各種治水・洪水遺産

   都道府県別データ一覧にある各種の治水・洪水遺産 (堤防、水制、付替え、分水、排水、水害防備林、砂留以外の治水関連の各種遺産)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 味ヶ袋の大禹之碑 あじがふくろ 宮城/(加美)加美町   石碑 高約1m,幅約1m 文久2(1862)   木谷幹一(小野田町史p1176) 原位置? (正面上部)「大/禹/之/碑」、(正面下・左半分)「自安政己未至萬延庚申此地毎年洪水至田圃/幾流失矣 既有公命築土導水雖欲是憂徒/費人力而巳 於是乎建是碑祀之庶永除是憂矣」/正面右半分には同じ文面が篆書体で刻字/味ヶ袋地内が洪水に悩まされていた頃、減災を祈念して建立 1
写真 本郷の境石 ほんごう 群馬/高崎市 (寺内) 境石(測量の基点)(自然石) 刻字部分の大きさ: 縦48㎝×幅90
天保10(1839) 市有形民俗 榛名歴史民俗資料館/現地解説板 原位置 (正面)「古画圖面曰/町屋村境従/二十七番此/大石江子三/度四十五間」/大水の度に川の流れが変わり村境が不明確になることが多かった→烏川沿いの小高い丘岸にある大きな自然石に方位、距離、測点番号を刻み、本郷と対岸の町屋村との境界を測量する時の基点としたもの→「二十七番」とあるため、27個以上の測点が設けられていた 1
  今井の水塚 いまい、みづか 千葉/白井市 (今井) (洪水遺産)   江戸期 市有形民俗 市教委/WEB 今井地区に11基残る(うち7基が市指定) 水塚⇒手賀沼の氾濫から生活を守るために築かれた土盛りやその上に建てられた建物の総称 2
  新田戸・中戸地区の水塚 にったど・なかと、みずか 千葉/野田市   (洪水遺産)   江戸~近代   市教委/WEB 小規模な修復 水塚⇒利根川・江戸川に挟まれた地形のため、洪水被害から生活を守るために築かれた土盛りやその上に建てられた建物の総称 2
写真 末田須賀堰の御定杭 すえだ、すが 埼玉/さいたま市
(岩槻区)
元荒川/永代橋・右岸橋詰の遊歩道 御定杭 高110㎝,幅41㎝,厚30㎝ 寛延3(1750)   WEB(関東地方の川) 末田須賀新堰の完成と周辺整備に伴い移設 (正面上部)「此定頭ヨリ/石堰上端/八尺五寸下リ」(緑字は異体字)/石堰(末田須賀堰)の天端高をこの杭で規定していた: 堰の天端高を高くすることは、末田須賀堰から取水している下流地域にとっては貯水量が増えるので望ましい→反面、上流側の地域にすれば、元荒川の水位が高くなり、排水不良や水害を引き起こす→上下流の利害関係を事前に調停するため御定杭が設置された 2
写真 平方の水神宮石祠 ひらかた 埼玉/上尾市 橘神社/荒川(左岸) 石祠
(洪水遺産)
  寛政5(1793)   市教委
/上尾市史9p368
原位置?/木祠内 (塔正面の御幣の後ろ)「水神宮」/荒川の水害等の災害を防ぐことを祈念したものと考えられている/上記「平方の石祠」の左に安置 2
写真 備前堤の御定杭1 びぜん 埼玉/桶川市 (小針領家) 御定杭 高46㎝,24㎝角 慶長年間(1600頃)以降   WEB(関東地方の川) 原位置 (正面)「御定杭」、(右面)「貮番杭」/御定め杭: 堤防の高さが勝手に変更されないように設けられた→上下流の村の同意のもとに、堤防の基準高を規定/正面下部に馬踏面(右から横書き)の刻字/裏面に明治42の追刻 1
写真 備前堤の御定杭2 びぜん 埼玉/桶川市 (小針領家) 御定杭 高77㎝,24㎝角 江戸期?   WEB(関東地方の川) 原位置/表面摩耗 (正面)「御定杭」/御定め杭: 堤防の高さが勝手に変更されないように設けられた→上下流の村の同意のもとに、堤防の基準高を規定/正面下部に馬踏面(右から横書き)の刻字 2
写真 真名板の新渠之碑 まないた 埼玉/行田市 (真名板)薬師堂 石碑   慶応2(1866)   WEB(関東地方の川) 