防波堤 

   都道府県別データ一覧にあるCランク以上の防波堤

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 磯崎湊の波止・跡 いそざき 千葉/館山市 船形漁港
<磯崎湊>
石防波堤 長85m 安政5(1858)頃   市教委/WEB/千葉県の産業・交通遺跡p146 台風で崩壊し明治6再建→関東大地震で陸地化 船形港に造られた東西2つの防波堤の名残り→東防波堤は旧岩盤堤をコンクリートで巻き現在の船形突堤に、西防波堤はそのまま陸地化 3
  海鹿島の防波堤・跡 あしかじま 千葉/銚子市   石防波堤   寛延4(1751)   市教委 現況不明 銚子の豪農・六代目田中玄蕃が、6年と200両を費やして造ったとされる  
写真 象の鼻防波堤 ぞうのはな 神奈川/横浜市(中区) <横浜港・東突堤> 石防波堤 長102.4m 慶応3(1867)   WEB 関東大震災後補修(C被覆)/平成21に横浜開港150周年事業として「象の鼻パーク」として修景・側面の石積みを復元 横浜港で最古の施設/安政5(1858)に)に横浜運上所北側海面に造られた2本の突堤のうちの東突堤が慶応2の大火後に逆 L字型に伸延された時の伸延部(当初の突堤は明治29の大桟橋に取り込まれて消滅)→大正12の関東大地震で直線に近く改修〔上の写真〕→平成21に慶応2の形に戻す〔下の写真〕 2 写真
写真 和賀江嶋築港・跡 わがえじま 神奈川/鎌倉市 相模湾 築港遺跡
(石防波堤)
  貞永元(1232) 国史跡 WEB 干潮時に巨石の石積みが見られる/所々に根石と思われる相当大きな石や瓦礫が残る 現存する日本最古の築港遺跡/勧進僧・往阿弥陀仏が、三代執権・北条泰時に進言して造ってもらった/遠浅で風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、防波堤の役割を果たしたと考えられる/大きな根石を置き、その上に丸石を積みあげて築造 3 写真
写真 武ガ浜波除け たけがはま 静岡/下田市 <下田港> 石防波堤
(導流堤を含む)
長620m(初代)
→長600m(再建)→長127m(現存部)
正保2(1645)
→安政2(1855)再構築
市史跡 市教委 表面・間知石→近代の改修 2代目下田奉行・今村伝四郎が家臣の薦田景次・大田正次に命じて築造(稲生沢川の流路を確保し、下田の港町を風浪から守るため)/元禄16(1703)、宝永4(1707)の地震と津波で被災・復旧→安政大地震後の津波(1854)で全面的に決壊→延べ17万余の人足、1900余両をかけて新波除けを構築 3
写真 東幡豆港の旧防波堤 ひがしはず 愛知/西尾市   石防波堤 長36m 天保15(1844)   幡豆町教育委員会 小規模な修復 森川の堤を利用し大風・高潮を防ぐ目的で建設(昔は、森川に舟が入り船溜りにもなっていた) 2
写真 桑畑港防波堤 くわはた 愛知/西尾市   石防波堤 長24m 弘化5(1848)→明治期に修繕?→平成2先端を数m削る   幡豆町教育委員会/幡豆歴史民俗資料館 大規模な改修   3
写真 矢橋港の石積突堤 やばせ 滋賀/草津市 <矢橋渡し場> 石突堤(3基) ①長73m,幅2.8m
,高1.1m,
②長42m,幅3.7m
,高0.9m,
③長29m,幅1.7m
,高0.9m
江戸期   市教委/WEB 発掘→②と③は残存突堤を整形して復元、①は人道化/陸上の公園内/①の脇に下記の「矢橋の常夜灯」 矢橋港の突堤/港の突堤が(陸上にせよ)現存することは稀 3
写真 和田大波止 わだ 和歌山/(有田)広川町 畠山堤防の前面の沖合い 石防波堤 長220m 江戸初期→何度も修理   津波略史と防災施設p21-23,27-32 宝永の南海大地震で破損し修復→再度破損→安政の大地震後も放置⇒津波除けではない/C化され、石材が散在  紀州藩初代藩主・徳川頼宣の命で構築/「畠山堤防」を構築した畠山氏の城館と港を守るため/宝永の南海大地震の破損時の修復は大庄屋・飯沼若太夫 4
