たたら・西洋製鉄 

   都道府県別データ一覧にあるCランク以上のたたら製鉄(鉄穴流し、和式炉)、西洋製鉄(高炉、反射炉) (現地の地表面に何も残っていないものは、埋設保存でも対象外

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 古武井溶鉱炉・跡 こぶい 北海道/函館市   鋳造洋式高炉:石垣、水路(断続的)   安政4(1857)着工 道史跡 市教委 主要部分は喪失: 切り石で組まれた基壇、水車水路が残る程度 日本でも最初期に西洋式高炉を造ろうとした事例/箱館奉行の命で、蘭学者・武田斐三郎(後に、五稜郭を設計した人物)により計画・施工→
2272両をかけたが成功しなかった(砂鉄を原料にしたのが失敗の最大要因)→万延元(1860)に南部藩に依頼するが謝絶→文久3(1863)の暴風雨で大破・放棄
3

  大橋高炉・跡 おおはし 岩手/釜石市   洋式高炉 不明 安政4(1857)   WEB かつての想定位置に記念碑 水戸藩の那珂湊反射炉(1856)の築造に関わった盛岡藩士・大島惣左衛門(後の高任)が、大砲鋳造の原料が砂鉄では適さないことから、鉄鉱石から銑鉄を造る高炉の築造に踏み切った(築造自体は盛岡藩)/連続出銑に成功した日本初の西洋式高炉(最古は嘉永5の薩摩藩の集成館だが、試験的に成功したとされる程度) 5
写真 橋野高炉・跡 はしの 岩手/釜石市   洋式高炉(花崗岩) (第1)5.8m四方,
(第2)4.8m四方,
(第3)5.4m四方
安政5(1858)仮高炉→
万延元(1860)か翌年に一番・二番高炉完成
国史跡/AS
MEから顕彰
WEB 高炉の一番外側の花崗岩の石組が部分的に残る 日本で初めての洋式高炉「大橋高炉」の築造者・大島惣左衛門(後の高任)の2つ目の高炉/支配人は盛岡の本町の市之助/現存する日本最古の洋式高炉 2 写真
写真 那珂湊反射炉・跡 なかみなと 茨城/ひたちなか市 あづまが丘公園
<水戸藩営大砲鋳造所>
反射炉(耐火煉瓦製の煙突)(2基) 高約15m 安政2(1855) 1号炉
安政4(1857) 2号炉
県史跡 市教委/WEB 元治元(1864)の甲子の乱で破壊、昭和12復元 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が、海岸防備用のための大砲鋳造を目的に築いた製鉄炉/①佐賀藩から反射炉の技術を導入した薩摩藩から藩士・竹下清右衛門、②西洋の製鉄技術の知識があり、後に日本初の高炉の築造に成功することになる盛岡藩士・大島惣左衛門(後の高任)の、2人を招く/20数門の大砲を鋳造→砂鉄を原料としたため低効率(1号炉の鋳込み(1856)で判明)→大島による日本初の大橋高炉築造(1857)の動機付けになった 2
  尾崎前山遺跡製鉄炉・跡 おさきまえやま 茨城/(結城)八千代町   製鉄炉(3基)   8世紀 町史跡 市教委/ひたちなか市埋蔵文化財調査センター 最初は9世紀と推定され竪型の製鉄炉が復元されたが、最近は8世紀に遡るとされ、箱型炉であった可能性が大 製鉄炉、木炭・粘土等の材料置場、作業場、鍛冶工房、竪穴住居の遺構 4
写真 上郷深田遺跡 かみごう、
ふかだ
神奈川/横浜市(栄区) 上郷 製鉄炉(18基) 炉(10号):1.9m×1m 7世紀末~9世紀   市埋蔵文化財センター(上郷深田遺跡発掘調査概報) 現地に行っても何もない(仮設道路の下に埋設保存) 関東地方で最大の製鉄遺構/一度に18基が化膿していたのではなく、順次移動していったと推定されている(下段の12号炉が最古→8-11号炉がそれに続く→上段の13-19炉は8-9世紀→最上段の1-6号炉の中には製銅炉1基を含む)

