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高知県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  五台山の題目塔道標 ごだいさん 高知市 (和泉)<へんろ道> 石道標 高90㎝,幅33㎝,厚22㎝ 元禄7(1694)   歴史の道・ヘンロ道p207・249 移設? (○面)「(梵字)□ へんろミち/舩わたし/是より せんしふしへ 一里」/正面に「(梵字)好月妙善信女爲菩提」と陰刻/17世紀の道標 2
写真 春野町森山の題目塔道標 はるの、
もりやま
高知市 (中)<へんろ道> 石道標(自然石) 高52㎝,幅35㎝,厚25㎝ 安永2(1773)   歴史の道・ヘンロ道p208・251 原位置? (左面)「右 へんろ道」/正面に「爲二世安樂」と陰刻 1 -
写真 五台山の徳右衛門道標 ごだいさん 高知市 南参道と坂本道の分岐
<へんろ道>
石道標 高156㎝,幅24.5
㎝,厚21.5㎝
寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p206・248 原位置 (正面像下)「是ヨリ/峯寺迠 一里半」、(○面)「願主 伊豫越智郡 徳右衛門」/頂部、梵字下を隅丸型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 1
  春野町秋山の道標1 はるの、
あきやま
高知市 種間寺<へんろ道> 石道標 高118.5㎝,幅28㎝,厚22.5㎝ 寛政7(1795)   歴史の道・ヘンロ道p208 移設 (正面)「(梵字)三十四番種閒寺 清瀧寺江 二里」、(○面)「雪蹊寺江 二里」 2
  春野町秋山の道標2 はるの、
あきやま
高知市 種間寺<へんろ道> 石道標 高82㎝,幅22㎝,厚20㎝ 文化3(1806)   歴史の道・ヘンロ道p208・251 移設/正面頂部に手印他追刻 (正面)「是より 種間寺江 二里二丁」 3
写真 長浜の徳右衛門道標 ながはま 高知市 塩谷地蔵堂<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高144㎝,幅25㎝,厚21㎝ 文化5(1808)   歴史の道・ヘンロ道p208・250/WEB(空海の里) 移設、集約/中央と頂部の2ヶ所で斜めに折損→刻字の一部が欠損/簡易祠内 (正面)「…より、雪蹊寺へ/十一丁」、(左面)「願主/豫刕越…郡上村/徳右衛門」/頂部に「阿」と陰刻、その下に大師坐像を浮彫り/寛政6-文化11に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱(「文化…辰年」→文化5) 3
  高須大島の照蓮道標 たかす、
おおしま
高知市 <へんろ道> 石道標 高78㎝,幅21㎝,厚14㎝ 文化9(1812)   歴史の道・ヘンロ道p206   (正面)「(指差し)」、(○面)「世話人 徳嶌講中/願主 照蓮」/手印下に大師坐像を陽刻  
写真 一宮しなねの道標 いっく、
しなね
高知市 善楽寺<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高78㎝,幅23㎝,厚23㎝ 文化9(1812)   歴史の道・ヘンロ道p205 移設、集約 (正面頂部)「右/左」、(同中央)「編路道」、(同右)「城下通 五代山へ 百丁」、(同左)「五代山江 五拾丁」、(同最下部)「舩渡 壱ヶ所/木ちん宿有/舩渡 弐ヶ所有」 2
  大津の道標 おおつ 高知市 (田辺島)<へんろ道> 石道標 高60㎝,幅52㎝,厚31㎝ 文政3(1820)   歴史の道・ヘンロ道p206 原位置? (正面)「従是 五䑓山 三十丁/右 邊路道」 1 -
  春野町森山の道標 はるの、
もりやま
高知市 (新川)<へんろ道> 石道標(自然石) 高110㎝,幅92㎝,厚20㎝ 文政6(1823)   歴史の道・ヘンロ道p208 原位置? (正面)「是より、邊路道/清瀧寺へ 一里」 1
  仁井田の道標 にいだ 高知市 <へんろ道> 石道標 高93㎝,幅22㎝,厚14㎝ 天保11(1840)   歴史の道・ヘンロ道p208 折損→個人宅 (正面)「(○指差し)右 遍路道」 4
  弘岡井筋 ひろおか 高知市 仁淀川→新川川 運河、用水 長約4㎞(本線) 慶安5(1652)   WEB/市教委 C化/上記の切通し区間や下記の水閘はパイプ化 仁淀川下流に八田堰が設けられたため、上流からの物資を高知城下に輸送するためと灌漑を目的とし、野中兼山によって開削された運河/仁淀川→弘岡井筋→新川川→長浜川→浦戸湾→鏡川→高知城下のルートを辿った/主目的は灌漑用水で舟運はサブ的存在 3
写真 行当の切抜き ゆきとう 高知市 弘岡井筋 切通し(運河) 長40m(当初),
高10m,幅10m
慶安元(1648)頃 市史跡 春野町教育委員会/市教委 片側が道路の垂直なC擁壁 野中兼山の指示のもとで普請奉行・一木権兵衛(郷士から登用した人物)が施工した弘岡井筋の最初の難関工事(高さ11mの大岩の破砕) 3
写真 唐音の切抜き からと 高知市 新川川<鳥坂山> 切通し(運河) 長100-120m,
高30m,幅12-14m
慶安5(1652)頃 <春野町史跡> 春野町教育委員会 C堰が造られイメージが変わったが、岩肌が一部に残る 上記の弘岡井筋のもう一つの難関箇所 3
写真 新川のおとし しんかわ 高知市 弘岡井筋→新川川への接続部 水閘(傾斜水路) 長22m余,高低差2.7m,幅9m 慶安5(1652)以降 市史跡 春野町史p275
-278/市教委
保存状態良好/明治29年の資料に、「おとし」の構造を「大石木材を用い、下地を大石にて畳し、上を松板にて蒸廻す」と書いてあり現状と異なるが、それ以後に改修が行われた記録は残っていない/材木を200年以上流下させ続けていれば損傷が発生するため、江戸期に改修が行われた可能性は高い 野中兼山(アイディアの出所は不明)/仁淀川下流に八田堰を設けたため上流からの材木搬送ができなくなった→弘岡井筋~新川川経由で輸送するため、2つの水路を結ぶ「傾斜水路」を造った/仁淀川最下流に居住していた材木輸送関連の人を新川に移住させたのが17世紀後半なので、慶安5に八田堰が完成後早い時期に「おとし」もできたと推測できる/木材を流すだけなら八田堰に舟通しを設ければよいので、ルート変更には、仁淀川から太平洋を経由せずに高知城下まで木材を運ぶ方が良いとする判断も働いたと思われる/わが国で唯一の傾斜水路/最下部に大きな石が不規則に並んでいるが、かつては水位が高く水面下に隠れていたとされる 1 写真
写真 遅能の底圦り おそのう 高知市 諸木井筋/伊予川  石暗渠   慶安5(1652)以降   春野町教育委員会/市教委 大正時代に坑口を改修(1門→2門に増やし、構造もアーチに変更) 弘岡井筋の一支線・諸木井筋の下を伊予川が暗渠で抜く 3
写真 八田堰 はた 高知市 仁淀川→弘岡用水 取水堰
(湾曲斜め堰)
  承応元(1652)   WEB 空石→昭和期にC固定/左岸側は大改修→湾曲堰という印象が薄れた 野中兼山の築いた灌漑+舟運用の取水堰 3
写真 玉水町の水丁場標柱 たまみず 高知市 鏡川(左岸) 石標   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 近接移設? (正面)「從是西北一ノ丁場」、(裏面)「從是東二ノ丁場」/高知城下の洪水被害を防ぐため、寛文12(1622)に始まった水丁場制度により設けられた受け持ちの「丁場」の境界を示す標柱/鏡川沿いの堤防に観音堂~雑喉場の間を長さ141間(269m)の丁場に11分割された(一ノ丁場~十二ノ丁場、五ノ丁場はない)/享保年間までは木杭、それ以後、幕末までの間に石柱化された(時期不詳) 1
写真 上町の水丁場標柱 かみ 高知市 (2丁目)鏡川(左岸) 石標   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 原位置? (正面)「從是西 四ノ丁場」、(裏面)「從是東 六ノ丁場」/同上 1
写真 鷹匠町の水丁場標柱 たかじょう 高知市 (2丁目)鏡川(左岸) 石標   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 移設? (正面)「從是西 六ノ丁場」、(裏面)「從是東 七ノ丁場」/同上 2
写真 仁井田神社の玉垣碑 にいだ 高知市 仁井田神社 津波記念碑
(花崗岩)
高62㎝,21.5㎝角 安政4(1857)   南海地震の碑を訪ねてp104 原位置 (正面)「嘉永七寅十月末ゟ潮/くるい同十一月四日朝すヽ/なみ入同五日七ツとき過」、(左面)「大地震まもなく大潮/入向々潮くるい候時ハ/ゆ多んすへから須」 1
写真 稲荷神社の石柱碑 いなり 高知市 (うらど)稲荷神社 津波記念碑
(円柱、花崗岩)
高278㎝(うち台60cm),幅38㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp106 大正頃に現在の場所に移設 (正面)「安政元寅十一月五日大地しん津浪/後卋人大地しん有時津浪入と心/得へし 大黒屋嘉七良 建之」/紀年銘は最初に鳥居を寄進したときのもの。大黒屋嘉七郎は安政の地震で倒壊した稲荷神社の鳥居を貰い受けて碑文を刻み稲荷坂の越戸に建立。/赤い染料で刻字 2
  下山の石畳 しもやま 安芸市 (河野) 石畳道 長約100m 江戸期   市教委     2
  旧・河野池 こうの 安芸市 伊尾木漁港 <港> 長345m(計画) 嘉永2(1849)着工   市教委 昭和48に漁港として整備 郷士・久保長助が藩に願い出て着工した港湾開削→資金難のため中断→放置→掘った跡に水が溜まり河野池と呼ばれるように    
  弁天池 べんてん 安芸市 内原野公園 溜池   延宝年間(1673-81) ため池百選 WEB 堰堤改修 土佐藩家老・五藤家の5代当主・五藤正範が新田開発のために築造 2
写真 松本の真念道標1 まつもと 香美市 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高67㎝,幅15.5㎝,厚12.5㎝ 1680年代?   歴史の道・ヘンロ道p204・246 移設? (正面)「右 編ん路みち、願主/真念」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存)/17世紀の道標 2
写真 松本の真念道標2 まつもと 香美市 <へんろ道> 石道標 高47㎝,幅16㎝,厚13㎝ 1680年代?   歴史の道・ヘンロ道p204・246 移設?/上部欠損 (正面)「…路みち、願主/真念」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存)/17世紀の道標 4
写真 山田堰・跡 やまだ 香美市 山田堰記念公園<物部川> 取水堰
(湾曲斜め堰)
長327m→
東岸20m,西岸70m,高約1.5m
寛永16(1639)着工
寛文4(1664)竣工
県史跡 市教委(土佐山田町史p354
-355)
高水敷内の堰の一部を保存 野中兼山/現地の解説板にも、市の公式サイトにも着工は寛永16、完成は兼山死後の寛文4と書いてあるが、井筋はもっと前に機能しているので、25年もかかったかどうかには疑問が残る 3
写真 中井の井口・跡
(中川第二水門放水口)
なかゆ 香美市 山田堰記念公園<中井> 石樋門   寛永16(1639) 県史跡   昭和59に移設・部分復元 天井石に「山田郷井之口水道之開基/國主松平土左侍従源忠義/小倉少介/片岡加右衛門/安田四良左衛門/奉行/渋谷長右衛門/祖父江久右衛門/よこめ/仲嶋六兵衛/寛永十六年仲春如意珠日」と陰刻 2
