 2
  阿波町岩津の道標 あわ、いわづ 阿波市 <撫養街道> 石道標   天明3(1783)   歴史の道3p50/同・別冊Ⅱp27 保存状態良好 (正面)「右 とくしま道 八里/左 むやみち 十里」 1
  土成町高尾の廻国塔道標 どなり、
たかお
阿波市 <へんろ道> 石道標(舟型)   寛政9(1797)   歴史の道5p132
/WEB
保存状態良好 (光背)「右 十楽寺」 1
  市場町大影の道標 いちば、
おおかげ
阿波市 <へんろ道> 石道標(舟型)   文化4(1807)   歴史の道5p135 保存状態良好 )「へんろ道 切幡寺 三り」/全面に大師立像を陽刻 1
  土成町高尾の照蓮道標1 どなり、
たかお
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p31・132/WEB C基礎上/下半分埋設 (正面)「(左指差し)四…」/手印下に大師座像を陽刻 3
  土成町高尾の照蓮道標2 どなり、
たかお
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p132 下部C固定 (正面)「(左指差し)真念再建 願主 照蓮」、(○面)「世話人 阿州徳島講中」/手印下に大師座像を陽刻 2
  土成町高尾の照蓮道標3 どなり、
たかお
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p32・132/WEB 下部埋設 (正面)「(左指差し袖付き)四国千躰…」、(○面)「願主 照蓮」/手印下に大師座像を陽刻 2
  土成町高尾の照蓮道標4 どなり、
たかお
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p132/WEB 設置環境やや不良 (正面)「(○指差し)四国千躰大師」、(○面)「世話人 徳島講中/願主 照蓮」/頂部に大師座像を陽刻 2
  土成町高尾の照蓮道標5 どなり、
たかお
阿波市 林観音寺<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p32・132 保存状態良好 (正面)「(右指差し)四国中千躰大師」、(○面)「世話人 徳島講中/願主 照蓮」/手印下に大師座像を陽刻 1
  土成町土成の照蓮道標1 どなり、
どなり
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p35・133/同・別冊Ⅲp25 保存状態良好 (正面)「(左指差し)四國中千躰大師」/手印下に大師座像を陽刻 1
  市場町大野島の照蓮道標 いちば、
おおのじま
阿波市 <へんろ道> 石道標   文化6-8(1809-11)?   歴史の道5p138 現況不明 (正面)「(○指差し)四國…大師」  
  土成町土成の照蓮道標2 どなり、
どなり
阿波市 熊谷寺<へんろ道> 石道標   文化7(1810)   歴史の道5p133/WEB 設置環境やや不良 (正面)「(左指差し袖付き)四國中千躰大…」、(正面右)「真念再建 願主照蓮」/手印下に大師座像を陽刻 2
  市場町八幡の照蓮道標 いちば、
やわた
阿波市 <撫養街道・へんろ道> 石道標   文化8(1811)   歴史の道3p47/同5p137/WEB 設置環境やや不良 (正面)「(右指差し)四國中千躰大師」、(正面下部)「真念再建 願主照蓮/世話人 阿州徳嶋講中」/正面手印下に大師坐像を陽刻 2
  市場町切幡の道標 いちば、
きりはた
阿波市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化13(1816)   歴史の道5p41・137/WEB 下部埋設 (正面)「(左指差し)へんろ道/左 ふじ寺 一り半」 2 -
  土成町宮川内の道標 どなり、
みやがわうち
阿波市 <へんろ道> 石道標(自然石)   文政3(1820)   歴史の道5p33・132 保存状態良好 (正面)「成就/是ヨリ 十楽寺へ 十六丁/是より 熊谷寺へ 廿丁/…」 1
  市場町山野上の道標1 いちば、
やまのうえ
阿波市 <撫養街道> 石道標   文政11(1828)   歴史の道3p48 現況不明 (正面)「左 へん    
  市場町大野島の道標1 いちば、
おおのじま
阿波市 <へんろ道> 石道標(自然石)   文政11(1828)   歴史の道5p137
/WEB
設置環境やや不良 (正面)「左 へん路道」 2
  市場町大野島の道標2 いちば、
おおのじま
阿波市 <へんろ道> 石道標(自然石)   天保9(1838)   歴史の道5p138
/WEB
設置環境やや不良 (正面)「(○指差し)これより ふじい寺迠 五十五丁」 2
  土成町成当の道標 どなり、
なりとう
阿波市 <へんろ道> 石道標   安政4(1857)   歴史の道5p134 現況不明 (正面)「(○指差し)右十… 左九番…」    
  市場町山野上の道標2 いちば、
やまのうえ
阿波市 <撫養街道> 石道標   文久元(1861)   歴史の道3p48 現況不明 (正面)「(○指差し)日開谷越、切幡寺 廿丁/御境目 三里/大窪寺 四里」    
  粟島渡し・跡 あわしま 阿波市 吉野川善入寺島南岸 渡し場   平安初期   現地解説板/歴史の道5p138 雰囲気が残る 粟島(吉野川右岸)~善入寺島(吉野川最大の川中島)/空海が吉野川を渡る際に必ずここを利用したとの伝承も/流速が早いため船賃は他より高かったが、四国遍路は無料だった 3
写真 岩津渡し・跡 いわづ 阿波市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   江戸期以前   歴史の道2p64/WEB 雰囲気が良好に残る 吉野川の代表的な渡し場の一つ=藩の木材御分一所が置かれた 2
写真 岩津の石灯籠 いわづ 阿波市 <撫養街道>/吉野川 石常夜灯
(河川舟運)
高約6.3m(うち、石基壇約2m) 慶応3(1867)   歴史の道3p26・50
/WEB
保存状態良好/昭和33の架橋で廃止 (竿)「海上安全/五穀成就」/吉野川で最も川幅が狭い地点に建てられた舟の夜間航行のための常夜灯/石基壇は野面石の乱積み/石工: 尾道の市助 1
  浦ノ池 うらの 阿波市 (土成町浦池) 溜池 深約1.8m 承和年間(834-47)起源 市史跡 市教委/WEB 石堤は明治初期 国司・山田阿波介宿弥古嗣により築造/陥没地を利用して池としたとの説も 3
写真 櫛渕町の真念道標1 くしぶち 小松島市 (久友)<へんろ道> 石道標 高46㎝,幅15㎝,厚17㎝ 1680年代?   WEB 保存状態良好 (正面)「右 わきみち/左 編ん路道、願主 真念」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 1
写真 櫛渕町の真念道標2 くしぶち 小松島市 (宮の内)<へんろ道> 石道標 高44㎝,幅17㎝,厚13㎝ 1680年代?   WEB/歴史の道5170 保存状態良好 (正面)「右 編ん路みち、願主/真念」、(左面)「左、五丁ゆき 大し御さく/くわんおん あり」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 1
写真 櫛渕町の真念道標3 くしぶち 小松島市 (中田)<へんろ道> 石道標   1680年代?   WEB(空海の里) 移設→下部C埋没 (正面)「左 編ん路…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照」/「真念」の名前は刻字されていないが、その他の内容から真念道標であることは確定/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 3
  田野町の地蔵道標1 たの 小松島市 (恩山寺谷)
<土佐街道・へんろ道>
石道標(丸彫)   享保15(1730)   歴史の道4p60/同5p166 地蔵堂内 (台石正面)「右、おんざん寺/遍んろミち」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる 1  
  前原町の廻国塔道標 まえばら 小松島市 (宮)
<土佐街道・へんろ道>
石道標   寛政11(1799)   歴史の道4p59 保存状態良好 (○面)「右、おんざん寺 四十丁/井戸寺 三里半」/正面に「大乗抄典 日本廻國 行者得心…」と陰刻/下記「前原町の三界万霊道標」と同所 1
写真 田野町の地蔵道標2 たの 小松島市 (恩山寺谷)<へんろ道> 石道標   寛政12(1800)   歴史の道5p82・168/WEB 保存状態良好 (正面像下)「四國十八番 恩山寺」、(右面)「向江 立江寺道 従是三十一丁/左 井戸寺道 是ヨリ五里」/正面頂部を円形に削り込んで地蔵坐像(蓮台)を陽刻 1
写真 立江町の照蓮道標1 たつえ 小松島市 (鍋寺)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p84・170/WEB 原位置? (正面像下)「四國中千躰大師、(○面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 1
写真 大林町の照蓮道標 おおはやし 小松島市 (森ノ本)<へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p83・170 移設 (正面像下)「四國中千躰大師」、(左面下部)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳嶌講中」/右指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
  前原町の道標 まえばら 小松島市 (宮)
<土佐街道・へんろ道>
石道標   文化6(1809)   歴史の道4p59/同5p165 現況不明 (正面)「(左指差し)恩 十丁/連よりいど寺三里半/へんろ道」    
  日開野町の照蓮道標 ひがいの 小松島市 (勝久)
<土佐街道・へんろ道>
石道標   文化6(1809)   歴史の道4p59/同5p165/WEB 保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/右指差し手印下を刻み込み大師坐像を陽刻 1
写真 田野町の照蓮道標1 たの 小松島市 (恩山寺谷)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p82・168/WEB 移設? (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 3
  田野町の道標1 たの 小松島市 (中須)<へんろ道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p83・169/WEB 移設? (正面)「(右指差し)へんろ道」 2 -
  田野町の地蔵道標3 たの 小松島市 (仮家)
<土佐街道・へんろ道>
石道標   文化6(1809)   歴史の道4p60/同5p169 設置環境やや不良 (正面)「是より恩山寺/七丁」、(裏面)「是より立江寺/十八丁」、(左面)「備前國岡山富田町…」/正面に上部に地蔵像が陽刻/道標上部に宝珠付きの笠が載る 2
写真 田野町の照蓮道標2 たの 小松島市 (恩山寺谷)<へんろ道> 石道標   文化6-8(1809-11)?   歴史の道5p168 移設/現況不明 (正面像下)「四國中…」、(同右上隅)「立寺道」、(○面)「□□ 願主照蓮/島講中」/右指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 3 -
写真 立江町の照蓮道標2 たつえ 小松島市 (青森)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化7(1810)   歴史の道5p83・170 移設 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「眞念再 主照蓮/世話人 講中」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
写真 田野町の照蓮道標3 たの 小松島市 (中須)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化7(1810)   歴史の道5p169
/WEB
保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面))「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/左指差し手印下を光背型に刻み込み大師坐像を陽刻 1
  前原町の題目塔道標 まえばら 小松島市 (宮)
<土佐街道・へんろ道>
