津波・高潮遺産 

   都道府県別データ一覧にある津波・高潮関連の遺構・記念碑

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  正覚院の寛保津波碑 しょうがくいん 北海道/(檜山)江差町 正覚院 津波記念碑
(大島噴火)
  寛保元(1741) 道有形 WEB 移設ではないが、現在は江差小学校敷地 寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「淪没弧魂両縁塔」、(側面)「江指庄今秋七月仲旬鳥破暁大虚雲晴星斗明滄海風扠水面平忽鳴動震地怪光飛天時□□□堆嶮浪如 瀝轟其勢揚海底劫石砕陸地崎厳如斯数回」 1
  法華寺の寛保津波碑 ほっけじ 北海道/(檜山)江差町 法華寺<碇町岬> 津波記念碑
(大島噴火)
  寛保元(1741) 道有形 WEB 昭和10移設/碑面剥落のため判読不能 寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「淪没弧魂両縁塔」、」(側面)「□□□□□□□□□ 1
  光明寺の寛保津波碑 こうみょうじ 北海道/(松前)松前町 光明寺 津波記念碑
(大島噴火)
  寛保元(1741) 道有形 WEB 保存状態良好 寛保元年7月19日の大島噴火に伴う大津波の犠牲者(溺死者1236名)の供養塔/(正面)「洪波溺死諸霊菩堤」、(側面)「願主 御城下自他諸寺院中」/津波記録は記されていない 1
写真 木曳堀(貞山堀)松並木 こびきぼり
(ていざん)
宮城/岩沼市 貞山運河?
(阿武隈川河口付近)
防潮林   慶長16(1611)~元禄15
(1702)の間の何れか
  WEB オリジナルの松が、東側に残る2011.3.11の東日本大地震による津波で、松の一部が枯れたがほぼ原状維持(対比写真参照) 慶長三陸地震津波(1611)の後、恐らく津波対策として植樹/「元禄国絵図」(1696-1702)には松が描かれているので、それ以前の植樹 2 写真
写真 日枝神社の津波避難丘 ひえ 千葉/鴨川市 (前原) 津波避難所 盛土4.6m
(海抜10m)
慶長9(1605)以降   WEB 海側C擁壁、全面的に改修 慶長大地震(1605)による大きな津波被害を受け、次の津波に備え前原の住民が避難所として構築→元禄大地震(1703)の時、避難所に逃げた人は助かった→地震後に再度盛土 3
  鷲山寺の元禄津波供養塔 じゅせん 千葉/茂原市 鷲山寺 津波記念碑
(元禄房総地震)
高279㎝
(うち、台石78㎝)
宝暦3(1753) 市史跡   参道入口から本堂前に移設 (正面)「南無妙法蓮華経」、(右面)「元禄十六癸未歳十一月廿二日夜丑刻大震東海激浪/溺死都合二千百五拾余人死亡允癸酉五拾一年忌営之」、(台座正面)「八百四拾五人 一松郷中/三百四人 幸治村/二百二拾九人 中里村/七拾人 八斗村/八人 五井村/二百七拾二人 古虎村/四拾八人 剃金村/七拾三人 牛込村/五拾五人 濱宿村/二百五拾人 四天寄村」 2
  東浪見の津波供養塔 とらみ 千葉/(長生)一宮町   津波供養塔
(延宝房総沖地震)
  元禄7(1694) 町史跡 WEB 保存状態良好 延宝5(1677)の延宝房総沖地震による東浪見地区の約150人の死者の供養塔→記念碑(被害の状況や、教訓を記した碑)ではない 1 -
写真 本興寺の元禄津波供養塔 ほんこう 千葉/(長生)長生村 本興寺 津波記念碑