  東の大井戸 ひがし 香美市 山田 石井戸   17世紀中頃 市史跡   覆屋を新設 野中兼山/山田野地に町づくりを行った時、水の便が悪く定住に困難があったため2つの井戸を掘った(東の井戸のみ残る) 1
  父養寺の道標1 ぶようじ 香南市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高85㎝,幅37㎝,厚24㎝ 安永6(1777)   歴史の道・ヘンロ道p204・245 原位置? (正面)「右 邊路道」 1
  父養寺の道標2 ぶようじ 香南市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高68㎝,幅62㎝,厚12㎝ 天明5(1785)   歴史の道・ヘンロ道p204・245 下部埋設 (正面)「是 邊…」 2 -
写真 野市町母代寺の徳右衛門道標 のいち、
ぼだいじ
香南市 大日寺・参道階段
<へんろ道>
石道標 高53㎝,幅20.5㎝,厚19.5㎝ 寛政9(1797)   歴史の道・ヘンロ道p204・245 原位置?/下部埋設ではなく、最初からこのサイズ→徳右衛門道標としては異例 (正面)「(梵字)右 邊路道」、(同右端)「古礼より 国分寺へ」、(同左隅)「壹り者ん」、(左面)「本願主 豫州越智郡德右衛門」/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒一連の建立が終わってからの後年の建立 1
写真 赤岡町の照蓮道標 あかおか 香南市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高57㎝,幅22.5㎝,厚14㎝ 文化7(1810)   歴史の道・ヘンロ道p204・244 移設? (正面)「(左指差し)」、(○面)「世話人 徳島□□/願主 照」/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻 2 -
  東野馬袋の照蓮道標 ひがしの、
うまぶくろ
香南市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高98㎝,幅21㎝,厚15㎝ 文化12(1815)   歴史の道・ヘンロ道p204・245 原位置? (正面)「(左指差し)四國中千躰大師」、(右面)「世話人 徳嶌講中/願主 照蓮」/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻 1
  東野石屋の照蓮道標 ひがしの、
いしや
香南市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高56㎝,幅21㎝,厚15㎝ 文化12(1815)   歴史の道・ヘンロ道p204・245 下部埋設 (正面)「(左指差し)四國中千…」、(○面)「世話人 …/願主 …/手印下を削り込んで大師坐像を陽刻 2 -
  西野東町の道標 にしの、
ひがし
香南市 <へんろ道> 石道標 高85.5㎝,幅24.5㎝,厚24.5㎝ 天保12(1841)   歴史の道・ヘンロ道p204   (正面)「(○指差し)右 へんろ道」、(右面)「是より大日寺 二十一丁」  
写真 手結港 てい 香南市   掘込み港(石護岸) 110m×47m 承応元(1652)   宰相野中兼山p269-271 修景整備 野中兼山・小倉弥右衛門/室津まで距離があるため高知との中間の港として開港(砂に埋もれていた旧港を改修)/先に改修工事に入った室津(1640)、津呂(1651)の経験を活かした兼山3つ目の掘込み港=室戸と高知の中間点/岩盤ではなく砂地への掘り込みが大半(工事は容易)/四周を取り囲む石垣の石材は岸本の脇の磯から舟で運ばれた 2 写真
写真 手結港の防砂堤 てい 香南市   石防波堤 長20m弱 承応元(1652)   宰相野中兼山p270-271 新堤防で囲まれて機能していない かつての手結港は遠く離れた物部川からの漂砂で埋設→物部川とは反対の南方から手結岬を廻り込んで寄せてくる漂砂を防ぐための措置 3
写真 野市の三叉 のいち、みつまた 香南市 上井川
→十善寺溝・町溝・東野溝
石分水(農業用)   正保元(1644) 市史跡   保存状態良好 野中兼山/物部川から引水した上井川の水を主要3支線に分水する施設/どこにでもありうそうだが、江戸期のまま現存する例はきわめて稀 1
写真 夜須観音の山 やす 香南市 観音山 津波記念碑
(灰色褐色砂岩)
高160㎝,幅118㎝,厚50㎝ 嘉永7(1854)   南海地震の碑を訪ねてp94 原位置 (正面)「奉納延命十句観音經一百万邊也/附たり大変津波の記去る嘉永七寅為萬民安全長久/十一月四日早朝より地震致し夫より大潮一日ニ七十八度の/狂有之衆人只不思義と怪ぶ斗也翌五日晴天ニして/暑さ夏炎の如く同日夕七ッ時大地震天地も崩るゝ如く/老若男女大ニ驚蚊の鳴如く騒き立同日入頃一番波打/入り當西町ゟ東へ打流し諸人是又驚有合之食物着/用手毎ニ引提け此山上へ持運数百人相助り実ニ當山は/命山と永賞致す也二番波少し波間有之其時大/汐沖へ引取事二三十町斗夫より三番波狂之/五ツ時打入り一度ニ家蔵流失致す跡白濱と/相なり目も當てられぬ如く也旦註し/天変有間式事斗かたく/宝物家ニ残す共再我/家に帰るへからす/必ず」(緑字は異体字) 1
  西山観音寺の地蔵台座碑 にしやま 香南市 西山観音寺 津波記念碑
(淡灰色花崗岩)
高68㎝,幅37㎝,厚33.5㎝ 安政3(1856)   南海地震の碑を訪ねてp93 保存状態良好 (右面左端)「津波入此㕝印」 1 -
写真 飛鳥神社の徴毖 あすか、
ちょうひ
香南市 (岸本)飛鳥神社 津波記念碑
(自然石、灰色砂岩)
高217㎝,幅163㎝,厚80㎝ 安政5(1858)   南海地震の碑を訪ねてp96 保存状態良好 (正面上段横書き)「徴毖」、(正面下段縦書き)「諺に由断大敵とハ深意あることにて仮初ニ/おもふへからす安政元寅年十一月の事なりき朝五時/頃常に覚へむ程の地震して岸本の浦塩のさし引き十/間余の違あり又手結の湊内も干揚りて鰻をうることなと/夥し同日両度小震するしかハあれとさはかり驚く人もあらさり/しを翌五日八時過大に振動すること三度七時過/大雷鳴の如きどろ〱と 響くとひとしく大地 震すこハ/いかにと衆人驚く程こそあれ家蔵高塀器 物の崩れ破る﹅/音さらニいふ斗なし迯んとすれとも目くるめ きて自由ならすほう〱/家を出けるに津波打来りて當地は徳善 甼より北の田中赤岡ハ/西濱並松の本吉原ハ庄屋の門まてに及ひ又川尻の波ハ赤岡/神輿休のほとりまてにいたり古 川堤夜須堤も押切られて夜須の/町家なと過半流失すかくて人〱ハ老を扶け幼を携へ泣叫ひつ﹅/王子須留田又ハ平井大龍 寺の山へと逃登りて命助かりぬ此時國/中の官舎民屋夛く轉倒し 就中髙知下町幡夛中村ともに/失火ありて一円焼失し凢て怪我 横死何百人といふ事なし幸甚な/るかな此地ハ 神祗の加護によりて一人の怪我もなく彼山〱ニ/己家をかまへ日を経るに随ひて震もいさゝか穏に成しかハ惠あまねき大御代/の忝を悦つ﹅皆己か家に帰りきぬ抑宝永四年の大變ハ今をさること/百四十八 年になりぬれハ又かゝる年敉にハ必變事の出こん/なといふ人も ありなめと世變は/いつあらん事/豫めしりかたし/されと常ニ/菟あらん時は角と用心せハ/今其變にあひても/狼狽せさるへし/今の人々 寶永の變を昔はなしの如く/おもひて既に 油断の大敵にあひぬさるによりて/後世の人々今の變事を又昔咄の如くおも/ひて油断の患なからしめんためことのよしを石ニゑりて此/御社と共に動きなく萬歳に後に傳へんとふるひおこ/したるハ里人が誠心のめてたき限りにそありける 千規/たま〱高見の官舎に袛役して 倶に彼の變/事に逢いたれハ其よし書て よと人々の乞ふニまか/せてかくハ記し待りぬ穴賢/安政五年戊午季秋穀旦 徳永千規 誌/前田有稔 書/澤村虎次 刻」/宝永地震の言い伝えを昔話として油断したために、大きな被害が出たことを後世への戒めとしてこの碑を造ったと書かれている/石の凹部の曲面にまで掘り込まれているため正面から見ただけでは全文を知ることはできない 1 写真
写真 津蔵渕の徳右衛門(?)道標 つくらぶち 四万十市 伊豆田坂麓<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高56㎝,幅24㎝,厚22㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p212・269 移設/下部欠損(重要な刻字は一切喪失) (正面像下)「是…/足…」、(○面)「願主…」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/蒲鉾型ではあるが、「徳右衛門」「越智」「朝倉」など刻字は一切なく、「徳右衛門道標」とは断定し難い/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つか?) 5 -
写真 伊豆田坂峠の道標 いづたざか 四万十市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高130㎝,幅40㎝,厚13㎝ 嘉永4(1851)   歴史の道・ヘンロ道p212 原位置? (正面)「(梵字)足摺山へ/七里二十丁」、(○面)「五社へ 十三り半」 1
写真 麻生堰 あそう 四万十市 後川→四ヶ村溝 取水堰
(湾曲斜め堰)
長136m,幅12m 寛文2(1662) 市史跡 宰相野中兼山p373-374 C補強されているが、石積みも視認可能 野中兼山/兼山由来の湾曲斜め堰の中で唯一往時の形態を保持/現地では「糸流し」とも言われているが、水理学的に見ると、構造上敢えて不利とも思われる逆アーチ構造は、川に生まれる自然な堆積(下流に向かって弧を描く場合がある)上に堰を構築した結果だと推測できる 3 写真
写真 下田住吉神社の震災碑 しもだ 四万十市 (水戸) 津波記念碑
(褐色砂岩)
高77㎝,幅85㎝,厚26㎝ 安政6(1859)   南海地震の碑を訪ねてp122 刻字が磨耗して読解困難 (正面)「安政元/地震潮□□□□□□□/ころ大地震凢一時斗り/□□□□□し人いたみ/浪入□□□□□□凢二町歩大/□□□□□□□□□□/又潮の狂ひを遣置るへし右□□後世心得/ため□□爲す尚くわしき/住吉社内に納 筆記/安政六未四月日」 3
  御化粧の井戸 おけしょう 四万十市 一条神社 石井戸   15世紀中頃 市史跡 WEB 保存状態良好 土佐一条家(1468-1599)ゆかりの井戸/直方体の石の中央を円筒状にくり抜いた井戸枠/女官・侍従たちが化粧に使用したことから命名 1
写真 平田町中山の真念(?)道標 ひらた、
なかやま
宿毛市 延光寺・付近<へんろ道> 石道標 高29㎝,幅16㎝,厚14㎝ 1680年代?   歴史の道・ヘンロ道p217 移設、集約/上部欠損/基部露出/磨耗大 (正面)「…みち」/真念道標とされているが、名前はもちろん、定番の「南無大師遍照金剛」や「為父母六親」もなく、なぜ真念道標とされているのか不明/17世紀の道標 5 -
  小筑紫町湊の道標 こづくし 宿毛市 観音堂<へんろ道> 石道標 高73.5㎝,幅20㎝,厚14.5㎝ 元禄4(1691)   歴史の道・ヘンロ道p217・282 移設? (正面)「遍んろミち 寺山江/これより ミきへ とをり」/17世紀の道標 2
  平田町戸内の地蔵道標 ひらた、へない 宿毛市 <へんろ道> 石道標(丸彫) 高57㎝,幅49㎝,厚47㎝ 享和3(1803)   歴史の道・ヘンロ道p217 「手差し」は追刻→追刻の時期が近代なら対象外 (台石正面)「(手差し)」/台石上に地蔵○像(蓮台)の丸彫を載せる/台石正面に「大願成就供養」と陰刻   -