石道標   文化10(1813)   歴史の道4p59/同5p165 保存状態良好 (○面)「従是 恩山寺/三十六丁」/○面中央に「三界萬霊」と陰刻/上記「前原町の廻国塔道標」と同所 1
写真 田野町の道標2 たの 小松島市 (恩山寺谷)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   嘉永7(1854)   歴史の道5p82・168/WEB 原位置? (正面)「(右指差し袖付き)本堂エ 二丁」 1
  立江町の道標1 たつえ 小松島市 (清水)<へんろ道> 石道標   江戸期   歴史の道5p170 下部埋設/現況不明 (正面)「(○指差し)鶴林寺道」、(○面)「(○指差し)たちへ寺ミち」/「ミち」は江戸期の標記    
  立江町の道標2 たつえ 小松島市 (豊田)<へんろ道> 石道標   江戸期   歴史の道5p170 現況不明 (正面)「右 八〆道」、(○面)「左、へ/ミち」/「ミち」は江戸期の標記    
  恩山寺~立江寺の地蔵町石(二丁) おんざん、
たつえ
小松島市 <へんろ道> 町石(丸彫)   文化4(1807)   歴史の道5p82・168 保存状態良好 恩山寺~立江寺の地蔵町石は、十九番立江寺に向けて丁数順に並んでいる(十八番恩山寺側が一丁)/(台石正面)「二丁」/台石上に蓮台と円形光背付き地蔵坐像の丸彫を載せる 1
  恩山寺~立江寺の地蔵町石(一丁) おんざん、
たつえ
小松島市 <へんろ道> 町石(丸彫)   文化9(1812)   歴史の道5p168 現況不明 (台石正面)「一丁」、(台石○面)「當村中西 女講中」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる/文政9(1826)の後刻あり  
  恩山寺~立江寺の角柱町石(三丁) おんざん、
たつえ
小松島市 <へんろ道> 町石   文化6(1809)   歴史の道5p169
/WEB
上部剥落 (台石正面下部)「三丁」、(台石○面)「當村東分 女講中」 2
写真 恩山寺~立江寺の地蔵町石(十丁) おんざん、
たつえ
小松島市 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期?   WEB(空海の里) 移設 (光背右)「十丁」/中央に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 豊浦神社の地震碑 とようら 小松島市 豊浦神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  江戸期?   徳島県の地震・津波碑~資料編p5 原位置? (正面)「安政といふはしめのとし霜月五日大地おほひに/震ひ高浪にひかれて死る人數をしらさりしにこの豊浦の人々/近き村々の人々はミな白楽天王のゆにハにはしり集りて難をのかれたりしハ/偏に神の守り玉ふ惠の深きなれハ後のちまてもわすれさるためしるすものなりかし」/青石を使用 1
写真 弁天山台場・跡 べんてんさん 小松島市 (金磯町) 台場(土塁) 砲8門 文久3(1863)   台場要害事典p536/WEB 胸壁の一部と土塁の一部が残る? 海岸防備のため地元の有力者・多田宗太郎が自費で築造、徳島藩に献上→功績を称え藩士とした 4
写真 大麻町板東の常夜灯 おおあさ、
ばんどう
鳴門市 <撫養街道> 石常夜灯   安永5(1776)   歴史の道3p42/WEB 原位置? (竿正面)「大麻宮常夜燈」/石基壇なし 1
写真 大麻町板東の真念道標 おおあさ、
ばんどう
鳴門市 <へんろ道> 石道標   1680年代?   歴史の道5p16・125/
WEB(空海の里)
移設、集約/下部欠損/横倒し (正面)「右 いど寺のみち/左 里やうぜん寺の…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金…」/「願主 真念」の部分は欠損/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 4
  大麻町檜の地蔵道標 おおあさ、
ひのき
鳴門市 <撫養街道・へんろ道> 石道標(丸彫)   宝永8(1711)   歴史の道3p42/同5p17・126/WEB 祠内 (台石正面)「是ヨリ 極楽寺道/願主 檜村講中」/台石上に半跏趺坐の地蔵尊丸彫を載せる 1
  大麻町板東の地蔵道標 おおあさ、
ばんどう
鳴門市 <撫養街道> 石道標(丸彫)   宝暦3(1753)   歴史の道3p12・41 瓦葺き祠内 (台石正面)「従是/霊山寺/五丁」/台石上に蓮華座と地蔵坐像丸彫りを載せる 1
写真 大麻町檜の徳右衛門(?)道標 おおあさ、
ひのき
鳴門市 極楽寺<へんろ道> 石道標(砂岩?)   文化4(1807)   歴史の道5p126/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 移設/頂部欠損 (正面像下)「是より 三者"んへ 廿五丁 里浦四國講中」、(左面)「…れより 一者"ん江 十丁」/頂部を蒲鉾型に削り込み大師坐像を陽刻/面に「いよ」の文字が判読→蒲鉾型でなく、「いよ」としか書いてなく、丁2ヶ所の記載が異例である上、原簿とも一致しないことから、徳右衛門丁石とみなすには疑問も残る/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒もし、徳右衛門とすれば、建立年が刻字してあるものは2割弱 2
  大麻町檜の照蓮道標1 おおあさ、
ひのき
鳴門市 極楽寺<へんろ道> 石道標   文化7(1810)   歴史の道5p126 現況不明 (正面)「(右指差し)四國中千躰大師」、(正面両脇)「真念再建/世話人 浦講中」  
  大麻町檜の照蓮道標2 おおあさ、
ひのき
鳴門市 極楽寺
<撫養街道・へんろ道>
石道標   文化7(1810)   歴史の道3p42/同5p18・126 保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(正面両脇)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/左指差し手印下に大師座像の陽刻 1
写真 大麻町檜の照蓮道標3 おおあさ、
ひのき
鳴門市 熊野神社<へんろ道> 石道標   文化7(1810)   歴史の道5p126/同・別冊Ⅲp15/WEB 保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(正面両脇)「新町三丁目平野屋栄蔵/真念再建願主 世話人 」/右指差し手印下に大師座像の陽刻 1
写真 大麻町姫田の大師道標 おおあさ、
ひめだ
鳴門市 <撫養街道> 石道標   文化11(1814)   歴史の道3p11・41
/同5p14・124
移設/下部C埋設 (正面像下)「右 四國へん…」、(同左下隅)「江/一り」、(左面)「左 とく志ま…御城下マデ二…丁」/右指差し手印下を桃型光背状に彫り込み大師座像を陽刻 3
  大麻町板東の供養塔道標 おおあさ、
ばんどう
鳴門市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   嘉永元(1848)   歴史の道5p16・125 保存状態良好 (正面)「(右指差し)奉供養…/是ヨリ 一ばんへ 八丁」 1
  撫養町木津の道標 むや、きづ 鳴門市 <淡路街道> 石道標   文久4(1864)   歴史の道1p54・68
/同5p12・123
中央で水平に割裂→補修 (正面)「四/國、第一番」、(右面)「徳島 宮島」 2
  大津の渡し・跡 おおつ 鳴門市 <下板街道>/旧吉野川 渡し場   江戸期   歴史の道1p62・71 場所は特定 大津町矢倉(北岸)~同(南岸) 4
写真 撫養町林崎の石灯台 むや、
はやさき
鳴門市 妙見神社 常夜灯(海運) 高3.04m 慶応元(1865)   図説徳島県の歴史p154 火袋更新 (右面)「江戸廻舩中」、(正面)「交通安全」/基壇なし/笠と宝珠の間に台石状の装飾/阿波第一の要港として栄えた撫養口に関連して残る唯一の土木遺産 2
  美馬町滝宮の地蔵道標 みま、たきのみや 美馬市 <撫養街道> 石道標(丸彫)   嘉永5(1628)   歴史の道3p53 現況不明 (台石正面?)「金毘羅/三頭越」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる/17世紀の道標  
  美馬町三頭山の道標 みま、さんとうざん 美馬市 <撫養街道> 石道標   寛政12(1800)   歴史の道3p33・53 転倒 (正面)「是より右、廿八丁高所より/ 十里第重 十二里徳島 十四里撫養」 4 -
  穴吹町穴吹の道標 あなぶき、あなぶき 美馬市 <伊予街道> 石道標   文化元(1804)   歴史の道2p64 現況不明 (正面)「剣山 九八丁/高越山 五十町/白人宮 六十町」/「安政9年建 文化元年」との銘があるので、文化元に建立したものを、安政9に再建立したと思われるが、出典に記されている「安政九」は間違い(安政は7年までしかない)/地蔵尊・供養塔と並ぶ    
  中鳥渡し・跡 なかとり 美馬市・
(美馬)つるぎ町
吉野川 渡し場 長約100m 元禄14(1701) or 正徳2(17121) or 享保11(1726)以降→天保10(1839)   市教委(美馬町史p1107)/つるぎ町教育委員会/歴史の道3p54 昭和50頃廃止/左岸:正確な位置不明 半田町~美馬町重清の中鳥/左記の3回の大洪水で吉野川が現在の位置(中鳥の南)を流れるようになり、半田から中鳥に渡る船が必要となった/天保10(1839)の日記に、久し振りに渡船が再開して便利になったとの記述がある 5
  喜来渡し・跡 きらい 美馬市・
(美馬)つるぎ町
吉野川 渡し場 長約120m 文化12(1815)以前   市教委(美馬町史p1110)/吉野川の渡しマップp31/歴史の道3p32・54/WEB  昭和33美馬橋架橋により廃止/雰囲気が残る 美馬町郡里喜来~貞光町/渡し場近くの船玉神社に常夜灯が残る 3
  高篠渡し・跡 たかしの 美馬市・
(美馬)つるぎ町
<撫養街道>/吉野川 渡し場 長約180m 江戸末期以前   市教委(美馬町史p1109)/吉野川の渡しマップp29/歴史の道3p54/WEB  明治30以降に洪水で消滅/左岸:場所特定 美馬町重清/撫養街道の要衝/吉野川を上下する平田船の発着場 4
  青石渡し・跡 あおいし 美馬市・
(美馬)つるぎ町
吉野川 渡し場 長約120m 江戸期   市教委(美馬町史p1108)/吉野川の渡しマップp28/歴史の道3p54/WEB  昭和31青石潜水橋の完成で廃止/左岸:場所特定 半田町松生~美馬町重清/渡船場だけではなく船繋場としても賑わった場所 4
  半三郎渡し・跡 はんさぶろう 美馬市・
(美馬)つるぎ町
吉野川 渡し場 長約90m 江戸期   市教委(美馬町史p1111)/吉野川の渡しマップp32/WEB 明治27廃止/場所特定 美馬町郡里願勝寺~貞光町 4
写真 土場の竪(立)堰 どば、たつぜき 美馬市 穴吹川 取水堰(斜め堰) 長490m 元和年間(1615-20)?   市教委(穴吹町誌p743) 大正元に完全崩壊(原形喪失)→C補強 築造: 徳島藩家老・稲田植元?(建造年代を含め伝承)/大型の斜堰の一つだがC改修/「竪堰」という名称は、川を横断するのではなく、流れの向きに造られた「珍しい」堰であったことから来ている→一般の斜め堰に比べ、交差角がわずか3度と平行に近い 4
  滝の宮池取水路 たきのみや 美馬市   素掘トンネル
(水路)
  江戸中~後期?   市教委 保存状態良好/非現役 鎧獄と呼ばれる断崖にトンネルを掘り、鍋倉谷の水を、下記「滝の宮池に」導いたもの 2
  坊僧池 ぼうそう 美馬市   溜池 東西の最長径220m,南北の最長径130m 寛永年間(1624-43)   市教委(美馬町史p59) 大規模な修復 部分的な皿池 3
  天神池 てんじん 美馬市   溜池 堤長490m 文化4(1807)   市教委(脇町史p47) 大規模な修復 小規模だがほぼ完全な皿池 3
  滝の宮池 たきのみや 美馬市   溜池 長径150m,短径80m 江戸中~後期?   市教委 大規模な修復/堤上に有刺鉄線 文化3の旱魃を受け、庄屋・河野甚右衛門により構築/上記「滝の宮池取水路」の終着点/部分的な皿池 4
  竹尾集落の大猪垣 たけお 美馬市   猪垣 長1.5㎞(うち、空壕250m) 室町 or 江戸前期   市教委(木屋平村史p1175) 放置保存→崩壊 猪が集落に入って畑作物を荒らすのを防ぐ目的で築かれた「集落周回型」の猪垣=東・北・西を猪垣、南を川で防いだ/長い石を板垣状に立てた部分、石積みの部分、幅・深さ2mの空壕の部分に分かれる/長尺の石を柵状に用いた猪垣は稀少 3
  野々脇鉱山(三郎鉱山)・跡 ののわき 美馬市   硫鉱山 坑口(自然岩) 貞享2(1685)   市教委(木屋平村史p317)/WEB 坑口が残る
(江戸期?)