原位置/平成22に解説板(原文と読み下し文を併記) (正面)「新渠之碑/在昔禹之治水也八年於水三過其門而不入疏瀹決排注諸海以濟天下之溺夫水之害雖聖人之世不能免而/聖人憂之其急如此武藏國埼玉郡真名板村自古居卑濕之地毎夏月有風雨動水及民家漂牀没檐民不知所/以避之扶老抱幼而號泣於隆髙之地往年村人相議而築長堤堤外之民害之髙不過於五尺是以雖存堤防之/名而無避水害之實里民太憂之里正齋藤作右衛門藤原義住者爲人宏才多智憂之不措天保十一年二月自/建決水之策言之於官官善其策賜金若干以給費乃作渠長百六十間而水害随遠土人相欣稱之曰齋藤渠義/住又謀於父老曰今決一渠於東西注之于星川上流則可免洪水之憂也郷等盍告其利于渠水父老遂以告渠/水不肯者六村以爲今穿一渠於田頭恐失漑田之利是決不可爲之事也渠内之民百方説之然終狐疑不決者/十有餘年一旦渠水相議以爲水雖分上下郷黨不可失其好若不鑿渠之策恐絶鄰里之誼於是内外始和而/約成矣安政五年之春發里民而決渠長四百八十六間經七尺深随地之高低不曰而成矣何其功之遄也渠成/而後雖有甚風雨不罹水害者百餘項里民相欣鳴呼義住所憂固不得与古聖人相比然椎誠立功可謂偉矣嘗/聞真名板村所祠久伊豆大明神者即所載於延喜式玉敷神社也玉敷神社者蓋傳所謂大名持神也此神爲蒼/生經營天下所未成者又能巡造焉由此觀之義住鑿渠擧之其人心終和而成功之遄村神或助之歟今茲村人/相議而立碑于新渠之傍使予記其由因書所聞而應需云/慶応二年十月/敷田年治撰/萩原翬書」(緑字は異体字)/低湿地だった村を浸水から守るため里正・齋藤家14代・義住が天保11(1840)に長209mの排水路を造成、安政5(1858)に875mの排水路を造成したことを称えた碑 1
写真 鷲宮の寛保治水碑 わしのみや 埼玉/久喜市 鷲宮神社 石碑(灯籠型) 高2.6m 寛保3(1743) 県史跡 市教委
(鷲宮町史・史料2近世p152-154)
/WEB(関東地方の川)
保存状態良好 寛保2(1742)8月の利根川の氾濫を受けて毛利家が担当した治水事業(人足100万人以上を要した難工事)の完工記念碑/「刀禰上流以南修治告成碑/寛保二年秋八月 東都近帯諸州大水水衍溢 自信毛諸山 而上毛総武下流受菑 極干瀕海 至都之江東 水留旬有数日 浸淫尤甚者 自漂溺外 居民失業 道殣相望 朝廷既乃憫恤之 大発倉廩 賑給焉 既而以其水道堙塞 堤決堰潰 田卒汚萊 其冬又下命 大興役修治焉 県官給材 属役大小諸侯 督則統政府 遙制典農法司監司 使者若干 臨以董事 葢大役云 長門侯 以大國在関西 受其之一 於是使大夫廣定爲植 率國臣諸有司若干 僕隷輿台及私從者 合千七百余人而東 乃到所分地 盧居干野 本末数所 以視作治 自冬十一月始 踰年至今年春三月 凡五閲月 竣事上績 朝賜侯服 及視事國臣十三人 時服白金 各有差 長門阪時存 自役帰 謂喬曰 此役也 吾諸臣者発也 寡君命戒固已若曰 各慎爾事 罔有不共 以從簡書 若我封疆之事 則民唯朝夕是共 其聴不惑 乃有司者 左右手指相使而已 奚恤焉 今承朝命 乃使各庀奔問官守 既又出竟 越在千里之外 事雖靡盬 非復吾所能及也 亦唯必体朝家恤下之徳意 從事焉 庶乎其可也 吾諸臣者 既奉以旋 乃至則物土方 議遠邇 度厚薄 仭溝洫 与我封疆異也 則与他諸大國同在事人士 截然画地而守焉 而壌実相属 水実相承 固亦不可謂一彼一比 吾何知之 則行李之往來 不得不数以相諮詢 与我封疆異也 諸台使者 冠葢相望於路 且夕逢迎 唯謹 与我封疆異也 其巡巧也 自溝徂瀆 自原徂湿 即所盧 随其濬繕移徙 東西無常居 居則槍纍幄幕干掫焚燎 不得不備一夕之衛 行則輿馬僕隷芻米屨 不得不具一日之積 与我封疆異也 揵茭薪石 仰給県官 亦唯事期財用 毎以待成命 則計徒庸 称畚築 非吾之素 与我封疆異也 大水之後 民猶夫婦塾隘 乃一僦其土爲役夫 而壮者固己随功 与平賈 而且其承朝家周亟 矜無資之旨 使有数月之食以及麦禾 自窮民始 則至于老幼婦女 可哀尤甚 不問羸弱 一充運土 乃朝荷一簣 暮与数銭 於是日夕下来 則纍々攜負至者 百千成群於庭 有司簿正穪事 授与不勝 唯不均是懼 与我封疆異也 有是数者 而加之上下千余人 前後五閲月 日在曠野 脛不遑生毛 固亦不無重疾疫之虞 是以吾諸臣者 日夜勉思 惕若不寧 唯是頼有募君之数 与二三大夫之慎終 亦無有一事之廃 無有一隷之病 驩然相勤 乃得以竣事 而奉承國家之大役 尚亦有辞於反命 不亦皇天眷顧之所及乎 因相与謀 是宜壇以告成而皈 而有鷲宮之祠 在其地 蓋祀典所命也 聴輿人之謀 曰何必他営 於是俱就再拝稽首曰 曾臣長門宗廣 受朝命奉役 其官臣廣定 及某甲等 実先後之 乃以天明 今既克集大事 無作神羞 敢告既以告矣 願復具其始末 勒碑鷲宮 以貽永世 喬乃承其所属 爲記如是 凡長門所受役 刀禰上流以南 而北 尽其壖 水自西而東 則其地上自武之児玉郡久久宇 並水下 至州之埼玉郡間口十五里 而又自問亘折 至羽生騎西之地 斜界糟壁之駅 東南坼出五里 南北亘遠者十里余 在西上 則自州之榛澤郡横瀬 迤至上毛新田郡前小屋六里 其次自州之幡羅郡江原 迤至郡之俵瀬五里 今一里 十古制之里 則東西大率二百里 南北五六十里 若八九十里 堤壌修補 小者百余所 大决者 雖繕補 客土更築 率長八九十堵 横三四十堵 用夫十五六万 淩溝澮九十余所 在羽生 爲大渠 而長三里 用夫十一万 在騎西 渠益大 実刀禰故道 而所浚三里 余用夫三十万 其他川防陂足 薪石竹落之功 大小七百余所 凡用夫百万余云 自國臣有司視事者十三人 至所属士 凡百四十七人 私從八百十人 卒隷以下七百五十人合千七百七人 其十三人姓名別具 寛保三年夏五月平安服元喬謹記/長州学士 津田泰之書」/緑字は異体字 1