写真 山奈町山田の道標 やまな、やまだ 宿毛市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高176㎝,幅59㎝,厚27㎝ 文政12(1829)   歴史の道・ヘンロ道p217・286   (正面)「(梵字)右 日本勧請始 金毘羅宮 廿丁/左 三拾九番寺山寺 六十五丁」、(同中央下部)「宮ヨリ打ヌケ 五十丁」  
写真 大深浦の国境石 おおぶかうら 宿毛市 <へんろ道> 境界石(尖頭角柱) 高190.5㎝,幅14
㎝,厚13.5㎝
江戸期   歴史の道・ヘンロ道p217 原位置 (正面)「従是東 土佐國」 1
  河戸堰 こうど 宿毛市 松田川 取水堰
(湾曲斜め堰)
長145m,幅25m
(石堰時代)
万冶元(1658)   市立宿毛歴史館 平成14にRC可動堰に改築(直線化)/右岸側の1スパンに石敷を残す 野中兼山・一木権兵衛/兼山の代表的な湾曲斜め堰 4
  宿毛総曲輪・跡 すくも、
そうくるわ
宿毛市 松田川 土堤防   万冶元(1658)   市立宿毛歴史館 川の堤防と化している(町を周回する部分は消滅) 野中兼山・一木権兵衛/宿毛を松田川の水害から守るため幡多の百姓を動員して構築/対岸の和田・坂ノ下が遊水地となった 3
写真 母島集落の石垣 もしま 宿毛市(沖の島)   石垣集落   江戸期   市立宿毛歴史館 保存状態良好 江戸初期の土佐藩にとって重大な国境紛争の地となった現・大月町柏島沖合いの小さな島の宇和島藩領にあった集落(島の北部)/黄色っぽい砂岩が特徴 1
写真 弘瀬集落の石垣 ひろせ 宿毛市(沖の島)   石垣集落   江戸期   市立宿毛歴史館 保存状態良好 江戸初期の土佐藩にとって重大な国境紛争の地となった現・大月町柏島沖合いの小さな島の土佐藩領にあった集落(島の南部)/白色っぽい砂岩が特徴 1
  角谷坂の石畳 かどや 須崎市 <へんろ道> 石畳道   江戸期?   歴史の道・ヘンロ道p256 保存状態良好   1
  浦ノ内灰方の地蔵道標 うらのうち、はいがた 須崎市 シワガ谷<へんろ道> 石道標(丸彫) 高約60㎝ 元文3(1738)   歴史の道・ヘンロ道p210・254 移設? (台石右面)「左ハ 遍んろ道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
  安和の地蔵道標 あわ 須崎市 <へんろ道> 石道標(丸彫) 高約60㎝ 明和4(1767)   歴史の道・ヘンロ道p211・257 移設(もと、焼坂峠) (台石正面)「是より一丁下に/大師の水有/久礼町迄 一里有」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 2
写真 安和の徳右衛門道標 あわ 須崎市 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高145.5㎝,幅25㎝,厚21.5㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p210・257 近接移設? (正面像下)「是より/五社迄、六里」、(左面)「願主、豫列越智郡/上村 徳右ェ門」/頂部、梵字下を四角に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 1
写真 西町の徳右衛門道標 にし 須崎市 大善寺(トイレ脇)
<へんろ道>
石道標(蒲鉾型) 高142㎝,幅25㎝,厚21㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)
→明治32(1899)
  歴史の道・ヘンロ道p210・256 移設(もと、一里塚)/明治期に追刻 (正面像下)「是より/五社迄、七里」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/徳右衛門の名がなく、明治32建立とあるが、下記「安和の徳右衛門道標」と同形であり徳右衛門道標とされている→『歴史の道』による推測/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)? 2
写真 神田の徳右衛門道標 こうだ 須崎市 新川橋元<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高125㎝,幅31㎝,厚20㎝ 享和3(1803)   歴史の道・ヘンロ道p210 移設(もと、桜川の渡渉地点?) (正面)「是与里/五社江、八里」、(左面)「願主 予刕越智郡上村/徳右ェ門」/頂部、梵字下に「南無大師」と陰刻→寛政6-文化4の期間内でありながら紀年銘があり、かつ、定番の大師像がない変り種/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 2
  下分乙の大師道標 すもぶんおつ 須崎市 (角谷)<へんろ道> 石道標 高64㎝,幅22㎝,厚16㎝ 文化11(1814)   歴史の道・ヘンロ道p210   (正面)「(○指差し)」/手印の下に大師坐像を陽刻  
  浦ノ内出見の道標 うらのうち、いずみ 須崎市 花山神社<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高75㎝,幅17.5㎝,厚17㎝ 天保10(1839)   歴史の道・ヘンロ道p210・254 移設 (正面)「(左手差し)ひだり へんろみち」、(○面)「従是 仁井田 五社迠 十一里」 2 -
写真 須崎寶永津浪溺死之塚 すさき 須崎市 大善寺墓地の下の道路際 津波記念碑
(灰色砂岩)
高238.5㎝ 安政3(1856)   南海地震の碑を訪ねてp112 保存状態良好 (正面)「寶永津浪溺死之塚」、(左面)「此塚ハ昔寶永四年丁亥十月四日大地震して津浪起り須崎の地にて/四百餘人溺死し池の面に流れ寄り筏を組か如くなるを池の南地に長き坑を/ニ行に掘り死骸を集め埋め在しを今度百五十年忌の弔に此處に/改葬するもの也其事を営まんとする折しも安政元年甲寅十一月/五日又大ゆりして海溢しけるか昔の事を傅聞且記録もあれハ人ヽ思ひ當りて/我先にと山林に迯登りけれハ昔の如く人の損しハ無りし也惟其中に舩に/乗り沖に出んとして逆巻浪に覆され三十餘人死たり痛ましき事也」、(裏面)「何なれは衆に洩て斯ハせしそと云に昔語の中に山に登り落くる石にうたれ/死し沖に出たる者恙なく帰りしと云事の有を聞誤認しもの也/早く出て沖にあるハしらす其時に当りて船出することハ難かるへし誡むへき/事にこそ将昔の人ハ地震すれハ迚津波の入る事を弁へず浪の高く/入來るを見るよりして迯出たれハおくれてかたの如き難に逢り哀/にも又悲まさらんや地震すれハ津波は起るものと思ひて油断ハすまし/き事なりされとゆり出すや否浪の入るにも非す少の間ハあるもの」、(右面)「なれハゆりの様を見斗らひ食物衣類等の用意して扨石の落さる高/處を撰ひて遁るへしさり迚高山の頂迄登るにも及ハす今度の浪も古市/神母の邊ハ屋敷の内へも入らす昔も伊勢か松にて敉人助かりしといへハ津浪/とてさのみ高きものにも非す是等百五十年以來二度迄の例しなれハ考にも成/へきなり今茲此営を成すの印旦後世若斯る折に逢ん人の心得にもなれ/かしと衆議して石を立其事をしるさんことを余に請ふ因て其荒増を/挙て為に書付る者也 安政三年丙辰十月四日古屋尉助識」 1
写真 須崎大善寺の津野地蔵台座碑 すさきだいぜん、つの 須崎市 大善寺 津波記念碑
(淡褐色花崗岩)
高161㎝,幅76㎝,厚75㎝ 元文4(1864)   南海地震の碑を訪ねてp116 移設、集約? (正面)「三界萬霊塔」、(左面)「寶永四丁亥年十月初四日大地震/加之洪波泝岡處多水災此洲﨑/邑亦須叟可憐爲荒原鳴呼時耶/業感耶溺死者男女始三百三十有」、(裏面)「一人爭先者亦入其數矣是歳當于/三十二年爲資於如上若干諸霊之/無上菩提於當邑扽鉢勸化經數月/以地藏大士慈容ニ尊造立之者也/伏願法界自他平等者也利益」 2
写真 須崎西台場・跡
(土佐藩砲台・跡)
すさき 須崎市 (中町2丁目) 台場(石塁) 長116m,砲7門 文久3(1863) 国史跡 市教委 保存状態良好 工事責任者:高岡郷郡奉行/文久3年7月16日着工、郡中に寄付を命じ、一戸三人役の賦役を課し、突貫工事で8月27日には3ヶ所の台場(須崎東・中・西)を完成→そのうち、最大規模の西台場が残る/弓形/大砲は実戦には使われなかったが、試射時の能力は低かった(飛距離200m) 2
写真 青龍寺の石階段 しょうりゅう 土佐市 青龍寺 石階段 170段 江戸期   WEB 保存状態良好   1
  高岡町の題目塔道標 たかおか 土佐市 清瀧寺<へんろ道> 石道標(自然石) 高85㎝,幅40㎝,厚25㎝ 正徳2(1712)   歴史の道・ヘンロ道p209 移設 (正面右)「左 清」、(同左)「右 青竜寺」/正面中央に「南無阿彌陀
」と陰刻、その下に蓮花を線刻
2
  高岡町の道標1 たかおか 土佐市 清瀧寺・登り口<へんろ道> 石道標 高54㎝,幅16.5㎝,厚17㎝ 宝暦12(1762)   歴史の道・ヘンロ道p209   (正面)「右 へんろ道」   -
写真 高岡町の徳右衛門道標 たかおか 土佐市 清瀧寺<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高130㎝,幅23㎝,厚21㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p209・252 移設 (正面像下)「是より/青龍寺迄、弐里半」、(左面)「願主 与州/徳右ェ門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
  高岡町の道標2 たかおか 土佐市 <へんろ道> 石道標 高147㎝,幅55㎝,厚30㎝ 文化5(1808)   歴史の道・ヘンロ道p209 原位置?/手印は追刻 (正面)「右 清瀧寺道/左 青龍寺道」 1
  宇佐町竜の道標1 うさ、りゅう 土佐市 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高115㎝,幅19.5
㎝,厚18㎝
文化11(1814)   歴史の道・ヘンロ道p210・253 原位置? (正面)「三十六番青瀧寺」、(右面)「従是 五社迠 十三里」/「文化甲戌」→文化11 1
  野尻の道標 のじり 土佐市 <へんろ道> 石道標 高78㎝,幅19.5㎝,厚13.5㎝ 文政3(1820)   歴史の道・ヘンロ道p209 原位置?/「右」は追刻? (正面)「(○指差し)右 遍路道」 1
  高岡町の道標3 たかおか 土佐市 清瀧寺<へんろ道> 石道標 高94㎝,幅28.5㎝,厚15.5㎝ 文政6(1823)   歴史の道・ヘンロ道p209 移設 (正面)「(○指差し)従是 清瀧寺へ 卄丁」 2
  渭浜の道標   土佐市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高70㎝,幅42㎝,厚16㎝ 天保2(1831)   歴史の道・ヘンロ道p210 移設 (正面)「(○手差し)八坂道」 2 -
写真 高岡町の道標4 たかおか 土佐市 三島神社・前<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高157㎝,幅35㎝,厚20㎝ 天保2(1831)   歴史の道・ヘンロ道p209 移設? (正面)「(左指差し)右 清瀧寺道」 2