  3
写真 箸蔵越の旧街道 はしくら 三好市 <箸蔵越> 道路 長13.9㎞ 江戸期   WEB 「四国のみち」として整備 金毘羅の「奥の院」の位置付けられていた箸蔵寺への参詣道/茶屋や街道筋の集落跡や丁石群・石仏群が残る 2
  大西城の並木 おおにし 三好市 <大西城> ムク並木 長約100m 寛永15(1638)以前 町天然 WEB 「並木」とは言い難い 大西城そのものは承久3(1221)~寛永15(1638)/一国一城令後は城跡に徳島藩三好郡代所が設置/ムク並木は稀少だが小規模 3
  大師堂の伊予街道・半里松 だいし 三好市 <伊予街道> 一里木 江戸期   歴史の道2p44・71
/WEB
現存する県内唯一の一里松 岩鼻の一里松と馬路の一里松の中間点に植えられた半里松 2
  池田町マチの常夜灯 いけだ 三好市 <伊予街道> 石常夜灯   明和2(1765)   歴史の道2p46・71 移設? (竿)「永代夜燈」/竿が角柱状/庚申塔と明治の常夜灯、井戸などと並ぶ 2
写真 池田町佐野の徳右衛門道標 いけだ、
さの
三好市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p120・195/同・別冊Ⅲp78/WEB(徳右衛門丁石) 原位置? (正面像下)「是より/雲邊寺迄、一里」、(左面)「願主 予刕 徳右エ門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 1
写真 池田町白地の徳右衛門道標 いけだ、
はくち
三好市 雲辺寺・参道階段
<へんろ道>
石道標(蒲鉾型)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p121・195/WEB(徳右衛門丁石) 原位置? (正面像下)「是より/小松尾寺迄、二里半」、(○面)「施主 予州 徳右エ門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 1
写真 箸蔵寺の角柱町石
(二十三丁)
はしくら 三好市 <箸蔵街道> 町石(蒲鉾型)   江戸期?   WEB 保存状態良好 箸蔵寺の角柱町石は、形態・年代様々だが、箸蔵寺に向けて丁数順に並んでいる(箸蔵寺側が一丁⇒逆順/(正面)「(左上指差し)箸蔵寺江 二十三丁」、(右面)「讃州 煙草問屋/阿波屋」 1
  箸蔵寺の角柱町石
(十八丁)
はしくら 三好市 <箸蔵街道・撫養街道> 町石   延享4(1747)   歴史の道3p39・57 現況不明 (正面)「是より 箸蔵寺へ 十八丁」    
写真 千五百河原港・跡 せんごひゃくかわら 三好市 吉野川 河川港   江戸期   歴史の道2p44・71
/WEB
川と地形から港であったことがよく分かる 江戸時代から大正期にかけて池田の玄関口として栄えた「はまの港」=平田舟という帆かけ舟で旅人や物資が往来しました/河川港だった雰囲気がよく残る 2
写真 江口渡し・跡 えぐち 三好市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   宝暦6(1756)   市教委/WEB 昭和33潜水橋完成で廃止/場所が特定されている 芝生村の豪商・清水屋善之丞が開設/徳島西部から最短距離で金毘羅街道に通じる重要な渡し 4
  布屋渡し・跡 ぬのや 三好市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   江戸期   歴史の道2p41・71
/WEB
場所が特定されている 三好町光明寺~西井川/江戸期に徳島から昼間に進出した布屋という商人に由来するとされる呼称 4
  辻渡し・跡 つじ 三好市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道2p40・69
/WEB
昭和34美濃田大橋完成で廃止/美濃田大橋南詰め西側の川原の岩場に痕跡 三好町昼間~井川町辻 3
  大具渡し・跡 おおぐ 三好市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道2p70/WEB 昭和33三好大橋完成で廃止/場所が特定されている 池田町州津~井川町西井川 4
  渦の渡し・跡 うず 三好市 <伊予街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道2p45・70
/WEB
昭和45廃止/場所が特定されている 池田町西洲津~供養地/両岸の河原がせり出して、川幅が狭くなっており、船を渡すのに適地であった/ほぼ200m西に長計500m近くの中州があり、分流した川の流れが渡船場付近で渦を巻いていたことから命名 4
  角浦渡し・跡 すみのうら 三好市 <撫養街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道3p36・55
/WEB
昭和40角浦潜水橋完成で廃止/場所が特定されている 三野町太刀野~三加茂町中庄 4
  不動渡し・跡 ふどう 三好市 <撫養街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道3p37・55
/WEB
痕跡なし? 三野町太刀野の原~三加茂町加茂 5
写真 美濃田渡し・跡 みのだ 三好市・
(三好)東みよし町
<撫養街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道3p37・56
/WEB
昭和34美濃田大橋完成で廃止/痕跡が残る 三好町美濃田・小山~三加茂町加茂西/岩のくぼみにあり雰囲気が残る 3
写真 池田町ウエノの常夜灯
(千五百河原港の常夜灯)
いけだ 三好市 吉野川<「はまの港」> 石常夜灯(舟運) 高約3m 嘉永7(1854)   歴史の道2p45・71 保存状態良好 上記「はまの港」に造られた常夜灯/上部石基壇=見事な石組 1
  池田町白地の常夜灯
(元・白地渡しの常夜灯)
いけだ、
はくち
三好市 八幡神社<伊予街道・白地渡船番所> 石常夜灯   安政6(1859)   歴史の道2p48・72
/WEB
池田ダムの建造に伴い移設 (竿)「永世燈」、(台石)「白地村」/白地渡しの夜間照明用/石基壇あり 2
  三村用水 さんそん 三好市 吉野川
(河内谷土地改良区)
用水路 長約0.5㎞ 文化5(1808)
→文政10(1827)
  市教委/三村用水パンフレット トンネル部分のみ原形/他はC三面張り 文化5、芝生村庄屋助役・山本新太夫が河内谷川の伏流水を引水した三村用水を開削→山裾の開水路が豪雨時に決壊→文政10、山本新太夫が炭坑夫の話にヒントにトンネル化(藩の許可がなかなか出ないため、全財産を差し出す決意を伝え、ようやく許可) 4
写真 蝉谷口隧道 せみたにぐち 三好市 三村用水
(河内谷土地改良区)
素掘トンネル
(水路)
長311m(糸流しによる測定値) 文政10(1827)   河内谷土地改良区 現役 徳島藩初めての用水隧道/平成20に内部のビデオ撮りと実測調査 1
写真 風呂谷隧道 ふろたに 三好市 三村用水
(河内谷土地改良区)
素掘トンネル
(水路)
長約90m 文政10(1827)   河内谷土地改良区 現役→一部陥没したため新水路を造り分水化 蝉谷口隧道の完成の目途が立ってから着工 1
  三村溝水記念碑 さんそん 三好市 三村用水記念碑公園 石碑   文久元(1861)   三村用水パンフレット 碑文が判読困難になったため新しい碑を併設 碑文の撰・書: 徳島藩校「長久館」教授の儒学者・新居 謙の名文 2
写真 西麻植八幡神社の太鼓橋 にしおえ 吉野川市 西麻植八幡神社 石桁橋 長2.4m(G) 天明3(1783) 市有形 WEB(石橋) 橋の架かる水路が埋設されている 直線桁の上に円弧状に橋面石が並べられている 3 -
  鴨島町西麻植の常夜灯 かもしま、
にしおえ
吉野川市 <伊予街道> 石常夜灯   安政4(1857)   歴史の道2p16・18
・60
移設 「麻植市講中」/安政4の庚申塔、明治18の光明真言供養塔とともに立つ 2 -
写真 鴨島町飯尾の徳右衛門道標 かもじま、
いのお
吉野川市 藤井寺<へんろ道> 石道標(蒲鉾型、花崗岩)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 移設/設置環境不良 (正面像下)「是より/焼山寺迄、(左手橋指し)三里」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 鴨島町敷地の徳右衛門道標 かもじま、
しきじ
吉野川市 長戸庵<へんろ道> 石道標(蒲鉾型、花崗岩)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p142/WEB(空海の里) 移設? (正面像下)「是より/焼山寺迠、弐里」、(左面)「願主 与州 徳右エ門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 2
  川島町桑村の照蓮道標 かわしま、
くわ
吉野川市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道5p138
/WEB
保存状態良好 (正面)「(左指差し袖付き)四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳島講中/願主 照蓮」/手印下を削り込み大師坐像を陽刻 1
  鴨島町西麻植の照蓮道標 かもしま、
にしおえ
吉野川市 <伊予街道> 石道標(砂岩)   文化6(1809)   歴史の道2p16・60/阿波学会研究紀要30/WEB 移設?/下部埋設 (正面)「(左指差し)四國中千…」/手印下を光背型に削り込み大師座像を陽刻/4基の道標が接して立つ 3
  鴨島町敷地の照蓮道標 かもじま、
しきじ
吉野川市 <へんろ道> 石道標(砂岩)   文化6(1809)   歴史の道5p139
/阿波学会研究紀要30
現況不明 (正面)「○指差し)十一番七丁」、(○面)「真念再建 願主照/世話人 徳嶋講…」  
  鴨島町敷地の道標 かもじま、
しきじ
吉野川市 <へんろ道> 石道標   文政10(1827)   歴史の道5p139 現況不明 (正面)「(指差し)是ヨリ 藤井江 六丁」    
  鴨島町上浦の宝篋印塔道標 かもじま、
かみうら
吉野川市 <森山街道> 石道標(宝篋印塔)   文政10(1827)   歴史の道2p17・20・61 保存状態良好 (正面)「是より 四十丁 藤井ぢ/一の宮 是より 八十丁」/宝篋印塔を兼ねている→稀 1
  鴨島町森藤の道標 かもじま、
もりとう
吉野川市 大泉寺地蔵堂 石道標 高195㎝,幅78㎝ 天保5(1834)   阿波学会研究紀要30 現況不明 (正面)「藤井寺へ 十九丁」「左 一の宮へ 二里半」  
  鴨島町上浦の道標 かもじま、
かみうら
吉野川市 <森山街道> 石道標(自然石)   弘化3(1846)   歴史の道2p16・19・60 下部埋設 (正面)「(○指差し)右 ふ〔じい寺〕/(○指差し)左 一〔宮〕」 3 -
  川島町川島の道標 かわしま、
かわしま
吉野川市 <伊予街道> 石道標(駒型)   安政5(1858)   歴史の道2p20-21・61 保存状態良好 (正面)「(左指差し)金毘羅上郡道、はしくら寺迄 十一里/さやはし迄 十三里/いよさかひ迄 十六里」 1
  藤井寺~焼山寺の地蔵町石(百十九丁) ふじい、
しょうさん
吉野川市 <へんろ道> 町石(舟型)   寛延2(1749)   歴史の道5p139/WEB 保存状態良好 藤井寺~焼山寺の地蔵町石は、十二番焼山寺に向けて丁数順に並んでいる(十二番焼山寺側が一丁⇒逆順/(光背右端)「焼山寺ゟ百十九丁也」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 鴨島町の三郡境石 かもじま 吉野川市 (牛島) 境界石(尖頭角柱)(洪水遺産) 高190㎝(うち、埋込部分80㎝) 延享2(1745) 市有形 現地解説板 修景された基壇上に載る (正面)「麻植/板野/名西、三郡之三ツ境」/吉野川の洪水常襲地帯で、その度に田畑や道が流され、村境が分からなくなっていた(紛争)→藩が仲介し、郡境の目印として建立/万一この石が流された場合は、高台の円通寺に設置された立石から復元できる(立石から真北に323間4尺)という二重の安全策 2
  麻植・美馬郡境石 おえ、みま 吉野川市 (山川町麻掛) 境界石   江戸期 市史跡 WEB 現況不明 川田村(現吉野川市山川町)と拝村(現美馬市穴吹町)は境界争いの歴史を物語る    
  高開の石積み たかがい 吉野川市 (美郷大神) (段畑)石積み   元禄13(1700) 重要文化的景観/にほんの里100選 WEB 保存状態良好/ライトアップやシバザクラまつりを開催 300年以上前に築かれたとされる段々畑の石積み=普通の棚田石垣と違い、より急勾配で石垣も高く、他に例がない 1
  東山鉱山(太郎鉱山)・跡 ひがしやま 吉野川市   銅鉱山   宝永2(1705)   木屋平村史p317
/WEB
江戸期の痕跡なし 神山町の2つの銅山とともに、阿波の三大銅山と称された 5
  監物堤 けんもつ 吉野川市 (鴨島町牛島)吉野川 土堤防 長約90m,高2-3m 宝暦6(1756)   WEB 保存状態不良 宝暦6に大洪水に襲われた牛島村の村人に相談を受けた徳島藩士・稲垣監物が堤防建設を藩に申請するが、藍の産地だったため許可されなかったことから、密かに夜中に村中の農民を集めて堤防を構築→監物は責任を取って切腹したとされる 4
  西麻植の地蔵 にしおえ 吉野川市 吉野川<へんろ道> 高地蔵(洪水遺産) 高252㎝
(うち、台石199㎝)
天明2(1782)   WEB 屋根は後付け 「三界萬霊」/3段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/子宝地蔵だか、恐らく洪水遺産(洪水時に水没しないため)を兼ねる/18世紀の高地蔵(他の代表的な高地蔵はすべて19世紀) 2
  川島の浜の地蔵 かわしま、はま 吉野川市 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高372㎝
(うち、台石267㎝)
天保14(1843) 金属パイプ製の祠内 WEB 保存状態良好 「三界萬霊」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(水没者の供養、水難除け、洪水時に水没しないため) 2
