河川の堤防

   都道府県別データ一覧にあるCランク以上の河川堤防 (河水を直接支える堤防なので、不連続堤・霞堤等も対象となる)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  相模土手 さがみ 宮城/登米市 北上川 土堤防 長約6.6㎞ 慶長10(1605)   図説宮城県の歴史p204/WEB 基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性) 戦国武将・白石相模宗直の計画・施工/西に流れる迫川に合流していた北上川の流路を東の流路に一本化するための堤防(水害防止と新田開発が目的)/白石相模宗直の「相模」の名を取って命名 2
  大曲古土手 おおまがりのふる 宮城/登米市 迫川 土堤防   寛文7(1668) 市史跡 WEB/市教委 部分的に数ヶ所残存している 事業主:登米伊達氏の4代当主・伊達宗倫、設計:秋山源兵衛/迫川の越流を町の外で堰き止めるために造られたと言われている 3
  平山の締切堤防遺構 ひらやま 山形/長井市 野川 土堤防 長300m→48m 明和8(1771) 市史跡 市教委/WEB 一部残存 野川の洪水対策として国役で築かれた締切堤防/明治36(1903)に洪水により締め切り堤防の大部分が決壊し、翌年復旧するも旧締切堤防は一部を残すのみ 4
写真 荒川の旧霞堤群(右岸) あらかわ 福島/福島市 荒川 石堤防(霞堤)
(37基)
〔写真〕の石堤:
長103.6m,高2.6m
江戸前期?   知野泰明/市教委/WEB 水害防備林内 現存する日本最大級の近世霞堤群/万治2~宝暦10(1659-1760)にかけて植林や築堤が行われた記録はあるが、現存する霞堤がその時期の構造物かどうかは不明/明治3の絵図に石積みの霞堤が複数描かれていることから江戸期にある程度できていたことは確か/長100m級の霞堤が雁行型に残る/端部が隅櫓風になった石堤が1ヶ所あり、前面を背の低い(高1m弱)補助堤で補強している〔写真〕 1 写真
写真 荒川の旧霞堤群(左岸) あらわか 福島/福島市 荒川/
あづま総合運動公園、他
石堤防(霞堤)
(31基)
〔写真〕の石堤:
長176.8m,高0.9m
江戸前期?   知野泰明/市教委/WEB 石堤防だが土で覆われている部分が多い 同上/隅櫓風の石堤はないが、規模の大きい(長い)ものが多い 2
写真 高須堤防 たかす 茨城/行方市 梶無川 土堤防   文政5(1822)   市教委(玉造町史p340)/木谷幹一 天端が道路になっているが、現役堤防ではないため雰囲気が残る 「玉造アカ」と呼ばれる洪水常襲地域を救い、生産を安定させるため、玉造村の庄屋・白井小衛門が私財千両を投じ、3年の歳月をかけて築いた堤防/文政3着工(文化3との説も)なので、竣工は文化5? 2
  手賀沼の千間堤・跡 てが 千葉/我孫子市 <手賀沼>(新木地先) 土堤防   享保14(1729)   市教委/WEB(近世手賀沼の歴史) 道路化 計画:紀州出身の幕府勘定方・井澤弥惣兵衛(初代ではなく二代目?)、施工:紀州出身の豪商・高田友清/手賀沼を横断して対岸の柏市布施明神下まで造られた長さ千間の土堤防→手賀沼が二分され、水深の浅い下沼が開墾されるはずだった→数年で利根川の逆流で破堤(地元農民の利害関係による人為的破壊説は間違い)→廃田 4
  桜土手 さくら 千葉/印西市 <印旛沼> 土堤防 長約5.9㎞ 享保年間(1716-35)?   市教委 天端→県道 印旛沼新田開発に伴い水防施設として築かれた堤/印旛沼関連で最もよく当時の姿を留める代表的遺構 2
  谷津縦の土手 やつたつ 千葉/印西市 <印旛沼> 土堤防   江戸期   市教委 道路の沼とは反対側に残るが、灌木が生え土手とは分かりにくい 印旛沼新田開発に伴い水防施設として築かれた堤/小規模 3
  高岩の土手 たかいわ 千葉/印西市 <印旛沼> 土堤防   江戸期   市教委 同上 印旛沼新田開発に伴い水防施設として築かれた堤/小規模 3
  土井の新堤・跡 どい 千葉/香取市 <黒部川支流> 土堤防 長1.27㎞,幅約5m 元和年間(1615-24) 市史跡 市教委/WEB 明治39-42の耕地整理でも堤防の幅を狭めて農道とした 立案・実行: 佐倉藩主(老中)・土井利勝(後の大老)/領内の田部・竹之内村の水害を防ぐために築造 3
写真 八丁堤 はっちょう 埼玉/
さいたま市(緑区)・
川口市
(附島~木曾呂) 土堤防 長約870m,高約2m,幅約60m 寛永6(1629)   市教委/WEB 天端→道路 関東郡代・伊奈忠治により、台地の狭窄部に築かれた長さ「八丁」の締切堤→見沼に流入していた古芝川を堰き止め見沼溜井(周囲40数㎞)ができた(利根川と荒川の瀬替えにより生じた用水不足への対応措置)/享保12(1727)、八丁堤を切って見沼溜井を干拓し見沼田圃を造成→見沼田圃の東縁と西縁の台地に沿って見沼代用水を開削して灌漑用水を供給(上記、「見沼代用水東縁」「見沼代用水西縁」参照) 3
写真 備前堤 びぜん 埼玉/桶川市・蓮田市 綾瀬川 土堤防 長約500m(現存) 慶長年間(1600頃)   WEB(関東地方の川) 天端→県道 関東代官頭・伊奈備前守忠次により築かれた綾瀬川の締切り堤防(綾瀬川は旧荒川(現在の元荒川)の派川(旧荒川から分岐する川)で、旧荒川が高台を流れていたのに対し旧綾瀬川は低地を流れていたため、旧荒川が増水すると洪水の大半は綾瀬川の方へ流下していた→下流洪水被害を防ぐため綾瀬川の分岐地点に備前堤を築造)/「備前」の呼称の由来は備前守/御定杭(下記参照)が現存 3
写真 古隅田川の旧堤 ふるすみだ 埼玉/春日部市 古隅田公園遊歩道
<古隅田川(左岸)>
土堤防 長約1.5㎞,高約2.5m 江戸期   WEB 本来の形態を残したまま公園化 春日部市南中曽根にかけて残る旧右岸と旧左岸の堤防間隔約300m→
かつての隅田川の規模を彷彿とさせる/古隅田公園遊歩道だけでなく、古隅田川緑道と合わせれば全長4㎞
2
写真 合の川の旧堤 あいのかわ 埼玉/加須市 (北川辺町)
<合の川(右岸・左岸)>
土堤防   文禄3(1594)以前   WEB(関東地方の川) 旧河川の両岸の堤防が残る 利根川東遷事業の一貫として廃川となった合の川の旧堤防 2
写真 利根川旧堰堤 とね 埼玉/加須市 (外野)<利根川> 土堤防 長約60m(現存)? 元和7(1621) 県旧跡 現地解説板 堤防の痕跡をほとんど留めない→指定箇所ミス 関東郡代・伊奈忠治が新川を掘削し、流路を変更した(浅間川の流頭部分を締切って廃川とした)ことで残った堤跡/昭和3建立の石碑あり 4
写真 川口堤 かわぐち 埼玉/加須市 瘤神社
<利根川(右岸)>
土堤防 長約100m(現存) 万治3(1660)以前   WEB(関東地方の川) 残るのは一部/堤防の雰囲気は留める 古利根川の洪水から騎西領を守るために構築(長約1.7㎞) 3
写真 八丁堤 はっちょう 埼玉/川口市・
さいたま市(緑区)
(木曾呂~附島) 土堤防 長約870m,高約2m,幅約60m 寛永6(1629)   さいたま市教育委員会/WEB 天端→道路 計画・施工: 伊奈家第2代・伊奈忠治/利根川と荒川の瀬替えにより生じた用水不足→台地の狭窄部に堤防を築き、見沼に流入していた古芝川を堰き止め見沼溜井(周囲40数㎞)とした 3
写真 城ヶ谷堤 じょうがや 埼玉/北本市 (石戸宿)
<荒川(左岸)>
土堤防   江戸初期   WEB(関東地方の川) 天端→市道/桜の名所 荒川の水除堤(田畑を水害から守るため) 3
写真 中条堤 ちゅうじょう 埼玉/行田市・熊谷市 <福川(右岸)> 土堤防 長2732m(明治9) 江戸以前   WEB(関東地方の川) 堤防の機能はないが、保存状態は良好/堤防に農業用水の取水施設、北河原用水元圦(明治36の煉瓦樋門)が伏せ込まれている 「中条堤」は総称で、実際には上中条堤、四方寺堤、北河原堤の集合体/中世には既に存在していて、慶長年間(1610年頃)に伊奈忠次により本格的な整備が実施されたとする説が有力/利根川、福川、荒川の洪水を中条堤の上流側へ一時的に湛水させ、洪水の被害から下流側を守ることを目的とした控堤(水除囲堤)→洪水が氾濫することを前提として、その遊水を調節する機能を有し、洪水被害を最小限に食い止めるために設置された堤防 2 写真
写真 石田堤 いしだ 埼玉/行田市・鴻巣市 <忍川> 土堤防 長282m,高2m,幅5.5m(現在) 天正18(1590) 県史跡 市教委/WEB(関東地方の川) 行田市側は堤裾に盛土をして市道が設けられているので、石田堤の全貌が確認しにくい 石田三成が忍城を水攻めにした際に築いた堤防(わずか一週間で全長28 or 14㎞もの堤を築いたとされる)/元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた土手 3
写真 中堤 なか 埼玉/行田市 (長野)<忍川(左岸)> 土堤防 長454m
(明治初期)
江戸期   WEB(関東地方の川) 天端→市道 埼玉沼(小針沼)の村境堤防 3
写真 古堤 ふる  埼玉/久喜市 (佐間)<渡良瀬川> 土堤防  長約700m,高3m
(現存) 
江戸以前?    WEB(関東地方の川) 一部に古道の雰囲気を留める  俗称/鎌倉古道として使われていたとの伝承がある  2‐3
写真 蛇田堤 じゃだ  埼玉/久喜市 (鷲宮)中川(右岸) 土堤防    江戸初期   WEB(関東地方の川) 天端→市道  古利根川を締め切るために築かれた堤防  3
