熊本県

写真 名称 ふりがな 区市町村 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 改寄立石の道路状遺構 あらきたていし 熊本市(北区) <西海道> 道路 東西約200m、その先直角に南下して約220mの区間 古代   木下 良 視認できる古代道路跡地としては、大規模 立石地区は東西約200m×南北約300mの長方形区画が明瞭で、空堀状の窪地で囲まれており、さらに道路状遺構と思われる帯状窪地がある

3

写真 大津街道杉並木 おおつ 熊本市(北区)・
(菊池)菊陽町
<豊後(大津)街道>→旧国道57号,JR豊肥線 杉並木 約20km→12km,幅34~39m,1340本(昭和12)→1002本(平成11) 天正16(1588)以降   歴史の道/WEB/歴史の道・豊後街道p.95 旧国道側のみ杉並木が残る/大半は昭和初期の補植/原形を留めているのは三里木~原水間(ほとんどが菊陽町で熊本市内は僅か→写真の部分が最も密だが補植) 加藤清正により植栽された(将来の城の修築用材と、伐採による敵兵の進軍防止が目的とされる)/屋久杉を使用したとの伝承があるが証明されていない(当初の杉が1本も残っていない。戦後補植された杉は、屋久杉の実生苗を使用)/幅が広かったため、国鉄と国道が併設された 4
写真 豊岡眼鏡橋 とよおか 熊本市(北区) 一般道/滑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.8m,S11.2m
(A),幅4.3m
享和2(1802) 市有形 WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 石工:理左衛門(理平の弟子)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ/理左衛門の作品としては最古/理左衛門が次に造った門前川橋と2橋だけが、このタイプで現存・現役 3
写真 三十六のめがね橋   熊本市(北区) 人道<豊前街道>/天満宮<大清水川> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.5m,S3.9m
(A)
嘉永3(1850)   WEB(石橋) 昭和59移築/C高欄   3
写真 正院メガネ橋 しょういん 熊本市(北区) 人道/
小野泉水公園<正院川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.5m,S4.8m
(A),幅2.1m
安政3(1856) 市有形 WEB(石橋) 昭和52移築 楔石に関係者の名前が刻まれている/小野小町が産湯を使ったという伝承のある池 2
写真 龍田の里数木(二里) たつだ 熊本市(北区) <豊後(大津)街道> 一里木 榎(南側1本) 江戸期   WEB/歴史の道・豊後街道p.93 根元が空洞化→保存に成功 豊後(大津)街道に残る唯一の一里木 2
写真 正院裏古堤 しょういん 熊本市(北区)   溜池(石堰堤)   江戸期?   植木町教育委員会/
WEB(みさき道人)
放置/雑草で石積みは確認不能 石垣で築かれた溜池堰堤(珍しい)→「熊本城の石垣に似ている」との記載もある→江戸期に遡る可能性/排水路も石敷 3
写真 中松尾橋 なかまつお 熊本市(中央区) 人道/寺田児童公園<中松尾若宮神社> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.5m,S6.7m
(A),幅1.7m
江戸末期   WEB(石橋) 移築(水路上)、高欄一部後補 やや欠円アーチ 2
写真 鮎帰橋 あゆがえり 熊本市(西区) 県道・植木~河内港線/河内川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.3m,S7.9m
(A),幅6.5m
弘化3(1846)→大正期   WEB(石橋) 上流側に大正期の拡幅(石アーチ)、下流側も鋼桁拡幅、ガードレール化   5
写真 井樋橋(南田尻の井樋) いび(みなみたのしり) 熊本市(西区) 潤川 石樋門
(上流側:安山岩、下流側:馬門石)
幅11.5m(3門),
奥行4.0m,高4.1m
慶長13(1608)→文化4(1807)改修(馬門石はその際の追加?)   市教委 良好/現在も防潮樋門として活用 加藤清正/潤川流域の灌漑用に築造/全国で現存する樋門の中でも最古級/現在、市指定に向けて調査中であるが、2種類の石材の使い分けの理由が解明されると意義深い 2 写真
写真 鵜通洞の砂鉄水路・跡 うつどう 熊本市(西区) <鵜通洞> 水路   安政年間(1854~60)頃 市史跡 WEB/市教委 2ヶ所に遺構(石組みの木樋を渡す石台)が残るのみ 鵜通洞で砂鉄が取られていたことから命名/砂鉄を取り出すため、鵜通洞から岩戸まで約3kmの鉄穴流しの水路が、北斜面の中腹に開削 4
      熊本市(東区)                    
写真 川尻の御蔵前船着き場・跡 かわしり・おくらまえ 熊本市(南区) 加勢川(右岸) 石雁木 (13段)長約150m 天正16(1588)以降 国史跡 市教委/WEB 平成16以降の解体修理により、永年にわたる変形を修正/九州新幹線の橋梁が遺構上を横断〔左側の写真が改修前、右側が改修後〕 全国に残る最大の河川雁木/加藤清正時代、川尻には軍港としての機能と商港としての機能を併せ持っていた/軍港としては、天草五人衆の一揆による派兵、朝鮮侵攻での兵糧米積出しなどが行われ、商港としては、フィリピンのルソンなどと交易が行われた/細川藩になってからも、軍港、そして、緑川上流の年貢米の集積地として栄えた 2 写真
写真 川尻の御船手渡し・跡 かわしり・おふなてわたし 熊本市(南区) 加勢川(右岸) 船着場の石畳   江戸初期 国史跡 市教委 平成16以降の解体修理により、嵩上げ 川に接する部分が巻石状になっている 2
写真 呑吐堰・跡 どんどぜき 熊本市(南区) 緑川 潜り堰?   慶長8(1603)   市教委/WEB 川の中に残骸が僅かに残るのみ 加藤清正/屈曲した緑川の洪水時の流下機能を高めるため、延長1,448m、幅127mの放水路を開削(堀川呑吐)→そこに造られた防潮用の潜り堰(?)跡/史料には、「普請奉行は飯田角兵衛ドンド石だたみ築き方…」とある 5
写真 桑鶴の轡塘 くわつる、くつわども 熊本市(南区) 緑川 土堤防(霞堤) 遊水地:106.3ha 天正16(1588)以降   大本照憲 システム全体としては維持されている 加藤清正/河道内遊水による合流点処理(緑川と御船川の合流地点下流部)=越流堤と遊水地とそれを囲む本堤の組み合わせ 2 写真
写真 島田地先の轡塘 しまだ、くつわども 熊本市(南区) 浜戸川 土堤防(霞堤) 遊水地:36.7ha 文久2(1862)   大本照憲 システム全体としては維持されている/土捨場化している 河道内遊水による合流点処理(緑川と御船川の合流地点下流部)=越流堤と遊水地とそれを囲む本堤の組み合わせ 3
写真 二重峠の石畳 ふたのえ 阿蘇市 <豊後街道>
/阿蘇の外輪山
石畳道 長約1.6km,幅約2.8~3.3m 江戸中期以前 市史跡 市教委/WEB 歴史の道保存整備事業で修景復元 阿蘇の外輪山を西で越える二重峠(標高683m)の石畳/標高差約200mを99折れの急坂で登る難所/石畳の流失を防ぐため排水溝が設けられている(石畳の敷石を低めて、石畳上に斜めの溝をつくり、左手の流水を右手へ移す構造) 2
写真 滝室坂の石畳 たきむろざか 阿蘇市 <豊後街道>
/阿蘇の外輪山
石畳道 長約3km→断続3ヶ所残存→350m,幅3.8m 江戸中期以前?   WEB 歴史の道保存整備事業で修景復元/後世拡幅された部分はC舗装 阿蘇の外輪山を東で越える滝室坂(標高653m)の石畳/標高差約200mを急坂で登る豊後街道最大の難所=「大坂に坂なし、板梨に坂有り」 3
写真 十二里木跡と石畳 じゅうにりぎ 阿蘇市 <豊後街道(岳川右岸)> 石畳道 長約50m,幅4-6m 江戸期 市史跡 市教委/WEB 昭和54 表面をアスファルト舗装 十二里木→明治末まで大榎があったと伝わるが、現在はない/石畳→現在は見えない/明治末まで両側に杉並木があった(伝承) 5 -
写真 笹倉の石畳 ささくら 阿蘇市 <豊後街道> 石畳道 長約10m,幅1.8m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・豊後街道p.131 舗装道路の片隅に僅かに残るのみ(しかも復元) 街道上に残存した敷石を集めて復元したもの 4 -
写真 天神橋 てんじん 阿蘇市 一般道/平保木川 石アーチ橋
(阿蘇溶岩)
長11.5m,S6.1m
(A)
弘化4(1847) 市有形 市教委/WEB 鉄骨補強、排水管設置(側方景観が部分的に喪失) 石工・宇助(嘉八の長男、三男が橋本勘五郎)/この橋に使われている石は、滝室坂に露出している阿蘇溶岩/橋名は、文化財指定時に、隣にあった天神社に由来 2
写真 坂ノ上お駕籠据場 さかのうえ、おかごすえば 阿蘇市 <豊後街道> 駕籠据場   江戸期   市教委/歴史の道・豊後街道p.128 「この場所でカゴを置いた」とする看板(写真)が立っているだけ 藩主休憩所で、人夫交換の場でもあった/道の一部が広くなっている 4
写真 馬場の石橋 ばば 天草市 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4m,S3.2m
(A),幅2.7m
江戸中期   WEB(石橋) 上部C化 下浦石工/合掌式の2石アーチ橋 2
写真 無量寺橋(寺橋めがね橋) むりょうじ 天草市 無量寺参道(一般道)
/久玉川
石アーチ橋
(花崗岩)
長8.15m(A),
幅2.85m
享保元(1716)→明治26 修復   WEB(石橋) 路面舗装 欠円アーチ/石の親柱を擬宝珠風に加工(無量寺の格式が高かったため)、束柱も装飾的 2
写真 祇園橋 ぎおん 天草市 人道/町山口川 石桁橋(砂岩) 長28.6m,幅3.35m
(10G),
橋脚石は5本柱
天保3(1832) 国重文 市教委/WEB 橋桁石の一部は後補 架設:山口村庄屋大谷建之助、石工:辰右衛門/国内最大級の石桁橋〔岡山県の秀天橋は橋長36m(9G)〕/簡素な高欄(束柱が若干装飾的) 3
写真 船津岸壁石段 ふなつ 天草市 牛深港 係留施設
(雑割石積)
  寛政11(1799)   歴史的港湾施設資料集 泊地:ほぼ竣工当時の規模が残り、保存状態も概ね良好 当時、港へ寄港する旅船等の監督のため、御用船の船着き場となっていた 2
写真 御用井戸1 ごよう 天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸   文化元(1804) 市史跡 歴史的港湾施設資料集/現地解説板 近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 寛政10(1798)に沿岸監視体制強化のために設置された長崎奉行直轄の番所の専用井戸として掘られたもの/一般住民の使用は禁止されていた 2
写真 御用井戸2 ごよう 天草市 牛深港<牛深湊見張番所> 石井戸   文化9(1812) 市史跡 現地解説板 蓋が被せてある/近所の人がポンプで揚水(飲用には不適) 同上/井戸枠に「御/番/所/用/水」と刻字 2
写真 岩本橋 いわもと 荒尾市 人道<三池往還→県道>
/関川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長32.7m,S12.6m
(2A),幅3.4m
文久3(1863)頃 県重文 市教委 河道変更で橋の機能を喪失(京都の岡田橋と同じ)⇒保存方法としては、景観の伝承につながらず、あまり良くない 石工:不明(橋本勘五郎説は、恐らく間違い)/建造年について、これまで明治4、明治10などの説があったが、近年熊本大学による史料調査で、近世に遡ることが確認された/橋の北のたもとには、肥後と筑後の国境を警備する岩本番所があった 2
写真 娑婆神の石畳 さばがみ 宇城市 <薩摩街道> 石畳道 長5m程度,2ヶ所 天正年間(1573-92)以降 市名勝 WEB(石橋) 峠にあった石畳(40m)を移設 僧・立善の発願 3 -
写真 松合橋 まつあい 宇城市 一般道/春の川 石アーチ橋
(馬門石+砂岩)
長8.4m,S6.75m
(A),幅3.9m
文政3(1820) 市重文 燎火8p.2 上部C化/高欄改修 迫石表面の要石が縦組(内側は横組2列)→アーチ頂点で石が切れている(キーストーンの役目を果たしていない) 3
写真 薩摩渡 さつま 宇城市 人道<薩摩街道>/浜戸川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長16.1m,S9.6m
(A),幅3.4m
文政12(1829) 市重文 WEB(石橋)/現地解説板 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)?/種山組の中核となった4兄弟の父・嘉八の数少ない作品の1つ/弓型 2
写真 三由橋 みつよせ 宇城市 一般道/小熊野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.95m,S12.7m
(A),幅3.0m
文政13(1830) 市重文 WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 石工:岩永三五郎/雄亀滝橋と並ぶ、三五郎の初期の作品/アーチ底面:大胆な粗い石組み/弓型 3
写真 山崎橋 やまさき 宇城市 人道/小熊野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長23.0m,S14.0m
(A),幅3.6m
天保2(1831)→慶応2(1866)高欄 市重文 WEB(石橋) 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:種山組/弓型 2