  奥野の常夜灯 おくの (板野)藍住町 <讃岐街道> 石常夜灯   文政3(1820)再建   歴史の道1p30 現況不明      
  奥野の地蔵道標 おくの (板野)藍住町 <讃岐街道> 石道標(丸彫)   宝暦4(1754)   歴史の道1p22・30 C祠内 (台石正面)「右 遍路道/左 徳島道」、(同・東面)「是ゟ井戸寺迄 五十七丁/是ゟ昇仙寺迄 四十弐丁」/台石上に地蔵坐像が載る 2  
写真 東中富の地蔵道標 ひがしなかとみ (板野)藍住町 <讃岐街道> 石道標(丸彫) 高283㎝
(うち、基壇47㎝)
宝暦7(1757)   歴史の道1p23・31 保存状態良好 (台石正面)「(梵字)奉造立地蔵尊」、(同・斜前左面)「板野郡東中留邑念佛講中」、(同・斜前右面)「從是 讃州金毘羅迄 十八里/從是 當國城下徳嶋迄 二里」/六角柱の台石上に蓮台と笠付き地蔵坐像が載る 1
写真 東中富の龍池の地蔵 ひがしなかとみ、りゅうち (板野)藍住町 今切川<カクジの浜> 高地蔵(舟運) 高382㎝
(うち、台石289㎝)
安政3(1856)   WEB 保存状態良好 「悲願金剛」/石基壇、3段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/藍玉の出荷や藍の栽培に欠かせない肥料の搬入を行う港として多いに賑わった場所→出入りする舟の標識/100基以上ある高地蔵の中で3番目に高い 1
  乙瀬中田の地蔵 おとせ、なかた (板野)藍住町 旧吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高304㎝
(うち、台石199㎝)
慶応4(1868)   WEB 蓮台前面が欠損 「為溺死亡霊菩提」/2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/洪水遺産(水没者の慰霊) 2
  大坂口御番所跡の石畳 おおさか (板野)板野町 <讃岐街道> 石畳   正保元(1644)   歴史の道1p32 番所の石塀の前に保存的に残る 石畳というよりは石塁 1
写真 黒谷の法乃橋建立碑 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石碑(隅丸型)   文化15(1818)   町教委/歴史の道5p23・128/同・別冊Ⅲp19 原位置? (正面像下)「法/乃/橋」、(同下部)「御佛尓結ぶえ爾しの/法の者し 行可ふ人/罪もきへ津ゝ」/正面頂部に大師坐像を浮彫り 1
  黒谷の道標1 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   享保17(1732)   歴史の道5p129 損傷度大 「右 ぢぞうじミち/左 こんせんじミち」 3  
  黒谷の道標2 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(墓石型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 現況不明 「右 地蔵寺道/左 金せん寺道」    
写真 黒谷の供養塔道標 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(笠付き)   寛政9(1797)   歴史の道5p129 移設? (正面右端)「みき 三者ん だい尓ちじ」、(同左端)「ひ多り やまみち」、正面中央に「奉供養西國秩父坂東百番爲二世安樂也」と陰刻 2
写真 黒谷の道標3 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱)   文化5(1808)   町教委 /
歴史の道5p129
移設 (正面)「(右指差し袖付き)「すぐ、三者"ん/五者"ん、札所みち」 2
  犬伏の照蓮道標1 いぬぶし (板野)板野町 (日ノ鳥)
<撫養街道・へんろ道>
石道標   文化6(1809)   町教委/歴史の道5p127/照蓮を探せp35 移設/木祠内 (正面像下)「四國中千躰大師」/右指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
  那東の照蓮道標1 なとう (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   町教委/
歴史の道5p128
現況不明 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳嶋講中」/右指差し手印下に大師坐像を陽刻    
  那東の照蓮道標2 なとう (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   文化6(1809)   町教委/
歴史の道5p128
大きくひび割れている (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/右指差し手印下に大師坐像を陽刻 3  
  那東の照蓮道標3 なとう (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   町教委/
照蓮を探せp36
保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋講中」/左指差し手印下に大師坐像を陽刻 1
写真 松谷の照蓮道標1 まつだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   町教委/
歴史の道5p128
移設/下部剥離・埋設 (正面像下)「四國中千躰大師」/右指差し手印下に大師坐像を陽刻 3
写真 黒谷の照蓮道標1  くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   町教委/
歴史の道5p128
移設? (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/右指差し袖付き下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
  羅漢の照蓮道標 らかん (板野)板野町 <へんろ道・撫養街道> 石道標   文化6(1809)   町教委 現況不明 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋/願主 照蓮」/左指差し手印下に大師坐像を陽刻  
  大寺の照蓮道標 おおてら (板野)板野町 金泉寺<へんろ道> 石道標   文化6-7(1809-10)頃?   町教委 現況不明 (正面像下)「四國中千/四ばん 邑中」/正右指差し手印下に大師坐像を陽刻  
  犬伏の照蓮道標2 いぬぶし (板野)板野町 諏訪神社<へんろ道> 石道標   文化6-7(1809-10)頃?   町教委 移設/下部埋設 (正面像下)「四國中…」/正面頂部に大師坐像を陽刻/「四國中…」から始まるので照蓮道標の可能性が高い 3
  那東の照蓮道標4 なとう (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   文化7(1810)   町教委/歴史の道5p128 上部が欠損 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/正面手印下に大師坐像を陽刻 3
  那東の照蓮道標5 なとう (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   文化7(1810)   町教委/歴史の道5p127 風化大 (正面像下)「四國中師」、(○面)「世話人 徳講中/願主 」/左指差し手印下に大師坐像を陽刻 2
  松谷の照蓮道標2 まつだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化7(1810)   町教委/歴史の道5p128/照蓮を探せp39 保存状態良好 (正面像下)「四國中千躰大師」、(○面)「世話人 徳嶋講中/願主 照蓮」/左指差し袖付き下に大師坐像を陽刻 1
写真 黒谷の照蓮道標2 くろだに (板野)板野町 <へんろ道> 石道標   文化7(1810)   町教委/歴史の道5p23・129/照蓮を探せp37 移設(C台石) (正面像下)「四國中千躰大師」、(右面右)「世話人 德嶋講中 願主 照蓮」/左指差し袖付き、その直下に、右指差し袖付き、その直下に火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻、大師像の左側に「四ばん」と刻字 2
  黒谷の地蔵道標
(一本松越の地蔵)
くろだに (板野)板野町
香川/かがわ市
<一本松越> 石道標(舟型)   天保2(1831)   上板町教育委員会 保存状態良好 (光背右)「右 おおたに」、(同左)「左 くろだに」/中央に地蔵立像
(錫杖)を陽刻/台石に大きな蓮の花を陰刻→蓮華座代り
1
写真 羅漢の道標1 らかん (板野)板野町 五百羅漢<へんろ道> 石道標   天保5(1834)   町教委/歴史の道5p26・130 移設?/頂部斜めに折損 (正面像下)「是より 四番江 十八丁/是より 六番江 一里」/左指差し手印下を火灯窓型に刻み込み大師坐像を陽刻 2
  羅漢の道標2 らかん (板野)板野町 地蔵寺<撫養街道> 石道標   天保5(1834)   歴史の道3p43 現況不明 「(○指差し)是より 四番江 十八丁/是より 六番江 一里」    
  大寺の大師道標 おおてら (板野)板野町 <撫養街道> 石道標   天保9(1838)   町教委 昭和3移設 (正面)「(左指差し)四ばん」、(左面)「右 三ばん/左 四ばん」/左面上部に大師坐像を陽刻 2  
  大坂口御番所・跡 おおさか (板野)板野町   番所   正保元(1644) 町史跡 町教委 明治5廃止→番所は取り壊し 藩内に56ヶ所あった番所の一つ/番所の建屋はないが、役人だった村瀬家の居館が残る 3
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(十四丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129
/WEB
移設?/地蔵の顔の一部が欠損 大日寺~地蔵寺の地蔵町石は、宝暦7銘のものを主体とするもので、五番地蔵寺に向けて丁数順に並んでいる(五番地蔵寺側が一丁⇒逆順/(光背右上)「十四丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(十三丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   WEB 移設 (光背右上)「十三丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(十二丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 現況不明 (光背右上)「十二丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻    
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(十一丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 移設、集約 (光背右上)「十一丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(十丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   弘化4(1847)   歴史の道5p129 移設、集約 (光背右上)「十丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(八丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   弘化4(1847)   歴史の道5p129 現況不明 (光背右上)「八丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻    
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(七丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 移設、風化が進み亀裂・破損 (光背右上)「七丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(六丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 風化大 (光背右上)「六丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3  
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(五丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p129 現況不明 (光背右上)「五丁」→同年の建立だが、これだけ「丁」だけで「丁目」と書かれていない/光背中央に地蔵立像を陽刻    
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(四丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p130 現況不明 (光背右上)「四丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻    
写真 大日寺~地蔵寺の地蔵町石(三丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p130
/WEB
移設、集約 (光背右上)「三丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2 -
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(二丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   歴史の道5p130
/WEB
保存状態良好 (光背右上)「二丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 1  