5

写真 韮山反射炉 にらやま 静岡/伊豆の国市   煉瓦反射炉 煙突高15.6m 安政4(1857) 国史跡 WEB 炉体と煙突が完全な形で現存/煉瓦煙突を鋼トラスで補強 韮山代官・江川英龍、英敏親子により構築/日本で最初に実用反射炉を造った佐賀藩から技術支援を受けた/品川台場の大砲を鋳造/元治元(1864)の使用中止までに大小の大砲数百門を鋳造/現存する最古の“実際に稼働”した反射炉 2 写真
  東金屋たたら製鉄場・跡 ひがしかなや 富山/滑川市   たたら製鉄   文化4(1807)以降 市史跡 WEB 昭和48、圃場整備中に発見→発掘調査→現物保存 小出屋嘉助という売薬業者が、伯耆へ行商の折にたたら製鉄の現場を見聞し、滑川浜にある黒砂(砂鉄)から製鉄が可能であることを教えられ、仲間8人とともに出資し伯耆国から職人を雇い入れて始めたもの/製鉄炉の下部構造が良好な状態で残り、かつ、文献史料が残っている点で、近世におけるたたら製鉄遺構の研究に参考となる遺跡 3
写真 源内峠製鉄遺跡 げんない 滋賀/大津市 びわこ文化公園・西駐車場南奥 製鉄炉(4基) 炉:長2.5m前後,高1m 7世紀後半 国史跡 WEB(源内峠遺跡復元委員会) 発掘調査後に埋め戻した遺跡上に製鉄炉群を再現(最初に復元した1基は粘土造、他の3基はC造) 瀬田丘陵生産遺跡群の一つ 2
写真 木瓜原製鉄遺跡 ぼけわら 滋賀/草津市 立命館大学びわこ・くさつキャンパス(グラウンド下) 製鉄炉(1基) 炉:2.8m×0.6m 7世紀末~8世紀初頭   立命館大学作成のパンフレット グラウンド南端の地下に18m×
12.5mの長方形の保存施設を造り、発掘された状態で完全保存
瀬田丘陵生産遺跡群の一つ/土製の箱型炉1基の両側に踏み鞴が設置 1
写真 野路小野山製鉄遺跡 のじ、
おのやま
滋賀/草津市 野路町字小野山一帯 製鉄炉(14基) 炉:2m×1.2m 8世紀 国史跡 市教委(野路小野山製鉄遺跡発掘調査概報) 現地に行っても何もない(埋設保存)〔平面図で点線は未調査域の想定炉〕 瀬田丘陵生産遺跡群の一つ/土製の箱型炉15基が並ぶ一大製鉄基地だった/鉄鉱石を使用した製鉄炉であり、中世以降の砂鉄を用いる和式製鉄とは異なる

5

写真
写真 天児屋鉄山・跡 てんごや 兵庫/宍粟市 (千種町西河内) たたら場石垣 指定面積:13777.1㎡ 慶安年間(1648-52) 県史跡 市教委/WEB 石垣、礎石などが残る/公園整備 千種鉄を産出した天児屋鉄山のたたら場跡/中世には長船に刀剣用の鉄を供給し、揖保川舟運路が出石船着場まで延伸された江戸初期以降には姫路・大坂方面に鉄を供給したとされる 1
写真 荒尾鉄山・跡 あらお 兵庫/宍粟市 (千種町岩野辺) たたら場石垣   江戸期 市史跡 市教委/WEB 山林内に鉱山施設の石垣などが残る 天児屋鉄山と共に多く鉄を産出した荒尾鉄山の遺構 2
  森の上の鉄穴流し場・跡 もりのかみ 兵庫/宍粟市 (千種町西河内) 鉄穴流し場 長約300m 江戸期 市史跡 市教委 石積の水路が残る 天児屋鉄山に残る鉄穴流し場/通常2㎞以上必要な水路を約300mに短縮するため→直角に曲げる、水路に段差を設けるなどの工夫 2
写真 藤屋炉床 ふじや 鳥取/(西伯)伯耆町   製鉄遺構
(炉床、鉧)