写真 糠田村新渠碑 ぬかた 埼玉/鴻巣市 氷川神社 石碑(自然石) 高156㎝,幅81㎝,厚16㎝ 天保8(1837)   鴻巣の石造物(箕田・田間宮)p243 原位置 (正面)「糠田村在武蔵國足立郡荒川堤内地極卑湿毎淫雨輒潦水注/溢経旬不退曩時開渠注諸荒川淤髙渠流梗渋遇其少漲/則逆流氾濫人伍魚鼈民居凋落窮困日甚闔村憂之数訴 官/而不得者多年於茲矣迄河野幸道爲里正時与子道春其子定/祥其子信庸訴之司農柳生君県令淺岡直澄亦請 官乃命別/開新渠渠道有田宅者属信庸謀焉賜黄金若干信庸亦損金資/其費於是村民竭力鑿渠一千四百八十余歩数月而就実文化/丁卯夏也爾還無復氾濫之患居民得蘇息収穀亦倍蓰於旧新/渠之事河野氏累世相謀至信庸而浚始就可謂矣然信庸不/敢以功名自處乃建柳生淺岡二氏生祠以報其労亦可謂厚矣/信庸曽祖曰幸道祖曰道春考日定祥世ニ倹勤然至興除利害/毫不爲愛惜也信庸游余多年今也請記余不敢譲爲申其概云/天保八年歳在丁酉十一月至日/河野信庸立石」/荒川からの洪水逆流に苦しんでいた糠田村が、新たな排水路(千間堀:現在の足立北部排水路)を開削したのを記念して建立されたもの 1
写真 江原堤の御定杭 えばら 埼玉/深谷市 (江原) 御定杭 高48㎝,14㎝角 文久2(1862)   WEB(関東地方の川) 置いてあるだけ? (正面)「定杭一番」/御定め杭: 堤防の高さが勝手に変更されないように設けられた→上下流の村の同意のもとに、堤防の基準高を規定 2
  二丁目の土手供養塔 にちょうめ 埼玉/八潮市 普門院・門前 石碑(駒型) 高160㎝,幅72㎝,厚20㎝ 明暦元(1655)   八潮の金石資料p99 氷川神社・東側土手→移設 (正面)「(梵字3)神力演大光普昭無際土消除三垢冥廣洲衆尼難」、(右面)「奉供養造立所本願念故」/川の氾濫で村人が苦労→普門院住職・浄西が、土手が切れないように願をかけ土手供養塔を建立→以後、土手が切れなくなったとされる 2
  川藤の繋石 かわふじ 埼玉/吉川市   御定杭 高15㎝(地表高、石全体の高さは105㎝) 天保2(1831)   市教委 原位置?/8割方埋設 二郷半領と松伏領との領境を通る横手道は、水除け堤として高さを巡る論争が絶えなかった→寛延3(1750)に出入りが生じ、安永4(1775)には道の高さを3尺5寸(約105㎝)と定め、5ヶ所に定杭が打たれた→天保2年に朽ちることのない繋石に変更 3
写真 砥根河重蔬碑(河童石) とねがわじゅうそひ
(かっぱ)
埼玉/(北葛飾)松伏町 (金杉) 石碑   元文元(1736) 町有形 WEB/
WEB(関東地方の川)
原位置 (正面)「砥根河重蔬碑」/井沢弥惣兵衛による享保13(1728)の庄内古川河道変更(水害防止)の竣工を感謝して金杉村の名主・飯島家が建立したもの/石碑の下端にある「亀扶(きふ)」の丸彫/「河童」の名称は、砥根河重蔬碑の「河重」の読み間違いに由来 1
写真 野上下郷の寛保洪水位磨崖標 のがみしもごう 埼玉/(秩父)長瀞町 <荒川> 洪水位磨崖標 高18m 寛保2(1742) 県史跡 WEB 保存状態良好 岩肌に「水」と刻字/寛保2に関東で発生した大洪水の水位を示す史跡/荒川の洪水の歴史を辿る上でも貴重な記録 1
写真 御岳山麓の水防石
(滝本の水防石)
みたけさんろく 東京/青梅市 滝本川 水防石(自然石) (6個)最大高2m,幅4m 安政6(1859)直後   市教委 当時のまま/現在では、砂防工事の完成により水防石としての役目は果たしていない 安政6の大洪水で被害を受けた北島家の当主・左門が、6個の巨大な自然石を洪水の進入路に並べて水害を防ごうとしたもの/巨石の運搬は、地元の土木巧者の「あくとの万蔵」が実施 2
  浅原村の避水台 あさばら 山梨/南アルプス市 釜無川(右岸) 助命壇   享和2(1802)由来   堤の風景 C基壇化 水害に多くみまわれた浅原村の厳しい状況を物語る史跡 3
写真 吉田の上の亀甲石 よしだ・かみ 長野/(下伊那)高森町   亀甲石 高154㎝,幅197㎝,厚151㎝ 寛延3(1750)頃   天竜川上流工事事務所   六角形の中に上と陰刻/惣兵衛堤防築造の際に測量の基準点として用いられた石 2
