用水切通し 

   都道府県別データ一覧にあるCランク以上の用水切通し

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  通称V字谷の切通し   山形/二本松市 旧二合田用水 切通し(水路) 長約2㎞ 寛文年間(1661-72)   市教委 山岳地形を利用したV字型の素掘り水路が残る 城下の防衛・防火・灌漑用水が目的/生活排水を綺麗にするなどの衛生面にも役立てられた 2
  粟沢川掘抜 あわさわがわ 長野/伊那市 粟沢川 切通し(水路)   弘化元(1844)   WEB 道路工事により掘抜きを拡幅/往時の雰囲気は留めていない 城山に切り通しを作り、栗沢川の流路を三峰川へ繋げるように変更する大工事を行った 4
写真 エンゲ切通し   三重/(多気)多気町 立梅用水 切通し(水路)   文政6(1823) 町史跡 現地解説板 保存状態良好/現役 片麻花崗岩でもろく崩落しやすく、また山が低いためトンネルとせず、切通しが採用された 1
  平岩用水の堀割 ひらいわ 福井/坂井市 竹田川(右岸) 切通し(水路) 長83.6m,幅1.21
m,深1.21m
慶応3(1867) 歴史の道1p96   現役使用/雑草が繁茂 平岩用水の取水口付近岩盤を開削した水路 2
写真 中鞆渕のホリキリ なかともぶち 和歌山/紀の川市 真国川 切通し(水路) 長約10m,幅:(高1.5m地点)50㎝,(底幅)40㎝ 平安期   市教委 保存状態良好/現役 室町時代の史料に「ホリキリ」の地名が見られることや水利慣行などから、平安時代石清水八幡宮によって岩盤を開削したと想定される水路 1
  寺田用水の高堀 てらだ 兵庫/(加古)稲美町 曇川 切通し(水路) 長約350m 寛文3(1663)   WEB(ひろかずのブログ) C護岸化 寺田用水が曇川の標高より約12m高い丘を越えるために掘られた深い水路区間/高堀の「高」は村高によって、村々が費用を出して開削した事を意味する 3
写真 宿の堀抜 しゅく 岡山/岡山市(北区) 管掛用水 切通し(水路) 長約250m 寛文2(1663)     岩を開削した部分はC擁壁化/江戸期と思われる石積が一部残る 御野郡77ケ村の大庄屋金萬平次郎が私財を投じて開削 3
  森末の堀割 もりすえ 岡山/岡山市(東区) 田原用水 切通し(水路) 長約400m,深約10m 元禄9(1696)   市教委 昭和59、コンクリート護岸 砂川と吉井川の分水嶺(森末岡の乢)を切り通す/昭和28の豪雨で崩壊し、原形は失われてた 5
写真 汗入の興除用水切通し あせり・こうじょ 岡山/岡山市(南区) 興除用水→興除新田 切通し(水路)   文政7(1824)     明治42大改修 栗坂村(備中)の庄屋・八木次郎の説得で完成した興除新田(備前)に水を引くための用水の切通し区間 4
写真 田原用水・百間の石樋 たわら・ひゃっけん・いしのひ 岡山/赤磐市 田原用水 切通し(水路) 約180m 元禄7(1694) 県史跡 熊山町史 ほぼ当時のまま 田原用水のシンボル的な工事が現在でも現役で残る唯一の場所 1
写真 仰西渠 こうさい 愛媛/
(上浮穴)久万高原町
久万川(右岸) 切通し(水路),
素掘トンネル
(水路)
長57m(うち、隧道12m),幅2.2m 明暦年間(1655-58) 県史跡 WEB/市教委 保存状態良好 久万の町人・山之内彦左衛門光実(晩年、仰西と称した)が私財を投じて硬質安山岩の岩盤を開削→足立重信が行った重信川の改修、石手川の付替えや岩堰等を視察・参考にしたとされる 1
写真 行当の切抜き ゆきとう 高知/高知市 仁淀川→新川川 切通し(水路) 長40m(当初),
高10m,幅10m
慶安元(1648)頃 市史跡 春野町教育委員会/市教委 片側が道路の垂直なC擁壁 野中兼山の指示のもとで普請奉行・一木権兵衛(郷士から登用した人物)が施工した弘岡井筋の最初の難関工事(高さ11mの大岩の破砕) 3
写真 唐音の切抜き からと 高知/高知市 新川川<鳥坂山> 切通し(水路) 長100-120m,
高30m,幅12-14m
慶安5(1652)頃 <春野町史跡> 春野町教育委員会 C堰が造られイメージが変わったが、岩肌が一部に残る 上記の弘岡井筋のもう一つの難関箇所 3
写真 裂田溝(安徳台の狭窄部) さくたのうなで・あんとくだい 福岡/(筑紫)那珂川町 裂田溝の切通し部 切通し(水路) 長約5㎞の溝のうち、約200mの区間 4世紀の可能性   町教委/松木洋忠 阿蘇溶岩流を開削した区間が残る/補強用のアンカーの跡が丸見え/修景改修(遊歩道が整備されている) 日本最古の農業用水路(『日本書紀』に登場する=周辺の発掘調査からも、時代推定はほぼ確か)/溶岩流開削区間のオリジナル性は失われているが、「雰囲気」はそのまま伝わってくる。このような古代に、溶岩流を開削するだけの技術と、地形的な必然性があったことは、よく分かる 2 写真
写真 原尻古井手の切通し はらじり 大分/豊後大野市 (原尻)<原尻古井手> 切通し(水路) 長約30m 正保2(1645)   市教委 元禄8(1695)にシューカットの隧道が掘られ使われなくなった→人道として使用されている 井手跡に「正保二年」の刻銘(2ヶ所)/切通しの部分がそのまま水路になっていたのではなく、樋を通していたのではないかと推定されている/『地方温古集「井手・堤出来暦之事」』に、「正保二酉年出来、其後捨る」と記載されている 2
写真 赤見ヶ鶴井手の切通し   大分/豊後大野市 (長畑)赤見ヶ鶴井手 切通し(水路) 長30m余 元禄2(1689)   市教委/WEB 渓流側C改修/現役 取入口の上の岩に「元禄二己」の刻銘/岩山の下部をえぐり取るようにして造られている/対岸からふいごで風を送り、炭火をおこし、その熱で岩を壊しやすくしてくり抜いていったと推測されている 3