  江戸期 町史跡 町教委(ふるさと溝口p57)/WEB 大舟、小舟が半分以上破壊/製鉄炉の地下の状況を良く残す 大きな掘り込みの中に小舟を東西に置き、中央に大舟を置き、その上に本床を載せる床釣り形式のたたら製鉄炉 3
  六尾反射炉・跡 むつお 鳥取/(東伯)北栄町   反射炉   安政4(1857) 町史跡 町教委/歴史の道8p168 土塁、土手、井戸、用水路等が残る 鳥取藩が武信潤太郎を反射竈御用懸りに任じて築かせた炉(潤太郎は、長崎・熊本など各地で砲術の秘伝を学んだ人物)/費用は、藩財政が緊迫していたため富豪・武信佐五右衛門がすべて供出/鋳鉄製の大砲を造るための炉/50門以上の大砲が鋳造され、由良台場にも配置された 4
  神戸上の鉄穴流し・跡 かどのかみ 鳥取/(日野)日南町   鉄穴流し   江戸期以前   WEB 鉄穴残丘が残る程度 跡地は、「流し田」や削り残しの「鉄穴残丘」など,複雑な小凹凸の点在する山麓地/神戸上には「鉄穴内」「殿鉄穴」「鈩腹」「鍛冶屋田」など、砂鉄精錬に関連する小字も数多く残る 4
  茶屋の鉄穴流し・跡 ちゃや 鳥取/(日野)日南町   鉄穴流し   江戸期以前   WEB 鉄穴残丘が残る程度 小原川の支流、北の小濁川と南の黒谷川に囲まれる地域で、深層風化の進んだ花崗閃緑岩や因美花崗岩の山地を削り、古くから鉄穴流しが行われた/鉄穴流しによる土砂は、小原川から日野川へと流出し、米子平野や夜見半島を造成/「鉄穴山」「鉄穴洞」「鉄穴池端」など、砂鉄精錬に関連する小字も数多く残る 4
写真 千引カナクロ谷製鉄遺跡 せんびき 岡山/総社市 埋蔵文化財学習の館 製鉄炉(2号炉)
(1基)
縦4.15m,横2.88m
(9分割構成)
6世紀後半~末   市教委 レプリカ
(上の写真は館内展示のレプリカ/下の写真は遺跡発掘時の様子)
大陸の渡来人により導入された製鉄炉の可能性が指摘されている/底に石が敷いてある土製の正方形炉→特異な形式/原料はたたら製鉄で使われる砂鉄ではなく鉄鉱石だったとされる/土器が出ていないので年代特定ができない 3
  大栄山タタラ・跡 だいえいざん 岡山/(苫田)鏡野町 <大栄山鉄山> 高殿   江戸期 町史跡 町教委(鏡野町の文化財p5) 高殿跡、作業場跡、住居跡ほか関連施設らしきものが一括して残るが雑草と雑木の繁茂が著しい   4
写真 鍛冶屋谷たたら遺跡 かじやだに 岡山/(苫田)鏡野町 <大倉山鉄山> 高殿、砂鉄置場   幕末頃 県史跡 町教委(鏡野町の文化財p11) 明治20代まで操業/山林中に一連の施設が残る(写真は高殿跡の窪み〔緑の矢印の先〕)

津山藩営鉄山であった大倉山鉄山の一部とされる

3
写真 人形仙山大谷鉄穴遺跡 にんぎょうせんやま、おおだに 岡山/(苫田)鏡野町 <国一山鉄山>? 鉄穴流し、石堰堤 長550m 幕末頃? 町史跡 町教委(鏡野町の文化財p63) 堰堤・溜池・樋などが全体的に残る 特に最上流に石堰堤(写真)による溜池が設けられている点が珍しい 2
  屋敷谷たたら・跡 やしきだに 島根/出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(精錬鍛冶炉)   室町期?   市教委/WEB 発掘調査後に埋め戻し 平成19,20年の調査で、中世製鉄の製鉄炉(地下構造)1基、精錬鍛冶炉3基を発掘(小舟なしor未発見)→田儀櫻井家が大規模にたたら経営を行う以前、中世に製鉄集団が存在したことを示す貴重な発見とされる(江戸期の櫻井家関連でないので国史跡になっていないが、重要度は高い) 5