写真 下市田の下の亀甲石 しもいちだ・しも 長野/(下伊那)高森町   亀甲石 高56㎝,幅77㎝,厚115㎝ 寛延3(1750)頃   天竜川上流工事事務所   六角形の中に上と彫刻/惣兵衛堤防築造の際に測量の基準点として用いられた石/字が彫り直しの可能性あり 3
写真 水埜士惇君治水碑 みずの、
しじゅんくん
愛知/北名古屋市 久地野 石碑(砂岩) 125㎝,45㎝,45㎝ 文政2(1819) 市史跡 木谷幹一
(新川町史・資料編2p291-292)
保存状態良好(昭和2修復)
/木造覆屋内
(正面頂部)「水/埜」、(同全面)「愛智春日井郡中有二川 其源一出濃州土岐郡是為勝川 一出参州加茂郡/是為矢田川 二水會為荘内川 其川縈回荘内而歸于海 明和四年丁亥七月/沛雨傾盆水潦衍溢 猿投山谷口崩騰 愛智春日井二郡水災最甚 屋宇□□/人馬陥溺 而後砂礫羅敷隄防屢決壊 安永八年己亥八月水潦復邑衆民/墊/明公特命駕視民疾苦而深憂之 使參政人見彌右衛門小野泰子魚度支長/水野千之右衛門平允士惇専掌治水 於是士惇君首謀其事精覈水行 比良/邑大蒲沼群邨之潨會合于此 因以其沼為施功之載 天明四年甲辰鑿沼南」、(左面頂部)「士/惇」、(同全面)「味鋺堤 就其隄腹築五分石堰 自比良村距海東郡榎津村之間別疏鑿一巨/川 號新川 以殺荘内川水勢 爾後勝川潦踰堤五分 則其潦溢石堰経大蒲沼/入新川 勝川水潦頓減其半 往昔五條川水歴八屋村會荘内川 故其潦泝五/條川害海東郡 於是塞八屋派口會五條川水于新川 又塞荘内川口于中須/村 乃廝二川至下一色村南荘内川新川二派纔隔一堤雙歸于海 而後群村/悉免災三十六年 予毎巡視與老里正仰士惇君治水之功 且嘆歴星霜之久/少壮者今習安居而無知免災之由 今茲君年八十有六 庶民逾頌其德且祝/君之壽考 乞立碑以傳後卋 予謂後漢董詡除須昌令多異政人為生立碑 今」、(裏面頂部)「君/治」、(同全面)「追其故事不為僭矣 當為君勒碑使民不忘其恵澤 夫子魚君擧士惇君使君/専掌治水 又使造牐令武藤加六藤原直逵為副量水利 相與戮力土功遂成/焉 君獨保眉壽至于今 比年蒙  恩華事績益彰 庶其名與石不朽 是以立碑/比良隄上作頌 其辭曰/赫矣二賢 寔天所啓 為爪為牙 維國之體 允文允武 維治之柢/吁士惇君 水工濟濟 銘心禹貢 委質張州 辟商羊害 救昏墊憂/慕若父母 望邁等儔 不拘小節 寛大壯優 陞大司農 逾事治水/修築河渠 撫恤邑里 老安散官 講武卓爾 遂以舊功 恩光倍蓰」、(右面頂部)「水/碑」、(同全面)「底平治績 立奠居基 民承恵澤 感星霜移 厥功厥壽 與頌與嬉/丕丕懿德 永在生碑/文政二年己卯十一月 張藩 大代官樋口又兵衛中原好古謹誌/…」 2
写真 丈六橋の水神碑 じょうろく 三重/名張市 滝川 石碑
(洪水遺産)
高2.02m 安政6(1859)   WEB(北伊勢の道標) 保存状態良好 (正面)「水神」/(背面)「滝水のいくたび岸を洗うとも こわしとせじな水神の神」「村中安全」/安政6年9月の大洪水で丈六堤が決壊し大被害を被ったため、村の有力者の発起により建立 1
  平の水神 ひら 岐阜/大垣市 <東中之江輪中> 石常夜灯
(洪水遺産)
  江戸期?   大垣市輪中ガイドマップ 保存状態良好 堤防の切れた部分に建てられた洪水防止の水神の祠に付属する大型の常夜灯 1
写真 綾野の輪中地蔵 あやの 岐阜/大垣市 <綾里輪中> 地蔵(洪水遺産)   江戸期?   大垣市輪中ガイドマップ 保存状態良好 洪水防止の水神信仰と洪水時の避難場所である助命壇を兼ねている(輪中堤とは無関係) 1
写真 本阿弥田新田の助命壇 ほんなみ 岐阜/海津市 <本阿弥輪中> 助命壇 28m×38m,高3.5m 江戸期 市有形民俗 市歴史民俗資料館(海津市の文化財誌) 元は土盛り方形壇であったが、壇上に廂廟が建つ(著しく改変) 輪中特有の助命壇(小高い土盛りの避難施設)=助命壇・命塚・命山などと通称される/市内には他にない(高須輪中では最も高い場所が輪中堤だったため、大半の人は輪中堤に避難したとの調査結果あり) 4
写真 万寿新田の「お灯明さま」 まんじゅ 岐阜/海津市 <高須輪中> 石常夜灯(花崗岩)
(洪水遺産)
高2.24m 江戸期   市歴史民俗資料館(海津に残る碑) 笠一端欠損/後補あり/現在も信仰の対象となっている 輪中特有の水神信仰/大神宮」と陰刻/大雨で堤防に亀裂ができた際、その亀裂にこの灯明がはまり、隙間を埋めたおかげで浸水を免れたという伝承がある 1
写真 慶応元年の堤切れ・跡   岐阜/(羽島)笠松町 木曽川(岸)、
日枝神社・入口
(洪水遺産)   慶応元年(1865) 町登録 WEB 堤防は、近代以降に大改修 堤防の切れた所に水神が祀られている  
