石切場・石丁場 

   都道府県別データ一覧にあるBランク以上の石切場・石丁場

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  鋸山の石切り場・跡 のこぎりやま 千葉/富津市   石切場
(凝灰質砂岩)
  江戸後期~昭和後期   市教委/WEB 観光地化 江戸期の開発と思われる部分も残るが、最も目を引く部分は近代の開発/房州石の代表的な石切り場 3
  野上下郷の青石石材採掘場・跡 のがみしもごう 埼玉/(秩父)長瀞町   石切場(緑泥片岩)   鎌倉時代 県旧跡 WEB 石切り場の雰囲気を留める 現・長瀞町と小川町の周辺は板石塔婆用の石材として全国的に有名であった→長瀞町には採石地といわれる露頭が残っており、近くに日本最大の板碑もあることから、早くから採掘場の可能性が高いとされ県旧跡となった(確実な証拠がないため史跡にはならない)→最近、小川町の採掘場に注目が集まっている 2
写真 下里・青山板碑製作遺跡 しもざと、
あおやま
埼玉/(比企)小川町

割谷地区、西坂下前A地区、内寒沢地区など19ヶ所

緑泥片岩(青石)の採石場 兼 加工場   鎌倉~戦国 国史跡 町教委/WEB/小川町埋蔵文化財調査報告書33 現地に残っているものは、ほとんどがズリ平場/トレンチ跡が展示用に保存 中世関東の板碑文化を支えた青石(緑泥石片岩)の代表的な産出地/緑泥石片岩の露頭、矢穴痕が残る岩塊、板碑形のケガキ線が確認→採掘から板碑形へ加工するまでの工程が残る→単なる採掘場ではなく板碑製作遺跡として平成26に国史跡に指定 3
  横沢入の伊奈石採掘遺構 よこさわいり、いないし 東京/あきる野市 都の環境保全地区 石切場(伊奈石=粗流粒砂岩)   室町~江戸期   市教委(伊奈石採掘遺構分布調査報告書) 露頭掘り、竪坑、テラス、石道、ズリ石、矢穴石などが随所に残るが、雑草の生えた林の中に点在するため視認しにくい 信州伊那の石工集団が、過去しやすい石資源に着目して伊奈村を開いたという伝承/伊奈石の石造物は、現在の東京・神奈川・埼玉・千葉・山梨の一都四県一円に分布(中世は石碑・石塔、近世は石臼が主体) 3
写真 七沢森林公園の石丁場・跡 ななさわ 神奈川/厚木市 七沢 石丁場(凝灰岩)   江戸中期?   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 山塊に岩脈が露出する石丁場(江戸中期に高遠の石工が開発したとされる)/石碑や建築用材、石臼当小物の石造物が切り出された/切り出し途中の様相や加工途中欠損して放棄された石材、大量の石屑(コッパ)などが往時のまま遺存する 1
写真 早川石丁場群・南側群の石丁場・跡 はやかわ 神奈川/小田原市 早川 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」、他
保存状態良好 小口が3尺角程度の石垣用材を切り出し、恐らく何らかの理由により出荷することなく放棄された丁場/写真(左)は、1つの石から5本の石垣用材を切り出す途中の岩/切り出し範囲の直下では平らな面を作りだし、斜面下部では成形された石垣用材が100点以上ストックされている/写真(右)では、“+”は石を切り出すまでの刻印、その左下の「枡紋」は、成形し完成した段階での追刻→作業グループの違いを示す? 1 写真
写真 石橋海岸海底の石材群 いしばし 神奈川/小田原市 石橋 残石
(安山岩、海底)
  慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「考古調査ハンドブック5」
波で動いている可能性 山から切り出した石垣用材を船で積み出した湊があったと推定される⇒湊自体の痕跡は認められないものの(波により破壊?)、石垣用材がまとまって分布/海底に残る石垣用材は、船に積み込む際に誤って海中へ落ちたものと考えられる/いろいろな形状の石材が存在→江戸城修築以外にも継続して使用されていた可能性→写真中央の円柱石材(径60㎝、長21㎝は用途不明) 2
写真 石垣山一夜城の石丁場・跡 いしがきやま 神奈川/小田原市 石橋 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   大島慎一
/小田原市郷土文化館研究報告35
保存状態良好 石垣山一夜城(国史跡)内に展開/写真は城郭の西側斜面で石垣用材の切り出しが行われている範囲/城郭内には「此石カキ左右 加藤肥後守 石場」との銘文が刻まれた自然石もある/年代は慶長9-寛永9(1604
-32)の可能性も
1
写真 石橋石丁場群玉川支群河口の磯丁場・跡 いしばし、
たまがわ