写真 安見下鶴橋 やすみしもづる 宇城市 人道/浜戸川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長22.7m,S19.0m
(A),幅3.7m
嘉永元(1848) 市重文 WEB(石橋) 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:祐助/虹形の美しい橋 1
写真 丸林橋 まるばやし 宇城市 人道/小熊野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長15.0m,S8.6m
(A),幅3.3m
安政4(1857) 市重文 WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 石工:今村嘉左衛門/半円アーチ 3
写真 塔の瀬石橋 とうのせ 宇城市 人道/田中川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.80m(A),
幅1.9m
江戸末期 市重文 WEB 保存状態良好 弓型 1
写真 娑婆神橋 さばがみ 宇城市 廃道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.40m(A) 江戸末期   WEB(石橋) 自然と一体化(放置保存) 娑婆神峠の石畳の延長線上にある 2
写真 市木橋 いちき 宇城市 廃道/谷口川 石桁橋
(擬似アーチ風)
(凝灰岩)
長18m,S2.8m
(G/PA)
江戸末期 市重文 WEB/現地解説板 平成5復元 両岸に積み上げた石材を上になるほど川側にせり出させた疑似アーチを思わせる構造=他に例がない 2
写真 小川町南海東の道標 おがわ、みなみかいとう 宇城市 海東小学校・前 石道標 高約1m 天保6(1835)   市教委 移設? (正面頂部)「是/ヨリ/右」、(正面)「…し上石堂の前より右井手筋ハ…/谷川を渡り十丁余山可”ちの道を…/より少しさき左りハ村ミちへ右ハ森下の…/八丁嶽…いふがんく川渡をこゑ五家庄…/釋加院への本道春く奈り/堂のまへ右ハかめ山左り手能/山辺のミちを釋加院と志連/伹本堂筋ハ谷川与り少しうへ石かきより一丁/通りぬけさこ畑の下手与り…手ハ筒田/小村を通り布まき□□を…□□□□/村里へのミち□□…」、(正面最下部)「大概道のり/志やかゐん にり/五ヶ庄 八り/かたし田 三り/こうさ 三り…/ともち 四り…/やべ 九り/ミふね 五り/…の庄 …」、(裏面頂部)「是/ヨリ/左」、(裏面)「…上谷川打飛より…の…/右ハ村ミちへ左りハ谷遠□□□二十丁余のり/王らびのと云ふ小村を通り中山手永白石野村/与り釋加院ミさかへの馬ミち春くさ奈利/ミさかへの馬ミち□□□□寺のまへ/左り尓とりて谷川をこ/伹谷川打飛渡り川遠ハ中山ミち尓て響野原と/云う古戰塲を通り堅志田町甲佐岩下町砥用原町/夫与り矢部濱町への往来□□□なり」/石神→八丁峠に至る案内/両面に一面に道順が詳しく刻字されており珍しい 2
写真 子ノ堰 宇城市 浜戸川 取水堰 長約20m 江戸初期   豊野村史p.27 天端をC補修/一部近代の石積 堰堤本体の石積は9割方残る/小規模だが、江戸初期の石取水堰が現役で使われている貴重な例 3
写真 当尾の穴井手 とうのお 宇城市   素掘トンネル
(水路)
長約600m 嘉永5(1852) 市史跡 市教委/現地解説板 放置に近い 水源(猫の迫溜池)への取水隧道/途中6ヶ所の土揚用の堅穴 2
写真 寄田の底井樋 よっだ 宇城市 <浅川>/用水路 逆サイフォン式石管水路(凝灰岩) 長35m→3m以下
外寸96㎝×86㎝,内寸60㎝×50㎝
嘉永5(1852)   松橋町史p.927/現地解説板 移設・展示 施工:庄屋・松田喜七/轟泉水道の石管を参考にして造られた(継ぎ目に独自の充填剤)/移設・展示にしろ本来地中にあるサイフォンが目に見える形で残っていること自体珍しい 3
写真 蓮仏の舟岩(岩見岩) れんぶつ 宇城市   舟繋石(自然岩) 約2m×2m,高約1.3m程度 中世~江戸末期   小川町史p.299,
1017
原位置/蔓で覆われている/地蔵尊が祀られている かつて小舟をつないだ岩/山陰からの岩見船が岩にぶつかった(江戸末期)という伝承 3
写真 御手洗水源 みたらい 宇城市 小川町南小野 湧水 面積約70㎡ 中世? 市名勝 市教委 半分に縮小された 懐良親王の故事(1345年)に由来した名称だが、関係は不明/改修前は飲料、米洗い、洗濯・馬洗いと3段だった(現在は2段) 3
写真 出水地蔵水源 でみず 宇城市 小川町西北小川 湧水   安政5(1858) 市名勝 市教委 修景整備 夢のお告げに従い崖崩れの跡に埋もれていた地蔵を掘り出した後から清水が湧き出て、ひどい腰痛も治ったという伝承のある霊水 2
写真 船場橋 せんば 宇土市 人道/船場川 石アーチ橋
(馬門石:迫石・高欄、安山岩:壁石)
長13.7m,S約10m
(A),幅4.1m
慶応年間(1865~68) 市史跡 市教委 保存状態良好/歴史的景観を保持 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/船場橋、雁木群、井戸、エノキの巨木が一体となって、歴史的空間を醸し出している/朱色の馬門石と、灰白色の安山岩の組み合わせが、他にはない景観を創出 1
写真 猪伏橋 いぶし 宇土市 人道/綱津川 石アーチ橋 長7.3m(A),
幅2.8m
恐らく江戸期 市史跡 市教委 放置保存扁平なイメージ 2
写真 馬門橋 まかど 宇土市 一般道/綱津川支流 石アーチ橋
(馬門石)
長5.5m(A),
幅2.5m
恐らく江戸期 市史跡 市教委 上部拡幅・C舗装 壁石の積み方が近世的 3
写真 タカフネ橋   宇土市 一般道/綱津川 石アーチ橋
(馬門石)
長5.0m(A),
幅2.4m
恐らく江戸期 市史跡 市教委 上部拡幅・C舗装 壁石の積み方が近世的 4
写真 牧川の石橋 まきがわ 宇土市 人道/牧川 石アーチ橋
→石桁橋(馬門石)
長2.5m(A→G),
幅1.3m
恐らく江戸中期   市教委 放置/詳細は不明だが、石桁は後補の可能性 3枚の石で台形状に造られた変形アーチ→その下に石桁(補強のため?) 2 -
写真 御鷹野橋 おたかの 宇土市 廃道 石桁橋(馬門石) (2G) 江戸期   市教委 梁4本→3本に欠落 陣屋東側にあり、藩主が鷹狩りの時に渡るのでその名が付いた/馬門石の桁橋は稀 2
写真 馬の瀬堰 うまのせ 宇土市   石樋門(馬門石) (4門) 江戸後期   市教委 樋柱下部をC補強 梯子木で樋石を上下する方式=このタイプで4門は大きい 2
写真 狐石樋 きつねいし 宇土市 船場川 石樋門(馬門石) (2門) 江戸後期   市教委 保存状態良好 梯子木で樋石を上下する方式 1
写真 笠岩の干拓塘 かさいわ 宇土市 笠岩新地 石堤防(部分的?) 長約1.3km,幅約10m,高約3‐4m 寛文12(1671)   市教委 東端部の神社内には石堤防が残るが、それ以外は灌木に覆われて石材視認できず 現存する最大規模の未改修の干拓堤防(鮟鱇~梅崎)/宇土地域で最も古い干拓(熊本でも古い方に属する) 2
写真 浦小松の干拓塘 うらこまつ 宇土市 浦小松新地 石堤防 長約500m 文化元(1804)   市教委 建造保存状態良好 現存する最大規模の未改修の石造干拓堤防/巻石風(笠岩の東端部の石積とは明らかに異なる構造) 1
写真 馬門石石切場・跡 まかど 宇土市   石切場(馬門石) (3ヶ所) 5C~昭和期   市教委 昭和30年代まで使われていたが、近世の状態がよく残る 宇土市周辺で使われてきた特異な朱色の阿蘇溶結凝灰岩 2
写真 船場川の雁木群 せんば 宇土市 船場川 石雁木(安山岩) 長雁木1、小雁木6 江戸起源   現地解説板 修復されたものと、されないものが混在 長雁木は近接して植えてあるエノキの巨木と合体化して、素晴らしい歴史的空間を作り上げている 2 写真
写真 轟水源 とどろき 宇土市 轟泉水道 湧水→上水道 湧水量3000t/日 寛文3(1663)? 市史跡/日本の名水100選 市教委 修景→日曜日には子供の遊び場として人気 国内最古級かつ現役の上水道の水源/今も水を汲みに来る人が多い 2 写真
写真 轟泉水道
〔マス、落し口、樋管橋〕
ごうせん 宇土市 轟泉水道 瓦質管
→馬門石の樋管
延長4.8㎞
マス:3尺四方、10数ヶ所
寛文3(1663)→明和6(1769)改修 市史跡 市教委 保存良好、残存数減少 宇土藩初代藩主・細川行孝/轟水源→(松橋焼の土管)→藩士の屋敷内の井戸、町人の共同井戸に引水(飲料水)/その後、管の傷みが激しくなり、5代藩主・興文が馬門石製の樋管に交換/国内最古級かつ現役の上水道/連結部に「がんぜき(一種の三和土)」を使用 2
写真 轟泉水道 〔水道塘〕 ごうせん・すいどうとも 宇土市 轟泉水道 石樋管の石蓋列
(馬門石)
長約100m 明和6(1769) 市史跡 市教委 石管、「がんぜき」が視認できる 地形の関係で、生活道路の中央部に轟泉水道の暗渠の石蓋が一列に並んでいる 2
写真 船場橋橋詰めの共同井戸 せんば 宇土市 轟泉水道 石井戸
(円形、馬門石)
3ヶ所の1つ(2ヶ所は屋根付き) 江戸期   市教委 瓦葺きの屋根は修景 朱色の馬門石を円筒状にくり抜いた部分が地上に出ている/井戸端も馬門石切石敷/瓦葺きの屋根/船場橋と一体化した景観 1
写真 金性寺の寺橋 きんしょう 上天草市 参道(人道)/濠 石桁橋 長3.95m(2G),
幅3.0m
江戸期?   WEB(石橋) 桁石は何代にもわたる補修 年代を特定するものは何もないが(金性寺の火災で焼失)、ノミ跡の粗さから江戸時代と推定/山形の太鼓橋 2
写真 岩下橋 いわした 菊池市 <廃道>/河原川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.9m,S9.0m
(A),幅2.9m
文政8(1825)   WEB(石橋) 保存状態良好 石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/橋を渡った所に、馬頭観音が祀られている 2
写真 綿打橋 わたうち 菊池市 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.8m,S7.7m
(A),幅2.2m
→4.2m
文政9(1826)   市教委
/WEB(石橋)
上流側を拡幅(昭和2)→Cで再拡幅 石工:栄八/迫間橋架設の試験台として施工されたとの由来も 3
写真 迫間橋 はざま 菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長36.6m,S20.8m
(A),幅3.7m
文政12(1829)   市教委
/WEB(石橋)
保存状態良好 石工:伊助(施工例が少ないため、本人が設計したかどうかに疑問符)/径間20mと大型アーチの割に扁平、かつ、橋の上面とアーチとの間が薄い独特な型式(三五郎一族とは別) 1
写真 虎口橋 こく 菊池市 一般道/迫間川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長25.3m,S15.9m
(A),幅4.25m
嘉永3(1850)   市教委
/WEB(石橋)
高欄C化/雑草放置/アーチ部接近困難石工:伊助・幸兵衛・仙左衛門 3
写真 相生橋 あいおい 菊池市 <廃道>/菊地川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.8m(A),幅5m 嘉永5(1852)   市教委
/WEB(石橋)
拡幅のため石橋は真下からしか見られない→下流側中州に残骸として残る 石工:卯助・卯一・丈八(後の橋本勘五郎)/架橋当時は2連+1連+2連の計5連の連続石橋だったが流失し、中央中洲の1連のみ残る 4
写真 立門橋 たてかど 菊池市 一般道/柏川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長75m,S21.7m
(A),幅3.6m
万延元(1860) 県重文 WEB(石橋) 保存状態良好 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)/橋長75m、径間22mの大型アーチ/下流側の両岸を石垣積みで補強/橋に「立門」と刻まれ、漆喰が塗られている 1
写真 築地井手 ついじ 菊池市 菊池川 用水路   慶長年間(1596-1615)   市教委/WEB 水路に一旦蓋をしたが、水路び一部を修景再生(平成7-19) 加藤清正起源とされているのは800mほど。下流側は、より以前の城・空堀跡の再利用/菊池川水系最古の井手 2
写真 原井手 はる 菊池市 菊池川 用水路、トンネル 長約11㎞ 元禄14(1701)   WEB/WEB(みさき道人)/市・企画振興課地域振興係 平成8に水路・トンネルともC化/用水路をゴムボートで下る「イデベンチャー」というユニークな試みが成功(写真参考) 河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が河原地区に引水するため開削/総延長550mのトンネル群は肥後藩最古 3
写真 宝永隧道(今村マブ) ほうえい 菊池市 今村井手 素掘トンネル
(水路)
長302m 宝永2(1705)   WEB 毎年4月、小学生が内部を見学 河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が今・赤星・森北地区に引水するため開削 1
写真 古川兵戸井手 ふるかわひょうど 菊池市 川原川→菊池川→ 用水路、トンネル   文化13(1816)
→天保8(1837)
  市教委/WEB 大半がC化(部分的に当初部分が残存) 河原手永大柿村と平野村の庄屋・五島五郎衛門が台地上の畑を水田に変えるため菊池川から引水するため藩の許可を得て築造(第1期)/迫間村と戸豊水村の庄屋・平山八左衛門は井手の水量を抜本的に増やすため、川原川から取水し峠の下をトンネルで通し菊池川に流入させて川自体の水量を増やすため幕府の許可を得て開削(第2期)/素掘トンネルが7ヶ所造られた 3
