漁業遺産 

   都道府県別データ一覧にあるすべての漁業遺産(漁港の防波堤などは除く)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 神居古潭チャシ・跡 かむいこたん 北海道/旭川市 (神居古潭) チャシ(面崖式):空壕1条 壕径20m,同幅1-3m 16-18世紀   WEB(城とチャシの部屋)/現地解説板 空壕が明確に確認できる 砦としてではなく、他の目的(鮭漁の際の見張り場という説も)で使われたとされる/石狩川に面して半円状の壕で仕切る(小規模だが形態が明確)/神居古潭竪穴住居遺跡の最奥部に位置する 1
  オショップチャシ・跡   北海道/網走市 (鱒浦) チャシ(丘先式):空壕   16-18世紀   WEB(城とチャシの部屋) 保存整備やや良好 漁の際の見張り台? 2
写真 フレドイヒチャシ・跡   北海道/千歳市 千歳神社 チャシ(丘先式):空壕   16-18世紀   WEB(城とチャシの部屋) 千歳神社を建立する際、壕1条を破壊、もう1条の残りも悪い 砦というより漁に係る見張り場だった可能性も指摘 4
写真 茅部の鯡供養塔 かやべ、
にしん
北海道/(茅部)森町 蛯谷漁港 石碑(上部が膨らんだ円筒形)   宝暦7(1757) 道有形 WEB(動物のお墓)/町教委 移設/屋外設置のガラス・ケース内 (正面最下部)「鯡供/養塔」/正面を火灯窓型に浅く削り込み「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻/茅部の沿岸一帯はニシンの豊漁地として有名で、地元漁民の外に、箱館・亀田・上磯等から多数の入稼出漁者が来て盛況を呈していた/宝暦7の春ニシンは大豊漁で浜辺にニシンの山をできた→当時は乾製食料以外、搾粕の行われない時代であった→大漁にあたり漁業者合議の上土中に埋めて鰊の供養塔を建て慰霊法要をした/江戸期のニシン漁を物語る貴重な遺産 2
  エサンピラチャシ・跡   北海道/(沙流)平取町 (荷負) チャシ(丘頂式):空壕?   16-18世紀   WEB(城とチャシの部屋) 丘の形でチャシと確認できる程度 鮭漁と関係? 4
写真 カムイエカシチャシ・跡   北海道/(白老)白老町 (虎杖浜) チャシ(丘先式):土塁、空壕1条 壕長100m,同幅最大5m 寛文3(1663)以前   WEB(城とチャシの部屋) 頂部に灯台ができて一部破壊 壕に堆積していた火山灰の年代から、寛文3の有珠山噴火の少し前と推定されている→年代が考古学的に特定できる稀なチャシ/漁や航海の安全を見守るための見張り台の可能性 3
写真 大久喜の浜小屋 おおくき 青森/八戸市 大久喜漁港 漁具小屋
(寄棟茅葺)
幅5.70m,厚4.75m 江戸末期 国有形民俗 WEB 保存状態良好 集落が海岸から離れている場合に、建てられた漁具置き場/全国的に見てもこのような小屋が残っているケースは極めて稀 1
写真 船越の鰡供養塔 ふなこし 秋田/男鹿市 八龍神社 石碑(自然石) 高97㎝,幅56㎝,厚22㎝ 文久元(1861)   WEB(動物のお墓) 移設(基部C固定) (正面)「湖鰡供養塚」/八郎潟では、張切(はっきり)と呼ばれるボラの習性を利用した漁法により大量にボラが捕獲されていた 2
写真 種川 たね 新潟/村上市 三面川 御留川
(鮭繁殖用水路)
  不明→享保12(1728)に改修   市教委/WEB(サーモンミュージアム)/WEB 平成3に公園整備/平成23には「よみがえれ種川」と称し、種川再生のボランティア清掃が行われた、平成24にはシンポジウムも開催 考案:村上藩士・青砥武平治/鮭の母川回帰性の利用による天然増殖を目的とした三面川の水路/水路に鮭の産卵、孵化しやすい河床を作り、稚魚の時期に漁を禁じる事により、鮭を増殖させる方法「種川の制」が行われた→施行後は漁獲量が3-4倍に増えた/種川の制は、庄内藩が文化3(1806)に採用した/青砥は、世界で最初に鮭の母川回帰性を発見した人物、と評されることもある 2