神奈川/小田原市 石橋 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 矢穴が穿たれた巨石が海岸線に点在する/矢穴列は3尺幅以外にも様々な大きさのものが見られることから、江戸城修築以降、断続的に切り出しが行われていた石丁場と考えられる 1
写真 石橋石丁場群南側の石丁場・跡 いしばし 神奈川/小田原市 石橋 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 矢穴が穿たれた巨石や切り出された石垣用材が点在する/自然石の目立つ所に約20㎝ほどの大きさの刻印“井”→占有・所有を表示した可能性 1
写真 米神の磯丁場・跡 こめかみ 神奈川/小田原市 米神 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 矢穴が穿たれた巨石が海岸線に点在する/矢穴列は3尺幅以外にも様々な大きさのものが見られることから、江戸城修築以降、断続的に切り出しが行われていた石丁場と考えられる 1
  入生田の石丁場・跡 いりゅうだ 神奈川/小田原市 入生田 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/「江戸城・城下と伊豆石」 保存状態良好 吾性沢周辺に矢穴石が多数見られる/小口が3尺角以上の石垣用材が分布/刻印なし 1
写真 石橋石丁場群玉川支群中流域の石丁場・跡 いしばし、
たまがわ
神奈川/小田原市 石橋 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 or 石垣用材は埋設 矢穴が穿たれた巨石は点在するが、切り出された石垣用材は見当たらない→みかん畑を整備する際、平らな土地にするため土を入れて石を埋めたとの話も/刻印なし 1-2
写真 石橋石丁場群玉川支群中流域の石丁場・跡 いしばし、
たまがわ
神奈川/小田原市 石橋 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 or 石垣用材は埋設 矢穴が穿たれた巨石は点在するが、切り出された石垣用材は見当たらない→みかん畑を整備する際、平らな土地にするため土を入れて石を埋めたとの話も/刻印なし 1-2
写真 早川石丁場群・関白沢支群の石丁場・跡 はやかわ、かんぱくざわ 神奈川/小田原市 早川 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/かながわ考古学財団調査報告213 広域農道小田原湯河原線の入生田~一夜城までの区間に架橋された箕ヶ窪橋直下だが、原位置 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/この石丁場では3尺角程度の小口を持つ角石・平石のみを製作⇒石垣用材としては大型/切り出した石垣用材がかなりの数そのまま残されている/母岩→割り出し→整形→刻印→製品のストックヤードの製作工程が観察できる/刻印は2種類→“○”の中に“寸”と“十”→石垣用材の1つで“寸”をノミで欠き削り“十”を新たに刻み込んでいる→“寸”が先で後から“十”になった可能性/矢穴の大きさは長辺6.0-11.0㎝×短辺2.9-5.5㎝、深5.6-10.0㎝、矢穴間隔2.0-7.0㎝ 2
写真 久野の石丁場・跡 くの 神奈川/小田原市 久野 石丁場(安山岩)   寛永5(1628)?   内田清/
小田原市郷土文化館研究報告37
三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
保存状態良好 単独で所在する自然石に2種の刻印→刻印の形から「有馬」や「毛利」などの大名家の家紋が想起される→文献資料等による裏付けなし/双方の刻印を持つ石丁場の境界を示す標示石の可能性/他に、「三つ葉柏」の刻印と「つるまき山いりから 沢切/くほ入まて 松平土佐守 石者」という銘が近くに刻字→土佐藩が丁場にするため予め占地したことを標示したものと推定される 1
写真 足柄森林公園・丸太の森の石丁場・跡 あしがら 神奈川/南足柄市 広町 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」/「江戸の石を切る-伊豆石丁場遺跡から見る近世社会」
公園内に点在し、一部は園路そばにある 小口3尺角程度の石垣用材が点在→小口が大きいので江戸城修築に関わる石材と考えられる/刻印なし 1
  塚原の石丁場・跡 つかはら 神奈川/南足柄市 塚原 石丁場(安山岩)   寛永5(1628)?   内田 清/
小田原市郷土文化館研究報告37