写真 大輪田泊の石椋 おおわだのとまり、
いわくら
兵庫/神戸市(兵庫区) <大輪田泊> 石防波堤(花崗岩) 20数個→1個 奈良時代後半~平安中期?   市教委/WEB/神戸港1500年p76 1個のみ展示/学術的検証は行われていない/現地解説板では大輪田泊の石椋として解説/その他の石は麻耶埠頭の埋立に使用されたと推定されている 天平12(740)頃に行基が定めた五泊の1つ/『日本後紀』の弘仁3(812)の条に大輪田泊修築のことが記載(造大輪田船瀬使により石椋の設置、泊の修築が行われた)/平清盛による大輪田泊の大修築(承安3(1173)に人工島である経が島の竣工で完了)/巨石を積上げ、周囲を松杭で補強した港湾施設に使用されたと推定される石材/石椋とは古代の防波堤(波消し)や突堤の基礎/昭和27の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に一定間隔で打ち込まれた松杭と共に重量4tの巨石20数個を発見→昭和42竣工の摩耶埠頭築造の際に埋立材料として使用、1つのみ摩耶埠頭竣工記念碑として公園に設置→平成15に新川運河付近で奈良時代後半~平安中期の港湾遺構が発掘されたため、石椋の石材であった可能性を考えて現位置に「古代大輪田泊の石椋」として再モニュメント化(石椋の石材であったかは多分に疑問が残る) 4 写真
写真 明石の古波止 あかし、
ふるはと
兵庫/明石市 明石川 石防波堤 長約150m,
幅約13m
慶長19(1614)?   市教委/市土木交通部海岸課 保存状態良好(干潮時に姿を見せる) 明石藩主・池田由之/明石川に入る船のために河口に築かれた防波堤 2
  明石港突堤・跡 あかし 兵庫/明石市 <明石港>  石突堤   元和6(1620)   市教委 旧灯台付近のみ残存? 現在は明石港旧灯台の土台となっている突堤/明石城石垣と同じちぎり工法、合い端合わせが使用されている 4
写真 居組港防波堤 いぐみ 兵庫/(美方)新温泉町 <居組港> 石防波堤   江戸期   町教委/安本恭二 改修の程度は不明    
写真 菊港の防波堤(西堤) きく 鳥取/(東伯)琴浦町 菊港 石防波堤(玉石) 長90m,幅5.3m,高3.4m 18世紀前半 選奨土木遺産 町教委/歴史の道8p69 保存状態良好/途中で途切れ、その先はテトラポットで補強 日本海側で最も旧状を留める近世防波堤/承応年間(1652-55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石 2
写真 菊港の防波堤(東堤) きく 鳥取/(東伯)琴浦町 菊港 石防波堤(玉石) 長150m,幅13.8m,高2.3m 18世紀末~19世紀初頭 選奨土木遺産 町教委/歴史の道8p69 若干の改修 承応年間(1652-55)に藩倉と船番所が置かれる/築造時期については、諸説あり(東堤:享保・元文、西堤:寛政、文政)/人頭大の玉石 2
写真 牛窓・一文字の波止 うしまど・いちもんじ 岡山/瀬戸内市 牛窓港 石防波堤(花崗岩) 長678m,高2.7m 元禄8(1695)   歴史の道7p9 2度にわたって大改修/旧石堤は新規構造物の下に埋没 津田永忠/江戸期の防波堤としては群を抜いて巨大(しかも離岸堤)/犬島産の花崗岩を使用 4
写真 大多府港の元禄防波堤 おおたぶ 岡山/備前市
(大多府島)
大多府港 石防波堤
(花崗岩、巻石)
延長129.7m 元禄11(1698) 国登録 馬場俊介 先端部を二重巻石に改造 施工:津田永忠/国内現存・現役最古級の保存状態の良い大型防波堤/典型的な巻石タイプの防波堤で、形態としての曲面、構造としての空積の相乗効果で波のエネルギーを巧みに消している(これ以降にヨーロッパで造られるようになる垂直タイプの防波堤=「波力に対抗する」とは正反対の発想)/瀬戸内海航路の港としてではなく、荒天時の避難港して整備された 2 写真