  朝日たたら・跡 あさひ 島根/出雲市 (佐田町高津屋) 製鉄施設(高殿鈩) 12.7m×14.5m 17世紀初頭? 国史跡 市教委/WEB 新造建屋内に地下遺構が残る 田儀櫻井家が経営した代表的なたたら場/調査や文献から、周囲の地名や祠跡から大鍛冶を伴う近世高殿鈩の遺跡であると推定される 3
  聖谷たたら・跡 ひじりだに 島根/出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(排気坑)   享保19(1734)以前 国史跡 市教委/WEB 山中に小舟と焚き口、鉄池・石垣、排滓場が残る(発掘調査未了) 遺跡内に、田儀櫻井家4代当主櫻井宗兵衛清矩の名とともに享保19の紀年銘が刻まれた地蔵が安置されていたことから、その当時から操業していたと推測される 3
写真 越堂たたら・跡 こえどう 島根/出雲市 (多伎町口田儀越堂) 製鉄施設(たたら高殿石垣)   江戸期 国史跡 市教委/WEB 出雲市内のたたらの中では、保存状態最良/写真は平成18の最初の調査時のもので、現在は市が奥にある家を買い取り、その下の遺構を発掘中) 江戸期~明治期に田儀櫻井家によるたたら製鉄が行われていた(文献と発掘調査の双方で確認)/臨海部に立地するという地理的条件を活かし、たたらの原材料(砂鉄・木炭)の調達から鉄製品の搬出に至るまで、海運を利用したという点が特徴(山口県の大板山たたら製鉄遺跡に似ているが、こちらは①海に近く川もある、②砂鉄だけでなく木炭も搬入した、という点で異なる) 2
  掛樋たたら・跡 かけひ 島根/出雲市 (多伎町奥田儀) 製鉄施設(石垣、排気坑)   江戸期   市教委/WEB 大規模な石垣が残る((発掘調査済み) 田儀櫻井家が経営したたたら跡 3
写真 菅谷たたら高殿の製鉄炉 すがや 島根/雲南市 菅谷たたら山内 製鉄施設(製鉄炉) 18.3m四方,
高8.6m
(中央に製鉄炉)
宝暦元(1751) 国有形民俗資料 WEB 木建屋は宝暦だが内部の炉は明治39製?/平成25に保存修理完了 全国で現存する唯一のたたら建築/田部家経営の多くのたたらの中で表的なもの→宝暦元(1751)~大正10(1921)まで170年間にわたり製鉄を行っていた 2 写真
写真 室谷の棚田 むろだに 島根/浜田市   棚田(たたら) 4520枚
→約1000枚
江戸期 日本の棚田百選 吉岡速人 保存状態良好 鉄穴流しの跡を水田にしたと言われる〔地域性が出ている〕→石積みでなく土畦畔(土砂を河川に流さない方法として、窪地を作りそこに土砂を流し込み、その後を田にした)/かつては、日本最大の棚田 1 写真
写真 大鳥たたら・跡 おおどり 島根/益田市 (美都町宇津川大鳥)     正徳4~明治9
(1714-1875)
市史跡 市教委/二川郷土史研究会 明治9に閉山/吹屋床、勘場、石垣、井戸などが残るとされるが正式な発掘調査は行われていない/写真は、勘場跡 青原村の原田勘四郎が創業し、寛政年間に鍋石村一ノ瀬のたたら経営者・江尾氏が引き継いだとされる 4
写真 本谷山たたら・跡 ほんたにやま 島根/益田市 (匹見町道川)     文政7~天保2(1824-31) 市史跡 市教委 覆屋内に遺構が残る(発掘遺構ではないのでかなり風化) 那賀郡井野村から砂鉄を運び、このたたらで製品にした後、人馬で広島に運んだとされる 3
  東比田の鉄穴流し・跡 ひがしひた 島根/安来市   鉄穴流し   江戸期   WEB   鉄穴残丘や分離丘陵状の突起と複合沖積錐のような複雑に入り組んだ地形が残る 3