写真 玉里御留川 たまり、
おとめ
茨城/小美玉市 霞ヶ浦 御留川   寛永2(1625)   現地解説板 明治3まで継続/現状では何も残っていない 水戸藩が、財源を確保するため、霞ヶ浦高浜入りの水域を専用漁場としたもの(漁民の反対を押し切った)/水域の東限は下玉里村稲荷森と安食村柊塚を結ぶ線、西限は高崎村鉾宮と石川村境堂を結ぶ線とされた/御留川では自由に漁業が行えなくなった→初期は、御川守が立ち会って行う「直網」→高く入札した者に漁業権を与える「入札による運上請負」に変化 5
  布佐の網代場・跡 ふさ、あじろば 千葉/我孫子市 <利根川→なま街道> 河岸   江戸期   WEB 場所が特定 利根川の狭窄部の投げ網の漁場→なま街道の出発点 4
写真 東品川の鯨供養塔 ひがししながわ 東京/品川区 (1丁目) 石碑(自然石) 高103㎝(塔身のみ),幅153㎝,
厚31㎝
寛政10(1798) 区有形 WEB(動物のお墓)/現地解説板 移設 (正面)「鯨/碑」/暴風雨のため寛政10年5月1日に品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑/鯨は体長16.5mと巨大で江戸中の評判となり第十一代将軍・家斉も浜御殿で上覧した/東京に現存する唯一の鯨碑 2
写真 原町の網納屋 はらちょう、あみなんや 東京/(大島)新島村
(新島)
  木造萱葺屋根
(寄棟、高床式)
  江戸期   村教委/WEB 昔は多数存在していた→1棟のみ残る 地引網に使われていた漁具を入れる倉庫/4本の背の高い石杭上に載る 1
写真 こんぼった石   長野/諏訪市   繋舟石 高約60㎝ 江戸期以前?   市教委/WEB   かつてこの辺りまで諏訪湖が広がっていた頃、村人が漁に出る舟を繋いだ石とされる 3
  稲取の舫石 いなとり、
もやい
静岡/(賀茂)東伊豆町 町役場・前<正定寺・北(防波堤の付け根)> 舟繋ぎ石(3個)   江戸期 町史跡 WEB 移設 船を係留するための石/イルカの追い込み漁に使われたとの説もある 2
写真 稲取の鯆供養塔 いなとり、
ほれい
静岡/(賀茂)東伊豆町 田町公民館 石碑(墓石型) 高171㎝(うち、台石34㎝),
幅36㎝,厚34㎝
文政10(1827)   WEB(動物のお墓) 移設/弘化4(1847)の嵐で塔と台石が 流され、のちに塔だけが漁師によって再発見→台石は安政2(1855)の後補 (正面)「鯆靈供養塔」/台石正面右に「當村/漁師中」と陰刻/伊豆半島にあるイルカ漁の供養碑の中で最古/鯆はイルカの意味だが、マグロ類やゴンドウクジラも含めた大魚の意味で使われたとされる 2
写真 ニ木島町の鯨供養塔 にぎしま 三重/熊野市 相川 石碑(駒型)   寛文11(1671) 県有形民俗 松崎憲三/WEB 原位置 (正面)「鯨三十三本供養」(緑字は異体字)/「三十三」→熊野の民俗としてブリ、マグロなど33本獲る毎に「万の祝」と称して祝う風習があったことに因む数字/わが国最古の鯨供養塔 1
写真 奈屋浦の支毘大命神供養塔 なやうら、
しび
三重/(度会)南伊勢町 照泉寺 石碑
(駒型、花崗岩)
(漁業遺産)
高241㎝,幅105㎝ 慶応4(1868)   県石造物調査報告2p67・202 保存状態良好 (正面)「(梵字5)支毘大命神」、(裏面)「慶應改元乙丑穀糧漸高貴也 同至三年丁卯孟春尚更 高貴以金一兩纔得求米八升而巳矣其餘森羅万象前代未聞高貴也 既而活業漁事亦少微也 悲哉郷民殆向餓死其因苦不可具言焉 然而於當浦自三月三日至十一日得鮪大漁其頭數凡三千餘 其價金凡六千兩餘也 嘗謂未曾有之奇事也 噫夫世人莫過乎其飢渇之苦患寧大旱之雲霓末足 喩猶解倒懸也 尓今偶然以此多漁得免其飢苦可謂僥倖而佛天以大慈悲贖郷民身命即浄財苦危者乎所謂無縁之攝物也 豈不思魚鱗之抜苦与樂乎蓋聞佛心者大慈悲是也故戒殺者 萬善爲要哉 外教尚謂仁冠五常況於干内典乎因勤修大施餓鬼併一七夜誦経稱佛而擬冥福者也 且毎歳三月三日春秋彼岸必須永世不退勤行追善菩提也 熟思雖今脱危苦末有信因果者 痛哉難化之地也 伏願後世往錫之尊宿以道力令開示現當兩益發生信芽乃欲使知軌干後昆更建塔 號曰 支毘大命神也 必當祈願天下泰平以郷中安寧也 慶應四年戊辰仲春 照泉寺十一世主 制譽眞如海敬識」/「支毘」はホンマグロのこと→マグロの大漁に感謝し、その供養のために建立 1