写真 高島船着場・跡 たかしま 菊池市 菊池川 船着場   江戸期   市教委/WEB 俵ころがし(時代不明)を想像再現/残っている石垣は近代のもの 水量が多いため、大量の産品の積み出しに使われた 4
写真 後川辺石橋 うしろかわべ 合志市 <上庄川> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.1m(A),幅2.3m 文政9(1826)   WEB(石橋) 迫石のみ移設 石工:吉崎喜八良 4 -
写真 立願寺の郡衙道・西海道交差 りゅうがんじ 玉名市 <郡家~水駅/西海道> 道路 郡衙道:長1.6㎞ 古代(8世紀初)   市教委(玉名郡衙p474,555)
/木下 良
C舗装されて生活道路化/写真は郡衙道(縦)と西海道(手前横)の交差部/立願寺は地名 玉名郡庁と郡津を結ぶ南北道路(郡衙道)、とれと交差する東西の伝路(西海道)/微高地の畑の間に帯状窪地となった道路遺構があって、古代道路としては典型的な状態を示している/郡衙道は全線切通し 3
写真 高瀬目鑑橋 たかせ 玉名市 人道/高瀬裏川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.0m,S6.7m
(2A),幅4.1m
嘉永元(1848) 県重文 WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で修景 石工:丈八(後の橋本勘五郎)?/上流側の橋脚に大きな水切りが付いているのが特徴 1
写真 石貫車橋 いしぬき 玉名市 人道/山口川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6m(A),幅2m 江戸期? 市重文 WEB(石橋) 保存状態良好/廃橋 ほとんど迫石だけでできた橋 2
写真 上町橋 かみまち 玉名市 人道/高瀬裏川 石桁橋(凝灰岩) (6G),石梁3本 江戸期?   WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で修景 高瀬裏川上流の4連続桁橋の1つ/最大(6連の石桁橋は稀少)かつ保存状態最良/2本橋脚 1
写真 小崎橋 おざき 玉名市 人道/高瀬裏川 石桁橋(凝灰岩) (4G),石梁3本 江戸期?   WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で修景 高瀬裏川上流の4連続桁橋の1つ/梁2本だけで造られた橋(狭い)→最初からか、結果論か、中央が少し窪んでいる/2本橋脚 1
写真 酢屋橋 すや 玉名市 人道/高瀬裏川 石桁橋(凝灰岩) (4G),石梁2本 江戸期?   WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で修景 高瀬裏川上流の4連続桁橋の1つ/大八車が脱輪しないように上流側にわだちが付いている/2本橋脚 2
写真 土戸橋 つちど 玉名市 人道/高瀬裏川 石桁橋(凝灰岩) (6G) 江戸期?→大改修   WEB(石橋) 橋脚はC/裏川の歴史的環境整備の一環で修景 高瀬裏川上流の4連続桁橋の1つ/修景にあたって、こういう再現の方法もあるという例 4
写真 高瀬船着場・跡 たかせ 玉名市 菊池川 船着場   天正17(1589)以降 市史跡 WEB(石橋) 保全的整備/「玉名大俵まつり」の会場 加藤清正は肥後入国後、天正17~慶長7(1589-1602)にかけて菊池川の工事を行い、その際、肥後北部の経済の中心地とすべく船の発着場や米蔵(御蔵)を整備した→細川藩に入り、有名な石敷の「俵ころがし」や石畳・石階段なども整備された/川とともに発展した玉名の象徴 1 写真
写真 上町橋たもとの
雁木と石垣
  玉名市 高瀬裏川 石雁木   江戸期?     保存状態良好 裏川全体が過剰修景される中で、最上流部にあたるため、往時の姿を留めている貴重な部分 2
写真 横島石塘の石樋門 よこしまいしども 玉名市 石塘史跡公園
<小田牟田新地干拓>
石樋門(凝灰岩) (5門) 慶長10(1605)起源だが、現存する樋門の最古部(石梁を積層積にした樋柱)も、恐らく江戸末期   WEB(石橋) 樋柱以外の部分は、明治の改修(年代刻印あり)/樋柱の不等沈下が顕著/公園整備で周辺の状況が大幅に変化 加藤清正/横島~久島山間(400m)に石塘を築いて干拓による新田開発を目指した(難工事となったため、人柱伝説がある)/樋門脇の石垣の一部と、護床石は江戸期と推測される/市史跡は石塘(干拓堤防)跡の一部 4
写真 船島堰の石樋管 ふなじま 玉名市 繁根木川/船島溝 石樋管 長32.5m 時期不詳(江戸期より遡る可能性は薄い)   市教委 現存する構造物は、江戸末期~明治にかけての改修によるもの(護床工は恐らく江戸期) 船島溝の配水域は、古代の条里制による区画が想定されている区域のため、古代に何らかの施設はあったと思われるが、石樋管そのものは江戸期の概念 3
写真 秋丸目鏡橋 あきまる 玉名市 人道/高瀬裏川 石樋門(凝灰岩) 幅11.7m(1門),
奥行3.7m
天保3(1832) 市重文 WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で移設・復元(平成10) 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/「目鏡橋」と称されているが、実態は井樋橋(菊池川からの逆流防止・潮止め樋門)/河床に敷石 2
写真 百間井樋 ひゃっけん 玉名市 西の川~浮田溜池 石トンネル(用水) 長95m 嘉永5(1852)   市教委/WEB(みさき道人) 保存状態良好/現役/写真は中間開口部(右記参照)の下流側呑口 惣庄屋・関忠之亟/トンネルの中間開口部は切通し状になっていて、上流側吐口、下流側呑口とも切込みはぎの堅牢な坑口/トンネル内部は素掘ではなく、切石を積み上げた側壁上に石板を載せた構造 1
写真 浮田下ノ池・吐井手 うきた 玉名市 浮田下ノ池~元口掛 護床敷石 長26m,幅5-7m 嘉永5(1852)以降   市教委(浮田溜池関連施設p11-17) 上流側2段は洋風に並べられた布石状の敷石、最下部は打込みはぎ状の敷石 惣庄屋・清田新之允によって文化13(1816)に浮田溜池(中ノ池)が造られたが、嘉永5の干魃を受けて中ノ池の上下に造られた溜池/下ノ池から流出する3本の水路のうちの「元口掛」に設けられた導水路 1
写真 十番開旧樋門 じゅうばんびらき 玉名市 十番開 石樋門 (2基:2門と1門) 慶応2(1866)   市教委 両脇の石積は近代の改修によるもの 他地域の干拓樋門にない重厚感/近代に造られた末広開樋門群(国重文)もほぼ同じ形態を採用 4
写真 大開旧干拓堤防 おおびらき 玉名市 大開 石堤防 長約1.2km 嘉永6(1853)   市教委 良好(高さは当初の3分の2に)/上部道路化/谷積(近代の改修)部分も混在 細川忠殻、小田手永他2手永/江戸期の横島地区の有明海干拓で最大級の規模、かつ、残存する干拓堤防も横島地区で最長/江戸期の干拓堤防で、石積がはっきりと確認できる貴重な事例 2
写真 九番開旧干拓堤防 くばんびらき 玉名市 九番開 石堤防 長約120m 安政6(1859)   市教委 良好(高さは当初の3分の2に)/上部道路化 家老・有吉家/江戸期の干拓堤防で、石積がはっきりと確認できる貴重な事例 2
写真 十番開旧干拓堤防 じゅうばんびらき 玉名市 十番開 石堤防 長約1.0km 慶応2(1866)   市教委 良好(元の高さを維持している部分は少ない) 家老・有吉家/横島地区の有明干拓では、江戸時代最後の干拓/江戸期の干拓堤防で、石積がはっきりと確認できる貴重な事例 2
写真 菊池川堤防櫨並木 きくち 玉名市 菊池川(右岸) 櫨並木
(産業遺産)
長3.7km,237本 享保9(1724)頃以降 国登録記念物 WEB 河道整備に際しても、よく保存されている 熊本藩により、寛文4(1664)に櫨(ハゼ)が特産品奨励として植栽されるようになったが、木蝋生産の衰退とともに植栽地は減少し、多くの櫨が失われた。菊池川堤防沿いに残された櫨並木はかつての木蝋生産の名残り(福岡県の柳坂曽根の櫨並木の200本を超える) 2
写真 小島の轡塘 おしま、くつわども 玉名市 菊池川左岸 土堤防(霞堤) 長約1.7km 天正16(1588)以降   市教委 菊池川左岸の霞堤と土堤防で囲まれた15haほどの土地が現役の耕地として利用されている 加藤清正由来と言われている 3
写真 東塘の旧菊池川堤防 ひがしども 玉名市 菊池川旧河道の右岸堤 土堤防 長約500mの区間が2ヶ所 天正16(1588)以降   市教委 道路化してほぼ平だが、一部に旧堤を思わせる部分がある程度 加藤清正の治水対策の1つ/旧河道の右岸堤築造と、新河道の開削がほぼ同時期に行われた理由は不明 3
写真 菊池川の石刎 きくち 玉名市 菊池川 石水制 複数あるうちの、ごく一部 原点は天正16(1588)以降だが、現在基部に残存しているものも、恐らく江戸後期   現地 旧石刎の基部に残石の形で残る 加藤清正の治水対策の1つ 4
写真 東間小学校前の石橋 ひがしあいだ 人吉市   石アーチ橋
(凝灰岩)
S2.2m(A),幅7.3m 16世紀末?   WEB(石橋) 上部はC舗装され、不可視 合掌式の2石アーチ橋=距離にして近い湯前町の幸野溝の石合掌隧道の石組の粗さに類似→同時代の可能性(16C末) 3
写真 石水寺の目鑑橋 せきすいじ 人吉市 人道/馬氷川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.5m,S12.0m
(A),幅2.7m
嘉永7(1854) 市有形 WEB(石橋) 路面の舗装以外は保存状態良好 石工:太次郎/太鼓型の石アーチ/中央部が迫石だけで壁石がなく跳躍感がある/キースト-ンがアーチ環の下に突き出ている 2
写真 井口八幡宮の石橋 いのくち 人吉市 人道/庭園の池 石アーチ橋
(合掌式)
(凝灰岩)
長3.2m,幅40㎝
(A)
江戸期?   WEB(石橋) 保存状態良好
(このサイトでは原則として庭園橋は除外するが、特殊な構造のためリストに含めている)
長2.0mと1.2mの弓型の石梁が中央からずれた位置で、合掌しアーチを構成する構造/熊本県に1橋と大分県に2橋存在する近世(?)の合掌式アーチ(杵築市、豊後高田市)と同一構造だが、左右非対称なためアーチのバランスには高度の判断を要したものと推察される→3橋の中で、形態的は最もアンバランス感が強い 1
写真 御舘御前橋 みたちごもん 人吉市 人道/御舘の濠 石桁橋(凝灰岩) 長17.0m(5G),
幅5.5m
明和3(1766) 県重文 WEB(石橋) 路面の石梁の一部にC補修 相良氏代々の御舘の前に架る幅広の立派な石桁橋(5径間は多い方)/3本橋脚 1
写真 東大塚町の国境石 ひがしおおつか 人吉市 国見山 境界石(自然石) 高約3m,幅約5m
,厚約1.5m
江戸期   WEB(筑前国境石散歩) 接近困難/石を設置したのではなく、そこにあった石に刻字した (正面中央)「従是西 薩摩」 1
写真 谷口渡場・跡 たにぐち 人吉市 人吉城<球磨川> 渡し場   安永9(1780)   歴史の道・球磨川水運p.57/WEB(みさき道人) 川に面した人吉城の石垣脇に石垣・石階段・石畳が一連で残る/川岸には巨石の敷石も残る 谷口舟渡は、主に城内と対岸の商人町・侍町との交通に利用されたもの/藩は宝暦6(1756)に谷口より上流に他領の舟が上るのを禁止しており往来監視のため舟番所も置かれた/渡し場の跡が残る稀少な事例 1
写真 水ノ手門 みずのて 人吉市 人吉城 船着場   文政6(1823)以前 国史跡 歴史の道・球磨川水運p.58 復元/環境整備良好 球磨川に面する水運のための門(年貢米の搬入などに使用) 1
写真 左近の石 さこん 人吉市 人吉城<球磨川> 自然石(安山岩)
(治水用)
高2.2m,周囲10.8m,重31t 慶長12(1607)   現地解説版 昭和43、人吉城内に移設 家老・村上左近の進言/中河原の先端に巨大な石を置き、洪水に備えたり流路調節に使われた 2
写真 槹出工法の石垣 はねだし 人吉市 人吉城 石垣 長75m 文久3(1863) 国史跡 現地解説版 復元/環境整備良好 戸切地陣屋(1855)に端を発する稜堡式台場の技法が、既存の城郭に用いられた珍しい礼/前年の大火を受けて、防火用に築かれた 1
写真 新町石橋 しんまち 水俣市 廃道<薩摩街道> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.0m,S3.5m
(A),幅3m
文政8(1825)頃   WEB(石橋) 迫石部のみ残る   4 -
写真 前田橋 まえだ 水俣市 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.0m,S7.0m
(A),幅4.0m
嘉永年間(1848-54)   WEB(石橋) 高欄の代わりに石が並べてある やや扁平 2
写真 隈迫眼鏡橋 くまんさこ 水俣市 人道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.7m,S3.4m
(A),幅2.9m
嘉永年間(1848-54)   WEB(石橋) 移設・復元/鉄高欄   3 -
写真 冷水橋 ひやすじ 水俣市 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.8m,S4.8m
(A),幅3.4m
嘉永年間(1848-54)   WEB(石橋) 上部C化/高欄改修/アーチ鋼補強/壁石も後補   4
写真 大迫眼鏡橋 おおさこ 水俣市 私道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.5m,S1.8m