(元禄房総地震)
高153㎝(うち、台石27㎝),
幅50㎝,厚20㎝
宝永年間(1704-10)? 村有形 本興寺 保存状態良好 (裏面)「維元禄十有六年癸未十一月廿二日之夜/於當國一松大地震尋揚大波嗚呼天/乎是時民屋流牛馬斃死亡人不知/幾千萬余也以爲其類死者者也」(木製の大位牌と末尾部の内容が異なる)/一松卿初崎村浦の名主・東条市郎右衛門が一族の水死者の冥福を祈って建立/山門ににも津波供養碑があるが、こちらは、(正面)「南無妙法蓮華経水死忌」、(右面)「是人於佛道決定無有」(緑字は異体字)とあるだけなので、本リストの対象外 1
写真 平久橋西詰の波除碑 へいきゅう、なみよよけ 東京/江東区 (深川牡丹3丁目) 石碑(砂岩) 高131㎝(うち、台石45㎝),29㎝角 寛政6(1794)頃 都有形 WEB/区教委 破損大、若干の移動/刻字の判読困難→右欄の刻字内容は『東京市史稿』(1901編纂開始)によるもので、当時は判読可能だったと思われる (左面)「此処寛政三年波あれの時家流れ人死するもの/少からず此後高なみの変はかりがたく流死の難」、(裏面)「なしといふべからず是によりて西は入船町を限り東は/吉祥寺前に至る迄凡長さ二百八十五間余の処」、(右面)「家居取払いあき地になしおかるゝもの也寛政六年甲寅十二月日」(旧字の使用は不明)/正面に「葛飾郡永代浦築地」と陰刻/寛政3(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋が流され多数の死者・行方不明者が出た→幕府は、洲崎弁天社から西の辺り一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000㎡)を買い上げ空き地とし、これより海側に人が住むことを禁じた→空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建立 3 写真
写真 洲崎神社の波除碑 すさき、なみよよけ 東京/江東区 (木場6丁目)洲崎神社 石碑(砂岩) 高155㎝(うち、台石15㎝),29㎝角 寛政6(1794)頃 都有形 WEB/区教委 破損大(鋼棒とCで補強)、若干の移動/C被覆で銘文判読不能→石材露出部分も損耗大 (正面)「…あき地…/…十二月日」/同上 4
写真 一本松の汐土手・跡 いっぽんまつ 静岡/沼津市   防潮堤 長約200m(現存部) 江戸期   市歴史民俗資料館 海岸防風林の下生えを刈ったことで近年発見された/大半はC防潮堤築造時に埋設 経緯は全く知られていない 3
写真 中新田の命山 なかしんでん 静岡/袋井市   高潮避難所
(砂質の築山)
南北30.5m,東西27m,高5m,頂上平場面積68㎡ 延宝8(1680) 県史跡 市教委 潅木がまばらで築山がはっきりと見える 延宝8年閏8月6日の大型台風による高潮により村民約300人が死亡→生き延びた村人が藩の指導を受けて将来の高潮に備えて避難所(築山)を構築/築山は2つの集落それぞれの真ん中に造成された/大野では頂上の面積を広くすることを優先し、中新田では高さの確保を優先した 1
写真 大野の命山 おおの 静岡/袋井市   高潮避難所
(粘土質の築山)
南北32m,東西24m,高3.5m,頂上平場面積136㎡ 延宝8(1680) 県史跡 市教委 潅木がやや密生し築山が見えにくい 延宝8年閏8月6日の大型台風による高潮により村民約300人が死亡→生き延びた村人が藩の指導を受けて将来の高潮に備えて避難所(築山)を構築/築山は2つの集落それぞれの真ん中に造成された/大野では頂上の面積を広くすることを優先し、中新田では高さの確保を優先した 2