写真 上大榑の助命壇 かみおおぐれ 岐阜/(安八)輪之内町 神明神社<福束輪中> 助命壇 約50m四方,高4.7m 永正2(1505)   WEB 大榑川の輪中上に神社が創建され、その後輪中は撤去された 町内に残る2ヶ所の助命壇の1つ/「ぞうすい(増水)祭」が行われる 2
写真 海松新田の助命壇 みる 岐阜/(安八)輪之内町 多度神社(通称:ごまんどさん)<福束輪中> 助命壇 約25×60m,高3.3m 安政5(1858)   WEB 助命壇の雰囲気をよく留める 町内に残る2ヶ所の助命壇の1つ/「ごまんど(御万度)祭」が行われる 1
写真 大場の大転石 おおば 富山/富山市 常願寺川(左岸) 災害遺産   安政5(1858)   WEB 修景保存 安政5 年4 月に富山平野に大きな被害を与えた大土石流で、径約4-7m(重量約100-600t)の巨石が40 数個残存するうちの1ヶ所 2
  西大森の大転石 にしおおもり 富山/富山市 常願寺川(右岸) 災害遺産 高8.7m,周囲32.5m 安政5(1858)   WEB 堤防に縦に埋まっているのが本体/上に載せてある石は飾り 同上 2
写真 武庫川の旧・量水標 むこ 大阪/大阪市(住吉区) <武庫川>法楽寺・境内 石標(尖頭角柱) 高約160㎝,約20㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 移設 地上4㎝の位置から1寸ごとに横線の刻みが目盛状に入り、1尺ごとに下から「一」~「五」の数字が刻字 2
写真 武庫川の量水標 むこ 兵庫/西宮市 武庫川・河川敷 石標(尖頭角柱) 高162㎝,21㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 原位置/刻字に墨入れ 地上4㎝の位置から1寸ごとに横線の刻みが目盛状に入り、1尺ごとに下から「一」~「五」の数字が刻字 1
写真 武庫川の旧・表示石杭1 むこ 兵庫/西宮市 <武庫川>松並墓地 石杭(尖頭角柱) 高約160㎝,約20㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 移設 (正面)「人足五拾人 西宮町方詰所」 2
写真 武庫川の旧・表示石杭21 むこ 兵庫/西宮市 <武庫川>松並墓地 石杭(尖頭角柱) 高約160㎝,約20㎝角 文久元(1861)   WEB(日本の測量史) 移設 (正面)「人足五拾人 中村詰所」 2
写真 聖地の助磊 せいち・たすけごうろ 広島/三次市 (三和町敷名・小川邸敷地内)美波羅川 助命壇 高0.7-1.7m,6.5m四方 文政3(1820)以前 市史跡 WEB 北面と東面は当時のまま/南面と西面は積み直し 洪水時の小規模な助命壇(低地で川が湾曲しているため洪水が発生しやすかった)/『敷名志(1820)』によれば、複数造られていたが現存するのはここだけ/石組みした土盛に柿の木が植えられており、洪水時に土盛に上り木に身を縛り付けて難を逃れたと伝えられる 2
写真 国府町日開の法光寺前の地蔵 こくふ、ひがい、ほうこう 徳島/徳島市 鮎喰川 高地蔵(洪水遺産) 高277㎝
(うち、台石194㎝)
文化3(1806)   WEB 基壇がC被覆 「三界萬霊」/C基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 3
写真 国府町日開の東の地蔵 こくふ、ひがい 徳島/徳島市   高地蔵(洪水遺産) 高363㎝
(うち、台石263㎝)
文化4(1807)   WEB C基盤 「三界萬霊」/石基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
写真 国府町東黒田のうつむき地蔵 こくふ、ひがしくろだ 徳島/徳島市 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高419㎝
(うち、台石298㎝)
文化8(1811)   WEB 保存状態良好 「法界萬霊」/4段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水で分りにくくなった土地境界の目印、水没者の供養、洪水時に水没しないため)/100基以上ある高地蔵の中で最大/うつむいていた姿が特徴 1 写真
  国府町和田の地蔵 こくふ、わだ 徳島/徳島市 (居内)鮎喰川 高地蔵(洪水遺産) 高323㎝
(うち、台石203㎝)