写真 伊根浦の舟屋群 いねうら 京都/(与謝)伊根町   舟屋 230軒程度 江戸末期~ 国重伝建 町教委/WEB(好奇心京都) 現在の町並みの形成は明治~昭和戦前の鰤漁によるもので、江戸期の建造物(5棟)は原形を留めていない/観光地化 伊根湾の海岸沿いに細長く形成された舟屋付きの漁村集落(日本最大)/1階は舟の格納庫や漁具などの物置場、2階は住居として使用(当初は平屋、江戸中期に半二階、昭和初期に二階建てになったとの指摘も)/潮の干満差が少ないことも、舟屋が建てられ始めた要因の一つと言われる 4 写真
  燈明崎の狼煙場・跡 とうみょうざき 和歌山/
(東牟婁)太地町
(燈明崎) 古式捕鯨   江戸期 町史跡 町教委/WEB 石積みの台が残る 山見で鯨を見つけた時、沖合番所で待機している勢子船と、地方に待機している網船や持双船に、鯨の見えた方向を知らせる3ヶ所の狼煙場の1つ 3
写真 梶取崎の狼煙場・跡 かじとりざき 和歌山/
(東牟婁)太地町
(梶取崎) 古式捕鯨   江戸期 町史跡 町教委/WEB 石積みの台が残る 同上 3
  高塚の狼煙場・跡 たかつか 和歌山/
(東牟婁)太地町
(高塚) 古式捕鯨   江戸期 町史跡 WEB 石積みの台が残る 燈明崎・梶取崎の各山見から狼煙を受けて狼煙を上げ、鯨の種類や突き捕ったことなどの状況を布旗やむしろ旗を使って知らせる山見相互の連絡をしていた狼煙場 3
写真 燈明崎の山見台 とうみょうざき 和歌山/
(東牟婁)太地町
(梶取崎) 古式捕鯨   江戸期 町史跡 町教委/WEB 石積みの山見台を復元 広大な海上で捕鯨を行う際に、全体を見渡せる高い位置から船団に指令を出していた総指揮所 2
写真 燈明崎の山見番所 とうみょうざき 和歌山/
(東牟婁)太地町
(燈明崎) 古式捕鯨   江戸期   WEB 平成4に古式捕鯨絵図を参考にして復元 捕鯨を行う上で山見相互間の連絡と海上の勢子船、網船などに指令を与えるため、太地浦(太地町)の5ヶ所に建てられた山見番所の1つ 4
写真 湖山池の石がま こやま 鳥取/鳥取市 湖山池(北岸) 魚獲施設 40-60㎡ 承応4(1655)以前 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 WEB 86基(明治期)→4基(使用可) 湖山池西岸の末恒地区だけで行われる特異な漁法(越冬中のコイやフナの習性を利用した一種の追い込み漁法)/水深約2mの水底から水面上数10㎝まで大小の石を積み上げたもの(外見は矩形の石の土台のように見えるが、内部には魚が通れるような隙間(一種の魚道)と、上から“つつき棒”で魚道を突くための穴(100個程度)があり、最奥部には洞檻という箱(捕獲装置)が設けられている 2
写真 通の鯨供養塔(くじら墓) かよい 山口/長門市 向岸寺 石碑   元禄5(1692)   WEB(動物のお墓) くじら墓のすぐそばに「くじら資料館」がある (正面上部)「南無阿弥陀佛」、(正面下部)「業盡有情雖放不生/故宿人天同證佛果」/刻字の意味は「我々の目的は本来おまえたち胎児を捕るつもりではなく、むしろ海中に逃がしてやりたいのだ。しかしおまえ独りを海へ放ってやっても、とても生き得ないだろう。どうか憐れな子等よ念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを聞いてくれるように」/古代捕鯨がさかんであった場所  