写真 北浦町の三界万霊塔 きたうら 三重/尾鷲市 馬越墓地 津波記念碑
(宝永の大地震)
高149㎝,幅45㎝,厚37㎝ 正徳3(1713)   県石造物調査報告1p109 保存状態良好 (正面)「三界萬霊」、(左面)「宝永丁亥冬十月初四日南海洛北/大震有邑山崩厭邑者水郷波/起漂流村落者殊尾鷲邑者開水道/於左右前面海廣皆後山高故怒濤/自三面競起而廻避無方頃剋之間」、(裏面)「而男女老幼溺死者千有餘人者民/扉有遺屍積如山矣鳴呼病無/数生霊乃作泉下之人于滋良源嵓/上人憐無依之鬼興無縁之慈互/普度由是鈶於余同為銘白/大地震動山崩海揚怒濤厭邑廻□」、(右面)「無方男女老幼流漂大泮遽然不返/見者断腸嵓老立塔普度群匹願」/宝永の大地震による津波被害(当時の尾鷲人口の3分の1が死亡)の七回忌供養として建立 1
  新鹿町の津波留碑 あたしか 三重/熊野市 (向田) 津波記念碑
(東海地震)
高66㎝,幅88㎝ 嘉永7(1854) 市史跡 県石造物調査報告1p77 保存状態良好/個人宅の石垣前面にはめ込まれている→苔が繁茂して字が読みにくい 「津波留」「嘉永七年寅十一月/四日昼五ツ時/濱邊より凡三丈上ル/井本屋」/井本屋の石垣(この碑のはめ込まれている石垣)で津波が止まったことを示す碑 2
  光明寺の嘉永津波供養塔
(遊木の津波記念碑)
こうみょう 三重/熊野市 光明寺 津波記念碑(円柱)
(東海地震)
高72㎝,幅31㎝ 安政年間(1854-59) 市史跡 県石造物調査報告1p128 保存状態良好 「昔宝永四亥十月四日大地震つ浪有以来百五十年/嘉永七寅十一月四日大地震つ浪一丈五尺上り/氏神社初人家四十五軒流失流死七人有此後/大地震之時ハつ浪有と心得初ハ平地に出ゆり終/次第たかキ所にげ可申事くわしキハ過去帳ニ有」/心得が中心 1
写真 佛光寺の宝永津波流死塔 ぶっこう 三重/(北牟婁)紀北町 佛光寺 津波記念碑(砂岩)
(宝永の大地震)
高87㎝,幅32㎝,厚21㎝ 宝永4(1707) 町建造物 県石造物調査報告1p69 保存状態良好(写真、右 「津波流死塔」「宝永四丁亥年十月四日未ノ上刻大地震直/津波入在中不捗流失其上五百餘人流死/仕候自今以後大地震時者覚悟可有事」/江戸中期の地震・津波災害を伝える貴重な資料 1
写真 佛光寺の嘉永津波流死塔 ぶっこう 三重/(北牟婁)紀北町 佛光寺 津波記念碑(砂岩)
(伊賀地震)
(東海地震)
高81㎝,幅32㎝,厚22㎝ 嘉永7(1854) 町建造物 県石造物調査報告1p69 保存状態良好(写真、左 「津波流死塔」「嘉永七甲寅年六月十四日丑の刻大地震一又あり十一月迄/震動数度閏四日巳の刻大地震直津波流家四百八十数/余次全百十斬候流死貮百三人也 則宝永度の/塚有之通自今已後大地震の時ハ覚悟可之事」/被災状況の記載は、上記の宝永津波の際より詳細 1
写真 海山区相賀の嘉永津波流死塔
(渡利の津波記念碑)
みやま・あいが 三重/(北牟婁)紀北町   津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