写真 久下の長土手(久下堤) くげ 埼玉/熊谷市 荒川(左岸) 土堤防 長約2.5㎞ 天正2(1574)   WEB(関東地方の川) 現役の堤防(嵩上・改修)天端→道路 鉢形城主・北条氏邦が元荒川の氾濫に備えて構築した延長約4キ㎞の堤防/堤防上が旧中山道/修堤碑である久下堤の碑(明治45建立)が現存 3
写真 万平公園の旧・熊谷堤 まんぺい、
くまがや
埼玉/熊谷市 万平公園<荒川> 土堤防 長約150m,高3m
(現存)
天正8(1580)   WEB(関東地方の川) 旧・熊谷堤の跡地を公園として整備 鉢形城主・北条氏邦が元荒川の氾濫に備えて構築した延長約4キ㎞の堤防の一部 2
写真 中条堤 ちゅうじょう 埼玉/熊谷市・行田市 <福川(右岸)> 土堤防 長2732m(明治9) 江戸以前   WEB(関東地方の川) 天端→市道/2ヶ所にRC製の陸閘 「中条堤」は総称で、実際には上中条堤、四方寺堤、北河原堤の集合体/中世には既に存在していて、慶長年間(1610年頃)に伊奈忠次により本格的な整備が実施されたとする説が有力/利根川、福川、荒川の洪水を中条堤の上流側へ一時的に湛水させ、洪水の被害から下流側を守ることを目的とした控堤(水除囲堤)→洪水が氾濫することを前提として、その遊水を調節する機能を有し、洪水被害を最小限に食い止めるために設置された堤防 3 写真
写真 大芦橋付近の横手堤 おおあし、
よこて
埼玉/熊谷市 (旧大里町)
荒川(右岸)
土堤防 長約1㎞ 江戸初期   WEB(関東地方の川) ほとんど旧状を留めない 吉見領囲堤の北縁(堤防の敷地は吉見町の飛び地)/「横堤」が訛ったもの 4
写真 相上堤 あいあげ 埼玉/
熊谷市・東松山市
  土堤防 長約300m,
高約2.5m
江戸初期   WEB(関東地方の川) 保存状態良好 和田吉野川の右岸堤防に対して直角に接続する控堤(洪水の流入防止) 1
写真 石田堤 いしだ 埼玉/鴻巣市・行田市 石田堤史跡公園
<忍川>
土堤防 長282m,高2m,幅5.5m(現存) 天正18(1590) 県史跡 WEB(関東地方の川) 鴻巣市側は石田堤の旧態がはっきりと残る 石田三成が忍城を水攻めにした際に築いた堤防(わずか一週間で全長28 or 14㎞もの堤を築いたとされる)/元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた土手 2
写真 押立堤・跡 おったて 埼玉/越谷市 北越谷五丁目・西端
<荒川・左岸>
土堤防 長約2㎞ 寛永6(1629)以前   WEB(鎌倉街道上道) 市街地内に良好に残る/人道として利用 伊奈忠治による寛永6(1629)の荒川閉切り以降に元荒川となった 2
写真 権現堂堤 ごんげんどう 埼玉/幸手市 中川(右岸)<権現堂川> 土堤防 長1.06㎞,高3m
(江戸期の旧権現堂川)
天正2(1574) or
天正4(1576)
市名勝 市教委(幸手市史・通史Ⅰp360-361)/WEB(関東地方の川) 内務省直轄事業により昭和3(1928)に廃川 江戸時代、中条堤と並んで利根川治水の最重要施設(権現堂堤が決壊すると被害は江戸市中にまで波及した)/現在は桜の名所
2
写真 佃堤 つくだ 埼玉/志木市 新河岸川(左岸) 土堤防 長1239m
→長300m(現存)
1650年頃 or 寛文2(1662) 市史跡 市教委/WEB(関東地方の川) 新河岸川の左岸に残る控堤/堤防らしさを喪失 宗岡村を知行していた旗木・岡部氏の家臣・白井武左衛門の築造/上流の南畑村(現・富士見市)方面からの洪水流から宗岡村を守るために構築/新河岸川の本堤(左岸堤防)に対して直角に、堤内地に向かって設けられている 3
写真 備前堤 びぜん 埼玉/蓮田市・桶川市 綾瀬川 土堤防 長約500m(現存) 慶長年間(1600頃)   WEB(関東地方の川) 蓮田市側は旧堤の雰囲気を残す 関東代官頭・伊奈備前守忠次により築かれた綾瀬川の締切り堤防(綾瀬川は旧荒川(現在の元荒川)の派川(旧荒川から分岐する川)で、旧荒川が高台を流れていたのに対し旧綾瀬川は低地を流れていたため、旧荒川が増水すると洪水の大半は綾瀬川の方へ流下していた→下流洪水被害を防ぐため綾瀬川の分岐地点に備前堤を築造)/「備前」の呼称の由来は備前守/御定杭(下記参照)が現存 2
写真 相上堤 あいあげ 埼玉/
東松山市・熊谷市
和田吉野川 土堤防 長約300m,
高約2.5m
江戸初期   WEB(関東地方の川) 保存状態良好 和田吉野川の右岸堤防に対して直角に接続する控堤(洪水の流入防止) 1
写真 江原堤 えばら 埼玉/深谷市 (江原)<利根川> 土堤防(霞堤) 長約200m 江戸期   WEB(関東地方の川) 天端→農道 利根川(右岸)の旧堤防(控堤)→利根川が増水すると洪水流が江原堤開口部から流入し、最下流の中条堤で堰止められる仕組み/御定杭が現存(下記参照) 2
写真 木曽目堤 きそめ 埼玉/富士見市 (下南畑)
<新河岸川(左岸)>
土堤防 長約500m(現存) 江戸前期   WEB 天端→市道 上流は竹之内堤、下流は佃堤につながる/南畑三村と下流の佃堤のある宗岡村とは、天明6(1786)の大水害で竹之内・木曽目・佃堤の水はけや堤の高さをめぐって幕府評定が行われた 3
  都島の霞堤 みやこじま 埼玉/本庄市 利根川 土堤防(霞堤) 長200~300m程度 江戸期   市教委 現役ではないが、保存状態は良好   2
写真 庄内古川の旧堤 しょうない 埼玉/(北葛飾)松伏町 (金杉)<庄内古川(左岸)> 土堤防 長約1㎞ 享保13(1728)以前   WEB(関東地方の川) 天端→町道 井沢弥惣兵衛が享保13(1728)に庄内古川の河道を変更する以前の堤防 3
写真 川島領囲堤(長楽堤) かわじま 埼玉/(比企)川島町 <荒川・市野川> 土堤防 長約3㎞,高5m 慶安年間(1650頃)   WEB(関東地方の川) 非現役/天端の大半→サイクリングロード 川越藩主・松平信綱/江戸時代初期(1629)に行われた荒川の瀬替えにより新たに荒川の右岸となった川島領では以前よりも洪水量が増加→洪水から集落を守るための大規模な囲堤が構築 2
写真 吉見領囲堤(吉見大囲堤) よしみ 埼玉/(比企)吉見町 北縁:横手堤、
東縁:荒川の堤防
土堤防 長約12㎞,高3m 元和年間(1620前後)   町教委/WEB(関東地方の川) サイクリングロード化/一部が「吉見さくら堤」/現役 関東郡代・伊奈忠治の最初期の事業/江戸時代初期(1629)に行われた荒川の瀬替えにより新たに荒川の右岸となった川島領では以前よりも洪水量が増加→洪水から集落を守るための大規模な囲堤が構築(集落を三方から囲んだ)→囲堤の中に「縦土手」や「大工町堤」などが配置 3
  墨堤 ぼくてい 東京/墨田区 隅田川(左岸) 土堤防 約1.3㎞ 江戸初期→享保2(1717)桜植樹後、桜の名所に 区登録名勝 古地図で江戸散歩p108/WEB/
区教委
C改修・修景/桜の名所(水害で捕植、伸延のための追加) 水害を避けるため利根川の水路付替えが行われ築堤が進む/享保2(1717)、8代将軍・吉宗の命で100本の桜を植樹(→通説→実際は4代将軍・家綱)→文化年間に150本、天保2に200本、弘化3の決壊後に150本補植、安政元に200本、明治初期に1000本 3
  石見土手 いわみ 東京/八王子市 宗格院<浅川> 石堤防 長584m→約20m 江戸初期 市史跡 市教委 ごく一部のみ残る 指揮: 八王子代官・大久保石見守長安→「石見」の名前の由来/八王子宿の水害防止 4
  曽比の酒匂川霞堤 そび 神奈川/小田原市 酒匂川(右岸) 土堤防 長約600m 江戸期     上流で開き、下流で閉じる直線形の霞堤が良好に残る   1
  相模川堤防 さがみがわ 神奈川/座間市 <相模川(左岸)> 土堤防 長約800m 江戸期   市教委 砂利舗装の簡易道路   3
  文命堤 ぶんめい 神奈川/南足柄市 酒匂川(右岸) 土堤防 長935m 享保11(1726) 市史跡 WEB 現役・道路化 農政・民政の意見書『民間省要』(1721)で注目され幕府の支配勘定並に抜擢された田中休愚が行った多くの川除普請の一つ/享保11年2月に着工し5月に完成/禹王が黄河を治めた功績を称えて「文命」という称号を得た故事にならい「文命堤」と命名した/発掘調査により堤体内に下記の「酒匂堰取水水門」と同じ構造の取水水門のあることが発見された 2
  酒匂川の三角土手 さかわ 神奈川/
(足柄上)松田町
酒匂川(左岸) 土堤防   享保19(1734)   WEB 明治40の洪水で大破 宝永4(1704)の富士山が噴火して河床上昇した酒匂川の氾濫対策として田中丘隅により享保11(1726)に築かれた大口土手が享保16の洪水で流されたため、蓑笠之助(田中丘隅の娘婿)が築いた堤防 4
写真 信玄堤 本土手 しんげんづつみ 山梨/甲斐市 信玄堤公園<御勅使川> 土堤防 長約600m(土手部のみ、これに1㎞を超える石積の2番堤が付随)→長約400m 永禄3(1560)以前→貞享5(1688)現存形に近い場所・形状で構築→近世 県有形 南アルプス市埋文調査報告書No25/県博/市教委 信玄由来でも、現存堤の建設年代の特定は困難(恐らく、近世中期頃の修築)/戦国期のものでなくても、それを修築した近世のものとして唯一現存する 『甲斐国志』(1814)に記述された治水施設の中で、唯一信玄の時代に施工が確認されている堤防/長350間の土手=土手の川表側には長450間、横6間の石積出、下流側には長700間、横6間の石積出が延びる→さらに、川表側に33ヶ所の「出し」が敷設(現在の竜王堤は、この出しを連続させたとの考え方もある) 2 写真
写真 葉町の霞堤 ふたば 山梨/甲斐市 <釜無川(左岸)> 土堤防(霞堤)
(一部に石)
(北)長250m(保存状態の良いのは125m),(中)180m(同90m),(南)長250m 近世?