  窪津の鯨供養塔 くぼつ 高知/土佐清水市 海蔵院 石碑(道標兼) 高約110㎝ 文化9(1812)   歴史の道・ヘンロ道p215・272 保存状態良好 (台石○面)「爲鯨供養也」、(台石正面)「(○指差し)へんろみち」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる 1
写真 呼子町の鯨供養塔1 よぶこ 佐賀/唐津市 西念寺・共同墓地 石碑(蒲鉾型) 高101.5㎝(うち、台石22.5㎝),幅30.5㎝,厚22㎝ 延享5(1748)   WEB(動物のお墓) 原位置 (裏面)「万霊鯨鯢成佛」/正面に「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻、同最下部に蓮花の陰刻 1
写真 呼子町の鯨供養塔2 よぶこ 佐賀/唐津市 石上山龍昌院 石碑(笠付き) 高194㎝,
幅45.5㎝
宝暦5(1755)   WEB(動物のお墓) 原位置 (正面)「鯨鯢供羪塔」/本体上に笠付きの六地蔵を載せる/鯨組主の3代目中尾甚六が、子鯨を身ごもっていた鯨を誤って殺してしまったため、その霊を慰め供養するため、鯨1頭分の代価を当てて建立/下記の「呼子町の鯨供養塔3」と並ぶ 1
写真 呼子町の鯨供養塔3 よぶこ 佐賀/唐津市 石上山龍昌院 石碑(墓石型) 高128㎝(うち、塔身84㎝),幅36㎝ 天保2(1831)   WEB(動物のお墓) 原位置 (正面)「鯨鯢千本供羪塔」/鯨組7代頭首・甚六の頃、創業以来の鯨の捕獲数が千頭に達したことを機に供養のため建立/上記の「呼子町の鯨供養塔2」と並ぶ 1
写真 小川島の鯨供養塔 おがわ 佐賀/唐津市(小川島) 観音堂 石碑(舟型) 高70㎝,幅31㎝ 文久3(1863) 県有形民俗 WEB(呼子鯨組) 保存状態良好/3段のCブロック上に置かれる (光背右)「鯨鯢供養塔」/光背中央に地蔵立像を陽刻/小川島を中心とする「西海捕鯨」(江戸期の四大捕鯨の1つ)を代表する捕鯨遺産 1
写真 恵美須浦の鯨供養塔 えびす 長崎/壱岐市 <前目浦> 石碑
(笠付き、花崗岩)
高240㎝ 享保2(1717)   市教委/WEB 原位置 (正面)「奉讀誦大妙典一千部」(緑字は異体字)、(右面)「鯨鯢速証菩提」、(左面)「此組連綿吉祥」、(台石正面)「布屋/土肥/布谷/許斐/篠崎」/捕獲した鯨の霊を慰めるための供養塔/前目浦を見下ろす高台に設置 1
写真 水ノ浦のスクイ みずのうら 長崎/諫早市 高来町 魚垣(石垣) 外周330m,
高最大3m(沖合)
江戸期~明治中期   WEB 保存状態良好/現役で漁業利用 干満の差の大きい有明海の特徴を活かした漁法/沖縄の島嶼部には比較的多く残っているが、九州で保存状態の良い魚垣は2ヶ所のみ(島原市の「大手浜のスクイ」は再現的復元なので、オリジナルはここだけ) 1 写真
写真 守山のスクイ もりやま 長崎/雲仙市 本村名地先 魚垣 長約300m 江戸期? 市有形民俗 市教委
/WEB(みさき道人)
形は残っているが、管理や補修は行われていない この地域で江戸期に遡るスクイもあるが、昭和25以後廃業が相次ぎ、現存するスクイが江戸期由来に該当するかどうかは不明 2
写真 三井楽のスケアン みいらく 長崎/五島市(福江島)   魚垣 長約80m 不詳   WEB(みさき道人) 入札で漁業権を貸し出しているが、最近では漁獲量が減り、観光や小学校の漁業体験などで利用 江戸期代から魚垣は使われているが、唯一五島で現存する三井楽のスケアンがそれに該当するかどうかは不明(構築年代不明) 1
写真 富江町黒瀬の鯨供養塔 とみえ、
くろせ
長崎/五島市(福江島)   石碑(丸彫)   元禄3(1690)   市教委
/松崎憲三