保存状態良好 「三つ葉柏」の刻印と、「此尾北 南谷川切/水 たり/下原まて」「北ハ大峰 いり 舟帰口ノ北/かの 村山切、いりを下 松平土左守いし者」という銘が近くに刻字→土佐藩が丁場にするため予め占地したことを標示したものと推定される 1
写真 真鶴半島尖端の磯丁場・跡 まなづる 神奈川
/(足柄下)真鶴町
  石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   三瓶裕司/
「考古調査ハンドブック5」
保存状態良好 海岸の岩場に無数の矢穴列が穿たれている→矢穴列は3尺幅を基準にしたものが多い 1
写真 真鶴半島西側(番場浦)の磯丁場・跡 まなづる・
ばんばうら
神奈川
/(足柄下)真鶴町
  石丁場(安山岩)   江戸期   三瓶裕司/
「江戸城・城下と伊豆石」
保存状態良好 多くの安山岩の石丁場では矢穴技法を以って石の切り出しが行われているが、ここでは、凝灰岩等柔らかい石材に用いられる溝切り技法によった切り出しがなされている/丁場の目の前には船着きが設けられ、舫かけの加工が施された岩盤も認められる 1
  白子・地獄沢丁場・跡 しらこ、
じごくざわ
静岡/熱海市 上多賀地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(伊豆石丁場遺跡確認調査報告書) 保存状態良好 矢穴石、刻印を多種多量確認 1
  中張窪・瘤木丁場・跡 ちゅうばりくぼ、こぶぎ 静岡/熱海市 下多賀地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を多種多量確認 1
  礼拝堂丁場・跡 らいはいどう 静岡/熱海市 伊豆山地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を多数確認 2
  朝日山丁場・跡 あさひやま 静岡/熱海市 網代地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を確認 2
  弁慶嵐丁場・跡 べんけいあらし 静岡/熱海市 下多賀地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) やや荒廃 矢穴石、刻印を僅かに確認 3
  稲村丁場・跡 いなむら 静岡/熱海市 伊豆山地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を確認 2
  日陰山・船洞丁場・跡 ひかげやま、ふなぼら 静岡/熱海市 下多賀地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を僅かに確認 2
  南ヶ洞・湯ヶ洞丁場・跡 みなみがほら、ゆがほら 静岡/熱海市 下多賀地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を多種多量確認 2
  大西ヶ洞奥丁場・跡 おおにしがほらおく 静岡/熱海市 網代地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) やや荒廃 矢穴石、刻印を確認 3
  教安寺奥丁場・跡 きょうあんじおく 静岡/熱海市 網代地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) やや荒廃 矢穴石、刻印を確認 3
  弘法滝丁場・跡 こうぼうたき 静岡/熱海市 網代地区 石丁場(安山岩)   慶長9(1604)~近代   市教委(同上) やや荒廃 刻印を確認 3
  上多賀北部丁場・跡 かみたが 静岡/熱海市 上多賀地区 石丁場(安山岩)   江戸期~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を確認 2
  下古路山丁場・跡 しもこみちやま 静岡/熱海市 初島地区 石丁場(安山岩)   江戸期~近代   市教委(同上) 保存状態良好 矢穴石、刻印を確認 3
写真 御石ケ沢丁場・跡 おいしがさわ 静岡/伊東市 宇佐美北部石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長18-元和6(1613-20)   市教委(伊豆石丁場遺跡確認調査報告書p7-17) 若干の改変 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/市内最大規模の宇佐美北部石丁場群の中核的存在/「松平宮内少石場」の標識石(岡山藩主・池田忠雄、慶長13の松平姓下賜後、慶長18-19の採石令期 or 元和6(1620)の進上時)がある【下段の写真】/角石、角脇石、平石などの加工石、加工途中の矢穴石、コッパ石、原石が多く見られる/伊豆の石丁場の特徴である多様な刻印が見られる 1 写真