(明治21の地図に記載)
  県博/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世由来としても、現存堤の時代特定は困難/部分的に崩れたり、道路化している 釜無川への塩川の合流部/3本の不連続堤が連続して残っており、規模も大きく、霞堤のイメージがよく分かる/水害による被害を想定した農地を広く設定した
3
写真 下条南割(竜岡)将棋頭 しもじょうみなみわり(たつおか) 山梨/韮崎市 御勅使川(左岸) 石堤防 長100m,
幅約2m,
高約3m
近世由来(19世紀) 国史跡 南アルプス市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 文久2(1862)の文書に記載があるため近世由来だが、現存堤の構築年代は恐らく近代/保存状態良好 『甲斐国志』(1814)に無記載/御勅使川左岸の将棋頭堤防は2ヶ所あったが、「西割」の方は現存せず/下条の将棋頭群は、御勅使川の流路内に耕地を確保するためのもの/六科将棋頭と違い木工沈床などの根固めは施されていない 2
  下条東割の霞堤 しもじょうひがしわり 山梨/韮崎市 釜無川(右岸) 石堤防(霞堤) 長640m 近世由来?   山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 明治21の地図に記載があるので、近世に遡る可能性あり/保存状態は概ね良好 釜無川の大型の霞堤
3
  一宮の石積堤防 いちのみや 山梨/笛吹市 金川 石堤防 長約30m 近世?   市教委 現存堤構築年代は近代の可能性も   4 -
  御坂町の石積堤防 みさか 山梨/笛吹市 金川 石堤防 長約100m 近世?   市教委 現存堤構築年代は近代の可能性も   4
写真 旧中沢堤 なかざわ 山梨/富士吉田市 <桂川(右岸)> 土堤防 長約150m,
幅3.2m,高約1.1m
貞享3(1686)   市教委 昭和3に流され石積み修復 部分的に菜園化、もしくは樹林化している 3
写真 新中沢堤 なかざわ 山梨/富士吉田市 桂川(右岸) 石堤防

長約580m,
幅6.4m,高約1.1m

天保5(1834)の災害後   市教委 桂川河川公園と桂川の間の遊歩道に良好な状態で残る 人頭大の川原石を用いた見事な石積み/旧中沢堤から新規に造り、以降順次に修復・延長 2
写真 御勅使川石積出(一番堤) みだい、いしつみだし 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約90m,
幅16m,高7.3m
近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 江戸期の絵図(18世紀)に描かれているため近世由来だが、現存堤の構築年代は近代/一~三番堤は、観光用に整備 信玄治水の伝説は『甲斐国志』(1814)の創作(信玄は甲斐市の「信玄堤」は構築しているので、この地域で何らかの治水事業を行ったかもしれないが、それを証拠付ける戦国期の一次史料はない)/現存する「石積出」は恐らく江戸中期には築造されていて、破堤したら被害が及ぶ22ヶ村によって保守されていた(何度も破堤・崩壊した記録が残っているので、もっと前に信玄由来のものが付近にあった可能性は否定できない)/一番堤に最も大きな石が使用されている(激流に耐えるため) 3
写真 御勅使川石積出(二番堤) みだい、いしつみだし 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約80m,
幅13m,高5.5m
近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前/一~三番堤は、観光用に整備/駐車場に近く、アクセスが最も容易 同前/同前/一~三番堤の中では、最も小型 3
写真 御勅使川石積出(三番堤) みだい、いしつみだし 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約70m,
幅20m,高10.1m
近世由来(18世紀)→現存堤は明治14(1881)以降の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前(根固めに木工沈床を使用)/一~三番堤は、観光用に整備/一部堤防の根元を掘り、根元まで見えるようにしてある 同前/同前/御勅使川石積出のシンボル的存在/巨大な石積は、近世由来の構築物としては圧倒的な規模を誇る 3
写真 御勅使川石積出(四番堤) みだい、いしつみだし 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約250m 近世由来(18世紀)→現存堤は明治末期~大正期の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博 同前(根固めに梯子土台を使用、川表側にコンクリート、鉄線蛇籠を使用)/川側は水道施設内で立入禁止/山側は上部にCの付加物 同前/同前/石堤防上にフェンスを築造/道路で分断 4
写真 御勅使川石積出(五番堤) みだい、いしつみだし 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) 石堤防 長約1.6㎞ 近世由来(18世紀)→現存堤は近代の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 同前/木立に囲まれ、視認困難な場所が多い 同前/同前/一~四番堤と異なり、川に平行→石積出というより、堤防に近い 4
写真 有野の枡形堤防 ありの、ますがた 山梨/南アルプス市 御勅使川(川中)、六科後田水門 石堤防(Λ型)
(北堤、南堤)
堤頂部長:
42m(北),
約45m(南)
近世由来(上記、徳島堰の埋樋化と同時?)→現存堤は明治42(1909)前後の修築と推測   市埋文調査報告書No25/県博/現地解説板 徳島堰の埋樋化に伴う施設のため近世由来だが、慶応4(1868)の詳細部とも若干形状が異なり、現存堤の構築年代は明治末期→史跡的な価値/敷地のぎりぎりまで民家が建っている/保存状態良好 信玄治水の伝説は『甲斐国志』(1814)の創作(信玄は甲斐市の「信玄堤」は構築しているので、この地域で何らかの治水事業を行ったかもしれないが、それを証拠付ける戦国期の一次史料はない)/徳島堰の埋樋部分の六科取水口(後田水門)を守るための堤防/小型の将棋頭だが、現存する2つの将棋頭がΛ型の完全形ではないため、また、北側に2基造られていた枡形堤防も撤去されたため、唯一残る貴重な存在/現存する枡形は近代のもの(木工沈床が使われている) 3 写真
写真 六科将棋頭 むじな 山梨/南アルプス市 御勅使川(川中・右岸) 石堤防(北堤) 長115m,幅22m,高4.3m 近世由来(19世紀)→現存堤は明治14~31(1881~98)の間の修築と推測 国史跡 市埋文調査報告書No22/県博/現地解説板 江戸期の絵図(19世紀)に描かれているため近世由来だが、現存堤の構築年代は木工沈床の使用から、近代であることは確実/保存状態良好 同上/六科将棋頭は、御勅使川の流れを二分するために築かれたとされる(実際には、扇状地上に耕地や村落を確保するためとの推測が定説化)/現存石堤の下流側に二番堤と三番堤の存在が確認されている(三番堤を将来復元する計画もある) 3
  六科御勅使川通五番・六番堤 むじな、みだい 山梨/南アルプス市 御勅使川(川中・右岸) 石堤防(霞堤)
(北堤、南堤)
長530m,幅8.2m,高4.4m 近世由来(19世紀)   市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 木で覆われているが、概ね良好 六科将棋頭の下流側に続く霞堤群 3
  お熊野堤 おくまんどい 山梨/南アルプス市 御勅使川(右岸) <土堤防(霞堤)> 長約350m 近世由来   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 道路化/改修の程度は不明 六科将棋頭によって御勅使川の流れを左右に分けた際の右派の右岸霞堤群 3
  上高砂二番堤 かみたかさご 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防(霞堤) 長約580m 16世紀中頃由来→その後3回嵩上げ   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 一部現存 御勅使川が合流した直後の釜無川右岸の大型霞堤群 3
  百間堤 ひゃっけん 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) <土堤防(霞堤)> 長約190m 天保8(1837)   堤の風景 保存状態良好/環境は良くない 御勅使川が合流した直後の釜無川右岸の大型霞堤群/名称は長さに由来 2