安政6(1859)   WEB 祠内/どの部部が後補か不明 3段の板状台石上に2種類の蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/夜泣き地蔵だか、恐らく洪水遺産(洪水時に水没しないため)を兼ねる 3
写真 鴨島町の三郡境石 かもじま 徳島/吉野川市 (牛島) 境界石(尖頭角柱)(洪水遺産) 高190㎝(うち、埋込部分80㎝) 延享2(1745) 市有形 現地解説板 修景された基壇上に載る (正面)「麻植/板野/名西、三郡之三ツ境」/吉野川の洪水常襲地帯で、その度に田畑や道が流され、村境が分からなくなっていた(紛争)→藩が仲介し、郡境の目印として建立/万一この石が流された場合は、高台の円通寺に設置された立石から復元できる(立石から真北に323間4尺)という二重の安全策 2
  西麻植の地蔵 にしおえ 徳島/吉野川市 吉野川<へんろ道> 高地蔵(洪水遺産) 高252㎝
(うち、台石199㎝)
天明2(1782)   WEB 屋根は後付け 「三界萬霊」/3段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/子宝地蔵だか、恐らく洪水遺産(洪水時に水没しないため)を兼ねる/18世紀の高地蔵(他の代表的な高地蔵はすべて19世紀) 2
  川島の浜の地蔵 かわしま、はま 徳島/吉野川市 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高372㎝
(うち、台石267㎝)
天保14(1843) 金属パイプ製の祠内 WEB 保存状態良好 「三界萬霊」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(水没者の供養、水難除け、洪水時に水没しないため) 2
  乙瀬中田の地蔵 おとせ、なかた 徳島/(板野)藍住町 旧吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高304㎝
(うち、台石199㎝)
慶応4(1868)   WEB 蓮台前面が欠損 「為溺死亡霊菩提」/2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/洪水遺産(水没者の慰霊) 2
写真 七條、挽木の郡境
「甲の石」
しちじょう、ひきぎ 徳島/(板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高79㎝,幅60㎝,厚15㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (西面中央に大きく)「甲」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 七條、挽木の郡境
「乙の石」
しちじょう、ひきぎ 徳島/(板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高83㎝,幅60㎝,厚16㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (北面中央に大きく)「乙」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 高瀬、天上開の郡境
「丁の石」
たかせ、てんじょうびらき 徳島/(板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高55㎝,幅30㎝,厚13㎝ 享和年間(1801-1803)   町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (西面中央に大きく)「丁」/下記「巳の石」のように詳細な位置関係が刻字されているが、未解読/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
写真 七條、北高瀬の郡境
「巳の石」
しちじょう、きたたかせ 徳島/(板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高140㎝,幅50㎝,厚10㎝ 享和年間(1801-1803)
洪水により移設
  町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (東面上部に大きく)「巳」、(その下)「この石より北は板野郡七条村/南は名西郡高瀬村」「この石より丁の石まで百二十八間五尺」、(西面)「此石建置候場所享和度川成今以水中ニ付/当時丁石より以前之場所へ見通、真直ニ西へ三十三間延建置」(享和年間の洪水後の後刻)/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた(約300m東の「丁の石」と「甲の石」で直角三角形を構成、3つの石は互いに向き合っている) 1