写真 桂島・櫛島間の防波堤 かつら、くし 島根/松江市 <加賀港> 石防波堤 長325m,高(海底から)3.6m,底幅27m,天端幅9m 寛政2(1790)   市教委/島根県の歴史街道p246/山陰中央新報社(2008.8.18) 全体に保存状態良好/防波堤上に細いC遊歩道を整備 計画・施工: 松江藩七代藩主・松平治郷/加賀港の入口にある桂島と櫛島を長さ180間、底幅15間、天端幅5間の巨大な防波堤でつないだもの→加賀港に停泊できる船を増やすことで海運振興を目指した/藩の役人(総計82人)の陣頭指揮で、伝馬船延べ33600隻、石を突き固める人夫8000人、捨て石人夫3000人を使い、わずか18日間で完成したとされる 2 写真
写真 津摩浦の防波堤 つまうら 島根/浜田市 津摩漁港 石防波堤 長63m,高5m 天保7(1836)頃   市教委 内港側に江戸期の石積がよく残る/途中まで天端C舗装 津摩浦大年寄・桑原善兵衛が漁民と協議の上、文政7(1824)に長63mの石突堤の築造を計画→風波が激しく再三失敗→200両を寄付し岡山から石工を招いて完成させた 2
写真 千砂子波止 ちさご 広島/呉市
(大崎下島)
御手洗港 石防波堤 長約120m(うち、沖出し約90m) 文政12(1829)   市教委/調査 平成に台風被害により修理 石材30万個/石積みの巧みな職人を選りすぐって造らせた/鶴と亀を波止の根元に陽刻/波止築造時に周辺の護岸(岸壁・波返し)も併せて整備 2
写真 大可島の波止(大波止) たいが 広島/福山市 鞆港 石防波堤(花崗岩) 長90.5m→144m 寛政3(1791)
→文化8(1811)
  馬場/WEB/Mook鞆p42-25 大規模な改修 石工:備前・児島栄五郎→播州高砂・工楽松右衛門により修理+延長/全体が野面石を利用した穴太整層積みになっているが、部分によって谷積みや布積みに変化しており、年代や石工が異なることが伺える/堤体に7つの階段雁木がほぼ等間隔に設置/先端部分は明治18(1885)築造のもの 3
写真 淀姫神社の波止 よどひめ 広島/福山市 鞆港 石防波堤(花崗岩) 長36m 寛政3(1791)   WEB/Mook鞆p46   石工:備前・児島栄五郎/先端部が三段構造になっている/当時は野面石を利用した穴太整層積みだったが、修築され切石(布石)による間知乱層積み(谷落し積み)に変化 2
写真 玉津島の波止 たまつ 広島/福山市 平漁港 石防波堤(花崗岩) 長146m 弘化4(1847)   WEB/Mook鞆p47 根元部分をC補修/一部崩落 豊後佐伯・柴田宗左衛門によって築造/断面が蒲鉾型になっている/非常に美しい巻石防波堤 2
写真 須波波止 すなみ 広島/三原市 須波漁港 石防波堤 南堤:長75m
北堤:長53m
元禄3(1690) 県史跡 市教委/WEB 北側倒壊/天端C舗装/側面に当時の石積みが残る 東風が強いのを見かねた楢崎正員(三原城主に招かれた儒学者)が、私財を投じて波止を築き海運の便を図った/17世紀の防波堤 3
写真 恵美須ヶ鼻波止 えびすがはな 山口/萩市   石防波堤 長51m 安政3(1856)以前 世界遺産 山口県の近代化遺産p139 基底部の一部が海岸埋め立てにより埋没、北側の付け根の石積み後年の補修か? 萩の外港の1つ小畑浦の防波堤として築造されたと推定/遅くとも、萩藩が西洋式帆船・丙辰丸・庚申丸を建造した恵美須ヶ鼻造船所が開所した安政3には存在していた/萩の黒石で造られた「黒い防波堤」→地域性 2
  牛島漁港西崎の波止 うしま・にしざき 山口/光市(牛島)   石防波堤 延長32m(江戸期) 安政3(1856)
→明治20(1887)大改修
  WEB ほぼ改修 100年以上の歴史を持たれた石垣防波堤と護岸が、当時の姿のまま現在でも利用されている/個人所有/未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 4