  塚地峠の題目塔道標 つかじ 土佐市 <へんろ道> 石道標(自然石) 高90㎝,幅30㎝,厚36㎝ 弘化2(1845)   歴史の道・ヘンロ道p209 原位置? (右面)「青龍寺 一里」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻 1
写真 塚地峠の道標 つかじ 土佐市 <へんろ道> 石道標 高55㎝,15㎝角 嘉永元(1848)   歴史の道・ヘンロ道p209 移設(基部露出) (正面)「(左指差し)へんろ道」 2 -
写真 宇佐町竜の道標2 うさ、りゅう 土佐市 青龍寺<へんろ道> 石道標 高99㎝,幅21.5㎝,厚21㎝ 嘉永元(1848)   歴史の道・ヘンロ道p210 原位置?/中央で斜めに折損→修復 (正面)「(左指差し)當山/於く能/ゐんみち/女人きんせい 五丁」(=当山奥の院道)/女人禁制の道標 1
  宇佐町竜の題目塔道標 うさ、りゅう 土佐市 青龍寺<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高64.5㎝,幅18.5
㎝,厚17.5㎝
嘉永2(1849)   歴史の道・ヘンロ道p210・253   (正面頂部)「(左手差し)」、(同左)「是より 於くのいんへ 三丁」/正面中央に「奉寄進」と陰刻   -
  鎌田井筋 かまた 土佐市 仁淀川<へんろ道> 用水路 長47㎞ 万治2(1659)   宰相野中兼山p297-298 C改修/鎌田堰(直線斜め堰)は昭和8に撤去 野中兼山    
写真 岩戸の砂留 いわど、
すなどめ
土佐市   砂防堰堤   天保8(1837) 市史跡 市教委 保存状態良好 谷水を利用し紙を漉く農家が多かったため(和紙生産は藩の財源の1つ)、谷筋を保全するために構築/かつては各所に残っていたが昭和50の豪雨災害でほとんどが流失/全国的に見ても、年代の確定している江戸期の砂防堰堤は稀少 1
写真 萩谷名号碑 はぎたに 土佐市 萩谷 津波記念碑
(灰色砂岩)
高130.5㎝,幅133
㎝,厚153㎝
安政4(1857) 市史跡 南海地震の碑を訪ねてp108 保存状態良好 (正面)「南無阿弥陁佛/安政元甲寅歳十一月五日申の刻大地震日入/前より津浪大尓溢れ進退八九度人家漂流/残る家僅六七十軒溺死能男女宇佐福島を/合而七十餘人なりき都て宇佐の地勢ハ前高く/後低く東ハ岩崎西江福島の低ミより汐先迯/路を取巻故昔寶永の変丹も油断の者夥/敷流死能由今度も楚能遺談越信じ取あへ/須山手へ逃登る者皆恙なく衣食等調度し又ハ/狼狽て船尓のりなとせるハ流死の数を免連須/可哀哉其翌日ハ御倉開希て御救米頂戴し/凍餓尓至るものなく誠ニ難有 御仁沢下り希れ/ハ後代の変丹逢ふ人必用意なくとも早く山/の平らなる傍尓岩な幾所を択ひて逃よ可し且流失/能家材衣服等拾ひ得し人暫時内福尓似堂れとも間/もなく流行の悪病ニ染ミ悉皆なくな利しを眼/前見聞し多ると越告残し殊ニ両変溺死の人能/菩提越弔ん為尓登衆議志て此碑を立る/も能と云爾 安政丁巳十一月 卥邨畊助識」 1
  青龍寺国家繁栄碑 しょうりゅう 土佐市 独鈷山青龍寺・石段下 津波記念碑
(灰色硬質砂岩)
高75.5㎝,幅48.5
㎝,厚26㎝
文久3(1863)   南海地震の碑を訪ねてp110 保存状態良好 (正面)「嘉永七寅十一月五日申の時古今稀る、地震ありて城下を初め/郷村浦ヽ燒亡流損多し、/龍浦津浪池にたゝへ長衣衆の家一の汐になかれ二の汐に元の/礎にかへる皆家に不動尊の 御軆をあつかりけるゆえに/加護のなす處と今ミな不思儀思を成す/國家繁栄衆力一躰/爰に前の院主海法印雁木の破壊を修せんと/公に達せしか許したまふといへともならすして世を去り/たりとて志をつきて長男小女ニ至まて進めて石を運/功なり願なりぬ/文久三癸亥/正月日 某」 1
写真 宇津賀山頂の火立場 うつが、
ほたてば
土佐市 宇津賀山・山頂 狼煙場 内径1.9m,深1.1m 江戸期 市史跡 市教委 保存状態良好 異国船発見の情報を高知城に速やかに伝えるために43ヶ所造られた火立場の1つ(県内に2基良好に現存) 1
写真 下ノ加江の真念道標 しものかえ 土佐清水市 市ノ瀬橋・横
<へんろ道>
石道標(尖頭角柱) 高70㎝,幅19.5㎝,厚18㎝ 1680年代?   歴史の道・ヘンロ道p213 移設、集約 (正面)「右 てらやまみち 五里/左 あしすり山みち 七里」、(右面)「(梵字)南無大師遍照金剛/願主 真念」/へんろ道で最初に体系的に整備された道標群(200基余→36基現存)/17世紀の道標 2
  窪津の地蔵道標 くぼつ 土佐清水市 <へんろ道> 石道標(丸彫) 高68㎝,幅26.5㎝,厚19.5㎝ 元文元(1736)   歴史の道・ヘンロ道p215・272   (正面像下)「右 邊路道」/正面上部を地蔵坐像(蓮台)の丸彫に加工
(一体型のため台石という表現は避けた)
 
写真 以布利の地蔵道標 いぶり 土佐清水市 以布利港・登り口
<へんろ道>
石道標(舟型) 高141.5㎝(うち、台石26㎝),幅52㎝,厚25㎝ 宝暦4(1754)頃   歴史の道・ヘンロ道p214・271 原位置? (光背左上)「あしすりへ 三り五丁」、(台石○面)「是ゟ/あし/すりへ/三里/五丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)を陽刻/建立年は木食佛海が遍路に没頭していた時期 1
  松尾の地蔵道標 まつお 土佐清水市 (払川)<へんろ道> 石道標(丸彫)   宝暦6(1756)頃   歴史の道・ヘンロ道p216   (台石○面)「川わたり/向ニ道二ツ/しほひ/にハうみ/ハたを通/しほ満/又大浪/ニハ山/道よし」/施主の新屋善蔵が近くで宝暦6に供養塔を建立している  
  足摺岬の地蔵道標 あしずり 土佐清水市 (赤碆)<へんろ道> 石道標(丸彫) 高約150㎝ 宝暦7(1757)   歴史の道・ヘンロ道p215・273 原位置?/地蔵の首欠損 (台石正面右)「右 へんろみち」、(同左)「左 白王山ミち」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる/本来は打戻で白皇山を指しており左右は改刻 3
  下ノ加江の地蔵道標 しものかえ 土佐清水市 (市野々)地蔵堂
<へんろ道>
石道標 高67.5㎝,幅27.5
㎝,厚17.5㎝
安永2(1773)   歴史の道・ヘンロ道p213   (正面像下)「これより/あしずりさんへ/六り十八丁」/正面頂部に地蔵坐像を陽刻   -
写真 足摺岬の徳右衛門道標 あしずり 土佐清水市 金剛福寺・門前
<へんろ道>
石道標(尖頭角柱)   寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p215・273 原位置? (正面像下)「是ヨリ/寺山迠、十二里」、(左面)「願主、豫州越智郡/徳右衛門」/頂部、梵字下を四角に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 1
  大岐の地蔵道標 おおき 土佐清水市 <へんろ道> 石道標(丸彫)   文政元(1818)   歴史の道・ヘンロ道p34・214 原位置 (台石右面)「是從 足摺山江 四里八町/此従 市之瀬江 三里/ひしほハ はまみち/みちしほハ おかみち」→干潮と満潮でルートが違っていた/台石上に地蔵○像の丸彫を載せる 1
  下の加江の道標 しものかえ 土佐清水市 <へんろ道> 石道標 高136㎝,幅22.5
㎝,厚19㎝
天保5(1834)   歴史の道・ヘンロ道p213 移設 (正面)「是ヨリ 足摺山江 三十丁」 2
写真 大岐の道標 おおき 土佐清水市 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高87㎝,幅23.5㎝,厚20㎝ 天保5(1834)   歴史の道・ヘンロ道p214・271   (正面)「是ヨリ/足摺山江 四里」  
  下ノ加江の道標1 しものかえ 土佐清水市 市野瀬三原分岐
<へんろ道>
石道標(自然石) 高138㎝,幅49㎝,厚38㎝ 弘化2(1845)   歴史の道・ヘンロ道p213・269 移設、集約/中央で水平に折損→修復 (正面)「(梵字)あしずり/三百五十丁(左指差し)」、(同○)「五社 十四り」、(○面)「(○手差し)寺山へ/五り」/美作の修験・玉林院宗英が発願して「足摺七里の打戻」区間に建てられた道標群 2
写真 下ノ加江の道標2 しものかえ 土佐清水市 (市野瀬)真念庵
<へんろ道>
石道標(自然石) 高82㎝,幅86㎝,厚20㎝ 弘化2(1845)   歴史の道・ヘンロ道p213 移設 (正面)「是よ里/足摺山江/三百四十九丁」/美作の修験・玉林院宗英が発願して「足摺七里の打戻」区間に建てられた道標群 2
  下ノ加江の道標3 しものかえ 土佐清水市 (市野々)<へんろ道> 石道標(自然石) 高103㎝,幅25㎝,厚50㎝ 弘化・嘉永年間(1844-54)   歴史の道・ヘンロ道p213・269   (正面)「(梵字)あしずりへ/三百卄一丁、作刕大先達/玉林院」/美作の修験・玉林院宗英が発願して「足摺七里の打戻」区間に建てられた道標群→「玉林院」の名が刻まれた稀な事例  
写真 下ノ加江の道標4 しものかえ 土佐清水市 (市野瀬)真念庵・石段下
<へんろ道>
石道標(自然石) 高129㎝,幅28㎝,厚44㎝ 嘉永元(1848)   歴史の道・ヘンロ道p213・269 原位置? (正面)「(梵字)あしずりへ/七り/此うへ(左指差し)あん」/美作の修験・玉林院宗英が発願して「足摺七里の打戻」区間に建てられた道標群 1
  足摺岬の道標 あしずり 土佐清水市 (新改)<へんろ道> 石道標(自然石) 高130.5㎝,幅83
㎝,厚31㎝
嘉永2(1849)   歴史の道・ヘンロ道p214   (正面)「(梵字)二里卅丁」/美作の修験・玉林院宗英が発願して「足摺七里の打戻」区間に建てられた道標群  
  中浜の地蔵道標 なかのはま 土佐清水市 (東谷)<へんろ道> 石道標(丸彫) 高約100㎝ 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p216・274   (台石正面)「これより/月山へ/七里十八丁」/台石上に地蔵坐像(蓮台)を載せる/「舛屋/吉左右衛門立」→「舛屋…」と氏がないので江戸期  
写真 三崎の義倉 みさき、
ぎそう
土佐清水市 四国村(香川県高松市) 郷倉(木造瓦葺) 桁行10.9m,
梁間5.5m
文政2(1819)
→昭和15まで使用
市有形
/国登録
WEB 四国村へ移設 大庄屋・沖市左衛門が創建した備荒施設/いわゆる「社倉米」的な側面をもつ郷倉→社倉米は藩が行う米の農民への貸付だが飢饉時の農民救済も行う、郷倉は飢饉用の米の備蓄 3
写真 窪津の鯨供養塔 くぼつ 土佐清水市 海蔵院 石碑(道標兼)
(漁業遺産)
高約110㎝ 文化9(1812)   歴史の道・ヘンロ道p215・272 保存状態良好 (台石正面中央)「爲鯨供養也」、(同正面右)「(右指差し)へんろみち」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 1
写真 清水中浜峠の池家墓碑 しみず、
なかのはま
土佐清水市 中浜峠・共同墓地 津波記念碑
(灰色砂岩)
高97㎝,幅90㎝,厚85㎝ 安政2(1855)   南海地震の碑を訪ねてp125 移設、集約 (正面)「嘉永七年寅十一月五日申ノコク大地/南無阿弥陀佛/震静否浦々大潮入流家死人夥シ」、(左面)「前日ヨリ潮色にごり津波入並ニ井ノ水/にごる或ハ干かレル所モ有兼テ心得ベシ/是時諸人之悲歎盡言語仍而爲/後世謹建之中濵浦池道之助清澄」、(裏面)「于時安政二年/乙卯三月建之/池先祖墓所」、(右面)「寶永四年亥十月四日未ノ刻大地震静否浦々/大潮入コト三度流家死人夥シ翌子ノ年/中少々ノ地震タヱス大地しんの時火ヲけし/家ヲ出ルコト第一也家にしかれ焼死者多」/墓石の欠損部分は池家に残る『今昔大変記』文中に記載されていたものから推測 2