(A),幅1.6m
嘉永年間(1848-54)   WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 個人宅への橋 4 -
写真 坂口橋 さかぐち 水俣市 展示物 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.3m(A),
幅2.7m
嘉永3(1850)   WEB(石橋) 移設・寸断   5 -
写真 鍛冶屋上橋 かじやかみ 八代市 人道/鍛冶屋谷川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.10m,S1.27m
(A),幅2.64m
文化元(1804)頃
(根拠なし)
市有形 前川清一 保存状態良好 石工:「藤原林七=種山組の元祖」という通説は間違い/半円に近い 1 -
写真 鍛冶屋中橋 かじやなか 八代市 人道/鍛冶屋谷川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.3m,S2.7m
(A),幅2.6m
文化元(1804)頃
(根拠なし)
市有形 前川清一 保存状態良好 石工:「藤原林七=種山組の元祖」という通説は間違い/長尺の迫石を使用=中央部は迫石のみ 1 -
写真 鍛冶屋下橋 かじやしも 八代市 人道/鍛冶屋谷川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.03m,S3.92m
(A),幅2.46m
文化元(1804)頃
(根拠なし)
市有形 前川清一 保存状態良好 石工:「藤原林七=種山組の元祖」という通説は間違い/やや扁平 1
写真 鑑内橋 かんない 八代市 人道/鏡川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.2m,S5.5m
(A),幅2.8m
文政13(1830) 市有形 WEB(石橋) 平成6修復/保存状態良好 石工:岩永三五郎/旧鏡町内に残る唯一のめがね橋 1
写真 仁田尾橋 にたお 八代市 一般道/小浦川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.7m,S7.4m
(A),幅3.0m
弘化元(1844)   WEB(石橋) 拡幅・C床版(小規模)/高欄改修   3
写真 舘原橋 やかたはら 八代市 人道/小浦川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.25m(A),
幅2.32m
嘉永元(1848)   WEB(石橋) 鉄柵付き/蔦で石が見えない 石工:種山組 2
写真 今屋敷橋 いまやしき 八代市 一般道/小浦川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.3m,S6.3m
(A),幅2.4m
嘉永元(1848)   WEB(石橋) 拡幅・C床版/高欄改修   4
写真 鹿路橋 ろくろ 八代市 廃道/河俣川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.3,S13.6m
(A),幅2.7m
嘉永元(1848) 市有形 WEB(石橋)
/WEB
保存状態ほぼ良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父) 2
写真 須田眼鏡橋 すだ 八代市 一般道<薩摩街道>
/二見川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長11.8m(A),
幅4.8m
嘉永2(1849)   WEB(石橋)
/WEB
保存状態ほぼ良好 二見川の石アーチ(6橋)中最古/薄い弓型 2
写真 小崎眼鏡橋 こざき 八代市 一般道/中谷川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.0m,S7.0m(A) 嘉永2(1849) 市有形 WEB 保存状態良好 小さな川に架かりながらも、川底から高い位置に架けられ頑強な感じがする石橋である 1
写真 床並眼鏡橋 とこなみ 八代市 廃道/下大野橋 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.5m,S7.3m
(A),幅2.8m
嘉永4(1851)頃   WEB(石橋) 保存状態良好   1
写真 小藪眼鏡橋 こやぶ 八代市 一般道/二見川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.7m,S7.3m
(A),幅3.7m
天保10(1839)   WEB(石橋) 大がかりなC補修(写真参考)/高欄ガードレール   4
写真 赤松橋 あかまつ 八代市 一般道/二見川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.3m(A),
幅3.8m
嘉永5(1852)頃 市有形 WEB(石橋)
/WEB
保存状態良好 二見川の石アーチ(6橋)中最も装飾的=高欄に扇面や瓢箪等の彫刻 1
写真 大平眼鏡橋 たいへい 八代市 一般道/脇河内川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.1m(A),
幅2.5m
嘉永5(1852)頃   WEB(石橋) 上部石補修/高欄改修 石工:岩永三五郎/半円 2 -
写真 新免眼鏡橋 しんめん 八代市 一般道/二見川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長14.4m(A),
幅3.6m
嘉永6(1853)頃   WEB(石橋) 上部C化/高欄改修 弓型 2
写真 受場橋(広瀬橋) うけば 八代市 人道/水無し川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長13.1m,S10.4m
(A),幅3.1m
江戸期   WEB 壁石に木や蔦が生えていて石が見えない   3
写真 大鞘樋門・殻樋 おざや・から 八代市 四百町新地開/大鞘川 石樋門(凝灰岩) 樋体幅11.32m
(5門:開口部幅1.82m-2.02m),
全高5.68m,
樋体奥行5.34m
文政2(1819) 県史跡 市教委 周辺整備 惣庄屋・鹿子木量平、備前石工:高野貞七/備前流=鞘石垣に巨石を使用(名称の由来)/石水門上の土手を覆う石材が大きいため、現地では「備前流」と称されている。そして、石材が小さな他の2樋門を「合法」と称しているが、これは間違い。備前の干拓樋門は、この部分に巨石は使わない(合法に近い) 1
写真 大鞘樋門・二番樋 おざや・にばん 八代市 四百町新地開/大鞘川 石樋門(凝灰岩) 樋体幅6.84m
(3門:開口部幅1.86m-2.07m),
全高4.94m,
樋体奥行3.73m
文政2(1819) 県史跡 市教委 周辺整備 惣庄屋・鹿子木量平、備前石工:高野貞七/石水門上の土手を覆う石材が小さいため、現地では「合流」と称されている。この間違いについては、上記「殻樋」参照 1
写真 大鞘樋門・江中樋 おざや・こうちゅう 八代市 四百町新地開/大鞘川 石樋門(凝灰岩) 樋体幅6.71m
(3門:開口部幅1.87m-2.04m),
全高5.24m,
樋体奥行5.23m
文政2(1819) 県史跡 市教委 4門から3門に改修/周辺整備 同上 2
写真 高島新地旧堤防 たかしましんち 八代市 高島新地 石堤防(石灰岩) 長265m,高2.4m 文化13(1816)
→文政3(1860)修復
市有形 WEB 保存状態良好 八代城代・松井徴之/現存する江戸期の石造の干拓締切り堤防は稀
(残存規模も大きい)
2
写真 湾洞 わんどう 八代市 球磨川→用水 沈砂池 30m×40mほどの池 文政4(1821)以前   歴史の道・球磨川水運p.119 沈砂池、水門のすべてが近代化 加藤清正?/球磨川の遙拝堰から引いた水の流速を落とし、砂を用水に流下させないように工夫したもの 3
写真 球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 くま、まえ 八代市 球磨川 越流堤   寛永11(1634)   歴史の道・球磨川水運p.124 セメントで被覆されているが、一部に江戸期の敷石が確認できる 新川運河を閉鎖するために設けられた石積堤 3
写真 萩原堤のハネ群 はぎわら 八代市 球磨川 石水制(三角) (4ヶ所) 寛永9(1632)以前   歴史の道・球磨川水運p.121/現地解説柱 かろうじて形態を留めているが、石材等は確認困難 加藤清正の家臣団の一人・加藤正方が八代城下を球磨川の水害から守るため、球磨川の大屈曲部に堤防を補強するため築いた「天神七刎」/正方は寛永9(1632)に京都に隠棲するので、それ以前の構築 3
写真 洞口橋(日渡洞口橋) とうぐう(ひわたし) 山鹿市 <人道/前川> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.0m,S5.2m
(A),幅0.58m
安永3(1774) 市有形 WEB(肥後石工)
/前川清一
平成5の洪水で流出→平成6復元・展示 石工:仁平(ただし、「仁平=仁平組の元祖」という通説は間違い)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプで最古の橋=仁平が細川藩より阿蘇黒川に眼鏡橋架橋を命ぜられ、築造上最も重要なアーチ部分を試作したもの/長さ約85㎝の石材を7本継いだリブアーチ 3
写真 湯町橋 ゆまち 山鹿市 日輪寺<豊前街道
/吉田川>
石アーチ橋
(凝灰岩)
長17.7m,S7.0m
(2A),幅4.8m
文化11(1814) 県重文 WEB(石橋)
/市教委
昭和50 移築/水のない所に移設 石工:吉兵衛ら/楔石の1つに年代が刻まれている/2径間だが小規模 3
写真 稲荷神社メガネ橋 いなり 山鹿市 参道(人道) 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.3m,S1.8m
(A),幅2.4m
安政4(1857)   WEB(石橋) 保存状態良好 小規模アーチの割に、大きな装飾高欄 1
写真 田中橋(車橋) たんなか(くるま) 山鹿市 一般道/岩野川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長16.7m,S12.7m
(A),幅3.3m
→4.1m
安政5(1858) 市有形 WEB(石橋)
/市教委
上部C化・拡幅、一部壁石を更新 施主:庄屋・栄右衛門、石工:籐左衛門・籐兵衛/橋南側に「化厳矼(けごんこう)=巌と化した眼鏡橋」と刻まれた石碑 3
写真 平山橋 ひらやま 山鹿市 県道・和仁~山鹿線
/内田川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長10m,S6.34m
(A)
文久元(1861)   WEB(石橋)/市教委 平成27移設(迫石部のみ) 石工:種山組 4
写真 湯山橋 ゆやま 山鹿市 一般道/内田川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長8.0m,S5.4m
(A),幅2.7m
文久元(1861) 市有形 WEB(石橋) 昭和50 上部C化・拡幅 施主:惣庄屋・福田春蔵 3
写真 厳島神社石橋 いつくしま 山鹿市 参道(人道) 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.3m,S1.8m
(A),幅2.5m
文久2(1862)   WEB(石橋) 保存状態良好   1 -
写真 坂田橋 さかた 山鹿市 人道/坂田川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長15.0m,S9.9m
(A),幅2.8m
文久3(1863)   WEB(石橋) 保存状態良好 石工:橋本勘五郎/かなりの扁平アーチ/石梁を2段に積んだ高欄 2
写真 駒返橋 こまがえり 山鹿市 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.5m,S2.9m
(A),幅2.7m
元治2(1865)   WEB(石橋)/市教委   石工:原口棟朔 3 -
写真 八坂神社参道橋 やさか 山鹿市 参道(人道)/濠 石桁橋 長9.20m(3G) 安政5(1858)   WEB(石橋) 保存状態良好 装飾的な高欄 1
写真 元広の里数木(五里木) もとひろ 山鹿市 <豊前街道> 一里塚(2基)   江戸初期? 市史跡 市教委 榎は枯れ死 五里木が、木だけでなく、一里塚のように街道を挟んで並ぶ一対の円形塚に植えられていた(非常に珍しい) 3
写真 菊鹿町宮原の地蔵道標 きくか、
みやのはる
山鹿市 (辻の堂)<相良往還> 石道標
(石室、丸彫)
(石室)高132㎝,
(地蔵)高59㎝
延享3(1746)   市教委 原位置/信仰の対象 (石室右側壁正面下)「右 王いふ」、(同左側壁正面下)「左 山道」/石室は、両側壁と背面石(それぞれ1枚板)の上に切妻屋根型の石塊を載せた構造/石室内には光背付き地蔵立像(蓮台、台石)を置く/地蔵を納める石室の両側壁正面が道標になっている珍しい例 1
写真 菊鹿町宮原の道標 きくか、
みやのはる
山鹿市 (辻の堂)<相良往還> 石道標 高125㎝,幅29㎝ 天保8(1837)   市教委 移設? (正面)「南、わいふ/西、山鹿志ん町道」、(右面)「東、茱萸尾(ぐみのお)/重石、弁財天道登弐拾五丁」、(左面)「北、阿ひら/津江、道」、
(裏面)「上、阿さこ/山道」
2
写真 菊鹿町松尾の道標 きくか、
まつお
山鹿市 (大林・薬師堂)
<相良往還>
石道標 高100㎝,幅21㎝ 弘化2(1845)   市教委 県道拡幅により移動 (正面)「右、わいふ」、(左面)「左、山みち」 2