  神宅の郡境目当ての石 かんやけ 徳島/(板野)上板町 吉野川 境界石(自然石、緑泥片岩)
(洪水遺産)
高180㎝,幅50㎝,厚13㎝ 享和年間(1801-1803)
洪水により移設
  町教委(上板町史・下p1131-1132) 保存状態良好 (南面)「名西郡高瀬村/板野郡七条村/郡境目当之石」/吉野川の洪水遺産=吉野川が氾濫して一面の川原となっても、高台の「郡境目当ての石」さえ無事なら、甲~巳の石を基準として、板野郡七条村、西分村、名西郡高瀬村の郡境、村境を正確に再設定できた 1
  光蓮寺の夢つげ地蔵 こうれん 徳島/(板野)北島町 光蓮寺 高地蔵(洪水遺産) 高約100㎝ 江戸期? 町有形 WEB 保存状態良好 旧吉野川の増水のため流されそうになった地蔵が、霊力を使って自分の身上を村人の夢の中で伝え、現在の安置場所まで移動させたという伝承がある/金家彫り台座共一石造りの地蔵半跏座像 1
写真 藍畑の印石 あいはた、しるしいし 徳島/(名西)石井町 皇太神宮 標石(2基)
(洪水遺産)
(右)高89 ㎝(線高60㎝),幅26 ㎝,厚8.5 ㎝,
(左)高77 ㎝(線高60㎝),幅27 ㎝,厚7.5㎝
嘉永6(1853) 町歴史資料 岩屋隆夫/WEB
/現地解説板
発見→移設・再建立 (右)「印石」、(左)「石」/堤防高を規定するための基準石=石に水平な線が1本刻まれ、堤防の高さの基準となっている/文化年間(1804-18)に本村地区の村人が洪水被害から逃れるため新堤防の構築を藩に願い出たが、隣の中州地区の反対で頓挫・紛糾→嘉永4、郡代の仲介で中州地区の地盤高と同じ高さの堤防を築くことで合意→嘉永6、本村地区の村人が無断で嵩上げしたことで紛争→郡代命で嵩上げ部を撤去→二度と起きないよう堤防高を示す21個の石柱を建てた 2
  城ノ内の南の地蔵 じょうのうち 徳島/(名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高322㎝
(うち、台石225㎝)
文政8(1825)   WEB   「悲願金剛」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 1
  東覚円の南の地蔵 ひがしかくえん 徳島/(名西)石井町 吉野川 高地蔵(洪水遺産) 高281㎝
(うち、台石199㎝)
文政10(1827)   WEB 屋根を後付け 「三界萬霊」/2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水の常襲地帯に建立) 1
  高畑の地蔵 たかばたけ 徳島/(名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高309㎝
(うち、台石224㎝)
天保14(1843)   WEB 両手が破損 「延命尊」/石基壇、3段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
  南島の西の地蔵 みなみしま 徳島/(名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高411㎝
(うち、台石246㎝)
天保14(1843)   WEB 基壇はC更新 「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」/C基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/地域住民の健康と安全、農作物の豊穰を祈願/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 3
  桜間の北の地蔵 さくらま 徳島/(名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高327㎝
(うち、台石219㎝)
安政5(1858)   WEB 大正5に修復 「三界萬霊」/石基壇、2段の墓石状台石上に六角柱台座・蓮台を置き、笠を被った地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 1