高143㎝,幅75㎝ 文久元(1861)   県石造物調査報告1p101 保存状態良好 「津波流死塔」「安政元〔正確に言えば嘉永七の間違いだが、安政と刻字したのは、大災害を受けて改元したことが背景にあるのか?〕甲寅六月十四日夜八ツ時諸国一円大地震続て/十一月四日朝五ツ時大ちしん直にたかなみ海辺の浦村/おし入人家を引なかしなミにた〃よひ死する人/宝永の時に同じ雖然当組老若男女野にのかれ山に/のほりて死をまぬかれたり末代まても海へんの人にはいふに/不及山分たりともよく〃〃相心得覚悟不有之もの也」/被災状況の記載・心得は、さらに具体的 1
写真 吉祥院の嘉永津波流死塔
(引本の津波碑)
きっしょう 三重/(北牟婁)紀北町 吉祥院 津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
高189㎝,幅34㎝ 文久2(1862)   県石造物調査報告1p101 保存状態良好 「津波流死塔」「安政元年〔同上〕寅六月十四日大地震夫より霜月四日朝四ツ時大地/震直様津浪在中江入尚已前宝永四年亥霜月四日にかくの/変阿り後来右の変ある節ハ早速に寺江にげへき事/依之以後のため此石ふミを建置者也」/心得が中心 1
  金蔵寺の嘉永津波流死塔 こんぞう 三重/(度会)大紀町 金蔵寺 津波記念碑(花崗岩)
(伊賀地震)
(東海地震)
高44㎝,幅24㎝,厚24 安政2(1855)   県石造物調査報告1p66 保存状態良好 「津波流死塔」「嘉永第七甲寅年/霜月四日辰下刻大地/震亘巳之上刻津波入/此時貮丈余備以後大/地震有之節者火事/津波ホ可得心者也」/地震・津波災害の半年後に建立 1 -
写真 贄浦の津波供養塔1 にえうら 三重/(度会)南伊勢町 最明寺 津波記念碑
(宝永地震)
高79㎝,43㎝角 宝永4(1707) 町有形 県石造物調査報告2p68・203/町教委 保存状態良好 (正面)「大乘経」、(右面)「爲溺死亡霊菩提」、(左面)「宝永四丁亥冬十月四日/午刻大地震之後高汐漲/起當浦家不殘流失而男/女六十人計溺死也今此」、(裏面)「経塚之所迄浪到也後來/若有大地震者必可知高/浪來也爲後鑑記焉」(写真は左面) 1
写真 古和浦の津波供養塔 こわうら 三重/(度会)南伊勢町 甘露寺・墓地 津波記念碑
(蒲鉾型)
(宝永地震)
高113㎝,幅65㎝,厚52㎝ 元文4(1739) 町有形 県石造物調査報告2p65・197/町教委 保存状態良好
(正面)「三世萬霊」、(右面)「于茲宝永四丁亥十月四日未刻 大地震動海/水激發而白浪滔天簸場於陸地三丈餘矣故/怒潮到處民家一宇不殘流亡溺死之老少男/女八十餘員也到于後代若遇於如此時節則/悉可登于人人屋上之山頂焉必向當山莫退」、(左面)「來矣高潮不移時半路而多失身命此故令知/末世之兒孫斯一大事而爰觀縷誌焉云爾/元文四屠協洽暮春吉辰 當山現住/大凰/祖山謹誌」(写真は左面) 1
写真 贄浦の津波供養塔2 にえうら 三重/(度会)南伊勢町 最明寺 津波記念碑
(安政地震)
高75㎝,幅43㎝,厚47㎝ 安政3(1856) 町有形 県石造物調査報告2p68・203/町教委 保存状態良好 (正面)「供養塔」、(右面)「嘉永七年寅十一月四日巳刻大地震/又有突浪溺死者三人民家六十餘/流出破損不知數也有大地震者有/突浪古今相同後人宜知之也」(写真は右面) 1
写真 四天王寺の津波記念碑 してんのうじ 大阪/
大阪市(天王寺区)
  津波記念碑
(東海地震)
(南海地震)