写真 沖家室洲崎防波堤 おきかむろ、すさき 山口/
(大島)周防大島町
  石防波堤 長120m 文化14(1817)   山口県の近代化遺産p138 先端部に石積防波堤を追加/現役 地元住民が協力して築造/多くの廻船・漁船の係留地として繁栄をもたらした/久賀の石工の技術を駆使して築造→激しい潮流・波浪の衝撃を巧妙に分散・緩和する構造/典型的な子持波止(内港側に一段低い犬走りを有する) 2
写真 久賀の古波止 くか 山口/
(大島)周防大島町
  石防波堤 長90m,高5.2m 文政9(1826)   山口県の近代化遺産p136-137 古波止を護岸替わりにして港内の埋め立てが進んだため半分は埋没、天端C補修、先端部追加 庄屋・伊藤惣左衛門が自費で半年の歳月をかけて築造(海運業と漁業の発展のため)/久賀の石工の技術を駆使して築造→激しい潮流・波浪の衝撃を巧妙に分散・緩和する構造/典型的な子持波止(内港側に一段低い犬走りを有する) 3
写真 真浦港の東波止・西波止 まうら 香川/観音寺市(伊吹島) 真浦港 石堤防、船溜り (東)当初長27m 19世紀第1四半期(文化・文政期)→慶応2(1866)   WEB 明治17の台風で両波止はほとんど崩壊/頂部と犬走りがC化/当初部分が分からなくらい、すべて積み直し 両波止とも、基礎部の石積みは安山岩板石を縦横に交えた独特の乱積みであり、崩壊を免れたオリジナル部分と推定できる(写真の右最下部が該当部分かどうかは不明) 4
写真 曽保漁港の南防波堤 そほ 香川/三豊市 曽保漁港 石防波堤 長70m→約40m 文化14(1817)   WEB 昭和戦前まで使用/南防波堤の伸延部は、明らかに昭和戦前期の構築 南防波堤の基部の先端(半球状の突起を含む)は、小型の砂岩と花崗岩の乱積みで、恐らく当初の形態を保っていると推定される 3
写真 本村漁港の二号防波堤 ほんむら 香川/三豊市 本村漁港 石防波堤 長72m→約40m 幕末   WEB 昭和初期まで使用/上部の花崗岩の布積は近代の追加。また、2号防波堤の先端部も近代の追加 2号防波堤の基部(長約40m)は、小型の砂岩と花崗岩の乱積みで、恐らく当初の形態を保っていると推定される 3
写真 岩谷漁港の東防波堤 いわがたに 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
岩谷漁港 石防波堤 長98m→136m 江戸期→明治~大正期   現地 改修の跡は見られるが、全体として良好な保存状態 港の台帳では近代の構築となっているが、450年の歴史を持つ港であり、小型の花崗岩の乱積みと、平面的にも立面的にも不整が大きいことから、台帳の記載とは異なり、近世の由来の可能性も排除できない 2
写真 岩谷漁港の西防波堤 いわがたに 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
岩谷漁港 石防波堤 長66m 江戸期→明治~大正期   現地 改修の跡は見られるが、全体として良好な保存状態 同上 2
写真 小瀬港一号繋船堤 こせ 香川/(小豆)土庄町
(小豆島)
小瀬港 石突堤 長27.5m 江戸初期?   WEB 天端はC打設/先端部はオリジナルの可能性 大坂城石垣石の積出港/現役最古の防波堤/資料では「安土桃山時代?」とあるが、徳川大坂城の石材積出し港なので江戸初期のはず 2
写真 元・北浦港 旧南防波堤 きたうら 香川/(小豆)土庄町
(小豆島)
大坂城残石記念公園北浦港 石防波堤 長97.0m 江戸初期?   WEB 埋立・公園化→小海残石群を旧防波堤上に陳列 大坂城石垣石の積出港/資料では「安土桃山時代?」とあるが、徳川大坂城の石材積出し港なので江戸初期のはず 4