写真 清水中浜港の地震碑 しみず、
なかのはま
土佐清水市 ジョン万次郎記念碑・後 津波記念碑
(灰色砂岩)
高93.5㎝,幅62㎝,厚59㎝ 安政2(1855)   南海地震の碑を訪ねてp124
/WEB
移設 (右面)「嘉永七甲寅十一月大地震靜否大潮四/五度入ル高サニ二丈斗リ諸國人多死ス」(正面)「安政ニ夘亗/浦中安全講中/吉日」(左面)「翌夘ノ年中少々ノ地震不絶」(下段)「中之/濱浦」 2
写真 三崎の十字橋碑 みざき 土佐清水市 三崎浦 津波記念碑
(褐色砂岩)
高187㎝,110㎝角 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp126 原位置? (正面)「十字橋」、(右面)「嘉永七寅十一月五日大地震/宮崎林右エ門/否大汐火けし家出コト、第一也/同苗友三郎」 1
  三崎浦の震災供養石仏 みざき 土佐清水市 三崎浦 津波記念碑
(灰褐色砂岩)
高127㎝,幅58㎝,厚83㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp127 原位置? (北側の像の右側)「嘉永七甲寅/十一月五日七ツ時大地しん/直に大汐入川東路田中/のよこ道西路たか佛道限」 1
写真 五味八幡宮の地震碑 ごみ 土佐清水市 下ノ加江 津波記念碑 高95㎝,幅47㎝,厚17㎝ 江戸期   四国災害アーカイブス 移設(昭和31 トンネル工事のため) (正面)「頃ハ永七寅年十月与里潮久るひ/十一月四日すなみ來り五日大地志ん/間もな久大志本入來る向潮/久るひ候時ハ大へんと古侶に/用心すへし」(緑字は異体字) 2
  鹿島砲台・跡 かしま 土佐清水市 鹿島神社本殿・南 台場(石塁) 深2.5m,幅6.5m,奥行15m 天保8(1837) 市史跡 WEB 火薬庫跡が残る 文政8年幕府の「異国船打払令」によって、土佐藩在役郷士等が港口に向けて構築した堀切状大筒場の壕/『鹿島神社記録』に、天保13(1842)年5月に13代藩主・山内豊熈が砲台の射的を巡覧したと記されている 3
  下茅浦火立場・跡 しもかやうら 土佐清水市   狼煙場 2m四方 享保7(1722)   WEB 基壇石の上に高さ1.5mの石積みが残る 異国船発見の情報を高知城に速やかに伝えるために43ヶ所造られた火立場の1つ(県内に2基良好に現存) 1
  瓶岩のハンド岩付近の石畳 かめいわ 南国市 <北山道> 石畳道 長2m,幅1.5m     歴史の道・参勤交代北山道p36       -
  国分の道標 こくぶ 南国市 国分寺<へんろ道> 石道標(自然石) 高84㎝,幅50㎝,厚43㎝ 元禄2(1689)   歴史の道・ヘンロ道p205/WEB 移設 (正面)「これよりみき へんろみち」/17世紀の道標 2
写真 下末松の道標 しもすえまつ 南国市 <へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高92㎝,22㎝角 元文3(1738) 市史跡 歴史の道・ヘンロ道p205・246 移設? (正面)「従是右 國分寺 邊路道」 2
写真 国分の徳右衛門道標 こくぶ 南国市 国分寺・山門裏
<へんろ道>
石道標(尖頭角柱) 高92㎝,19㎝角 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p205・246 移設 (正面)「(梵字)右 一ノ宮へ 壹里半」、(右面)「(左指差し)」、(同右)「願主 豫刕越智郡朝倉/上村 徳右衛門」、(同左)「三十バン」〔追刻〕/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
  国分の地蔵道標 こくぶ 南国市 <へんろ道> 石道標(丸彫) 高191㎝(うち、塔身116㎝) 文化7(1810)   歴史の道・ヘンロ道p205   (基壇正面)「(手差し)」、台石上に地蔵立像(蓮台)の丸彫を載せる/台石正面に「十界平等/令灋久住」と陰刻  
  西山の大師(?)道標 にしやま 南国市 <へんろ道> 石道標 高63㎝,21㎝角 文政13(1830)   歴史の道・ヘンロ道p205   (正面)「是西分寺 十六丁/是大日寺 一里廿丁」/正面頂部に大師坐像(?)を陽刻   -
  十市の道標 とおち 南国市 (八丁)<へんろ道> 石道標(自然石) 高62㎝,幅37㎝,厚47㎝ 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p207   (正面)「(○手差し)へんろミち」/「ミち」の標記は江戸期   -
写真 禅師峰寺の地蔵町石
(一丁)
ぜんじぶ 南国市 禅師峰寺・南参道
<へんろ道>
町石(舟型) 高68㎝(うち、台石19㎝),幅23㎝,厚13㎝ 文化11(1814)   歴史の道・ヘンロ道p207 移設 (光背上)「(梵字)一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 2
  禅師峰寺の地蔵町石
(三丁)
ぜんじぶ 南国市 禅師峰寺・南参道
<へんろ道>
町石(舟型) 高60㎝(うち、台石15㎝),幅21㎝,厚10㎝     歴史の道・ヘンロ道p207   (光背上)「(梵字)三丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 1
  奈路の掘割 なろ 南国市   素掘トンネル
(水路)
長55.82m 嘉永2(1849) 市史跡 WEB 現役/上流側一部改修/下流側はそのまま 藩政時代この地を領していた桐間氏の命で、川村泰四郎・代七父子が土工頭しげじを中心に施工/中谷川の水を隧道を穿ち奈路に引くことで水田を開いた 1
  前浜砲台・跡 まえはま 南国市   台場(石塁)   安政元(1854) 市史跡 市教委 砲台の台座が残る 郷士・大原里勝が前浜台場係を命じられて築造 3
写真 元の道標1 もと 室戸市 (岩戸)<へんろ道> 石道標(自然石) 高160㎝,幅125㎝,厚42㎝ 貞享2(1685)   歴史の道・ヘンロ道p201 移設 (正面中央)「従是 西寺八町 女人結界」、(同最下部右)「右 寺道」、(同左)「左 なた道」/西寺は金剛頂寺の俗称で江戸時代には女性の参拝を許さなかった/17世紀の道標/真念道標と同時期であり、真念もしくは同行者の関与が想定できる(左記文献p226) 2
  佐喜浜町の地蔵道標 さきはま 室戸市 (入木)<へんろ道> 石道標(舟型) 高131.5㎝(うち、台石47.5㎝),幅54.5㎝,厚48㎝ 宝暦4(1754)頃   歴史の道・ヘンロ道p200 国道脇海側の植え込み (光背右?)「是ゟ/さきのはまへ 一り半/のねへ 二り半」、(梵字)(地蔵菩薩立像)/建立年は木食佛海が遍路に没頭していた時期 2
  佐喜浜町の阿弥陀如来像道標 さきはま 室戸市 (都呂)<へんろ道> 石道標(舟型) 高78㎝,幅40㎝,厚20㎝ 宝暦4(1754)頃   歴史の道・ヘンロ道p201   (光背右)「左 へんろ道」/(梵字)(阿弥陀如来立像)/建立年は木食佛海が遍路に没頭していた時期  
写真 元の徳右衛門道標 もと 室戸市 (乙)金剛頂寺<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高162㎝,幅25㎝,厚22㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p202・235 移設 (正面像下)「是ヨリ/神峯迠、六里」/(左面)「願主、豫州越智郡/徳右衛門」/頂部、梵字下を隅丸型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 室戸岬町の徳右衛門道標 むろとみさき 室戸市 最御崎寺<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高146.5㎝,24.5㎝角 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p201・234 移設 (正面像下)「是ヨリ/津寺迠 一里」、(左面)「願主 豫列越智郡 徳右衛門」/頂部、梵字下を光背型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 室津の徳右衛門道標 むろつ 室戸市 津照寺・前<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高122.5㎝,幅24
㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p201・235 移設、集約 (正面像下)「是ヨリ/西寺迠、一里」、(左面)「願主/豫列越智郡/徳右衛門」/頂部、梵字下を四角に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 佐喜浜町の徳右衛門道標1 さきはま 室戸市 (入木)仏海庵・前
<へんろ道>
石道標(蒲鉾型) 高102㎝,幅25㎝,厚22㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p201・230 移設、集約/前面・左面に障害物/上部の像の部分で折損→修復 (正面像下)「是より/東寺迄、五」、(○面)「願主 与 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を浮彫り/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 佐喜浜町の徳右衛門道標2 さきはま 室戸市 国道交差点<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高107.5㎝,幅23
㎝,厚21㎝
寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p201・231 移設(もと、尾崎?)/中央で折損→そのまま放置 (正面像下)「是より/東寺迄、四里」、(左面)「願主 与列 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を浮彫り/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 3
写真 佐喜浜町の徳右衛門道標3 さきはま 室戸市 (鹿岡鼻)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高74㎝,幅24㎝,厚22㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p201・232 移設/下部欠損/刻字が磨耗 (正面像下)「是よ…/東寺…」、(○面)「願主 与…」/頂部、梵字下に大師坐像を浮彫り/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 4 -
写真 羽根町の徳右衛門道標 はね 室戸市 (西の浜)<へんろ道> 石道標(駒型) 高165㎝,幅31㎝,厚23㎝ 文化9(1812)   歴史の道・ヘンロ道p202・237 移設/最下部C埋設 (正面像下)「神峯麓江 三里半」、(同像下右上隅に小さく)「かうのみねふもと」、(右面)「右 へんろ道」、(同下部)「願主/豫列越智郡/徳右衛門」/頂部を駒型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒一連の建立が終わってからの後年の建立 2