写真 南島の郡境石 みなみじま 山鹿市 城ケ原バス停・北
<豊前街道>
境界石(駒型) 高207㎝(移設前),幅33㎝,厚23㎝ 天保8(1837)   市教委/WEB 移設/下部埋設 (正面)「是ヨリ北 山鹿郡」/山鹿郡~玉名郡 2
写真 永ノ原の郡境石 ながのはら 山鹿市・
(玉名)和水町
<豊前街道> 境界石(凝灰岩) 高155㎝,幅32㎝,厚31㎝ 江戸期?   市教委 原位置 (正面)「従是西北 玉名郡」/玉名郡~山鹿郡 1
写真 大坪橋 おおつぼ 山鹿市 <寺島井手/吉田川> 石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長31.0m,S8.9m
(2A),幅2.0m
慶応元(1865)頃   WEB(石橋)/市教委 昭和58解体→山鹿市立博物館前に移設 石工:種山組/2径間アーチの水路橋は珍しい 2
写真 岩原の通水橋 いわばる 山鹿市 用水/人道 石方杖橋(水路)
(凝灰岩)
長6.0m,S2.15m
(G)
17世紀?   WEB(石橋) 開渠の水路内部はC化 施主:惣庄屋・新野尾清左衛門、石工:伊平?/石方杖橋は非常に珍しい/現役の水路橋 2
写真 原井手 はる 山鹿市 原井手/岩野川 用水路 長約4㎞ 文政10(1827)頃?   市教委 ほとんどがC改修/岩盤開削区間(10m)、板石区間(6m)が残る 地元の庄屋が約1年で完成 3
写真 佐敷太郎峠の切通し さしきたろう (葦北)芦北町 <薩摩街道> 切通し 長10数m(2ヶ所) 江戸期   町教委 放置保存 薩摩街道の難所の一つ 2
写真 滝ノ上の石畳
(佐敷太郎の石畳)
たきのうえ (葦北)芦北町 <薩摩街道> 石畳道 長約20m,幅1.8m 江戸期 町史跡 WEB 当時のまま保存(荒れているが、修景されているよりは良い) 薩摩街道の難所の一つ 2 -
写真 山本家門前石橋 やまもと (葦北)芦北町 私道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.9m,S1.4m
(A),幅2.6m
文化15(1818)   WEB(石橋) 両側面石桁で覆われ、可視不能/アーチ迫石自体はよく残る 石工:三五郎(後の岩永三五郎)?、三五郎のごく初期の作品 4
写真 塩屋眼鏡橋 しおや (葦北)芦北町 人道/<宮浦川> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.27m,S4.0m
(A),幅3.6m
嘉永7(1854) 町有形 WEB(石橋) 昭和61 移築/擬木高欄 石工:種山組/中央部はほとんど迫石のみ 3
写真 門口眼鏡橋 もんぐち (葦北)芦北町 一般道/田浦川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.7m,S8.0m
(A),幅3.6m
江戸末期 町有形 WEB(石橋) 上部一部C化(拡幅) 石工:種山組 3
写真 野添眼鏡橋 のぞえ (葦北)芦北町 廃道/野添川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.4m,S3.2m
(A),幅3.3m
江戸末期 町有形 WEB(石橋) 上流左岸側を修復   2
写真 橋本眼鏡橋 はしもと (葦北)芦北町 人道/田浦川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.0m,S8.8m
(A),幅3.8m
江戸末期 町有形 WEB(石橋) 上部C化 石工:種山組 3
写真 中園眼鏡橋 なかぞの (葦北)芦北町 <水路> 石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長5.6m,S3.8m
(A),幅1.8m
天保4-10(1834-40)頃 町有形 WEB 水路部分C化 石工:岩永三五郎? 2
写真 船津の井戸 ふなつ (葦北)芦北町   石井戸   江戸期   町教委 普段は鉄板が被せてある(枠がないので危ない) 井戸枠はない/井戸内部も正方形で、切石の成層積/井戸端も切石敷 2
写真 浜眼鏡橋 はま (葦北)津奈木町 人道/古川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.8m,S2.8m
(A),幅1.8m
嘉永元(1848)頃 町有形 WEB(石橋) 保存状態良好 石工:三平(岩永三五郎の弟)?/ほぼ半円形のアーチだが、壁石のほとんどない、迫石だけでできた珍しい構造 2
写真 重盤岩眼鏡橋 ちょうはんがん (葦北)津奈木町 人道<薩摩街道>
/津奈木川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長18m,S17m
(A),幅4.5m
嘉永2(1849) 県重文   保存状態良好 石工:三平(岩永三五郎の弟)/この地方では最大級の石アーチ,太鼓形が優美,高欄も簡潔 1
写真 中村眼鏡橋 なかむら (葦北)津奈木町 一般道
/千代川・津奈木川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長13.8m,S10.5m
(A),幅3.8m
嘉永3(1850) 町有形 WEB(石橋) 上部C改修/片側全面+取付部拡幅 石工:三平(岩永三五郎の弟)?/千代川と津奈木川との合流点にかかる橋で、現在は橋巾を1m程拡げてある/現在は、町道として多くの人々に利用されている 3
写真 中尾眼鏡橋  なかお (葦北)津奈木町 人道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.4m,S8.0m
(A),幅1.4m
嘉永6(1853) 町有形 WEB(石橋) 壁石を修復 石工:三平(岩永三五郎の弟)? 3
写真 寺前眼鏡橋 てらまえ (葦北)津奈木町 一般道<薩摩街道>
/千代川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長8.0m,S4.7m
(A),幅3.6m
嘉永7(1854)? 町有形 WEB(石橋) 上部C改修・拡幅・ガードレール化 石工:三平(岩永三五郎の弟)? 4
写真 瀬戸眼鏡橋 せと (葦北)津奈木町 廃道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.0m,S7.8m
(A),幅3.7m
嘉永年間(1848-54) 町有形 WEB(石橋)
/町教委
保存状態良好 石工:三平(岩永三五郎の弟)?/中央部が迫石だけでできている 1
写真 金山眼鏡橋 かなやま (葦北)津奈木町 人道/津奈木川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9,5m,S8.5m
(A),幅1.8m
江戸期? 町有形 WEB(石橋)
/町教委
保存状態良好 石工:三平(岩永三五郎の弟)?/中央部が迫石だけでできている 1
写真 境ノ松の石畳 さかいのまつ (阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長200m,幅2.3m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/肥後と豊後の国境の「松」にちなんだ名 2
写真 弁天坂の石畳 べんてんざか (阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長80m,幅2.5m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/「弁天様が牛に乗って下られたので弁天坂と呼ばれる」との伝承 2
写真 上田塩井川の洞門 かみだしおいがわ (阿蘇)小国町 塩井川の坂 素掘トンネル 長約5m, 幅1.5-3m,高約2m 天明年間(1781-88)   町教委 放置保存(風雨で少しずつ崩壊) 施工:豊後国東郡の僧「浄安」/江戸期の人道用トンネルは稀/すぐ隣に明治元(1868)に地元有志の人々により完成した洞門が現存 2
写真 西里の岩清水 にしざと (阿蘇)小国町 上明里 湧水   江戸期   WEB(みさき道人) 現役 下部の岩面を削って5つの水槽が造られている 1
写真 宮の台経塔 みやのだい (阿蘇)小国町   石常夜灯(のろし台、自然石) 高約1.5m 江戸期?   町教委 移設 常夜灯形式の「のろし台」は、稀(恐らく現存唯一) 1
写真 甲斐有雄の道標群 かい・ありお (阿蘇)高森町・
宮崎/(西臼杵)
高千穂町
甲斐有雄道標公園
(高千穂町)
石道標(12基)   文久元(1861)
~明治42(1909)
  高千穂町教育委員会 高森町の津留~長野旧道中間の森林内の道標は高千穂町の甲斐有雄道標公園に移設(写真は、高千穂町のもの) 熊本県を中心に、ほぼ半世紀の間に約1900基にもおよぶ道標を立てた石工の生誕地/このうち江戸期は1861-67年しかないので、甲斐有雄の立てた初期の道標は高森町内に限定されると推定できるが、時代の特定はされていない 4
      (阿蘇)西原村                    
      (阿蘇)南阿蘇村                    
写真 手形野水路 てがたの (阿蘇)南小国町   用水路 長約3㎞,幅約1m 江戸期?   町教委 部分的に当初の水路が残る 町内に残る最長の水路 3
写真 国照寺の石橋 こくしょうじ (天草)苓北町 参道(人道) 石桁橋(凝灰岩) 長5m(2G),
幅3.6m
嘉永年間(1848-53)   WEB(石橋) 高欄、石桁が一部新材に交換 擬宝珠付き高欄 1
      (上益城)嘉島町                    
写真 簗の樋門橋(簗元橋) やな (上益城)甲佐町 一般道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.0m,S2.4m
(A),幅8.9m
?(樋門時代)
→文化14(1817)-天保13(1832)の間にアーチ橋
  町教委 高欄改修/壁石に草が繁茂 元は、灌漑用水の樋門 3
写真 広瀬眼鑑橋 ひろせ (上益城)甲佐町 廃道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.55m,S1.7m
(A),幅3.72m
天保12(1841)   町教委 放置保存 高い側壁上の半円アーチ 2
写真 尾北眼鑑橋 おきた (上益城)甲佐町 一般道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長13.40m(A),
幅2.43m
天保年間(1830-44)   町教委 上部C改修、ガードレール化   2
写真 大祇目鑑橋 だいぎ (上益城)甲佐町 一般道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.5m,S3.5m
(A),幅2.2m
天保年間(1830-44)   町教委 上部C補強/草で壁石視認困難   3 -
写真 御手洗橋 みたらい (上益城)甲佐町 一般道/安平川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長22.0m,S9.0m
(A),幅5.0m
嘉永5(1852)?   町教委/WEB(石橋) 上部C改修、下流側拡幅 高い側壁上の半円アーチ/アーチというよりカルバートに近い 3
写真 堂迫目鑑橋 どうさこ (上益城)甲佐町 一般道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.1m,S4.5m
(A),幅2.8→4.0m
江戸期?   町教委 上部C改修、下流側拡幅/草で壁石視認困難   4 -
写真 大峯の石橋 おみね (上益城)甲佐町 一般道/谷川 石刎橋(凝灰岩) 長4.0m,S2.8m
(G),幅1.6m
江戸期?   WEB(石橋)/町教委 路面舗装 小規模だが本格的な石刎橋 2
写真 豊内の石橋 とようち (上益城)甲佐町 一般道 石桁橋(凝灰岩) 長5.5m(3G),
幅2.8m
江戸期?   WEB(石橋) 鋼桁補強   4
写真 鵜ノ瀬堰 うのせ (上益城)甲佐町 緑川→大井手川 取水堰 長662.5m,
幅最大125m
慶長13(1608) 町指定 町教委 左岸の河岸沿いに幅10m、長さ100mの石敷が残る/旧石材がC堰の下に残っている可能性も指摘 熊本藩主加藤清正の命により建設された湾曲斜め堰/利水用の斜め堰のなかで建造当時国内最長/上流の1/3点に新堰が作られ上部が分断 4 写真
写真 下豊内隧道 しもとよう (上益城)甲佐町 新井手 素掘トンネル
(水路)
長約500m,幅0.8m,高1.5m 文政7(1824)   町教委 保存状態良好 施主:惣庄屋・木原寿八郎が私財を投じ3年がかりで開削した2.7㎞の用水にあるトンネル 1
写真 小鹿の堤の余水吐 おが (上益城)甲佐町 渓流 溜池の余水吐
(石堰堤と切通し)
幅3-4m,長20m 寛永2(1625)   町教委/WEB(みさき道人) 保存状態良好 石積みの堰堤と、その下流側の切通しとの組合せ/溜池の余水吐の構造としては珍しい 1
写真 甲佐の轡塘 こうさ、
くつわども
(上益城)甲佐町 緑川(中甲橋下流)の右岸側)の仁田子地区 土堤防(霞堤) 周囲長約4㎞? 天正16(1588)以降   大本照憲/町教委/加藤清正―築城と治水p239 機能は終えているが/写真は前方に見える旧堤防が巨大な遊水地への導流堤(かつては最左部の所が切れて霞堤になっていた。轡塘は、旧堤防の向こう側が本体 『藤公偉業記』によれば、加藤清正は、それまで並行に流れていた緑川と佐俣川(現・釈迦院川)を 一本化するために新川を開削し、旧緑川を農業用水路として利用し、新緑川筋の右岸に5ヶ所の遊水地を設 けて合流による負担を軽減したとある 3
写真 沈み塘 しずみども (上益城)甲佐町・
美里町
緑川(中甲橋)下の中洲 石導流堤
(カマボコ型)
長160m,
幅最大25m
