河川の分水(放水路)

   都道府県別データ一覧にある河川の分水(放水路、洗堰、トンネル)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
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評価
  新川 しんかわ 新潟/新潟市(西区) 新川 分水(放水路)   文政3(1820)   岩屋隆夫 水面だけ残っている(構築物としては、近世由来のものはない) 低湿地であった三潟(鎧潟、田潟、大潟)の水を、天井川であった西川の下を潜って日本海に排水するための放水路/当初幕府の反対にあったが、庄屋・伊藤五郎左衛門らの努力で着工にこぎつけた/当初は新川が西川の下を底樋で抜いていたが、現在は新川の上を西川がトラス橋で渡る 4
  満水堀 まんすい 長野/岡谷市 諏訪湖 分水(放水路) 長約216m,幅約7.2m(当初) 天正年間(1573-1593)→寛文13(1673)頃新堀掘削 →天保元(1830)浜中島撤去→慶応4(1868)弁天島撤去   中部の土木史p205/岡谷市史p928-936 幕末の弁天島撤去により河口と一体化 高島城築城の際に治水のため、諏訪湖から天竜川への流路を増やすよう掘削された水路/水路掘削後も湖水の氾濫があったため、寛文13(1673)頃に新堀を掘削したが効果は薄く、天保元(1830)に満水堀と新堀の間にある浜中島を撤去、慶応4(1868)に堀と本来の天竜川河口部の間にある弁天島を撤去し、新堀と共に河口と一体化した 4
写真 庄内川新川洗堰 しょうない・しん 愛知/名古屋市(西区) 庄内川→新川 分水(洗堰)   天明8(1788)   岩屋隆夫 明治11・16・37大改修(堰高・構造を変更→洪水処理方法は、建設当時の超過洪水の越流という手法を踏襲) 上記「新川」への、庄内川の洪水時越流堤/施工後、庄内川の新川分派点より下流では破堤しなかった(~戦前)ので、水害防止に一定の効果はあった 4
写真 新川 しん 愛知/名古屋市(西区)、あま市、清洲市、
北名古屋市、
(海部)大治町、
名古屋市(中川区)名古屋市(港区)
名古屋市(西区)
北名古屋市
→名古屋市(西区)
→清洲市→あま市
→大治町
→名古屋市(中川区)
→名古屋市(港区)
分水(放水路) 長約20㎞ 天明8(1788)   新川・開削の歴史/WEB 特定都市河川(一級河川)/明治11・昭和2に堤防の改築、昭和29に護岸改修、堤防嵩上げ(抜本的な大改修はされていない) 江戸期、わが国最長の人工河川/尾張藩勘定奉行・水野千之右衛門は、低湿地のため洪水に苦しんでいた庄内川右岸の村々を救うため、藩主徳川宗睦に庄内川の分水工事の建白書を提出した→藩財政が窮乏していたため着手は見送られたが、安永8(1779)の庄内川の大洪水の後、宗睦は水野千之右衛門と国奉行・人見弥右衛門に検討を命じた→千之右衛門は、工事費の総額が尾張藩の1年分の収入を遥かに超えることから、わざと減額した積算表を提出するとともに、工事を途中で中止できないよう水源の比良村(現・名古屋市西区)から伊勢湾に至るまで一度に200ヶ所以上も掘り立てるという方法で本工事に着手(天明4(1784))/水野・人見両名は工事途中で過小な工事積算が発覚し責を問われて降職・謹慎となったが、工事は完成するまで続行(40万両以上を要した)→千之右衛門の功績を称えるため、洪水に悩まされてきた28ヶ村の有志によって下記の「水埜士惇君治水碑」が建立された(碑には千之右衛門の字・「士惇」の文字を使用) 3 写真
写真 大薮洗堰・跡 おおやぶ 岐阜/(安八)輪之内町 <大榑川> 分水(洗堰) 長142m 宝暦8(1758) 県史跡 町教委/馬場慎一 平成10に埋蔵文化財包蔵地に指定/それ以前に廃川になった時点で払い下げられ農地に→痕跡なし(写真の赤丸の辺り) 薩摩藩による宝暦治水で、油島締切堤と並んで木曽三川分離の中核となった大工事 5
写真 舟尾川のトンネル(マンポ) ふなお 石川/七尾市 髙ノ山 分水(放水路)、
トンネル(2本)
(大マンポ)長45m,高約5m,
(小マンポ)長65m,高3.1-3.5m
弘化年間(1844-48) 世界農業遺産 市産業部世界農業遺産推進総室(田鶴浜町の歴史・上p166-168)/岩屋隆夫 保存状態良好 企画・施工:舟尾村肝煎・大橋左近四郎/新田開発を目的に、二宮川から分派して七尾湾に向かって丘陵下を貫通して造られた全長約700mの放水路(下駄船を使って掘削された)のトンネル/大小2本あり中央部で曲がっている→理由不明→増水時に、大マンポのカーブにより流速を下げ、小マンポから緩やかに水を逃がすためと推測されている/舟尾・奥原村新開願の古文書(安政6)に「二ノ宮川御付替舟尾村右新開所江川尻取込被成候ニ付、私共村方等御田地川土居ニ相成」と記載 1