  元の道標2 もと 室戸市 (乙)金剛頂寺<へんろ道> 石道標(自然石) 高75㎝,幅42㎝,厚33㎝ 嘉永6(1853)   歴史の道・ヘンロ道p202 移設 (正面)「(○指差し)納大坊へ出ル」(緑字は異体字) 2 -
  元の道標3 もと 室戸市 (向江)<へんろ道> 石道標(自然石) 高100㎝,幅48㎝,厚20㎝ 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p202   (正面)「へんろミち/はまへでる」/「ミち」の標記は江戸期の可能性  
  元の道標4 もと 室戸市 (乙)金剛頂寺・石段下
<へんろ道>
石道標(舟型) 高115㎝,幅32㎝,厚16㎝ 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p202   (正面)「(指差し)おんなみちひだり」/金剛頂寺は江戸時代には女性の参拝を許さなかった→『歴史の道』による推測  
  最御崎寺の地蔵町石
(一丁)
ほつみさき 室戸市 最御崎寺参道→境内 町石(舟型) 高51.5㎝,幅26㎝,厚17㎝ 明和5(1768)   歴史の道・ヘンロ道p201 移設/全4基 最御崎寺の地蔵町石は、すべて境内に移設されている/(光背頂部)「一丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3 -
  最御崎寺の地蔵町石
(二丁)
ほつみさき 室戸市 最御崎寺参道→境内 町石(舟型) 高54.5㎝,幅25㎝,厚13.5㎝ 明和5(1768)   歴史の道・ヘンロ道p201 移設 (光背像下)「二丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3 -
  最御崎寺の地蔵町石
(四丁)
ほつみさき 室戸市 最御崎寺参道→境内 町石(舟型) 高53.5㎝,幅26㎝,厚16㎝ 明和5(1768)   歴史の道・ヘンロ道p201 移設 (光背像下)「四丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3 -
  最御崎寺の地蔵町石
(五丁)
ほつみさき 室戸市 最御崎寺参道→境内 町石(舟型) 高55㎝,幅22.5㎝,厚16.5㎝ 明和5(1768)   歴史の道・ヘンロ道p201 移設 (光背像下)「五丁」/光背中央に地蔵立像を陽刻 3 -
写真 室津港 むろつ 室戸市 室津港 掘込み港   慶安3(1650)   宰相野中兼山p208-209,257
/市教委
掘込み部、出入口の堤防ともC改修/ごく一部に石積を残す 寛永7(1630)、津呂の開削にあたっていた最蔵坊(石見出身の武将→僧侶→室戸岬先端にある空海ゆかりの最御崎寺を再興)が、第2代藩主・山内忠義に呼ばれ室津入口のサンヨ碆〔はえ〕の除去を依頼されたことに端を発する=港口の大石がなくなり舟の通航が可能となった/野中兼山による最初の改修は寛永17(1640)だが、寛永20に荒天で室津に緊急避難した山内忠義が座礁の危険性を感じたことから改善命令→慶安3(1648)まで改修が続けられる/藩財政補助のための木材売却、御用材の提供にあたり安全な輸送を確保するための避難港的な役割もあったとされるが文献上の証拠はない 3
写真 津呂港 つろ 室戸市 室津岬漁港 掘込み港   寛文元(1661)   宰相野中兼山p208,369-373
/市教委
掘込み部、出入口の堤防ともC改修 元和4(1618)、最蔵坊(同上)が第2代藩主・山内忠義の支援を受け開削を開始/岩盤を掘削して港を掘り込む難工事⇒兼山が記したとされる文「石地嶮巖にして寸土無く細砂無く、労費の大、事功の難たる所以也」/室津と津呂は港口間が2.7㎞しか離れておらず、ともに西南西に開いている(西と南、西と東と書いてあるのは間違い)⇒2つの港が必要であった合理的な理由が分からない⇒新田開発と異なり築港は藩の財政の悪化要因となる 4
  佐喜浜港 さきはま 室戸市 佐喜浜港 掘込み港(?)   江戸中期?   市教委 C改修 寛文3(1663)に兼山によって開設と書いたWEBもあるが、一次史料にそうした記載はないし、寛文3は兼山が弾劾→奉行職(筆頭家老)剥奪→幽閉→死去の年なのであり得ない/近世に薪炭・樟脳などの積み出しに使われたことは確かなので、兼山後の築造と思われる 4
写真 三津漁港の小突堤 みつ 室戸市 三津漁港 石突堤   江戸期?   高知の近代化遺産p50 ほとんどが昭和戦前以降の施設 享保元(1716)に捕鯨組によって開設された捕鯨の拠点/小突堤は恐らく藩政期のもの 3
      (安芸)馬路村                    
写真 野根山街道の三里塚 のねやま (安芸)北川村 <野根山街道> 一里塚(2基)   江戸期   WEB 5基中、最も保存状態が良い 室戸岬の根元の標高1083mの装束峠を通る山稜ルートの街道沿いに残る5基の一里塚(一・二里は奈半利町)/基部を石積で補強 2
写真 野根山街道の四里塚 のねやま (安芸)北川村 <野根山街道> 一里塚(1基)   江戸期   WEB   同上/基部を石積で補強 2
写真 野根山街道の五里塚 のねやま (安芸)北川村 <野根山街道> 一里塚(1基)   江戸期   WEB   同上/土塚 3
      (安芸)芸西村                    
  芝の道標   (安芸)田野町 <へんろ道> 石道標(自然石) 高84㎝,幅56㎝,厚27㎝ 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p202・238 移設 (正面)「(右手差し)此手/四國中へ何百/有之 ミな/へんろ道」/正面右下に「肥前五嶋/福江/川のや/政吉」と刻字→「川のや…」と氏がないので江戸期/刻字の配置がユニーク 2
  伏越番所跡付近の切通し ふしごえ (安芸)東洋町 <へんろ道> 切通し 長18m,高3m 江戸期   歴史の道・ヘンロ道p100-102   東面の岩盤に「船バ村人中」と刻字 1
  宍喰峠の石畳 ししくい (安芸)東洋町 <へんろ道> 石畳道   江戸期   歴史の道・ヘンロ道p228        
  野根の地蔵道標1 のね (安芸)東洋町 水尻<へんろ道> 石道標(舟型) 高82㎝,幅41㎝,厚27㎝ 宝暦4(1754)頃   歴史の道・ヘンロ道p200   (光背右)「さきのはまへ 三り」/(梵字)(地蔵立像)/建立年は木食佛海が遍路に没頭していた時期 2
  野根の地蔵道標2 のね (安芸)東洋町 ゴロゴロ<へんろ道> 石道標(舟型) 高55㎝,幅39㎝,厚20㎝ 宝暦4(1754)頃   歴史の道・ヘンロ道p200   (光背右)「左リ へんろうみち」、(同左)「さきのはまへ 四リ」/(梵字)(地蔵立像)/建立年は木食佛海が遍路に没頭していた時期   -
写真 野根の徳右衛門道標 のね (安芸)東洋町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高77㎝?,幅38㎝,厚20㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p200・229 移設 (正面像下)「これゟ/東寺迠/八里」、(左面)「願主 与刕 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
  唐浜東谷の道標1   (安芸)安田町 <へんろ道> 石道標 高95㎝,幅42㎝,厚33㎝ 明和5(1768)   歴史の道・ヘンロ道p203   (正面)「右/従是神峯 三拾八丁」  
  唐浜東谷の道標2   (安芸)安田町 <へんろ道> 石道標(自然石) 高92㎝,幅41㎝,厚32㎝ 嘉永5(1852)   歴史の道・ヘンロ道p203・239 原位置 (正面)「右(左指差し)へんろみち」 1
  唐浜西北の道標   (安芸)安田町 <へんろ道> 石道標 高86㎝,幅25㎝,厚25㎝ 元治2(1865)   歴史の道・ヘンロ道p203・240   (正面)「左 神峯道」、(正面左隅)「是ヨリ本堂迠 三十」、(○面)「是ヨリ赤岡橋迠 六里」  
  野根山街道の一里塚 のねやま (安芸)奈半利町 <野根山街道> 一里塚(1基)   江戸期   WEB   室戸岬の根元の標高1083mの装束峠を通る山稜ルートの街道沿いに残る5基の一里塚(三~五里は北川村)/基部を石積で補強 2
  野根山街道の二里塚 のねやま (安芸)奈半利町 <野根山街道> 一里塚(1基)   江戸期   WEB   同上/土塚 3
  奈半利の金毘羅常夜灯   (安芸)奈半利町   石常夜灯(自然石)   江戸期     原位置? (竿正面)「金毘羅大權現」 1
写真 乙の徳右衛門(?)道標 おつ (安芸)奈半利町 弓場<へんろ道> 石道標(蒲鉾型)   寛政9(1797)   歴史の道・ヘンロ道p202・238 折損(上半分と下半分が別々に置かれている) (正面像下)「従是神峯寺江 二里」/頂部、梵字下に大師坐像を浮彫り/蒲鉾型ではあるが、「徳右衛門」「越智」「朝倉」など刻字は一切なく、「徳右衛門道標」とは断定し難い/主として寛政6-文化4に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門丁石」の1つか?)⇒徳右衛門とすれば建立年が刻字してあるものは2割弱 4
  八田二重堤防 はた (吾川)いの町 仁淀川 土堤防   承応元(1652)頃?   WEB 現在も二線堤として機能(改修の程度不明) 野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)→左欄の年代は、兼山施工の場合の想定年代(八田堰の完成と同時期と推定)/仁淀川氾濫の非常時に備え築かれた二重堤防/全国的にほとんど例がない 2
  泉の番所 いずみ (吾川)仁淀川町   番所 桁行4.01m,
梁間2.08m
享保8(1723) 町有形民俗 WEB 平成15改修(瓦葺→萱葺) 泉村の内番所(明治3まで通行人の取り締まりをしていた) 2
  清水の石畳 しみず (高岡)越知町 (横畠中)<松山街道> 石畳道 長約30m,幅1.8m 江戸期   山地亮孝 保存状態良好   1 -
  大平の石畳 おおひら (高岡)越知町 (大平)<森往還> 石畳道 長約20m,幅1.8m 江戸期   山地亮孝 保存状態良好   1 -
写真 焼坂の一里石(八里塚) やけざか (高岡)越知町 (横畠東)<松山街道> 一里石(自然石)   江戸期   山地亮孝 移設 高知からの里程が8里の場所に置かれた石 2
写真 黒森山の一里石 くろもりやま (高岡)越知町 (横畠中)<松山街道> 一里石(自然石)   江戸期   山地亮孝 原位置 高知からの里程が9里の場所に置かれた石 1
写真 合中 あうなか (高岡)越知町 町立横倉山自然の森博物館 標石(砂岩) 高25㎝,幅23.5㎝,厚24.5㎝ 文政12(1829)   山地亮孝 移設、展示〔写真は移設前〕 (正面)「合中」、(同左)「せわや紀/順藏」/上記「八里石」と「九里石」の中間に設置→毎年行われていたであろう道路整備の接点を兼ねていたと推測される 2
写真 古田井手 こた (高岡)越知町 (越知甲)木樽谷川 用水路 長約3㎞,幅約1.5m 享和・文化年間前半
(1801-10)
  山地亮孝 C改修 女川の百姓・所平が、土佐藩家老・佐川深尾に願い出て開削→名字帯刀を許された 3 -