道路拡幅→移設/Cブロック覆屋内 (台石正面)「爲鯨鯢成佛」/台石上に地蔵坐像(蓮台)を載せる/台石正面左に「紀劦 湯浅津 新右衛門」→五島では慶長2(1589)には突捉法による捕鯨が始まったとされるが、興隆するのは紀州湯浅の庄助が来てからで、碑の建立者・新右衛門はその孫にあたる/恐らく九州最古の鯨供養塔 2
写真 平戸藩御用鯉御囲池 ひらど 長崎/佐世保市   石池(長方形) 20m×8m 安政3(1856) 市有形 市教委 保存状態良好 藩御用の養鯉池として建設、藩の御料理方役人・松尾氏が管理/近世由来の鯉の養殖池としては国内で唯一現存 1
写真 江島の鯨納屋場・跡 えのしま 長崎/西海市(江島)   納屋場
(石塀?、石井戸)
  明暦2(1656)以降 市史跡 現地解説板/市教委 江戸期の井戸の奥には明治期に軍施設が設置されたため、納屋場の遺構か軍の遺構かは不明(市教委)→写真左奥の石塀は、石の積み方から江戸期の納屋場の遺構である可能性が高い(馬場) 深澤組(推定、江戸時代に西海捕鯨の先駆として活躍した鯨組=紀伊の太地浦で突取捕鯨法を学んだ浅井太郎左衛門を始祖とする)の納屋場
(鯨の解体・加工場)→明暦2は、2代目の儀太夫勝幸が大村藩から操業を許された年→深澤の名を賜るのは第4代大村藩主(1651-1706)の時なので、「深澤組の納屋場」と断定すると時代はさらに下る→実際には、現存遺構の建設年代は不明で江戸期の施設であることが明確なのは井戸のみ/捕鯨遺産
3
写真 大手浜の石干見(スクイ) おおてはま 長崎/島原市 大手浜海岸 魚垣(石垣) 長280m
(半楕円形)
江戸期   WEB 何度も修復され、平成20には地区住民約40人で修復した 干満の差の大きい有明海の特徴を活かした漁法/沖縄の島嶼部には比較的多く残っているが、九州で保存状態の良い魚垣は2ヶ所のみ(島原市内だけで、かつては29ヶ所のスクイがあった) 2
写真 御崎浦鯨組納屋場・跡 みさきうら 長崎/平戸市(生月島) 生月町御崎 捕鯨解体場   享保14(1729)以降 <生月町史跡> WEB(みさき道人) 土地の区画石組、水路、石桁橋が残る 史実がはっきりした当時最先端、かつ、最大規模の捕鯨解体場で、各種納屋・油貯を備えた一大工場であった/捕鯨遺産 3
写真 前平の鯨供養碑 まえひら 長崎/
平戸市(的山大島)
真教寺
(鯨組井元氏の墓域)
石碑(駒型) 高122㎝,幅45㎝ 元禄5(1692) 市有形 市教委/松崎憲三 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「(梵字)鯨鯢三十三 死生」/西海捕鯨発祥の地とされる度島(旧・多久嶋)に近い的山大島に残る鯨供養碑/建立されている井元氏は寛文4(1664)~享保(1726)の間捕鯨に携わった家系/捕鯨遺産 2
写真 岩の上町の鯨供養塔 いわのうえ 長崎/平戸市(平戸島) 最教寺 石碑(キャップ状の突起付き) 高113㎝(うち、台石20㎝),25㎝角 元禄8(1695)   WEB(動物のお墓) 原位置 (正面)「鯨鯢供養塔」/捕鯨遺産 1
写真 前津吉町の鯨供養塔 まえつよし 長崎/平戸市(平戸島) 長泉寺 石碑
(五重塔型、砂岩)
高539㎝
(うち、台石79㎝)
元文4(1739) 県有形民俗 WEB 原位置 第1層軸部に龕を抉り、多宝如来(合掌印)と釈迦如来(禅定印)の高20㎝座像を安置し、法華経見宝塔品の諸仏の名を刻む/側面の銘文に鯨供養のため財を募り、長泉寺第8代海純大和尚が建てたと刻んである/平戸島前津吉の浜は、元禄5(1692)、小値賀島の小田組が捕鯨の基地を定めてから、安政の開港頃(1859)の捕鯨の休止まで167年間鯨組で繁昌した/捕鯨遺産 1
写真 有川の横浦捕鯨基地・跡 ありかわ、
よこうら
長崎/(南松浦)新上五島町(中通島)     江戸期   WEB(みさき道人) 建物は何も残っていないが、港の護岸石垣が半分ほど残る 有川捕鯨の基地となった港 3