  一文字防波堤 いちもんじ 愛媛/松山市 堀江港 防波堤(離岸堤) 長約180m 安政2(1855)   WEB 昭和21南海大地震後に大改修 "一文字防波堤"の両側に「ハ」の字を作るように2本の防波堤が付属→港への出入口が東西2ヶ所ある独自の形態は保持/村民の自普請→藩は、村民の工事代金返済を助けるため、10年間にわたって芝居・相撲興行を春季1週間以内、牛馬市を秋季5日以内許可した 4
  青島漁港の防波堤 あおしま 愛媛/大洲市(青島)   石防波堤 長48.5m
(西3号防波堤)
元治2・慶応元(1865)頃   WEB     2
  磯崎港の石波止 いさき 愛媛/八幡浜市 磯崎港 石防波堤
(緑泥片岩)
  弘化4(1847)頃 市史跡 市教委 昭和33にCによる嵩上げ(本体は石のまま、頂部にC版が載る形) 藩に請願した「磯崎浦波戸勧化之事」の願文が現存(天保14に多くの難破船が出た→波戸が完成すれば生命・船・物資の損失がなくなる→工事資金の助成・寄付を願う内容 3
写真 手結港の防砂堤 てい 高知/香南市   石防波堤 長20m弱 承応元(1652)   宰相野中兼山p270-271 新堤防で囲まれて機能していない かつての手結港は遠く離れた物部川からの漂砂で埋設→物部川とは反対の南方から手結岬を廻り込んで寄せてくる漂砂を防ぐための措置 3
写真 三津漁港の小突堤 みつ 高知/室戸市 三津漁港 石突堤   江戸期?   高知の近代化遺産p50 ほとんどが昭和戦前以降の施設 享保元(1716)に捕鯨組によって開設された捕鯨の拠点/小突堤は恐らく藩政期のもの 3
写真 柏島突堤 かしわじま 高知/(幡多)大月町
(柏島)
  石防波堤 長270m,高2.7m,幅3.6m(当初) 万治元(1658)? 県史跡 市教委
/松岡 司
保存状態は最悪(巨大なC堤の下にわずかに残るのみ)/嵩上げ(基部原型) 野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)/島の南東隅から半島に向けて築かれた大突堤(堤敷き32.7m,捨石幅左右91m) 4
写真 宇島港12号護岸
(地波止)
うのしま 福岡/豊前市 宇島港 石防波堤   文政8(1825)   市教委/歴史的な港湾施設資料集 埋立により天端部分のみ現存しているが、放置されている 外側に、根切り石を護る捨石として無数の巨石を敷設/米運送のための舟着場の整備と、諸国廻りの船舶の難波防止のため建設 3
写真 宇島港2号波除堤
(新波止)
うのしま 福岡/豊前市 宇島港 石防波堤   弘化3(1846)   市教委/歴史的な港湾施設資料集 外形が残っているが、前面と天端部分はコンクリート被覆   4
写真 浜崎浦の石波止 はまさきうら 福岡/(遠賀)芦屋町 遠賀川 石防波堤 長109m(当初) 延亭2(1745)   町教委 明治12に崩壊後、長127mに修復、その後、さらに継ぎ足している/どの部分に原形が残るか不明 俵屋吉永清三郎が私財を投じて建設 3
写真 福田大番所の船囲場・跡 ふくだ 長崎/長崎市 小浦町 石護岸、石防波堤 石護岸: 長約50m
,石防波堤: 先端部の長約20m
弘化3(1846)   WEB(みさき道人) 石積を含め比較的良好な保存状態 長崎に異国船が来航した時、この港から大村藩士が乗り込んだ番船が出港し長崎の警備に当たった(警備役人の詰所としての御舟蔵) 2
写真 板敷浦の新蔵波止
(大村藩御船蔵)
いたじき、
しんぐらばと
長崎/大村市 <大村藩> 石防波堤 長約60m 貞享3(1686) 県史跡 WEB 保存状態良好 貞享3に幕府が官米3000石を筑前から運んで預けた時2棟の新蔵が造られた→波止もその時築かれた→以後は藩船などの発着に利用された 1
写真 板敷浦の玖島城船役所の突堤 いたじき、
くしま
長崎/大村市 <大村藩> 石突堤 長約30m 江戸期 県史跡 WEB 保存状態良好 藩の船役所のための船着き場の附属施設 1
写真 福江港の常灯鼻導水堤 ふくえ、
じょうとうばな