  将監堤 しょうげん 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約200m 享和2(1802)以前由来→現存堤は幕末~近代   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世由来の区間は200mだが、それ以南の将監堤は、現行堤防の中に埋まっている可能性がある 江戸期13ヶ村1万石を水害から守ってきた釜無川右岸の治水の要 3
  八幡下堤(もようげん堤) はちまんした 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約400m 文政12(1829)   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 恐らく、当時のものが現存 文政11(1828)の台風で壊滅的な被害を受けた将監堤による治水システムを再構築(模様替)するために造られた→「もようげん」の名の由来 2
  土出し堤 つちだし 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) 土堤防 長約80m 文政12(1829)?   堤の風景/市教委/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 恐らく、当時のものが現存 将監堤、八幡下堤とセットで、治水システムとして機能 2
写真 雁行堤 がんこう 山梨/山梨市 笛吹川(左岸)、万力公園 石堤防 高5.45m→約1m,総延長32.58m 天正11(1583)の大水害以降の由来→現存堤は近世中期の修築と推測 市史跡 県博/市教委/現地解説板 天正期の大水害後の由来だが、現存施設は恐らく近世のもの/万力公園内に棒状に残存 幕末まで利用されていた/棒状で雁行の形は喪失 3
  昭和町の旧霞堤 しょうわ 山梨/(中巨摩)昭和町・中央市 <釜無川(左岸)> <土堤防> 長891m(昭和町)+330m(中央市) 近世由来   県博/山梨堤防・河岸遺跡分布調査報告書 近世の土堤防の上から、近代に補強→道路化/宅地化しているが、旧堤防を感じさせる部分も多い 釜無川の大型の霞堤だが、現在は内陸部(宅地化)
3
  篠ノ井塩崎の旧千曲川堤防(松節堤防遺構) しののいしおざき 長野/長野市 一般道<千曲川> 土堤防 長約280m 江戸期   市教委 道路化 堤防遺構が、現在流路がかわり、道路として利用されている 3
  村山の旧千曲川堤防 むらやま 長野/長野市 一般道<千曲川> 土堤防 長約260m 江戸期   市教委 道路化 堤防遺構が、現在流路がかわり、道路として利用されている 3
写真 大町の旧千曲川堤防 おおまち 長野/長野市 <千曲川> 土堤防 長約20m 江戸期   市教委 僅かに、当時の遺構が残る/松が植栽され小さな石の祠が並ぶ 近くの長沼宿を守るために築かれた千曲川の堤防 2
写真 篠ノ井小森の石土手 しののいこもり 長野/長野市 <千曲川> 石堤防   江戸後期   市教委 大規模な修復(一部遺構が残る) 千曲川の流路を変えるため造られた石積み土手 3
写真 石川除 いしかわよけ 長野/飯田市 <天竜川> 石堤防 長234m→約60m,
高50㎝
天保2(1831)→天保6洪水で一部流失→天保10修復   中部5県調査/天竜川上流河川事務所 明治元(1868)嵩上げ 河原の野面石を3段に乱積した空積護岸 3
写真 乳川石堤 ちがわ 長野/大町市 <乳川> 石堤防 高5m,長約280m,基底部幅15m→長36m,
幅3.3m
文化13-14(1816-1817)   市教委 非現役石堤だが大部分が土に覆われている/一部が国営公園内に残存 中に大きな石をすえ、周囲に小さな川原石を積み上げて台形状に造ってある 3
  寂蒔水除土堤 じゃくまく 長野/千曲市 千曲川 土堤防 長約450m→3ヶ所計約100m 元禄6(1693)   市教委/WEB 3ヶ所に分かれて残る 千曲川の氾濫から家屋・田畑を守るため、寂蒔、鋳物師屋、打沢、小島の4ヶ村が築造/北国街道と土堤が交差する所は、非常時には土嚢や石で道の部分を埋めて、ひと続きの土堤として水害を防いだという/土手の上に二十三夜塔と道祖神が祀られている 3
写真 羽毛山堤防 はけやま 長野/東御市 千曲川 石堤防 長576m,高7.5m 文久4(1864)   岩屋/市教委(北御牧村誌・歴史編1p299) 保存状態良好 延長・高さとも大規模/2段の高い石積(川原石を,急勾配に乱積)が見事/安政6(1859)の大洪水を受け、小諸藩9代藩主・牧野康哉が南方村に藩の興復方の出張役所を開設し、家臣・高崎郁母と、羽毛山村名主・西野入謙三により構築/小さな祠あり 1 写真
写真 理兵衛堤防 りへえ 長野/(上伊那)中川村 天竜川(右岸) 石堤防 長180m→80m,幅3-4m 文化5(1808)   中部の土木史p218/村教委/天竜川上流河川事務所 近代に入り埋没していたものが、昭和58の台風で一部、平成18の豪雨で天の中川橋直上流の大部分が露出(一部は保存状態良好)→平成20復元/天の中川橋の架け替えに伴い下流部で旧堤防を発掘→埋戻し、一部移設展示 地主・松村家の親子3代(理兵衛忠欣、理兵衛常邑、理兵衛忠良)が半世紀以上にわたって築造 2
写真 大夫千両堤 だゆうせんりょう 長野/
(上高井)小布施町
松川 石堤防<(霞堤)> 長2㎞(当初推定値)→長80m,高1.5m,幅5.5m 元和5-6(1619-20)頃 町史跡 WEB/町教委/
中部の土木史p208
展示的保存(玉石の野面積みの一部が残る) 福島正則が元和5に「武家諸法度」違反に問われ安芸・備後50万石を没収され信濃国高井郡他45000石に減・移封後、翌元和6に嫡男の死で25000石を返上するまでの間に行った治水事業(戦国を代表する武将が悲劇を乗り越えてなお行った善政の記念碑)/築造当時は霞堤の形状をとっていた 3
写真 弁天様の川除 べんてんさま 長野/(下伊那)阿智村 浪合川 石堤防 長50m,高約1m 天保13-14(1842-3) 村史跡 長野県の文化財p177/村教委/WEB 石積みがきれいに残存/川との関係性が薄い 上記、浪合川の洪水後も、町頭地区は、寛保、寛政、天保13と何度も水害に合い、その度に堤防も損壊→現在残るのは、天保13の水害後に構築された堤防 2
写真 大草堤防 おおくさ 長野/(埴科)坂城町 <千曲川> 石堤防 長約60m 寛保3(1743)   町教委 小規模な修復 田畑の中に、石積堤防だけが残る 2

  常山隄 じょうざん 長野/(埴科)坂城町 千曲川 土堤防(一部石) 長300m,天端幅9m 弘化2(1845) 町史跡 千曲川河川工事事務所/中部の土木史p220/町教委 小規模な修復/ソメイヨシノの名所として知られる 施主: 佐藤嘉長/天保12(1841)の大水害を受け、千曲川に対して直角に突出させた石堤(基礎を大石で築き、堤端には「畳石」という巨石を置いた)を含む一連の堤防群を築造→千曲川の流路を変えた/「常山の蛇は頭が撃たれれば尾がこれを助け、尾が撃たれれば頭がこれを救う」と兵法書『孫子』から常山堤と命名 2
写真 ・薩摩土手 さつま 静岡/静岡市(葵区) 安部川(左岸) 土堤防 長4365m,高5.4m 慶長11(1606)?   市教委 部分的に残存(正確さ不明) ①静岡には、建設されたと言われる時期に書かれた史料がなく18世紀以降の史料しかない、②鹿児島に「薩摩土手」を施工したとの史料がない、の2点から伝承の粋を出ない/江戸後期には成立していたいわゆる霞堤との関連も不明→霞堤は駿府城のかなり上流から河口まで本流左岸だけで10ヶ所あり、その中で城に近い藁科川との合流点までの8ヶ所の霞堤に該当する部分の距離が、薩摩土手の延長と言われる長さとほぼ同じであり、両者の関係が不明/よく知られた伝承は「家康の駿府築城に際し、命を受けた薩摩藩主・島津忠恒が石・材木を鹿児島から五百石積の舟150隻で運び築造した」というもの 3
  安部川の旧霞堤
(田町上堤)
たまち 静岡/静岡市(葵区) 安部川(左岸) 土堤防(霞堤)   江戸期   静岡河川事務所(安部川治水史p76-78) 閉鎖 遠藤新田(文禄年間:1592-96)で、新田を保護するために堤防を築いたのが、安部川における新田開発と霞堤の関係の始まりとされているが、その後の状況は不明。また、霞堤いわゆる「薩摩土手」との関係も不明
(並び順は、左記資料のp88の図2-18の順番)
2
写真 安部川の旧霞堤(安西堤) あんざい 静岡/静岡市(葵区) 安部川(左岸) 土堤防(霞堤)   江戸期   同上 閉鎖 同上 2
写真 安部川の旧霞堤
(伝馬町堤)
てんま 静岡/静岡市(葵区) 安部川(左岸) 土堤防(霞堤)   江戸期   同上 閉鎖 同上 2
写真 藁科川の霞堤(無名堤)   静岡/静岡市(葵区) 藁科川(右岸) 土堤防(霞堤)   江戸期   同上 現役 同上 1