  矢上の鉄穴流し・跡 やかみ 島根/(邑智)邑南町 矢上盆地 製鉄遺構(残丘)   江戸期   WEB 西部の鹿子原付近では顕著な鉄穴流し跡地形が残る 堅くて掘り崩せなかった未風化の岩盤が,突起状の「鉄穴残丘」として残る/鉄穴残丘や分離丘陵状の突起と浅い谷など複雑に入り組んだ地形を形成 2
  瀧谷たたら・跡 たきだに 島根/(鹿足)津和野町 左鐙 製鉄鈩   江戸末期 町史跡 WEB 石積が辛うじて確認できる程度 江戸末期に活躍した野鈩の跡/現在は山林になっている 4
写真 羽内谷鉱山の鉄穴流し本場・跡 はないだに 島根/(仁多)奥出雲町 <羽内谷鉱山> 製鉄遺構
(砂鉄採集施設)
長約120m 江戸期 町史跡 町教委/現地解説板 木製水路→C改修の上に木張り(出切以外)/もともと石造でなかったため保存状態が悪い 鉄穴流しの本場(最終工程)が、上流から第1出切、第2出切、大池、中池、乙池、洗樋の順に残る(1㎞上流で砂鉄を多く含む岩石を切り崩していた)/形態を良く留め、かつ、大規模だが、昭和47まで操業していたため江戸期の雰囲気はない 3
写真 福頼地区の鉄穴残丘群 ふくより 島根/(仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴残丘)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 鉄穴残丘が明瞭に散在して残る/写真は最も明瞭な形で2つ並んで残る例) 鉄穴流しで、流し崩された跡地が棚田として造成され、その中に墓地などがあるため崩さず残された残丘が点在する独特の風景/「奥出雲たたらと棚田の文化的景観」の中核地 1 写真
写真 福頼地区の旧鉄穴間歩 ふくより 島根/(仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴水路)
  江戸後期~明治初期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 保存状態良好 鉄穴水路(走り)を流すために掘られたトンネル/農業用水路に転用されている 1
写真 福頼地区の溜池群 ふくより 島根/(仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(鉄穴流しの築堤)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 農業用に転用されて残る/一部、堰堤を改修/写真は保存状態の最も良い大畑池 鉄穴流しのために築堤された後、農業用の溜池として転用されたもの/「奥出雲たたらと棚田の文化的景観」の中核地 1-2
写真 福頼地区の棚田 ふくより 島根/(仁多)奥出雲町   製鉄遺構
(棚田)
  江戸期 国重要文化的景観 奥出雲町文化的景観保存計画書p48-57 保存状態良好 鉄穴流しで、流し崩された跡地が棚田として造成されたもの/石垣が一切用いられていないのが特徴 1
写真 内堀の鉄穴・跡
(神代垣内落鉄穴・跡)
うつぼり(うつぼり・かじろがわちおち) 広島/庄原市 (神代垣内) 製鉄遺構 横手:長約600m,幅約1m 安永9(1780) 県史跡 WEB/県教委 鉄穴横手と鉄穴洗場の跡がほぼ完全に保存 18世紀後半から昭和19(1944)頃まで操業されていた/鉄穴洞の真砂土を崩して水と共に流し、大池・初池・中池・乙池の4段階で砂鉄を沈殿させ、採取していた 3