写真 有川郷の鯨供養碑 ありかわ 長崎/(南松浦)新上五島町(中通島) 舟津 石碑   正徳2(1712) 町史跡 WEB(みさき道人) RC覆屋内/刻字が磨耗 有川捕鯨の開祖・江口甚右衛門が鯨見山の山頂近くに建立/元禄4(1691)-正徳2(1712)までの約20年間に捕獲された鯨1312頭を供養 2
写真 長洲の石干見 ながす、
いしひび
大分/宇佐市 長洲海岸 魚垣 径約180m 江戸期??   WEB 平成18に復元 昭和10年代に7基使われていたことは分かっているが、その起源が近世由来の可能性もある/復元されたのは7基のひびの中の「宮ひび」 3
写真 中津浦の諸魚供養塔 なかつうら 大分/臼杵市 胡子神社 石碑(自然石)   文久3(1863)   WEB(動物のお墓) 移設? (正面)「南無妙法蓮華経」、(正面下部1/3)「諸魚供養/村中安全、塔」 2
写真 手花部の潮垣
(シュガキ、マシャンキリ)
てけぶ 鹿児島/奄美市
(奄美大島)
笠利湾・奥 魚垣 半径約100m,高約60㎝ 江戸期   WEB(みさき道人)
/笠利町歴史民俗資料館/現地解説板
平成7に手花部小学校の文化財少年団らにより補強 どこから伝わったかは不明 2
写真 木慈と押角の垣漁跡 きじ、おしかく 鹿児島/(大島)瀬戸内町(加計呂麻島) 木慈、押角 魚垣 木慈: 長約80m,高約60㎝ 江戸期? 町記念物 WEB(みさき道人)
/WEB
昭和戦後まで使用/半壊状態で残る/写真は木慈 奄美大島北部では垣の所有形態が私有的であるのに対し、瀬戸内一帯では集落で共有されていたとされる 3
写真 龍郷湾のカキ
(平家漁法・跡)
たつご 鹿児島/(大島)龍郷町
(奄美大島)
瀬留 魚垣 長約100m,高約50㎝ 江戸期?   WEB(みさき道人)
/WEB
形は残っているが、管理や補修は行われていない 奄美群島に伝わる平家落人伝説では、平行盛(12世紀)は壇ノ浦の戦い後に奄美まで落ち延びたとされる→その臣・今井権太夫と蒲生左衛門
が思いついたとされるが、真偽のほどは不明
2
写真 白保(笠原)の垣 しらほ(ソーバリ)・かち 沖縄/
石垣市 (石垣島)
  魚垣(石垣) 長約400m 琉球王国時代→
2008年復元
  WEB 戦前は16基あった復元事例は全国で2例 石垣島に残る唯一の魚垣(かつては、島の東南海岸に沿って連続していた) 3
写真 比屋根の魚垣 ひやごん・ながき 沖縄/沖縄市   魚垣(石垣)   不明   市教委 岬の先端に点々と残る 沖縄本島では珍しい 2
写真 佐和田浜の魚垣 さわだ・かつ 沖縄/宮古島市
(下地島)
  魚垣
(放射状、石垣)
長300m+60m,
高1-0.5m
1850年頃 市有形民俗 現地解説板/WEB 右側の石塁が200m以上欠損/石塁が低いため小干潮程度では水没して見えない 築造者:善平マツ/周囲を石で囲み、満潮時に魚が垣内に入り、干潮時に1ヶ所しかない出口に網を張り、魚を採るための施設/「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定 2
写真 小浜島の魚垣(島本海垣) こはま・ながき(しまんだがきぃ) 沖縄/(八重山)竹富町
(小浜島)
  魚垣(石垣) 長1200m,幅12m 琉球王国時代 町史跡 WEB/町教委 南端部から接近可能 周囲を石で囲み、満潮時に魚が垣内に入り、干潮時に1ヶ所しかない出口に網を張り、魚を採るための施設/島出身の琉球王国の女官のために築かれたと伝えられる国内に10ヶ所ほど残る魚垣中、単独では最大級 2 写真
写真 小浜島の魚垣
(アカヤ崎北方の海垣群)
こはま・ながき 沖縄/(八重山)竹富町
(小浜島)
  魚垣(石垣) (複数) 琉球王国時代   WEB/町教委 接近がかなり困難(西端のみ,後は展望台から) 複数の魚垣が、うろこ状に連続して並んでいる/複数をまとめれれば、現存する最大規模 2