写真 藁科川の霞堤(産女堤) うぶめ 静岡/静岡市(葵区) 藁科川(右岸) 土堤防(霞堤)   江戸期   同上 現役 同上 1
写真 旧・柳堤 やなぎ 静岡/磐田市 太田川 土堤防 長約900m,
高約5m→1m前後
延宝8(1860)頃   市教委/WEB 享保14(1729)改修 横須賀城主・本多利長が太田川右岸対策として築いた堤防→幕府の意向に沿わなかった(?)ため、利長は工事途中で左遷→普請奉行・柳原十内が引き継いだ→工事中止→十内は堤上で切腹したとの伝承 3
写真 旧・島田大堤 しまだ 静岡/島田市 島田宿大井川川越遺跡
<大井川>
土堤防 長5730m,高約3.6m 正保元(1644)以前   現地解説版 切れ切れになって残る 慶長の大洪水(1604-5)で大井川の川除堤が決壊し島田宿が流失したため、島田代官・長谷川藤兵衛の頃(1644)に復興が本格化する→この頃までに大堤も完成していたと推測される 3
写真 天宝堤 てんぽう 静岡/浜松市(浜北区) <天竜川> 土堤防 長17.5m,幅9m,
高1.2m(残存部)
天平宝字5(761)修築 市史跡 市教委/WEB 記念碑的に残る 『続日本紀』に、荒玉川の堤防が900mほど決壊したので延べ30万3700人余の人夫を使い修築したという記載がある/本来は浜松市東区有玉まで続いていたと言われている 4
写真 雁堤 かりがね 静岡/富士市 松岡<富士川> 土堤防
(逆L字堤+遊水地)
長2.7㎞,
高5.5-7.3m
延宝2(1674) 市史跡 現地解説板/岩屋隆夫   駿河藩の代官・古郡重政・重年の親子が、富士川治水と新田開発のために築いた大堤防(鍵状の部分が遊水域に機能)/雁が連なって飛ぶ様子に似ている→命名の由来 2 写真
写真 込高新田堤 こめだか 愛知/名古屋市(緑区) <込高新田> 土堤防 長約800m(残存) 延宝8(1680)   市教委 良好な状態 込高新田の西側堤防として、市内で良好な状況で現存する数少ない干拓遺構/土積み方法: ほぼ中央に長さ約1.5mの丸木杭を約50㎝間隔で打ち、杭の左右約1m及び1.6mの位置に長さ約30㎝の短杭を約70㎝間隔で打ち、東側から西側へと土積みした 2
  紀左衛門新田堤 きざえもん 愛知/名古屋市(南区) <紀左衛門新田> 土堤防 長約30m(残存) 宝暦4(1754)   市教委/WEB 民有地内/周辺が嵩上げされ堤防であると視認困難 施主:加藤紀左衛門→のち徳川家の所有に 4
写真 御囲堤(浅井町) おかこいづつみ(あざい) 愛知/一宮市・愛西市・江南市・津島市 県道・小牧~北方~江南線<木曽川(左岸)> 土堤防 長約47㎞,高9.1~14.5m,馬踏10.9~18.2m 慶長15(1610)→寛政3(1791)嵩上→寛政11(嵩上)→明治18(1885)嵩上・一部に桜植樹 国天然(桜) 江南市教育委員会/八開村史・通史編//木曽川上流河川事務所 現役の県道(堤防としての役目は終えている)/桜並木で有名な区間 施工命令:徳川家康,計画・実施:伊奈忠次/尾張徳川家を水害から守るためと、西国大名の侵入を防ぐために築造(大坂冬の陣直前)、さらに、尾張平野の農業開発や木曾檜の流送も視野に入っていたとされる/
「対岸美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし」「尾張領御囲堤御修繕相済候迄は、対岸の諸藩領分堤普請遠慮これ有るべし」との不文律を美濃側に強制したという話は有名だが、直接これに言及した資料はないので強制力が働いたのか、結果的に堤防に差が出たのかは不明
1 写真
写真 草井町の千間猿尾 くさい 愛知/江南市 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約1950m,高約5m 江戸期   馬場慎一 拡幅・嵩上げにより原形喪失→堤防道路 最初の千間猿尾(御囲堤の二重堤)の本堤 5
写真 忠平猿尾 ちゅうべい 愛知/江南市 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約400m,高約4m 江戸期   木曽川上流河川事務所/馬場慎一 川側多少変形/民地側一部埋立(上流側) 最初の千間猿尾(御囲堤の二重堤)の鹿子島地区の本堤の通称/鹿子島の忠平親子が独力で築造を開始→村人が遺志を継いで完成/現存する最大規模の猿尾 3
写真 鹿子島町の千間猿尾 かのこじま 愛知/江南市 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約1300m,高約4m 江戸期   馬場慎一 嵩上げにより原形喪失(線形は保持)→堤防道路 最初の千間猿尾と一部重なるように造られた2番目の千間猿尾(御囲堤の二重堤)の本堤 4
写真 宮田神明町・宮田町の千間猿尾 みやたしんめい・みやた 愛知/江南市 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約1800m,高約5m 江戸期   馬場慎一 拡幅・嵩上げにより原形喪失(線形は保持)→堤防道路/片側埋立 2番目の千間猿尾の終端の直下流から始まる3番目の千間猿尾(御囲堤の二重堤)の本堤 5
写真 賀茂の霞 かも 愛知/豊川市・豊橋市 豊川(左岸) 土堤防(霞堤) 遊水地:約200ha 17世紀後半頃(諸説あり未確定)   豊橋河川事務所 現役の霞堤 最も典型的な低平地霞堤群(左岸4、右岸5の遊水地の集合体)/下流から3番目 1
写真 金沢の霞 かなざわ 愛知/豊川市 豊川(左岸) 土堤防(霞堤) 遊水地:約120ha 17世紀後半頃(諸説あり未確定)   豊橋河川事務所 現役の霞堤 最も典型的な低平地霞堤群(左岸4、右岸5の遊水地の集合体)/下流から4番目 1
写真 牛川の霞 うしかわ 愛知/豊橋市 豊川(左岸) 土堤防(霞堤) 遊水地:約80ha 17世紀後半頃(諸説あり未確定)   豊橋河川事務所 現役の霞堤 最も典型的な低平地霞堤群(左岸4、右岸5の遊水地の集合体)/下流から1番目 1
写真 下条の霞 げじょう 愛知/豊橋市 豊川(左岸) 土堤防(霞堤) 遊水地:約350ha 17世紀後半頃(諸説あり未確定)   豊橋河川事務所 現役の霞堤 最も典型的な低平地霞堤群(左岸4、右岸5の遊水地の集合体)/下流から2番目/全国でも最大規模の遊水地 1 写真
写真 花蔵寺町の曲輪 けぞうじ・くるわ 愛知/西尾市   土堤防(輪中堤) 長約400m,幅7m 寛文元(1661) 市史跡 WEB/馬場慎一 一部現存 家や耕地を洪水から守るため、集落の周囲に防堤を巡らせた輪中堤 3
  黄金堤 こがね 愛知/西尾市   土堤防 長約180m,高約4m(明治17の実測値) 貞享3(1686)   吉良町教育委員会 県道・西尾~吉良線の拡幅に伴い、黄金堤の一部開削調査が行われた/堤体上部の両側に桜が植栽 旗本・吉良上野介義央が、岡山陣屋代官・斉藤金右衛門に命じて水害防御のため貞享3年に築造させたと言われる→裏付ける同時代史料存在せず 2
写真 山那の百間猿尾 やな 愛知/(丹羽)扶桑町 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約200m,高約3.5m 江戸期   馬場慎一 保存状態良好 木曽川左岸御囲堤の最上流にある猿尾 2
写真 古金猿尾 こがね 愛知/(丹羽)扶桑町 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約40m,高約3m 江戸期   馬場慎一 保存状態不良 百間猿尾のすぐ下流にある小水制 3
写真 大猿尾 おお 愛知/(丹羽)扶桑町 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約230m,高約3.5m 江戸期   馬場慎一 後世の嵩上げ/両側が道路・採石場となり荒廃 古金猿尾の下流にある大水制 4
写真 小牧猿尾 こまき 愛知/(丹羽)扶桑町 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約130m,高約3m 江戸期   馬場慎一 保存状態良好/護岸工事により30m程撤去 大牧の大猿尾の下流に平行してある大水制 2
写真 旧岩手村の猿尾 いわて 愛知/(丹羽)扶桑町 <木曽川(左岸)> 土堤防 長約130m,高約1.5m 江戸期   馬場慎一 やや変形/両側が埋め立てられ堤高が低くなった 山那の百間猿尾から始まる一連の水制群とは別の存在/江南市の一連の千間猿尾群の最上流に位置する単独の弧状水制 3
  宮川堤 みやがわ 三重/伊勢市 川(右岸) 土堤防 長約1㎞ 寛永元-6(1624-29)以前 県名勝 山田奉行所記念館/
中森 巌
宮川堤公園/さくら名所100選の一つ(植樹は明治期)/堤体そのものは近代の嵩上げ・補強を経ている 下記の「浅間堤」の項で示した山田奉行所・5代奉行・中川半左衛門忠勝が、何らかの刎出しを造ったことは確かなので、本堤はそれ以前からできていた/伝説はいろいろあるが、時代的確証はこの刎出しの築造 3