戦国末期~江戸初期   町教委/大本照憲 下流側に自然堆積砂州が延びている 加藤清正の可能性/右岸側の轡塘と一体的に機能していたと推測される 2
写真 和田内の刎 わたうち (上益城)甲佐町 緑川の田口橋の下流 石水制   江戸期?   町教委 放置保存→ブッシュ化   4
写真 砥川用水 盛土土手 とがわ (上益城)益城町 素麺滝→砥川村 用水路の盛土 全長3350m (盛土部の延長は不明) 享和元(1801)   町教委 用水路はC化/盛土は残る 施主:庄屋・富田茂七/水源の方が低い所から、高い所に水を引く工夫:水源の溜池化と、水路の盛土 2
写真 八勢の石畳 やせ (上益城)御船町 <日向往還> 石畳+石階段 長約500m,
幅4~5m,160段
安政2(1855)   WEB 保存状態良好 八勢眼鏡橋と同時に施工/巨石(全て1m大)を敷き詰めた段差の低い石段と、石畳の組合せ/崖側の開削も見事 1
写真 門前川目鑑橋 もんぜんがわ (上益城)御船町 人道(日向往還)/門前川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7m,S6.4m
(A),幅2.6m
文化5(1808) 町有形 現地解説板/WEB(肥後石工)/WEB 路面舗装以外、保存状態良好 石工:理左衛門(理平の弟子)/太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ/理左衛門の作品としては豊岡橋に次いで古い/アーチの両側部が二重アーチになっている/迫石に番号が刻んである 2
写真 八勢眼鏡橋 やせ (上益城)御船町 <日向往還>
/八勢川・東上野用水
石アーチ橋
(凝灰岩)
長62.0m,S18.2m
(2A),幅4.06m
安政2(1855) 県重文 WEB(石橋) 保存状態良好/石畳と一体化した歴史的空間 石工:宇助、甚平(嘉八の長男と四男、三男は橋本勘五郎)/御船の材木商・林田能寛が私財を投じ架橋/上下流側に立派な鞘石垣/アーチ開口部の割りにアクセス部分が長い=左岸ぎりぎりに用水路用の開口部(S1.4m)/延長線上に石畳 1
写真 中道橋 なかみち (上益城)御船町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.8m,S2.8m
(A),幅2.5m
安政2(1855) 町有形 WEB(石橋) 上部舗装 楔石に建造年と石工名が刻まれている(丈八の名があるが、この時点では橋本勘五郎と改名後のはず?)/迫石のみのアーチ 2
写真 八勢水路橋 やせ (上益城)御船町 東上野用水/八勢川支流 石アーチ橋(水路) (A) 文化11(1814)   WEB 保存状態良好 県下で最古級の水路アーチ橋/現役 2
写真 九十九のトンネル つづら (上益城)御船町 3水源→嘉永井手 素掘トンネル
(水路)
長873m 安政5(1858) 町史跡 WEB 保存状態良好 郡代:上妻半右衛門、総庄屋:光永平蔵、設計:楠田順喜、石工:久五郎/元禄井手の機能補強/隧道呑口(上部)に記文入りの石梁/隧道断面は小さい/現役 1
写真 相藤寺の石畳 あいとうじ (上益城)山都町   石畳道 長42m,幅1.5m 弘化3(1846)頃 町史跡 矢部町史 保存状態良好 施主:惣庄屋・布田保之助 2
写真 津留ヶ渕道 つるがふち (上益城)山都町   石畳道、他 幅3.6-4.5m,
懸越1基を含む
元治元(1864) 重要文化的景観・重要な構成要素 文化的景観保存計画の概要(1) 植林伐採の小型ブルドーザーが入り道が一部荒れている/盛土部の石垣が良好に残る区間もある 施主:惣庄屋・布田市右衛門/緑川の津留ヶ渕と白石地区(現大字白藤)を結ぶ道筋 3
写真 赤子谷の石畳 あかごだに (上益城)山都町 北中島・十田里
<日向往還>
石畳道 長120m,幅1.6m 江戸期?   歴史の道・日向往還/WEB(みさき道人) 保存状態良好 かなり整形された石材を使用 1
写真 山屋のトンネル やまや (上益城)山都町 人道<日向往還> 素掘トンネル 長22m,幅2.15m,高約3m 幕末頃(明治3以前)   歴史の道・日向往還/WEB(みさき道人) 保存状態良好/散策道として整備 合掌風に中央が高く、くり抜かれている/道路トンネルは稀/年代の「明治3以前」は、トンネル東口に同年銘の地蔵があるため 1
写真 聖橋 ひじり (上益城)山都町 廃道/笹原川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長35m,S19.9m
(A),幅5.0m
天保3(1832) 町有形 緑川流域の石橋群魅力再構築事業調査報告書(以後『緑川』と略記) 平成11修復/国道218号にぴったり接合するよう保存、上流面が見えない 石工:岩永三五郎 3
写真 男成橋 おとこなり (上益城)山都町 人道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.0m,S2.75m
(A),幅4.30m
天保3(1832)   『緑川』 大正元 流出→大正4 復旧/上流側はCボックス・カルバート   3
写真 浜町橋(下馬尾河目鑑橋) はままち (上益城)山都町 一般道/千滝川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長14.4m,S12.6m
(A),幅3.6m
天保4(1833)   矢部町史
/WEB(石橋)
道路拡幅のため、上部C化 石工:岩永三五郎 3
写真 木鷺野橋 きさぎの (上益城)山都町 緑地広場公園 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.5m,S3.2m
(A),幅2.1m
天保13(1842)   『緑川』 昭和63 撤去→平成9 移設復元(尾上建設)   2
写真 下番橋 かばん (上益城)山都町 廃道<日向往還>
/畑ノ地川
石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.2m,S3.0m
(A),幅3.2m
天保13(1842)頃 町有形 蘇陽町誌 高欄なし/雑草で壁石が見えない 石工:岩永三五郎/天保6(1835)の創建は伝承、文献史料等から天保13(1842)頃と推測される 3
写真 瀬戸(眼鏡) せと (上益城)山都町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.9m,S1.70m
(A),幅1.9m
弘化3(1846)   『緑川』/WEB
(肥後石工)
川の両岸がC壁→側溝化 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)/石高欄が残る 3
写真 貫原橋
(河内村貫原目鑑橋)
ぬきはら (上益城)山都町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.3m,S2.1m
(A),幅2.4m
弘化4(1847) 町有形 矢部町史 放置保存 石工:喜兵衛/橋というより、カルバート 2
写真 金内橋 かねうち (上益城)山都町 一般道
/御船川、中嶋新井手
石アーチ橋
(凝灰岩)
長31.0m,S16.4m・5.0m(2A),幅5.5m 嘉永3(1850) 町有形 矢部町史/WEB(肥後石工)
/WEB(石橋)
道路拡幅のため、上部C化→主アーチはリブ補強 石工:宇一(嘉八の二男)、丈八(同・三男、後の橋本勘五郎)/小さい方のアーチは灌漑用水路を跨ぐため 4
写真 山中橋 やまなか (上益城)山都町 一般道/八勢川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.0m,S6.37m
(A),幅2.25m
嘉永3(1850)   『緑川』/WEB
(肥後石工)
/WEB(石橋)
上部C化 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎) 3
写真 鹿生野橋 かしょの (上益城)山都町 一般道/上鶴川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長16m,S12.0m
(A),幅6.0m
嘉永5(1852)頃   『緑川』/矢部の滝と石橋 昭和初期に表面をC化 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎) 5
写真 松尾橋 まつお (上益城)山都町 廃道/松尾川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.0m,S3.1m
(A),幅6.0m
嘉永6(1853)   『緑川』/矢部の滝と石橋 放置保存/雑草で壁石が見えない   3 -
写真 石堂橋 いしどう (上益城)山都町 廃道/石堂川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長15.3m,S8.6m
(A),幅1.9m
安政6(1859)   『緑川』 放置保存   1
写真 とどろ橋   (上益城)山都町 一般道/瀬峰川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9m,S7.85m
(A),幅3.5m
文久元(1861)   『緑川』/矢部の滝と石橋 上部C、ガードレール化/橋の下が滝状 種山石工と違い、長崎石工のような布積壁石→後世の修築の可能性? 3
写真 夕尺橋(遊雀橋) ゆうじゃく (上益城)山都町 人道<日向往還> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.3m,S2.7m
(A),幅2.1m
文久2(1862)   『緑川』/矢部の滝と石橋 放置保存/迫石間に隙間 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)/ごく小規模な石アーチ 2 -
写真 瀬峯橋 せみね (上益城)山都町 廃道/瀬峯川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長9.3m,S6.7m
(A),幅2.3m
文久3(1863)   『緑川』/矢部の滝と石橋 放置保存/雑草で壁石が見えない   3
写真 滑川橋 なめりがわ (上益城)山都町 国道445号/滑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.3m,S6.8m
(A),幅5.0m
不明(大正5(1916)に架橋されたと言われるが、嘉永年間とする文献もあり)   矢部町史/WEB(肥後石工) 現役国道のため頑丈なC補強 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)? 4
写真 郷野原橋(舞鶴眼鏡橋) ごうのはる
(まいづる)
(上益城)山都町 廃道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長4.7m,S1.8m
(A),幅1.87m
江戸期?   『緑川』 放置保存 弘化4(1847)建設の「郷原轟川目鑑橋」は消失→それとは違うもの 3 -
写真 男成の道標 おとこなり (上益城)山都町 <日向往還> 石道標(尖頭角柱) 高110㎝,22㎝角 元禄12(1699) 町有形 歴史の道・日向往還p61/町教委 移設(道路に対し、裏面に道しるべがあるため、少なくとも向きを変更)/正面の刻字の風化が進行 (正面)「是より左なんかう/高も里への道」、(裏面)「是より右まみ原町を/とを里日向の国への道」/17世紀の道標 2
写真 畑の道標 はた (上益城)山都町 <日向往還> 石道標 高60㎝,17㎝角 寛政5(1793)   歴史の道・日向往還 移設/下部かなり埋設 (正面)「左 奈ん…/あそ山…」、(裏面)「右ひうかおうくわん/まみわらへの道」(?) 3 -
写真 東竹原の道標
(彼の石の板碑)
ひがしたけばる (上益城)山都町 <日向往還> 石道標(自然石) 高240㎝,幅350㎝,厚280㎝ 文化13(1816) 町史跡 町教委 原位置 (正面)「右ハ ひうがゑ/左ハ あそ山 くまもとゑ」/街道沿いの自然の巨石に道しるべを刻んだもの 1
写真 白石の道標 しらいし (上益城)山都町 <日向往還> 石道標 高97m㎝,幅45㎝,厚17㎝ 天保12(1841)-
明治4(1871)の間
  歴史の道・日向往還 原位置 (正面)「右は 幣立社みち/左は やべ くま本みち」/建立年の刻字はないが、建立者「八田恒助」は天保12に八田姓を名のり、明治4に死去したので、この間の建立 1
写真 笹原の石磧 ささはら、いしぜき (上益城)山都町 笹原川 取水堰 長48m,幅20m 嘉永元(1848) 町有形 矢部町史/熊本県の近代化遺産p.58 保存状態良好 施主:惣庄屋・布田保之助/小笹・野尻地区の灌漑用/裏面の石垣が亀の甲形に組まれている→通称「亀堰」 1
写真 立野橋 たての (上益城)山都町 福良井出 石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長30.3m,S3.1m
(A),幅3.1m
嘉永3(1850) 町有形 矢部町史/WEB(肥後石工) 下流左岸側の壁石は全面改修 石工:宇一(嘉八の二男、三男は橋本勘五郎)?/下流右岸側に鞘石垣/橋というより、カルバート 3
写真 通潤橋 つうじゅん (上益城)山都町 通潤用水(上井手)
/五老ヶ滝川
石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長75.6m,S27.5m
(A),幅6.3m,
高20.2m