  大日寺~地蔵寺の地蔵町石(一丁) だいにち、じぞう (板野)板野町 <へんろ道> 町石(舟型)   宝暦7(1757)   WEB 保存状態良好 (光背右上)「一丁目」/光背中央に地蔵立像を陽刻 1  
  日ケ谷池   (板野)板野町   溜池   弘化3(1846)   町教委   庄屋・近藤平之丞が構築/町内に16の溜池があるが、築造年の確定してるのは日ケ谷池のみ  
写真 神宅の常夜灯 かんやけ (板野)上板町 <撫養街道> 石常夜灯(自然石) 高約4.5m 嘉永4(1849)   町教委/歴史の道3p17・44 竿と台石C接合 一本松越と撫養街道(へんろ道)の交差する場所に立つ/藩主巡検の道でもあった(常夜灯が巨大である理由か?) 2
写真 引野の真念道標1 ひきの (板野)上板町 (三条)<へんろ道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高63㎝,幅17㎝,厚15.5㎝ 1680年代? 町歴史資料 町教委(続・上板町史p309-310)/歴史の道5p31・132 移設/下部C接合 (正面)「左 編ん路みち、願主/真念」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存)/「引野の地蔵道標」と並ぶ 2
写真 引野の真念道標2 ひきの (板野)上板町 安楽寺<へんろ道> 石道標(花崗岩) 高70㎝,幅17㎝,厚15.5㎝ 1680年代? 町歴史資料 町教委(続・上板町史p309-310) 安楽寺堂内に保管(下部1/3で折損→修復)/原位置にはレプリカを設置 (正面)「右 あんらくしみち、願主/真念」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 3
写真 引野の照蓮道標 ひきの (板野)上板町 <へんろ道> 石道標   文化6-13(1809-16)   町教委 移設/下部C固定 (正面像下)「四國中千躰大師」、(左面)「世話人 徳島講中/願主照蓮」/頂部を火灯窓型に削り込み大師坐像を陽刻 2
写真 引野の地蔵道標1 ひきの (板野)上板町 (三条)<へんろ道> 石道標(丸彫)   文化8(1811)   町教委/歴史の道5p132 移設/RC祠内 (台石正面左上)「(左指差し)」/3段の台石の上に地蔵座像の丸彫(蓮台)を載せる/「引野の真念道標1」と並ぶ 2
写真 引野の地蔵道標2 ひきの (板野)上板町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   文化9(1812)   町教委/歴史の道5p132/WEB 移設 (正面像下)「四國八十八ヶ所/是ヨリ 十樂寺/十丁」/右指差し袖付き下を蒲鉾型に削り込み地蔵坐像を陽刻 2
写真 鍛冶屋原の大師道標 かじやばら (板野)上板町 <へんろ道> 石道標(自然石)   文政9(1826)   町教委/歴史の道5p131 移設/下部C固定/下部埋設 (正面左上)「(左指差し)=線刻」、(同中央下部)「へんろみ…」、(同左下)「西分村、小路/中筋/講…」/中央上部を削り込んで大師坐像を陽刻 3 -
写真 神宅の道標 かんやけ (板野)上板町 <撫養街道・へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   嘉永元(1846)   町教委/歴史の道3p17・43/同5p131 移設 (正面)「(左指差し袖付き)編路みち」、(右面)「大山道」、(左面)「一本松道 神宅原講中」 2
写真 第十堰 だいじゅう (板野)上板町・
(名西)石井町
吉野川<吉野川から新川・別宮川への越流堤> 取水堰(斜め堰<蛇籠による縦堰>) (宝暦2)長約400m
→(寛政4)長910m
→(文久)長1021m
→(明治3)1054m
宝暦2(1752)   WEB(土木学会吉野川第十堰技術評価特別委員会報告書)/町教委 創建時とは用途が異なる/大正期の地震より修復→昭和期にC堰に改修/石井町側の方が残りが良い 寛文12(1672)の別宮川の開削(徳島藩が実施)に伴って生じた吉野川の断流現象を防止するため、吉野川沿川の農家が主体となって別宮川の流頭に建設(その後の増築・修築、管理も基本的に農家主体→①徳島藩は用水開発よりは藍作を重視、②徳島藩という一地方藩が管理するには吉野川は余りに大河川であった、などの理由が複合) 4 写真
写真 七條、挽木の郡境
「甲の石」
しちじょう、ひきぎ (板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高79㎝,幅60㎝,厚15㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (西面中央に大きく)「甲」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 七條、挽木の郡境
「乙の石」
しちじょう、ひきぎ (板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高83㎝,幅60㎝,厚16㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (北面中央に大きく)「乙」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 高瀬、天上開の郡境
「丁の石」
たかせ、てんじょうびらき (板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高55㎝,幅30㎝,厚13㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (西面中央に大きく)「丁」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 七條、北高瀬の郡境
「巳の石」
しちじょう、きたたかせ (板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高140㎝,幅50㎝,厚10㎝ 享和年間(1801-1803)
洪水により移設
  町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (東面上部に大きく)「巳」、(その下)「この石より北は板野郡七条村/南は名西郡高瀬村」「この石より丁の石まで百二十八間五尺」、(西面)「此石建置候場所享和度川成今以水中ニ付/当時丁石より以前之場所へ見通、真直ニ西へ三十三間延建置」(享和年間の洪水後の後刻)/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた(約300m東の「丁の石」と「甲の石」で直角三角形を構成、3つの石は互いに向き合っている) 1
  神宅の郡境目当ての石 かんやけ (板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高180㎝,幅50㎝,厚13㎝ 享和年間(1801-1803)
洪水により移設
  町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (南面)「名西郡高瀬村/板野郡七条村/郡境目当之石」/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
  光蓮寺の夢つげ地蔵 こうれん (板野)北島町 光蓮寺 高地蔵(洪水遺産) 高約100㎝ 江戸期? 町有形 WEB 保存状態良好 旧吉野川の増水のため流されそうになった地蔵が、霊力を使って自分の身上を村人の夢の中で伝え、現在の安置場所まで移動させたという伝承がある/金家彫り台座共一石造りの地蔵半跏座像 1
写真 敬渝碑 けいゆ (板野)松茂町 春日神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  安政3 (1856)   徳島県の地震・津波碑~資料編p3 原位置? (正面)「敬渝碑/維皇嘉永甲寅年/仲冬初五欲晡天/欻爾山鳴地大震/堂閣人家多倒/黄壌襞裂水洊沸/茅廬塌火忽燃/紅光數穂衝天起/海潮湧洶漲桑田/桒田既見湛似海/陵谷誰疑有變遷/火也水也或可免/唯恐地裂陥黄泉/加寒威砭肌骨/所在履氷又淵臨/未然之事無可待/八寒焦忽現前/心蕩蕩進退谷/縦有羽翼何得全/飛禽堕地走獣/展轉如簸僵且眩/禦寒無褥饑無食/或坐竹中或上船/火熾水加地愈震/囏險何物能比焉/厥明六日震漸小/人意稍佀解倒懸/乗敝偶有語恠者/一口訛言千里傳/漫言白浪滔天至/里民驚乱似絮翩/扶老幼擬避浪/陸續臨山櫛比連/門戸放開無人住/千村萬落絶炊煙/祠壇梵場及培塿/鳥合螘集幾萬千/糜粥摶食有施者/僅拯飢腸真可憐/在山數日如夢幻/遽然省悟初得還/雖還無家不傾危/茇舎草枕尚依然/十二月晦復大震/餘震踰年猶未悛/自土至相千里強/沿海漁浦洎村荘/漂家流豈殫記/洋中商船摧在岡/十圍松杉堰泛海/遠三駿路東海傍/行旅三日不火食/湖北湖南諸州荒/浪華船死以千數/失家失資多散亡/信哉徳必勝不祥/惟吾封内少死傷/希有菑異縦如此/仁明在上任賢良/有司普行賑窮惠/耕具漁具及資糧/君不見/萬國東頭日初照/赫赫皇州神封彊/神賜前鑑非無意/般樂怠敖能醸殃/朝議新宣安政令/国家張恢親民綱/愷悌君子民父母/不騫不祝無量」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1 写真
写真 大里の真念道標 おおざと (海部)海陽町 海陽町博物館<へんろ道> 石道標   1680年代?   WEB(空海の里) 館内保管/2つの破片が残る(欠損多し) (正面)「ひだり(?) 編ん路み…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照」/真念の名は残っていない/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 5
写真 浅川の徳右衛門(?)道標 あさかわ (海部)海陽町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p190/同・別冊Ⅱp54/WEB(徳右衛門丁石) 移設(C台石・下部開設) (正面像下)「是より/東寺迄、十六里」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/「与州」も「徳右」も記されていないが、形態・字の配置から徳右衛門道標と推定/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 2
  浅川の大師道標 あさかわ (海部)海陽町 (鯖大師本坊の脇)
<土佐街道>
石道標   嘉永3(1850)   歴史の道4p47・71 保存状態良好 (正面)「土州 東寺へ/十六里十丁」、(正面右下)「かんのうら 五り」/正面上部を削り込んで大師座像を陽刻 1
  西文字渡し・跡 さいもんじ (海部)海陽町 <土佐街道>/海部川 渡し場   江戸初期?   歴史の道4p50・72 昭和10頃廃止/場所特定 上記「大里の真念道標」は、さいもんじの渡しと関連しているとされているので、1680年以前から開かれていた(土佐街道自体の開通は1600年頃) 4
  穴喰渡し・跡 ししくい (海部)海陽町 <土佐街道>/母川 渡し場   江戸期?   歴史の道4p51・72 馬路橋の場所?   4
  芝の掘抜き しば (海部)海陽町 海部川→芝用水 素掘トンネル
(水路)
  江戸期   町教委/WEB 保存状態良好 尾張の石工・宇平が四国巡礼中に贖罪のため一人で掘り始めたと言われる用水路の最難関箇所  1
写真 鞆浦大岩慶長碑 ともうら (海部)海陽町   津波記念碑
(慶長地震)
(岩の大きさ)高3.78m,幅約5.5m,厚4.85m 寛文4(1664)   徳島県の地震・津波碑~資料編p25 保存状態良好(古い割に、刻字がきわめて鮮明) 「敬白右意趣者人王百拾代/御宇慶長九甲辰季拾二月/十六日未亥剋於常月白風/寒疑行歩時分大海三度鳴/人々巨驚拱手處逆浪頻起/其高十来七度名大塩也/剰男女沈千尋底百余人/為後代言傳奉興之各ヽ/平等利益者必也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/上部に大きく「南無阿弥佛」と刻字/津波被害について直接言及した最古の碑/下記の「宝永碑」と同じ巨岩を光背型に削り込み、陰刻 1 写真
写真 鞆浦大岩宝永碑 ともうら (海部)海陽町   津波記念碑
(宝永地震)
(岩の大きさ)高3.78m,幅約5.5m,厚4.85m 宝永4(1707)以降   徳島県の地震・津波碑~資料編p25 上記と同じ石に刻字されているにもかからわず、風化して判読困難 「宝永四年丁亥之冬十/月四日未時地大震乍海潮/湧出餘蕩々襄陵反覆三次/而止然我浦無一人之死者可謂/幸矣後之遭大震者豫慮海/潮之變而避焉則可」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/上記の「慶長碑」と同じ巨岩を光背型に削り込み、陰刻 2
写真 浅川観音堂の地蔵尊台石 あさかわ (海部)海陽町 観音堂境内地蔵堂 津波記念碑
(宝永地震)
高145㎝,台石26㎝,台石幅41㎝ 正徳2(1712)   徳島県の地震・津波碑~資料編p18-19 入母屋造瓦葺の立派な木造祠内に安置された地蔵立像の直方体の台石/下半分は床で見えない (台石正面)「宝永四年丁亥十月四日晴天/日暖ナル同未刻俄大地震暫有/終テ後大海ヨリ髙サ三計ノ大汐指込/浦上村カラウト坂ノ麓迠上リ即刻/引汐ニ浦ノ中千光寺ノ堂一宇殘/有來在家不殘一軒モ海底引落/猶又流レ出ル老若男女百四拾人/余悉ク溺死仕依之右亡者/為菩提ノ此石像ノ地蔵一躰/致供養奉案地者也」/中央に「南無阿弥佛」と刻字〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 3
  浅川天神社の石碑 あさかわ (海部)海陽町 天神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  慶応3(1867)   徳島県の地震・津波碑~資料編p20 碑文が読みにくいため、平成6に新碑も建立 (正面)「于時安政元甲寅十一月四日辰ノ刻地震暫ゆり己ノ刻比汐狂ひ往還へ溢れ/人々驚山上へ荷物をはこび逃登リあわてあへり夫より心をくハり其夜を明す翌/五日晴天雲風なく日輪朧の如く暖なる事三月頃の如くなれバ審敷思ひ山上へ/荷物を持上るもあり又ハ前日の変ニて事濟しと思ひまち〱なる折から申ノ刻比大地震暫/有て終後大海より高サ三丈計の大汐さし込其早き事矢を射るが如し浦上カラウ/ト坂麓迄いせだ戸や山の神関迄上リ其夜汐さし込事幾度ともしれす天満宮大年/御崎三社並ニ浦三ヶ寺相残リ其余在家流失村分西ノ奥東谷人家悉流失なれ共/用心せし故村中怪我人なし永正慶長ニ両度あり又宝永四亥十月四日稲觀音/堂石像地藏尊ニ記あり宝永度迄百年前後なれともこたびハ百四十八年目也依テ後年/寒暖時候ニ背き大地震ゆる時ハ必由断すへからす後世心得のため是を建るもの也」 2