写真 ナコウ山山頂丁場・跡 なこうやま 静岡/伊東市 宇佐美北部石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-19(1604-14)   市教委(同上p18-23) ハイキングコースのルート 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/「羽柴越中守石場」の標識石(小倉藩主・細川忠興、細川復姓前の慶長9-11 or 18-19の採石令期)があることで有名【下段の写真】/御石ケ沢丁場と比べると残石の規模・量ともに少ない 1
写真 洞ノ入丁場・跡 とうのいり 静岡/伊東市 宇佐美北部石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p30-42) 保存状態良好 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/毛利氏の刻印「矢筈」、稲葉氏の刻印「折敷に三文字」が多数見られる【写真に矢印】/加工途中の矢穴石が比較的多く残る(13㎝の大型矢穴もある)/伊豆の石丁場の特徴である多様な刻印が見られる 1
写真 中ノ沢丁場・跡 なかのさわ 静岡/伊東市 宇佐美南部石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p47-51) 保存状態良好 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/粗加工の平石が何群にも分かれ計200余個並んでいる(矢穴10㎝)→伊豆の石丁場でも特筆すべき状態/刻印がすべて「蛇の目紋」のため【写真に矢印】、松平隠岐守の丁場と同定 1
写真 桜ヶ洞丁場・跡 さくらがぼら 静岡/伊東市 湯川山石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p58-61) 保存状態良好 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/完成された角石が残る他、粗加工の平石が数多く残る/短距離の間に多種の刻印が見られる【下段の写真 1
写真 森ノ上・石神丁場・跡 もりのうえ、いしがみ 静岡/伊東市 新井石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p69-71) 保存状態良好 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/「三つ違い山形紋」の巨石をはじめ【写真中央】、大型の矢穴石、刻印石が残る 1
写真 磯辺山丁場・跡 いそべやま 静岡/伊東市 湯川山石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p55-57) やや荒廃 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/「荻野家文書」でシャクシ洞と呼ばれる箇所と推定される→久留島丹後守の丁場/矢穴石と刻印石がある程度残存 2
写真 前山丁場・跡 まえやま 静岡/伊東市 新井石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p74-76) やや荒廃 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/「いよ松山/これより/■丁は」の標識石がある【写真】→松山藩主・蒲生忠知の丁場と推定される/加賀前田家の刻印もあり、上記松山と相容れない/伊豆の石丁場の特徴である多様な刻印が見られる 2
写真 又居丁場・跡 またい 静岡/伊東市 新井石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p74-77) やや荒廃 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/「石は/いよ松山/これより/北みなミ」の標識石がある【写真】→松山藩主・蒲生忠知の丁場と推定される/伊豆の石丁場の特徴である多様な刻印が見られる 2
  高石原丁場・跡 たかいしはら 静岡/伊東市 川奈石丁場群 石丁場(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p85-86) 放置保存 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/かつて「尾」の字が発見されており、「川奈村明細帳写」からも尾張藩の丁場であった可能性が高い/採石場は不明  