写真 長島町源部外面の旧輪中堤 ながしま・げんべども 三重/桑名市 <長島輪中> 土堤防(輪中堤)
(2ヶ所)
長約1.4㎞,約1.3㎞ 江戸期   市教委 指摘されなければ、見分けられない 旧輪中堤上に列状に集落が形成されてきたのが、旧長島町の特徴 3
写真 長島町横満蔵の旧輪中堤 ながしま・よこまくら 三重/桑名市 <横満蔵輪中> 土堤防(輪中堤) 長約1.2㎞ 江戸期   市教委 指摘されなければ、見分けられない 旧輪中堤上に列状に集落が形成されてきたのが、旧長島町の特徴 3
写真 女人堤防 にょにん 三重/鈴鹿市 鈴鹿川・安楽川
/汲川原町<東海道>
土堤防 長約400m(途中、国道1号で分断) 1800-1820年頃   WEB(宮様の石橋)
/現地解説板
堤防としての機能は喪失 神戸藩の城下への洪水被害を恐れて鈴鹿川左岸の汲川原に築堤を許さなかった城主に対し、洪水被害に耐えかねた村人が、男手が失われないよう、女性だけで夜間密かに築いたと伝えられる堤防→家老・松野清邦(1768-1821)の諌言で200余名の打ち首が救われたとされる/建造年は松野清邦の生年からの推定 2
写真 油島千本松締切堤 あぶらじま 岐阜/海津市 長良川・揖斐川 土堤防(背割堤) 油島側1000m,松之木側364m,高3.6m,馬踏3.6m 宝暦5(1755)
→明治33(1900)完全締切
国史跡 中部の土木史/市歴史民俗資料館(日本の史跡8) 油島側(千本松原)の1.1㎞は、保存状態良好 施工指揮:薩摩藩家老・平田靱負(最後に自刃)/長良川と揖斐川を分離させるという、いわゆる「宝暦治水」の中でも最難関工事/当時の技術では完全締切はできず、合流点の中央部分は開けたままの喰違堤(背割堤)。この背割堤(油島側)上に帯状に植えられた延長1kmの松並木は「千本松原」と呼ばれ、宝暦治水や薩摩藩士を顕彰する依り処となっている/薩摩藩士が治水工事の完成直後に日向松の苗木を植えたものと伝えられる 1 写真
写真 笠田の築捨堤 かさだ 岐阜/各務原市 <木曽川(右岸)> 土堤防(輪中堤)   天正14(1586)以降   木曽川学歴史ガイドブック 川島地区にかつてあった築捨堤で一部現存する2ヶ所のうちの1つ 天正14(1586)の大洪水で河道が一変した後、川中島化した村民の手で建設/下流側がつながらない輪中堤、別名:尻無堤 4
  三ツ屋池の築捨堤 みつや 岐阜/各務原市 河跡湖公園
<木曽川(右岸)>
土堤防(輪中堤)   天正14(1586)以降   木曽川学歴史ガイドブック 川島地区にかつてあった築捨堤で一部現存する2ヶ所のうちの1つ 天正14(1586)の大洪水で河道が一変した後、川中島化した村民の手で建設/下流側がつながらない輪中堤、別名:尻無堤 3
  加茂野町今泉の百閒土居 かもの・いまいずみ 岐阜/美濃加茂市 蜂屋川 土堤防 長約60m(現存部) 宝暦6(1756)以前   市教委(美濃加茂市史・通史編p410) 山側に道ができ、堤防のイメージが薄れた 今泉村の洪水対策として造られらたため、それによって被害を受ける伊瀬村との間で紛糾(宝暦6の記録) 4
写真 尉殿堤・跡 じょうどの 岐阜/(安八)安八町 <大明神輪中> 土堤防(輪中堤) 長約5m 慶長12(1607)直後 町史跡 町教委 雑草・灌木に覆われている/旧輪中堤が原形保存されている 黒野城主・加藤左衛門尉貞泰が説田長介に命じて造った堤(呼称の由来) 2
写真 中須輪中堤・跡 なかす 岐阜/(安八)安八町 <中須輪中> 土堤防(輪中堤) 長約10m 江戸後期 町史跡 町教委 「おもどり神社」があったため、この部分だけ改修をまぬがれた/旧輪中堤が原形保存されている 「おもどり神社」があったため、この部分だけ改修をまぬがれた 2
写真 十連坊輪中堤 じゅうれんぼう 岐阜/(安八)輪之内町 <福束輪中> 土堤防(輪中堤) 長約2.4㎞,高5.6-6.0m  寛永元(1624)頃   町教委/馬場慎一 東西堤防で、長良川・揖斐川と接しないため大きな被災はなく、大補修もされていない/上が道路になっていない部分が一番原形に近い 福束輪中の北東端部の堤防/江戸期の状態のまま、雰囲気も維持した状態で現存する木曽三川の輪中堤/昭和51の安八町の長良川決壊時に洪水の輪之内町流入を防いだ 1-2 写真
写真 藪川旧堤防 やぶかわ 岐阜/(揖斐)大野町 根尾川 土堤防 長約180m 江戸期   町教委 道路化→舗装 三田畑集落を水害から守るため構築 4
写真 野中のお囲い堤 のなか 岐阜/(羽島)岐南町 木曽川(右岸) 土堤防 長約73m 寛文元(1661)以後 町指定 木曽川学歴史ガイドブック 土手の形態が残る 美濃川に造られた「お囲い堤」/野中村が尾張藩の領地(成瀬豊前家の知行地)となったため、周りの土地より嵩上げして境川の氾濫を防いだ 2
写真 直江の旧輪中堤 なおえ 岐阜/(養老)養老町 <多芸輪中> 土堤防(輪中堤)   江戸期     嵩上げ(?)   3
写真 佐々堤 さっさ 富山/富山市 常願寺川(左岸) 石堤防 長150m,高10m(建造当初の推定値) 天正8(1580)→元禄12(1701)破堤・修復→安政5(1858)地震で崩壊   WEB 常願寺川左岸を平行して流下する常西合口用水の岸辺と水底に天端部の残石が確認できる程度 施主: 戦国武将・佐々成政/常願寺川の急流が、岩峅寺の崖で左に向かい、馬瀬口で洪水を起こしていたのを止めるため、左岸側に築いた石堤防 3 写真
写真 済民堤 さいみん 富山/富山市 常願寺川(左岸) 石堤防   安政5(1858)以降   WEB 非現役 以前に築かれていた堤防が安政5 年4 月の大洪水で埋まってしまい、その上に改めて築かれたもの/常願寺川の治水に力を尽くした先人をしのび、民を助ける堤防として「済民堤」と名付けたと伝えられる 2
  松川除 まつかわよけ 富山/砺波市 庄川(右岸) 土堤防 長1.5㎞、松数百本(当初) 正徳4(1714)→天保13(1842)盛足→嘉永4(1851)盛足 市史跡 市教委/WEB 大規模な修復=土手は視認可/松は戦時中に伐採→ほぼ消滅 加賀藩は高岡城下と穀倉地帯の砺波平野を水害から守ろうと、扇頂部に川除け(堤防)を造り、当時乱流していた庄川の流れを一本化しようとした(44年かかった)/後年、堤防を強化するため松を植栽→「松川除」の名の由来 3
写真 保元の袋堤・跡 ほげん、
ふくろ
石川/(能美)川北町 <手取川> 石堤防(輪中堤) 長約50m 江戸期   WEB/山村 当初の石積が一部残る/当初は手取川まで続いていたとされる 暴れ川であった手取川の扇状地に残る輪中堤/かつては周辺の村に「村囲堤」が築造され、洪水の被害を少なくするため、村は線状に広がっていたとされる 4
写真 四ツ子川の百間堤 よつご、
ひゃっけん
滋賀/大津市 四ツ子川 石堤防 長180m,天幅8m,高9m(水面からの比高) 安政5(1858)   現地解説板
/市教委
保存状態良好 嘉永5(1852)の豪雨による堤防決壊を受け、若狭から石積の名人(佐吉氏)を招き延1万人余の出役人夫が5年8ヶ月かけて構築/堤防というよりは巨石を組み合わせて造られた“岩塊”のような構造物→全国でも一例しか見られない特異な形態 1 写真
  宇治川太閤堤・跡 うじ、たいこう 京都/宇治市 宇治川・右岸 土堤防 長約400m 文禄3(1594)   WEB 平成19発見→発掘調査による確認→埋め戻し→遺跡公園化を検討中 豊臣秀吉の伏見城築城に伴って行われた大規模な治水事業の総称
(「太閤堤」という用語の初出は幕末の『宇治川両岸一覧』(1863)なので、後付けの名称)→建設当時は、今回発掘された堤防については「槇島堤」と呼ばれていたと考えられている
4
写真 勝林島の霞堤 しょうりんじま 京都/亀岡市 桂川・左岸 土堤防(霞堤)   江戸期   市教委 竹薮で開口部が見えない 現役の霞堤 3
写真 大和川の付替えによる新堤防と築留 やまと 大阪/柏原市 <大和川> 土堤防、
旧堤防を塞いだ場所
延長約14.3㎞,高約5m,幅約180m 元禄17(1704)   石田 堤防を嵩上げ 旧大和川流域は天井川地形のため洪水の常襲地帯となっていたため、新川開削による付替えの嘆願書が何度も町奉行所に提出された→しかし、新川が開削される地域では多大な不利益をこうむるため、反対の嘆願書が提出され膠着状態に陥ってしまう→最終的に、元禄15(1702)に出された42ヶ村による付替え嘆願書を受け、翌16年4月に大坂東町奉行所代官・萬年長十郎が検分を実施、翌5月には幕府の若年寄・大目付・勘定奉行が検分、10月には付替えを決定、翌17年2月着工、14.3㎞、幅180mの開削という大工事にもかかわらず同年10月には完成/旧河道は砂地のため綿花が栽培され、幕府に安定した収入をもたらした→この経済的効果が、付替えを決断した最大の理由とされる 3 写真
写真 伝茨田堤  でんまんだのつつみ 大阪/門真市 <淀川?> 土堤防? 長543m
(史跡指定長)
(古墳期?)