  旧熟田峠地蔵尊供養塔 ずくだ (海部)海陽町 <熟田峠道> 津波記念碑
(安政南海地震)
高約50㎝ 不詳   徳島県の地震・津波碑~資料編p25 簡単な木製祠内 (○面)「宝永度ゟ七寅年迠百四十八年目なり/干時永七寅年十一月四日辰刻晴天日/并よく海上浪靜穏ニして暖氣を催ふ/す事時候に背きしかるに天地震動/して大地震潮町中へ溢れ込猶また/翌五日申刻大地震并津浪之高サ/三餘も山の如くニ押來り諸人周章/あへり山上へ迯登り海辺之人家流/失野原と相成事也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 2
写真 貝谷峠~松坂峠の土佐街道 かいや、まつさか (海部)美波町 <土佐街道> 道路   江戸期   歴史の道・別冊・Ⅱp4 保存・整備状態良好 林間の幅広い街道 1
写真 丹前峠の切通し たんまえ (海部)美波町 <土佐街道> 切通し   江戸期   歴史の道4p39・68
/WEB
通行可能 標高230m、幅1.5mほどの小規模な切通し 2
写真 北河内の真念道標 きたがわうち (海部)美波町 <土佐街道・へんろ道> 石道標(尖頭角柱、花崗岩) 高60㎝,幅19㎝,厚18㎝ 1680年代? 町有形
(民俗資料)
WEB/町教委(日和佐の文化財p13) 保存状態良好 (正面)「右 大く巳んみち 願主真念/左 やく巳う寺みち 十丁余」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 1
写真 奥河内の真念道標 おくがわうち (海部)美波町 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱)   1680年代?   歴史の道・別冊Ⅱ
p49/
WEB(空海の里)
移設/下部欠損 (正面)「右 編ん路…」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/「真念」の刻字だけでなく「為父母六親」も記されていないが、「(梵字)南無大師遍照金剛」があることで「真念道標」と推定/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存) 3
写真 田井の地蔵道標1 たい (海部)美波町 <土佐街道> 石道標(舟型) 高36.3㎝ 明和元(1764)   歴史の道4p28・65
/同5p183・111・224
保存状態良好 (光背右)「遍んろう道」、(光背上)「大峯」/全面に地蔵立像(錫杖)を陽刻 1 -
写真 田井の地蔵道標2 たい (海部)美波町 <土佐街道> 石道標(舟型)   明和元(1764)   歴史の道4p28・65 保存状態良好 (光背右)「遍ろう道」/中央に地蔵立像を陽刻 1
  恵比須浜の地蔵道標 えびすはま (海部)美波町 <土佐街道・へんろ道> 石道標(舟型)   天明元(1781)   歴史の道4p35・67
/同5p112・184
保存状態良好 (光背○?)「へんろ道/是ゟ 薬王寺へ 五十丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻 1 -
  奥河内の道標 おくがわうち (海部)美波町 <土佐街道> 石道標   天明4(1784)   歴史の道4p68 現況不明 (正面)「これより 土州東寺へ 廿一里」    
写真 山河内の地蔵道標 やまがわうち (海部)美波町 <へんろ道> 石道標(舟型)   寛政2(1790)   歴史の道5p115・187 C製祠内 (光背右)「これより いハやへ 十丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻/23番奥の院泰山寺の町石の一つだが、他の町石は丁数だけなのに、行く先が刻字されているので道標に分類 2
  田井の道標 たい (海部)美波町 <土佐街道> 石道標   寛政4(1792)   歴史の道4p65 現況不明 (正面)「右 へんろ道」/石工: 庄兵衛    
写真 山河内の徳右衛門(?)道標 やまがわうち (海部)美波町 よここ峠<土佐街道> 石道標(蒲鉾型)   寛政6-文化4
(1794-1807)
  WEB(徳右衛門丁石)/WEB 移設?/下部埋設 (正面像下)「是より/東寺迄、廿… 」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/「与州」も「徳右」も記されていないが徳右衛門道標とされている→もし正しければ、主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 田井の徳右衛門道標 たい (海部)美波町 <土佐街道> 石道標(尖頭角柱)   寛政12(1800)   歴史の道4p29・65
/善通寺紀要15
(徳右衛門丁石の話)
原位置 (正面像下)「従是より 藥王寺 二里」、(同右下隅)「本願主 豫州 徳右衛門」/頂部を火灯窓型に削り込み大師坐像を陽刻/木岐の一里松跡に立つ/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 1
写真 木岐の照蓮道標1 きき (海部)美波町 <へんろ道・土佐街道> 石道標(蒲鉾型)   文化6(1809)   歴史の道4p29・66
/同5p111・184
C基礎→移設 (正面)「(左指差し)四國中千躰大師」、(○面)「真念再建 願主照蓮/世話人 徳島講中」/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻 2
  奥河内の照蓮道標1 おくがわうち (海部)美波町 <土佐街道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道4p68/同5p113・185 保存状態良好 (正面)「(○指差し)四国中千躰大/これより 東寺へ 廿一里/真念再建 願主照蓮/世話人 徳嶋講中」/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻」/もう1基の道標(年代不詳)と接するように並ぶ 1
  木岐の照蓮道標2 きき (海部)美波町 <へんろ道・土佐街道> 石道標   文化6(1809)   歴史の道5p184 現況不明 (正面)「(○指差し)真念再」、(○面)「此方 遍路道/薬王寺 七十五丁」  
  奥河内の照蓮道標2 おくがわうち (海部)美波町 <へんろ道・土佐街道> 石道標   文化6-13(1809-16)   歴史の道4p66/同5p185 現況不明 (正面)「右 かんのんみち/願主真念/左 やくおう寺みち 十丁余」  
写真 恵比須浜の照蓮道標 えびすはま (海部)美波町 <土佐街道> 石道標(蒲鉾型)   文化6-13(1809-16)   歴史の道4p35‐67
/同5p184
基部C/正面の刻字部分が剥離/全体に傷みが進行 (正面)「(左指差し)……」、(右面)「真念再建 願主照蓮/世話人 阿州徳島講中」/手印下に大師座像を陽刻 3
写真 北河内の地蔵道標
(一の坂の丁石地蔵)
きたがわうち (海部)美波町 (一の坂)<土佐街道> 石道標(自然石)   弘化3(1846)   町教委(日和佐の文化財p22)/歴史の道4p34・67/WEB 移設 (正面左)「是ゟ 薬王寺へ/五十丁」、(正面右)「深瀬中」/中央を光背型に削り込んで地蔵立像(蓮台)を陽刻 2
  西の地の貞治の碑 にしのじ (海部)美波町 子安地蔵堂 津波供養碑
(正平南海地震)
  貞治6(1367)   徳島県の地震・津波碑~資料編p12   (正面)「延命地蔵尊」/『徳島県の地震・津波碑~資料編』では、この碑も取り上げているが、建立が下記「東由岐の康暦碑」より古いのに、わが国最古としていないのは整合性がとれない→いずれにせよ、津波記念碑ではなく供養碑なので対象外 2 -
写真 東由岐の康暦碑 ひがしゆき (海部)美波町 (大池イヤ谷) 津波供養碑
(正平南海地震)
  康暦2(1380)   徳島県の地震・津波碑~資料編p11 下部の刻字一部不明 (正面)「道 勝禅 念性 平親宣 源春 千/宗禅 如性 祖芳 明禅 為春 是 撰 善/奨 覚英 □光 心禅 秀 平宣行 祖 訥 道/道忠 妙悟 禅 心 性 西阿弥陀仏 阿 貞/成宣 文玉 法智 宗琳 妙念 禅 浄 真 善/圓乗 如宣 智善 心 妙芳 英 圓 道 本 道/良全 明智 妙真 法 妙立 道 照 道 禅/善 清孚 了明 阿 了珠 源宣能 圓 性 道/道 如心 道 珎念 道 善 宗 道/道 滿 心 空 宗」/『徳島県の地震・津波碑~資料編』では、わが国最古の津波記念碑と位置付けているが、内容は供養碑であり、津波の被害について言及した部分は一切ない→対象外 2 -
写真 木岐王子神社の石灯籠 きき、おうじ (海部)美波町 王子神社 津波記念碑
(安政南海地震)
高2m 嘉永7(1854)以降 旧・由岐町の准指定文化財 徳島県の地震・津波碑~資料編p13 原位置 (竿)「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震/半時之内大汐三度込入軒家流失凢四丈/余上り當宮流失明卯八月遷宮大地震/之節油断無之荒方記置」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
写真 志和岐の地震碑 しわぎ (海部)美波町 (志和岐公民館) 津波記念碑
(安政南海地震)
  文久2(1862)   徳島県の地震・津波碑~資料編p12 移設 (正面)「去ル永七寅年霜月初四日朝五ツ/大地震不ニ汐高滿有此浦中家財/を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ/亦ヽ大地震忽ち津浪押來リ舩網納屋」、(左面)「不残沖中へ流れ失浦人漸寺又ハ山抔へ遁/登り夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸/佛の御加護也依之又ヽ幾後年ニ及大地」、(裏面)「震之節汐高滿有之ハ必定津なみ押/来ルへし其期ニ及少も為無油断荒々此/石ニ彫記長く子孫へ知せ置度而巳/法印隆鳳写之」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 2
  大島番所・跡 おおしま (海部)牟岐町
(牟岐大島)
  番所   文化3(1806) 町史跡 町教委 十数ヶ所以上の石積みがそのまま残る 外国船やキリシタンやの監視を行っていた番所と役人の住居跡 3
  出羽島観栄寺の石碑 でば、かんえい (海部)牟岐町
(出羽島)
観栄寺 津波記念碑
(安政南海地震)
  嘉永7(1854)以降   徳島県の地震・津波碑~資料編p14 刻字判読不能 (正面)「左之通大汐之砌/御上ゟ壱人前米六宛被下置候/永七寅年十一月四日朝五大地震一時計ニ而/潮狂ヒ有之高下共貳餘同五日地震/半計而大汐来其高サ右同断出羽之嶋ハ/前日より山上リ致候事故怪我人無之相済候/是神佛之御守有ルニ依而也後ヽニ至ル迠/信心怠ル事不可有也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/旧碑の刻字が判読できなくなったため昭和3に新碑を設置したくらいなので、建立は恐らく地震直後 3
  大島の狼煙場・跡 おおしま (海部)牟岐町
(牟岐大島)
  狼煙場 5m×4.5m(内寸) 文化年間(1804-18) 町史跡 町教委/図説徳島県の歴史p157 周辺が樹林化/無人島のため舟のチャーターが必要 徳島藩によって異国船の来航を監視するために設けられた大島~徳島を結ぶ狼煙場群/大島の頂上216mの四方を一望できる場所に設置 3
写真 鶴林寺道の石畳 かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 石畳道 長257m,幅1.7-3.3m 江戸期? 国史跡 阿波遍路道報告書1p27-30 数度にわたる改修→最後は昭和59 周辺部で採取される「子持ち石」を使用した部分が最古/途中、車道で1回分断 2
写真 生名‎の徳右衛門道標 いくな (勝浦)勝浦町 鶴林寺
<へんろ道(鶴林寺道)>
石道標(蒲鉾型、花崗岩) 高151㎝,幅24㎝,厚22㎝ 寛政6-文化4
(1794-1807)
国史跡 阿波遍路道報告書1p31・46・50・図版5 移設 (正面像下)「これより/太龍寺迄、壱里半」、(左面)「願主 与州 徳右衛門/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/下記「太龍寺側の一丁石」と並ぶ 2
生名‎の照蓮道標 いくな (勝浦)勝浦町 鶴林寺
<へんろ道(鶴林寺道)>
石道標
(尖頭角柱、砂岩)
高72㎝,幅22㎝,厚18㎝ 文化6(1809) 国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p21・45・50・図版5 保存状態良好 (正面)「(左指差し)是より 太龍寺へ 二十丁/四國中千躰大師」、(右面右)「願主照蓮 世話人 徳嶌講中」/正面手印下を光背型に削り込んで大師坐像を陽刻 1
  生名‎の道標 いくな (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 石道標
(尖頭角柱、砂岩)
高102㎝(うち、台石12㎝),幅15.5㎝,厚29.5㎝ 弘化2(1845) 国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p21・45・49・図版1 中央で水平に折損→補修 (正面)「(右指差し袖付き)鶴林寺道 十三丁」→鶴林寺の町石(十三丁)を兼ねると推定、(左面)「左 仁字谷道」/頂部は低い尖頭形/下記「鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石」で一番手前に位置する 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(十一丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高70㎝(本来高約130㎝),幅19㎝,厚18㎝ 貞治年間(1362-7)?