長崎/五島市(福江島) <福江川港> 石防波堤   嘉永元(1848)   WEB 常灯鼻の部分のみ保存/その他の部分は付け替え(異なる場所に新設) 野面積で巻石構造とした防波堤(当初) 4
写真 高後崎藩所の御船江・跡 こうござき 長崎/佐世保市 俵ヶ浦半島 石防波堤、石突堤   正徳4(1714)   WEB/市教委 石突堤は天端部がC化 平戸藩が領内各地に設けた船番所の1つ、高後崎番所の御船江 2
写真 早岐瀬戸の突堤 はいきせと 長崎/佐世保市 早岐 石突堤   嘉永元(1848)以前   市教委 側壁C化/基部に道路/C製の付属物 早岐瀬戸の最も狭い部分に築かれた石突堤/急潮を狭め、沿岸を港として利用できるよう考えられたもの/『平戸八景』(1848)に石でできた突堤の様子がリアルに描かれている 3
写真 厳原港の中矢来・跡 いづはら、
なかやらい
長崎/対馬市 厳原港<府中港> 石防波堤   寛文11(1670)   市教委
(厳原町誌)
陸側が埋め立てられ護岸として残る/石垣は当時のまま 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ。府中(現厳原)の港湾機能の整備と海上運輸の拠点とするため、外やらい(矢来)長さ30間、広さ4間、高さ2間半、中やらい(矢来)長さ70間、内やらい(矢来)長さ16間、広さ3間半を構築 2
写真 厳原港の内矢来・跡 いづはら、
うちやらい
長崎/対馬市 厳原港<府中港> 石防波堤   寛文11(1670)   市教委
(厳原町誌)
一部残存 同上 3
写真 舟瀬の古波止 ふなせ 長崎/
(北松浦)小値賀町
(小値賀島)
  石突堤 長約10m(現存部) 寛永元(1848)以前
〔原形は建武元(1334)?〕
  町教委/WEB(牛の塔建設物語) 天端部C/かつて突堤中間に建っていた「牛の塔」の石造覆屋が大正元に落成したため大きく改変/石積も創建時のものかどうか不明 野面積の突堤/建造年不明→寛永元に郡代により作成された船瀬牛の塔界隈の絵図に描かれている/突堤の中央に、下記の「建武の新田」築造の際に建立された「牛の塔」があるため、港湾目的がどうかは別として突堤状の構築物は「牛の塔」の建立時からあったものと推測される 3
写真 富来港の防波堤 とみく 大分/国東市 富来港 石防波堤 東防波堤: 長約40m 天保15(1844)   市教委 東防波堤は良好に保存、西防波堤はC補修/現役の港 富来城は富来川河口の富来港に面した平地に築かれていた 2
写真 鹿児島港新波止 かごしま 鹿児島/鹿児島市 鹿児島港 石防波堤 長約140m 嘉永6(1853) 国重文/選奨土木遺産 鹿児島縣維新前土木史 海岸の護岸、もしくは、陸上の2ヶ所で確認できる 薩摩藩政時代の末期に築造された石組造の防波堤/鹿児島港の旧石積防波堤(新波止、一丁台場、第一防波堤より構成)の最北端に位置する 2
写真 羽島漁港の防波堤 はしま 鹿児島/
いちき串木野市
羽島漁港 石防波堤 長約80m 江戸期 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 WEB 外港側は練積化 外港側の緩斜面の石積、内港側の宮勾配を持った石積の双方とも非常に特徴的/藩政の命令により、西郷隆盛が青年期に漁港を修復した史実がある 2
写真 捍海堤 かんかい 鹿児島/指宿市 宮ヶ浜港 石防波堤
(凝灰岩、階段状)
長215m,高5m 天保5(1834) 国登録   先端部を除き港外側がC補修 現存する近世最大級の石防波堤/大波や大風の度に船が転覆していたのを受け薩摩藩主の命で建設/側面が階段状、頂面が曲面、先端の3次曲面が美しい 1 写真
写真 西之表港の波止 にしのおもて 鹿児島/西之表市(種子島) <旧・赤尾木港の岸岐> 石防波堤 長75.6m,幅21.6m 文久2(1862) 市有形 市教委/WEB 波止先端部に建造当初の石積が保存 松寿院(第23代島主種子島久道夫人)の主な事業の一つ/布積くずし風に積まれた見事な巻石防波堤 2