嘉永7(1854)(竣工は7月なので嘉永) 国重文/重要文化的景観・重要な構成要素 矢部町史/現地解説板/WEB(肥後石工)/WEB 保存状態良好/周辺公園化 施主:惣庄屋・布田保之助、石工:宇一(棟梁)・丈八(後の橋本勘五郎)・甚平の兄弟他38名(矢部石工が多い)/近世最大径間の水路用石アーチ橋/橋上は、逆サイフォン式の石管3本で送水/主要石工がほぼ同じなのに、鞘石垣の形が、霊台橋とは逆に宮勾配を持った城郭石垣風に造られている/橋中央からの余水吐は通潤橋のシンボル的存在/単独の土木遺産として、錦帯橋に次ぐ観光地となっている 1 写真
写真 通潤橋の石管水路 つうじゅん (上益城)山都町 上井手/通潤橋 逆サイフォン式石管水路(凝灰岩) 石管長:126.9m
(内寸30㎝)(3本)
水位差7.5m(上流側),5.8m(下流側)
嘉永7(1854)(竣工は7月なので嘉永) 国重文/重要文化的景観・重要な構成要素 矢部町史/WEB 保存状態良好 施主:惣庄屋・布田保之助/これ以上の長径間のアーチ橋を架けられなかったため、橋の高さを上井手より6-7m下げることとし、このup/downを逆サイフォンでカバーした/詰まり防止用の水抜き穴が中央に設けられている→観光用に有料で放水 1
写真 通潤用水(上井手)

つうじゅん、
うわいで

(上益城)山都町 笹原川→上井手→通潤橋→上井手 用水路 長11.2㎞,
他に24ヶ所の支線
(総延長24.8㎞)
嘉永7(1854)(竣工は7月なので嘉永) 重要文化的景観・重要な構成要素 通潤用水と白糸台地の棚田景観
/農研機構
一部C改修 施主:惣庄屋:布田保之助/白糸台地8ヶ村に水を引くために計画された用水/高度の高い上井手で導水・分配した水を、高度の低い下井手で回収するシステム/安政2(1855)に穀物が採れたとの記載がある=用水が実効的に機能した年代 2
写真 通潤用水(下井手)

つうじゅん
したいで

(上益城)山都町 五老ヶ滝川(通潤橋直下)→下井手 用水路 長5.87㎞,
他に6ヶ所の支線
(総延長6.2㎞)
嘉永7(1854)(竣工は7月なので嘉永) 重要文化的景観・重要な構成要素 通潤用水と白糸台地の棚田景観
/農研機構
一部C改修/下井手の改修に当たり土木学会デザイン賞が与えられた(平成26) 同上/写真は通潤橋直下にある取水口 2
写真 光尊寺橋 こうそんじ (菊池)大津町 参道(一般道)/上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.1m,S5.6m
(A),幅2.1m
文化12(1815)   WEB(石橋)
/歴史の道・豊後街道p.101
保存状態良好 下内田の石工/上井手に現存する石橋の代表的なもの 1
写真 井手上橋 いでうえ (菊池)大津町 一般道/上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.1m,S4.7m
(A),幅3.3m
文化14(1817)   WEB(石橋) 上流側・石方杖、下流側・RC桁で拡幅 石工:猿渡吉蔵 4 -
写真 大願寺橋 だいがんじ (菊池)大津町 参道(人道)/上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.8m,S5.5m
(A),幅2.2m
文政2(1819)?   WEB(石橋)/歴史の道・豊後街道p.99 高欄改修、階段新設(色が不適合) 高さ0.72mの高欄の石材が山門内に保存 3
写真 地蔵橋 じぞう (菊池)大津町 一般道/上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.50m,S6.00m
(A),幅4.35m
文政11(1828)頃   WEB 上部C補強 石工:勘太郎 3
写真 松古閑橋 まつこが (菊池)大津町 一般道/上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.0m,S2.3m
(A),幅2.5m
文政12(1829)頃   WEB(石橋) 上部C補強   2
写真 弘化橋 こうか (菊池)大津町 一般道/矢護川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.0m,S8.0m
(A),幅2.3m
弘化年間(1844-48) 町有形 WEB(石橋) 上部C補強・拡幅   3
写真 樋口橋 ひぐち (菊池)大津町 一般道/下井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長約8m(A) 江戸末期   WEB 昭和7全面拡幅(ファサード保存?)   2
写真 手永の馬繋石 てなが (菊池)大津町   馬繋石(5基程度) 高30㎝,幅15㎝,厚10㎝ 江戸期?   WEB(みさき道人) 原位置 石の上部に丸く穴を開け馬を繋ぎやすくしたもの/道に沿って並んでいる 1
写真 下井手の井樋 しもいで (菊池)大津町   石樋門 (4門) 慶長3(1598)改修     周辺環境(樋門内を含め)が劣悪/屋根が近代化 加藤清正が手掛けた(大規模に改修した)とも言われるが〔下井手は奈良初期の開削→埋没→加藤清正が天正17(1579)~慶長3に改修〕/樋門がいつからあったかは不明/国内に現存する最古級の石樋門/石柱と木梁を組み合わせた珍しい構造/ろくろ登場前の上下スライド式の開閉装置 3
写真 上井手取水口 かみいで (菊池)大津町 上井手 石樋門 (5門) 寛永13~承応元
(1636-52)の間?
  歴史の道・豊後街道p.100 樋柱(4本)が良好に残る 下記の「上井手」の取水口 2
写真 上井手(堀川) かみいで (菊池)大津町   用水路 全長約24㎞ 寛永13~承応元
(1636-52)の間
  歴史の道・豊後街道p.100 石護岸を一部残す 加藤清正が構想、忠広(清正の子)が元和4(1618)開削に着手、細川忠利に受け継がれて完成/江戸期の用水路としては幅が広く流量が多い/上記の5基の石橋が架かる 2
写真 道明の石畳 どうみょう (菊池)菊陽町 <南郷往還> 石畳道 約180m,幅約2m 中世(14C以前)? 町史跡 町教委 昭和46 熊本空港開港の際、約3㎞にわたり滑走路に→道明~高遊原台地間のみ石畳が現存 わが国で最古級の石畳の可能性がある(石組みが古い)/肥後の国府は9~14世紀まで、現在の熊本市古町にあり、当時の政治経済の中心地となった/南郷往還は肥後国府と阿蘇南郷とを結び、豊後(大分)に続く重要な道路だった 3
写真 大津街道杉並木
(肥後の大杉並木)
おおつ (菊池)菊陽町・
熊本市(北区)
豊後(大津)街道
→旧国道57号,JR豊肥線
杉並木 約20km→12km,幅34-39m,1340本(昭和12)→1002本(平成11) 天正16(1588)以降   町教委/WEB/歴史の道・豊後街道p.95 旧国道側のみ杉並木が残る/大半は昭和初期の補植/原形を留めているのは三里木~原水間 加藤清正により植栽された(将来の城の修築用材と、伐採による敵兵の進軍防止が目的とされる)/屋久杉を使用したとの伝承があるが証明されていない(当初の杉が1本も残っていない。戦後補植された杉は、屋久杉の実生苗を使用)/幅が広かったため、国鉄と国道が併設された 3
写真 上津久礼眼鏡橋 かみつくれ (菊池)菊陽町 人道/公園内の池<井手> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長16.20m,S7.00,5.65m(2A),
幅2.80m
天保9(1838) 町有形 町教委
/WEB(石橋)
明治元 小規模修復→平成元 公園化/高欄改修 石工:治助/2径間アーチ 2
写真 古閑原眼鏡橋 こがばる (菊池)菊陽町 人道/瀬田上井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.70m,S4.90m
(A),幅2.20m
天保9(1838) 町有形 町教委 上部C改修/高欄鉄柵 石工:石切貞助 3
写真 井口眼鏡橋 いぐち (菊池)菊陽町 人道/馬場楠井手 石アーチ橋
(凝灰岩)
長10.75m,S5.35m(A),
幅3.00m
18世紀末~19世紀初頭 町有形 町教委
/WEB(石橋)
上流側を1m拡幅(石アーチ) 太柄(だぼ)を用いて迫石を固定するタイプ 3
写真 入道水眼鏡橋 にゅうどうすい (菊池)菊陽町 人道<入道水菅原神社参道>/菊陽杉並木公園ハス池<上井手> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長20.00m,S4.22m(A),
幅1.48m
江戸期? 町有形 町教委
/WEB(石橋)
平成14移設・復元/高欄改修 太鼓橋風の半円アーチ 2
写真 馬場楠井手の取水口 ばばぐす (菊池)菊陽町 白川 石樋門 幅13.6m(3門),高約2m(当初) 慶長13(1608)頃→何度も改修 町史跡 町教委 入口の石梁と、内部の石材を除きC大改修 加藤清正が創建/当初形態不明 4
写真 馬場楠井手の鼻ぐり ばばぐす (菊池)菊陽町 白川 排水トンネル 80ヶ所→24ヶ所 慶長13(1608)頃 町史跡 町教委/現地解説板 江戸時代末期に数10ヶ所が破壊/平成9・16年修復・周辺整備 加藤清正/堅い岩盤を開削したブロック状の水路⇒水路開削時に、「約4~5m間隔に、幅約1m、高さ約4mの壁」を残すことでブロックが連続した構造とし、各壁の下部に直径2m強の穴(鼻ぐり穴)を設ける/穴を通して流下する強い水流が、各ブロック内に渦状の水流を生み、用水に含まれる火山灰が滞留しないよう工夫したもの 2
写真 豊後街道櫨並木 ぶんご (菊池)菊陽町 <豊後街道> 櫨並木
(産業遺産)
約300m,約15本 元禄15(1702)以降   WEB(みさき道人)/WEB 一見並木に見えるが他の木も混植 江戸細川邸に預けられた大石内蔵助が、厚遇に感謝して、ロウソクの原料となる櫨(ハゼ)の栽培を勧めたことに由来する 2
写真 上南の道標 うえみなみ (球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(尖頭角柱) 高70㎝,幅19㎝,厚18㎝ 宝暦14(1764)   WEB(みさき道人) 原位置? (左面)「従是、西 人吉/東 湯前、道」 1 -
写真 上南の題目塔道標 うえみなみ (球磨)あさぎり町 (麓地区) 石道標(笠付き) 高70㎝(塔身のみ),幅20㎝,厚22
安永3(1774)   WEB(みさき道人) 原位置? (右面下部右)「従是 三番/谷水薬師」/正面に「奉寄進」と陰刻/笠だけでなく宝珠も載せている 1
写真 立岩の舟留め遺構 たていわ (球磨)あさぎり町 球磨川 舟繋石 高・幅とも約10mの巨岩 江戸期 町史跡 町教委/WEB 保存状態良好 舟溜のくり抜き穴と、崖面に「舟場」の文字を刻む遺構/明治40の句「大根舟 続く炭舟 下り舟」(井上微笑)の碑も嵌め込んである 1
写真 木上溝第一隧道 このえ (球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル
(水路)
長233.9m, 坑口
(高1.3m,幅1.5m)
内部(高3.5m)
宝暦9(1759)   町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 呑口:ネットと雑草で視認不能/吐口:改修/写真は呑口溶結凝灰岩台地をくり抜いた隧道/放物線形状の入口/内部:曲折が多い 4
写真 木上溝第二隧道 このえ (球磨)あさぎり町 球磨川→木上溝 素掘トンネル
(水路)
長78.2m, 坑口
(高1.3m,幅1.4m)
宝暦9(1759)   町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 保存状態良好/写真は吐口溶結凝灰岩台地の崖下に放物線形状の入口を持つ/内部:数mおきに灯火を置いたと思われる直径20㎝ほどの半球形の掘込みがある 1
写真 木上溝第三隧道(呑口) このえ (球磨)あさぎり町・
錦町
球磨川→木上溝 素掘トンネル
(水路)
長477.4m, 坑口
(高約1.5m,幅1.6m),内部(最大高2.5m,幅2m)
宝暦9(1759)   町教委/歴史の道・球磨川水運p.36 小さな可動鉄柵がある以外は保存状態良好/写真は呑口内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 2
写真 麓地区の町割り遺構 ふもと (球磨)あさぎり町 麓城城下 石垣のある街路   15世紀中~16世紀中?   町教委 小規模な修復 麓馬場、天神馬場(馬場は街路のこと)、鉄砲小路などに石垣が残る/道の両側の石垣上から通過する敵を攻撃するため 2
      (球磨)五木村                    
      (球磨)球磨村                    
写真 陣ノ内の瀬 じんのうち (球磨)相良村 球磨川 船着場   江戸期   歴史の道・球磨川水運p.51 現時点において、場所の特定困難 大きな岩陰に淀みがあり格好の着船場になっている 4
写真 多良木の道標 たらぎ (球磨)多良木町 (岩河内)<北目街道> 石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高85㎝,24㎝角 天明元(1781)   町教委/WEB(みさき道人) 移設 (正面)「從是、右 く王んをん道/左 松がのみち」 2
写真 百太郎溝取入口・旧樋門 ひゃくたろう (球磨)多良木町 球磨川→百太郎溝 石樋門(凝灰岩) 幅9.5m,高5.8m
(3門)
1680年代~宝永2(1705)? 町史跡 町教委/歴史の道・球磨川水運p.20 昭和35撤去→主な石材を用いて移設・復元 全国有数の巨石樋門/延長18.9㎞の用水の取水口/名称は人柱となった百太郎に由来/建設年代は、恐らく江戸期というだけで全く分かっていない→1680年代~宝永2(1705)という説が今のところ一番有力 2 写真
写真 鮎ノ瀬井手・旧樋門 あゆのせ (球磨)多良木町 球磨川→<鮎ノ瀬井手> 石樋門(凝灰岩) 幅(内寸1.7m)、高2.9m(1門) 江戸期?   町教委/歴史の道・球磨川水運p23 2本の石柱のみ移設 井出そのものは13世紀末に遡るとされるが、樋門石の時代は不明/百太郎溝の石柱と良く似た形態 4