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p22・45・49・拓本6・図版1 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/C打設 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石は、二十番鶴林寺に向けて丁数順に並んでいる(二十番鶴林寺が一丁⇒逆順/(正面)「十一丁」、(正面旧刻)「町 讃 願」/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 3
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(十丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高108㎝,18.5㎝角 応安2(1369)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p22・45・49・拓本5・図版1 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面 (正面)「十丁」、(右面旧刻)「九町 應安二年四月十四日 浄了」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 1
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(九丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩質砂岩) 高88㎝,幅18㎝,厚15㎝ 明徳年間(1390-94)頃?
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p22・45・49・拓本5・図版2 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/C打設 (正面)「九丁」/(裏面旧刻)「右趣者沙浄円逆修奉造立也、廿六日/近…」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(八丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高114㎝,幅17.5㎝,厚17㎝ 貞治5(1366)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p22・45・49・拓本4・図版2 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面/C打設 (正面)「八丁」、(裏面旧刻)「七町、貞治五年/六月廿四日、真道願主 清原氏實」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(七丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高83㎝,幅18㎝,厚14.5㎝ 明徳3(1392)
→後世に町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p22・45・49・拓本4・図版2 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/C打設 (正面)「七丁」/(正面旧刻)「…霊十三年忌奉造立也、施主五十孝子敬白/明徳三年八月二日」/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(六丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高99.5㎝,幅17㎝,厚17.5㎝ 応安元(1368)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p23・45・49・拓本3・図版2 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能/C打設 (正面)「六丁」、(正面旧刻)「町、應安元年/六月廿十四日、正智」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(五丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高78㎝,幅17㎝,厚17㎝ 明徳3(1392)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p23・45・50・拓本3・図版3 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面/C打設 (正面)「五丁」、(右面旧刻)「十二町、明徳第二/六月一日、願…」/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(四丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高51㎝,幅17㎝,厚17.5㎝ 応安元(1368)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p23・45・50・拓本2・図版3,4 南北朝期の町石の再利用=下半分欠損/旧刻が別面/C打設 (正面)「四丁」、(裏面旧刻)「四町、応安元年/六月十三日」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 3
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(三丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高104㎝,幅18㎝,厚18.5㎝ 応安元(1368)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p23・45・50・拓本2・図版4 南北朝期の町石の再利用/旧刻が別面/C打設 (正面)「三丁」、(裏面旧刻)「三町、應安元年/十月十四日、道…」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(二丁) かくりん (勝浦)勝浦町 <へんろ道(鶴林寺道)> 町石(尖頭角柱、花崗岩) 高86㎝,幅18㎝,厚17.5㎝ 応安4(1371)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p25・45・50・拓本1・図版4 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能〔写真:二と丁の間に、はっきりと「町」の字が見える〕/C打設 (正面)「二丁」、(正面旧刻)「町 …」/頂部は浅型の尖頭/頂部四周に2本線を陰刻/当初は尖頭角柱 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(一丁)1 かくりん (勝浦)勝浦町 鶴林寺
<へんろ道(鶴林寺道)>
町石(尖頭角柱、花崗岩) 高113㎝,幅18.5㎝,厚17㎝ 応安元(1368)
→後世に再町石化
国史跡 町教委/阿波遍路道報告書1p25・45・50・拓本1・図版5 南北朝期の町石の再利用/旧刻が判読可能 (正面)「一丁」、(正面旧刻)「町 應安元年五月廿一日 幸…」/頂部は尖頭/頂部四周に2本線を陰刻 2
写真 鶴林寺周辺(立江寺側)の角柱町石(一丁)2 かくりん (勝浦)勝浦町 鶴林寺
<へんろ道(鶴林寺道)>
町石(砂岩) 高55㎝,幅18.5㎝,厚17 享保3(1718) 国史跡 町教委/歴史の道5遍路道p172 保存状態良好 (正面)「(梵字)一丁」/明治33の中務茂兵衛道標の脇に小さく建つ 1 -
写真 鶴林寺~太龍寺の角柱町石(一丁) かくりん、たいりゅう (勝浦)勝浦町 鶴林寺
<へんろ道(太龍寺道)>
町石
(蒲鉾型、砂岩)
高98㎝,幅21㎝,厚19㎝ 宝暦9(1759) 国史跡 阿波遍路道報告書1p31・46・51・図版5/歴史の道5遍路道p97・176 C打設→移設 鶴林寺~太龍寺の町石は、二十一番太龍寺に向けて丁数順に並んでいる(二十番鶴林寺が一丁)/(正面)「一丁、是より下タ 大井村/太龍寺道 講中」/一丁~二十八丁のうち、江戸期の「一丁」と、南北朝期の再利用の「三丁」を除きすべて舟型の地蔵町石で、かつ、年代不詳 2
写真 杉地の棚田の地下水路 すぎじ (勝浦)上勝町 <吉成家> 隧道(3ヶ所) 長計約60m 江戸初期?   三栖久代 隧道部の保存状態良好/水路、棚田とも非現役 全長約100mの水路の半分を占める隧道部/典型的な戦国末期~江戸初期の穴太積(天井部は平石)/元・吉成家の所有だが、由来は不明 2
写真 樫原の棚田 かしはら (勝浦)上勝町   棚田(石垣) 59ha,546枚(現存数) 江戸後期 国重要文化的景観
/棚田百選
WEB 樫原の棚田オーナー制度により保全 標高500-700mの急斜面に造られた棚田→地形に沿って曲がりくねっている 1
  樫原のシシ壁 かしはら (勝浦)上勝町   猪垣   江戸期   WEB 山林中に放置   3
  百合鉱山(三郎鉱山)・跡 もあい (那賀)那賀町 (鷲敷町) 銅鉱山   延宝年間(1673-78)?   WEB 坑口が残る 文化8(1811)の『仁宇村棟附帳』によれば、延宝年間に採掘が始まり、安宅鍛冶という人物が派遣されたとある/江戸時代末期に一時閉山?→明治5再開 2
  妙法寺の庚申塔 みょうほう (那賀)那賀町 妙法寺 津波記念碑
(安政南海地震)
  安政5(1858)   徳島県の地震・津波碑~資料編p5 保存状態良好 (右側)「青/正面金一躰昔宝暦九夘四月造之/然処去ル嘉永七刁十一月五日大地震二付/尊形依之安五午春再興之」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
  半田の常夜灯 はんだ (美馬)つるぎ町 <小野浜港>吉野川右岸 石常夜灯(和泉砂岩) 高1.85m 文政9(1826) 町史跡 町教委 周囲は河川工事により整備→フェンスが邪魔 火袋に「日月」の開口部/竿が角柱状 3
  江ノ脇の常夜灯 えのわき (美馬)つるぎ町 <伊予街道>吉野川右岸 石常夜灯   江戸期?   町教委/歴史の道2p31 保存状態良好/アクセス困難 伊予街道に面した巨岩上に立つ灯籠=かつて川船の灯台の役をした 2
  中鳥渡し・跡 なかとり (美馬)つるぎ町・
美馬市
吉野川 渡し場 長約100m 元禄14(1701) or 正徳2(17121) or 享保11(1726)以降→天保10(1839)   町教委/美馬町史p1107/歴史の道3p54 昭和50頃廃止/右岸:正確な位置不明 半田町~美馬町重清の中鳥/左記の3回の大洪水で吉野川が現在の位置(中鳥の南)を流れるようになり、半田から中鳥に渡る船が必要となった/天保10(1839)の日記に、久し振りに渡船が再開して便利になったとの記述がある 5
  喜来渡し・跡 きらい (美馬)つるぎ町・
美馬市
吉野川 渡し場 長約120m 文化12(1815)以前   町教委(吉野川の渡しマップp31)/美馬町史p1110/歴史の道2p31・67/WEB 昭和33美馬橋架橋により廃止/右岸:場所特定 美馬町郡里喜来~貞光町 4
  太田渡し・跡 おおた (美馬)つるぎ町 吉野川 渡し場   嘉永2(1849)以前   町教委/歴史の道2p67 昭和初期廃止 嘉永2の『大田村地図』に記されている 4
  毛田渡し・跡 けた (美馬)つるぎ町・
美馬市・三好市
吉野川 渡し場 長約150m 江戸末期以前   町教委(吉野川の渡しマップp26)/美馬町史p1109/歴史の道3p54/WEB 平成3廃止/右岸:入り江状の渡し場跡が残る 当時使用していた船が保存されている 2
  高篠渡し・跡 たかしの (美馬)つるぎ町・
美馬市
<撫養街道>/吉野川 渡し場 長約180m 江戸末期以前   町教委(吉野川の渡しマップp29)/美馬町史p1109/歴史の道3p54/WEB 明治30頃まで賑わう/右岸:場所特定、雰囲気なし 美馬町重清/撫養街道の要衝/吉野川を上下する平田船の発着場 4
  青石渡し・跡 あおいし (美馬)つるぎ町・
美馬市
吉野川 渡し場 長約120m 江戸期   町教委(吉野川の渡しマップp28)/美馬町史p1108/歴史の道3p54/WEB 昭和31青石潜水橋の完成で廃止/右岸:場所特定、雰囲気なし 半田町松生~美馬町重清/渡船場だけではなく船繋場としても賑わった場所 4
  立石渡し・跡 たていし (美馬)つるぎ町・
美馬市
<撫養街道>/吉野川 渡し場 長約100m 江戸期   町教委(吉野川の渡しマップp33)/美馬町史p1111/WEB 昭和60美馬中央橋の完成で廃止/右岸:痕跡が残る 美馬町太田原~貞光町太田/吉野川増水時の撫養街道の渡し場 3
写真 三王堤防(藤森堤) さんのう (美馬)つるぎ町 吉野川右岸 石堤防
(野面乱石積)
長524m→250m,高4.5m→2.3m 明暦3(1657) 町史跡 町教委/現地解説板 一部残る/非現役 施工: 貞光代官・原喜右衛門→難工事となったため、原代官は切腹、従者2名殉死→3名を祀る三王神社創設(明治26)→三王堤防と呼称 3
  浦庄の大師道標 うらしょう (名西)石井町 <伊予街道> 石道標   文化10(1813)   歴史の道2p60 現況不明 「(○指差し)」/手印下に大師座像を陽刻    
  石井の道標 いしい (名西)石井町 <伊予街道> 石道標   文政3(1820)   歴史の道2p59 現況不明 「右 藤井寺江 二里/是ヨリ南 一宮江 一里」/地蔵尊と並ぶ    
  以西用水 いさい (名西)石井町・
徳島市
鮎喰川 用水路   鎌倉・室町期?