  六の原の鉄穴・跡
(六の原製鉄場・跡)
ろくのはら 広島/庄原市 (西城町油木) 製鉄遺構 長約70m,深約30㎝,幅50-110㎝ 嘉永3(1850) 県史跡 WEB/県教委 洗池を発掘した石積を残し復元 近世末から明治時代初期までの間、砂鉄の採取から製鉄までの作業が行われていた製鉄所の遺構/鉄穴流しには砂溜・大池・中池・乙池・洗樋の5つの洗池があり、乙池・洗樋の石積みの壁と底板が発掘された 2
  濁川砂鉄採取場・跡 にごりかわ 広島/庄原市 (濁川町) 製鉄遺構 長約100m 近世以降   市教委/WEB 当時のまま 石組水路が残存している 2
写真 丸山の鉄穴・跡 まるやま 広島/三次市 (粟屋町下津河内・河野邸敷地内) 製鉄遺構 長約10m,幅約1.5m,深約1m 江戸期 市史跡 WEB 池場の石組水路が残存/水路の一部を通路化のため改修・埋立 高谷山に多数存在した鉄穴(砂鉄採取施設の総体的呼称)のうち現存する唯一の鉄穴跡/砂鉄を沈殿させるため、洗池を湾曲させ勢いを調節していた/通称にある「丸山」は、この鉄穴流しにおいて山丸ごとから砂鉄が採取できる、という意味 2 写真
写真 川池の鉄穴・跡 かわいけ 広島/(山県)北広島町   製鉄遺構 長約30m,幅約2-4m 江戸期   町教委/WEB 池の跡の中に杉が自生 近世の鉄穴において砂鉄の選り分けに利用されていた沈砂池が残存/北広島町の中に残る数百ヶ所の製鉄遺構のうち、よく残る箇所の1つ 3
写真 大板山たたら製鉄遺跡 おおいた 山口/萩市 (紫福) 製鉄遺構   宝暦年間(1751-64),
文化・文政期(1812-22),安政2(1855)以降
国史跡 市教委/WEB 当時の施設を分かりやすく、かつ、遺跡に極力加工せず、工夫 して展示されている 宝暦年間(1751-64)に大板山で林業を営む阿川六郎兵衛が津和野の技術者を迎えて操業/文化・文政期の10年間(1812-22)に津和野の原田勘四郎が操業/安政2(1855)、東石見の鉄山師・高原竹五郎が操業開始/幕末期に操業された在来の製鉄技術である「たたら」遺構で、製鉄用の炉跡、天秤ふいご跡などが残る/安政3(1856)に恵美須ヶ鼻造船所で建造された洋式軍艦(帆船)「丙辰丸」に使用された→日本古来の製鉄技法と、西洋の近代船舶との混合がきわめてユニークであり、幕末期の技術のあり方を示す好例/中国山地のたたら場と異なり、砂鉄は全量を石見から持ち込み、豊富な木材を使って製鉄を行ったため、鉄穴流し等の砂鉄採取遺構は存在しない→砂鉄は奈古の港から牛で運び、完成した鉄製品も逆方向に運んだとされているが、港から遠い標高260mの山ノ口川の最上流域にあり、牛が通れるような道路遺構も発見されておらず、運搬の実態は不明 1 写真
写真 萩反射炉・跡 はぎ 山口/萩市 (椿東) 反射炉の煙突(玄武岩、一部煉瓦) 高10.8m 安政3(1856) 国史跡 道迫真吾(萩博物館調査研究報告7) 公園整備 旧来の青銅製大砲に代わる強力な鉄製大砲を鋳造するために導入した反射炉/萩藩は安政2(1855)、鉄製大砲の鋳造法習得のため佐賀藩に藩士・山田宇右衛門、萩藩の考案した「旋風台雛形」を持たせた大工棟梁・小沢忠右衛門を派遣→反射炉の技術伝授は謝絶→小沢が反射炉の現物を見学して図面を作成→翌安政3、反射炉を試験的に築くが、同年11月、経済的事情や製鉄技術がまだ未成熟であることから本式の反射炉築造を中止する 2