  高川原の地蔵 たかがわら 徳島/(名西)石井町 飯尾川 高地蔵(洪水遺産) 高326㎝
(うち、台石243㎝)
万延元(1860)   WEB 平成5に基壇、台石を新設 「三界萬霊/光明真言五百萬遍」/石基壇(新設)、2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵半跏像の丸彫を載せる/洪水遺産(安政4(1857)の大洪水を受けて建立) 4
写真 東高原の南の地蔵 ひがしたかはら 徳島/(名西)石井町   高地蔵(洪水遺産) 高325㎝
(うち、台石246㎝)
慶応元(1865)   WEB 基部C 「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」/石基壇、2段の墓石状台石上に角柱台座・蓮台を置き、地蔵座像の丸彫を載せる/地域住民の健康と安全、農作物の豊穰を祈願/洪水遺産(洪水時に水没しないため) 2
写真 五郎の境木 ごろう、
さかいぎ
愛媛/大洲市 肱川、五郎若宮地区 田畑の境界木 高1m~2.5m 江戸期   WEB 現在の木々は江戸期のものではないが、景観としては再現 洪水が起きる度に田畑に土砂が流入し境界が不明瞭となり土地争いの原因となった→洪水後に土地の境界が明らかになるようにマサキ、ヤナギ、ボケなどの樹木を一定の間隔で植えた/洪水後の境界を明確にする目的で二次元的に木を植栽した例は、本データベース内には他にない 3
写真 玉水町の水丁場標柱 たまみず 高知/高知市 鏡川(左岸) 石標(水防対策)   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 近接移設? (正面)「從是西北一ノ丁場」、(裏面)「從是東二ノ丁場」/高知城下の洪水被害を防ぐため、寛文12(1622)に始まった水丁場制度により設けられた受け持ちの「丁場」の境界を示す標柱/鏡川沿いの堤防に観音堂~雑喉場の間を長さ141間(269m)の丁場に11分割された(一ノ丁場~十二ノ丁場、五ノ丁場はない)/享保年間までは木杭、それ以後、幕末までの間に石柱化された(時期不詳) 1
写真 上町の水丁場標柱 かみ 高知/高知市 (2丁目)鏡川(左岸) 石標(水防対策)   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 原位置? (正面)「從是西 四ノ丁場」、(裏面)「從是東 六ノ丁場」/同上 1
写真 鷹匠町の水丁場標柱 たかじょう 高知/高知市 (2丁目)鏡川(左岸) 石標(水防対策)   享保年間(1716-36)以降   徳島大学環境防災センター/竹本健一 移設? (正面)「從是西 六ノ丁場」、(裏面)「從是東 七ノ丁場」/同上 2
  感田の堰・跡 がんだ 福岡/直方市   陸閘(石垣)
(堰止用の溝付き)
  江戸期 市指定 市教委/松木洋忠 片側撤去 遠賀川本川右岸のの阿高宮下にある堰跡。明治の河川改修前の堤防はこの近くにあり、背後地は、溺谷地形のため洪水常襲地帯になっていた。堰は、遠賀川水位が堤防を越えそうなときに板を渡していたものと考えられる 3
  植木の堰・跡 うえき 福岡/直方市   陸閘(石垣)
(堰止用の溝付き)
  江戸期 市指定 市教委/松木洋忠 片側撤去 この地点は、遠賀川の旧河道で、植木の町は堰跡を含む輪中堤で守られていたと考えられる 3
  釣川の一番定石 つり 福岡/宗像市 釣川 傍示石 高1m,18㎝角 寛政3(1791)   WEB 10本→1本、もとの位置から少し下流へ移動 「一番 自是下 川巾五間、自是 冽口波打際迄 長五千四百間、寛政三年四月、自是下 田久鎰分之内迄 八百六十間」/人夫2万5千人を使った大規模な河川改修事業の唯一の名残り 3
写真 高田輪中の石垣群 たかだ 大分/大分市 常行地区、南地区、丸亀地区 石垣   江戸期   市教委/WEB 新しく建つ家で石垣のないものも見られるが、概して保存状態は良い 大野川と乙津川の中州に位置する高田輪中内の集落に見られる石垣上に建てられた家屋群/国内で最も著名な木曽三川の輪中群と異なり個々の家がほぼすべて石垣を有している点が大きく異なる(石垣の高さ、石の組み方、石の切り方に差が見られ、普請への資金投入等の差があるのではないか、と地元では考えられている) 2
写真 八字文殊真言石塔 はちもんじゅ、しんごん 鹿児島/(出水)長島町
(長島)
  石碑(板碑) 高84㎝ 江戸期 町有形民俗 WEB 原位置/縦に3つに割裂→針金で固定 (正面)「(梵字8)」/大雨や台風等が来ないよう祈願した石塔 2