写真 ヲリャウの残石群   静岡/伊東市 川奈石丁場群 残石(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p87-88) 放置 海岸に矢穴石が多数残る/角石1個、角脇石6個が集中している場所がある【写真 2
写真 根原海岸の残石群 ねばら 静岡/伊東市 富戸石丁場群、
県道・東(海岸)
残石(安山岩)   慶長9-寛永13(1604-36)   市教委(同上p99-100) 放置 江戸城修復(石垣築造)のための石材切り出し場/海岸に大量の矢穴石:5-10㎝の矢穴、「元船石」と呼ばれる340×280×300㎝の巨石あり【写真 2
写真 東六甲採石場
(奥山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(おくやま) 兵庫/芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28) 市史跡
(一部)
市教委 国有林の山中にそのままの形で残る(特に遊歩道や案内板はない)/市有地に移設した一部遺構のみ史跡指定 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/A-J地区:越前福井藩松平家(「二つ串団子」「一と三角に点」「Z字」など多様な刻印)、K地区:長州藩毛利家(「一品」の刻印)/芦屋市での3刻印群の中では最も大規模 1-3 写真
  東六甲採石場
(城山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(しろやま) 兵庫/芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委(芦屋市文化財報告書44p23-26) 山中にそのままの形で残る(特に遊歩道や案内板はない) 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/A地区:日向佐土原藩島津家(「轡」の刻印)、D地区:豊後臼杵藩・丹波福知山藩稲葉家(「折敷に三文字」の刻印) 1
写真 東六甲採石場
(岩ヶ平刻印群)
・跡
ひがしろっこう(いわがひら) 兵庫/芦屋市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委(芦屋市文化財報告書44・60・61) 宅地開発のため発掘調査が唯一進展→理解の得られた場合、小公園化して展示保存 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/出雲松江藩、若狭小浜藩、因伯鳥取藩、肥前唐津藩、肥後熊本藩、播磨赤穂藩の刻印/全国的に見て発掘調査が最も完璧に行われた徳川大坂城に関わる採石場遺構 1-3
  竜山採石場・跡 たつやま 兵庫/高砂市   石切場(竜山石)   古代~近世   市教委/WEB(高砂市HP) 山頂部に近世以前の採石遺構が残る 竜山石を古代から採石し続けている採石場/海が近く搬出がしやすいため、大仙古墳などの石棺、鎌倉室町期の五輪塔や石仏、江戸期の姫路城や明石城、鳥居、近代の旧造幣局鋳造所など長期に渡って使用されている 3
写真 東六甲採石場
(甲山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(かぶとやま) 兵庫/西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 G地区(甲山森林公園)では遊歩道が整備され、巨石の分布状態も最良 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/C・D地区:肥前平戸藩松浦家(「三つ星」の刻印)、F地区:筑後久留米藩有馬家(「四角に丸」の刻印)/西宮市での3刻印群の中では最も大規模 1 写真
  東六甲採石場
(越木岩刻印群)
・跡
ひがしろっこう(こしきいわ) 兵庫/西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 山中に残石が点在 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/備中松山藩池田家、出雲松江藩堀尾家(「分銅」の刻印)/西宮市での3刻印群の中では中規模 1
  東六甲採石場
(北山刻印群)
・跡
ひがしろっこう(きたやま) 兵庫/西宮市 <大坂城石垣石切丁場>  石丁場(花崗岩)   元和6~寛永5(1620-28)   市教委 山中に残石が点在 元和~寛永期の約10年の徳川幕府による大坂城再築事業に伴う複数藩の一大採石場/出雲松江藩堀尾家(「分銅」の刻印/西宮市での3刻印群の中では小規模 1