写真 木上溝第三隧道(吐口) このえ (球磨)錦町・
あさぎり町
球磨川→木上溝 素掘トンネル
(水路)
長477.4m,坑口
高約1.5m,幅1.6m,内部:最大高2.5m,幅2m
宝暦9(1759)   あさぎり町教育委員会/歴史の道・球磨川水運p.36 一部近代化/写真は吐口 内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部 2
      (球磨)水上村                    
      (球磨)山江村                    
写真 幸野溝・旧貫 こうの (球磨)湯前町 球磨川→幸野溝 石合掌トンネル
(泥溶岩、水路)
長1451m(総延長),幅2.50m,
高1.85~2m
元禄9(1696)
→大正6調査で崩落・漏水多く改修を放棄
  復刻・幸野溝 平成9に鋼管を敷設(用水は鋼管内を流れている) 施工:相良藩士・高橋政重/球磨川の水を、古城台地の下を抜いて新田開発を行う/トンネルは大きく屈曲し、途中に7ヶ所の非暗渠部あり/石合掌は呑口の長50mを除けば、途中10ヶ所で断片的に使われているだけ→煩瑣に崩壊が続く 2 写真
写真 幸野溝・新貫 こうの (球磨)湯前町 球磨川→幸野溝 <石合掌トンネル
(泥溶岩、水路)>
長664m,
幅2.60m,
高2.80m(改修前)
宝永2(1705)
→享保16(1729)石組
→大正6改修
  復刻・幸野溝 昭和33改修時に内部をC巻立(坑口もC化) 施工:相良藩士・高橋政重/屈折の多い旧貫だけでは崩壊の恐れがあったため、9年後に薩摩から測量技術者を45人招いて直線トンネル(ほぼ南北)を新築/完成から23年後の享保16(1729)から、内部の合掌石組に着手(全体の2/3程度)/現在でも、湯前町、多良木町、あさぎり町の3町の農業用水、防火用水などに使われている 4
写真 小筵橋 こむしろ (下益城)美里町 一般道/小筵川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長47.00m,S11.0m(A),
幅2.0m
文化5(1808)頃   WEB(石橋) 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父) 1
写真 馬門橋 まかど (下益城)美里町 人道/津留川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m,S11.9m
(A),幅3.0m
文政10(1827) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:備前の勘五郎(棟梁)・茂吉/石工名を刻んだ石柱が立つ 1
写真 二俣渡(二俣第一橋) ふたまた (下益城)美里町 人道/釈迦院川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長28.0m(A),
幅3.3m
文政12(1829) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・右側の橋 1
写真 二俣福良渡(二俣第二橋) ふたまた・ふくら (下益城)美里町 人道/津留川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長27.0m(A),
幅2.5m
文政13(1830) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/写真・左側の橋 1
写真 霊台橋 れいたい (下益城)美里町 人道/緑川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長89.9m,S28.4m
(A),幅5.4m,
高16.0m
弘化4(1847)
→明治33嵩上げ水平化
→昭和55原形復帰
国重文 重要文化財霊台橋保存修理工事報告書 復元的修復/上流南側の鞘石垣は、昭和41の新霊台橋の架設の際に撤去 施主:惣庄屋・三隅丈八、石工:宇助、宇一、丈八(嘉八の長男~三男、丈八は後の橋本勘五郎)ら/近世最大径間の道路用石アーチ橋(現存する国内石アーチの径間長では3位だが、残る2橋は大正と昭和の築造で、比較することすらナンセンス)/美しい曲面で構成された2段の鞘石垣が特徴=下流北側の鞘石垣は、アーチ部分を巻き込んで積まれており、水勢からアーチの基礎部分を保護し崩壊を防ぐ「水制」の役割を担っていた/近代に入り交通のため一旦水平化したものを、再度原形に戻した珍しい例 1 写真
写真 大窪橋 おおくぼ (下益城)美里町 人道/津留川 石アーチ橋
(凝灰岩)
長19.3m,S12.0m
(A),幅2.7m
嘉永2(1849) 町有形 WEB 保存状態良好 石工:丈八(後の橋本勘五郎)・新八 1
写真 舞鹿野田橋 もうかんだ (下益城)美里町 人道/緑川水系 石アーチ橋
(凝灰岩)
長6.7m,S5.0m
(A),幅1.8m
江戸末期 町有形 WEB 路面舗装/アーチが変形   2
写真 雄亀滝橋 おけだき (下益城)美里町 柏川井手/緑川 石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長15.5m,S11.8m
(A),幅3.6m
文化15(1818) 県重文 WEB(石橋) 保存状態良好/水路はC化 石工:岩永三五郎/岩永三五郎の初期の記念碑的な作品/通潤橋に先行する大型水路用石アーチ/橋の上は水路に石蓋/上流右岸側に1/4円筒状の突起 2
写真 風呂橋 ふろ (下益城)美里町 萱野用水/風呂川 石アーチ橋(水路)
(凝灰岩)
長10m(A),
幅0.8m
文政2(1819)?   町教委 保存状態良好   1
写真 沈み塘 しずみども (上益城)美里町・
甲佐町
緑川、津留川合流点下流側 石導流堤
(カマボコ型)
長160m,
最大幅25m
戦国末期~江戸初期   甲佐町教育委員会/大本照憲 下流側に自然堆積砂州が延びている 加藤清正の可能性/緑川、津留川の合流部移動に伴う流水処理。右岸側の轡塘と一体的に機能していたと推測される 2
      (玉名)玉東町                    
      (玉名)長洲町                    
写真 江田の道路遺構 えだ (玉名)和水町 <西街道西路> 道路 長約60m,幅7-8m 古代   木下 良 東3分の1は薮で視認不可 肥後国江田駅近くの西梅道西路/帯状窪地が続く=典型的な道路遺構 3
写真 腹切坂の切通し はらきりざか (玉名)和水町 <豊前街道> 切通し 長約280m,
最大高約7-8m,
幅3-5m
江戸初期以前 国史跡 町教委 長年の洗掘で6mえぐられていたのを、埋め戻した 永ノ原台地~寺ノ本間の急坂/慶安4(1651)の『御帳之控』に地名が現れる 2
写真 上板楠神社の眼鏡橋 かみいたくす (玉名)和水町 人道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.6m,S2.8m
(A),幅1.1m
文政-天保(1818-43)頃   町教委 保存状態良好 橋の中央部のみ装飾高欄を配した特殊な形態 1
写真 永ノ原の郡境石 ながのはら (玉名)和水町・
山鹿市
<豊前街道> 境界石(凝灰岩) 高155㎝m,幅32㎝,厚31㎝ 江戸期?   町教委 原位置 (正面)「従是西北 玉名郡」/玉名郡~山鹿郡 1
写真 平野井手の取水堰 ひらの (玉名)和水町 平野井手 <取水堰>   文化6(1809)   町教委/平野井手由来 本体はRC化/石堰の一部を復元 施主:庄屋・北原松右衛門/堰体の両脇に石積構造が残る(現地では、「石畳」と呼称している) 3
写真 平野井手の樋門 ひらの (玉名)和水町 平野井手 石樋門 開口部幅0.78+0.76m(2門),高1.08m 文化6(1809) 町史跡 町教委/現地解説板 元の水路の横に移設 施主:庄屋・北原松右衛門/昭和62の河川改修で、180年間堤防下に埋もれていた樋門を発掘・復元した 2
写真 平野井手の真府 ひらの、まぶ (玉名)和水町 平野井手 素掘トンネル
(水路)
長約35m,
高約1.8m
文政13(1830)   町教委/平野井手由来 保存状態良好/非現役施主:庄屋・緒方勘左衛門/平野井手完成当時、山を迂回→洪水被害→トンネルを2ヶ所掘削/現役 2
写真 永ノ原の櫨並木 ながのはら (玉名)和水町 <豊前街道> 櫨並木
(産業遺産)
長約1.5㎞,
17-18本
江戸期   町教委 残存状態悪い 細川藩らしい櫨(ハゼ)並木/安政5(1858) に設置された藩営製蝋所で加工された/多くが薪炭にされ、残存数は少ない 3
写真 トンカラリン   (玉名)和水町   石積暗渠、素掘トンネル、切通し 全長464.6m 江戸期orそれ以前 県史跡 町教委 保存状態良好/観光地化 「謎の隧道遺構」⇒成因は、信仰遺跡、排水路(平成7の農業土木の専門家による学術的検討により、この案はほぼ否定された)、抜け穴、鉄穴流しなどの諸説あり 2
写真 豊永の道路状遺構
(鞠智城への「車路」・跡)
とよなが (玉名)南関町 <車路> 道路 長約170m,110m
の2ヶ所,
最大幅約22m
古代   木下 良 道路に平行して、明確な痕跡が確認できる 西海道西路から、「車路」と呼ばれた道路で鞠智城下から託麻(古代肥後国の中心地)に至っていた(分岐点が、豊永) 2
写真 麻扱場橋 おこんば (玉名)南関町 大津山公園/<内田川> 石アーチ橋
(凝灰岩)
長11.9m,S8.9m
(A),幅2.8m
江戸末期? 町有形 町教委 移設/保存状態良好 種山石工の流れを組む地元の作/中央部が迫石だけの、太鼓型のアーチ 3
写真 細永の道標 ほそなが (玉名)南関町 尾楢
<豊前街道・高瀬街道>
石道標(尖頭角柱、凝灰岩) 高125㎝,幅25㎝,厚26㎝ 江戸期?   町教委 原位置 (正面)「右 た可せ道」、(左面)「左 やま可道」 1
写真 新開橋 しんかい (八代)氷川町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.6m,S3.1m
(A),幅2.88m
文政3-天保6(1820-35)頃   町教委/WEB 上部C改修・拡幅(大幅)   4
写真 蟇田橋 ひきた (八代)氷川町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長5.5m,S3.5m
(A),幅2.7m
文政3-天保6(1820-35)頃   町教委/WEB 上部C改修・拡幅、ガードレール化/蔦が繁茂   4
写真 吉無田橋 よしむた (八代)氷川町 一般道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長3.54m,S2.6m
(A),幅2.68m
文政3-天保6(1820-35)頃   町教委/WEB 上部C改修・拡幅/側面に蔦が繁茂   4 -
写真 郡代御詰所眼鏡橋 ぐんだいおつめしょ (八代)氷川町 人道/氷川大堰用水 石アーチ橋
(凝灰岩)
長12.8m(A),
幅2.7m
天保年間(1830-43) 町有形 町教委
/WEB(石橋)
移設/保存状態良好 中央部が迫石だけでできている 2
写真 明神社眼鏡橋 みょうじんじゃ (八代)氷川町 人道 石アーチ橋
(凝灰岩)
長7.5m,S6.0m
(A),幅1.8m
天保年間(1830-43)   WEB(石橋) 上部C改修・拡幅(小規模) 中央部が迫石だけでできている/扁平 3
写真 沖塘第一樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅12.2m(5門),奥行5.4m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る/平成20頃、石が割れたため一部積直し 施主:惣庄屋・下山群次/大鞘樋門群とよく似た構造/現存施設の建造年代は混合しているが、1ヶ所に7基の樋門が集中して残っているのは稀(7基中1基は完全改修→市の樋門番号に入っていない。実際には、二番と三番の間に現存) 4
写真 沖塘第二樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.0m(3門),奥行3.4m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第三樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅7.0m(3門),奥行3.9m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第四樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅13.3m(5門),奥行4.7m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 保存状態良好/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上/5門の干拓樋門が現存最大級 2
写真 沖塘第五樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.6m(3門),奥行3.5m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第六樋門 おきども (八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) (3門) 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                       

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