→文化7(1810)
  WEB C三面張り 文化年間のはじめに以西地域約500haで水不足が起こり、文化7に国府町延命の鮎喰川底に木樋を埋設し増水 4
写真 第十堰 だいじゅう (名西)石井町・
(板野)上板町
吉野川<吉野川から新川・別宮川への越流堤> 取水堰(斜め堰<蛇籠による縦堰>) (宝暦2)長約400m
→(寛政4)長910m
→(文久)長1021m
→(明治3)1054m
宝暦2(1752)   WEB(土木学会吉野川第十堰技術評価特別委員会報告書)/町教委 創建時とは用途が異なる/大正期の地震より修復→昭和期にC堰に改修/石井町側は一部石敷きが残る 寛文12(1672)の別宮川の開削(徳島藩が実施)に伴って生じた吉野川の断流現象を防止するため、吉野川沿川の農家が主体となって別宮川の流頭に建設(その後の増築・修築、管理も基本的に農家主体→①徳島藩は用水開発よりは藍作を重視、②徳島藩という一地方藩が管理するには吉野川は余りに大河川であった、などの理由が複合) 3 写真
写真 藍畑の印石 あいはた、しるしいし (名西)石井町 皇太神宮 標石(2基)
(洪水遺産)
(右)高89 ㎝(線高60㎝),幅26 ㎝,厚8.5 ㎝,
(左)高77 ㎝(線高60㎝),幅27 ㎝,厚7.5㎝
嘉永6(1853) 町歴史資料 岩屋隆夫/WEB
/現地解説板
発見→移設・再建立 (右)「印石」、(左)「石」/堤防高を規定するための基準石=石に水平な線が1本刻まれ、堤防の高さの基準となっている/文化年間(1804-18)に本村地区の村人が洪水被害から逃れるため新堤防の構築を藩に願い出たが、隣の中州地区の反対で頓挫・紛糾→嘉永4、郡代の仲介で中州地区の地盤高と同じ高さの堤防を築くことで合意→嘉永6、本村地区の村人が無断で嵩上げしたことで紛争→郡代命で嵩上げ部を撤去→二度と起きないよう堤防高を示す21個の石柱を建てた 2
  城ノ内の南の地蔵 じょうのうち (名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高322㎝
(うち、台石225㎝)
文政8(1825)   WEB   「悲願金剛」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 1
  東覚円の南の地蔵 ひがしかくえん (名西)石井町 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高281㎝
(うち、台石199㎝)
文政10(1827)   WEB 屋根を後付け 「三界萬霊」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水の常襲地帯に建立) 1
  高畑の地蔵 たかばたけ (名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高309㎝
(うち、台石224㎝)
天保14(1843)   WEB 両手が破損 「延命尊」/石基壇、3段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
  南島の西の地蔵 みなみしま (名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高411㎝
(うち、台石246㎝)
天保14(1843)   WEB 基壇はC更新 「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」/C基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/地域住民の健康と安全、農作物の豊穰を祈願/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 3
  桜間の北の地蔵 さくらま (名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高327㎝
(うち、台石219㎝)
安政5(1858)   WEB 大正5に修復 「三界萬霊」/石基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 1
  高川原の地蔵 たかがわら (名西)石井町 飯尾川 高地蔵(洪水遺産) 高326㎝
(うち、台石243㎝)
万延元(1860)   WEB 平成5に基壇、台石を新設 「三界萬霊/光明真言五百萬遍」/石基壇(新設)、2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(安政4(1857)の大洪水を受けて建立) 4
写真 東高原の南の地蔵 ひがしたかはら (名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高325㎝
(うち、台石246㎝)
慶応元(1865)   WEB 基部C 「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」/石基壇、2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/地域住民の健康と安全、農作物の豊穰を祈願/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
写真 阿野の徳右衛門道標1 あの (名西)神山町 <へんろ道> 石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
  寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p144
/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里)
原位置? (正面像下)「是より/焼山寺迄、壹里」、(左面)「願主 与州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 1
写真 阿野の徳右衛門道標2 あの (名西)神山町 <へんろ道> 石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
  寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p150
/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里)
移設? (正面像下)「是より /一ノ宮迄、四里」、(左面)「願主 与州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 下分の徳右衛門道標 しもぶん (名西)神山町 焼山寺<へんろ道> 石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
  寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p148
/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里)
移設 (正面像下)「これゟ/ 一ノ宮迠、五里」、(左面)「願主 与州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 阿野の徳右衛門道標3 あの (名西)神山町 禅定寺・門前<へんろ道> 石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
  寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p153
/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里)
移設/設置環境不良 (正面像下)「これより/一の宮迄、三里」、(左面)「願主 予州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 阿野の徳右衛門道標4 あの (名西)神山町 阿野橋<へんろ道> 石道標
(蒲鉾型、花崗岩)
  寛政6-文化4
(1794-1807)
  歴史の道5p56・155/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 移設/背部にガードレール密着/中央部で折損→修復 (正面像下)「(右指差し)是より/ 一ノ宮迄、二里」、(右面右端)「十二番ヘ 三里」、(左面)「願主 予州 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存 3
写真 阿野の徳右衛門道標5 あの (名西)神山町 西明寺・門前<へんろ道> 石道標   寛政12(1800)   歴史の道5p57・156/WEB(徳右衛門丁石)/WEB(空海の里) 原位置? (正面像下)「是ゟ 一ノ宮 一里半」、(左面)「廣野村講中 与州越智郡朝倉上村/本願人 徳右ェ門」/頂部を円型に削り込み大師坐像を陽刻/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱) 1
写真 阿野の照蓮道標 あの (名西)神山町 <へんろ道> 石道標   文化7(1810)   歴史の道5p56・156 保存状態良好 (正面)「(左指差し)四國中千躰大師」、(同左)「是ヨリ 一ノ宮江 百八十五丁」、(右面)「真念再建 願主照蓮/世話人 阿州 徳嶋講中」/手印下を半円光背型に削り込み大師坐像を陽刻 1
  阿野の道標 あの (名西)神山町 <へんろ道> 石道標   文政12(1829)   歴史の道5p156 現況不明 「(○指差し)従是 一ノ宮江 一里半」    
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(五十八丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p144 移設? 藤井寺~焼山寺の地蔵町石は、十二番焼山寺に向けて丁数順に並んでいる(十二番焼山寺側が一丁⇒逆順/(光背右端)「山ゟ 五十八丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 2 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(四十三丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p144
/WEB
原位置? (光背右端)「山ゟ 四十三丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(四十二丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p145
/WEB
原位置? (光背右端)「山ゟ 四十二丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(四十一丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p145
/WEB
原位置? (光背右端)「山ゟ 四十一丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(四十丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p145
/WEB
原位置? (光背右端)「山ゟ 四十丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(三十八丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p145
/WEB
原位置? (光背右端)「山ゟ 三十八丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 1 -
写真 藤井寺~焼山寺の地蔵町石(一丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(舟型)   江戸期   歴史の道5p148
/WEB
移設?/頂部欠損、中央で割裂→補修 (光背右端)「山ゟ 一丁」/中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/江戸期と確定できるものは僅か 3 -
写真 藤井寺~焼山寺の角柱町石(一丁) ふじい、しょうさん (名西)神山町 <へんろ道> 町石(角柱)   享保15(1730)   歴史の道5p148 移設? 藤井寺~焼山寺の角柱町石は、十二番焼山寺に向けて丁数順に並んでいる(十二番焼山寺側が一丁⇒逆順/(正面)「一丁」/角柱町石は焼山寺周辺のみ(十七丁が最終)、かつ、年代刻字はこれ1基のみ 2 -
  神領鉱山(次郎銅山)・跡 じんりょう (名西)神山町 (神領大久保) 銅鉱山 坑口(自然岩) 延宝年間(1673-81)   町教委/WEB 坑口が残る(江戸期?) 阿波の三大銅山の一つ 3
  持部鉱山・跡 もちべ (名西)神山町 (阿野持部) 銅鉱山 坑口(自然岩) 元禄年間(1688-1704)   町教委 坑口潰れている(江戸期?) 阿波の三大銅山の一つ 4
      (名東)佐那河内村                    
  昼間の常夜灯1 ひるま (三好)東みよし町 <撫養街道> 石常夜灯   寛政8(1796)   歴史の道3p56 移設/現況不明   2  
  昼間の常夜灯2 ひるま (三好)東みよし町 <撫養街道> 石常夜灯(自然石)   安政2(1855)   歴史の道3p38・56 移設 石工: 善四郎 2
写真 加茂の石敢當 かも (三好)東みよし町   石敢當(自然石、緑泥片岩) 高180㎝,幅54㎝,厚8㎝ 文久2(1862) 町有形民俗 日本の石敢當p98
/歴史の道2p69
保存状態良好 (正面)「石敢當」/文久2に加茂で悪病が流行し、大火や水難も続いた→村人は、この原因が村の鬼門が開いているからと考え、鬼門堂と石敢當を建てた/紀年銘のある近世の石敢當としては最も背が高い(それが、宮崎・鹿児島・沖縄ではなく徳島にある) 1
  赤池渡し・跡 あかいけ (三好)東みよし町 <撫養街道>/吉野川 渡し場   文化年間(1804-18)   歴史の道3p37・56
/WEB
昭和34美濃田大橋完成で廃止/痕跡が残る 三好町美足代東原~三加茂町加茂稲持 3
写真 美濃田渡し・跡 みのだ (三好)東みよし町 <撫養街道>/吉野川 渡し場   江戸期?   歴史の道3p37・56
/WEB
昭和34美濃田大橋完成で廃止/痕跡が残る 三好町美濃田小山~三加茂町加茂西 3
  足代の金毘羅常夜灯 あしろ (三好)東みよし町 <撫養街道>/吉野川 石常夜灯(自然石、緑泥片岩・砂岩)   寛政6(1794)   町教委/歴史の道3p37・56 2m移設/昭和63火袋改修(花崗岩に) (竿中央)「金毘羅大権現」、(竿右側)「五社大明神/八幡宮/太神宮」、(竿左側)「天神宮/山神」、(竿下部)「東原講中」/赤池渡しへの安全のため建立/石基壇(自然石)あり 2
  西の池 にし (三好)東みよし町   溜池   天明年間(1781-89)   町教委 昭和4拡張・改修→昭和56改修 増川の孫右エ門が築造したとされる/皿池に近い 3