写真 郡司鋳造所遺構 ぐんじ 山口/萩市 郡司鋳造所遺構広場 大砲鋳造施設 高4.5m 文久3(1863)以前   WEB/市教委 道路新設工事の際に発見→移設して100mほど離れた道路脇に向きを変えて保存(Cは使用せず)→遺跡公園として整備 萩藩の代表的な鋳物師であった松本郡司家の鋳造工房の遺構/青銅製の大砲の砲身を立てた状態で鋳造するための盛土を支えるための左右の石積擁壁が残る(高さ4.5mは最大級)/長州藩が下関海峡を通過する外国船を3度にわたり砲撃(文久3)した際に使用した大砲を鋳造 3
  亀ヶ瀬製鉄場・跡 かめがせ 山口/萩市   高炉 不明 元治元(1864)   道迫真吾(萩博物館調査研究報告7) 遺構ゼロ 萩藩は文久2(1862)、長嶺豊之助に南部藩の高炉を見学させる→元治元に藩士・平田宗兵衛を製鉄場御用掛りに任じる/炉の実態は不明だが、反射炉が試験炉に終わったのと違い、高炉には本気で取り組んだ 5
  神在製鉄遺構 かみあり 福岡/嘉麻市   たたら製鉄   延宝~天和年間(1673-87)、享保4・5(1719・20)   市教委   多数の鉄滓や木炭、焼土、炉壁体の破片などが散乱/島根から人を呼んで教えてもらったが、採算が合わなかった 4
写真 築地反射炉・跡 ついじ 佐賀/佐賀市 市立日新小学校 反射炉(煉瓦造)   嘉永5(1852) 市史跡 WEB/道迫真吾 煉瓦の反射炉のレプリカと、復元された4ポンドカノン砲を展示/長年場所すら特定できていなかった(平成22の発掘調査でも炉本体位置は不明) 佐賀藩10代藩主・鍋島直正が造らせた日本初の実用反射炉/初めは鉄の溶解がうまくいかず失敗続きだったが、手引書となったオランダの『ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳した伊東玄朴、鍋島直正が育てた蘭学者達、刀工や鋳物師らの伝統技術を結集して鋳造に成功(砂鉄ではうまく鋳造できなかったので、刀剣を再溶して使用した)→その成果は、静岡の「韮山の反射炉」にも反映された 4
写真 多布施反射炉・跡 たふせ 佐賀/佐賀市   反射炉(煉瓦造)   嘉永6(1853)   WEB 場所は特定されているが遺構ゼロ ペリーの浦賀来航(6月)→品川台場の造営命令(7月)→幕府が佐賀藩に大砲50門(36ポンドカノン砲25門、24ポンドカノン砲25門)を注文→多布施に公儀石火矢鋳立所を置く(上記「築地反射炉」では対応できなかったため)→鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた→安政2(1855)に25門を鋳造〔しかし、嘉永7(1854)2月には、ペリーが江戸湾に9隻の艦隊を集結させ、結果的に3月には日米和親条約が締結され、台場の大砲が使われることはなかった〕 4
写真 一倉の製鉄炉・跡 ひとくら 鹿児島/鹿児島市 (喜入)上茶筅松製鉄遺跡の一部 製鉄炉(1基) 石組: 長6m,幅1.8m,
高1.4m
江戸末期~明治初期   市教委/南九州市教育委員会 製鉄炉が遺構として残存(かなり崩ている) 南九州特有の石組の竪形製鉄炉(中近世の韓国の製鉄遺構と類似している、ふいごを使わず水車を用いる点が韓国とは異なる) 3
写真 花房製鉄遺跡 はなふさ 鹿児島/曽於市 (南之郷) 製鉄炉(なし)   時期不明~明治初期 市史跡 WEB/現地解説板 製鉄炉は滅失 南九州特有の石組の竪形製鉄炉/志布志湾の砂鉄と豊富な木材を用いて製鉄が行われた 5
写真 二ツ谷製鉄遺跡 ふたつだに 鹿児島/南九州市 知覧町 製鉄炉(1基) 石組: 長6.3m,幅1.8m