  新田井手 しんた (高岡)越知町 (越知甲)木樽谷川 用水路 長約3㎞,幅約1.0-1.5m 文化7(1810)頃   山地亮孝 C改修 上記「古田井手」に続いて施工 3 -
  清水井手 しみず (高岡)越知町 (横畠北~中) 用水路 長約7㎞,幅約1.5m 文久2(1862)   山地亮孝 昭和33改修→平成に入りC大改修 開設時、土佐藩家老・佐川深尾から褒償米27俵が贈られた 4
  上井手 うわ (高岡)越知町 (野老山)加枝谷川 用水路 長約4㎞,幅約1.5m 江戸後期   山地亮孝 平成に入りホースで代替 棚田灌漑/途中6ヶ所に「落し」を設置 4 -
写真 中井手と取水地 なか (高岡)越知町 (野老山)加枝谷川 用水路、取水地 長約5㎞,幅約1.5m 江戸後期   山地亮孝 中井手は平成に入りホースで代替/取水もステンレスの箱に変更 棚田灌漑のための中井手と、その中間点にある飲料水の取水地〔写真〕 2-4 -
写真 熊秋の上井手と奥池 くまあき、
かみ、おく
(高岡)越知町 (野老山) 溜池、用水路 溜池:30m×50m
用水:長約1.5㎞,幅1-1.5m
江戸後期   山地亮孝   山腹の湧水を集めるための水源池〔写真は石堰堤〕と、用水路 2-4 -
写真 熊秋の下井手と溜池 くまあき、
しも
(高岡)越知町 (野老山) 用水路、溜池 用水:長約1.5㎞,幅0.5-1.5m,
溜池:30m×30m
江戸後期   山地亮孝 平成に入りホースで代替 3.5㎞の用水路〔写真は水路のホース〕と、途中に設けられた溜池 2-4 -
  今成堤防 いまなり (高岡)越知町 (今成)仁淀川 石堤防   文明5(1473)以降   山地亮孝 近・現代に大幅な改修 文明4の仁淀川の大洪水で今成集落が押し流されたため、本流沿いに築堤 4 -
  文徳堤防 ぶんとく (高岡)越知町 (越知丙)坂折川 堤防   文明8(1476)   山地亮孝 明治26・39に決壊し復旧 守護代・中山信康の文徳島開田に伴うもの 2 -
  鎌井田西ノ久保堤防
(ハネ)
かまいだ、
にしのくぼ
(高岡)越知町 (鎌井田)仁淀川 堤防   承応3(1654)頃   山地亮孝   野中兼山の指導を仰いだとされる/集落前の川原を守り、集落下端にある十艘ヶ岩での舟の遭難をなくする目的で、仁淀川本流の水勢変更のため設置 2
  宇治谷川の一枚大石橋 うじたに (高岡)佐川町 加茂海津見神社
<松山街道>
石桁橋 長4m 嘉永4(1851) 町有形   移設 巨大な自然石の一枚岩(石の側面に「嘉永四年辛亥春功」の刻字) 2
  片坂の石畳 かたさか (高岡)四万十町 <へんろ道> 石畳道       歴史の道・ヘンロ道p261     2 -
  東川角の道標 ひがしかわづの (高岡)四万十町 (計り場)<へんろ道> 石道標 高108㎝,18㎝角 宝暦8(1758)   歴史の道・ヘンロ道p211 原位置? (正面)「左 へんろみち/従是四丁計行/子々崎村有渡舩/邊路為信施渡之」→善意の渡船提供 1
写真 金上野の徳右衛門道標 きんじょうの (高岡)四万十町 地蔵堂・前<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高121㎝,幅24.5
㎝,厚24㎝
享和3(1803)   歴史の道・ヘンロ道p212・261 原位置? (正面像下)「是ヨリ 足すり迠 廿里」、(左面右)「本願主 徳右衛門」/頂部を隅丸型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 1
写真 仕出原の徳右衛門道標 しではら (高岡)四万十町 五社・前<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高128㎝,幅24㎝,厚23.5㎝ 享和3(1803)   歴史の道・ヘンロ道p211・260 移設? (正面像下)「是ヨリ 足すり迠 廿一里」、(左面右)「本願主 徳右ヱ門」/頂部を蒲鉾型に削り込み大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 2
写真 床鍋の徳右衛門道標 とこなべ (高岡)四万十町 一里松・跡(青木丸)
<へんろ道>
石道標 高153㎝,幅24.5
㎝,厚21.5㎝
文化11(1814)   歴史の道・ヘンロ道p211/WEB 5つに折損 (正面像下)「是より/五社迠/三里」、(○面)「願主/豫列越智郡/上村 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱→徳右衛門の没年(最後の建立) 5
  茂串町の大師坐像道標 しげくし (高岡)四万十町 <へんろ道> 石道標 高79㎝,幅21㎝,厚18㎝ 文化11(1814)   歴史の道・ヘンロ道p211 移設(もと、添蚯蚓坂の海月庵前) (正面)「(指差し)」/上部を光背状に削り、その中に大師坐像を陽刻 2
  茂串町の道標 しげくし (高岡)四万十町 <へんろ道> 石道標 高98㎝,幅31㎝,厚30㎝ 文化13(1816)   歴史の道・ヘンロ道p211 移設 (正面)「卅七番大師堂」/並 五社納経所」、(○面)「(○指差し)ぎやく邊路みち/是ゟ五社へ 十八丁/卅六番へ 十三里」、(○面)「(○指差し)じゆん邊路道/是ゟ卅八番迠 廿壹里/四万十川まで 十壹里」 2
  北琴平町の道標 きたことひら (高岡)四万十町 <へんろ道> 石道標(自然石) 高151.5㎝,幅42
㎝,厚41㎝
天保14(1843)   歴史の道・ヘンロ道p211 移設 (正面)「(○手差し)邊路道」 2
  仁井田五社(高岡神社)
の地蔵町石(七十丁)
にいだ (高岡)四万十町   町石(舟型) 高47㎝,幅23.5㎝,厚18㎝ 寛政3(1791)   歴史の道・ヘンロ道p211 原位置? (光背上)「爲/菩薩/五社迠七十丁」/全面に地蔵菩薩立像を陽刻 1 -
  中津川茶堂 なかつがわ (高岡)四万十町 中津川本村の対岸 茶堂(トタン葺)   慶長2(1597)以前?       町の解説では「慶長2年の地検帳にもみえ」となっているが、地検帳に
「中津川」と明記してあったのかどうか確認できず
3
  奥大道自然観察教育林 おくおおどう (高岡)四万十町 十和小椎尾山 植林
(林業遺産)
  文化8(1811)       国内最古の人工林の一つ/昭和8に森を抜き切りし翌年、スギ・ヒノキ各500本を植栽→藩政時代の上層木と昭和時代の下層木とが立体構造をなす「複層林」として貴重 2
      (高岡)津野町                    
  添蚯蚓坂の供養塔道標 そえみみず (高岡)中土佐町 <へんろ道> 石道標(砂岩) 高60㎝,幅30.5㎝,厚28.5㎝ 安永4(1775)   歴史の道・ヘンロ道p258・299 原位置? (正面右下)「五社江 三里半」、(同左下)「左り へんろ道」/正面中央に「爲四國中宿供養也」と陰刻 1 -
写真 久礼の徳右衛門道標 くれ (高岡)中土佐町 久礼港<へんろ道> 石道標(尖頭角柱) 高117㎝,23㎝角 享和2(1802)   歴史の道・ヘンロ道p211・257 移設 (正面像下)「是ヨリ/岩本寺へ、五里」、(右面)「此川出水の時ハ川かみに/わた瀬ありたづねべし」、(左面)「願主/豫州越智郡/上村 徳右衛門」/頂部、梵字下を光背型に削り込み大師坐像を陽刻/札所名改刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存)⇒建立年が刻字してあるものは2割弱 2
写真 添蚯蚓坂の題目塔道標 そえみみず (高岡)中土佐町 <へんろ道> 石道標(砂岩) 高61.5㎝,幅42.3
㎝,厚43㎝
文化5(1808)   歴史の道・ヘンロ道p299 原位置 (左面)「此所より/五社へ四里/四万十川へ十五り半/あしずりへ二十五り/てら山へ三十八り/いよ境まで四十一り」/正面に「寒巖妙性信女」と陰刻 1 -
  長沢上の道標 ながさわかみ (高岡)中土佐町 <へんろ道> 石道標 高70㎝,幅22㎝,厚17㎝ 文政12(1829)   歴史の道・ヘンロ道p211・258 原位置? (正面)「是ヨリ/あん迄 二十四丁」 1 -
写真 久礼熊野神社の震災碑 くれ (高岡)中土佐町 熊野神社 津波記念碑
(灰色硬質砂岩)
高99㎝,幅61㎝,厚60㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp118 移設? (右面)「寶永/長沢ミドノコエ/四日亥年ツナミ大坂ユノ浦/大川ユツメシヲ入百四十八年/ぶり」、(正面)「維時安政元甲寅年/十一月五日震午后五時潮/立漲入中道一丈二尺村/中札塲下町通流出/上 シリ日ノ川松ノ川シヲ入/七へん入」、(上面?)「白鳳十三年/寅十月十三日/黒土のこをりヲチ入」 2
  江尻羽根 えじり (高岡)日高村 仁淀川 土堤防?(背割堤) 長約400m 江戸期     洪水により幾度となく流失し、修築が繰り返されてきた→オリジナル部不明 支川の内水氾濫防御のために設けられた羽根(背割堤) 4
写真 川西路茶堂 かわにしじ (高岡)檮原町 川西路2081 茶堂(寄棟・茅葺) 4.570m×2.435m 嘉永元(1848)以前 町保護民俗 町教委
(奈文研学報89p53-60)
現在の建物は慶応元(1865) 天正16(1588)の『津野越知面村検地帳』『津野肆萬川村検地帳』に茶ヤ、茶屋の字名が現れる→安永2(1773)の『御巡見御用差出帖』に8棟の辻堂が記載(現存する茶堂と対応つかず)→明治期には39棟/この茶堂は、祭壇内の儀式用木槌に嘉永元とあるので、その際かそれ以前と思われる 1
写真 町組茶堂(東町茶堂) まちぐみ (高岡)檮原町 梼原1565 茶堂(寄棟・茅葺) 3.670m×2.572m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p61) 現在の建物は明治期(推定) 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 2
写真 茶や谷茶堂 ちゃやだに (高岡)檮原町 茶や谷140 茶堂(寄棟・茅葺) 3.637m×3.031m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p64) 現在の建物は明治期(推定) 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 2
写真 中の川茶堂 なかのかわ (高岡)檮原町 中の川577 茶堂(寄棟・茅葺) 2.558m×3.026m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p65) 現在の建物は大正14 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 2
写真 六丁茶堂 ろくちょう (高岡)檮原町 六町452 茶堂(宝形・茅葺) 2.893m×2.890m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p67) 現在の建物は昭和初期(推定) 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 2
  松原茶堂 まつばら (高岡)檮原町 久保谷1716 茶堂(寄棟・茅葺) 2.725m×2.195m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p69) 現在の建物は昭和59 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 2