写真 犬島港の慶長期の捨石群 いぬじま 岡山/岡山市(東区)
(犬島)
<大坂城石垣> 残石(花崗岩)   17世紀を中心とする時代     海中に放置 大坂城の築城用に切り出した石材の残石 4
写真 前島の大坂城石垣石切丁場・跡 まえじま・おおさか 岡山/瀬戸内市(前島) <大坂城石垣石切丁場> 石丁場(花崗岩)   17世紀を中心とする時代   都市計画課   県下では、最大の大坂城残石群(小豆島のものと比較すると規模は小さい) 2
  福光の石山採石場・跡 ふくみつ 島根/大田市 <山陰道> 石切場(凝灰岩)   戦国後期~現代   歴史の道2p51 江戸期の部分は現存せず(史跡的価値) 福光石を切り出していた大規模な石山/採石に使用されたノミの跡が残るが、現在見られるのは明治期のもの 4
写真 大串石切場・跡 おおぐし 香川/さぬき市 大串自然公園 石切場
(白色凝灰岩)
3ヶ所 鎌倉前期 市史跡 現地解説板/
市教委/WEB
藩有地→国有地のため保存状態良好 石清水八幡宮文書(1339年、京都市)、絹本著色志度寺縁起図(14世紀、さぬき市)にも記録が残る/採石に使用した工具の痕跡が無数に残る他、五輪塔の火輪(笠部)の取り残した部分もある 1
写真 天狗岩丁場・跡 てんぐいわ 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
大坂城石垣石切丁場 石丁場(花崗岩)   江戸初期(1620-29) 国史跡 町教委/
現地解説板
全長360mの周遊コースを整備 小豆島ならではの石切丁場(岩谷の石切丁場)=最大/筑前福岡藩主・黒田長政・忠之父子によって採石/17m×10m×5mの天狗岩(巨大な種石)を囲んで600余個の種石、角取石、そげ石等が重なる(地区内5ヶ所の丁場の中心的存在)/各種の刻印を確認することもできる 1 写真
写真 豆腐岩丁場・跡 とうふいわ 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
大坂城石垣石切丁場 石丁場(花崗岩)   江戸初期(1620-29) 国史跡 WEB/
現地解説板
保存状態良好 小豆島ならではの石切丁場(岩谷の石切丁場)/筑前福岡藩主・黒田長政・忠之父子によって採石/豆腐のように切り立った巨石に由来した名前/大割、小割と呼ばれる石割の作業工程も確認できる(写真の場所) 1
写真 八人石丁場・跡 はちにんいし 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
大坂城石垣石切丁場 石丁場(花崗岩)   江戸初期(1620-29) 国史跡 町教委/
現地解説板
全長240mの苑路を整備 小豆島ならではの石切丁場(岩谷の石切丁場)/筑前福岡藩主・黒田長政・忠之父子によって採石/高4mの石が2つに割れ、8人の石工が犠牲になったと言われている/海岸までの山中に数百個の残石 1
写真 南谷丁場・跡 みなみたに 香川/(小豆)小豆島町
(小豆島)
大坂城石垣石切丁場 石丁場(花崗岩)   江戸初期(1620-29) 国史跡 WEB/
現地解説板
保存状態良好 小豆島ならではの石切丁場(岩谷の石切丁場)/筑前福岡藩主・黒田長政・忠之父子によって採石/石垣の角に使われる角取石が集中的に存在→海岸まで運ぶ前の集積所と推定されている 1
写真 谷口石切丁場・跡 たにぐち 佐賀/唐津市 (黒田山山頂)
<大坂城石垣石切丁場?>
石丁場
(青色系花崗岩)
(露頭)幅10m,高5m以上,
(方形石材)重量22.6t 他計4個
江戸初期(1620-29)?   市教委 保存状態良好(民有地内) 花崗岩の露頭から石材を割り出し、加工するまでの一連の過程がよく分かる形で保存/直方体に整形加工された巨石が4個放置された稀な石切丁場/残された露頭も最大規模/谷口丁馬の石で、大坂城の石垣石として直接確認されたものは見つかっていない(目的など未確定の謎の多い石切丁場(発見は平成20)/藩内にこのような巨石の利用はないため、大坂城での何らかの利用が最有力と推定(江戸城、名古屋城の可能性も否定されてはいない) 1
写真 谷口石切丁場の石曳き道・跡 たにぐち 佐賀/唐津市 (黒田山山腹) 石曳き道(凹状の直線斜路) 長約50m,幅2-3m 江戸初期(1620-29)?   市教委 石切り場と石曳き道が一体として残る例は稀 山頂から川まで修羅で石材を降ろした際の通路 2
写真 馬門石石切場・跡 まかど 熊本/宇土市   石切場(馬門石) (3ヶ所) 5C~昭和期   市教委 昭和30年代まで使われていたが、近世の状態がよく残る 宇土市周辺で使われてきた特異な朱色の阿蘇溶結凝灰岩 2