: 断面1.1m×0.7m,
高1.8m
江戸期(18世紀前半~19世紀)   市教委/WEB 炉は石組の上部が欠損しているが、保存状態はかなり良い(写真は炉本体の石垣、写真右側の斜路から搬入) 南九州特有の石組の竪形製鉄炉(中近世の韓国の製鉄遺構と類似している、ふいごを使わず水車を用いる点が韓国とは異なる) 2
写真 厚地松山製鉄遺跡 あつちまつやま 鹿児島/南九州市 知覧町 製鉄炉
(楕円形、2基) 
2号炉: 長1.45m,
幅0.8m,高0.5m
江戸期(18世紀前半~19世紀) 県史跡 市教委/WEB 平成6-10にかけて発掘調査/炉は埋設保存→目視できない 南九州特有の石組の竪形製鉄炉(中近世の韓国の製鉄遺構と類似している、ふいごを使わず水車を用いる点が韓国とは異なる)/1号製鉄炉のC14年代測定からは1813-1921年、炉壁サンプルの考古地磁気測定からは1780-1850年と測定、1号製鉄炉のC14年代測定からは1805-93年、炉壁サンプルの考古地磁気測定からは1760-1850年と測定 3
  種子尾製鉄遺跡 たねお 鹿児島/南九州市 頴娃町 製鉄炉(?)    延宝2(1764)以降?   市教委(ミュージアム知覧紀要13p40-43) 平成23に文化財分布調査→大量の鉄滓、伯耆流の土製箱型炉が今後発見される可能性/現在は薮地となり所在不明 地元の種子尾家文書、ならびに、伯耆(鳥取県)の『鉄山必要記事』
(18世紀)等には、出雲や安芸からの製鉄職人の招請について記録→
「種子尾」が南九州の近世製鉄文化の発祥の地で、最初は伯耆流の土製箱型炉だったものが、中国たたらで用いる風化花崗岩のまさ土と、南九州の火山灰という原材料の違いにより石組竪形炉へと変容していった可能性を示唆している
5
写真 池之河内製鉄遺跡 いけのこうち 鹿児島/南九州市 知覧町 製鉄炉(?)   江戸期(19世紀)   市教委/WEB 未調査(炉の存在は不明)/水路(C改修)や鉄滓が残るとされるが、現地で視認困難 赤崎休右衛門が起業(のち、「南薩の製鉄王」と呼ばれた)/頴娃・矢越の浜から砂鉄を馬で運び、切石造の高炉で製鉄を行ったとされる 4
写真 大谷添製鉄遺跡 おおたにぞえ 鹿児島/(肝属)肝付町 (内之浦) 製鉄炉(1基)   江戸期(18世紀前半~19世紀)   鹿児島県の近代化遺産p60
/南九州市教育委員会
かつて炉であった部分に木が生えている/石垣自体は保存状態良好 南九州特有の石組の竪形製鉄炉(中近世の韓国の製鉄遺構と類似している、ふいごを使わず水車を用いる点が韓国とは異なる) 2
写真 炭屋製鉄遺跡 すみや 鹿児島/
(肝属)南大隅町
(根占) 製鉄炉(1基)   江戸期
(初期?、19世紀)
  南九州市教育委員会 製鉄炉が遺構として残存(写真は土製の炉の上部が折損している状況) 南九州の石組の竪形製鉄炉としては珍しく土製の炉が使われている(床部は石敷、山陰のたたらとは違い土製でも竪形)/中世(?)に遡ることが指摘されている→土製の炉から石積炉への移行期とも考えられる 3
写真 二川製鉄遺跡 ふたがわ 鹿児島/
(肝属)南大隅町
(根占) 製鉄炉(1基)   江戸期(18世紀前半~19世紀)   南九州市教育委員会/WEB 製鉄炉が遺構として残存→石組は修復時に本来とは異なった積み方をした可能性大(写真は炉の正面) 南九州特有の石組の竪形製鉄炉(中近世の韓国の製鉄遺構と類似している、ふいごを使わず水車を用いる点が韓国とは異なる) 3