→室町初~後期
府史跡 WEB/木谷幹一 低い土手様のものが残る 「古事記」「日本書紀」に記載された“日本最古の築堤”と言われてきたが、門真市による昭和57の「宮野遺跡発掘調査概要」では、室町初期の木組み遺構が発見され、現遺構の実年代は中世の可能性が大/現在、この遺構が“何か?”については、①この辺りに古代の築堤があった(古代の淀川が現在より南方、旧茨田郡の中央を流れていたために、低湿地帯であった集落を水害から防ぐため)が、現遺構は室町期の新設 or 修築によるもの、②古文書に見られる下神田の「横堤」の一部ではないかという説、③室町後期の城郭の一部という説、④中世の奈良街道(兼堤防)などの可能性が指摘されている 4
  五反島遺跡・堤防遺構 ごだんじま 大阪/吹田市 吹田市立博物館
<神崎川>
土堤防(背割堤   平安期   市教委 博物館内に展示 砂の自然堤防を利用し、主に杭と横木で両斜面を護岸した堤防/河の合流点付近に設置された背割堤と考えられている 2
  穂積村囲堤 ほづみ 大阪/豊中市   土堤防(輪中堤) 東西1㎞,南北800m 室町期以前?   市教委/WEB 昭和期に改修/多くは埋没しているが、一部土堤防が残る 猪名川・千里川などの氾濫に備え穂積集落の周囲に築かれたとされる 4
写真 木田の囲い堤 きだ 大阪/寝屋川市 木田町、中木田町、下木田町、出雲町、大成町、木田元宮、萱島地区 土堤防(輪中堤) 長約5.6㎞
→長約3.2㎞,
高3-4m(寝屋川堤防),高1.5m(築造部)(現存部)
江戸期   木谷幹一/市教委 寝屋川堤防沿いおよび日之出町と木田町、昭栄町と出雲町の境界、萱島地区で残存/周辺の宅地化に伴い比高ゼロの部分も多い
(→写真参照)
水害から水田を守るための一種の「輪中堤」/寝屋川をはさんで対岸の下記・神田地区にも残る 3
写真 神田の囲い堤 かみだ 大阪/寝屋川市 上神田、中神田、下神田、御幸西町、御幸東町 土堤防(輪中堤) 長約4.2㎞
→長約2.4㎞,
高3-4m(寝屋川堤防),高1.5m(築造部)(現存部)
江戸期   木谷幹一 寝屋川堤防沿いや神田天満宮、京阪萱島駅北側で残存 水害から水田を守るための一種の「輪中堤」/寝屋川をはさんで対岸の上記・木田地区にも残る 3
写真 文禄堤・跡 ぶんろくつつみ 大阪/守口市 (本町2丁目)<淀川・京街道> <土堤防>・道路 長約27㎞→約650m,高約5m,幅約30m 文禄5(1596)   現地解説板/WEB/近畿地方の歴史の道2p174 旧街道のように残っているが、道路と交差する地点で、嵩上げされた旧堤防であったことが分かる 企秀吉が大坂城(1583)と伏見城(1594)を築いた際、2つの城の連絡のために(軍事上の必要性から)淀川堤防を利用しようと考え、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家らに命じて左岸堤防を拡幅・補強・直線化したもの/江戸期には東海道の一部として使用された。 4
写真 長瀬川(旧・大和川)の旧堤防〔狐山〕 ながせがわ 大阪/八尾市 八尾高校 土堤防   元禄17(1704)   坂田 構内緑地 付け替え前の旧・大和川の堤防の貴重な遺構 4
写真 柳堤・跡 やなぎ 和歌山/和歌山市 紀の川 土堤防 長約1.7㎞→730m,高約3m,天端幅約5m 元和5(1619)   WEB/和歌山河川国道事務所 国道24号の北側にのみ残存 洪水防御と城郭防衛を兼ねて、浅野時代の堤防より北へ約100m程にところに築造した堤防/名称は嘉家作町の附近には堤上に街路樹として柳が植えてあったことに由来 4
写真 花見堤・跡   和歌山/紀の川市 紀の川 土堤防 長約2㎞→80m,天端幅約4m 寛永3(1626)   和歌山河川国道事務所/市教委 昭和28水害により破壊後、昭和36復旧/旧堤防の保存状態不明 施主:安藤忠兵衛/荒廃地として放置されていた氾濫原を開拓する際に、水害防止に築かれた堤防/昭和28(1953)の水害からの復旧・築堤の記念碑が残る 3
写真 円山川の護岸石垣 まるやま 兵庫/豊岡市 戸牧川(左岸)
<円山川>
石堤防 長約40m 江戸期   豊岡あっちこっち歩いて見まっぷ 河道変更によって市街地の小河川の護岸として再利用 高さは異なるが水平方向に目の通った布積み→江戸期の石積みとしては異例 3
写真 大保恵堤・跡 おおぼえ 兵庫/豊岡市 (上郷)
<円山川(右岸)・出石藩>
土堤防 長約500m,高2m 江戸末期   豊岡河川国道事務所/上坂晴生/WEB 国道482号線により寸断 上郷を守るため出石川右岸に構築された堤防/堤高が低く、軽い増水時の洪水防止と、中程度以上の増水時に越流した水を遊水地で貯留する機能があったとされる/近代に左岸に堤防を構築した事により無効化/同様の堤防が円山川・出石川・八代川一帯に7つ築かれ、合わせて七堤と呼ばれていたとされる→大正9~昭和9の円山川大改修に伴い多くは消滅 2
写真 嵐ヶ鼻土手 あらしがはな 鳥取/鳥取市 <千代川(左岸)> 土堤防 長1500m→長約700m,高2-2.5m(現存部) 13世紀以降 選奨土木遺産 県教委(私たちを取り巻く歴史的環境p1-3、41-58) 土手に植樹された常緑広葉樹帯が散歩道に/一部市道で寸断 築造に係わる史料なし/寛文年間作成の絵図に描かれ、「嵐ヶはなな」と記されている→土手のすぐ南に「古川」と記され千代川とつながっていないため、絵図作成時点で既に現役の河川堤防ではなかった可能性が指摘されている/千代川左岸の安定化に貢献 3 写真
写真 胡麻堤 ごま 鳥取/鳥取市 <千代川(左岸)> 石堤防 長約700m(当初) 慶長年間(1596-1615)   WEB 部分的に残る/潅木と雑草で対岸から遠望できるだけ 施主:亀井茲矩/千代川の治水の一貫で、千代川幹線にほぼ直角延びている横堤/千代川の氾濫による洪水を防ぐため、竹薮や石積で補強された土手 4
  宗像土手 むなかた 鳥取/米子市 (宗像神社・東)
<新山川・法勝寺川>
土堤防   慶長5-8(1600-03)   市教委(勝田郷土史考p72) 土堤防の一部が残る 11歳の中村一忠がに米子城主に移封された際(慶長5(1600))、後見役の執政家老として同行した叔父・横田村詮が築いた可能性の高い堤防〔慶長8に村詮を誅殺された後は、慶長14に加藤貞泰が入部するまで大事業は行われなかったと推定される〕 4
写真 勝田土手 かんだ 鳥取/米子市 (勝田町東区公民館・裏)
<日野川>
土堤防 長160m→約100m,幅15m,高3m
(現存部)
江戸初期 or
享保年間(1716-36)
  市教委(新修米子市史2・通史編(近世)p332
/勝田郷土史考p71-76)
土堤防の一部が残る 米子城下を日野川の洪水から守るため築造された/土手の中央には印幡街道が通っていた→日野川が決壊しても米子に濁流が流れ込まないよう、土手の両側の石柱間に板を立てて堰とした/築造年についてが、①土手の上に元禄3(1690)の一字一石塔が建っていることから江戸初期と推定する説、②元禄15(1702)の日野川大洪水後の流路変更を受けて米子城主・荒尾氏が享保年間(1716-36)に築造したとする説がある 4
写真 勘右衛門土手 かんえもん 鳥取/(八頭)八頭町 八東川 石堤防 長約550m 江戸期   町教委(八東町誌p335-337) 草で覆われているが、その下にある石組みは非常にきれい/ニラ保存会が結成 八東川の氾濫に苦しむ農民のため東村の勘右衛門が自費で築いた堤防/巨石の上に土手を構築し、藤かずらを植えて地盤を強化した/土手にニラを植えて飢饉の備えとした 1
写真 横手堤(一宮) よこて 岡山/岡山市(北区) 一般道<砂川の堤防> 石堤防   文化7(1810)頃?   樋口輝久 道路化/側面に石が残る 岡山の特徴である「巻石」が堤防に使われた例 3
写真 百間川旧堤防
(米田公会堂付近)
ひゃっけんがわ 岡山/岡山市(中区) <百間川(右岸)> 土堤防 長約50m 貞享4(1687)以降   百間川の歴史p19-25 近代に入り直線的に整備され河道内に残る 施工:津田永忠か?/三の荒手から中川合流点までの開削部分の右岸堤防/堤防が当初から構築されていたか、後年のものなのかは不明/昭和40年頃まで使われていた旧堤防〔写真中央に写る近代の陸閘は、橋のなかった時代に堤防を横切って対岸に行くために設けれたもの〕 2
  若狭土手 わかさ 島根/出雲市 斐伊川 土堤防
(付替え)
  寛永16(1639)頃   市教委/現地解説板 嵩上げ・改修/太平洋戦争時、軍用材としてほとんどが伐採 施主:出雲松江藩主・京極若狭守忠高、技術者・川口昌賢(忠高は寛永14に死去→信濃から転封した松平直政が引き継ぐ)/斐伊川の本流を武志で東に向け穴道湖に注ぐ大工事の要⇒武志の土手⇒若狭守に因んで若狭土手と呼称/その後も、松山藩は斐伊川の付替え工事を5回も行った 3
写真 鯰ノ尾土堤 なまずのお 島根/出雲市・雲南市 赤川・斐伊川 土堤防 長約2㎞ 江戸期   歴史の道8p14 数回の増築や改修 斐伊川から赤川への逆流防止/赤川では、延宝元(1673)から慶応3
(1867)の間に44回もの洪水が記録されている
2-3
写真 福島堤防 ふくしま 広島/大竹市 木野川(左岸) 石堤防   慶長6-元和5(1601-19)   WEB 現役の堤防としては、保存状態は良い 関ヶ原の戦いで殊勲を上げて安芸広島・備後鞆50万石弱の大名に取り立てられながら、豊臣家にも忠義立てしたせいで冷遇され、最後には信濃の国の4.5万石の小大名に減封・転封されてしまった福島正則が、安芸国主だった19年間に行った各種の公共事業の中で、呉市の福島雁木と並び現存する2大構築物の1つ/石堤防の前面根部を「巻石」で保護した点に特徴がある 2
  芦田川旧土手 あしだ 広島/福山市 芦田川 土堤防 長約200m 江戸期   WEB 道路整備 川筋が変わり、自転車道として利用されている 3
  浅野堤(旭堤) あさの(あさひ) 広島/三次市 <江の川> 石堤防 城下町の東側:520m,
西側:880m
江戸初期
(1632-1675)?