写真 荒川 あら 福井/福井市   分水(放水路) 約1㎞ 慶長6(1601)以降   市教委 C護岸→一直線に開削されたイメージはよく残る 結城氏北ノ庄城(福井城: 名称に関しては下記参照)の築城にあたり、新しく計画する城下町に対する吉野川の治水対策と、城を防御する濠の築造という2つの目的を解決するため、吉野川の東側に足羽川への直線放水路(荒川)を開削し、不要となった吉野川の旧水路を百間堀、荒川を外堀と位置付けた(荒川に治水目的があったかどうか証拠はないが、直線的な形態から放水路と考えるのが妥当であろう) 3
写真 安治川 あじ 大阪/大阪市
(此花区・西区)
淀川 分水(放水路) 長約3㎞,
幅約90m
貞享2(1685)   近世を拓いた土木技術p44-45 C護岸/観光遊覧船が運航 計画:河村瑞賢/淀川、大和川下流部の排水促進を目的として開削された放水路/淀川下流を塞ぐ九条島を開削し、直線的に流下する流路を拓いた/大坂へ直結する直線航路の開削も目的の一つとされる/「安く治まる川」と願掛け安治川と命名 3
写真 百間川一ノ荒手 ひゃっけんがわ・いちのあらて 岡山/岡山市(中区) 旭川→遊水池 分水(洗堰) 長127m 貞享4(1687)   百間川の歴史p19-25 越流部:C被覆、前後の堤防の石積:基部は最近の調査で間知積であることが判明→明治期以降の改修の可能性 施工:津田永忠/旭川の洪水から岡山城下を守るため、高水を旭川左岸の一の荒手(堤防より1尺低い)で越流させ、二の荒手、三の荒手を経て放水路「百間川」を開削・東流させ、変曲点で中川に合流させる洪水対策/一の荒手の越流部は長70間の土砂堤 3
写真 百間川二ノ荒手 ひゃっけん、にのあらて 岡山/岡山市(中区) 遊水池→百間川 分水(洗堰) 長112m 貞享4(1687) 県史跡 百間川の歴史p19-25 原型を留めるが(石積は各時代の改修が入る)/左岸側の導流堤は残る(ただし、流失し積み直し)/右岸側は消失/写真は、最終的な保存的修復工事中のもの 施工:津田永忠/一の荒手から河川敷の遊水地に石堰で一旦貯留、流速を落とし、左右の導流堤で人工の放水路「百間川」に落とす役割の洗い堰/一の荒手と違い石堤/左右の導流堤間の距離がちょうど百間だったことから「百間川」の名が付いた→下流側の「百間川」の川幅は変則的で人工の放水路というイメージからは遠かった 2
  百間川 ひゃっけん 岡山/岡山市(中区) 旭川 分水(放水路) 長5.7㎞ 貞享4(1687)   百間川の歴史p19-25 現在見られる堤防は昭和戦後のもの 施工:津田永忠/当初計画では、旭川の越流水を貯蔵する遊水地的な性格が強く、溢れた水で耕地が冠水することもあった/人工河川は途中で終わり、その先は小河川である中川と合流し、中川の流路を経て児島湾に流れていた 3
写真 大日川 だいにち 佐賀/武雄市 六角川(左岸)
<三方(みほ)潟の開発>
分水(放水路) 長約270m 寛永2(1625)?   島谷幸宏 保存状態良好 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の左岸側放水路/先端が先細りになり、越流水を野越経由で大日堰の下流に戻す方式 1
写真 大日川の野越・跡 だいにち、のごし 佐賀/武雄市 六角川(左岸)
<三方潟の開発>
分水(洗堰)   寛永2(1625)?   島谷幸宏 嵩上げ/両端の石積は後補/六角川への水路は土捨場となり旧状を感じさせない 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/大日川の洪水時の越流水を大日堰の下流に流す部分/「象の鼻」もあったとされるが埋没 4
写真 大日川下流の狭窄部 だいにち 佐賀/武雄市 六角川(左岸)
<三方潟の開発>
分水(放水路)   寛永2(1625)?   島谷幸宏 護岸C改修 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/大日川の通常の水路(洪水時には上記の「野越」を経由して大日堰の下流に流す) 4
写真 生見川(横堤) いきみ 佐賀/武雄市 六角川(右岸)
<三方潟の開発>
分水(放水路) 長約320m 寛永2(1625)?   島谷幸宏 保存状態良好 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路/高い横堤の形態から、増水時の遊水地の締切堤を兼ねていたと推測される 1
写真 球磨川と前川(新川)の分岐点の敷石 くま、まえ 熊本/八代市 球磨川 越流堤   寛永11(1634)   歴史の道・球磨川水運p.124 セメントで被覆されているが、一部に江戸期の敷石が確認できる 新川運河を閉鎖するために設けられた石積堤 3
写真 八間川 はっけん 鹿児島/薩摩川内市 高江町山神田→白浜 分水(放水路) 長6.2㎞ 嘉永2(1849)   岩屋隆夫
/WEB
河口近くには上記「江之口橋」が、河口から約500m地点には上記「八間川の水路橋」がある 長崎堤防の完成後は海水の遡上はなくなったが、低地のため洪水被害はなくならなかった→薩摩藩が放水路として八間川を開削、岩永三五郎も橋だけでなく工事に携わった 2