写真 松谷茶堂 まつだに (高岡)檮原町 松谷7-2 茶堂
(宝形・銅板葺)
2.270m×2.265m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p66) 現在の建物は昭和4 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
写真 田野々茶堂 たのの (高岡)檮原町 田野々984 茶堂
(切妻・桟瓦葺)
3.780m×2.888m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p62) 現在の建物は昭和初期(推定)/数度の移設 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
写真 本も谷茶堂 おもだに (高岡)檮原町 本も谷424 茶堂
(切妻・桟瓦葺)
3.625m×3.018m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p63) 現在の建物は昭和初期(推定)→昭和35原位置に移設・屋根改造 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
  中平茶堂 なかひら (高岡)檮原町 中平496 茶堂
(切妻・桟瓦葺)
1.935m×1.935m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委
(奈文研学報89p68-69)
現在の建物は大正~昭和初期(推定) 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
  上折渡茶堂 かみおりわたり (高岡)檮原町 上折渡337 茶堂
(寄棟・銅板葺)
3.025m×1.835m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p68) 現在の建物は昭和後期、前身は明治中後期 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
写真 文丸茶堂 ぶんまる (高岡)檮原町 文丸178 茶堂
(宝形・銅板葺)
3.780m×3.272m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委
(奈文研学報89p64-65)
現在の建物は平成、前身は昭和9に移設 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 3
写真 井高茶堂(下井桑茶堂) いこう (高岡)檮原町 井高309 茶堂(切妻・セメント瓦葺) 2.432m×2.425m 時期不詳(近世起源?) 町保護民俗 町教委(奈文研学報89p68) 現在の建物は昭和33/民家と一体化 起源は上記参照、個々の茶堂についての起源は不明 4
  笹ヶ峰の石畳 ささがみね (長岡)大豊町・
愛媛/ 四国中央市
<土佐北街道> 石畳道   江戸期   WEB 保存状態やや良好(手付かずのまま) 笠取峠の両側に残る 2
  下関の堀切 しもぜき (長岡)本山町 <北山道> 切通し 長約100m,幅約4m,堀切の最高部約4m 江戸期?   歴史の道・参勤交代北山道p48   南北に連なる尾根を掘り切って横断 1
  下関の石畳 しもぜき (長岡)本山町 山下家・前<北山道> 石畳道 長約100m 江戸期?   歴史の道・参勤交代北山道p47     1
  国見の石垣 くにみ (長岡)本山町 <北山道> 石積道 長約20m 江戸中期   歴史の道・参勤交代北山道p42   国見峠から北に向かう急坂の設けられた凹部を平坦に嵩上げした道 1
      (土佐)大川村                    
      (土佐)土佐町                    
  馬路峠の切通し うまじ (幡多)大月町   切通し    江戸期   WEB 保存状態良好 切通し部に石垣が積まれている 1
  馬路坂の石畳 うまじ (幡多)大月町   石畳道   江戸期   WEB 保存状態良好   1
写真 柏島突堤 かしわじま (幡多)大月町
(柏島)
  石防波堤 長270m,高2.7m,幅3.6m(当初) 万治元(1658)? 県史跡 市教委
/松岡 司
保存状態は最悪(巨大なC堤の下にわずかに残るのみ)/嵩上げ(基部原型) 野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)/島の南東隅から半島に向けて築かれた大突堤(堤敷き32.7m,捨石幅左右91m) 4
写真 柏島石堤 かしわじま (幡多)大月町
(柏島)
  石防潮堤 長690m,高3.0m,幅1.8m(当初) 万治元(1658)? 県史跡 市教委
/松岡 司
海側にC堤を構築 野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)/島の北東隅にある集落全体を囲むように築かれた馬蹄形の長大石堤(集落を風波から守るため) 3 写真
  大浦砲台・跡 おおうら (幡多)大月町   台場 高0.5m,長辺約4m,短辺約2m 江戸期   WEB        
  古満目砲台・跡 こまめ (幡多)大月町   台場 高0.5m,長辺約4m,短辺約2m 江戸期   WEB        
  白崎砲台・跡 しらさき (幡多)大月町   台場 高0.5m,長辺約4m,短辺約2m 江戸期   WEB        
  大浦火立場・跡 おおうら (幡多)大月町   狼煙場 約4m四方 享保7(1722)   WEB   異国船発見の情報を高知城に速やかに伝えるために43ヶ所造られた火立場の1つ/西泊と土佐清水市大津の火立場へ知らせる中継所    
  古満目火立場・跡 こまめ (幡多)大月町   狼煙場 約3m四方 享保7(1722)   WEB 礎石と円形の石積みが残る 同上/大堂と西泊の火立場へ知らせる中継所 2
  大堂火立場・跡 おおどう (幡多)大月町   狼煙場 約3m四方 享保7(1722)   WEB   同上/古満目と相島の火立場へ連絡する中継所    
  安満地火立場・跡 あまじ (幡多)大月町   狼煙場 約3m四方 享保7(1722)   WEB   同上/橘浦と相島の火立場へ連絡する中継所    
  橘浦火立場場・跡 たちばなうら (幡多)大月町   狼煙場 約4m四方 享保7(1722)   WEB   同上/自崎と安満地の火立場へ連絡する中継所    
  白崎火立場場・跡 しらさき (幡多)大月町   狼煙場 約3m四方 享保7(1722)   WEB   同上/宿毛と橘浦の火立場へ連絡する中継所    
写真 入野の徳右衛門像道標 いりの (幡多)黒潮町 <へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高116.5㎝,幅24.5
㎝,厚21.5㎝
寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p212・265
/WEB(空海の里)
原位置? (正面像下)「こ連/より、足摺山江 十一里」、(同ふり仮名)「あし春りさん」、(右面)「願人 豫州朝倉上村 徳右衛門」/頂部を蒲鉾型に浅く削り込み、御料椅子に座った大師像を立体的に陽刻〔→非常に珍しい〕/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 1
写真 佐賀町の徳右衛門道標 さが (幡多)黒潮町 (中角)<へんろ道> 石道標(蒲鉾型) 高111㎝,幅28㎝,厚21㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p212・263 移設 (正面像下)「是より/足すり迄、十六里」、(左面)「願主 与刕 徳右衛門」/頂部、梵字下に大師坐像を陽刻/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 2
写真 浮鞭の徳右衛門道標 うきぶち (幡多)黒潮町 (浮津)<へんろ道> 石道標 高68㎝,幅25㎝,厚21㎝ 寛政6-文化4(1794-1807)   歴史の道・ヘンロ道p212・265 上部と下部が欠損 (正面)「…り/…り迄、十二里」、(○面)「…州 徳右ェ門」/江戸後期に四国遍路道に沿って約250基建立された「武田徳右衛門標石」の1つ(120基程度現存) 4 -
  伊田の道標 いだ (幡多)黒潮町 <へんろ道> 石道標 高70㎝,23㎝角 享和3(1803)   歴史の道・ヘンロ道p212 下部埋設 (正面)「自是 松山寺行路…」 2 -
写真 入野松原 いりの (幡多)黒潮町   海岸防潮林(黒松) 長4㎞ 天正年間初頭(1575-80)→宝永4(1707)以降補植 国名勝 WEB 補植が多い 砂洲上に生えた松の自然林→長宗我部元親の重臣・谷忠兵衛忠澄が罪人を用いて補植→宝永4の津波後に、各戸あたり野生の黒松6本を植えさせて高潮に備えたと伝えられる 3
写真 加茂神社の震災碑 かも (幡多)黒潮町 (入野)加茂神社 津波記念碑
(灰色砂岩)
高170㎝,幅180㎝,厚60㎝ 安政4(1857)   南海地震の碑を訪ねてp120 苔が生えており、刻字判別不可 (正面)「嘉永七甲寅の歳十一月四日昼微々の振動有/潮海漘に流れ溢る土俗是を名て鈴浪と云ふ/是則海嘯の兆也其翌五日朝土俗海漘に望に満眼/の海色洋ヽとして浪静也欣然として家に帰る平素の業を事/とす時に申剋に至て忽大震動瓦屋茅屋共崩家と成満に眼に全/家なし氛埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふて山頭に登山/上より両川を窺見るに西牡蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海/〔消の真ん中に⻖〕也最潮頭緩ゝとして進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして/實に膽を冷す家の漂流する事数を覺す通計に海潮七度進退す初夜/に至て潮全く退く園は沙漠と成田疁更に海と成る當時震動すること劇く/曾聞寶永四丁亥年十月四日も同然今に至て一百四十八年今此石此邑/浦の衆人労を施して是を牡蛎瀬川の邉より採て此記を乞来是を/後人に告かためならん鈴浪果して海嘯 入野/の兆なり向来百有四餘年の後此言を 村 若連中/知るへき也 野並晴識 浦/安政四年/丁巳六月朔」 2
写真 伊田海岸の震災碑 いだ (幡多)黒潮町 伊田真磯 津波記念碑
(淡褐色花崗岩)
高204㎝,幅172㎝,厚179㎝     南海地震の碑を訪ねてp119 移設 (正面)「安政元甲寅十一月四日春々/奈み來五日七ツ頃大ぢ/志ん大しお入浦一同リウ/しつ是ゟさき百四十年/ゟ五十年まで用心春べ志/爲後卋 記之/松山寺住/文瑞/自作」(緑字は異体字)、(右面)「すゝなみきたるときハ/ふね十丁ばかりおきへ/かけとめ申事甚よし」 2
写真 上長谷の真念道標 かみながたに (幡多)三原村 江の谷・入口 石道標(尖頭角柱、花崗岩)、
洪水警告碑
高51.5㎝,幅16㎝,厚12.5㎝ 貞享4(1687) 町史跡 歴史の道・ヘンロ道p217/WE
B(空海の里)
移設、集約 (正面)「右 編んろみち/左 大ミづのときハこのみちよし、願主/真念」/江戸初期に四国遍路道に沿って真念法師が約200基建立したとされる道標の1つ(37?基現存)/真念道標で紀年銘のあるものは1基だけ/17世紀の道標/洪水警告碑を兼ねる 2