  WEB 平成3の道路工事の際に東側の石積を発掘→埋め戻して一部を露出展示 広島藩から分家した三次藩の初代藩主・浅野長治が三次の城下町造りの一環として築いた石堤防/発掘調査により過去4回大規模な改修工事が行われたことが判明/慶長年代の石垣の特徴も見え、地固めに鉄くずを底に並べるなどの工夫がされている 4
写真 蓬庵堤 ほうあん 徳島/徳島市 鮎喰川右岸 土堤防 長5.2㎞ 天正14(1586)   現地解説板/四国三郎物語p49 ほとんどは旧道化し、堤防らしさが残るのは僅か 徳島藩初代藩主・蜂須賀家政が、徳島城の築城に際して、鮎喰川の洪水防御と城の外堀を兼ねて築造 4
  万代堤 ばんだい 徳島/阿南市 那賀川 土堤防(霞堤) 長1070m,
幅44m,高7m
天明7(1787)   四国地方整備局 全面改修/万代祭りとして残る 徳島藩の命によって那賀川北岸の古毛(元羽ノ浦町)に工事責任者となった庄屋・吉田宅兵衛が私財を投じて構築/建造当時、阿波国最大 4
  監物堤 けんもつ 徳島/吉野川市 (鴨島町牛島)吉野川 土堤防 長約90m,高2-3m 宝暦6(1756)   WEB 保存状態不良 宝暦6に大洪水に襲われた牛島村の村人に相談を受けた徳島藩士・稲垣監物が堤防建設を藩に申請するが、藍の産地だったため許可されなかったことから、密かに夜中に村中の農民を集めて堤防を構築→監物は責任を取って切腹したとされる 4
  宿毛総曲輪・跡 すくも、
そうくるわ
高知/宿毛市 松田川 土堤防   万冶元(1658)   市立宿毛歴史館 川の堤防と化している(町を周回する部分は消滅) 野中兼山・一木権兵衛/宿毛を松田川の水害から守るため幡多の百姓を動員して構築/対岸の和田・坂ノ下が遊水地となった 3
  八田二重堤防 はた 高知/(吾川)いの町 仁淀川 土堤防   承応元(1652)頃?   WEB 現在も二線堤として機能(改修の程度不明) 野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)→左欄の年代は、兼山施工の場合の想定年代(八田堰の完成と同時期と推定)/仁淀川氾濫の非常時に備え築かれた二重堤防/全国的にほとんど例がない 2
  江尻羽根 えじり 高知/(高岡)日高村 仁淀川 土堤防?(背割堤) 長約400m 江戸期     洪水により幾度となく流失し、修築が繰り返されてきた→オリジナル部不明 支川の内水氾濫防御のために設けられた羽根(背割堤) 4
写真 女男石護岸 めおと 福岡/朝倉市 小石原川(右岸) 石護岸・捨石 長約130m 慶長5(1600) or
元和9(1623)
県史跡 福岡県 現役 小石原川の屈曲部に設けられた石護岸/男女石と呼ばれる2つの巨石(長6m)が一種の水制の役目を果たしている 2
写真 光行土居 みつゆき 福岡/小郡市 一般道<宝満川> <土堤防> 長約300m 中世?   市教委 宝満川の流路変更で、現在は土手上を道路が通る 歴史資料にはないが、当初堤防だったものが、中世には街道として利用されていたとされる 2
写真 安武堤防 やすたけ 福岡/久留米市 金丸川(筑後大堰上流)
<筑後川>
土堤防 長約4㎞→一部 寛永年間(1626~41)   WEB 一部が残る/場所が特定しにくい(樹木が茂っている部分か?) 鍋島藩の千栗堤防に対応して、対岸に、久留米藩が築堤した(不連続堤) 3
写真 甚内土手 じんない 福岡/宮若市 <犬鳴川> 石堤防 長約200m 江戸中期   澤田憲孝 保存状態良好 犬鳴川の流路が安定していなかった頃の遺産/原田村の甚内が人柱となった(天保15に堤防の傍らに墓を移設) 2
写真 千間土居の楠 せんげんどい 福岡/八女市 矢部川(左岸) 土堤防 長約2㎞ 元禄8(1695)   八女土木事務所 楠が所々で途切れている 柳川藩主の治水事業の命を受けた普請役・田尻惣助・惣馬親子が築いた堤防が2㎞にわたって残り、楠が植えられている 2
写真 宮野堤防 みやの 福岡/八女市 宮野公園、矢部川(右岸) 石堤防(二重堤) 外堤防:長291m,
内堤防:長127m
江戸期   市都市計画課 基本的構造は踏襲(外側堤防は嵩上げして道路に) 川が曲がっていて破堤しやすい場所に築造/内側の低い堤防で勢いを削ぎ、外側の高い堤防/かつては多かったと見られるが、河川改修で激減 3
写真 千間土手 せんげん 福岡/行橋市 今川 土堤防 長約2.4㎞ 貞享年間(1684-87)   市教委 大規模な改修(左岸堤は国道34号に) 筋奉行・田中條右衛門/今川の流れを付け替えるために造られた土手 3
写真 塩田町馬場下の鳥の羽重ね しおた、ばばした、とりのはがさね 佐賀/嬉野市 塩田川 土堤防(二重堤)、遊水地 長約2.5㎞ 宝暦13(1763)   市教委/WEB かつて塩田川各所にあった「鳥の羽重ね」の、唯一の残存ヶ所 塩田川本流の堤防を7ヶ所で切断し、濁流を川の湾曲内側の二重堤防の中に導き、川の流れを和らげる遊水地/蛇行部の3重となった堤防の様子が鳥の羽を重ねたようになったことによる命名/治水の神様と言われた庄屋・前田伸右衛門の設計 3
写真 城原川の百間土居 じょうばる、ひゃっけん 佐賀/神埼市 城原川 石堤防 長約200m 寛永11(1634)以前   現地解説板 石がほとんど見えない 成富兵庫茂安/農地開発のため、城原川の流路を西行させる目的で築かれた石垣積みの堤防 2
写真 千栗土居 ちぐり 佐賀
/(三養基)みやき町
千栗土居公園
<筑後川右岸>
土堤防 長約12㎞→
長約180m,高7.3m,裾幅55m
寛永11(1634)以前   町教委/
現地解説板
公園として、堤防の一部が保存 成富兵庫茂安によって築堤された筑後川の右岸堤/土手内部に漏水防止のため「はばね土(版築状の緩い粘土層)」が用いられている 2
写真 宇対瀬の慶応護岸 うたいぜ 大分/豊後大野市 (浅瀬)大野川 石堤防   幕末頃   市教委 護岸の石積みが一部残る    
写真 桑鶴の轡塘 くわつる、くつわども 熊本/熊本市(南区) 緑川 土堤防(霞堤) 遊水地:106.3ha 天正16(1588)以降   大本照憲 システム全体としては維持されている 加藤清正/河道内遊水による合流点処理(緑川と御船川の合流地点下流部)=越流堤と遊水地とそれを囲む本堤の組み合わせ 2 写真
写真 島田地先の轡塘 しまだ、くつわども 熊本/熊本市(南区) 浜戸川 土堤防(霞堤) 遊水地:36.7ha 文久2(1862)   大本照憲 システム全体としては維持されている/土捨場化している 河道内遊水による合流点処理(緑川と御船川の合流地点下流部)=越流堤と遊水地とそれを囲む本堤の組み合わせ 3
写真 小島の轡塘 おしま、くつわども 熊本/玉名市 菊池川左岸 土堤防(霞堤) 長約1.7km 天正16(1588)以降   市教委 菊池川左岸の霞堤と土堤防で囲まれた15haほどの土地が現役の耕地として利用されている 加藤清正由来と言われている 3
写真 東塘の旧菊池川堤防 ひがしども 熊本/玉名市 菊池川旧河道の右岸堤 土堤防 長約500mの区間が2ヶ所 天正16(1588)以降   市教委 道路化してほぼ平だが、一部に旧堤を思わせる部分がある程度 加藤清正の治水対策の1つ/旧河道の右岸堤築造と、新河道の開削がほぼ同時期に行われた理由は不明 3
  甲佐の轡塘 こうさ、くつわども 熊本/(上益城)甲佐町 緑川 土堤防(霞堤)   天正16(1588)以降   大本照憲 機能は終えているが、排水部は残る 加藤清正/河道内遊水による合流点処理(緑川と津留川の合流地点下流部)=越流堤と遊水地とそれを囲む本堤の組み合わせ 3
  松田堤・跡 まつだ 宮崎/日南市 南郷町中村乙 土堤防 長640m 慶安3(1650)   市教委 天端を道路化(アスファルト舗装) 地元の松田理右衛門の建議で、脇元村界・尾崎~潮屋権現の森、潮屋権現~天ノ越の岡麓の間に築いた埋立堤/松田堤の名は松田理右衛門に由来 2
写真 長崎堤防 ながさき 鹿児島/薩摩川内市 川内川(左岸) 石堤防(鋸歯状)
(段差状の布積,突起8ヶ所)
長655m,高3.3m,
突起長10.8m
貞享4(1687)   WEB 8ヶ所ある鋸の歯の突起部分のうちオリジナルの切石積は3ヶ所、残りの5ヶ所は間石積(近代の補修) 薩摩藩2代藩主・島津光久、普請奉行・小野仙右衛門/海水が入り米の採れない川内川河口の潟を仕切り、鋸の歯状の石堤防(全国で唯一)により、川内川の激流が抑えられ、米の不作地帯だった高江地区を川内一の米所に変えた/近くには仙右衛門の功績を称える小野神社が祭られ,川岸の雑木林の中心にある岩には仙右衛門が刻んだといわれる「心」の文字が残る 2 写真