  安政2(1855)   安政南海地震津波碑文の判読/WEB 四天王寺元三大師堂前無縁墓(近接移設)/周辺の墓石により一部判読不能 (東面)「(梵字5字)諸國地震及洪浪/南無阿彌陀佛/水陸横死大菩提」、(南面)「(梵字5字)、去年霜月四月五日の地震を遁ん爲に小船に乗居し輩俄の波浪湧か如く/木津川口悉の大小数船一時に川上に押寄橋を落し船を摧き漂没死人夥し/尤前日より海鳴潮の干満乱しを志ら寿して死に至るもの寔憐むへし」(緑字は石材に隠れて見えない部分)、(西面)「(梵字5字)海鳴潮の干満みだれし時は早く津波の兆と知りて難をのかれ玉ふへし」/古文書『記録帳』に「(地震、津波の惨状は)筆紙に尽し難く恐敷事に候これ追善之為天王寺元三大師前に石塔建立之事」と記述されており現位置の近くに建立されたと考えられる 3
写真 大地震両川口津浪記
(幸町の津波記念碑)
だいじしん・りょうかわぐち・つなみき
(さいわい)
大阪/大阪市(浪速区) (3丁目) 津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
(南海地震)
高189㎝,幅56㎝,厚約33㎝ 安政2(1855) 市有形 現地解説板/WEB 大正4に渡し場から大正橋東詰に移設/碑文に倣い毎年保存会によって陰刻した文字に墨が入れられている (正面中央)「南无阿弥陀佛/南無妙法蓮華經」、(同右)「天下和順 日月晴明/風雨以時 災属不起」、(同左)「願以此功徳 普及施一功/我等興衆生 皆共成佛道」、(裏面上から右側面上へ横書き)「大地震両川口津浪記」、(裏面から右側面)「干時嘉永七申寅年六月十四日子刻頃大地震、市中一統べ驚き、大屋川端にたゝずみ、ゆり直しを恐れ、四五日、心もとなふ夜を明しぬ、伊賀、大和計り人多しとなん、同十一月四日辰刻大地震前々恐れ明地に小屋懸け老少多く、小船に乗翌五日申刻大地震家くづれ、出火も有、恐敷有様漸く治る頃、雷の如くひゞき、日暮頃大浪立東堀迄泥水四尺許込入、両川筋に居合す数多くの大小船綻綱打切れ、一時川上へ逆登勢ひに、安治川橋、亀井橋、高橋、水分、黒金、日吉、汐見、幸、住吉、金屋橋等悉くづれ落、猶大道へあふるゝ水に、あはて迯まよひ右橋より落込も有、大黒橋大船横せきに成し故川下より込入船小船を下敷きに弥が上乗り懸け、大黒橋より西松ヶ鼻、南北川筋一面暫時に船山をなして、多く破船川岸の掛造り納屋等大船捍崩し、その物音人さけぶ声々急変にて、助けすくふ事あたはす忽水死せる人の夥敷、船場、島之内迄も津浪寄せ津浪寄せ来ると、上町へ迯行有様あはたゞし、今より百四十八ヶ年寛永四丁亥年十月四日大地震の節も、小船にのり津浪にて溺死人多しとかや、年月へたれば伝へ聞人稀なる故、今亦所かはらす夥敷人損いしまし敷事、限なし、後年又斗がたし都而大地震の節は津浪起らん事を兼而心得、必船に乗るべからず、又家崩れて出火もあらん金銀證文藏めて、火用心肝要也、偖川内滞船大小に応じ、水勢おだやかなる所えらみ、つなぎかへかこひ船は早く高く登し用心すべし、かゝる津浪は沖より汐込許計に非ず、磯近き海底等より、吹わく又海辺の新田畑中に泥水あまた吹上る、今度大和古市池水あふれ人家多く流しも此れ類なれば海辺大川大池の辺に住人用心有べし、水勢平日の高汐と違う事、今の人能知る所なれども充分心得且溺死追善旁有の儘拙文にて記し置、願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入たまふべし」/正面下部に蓮花台を線刻/当時の大坂は路地も狭く、広い神社などもなかったため、人々は大火の度に川船で水路に避難しており、宝永、安政両地震の際にも、地震後水路に避難し、津波の被害が大きかったとされる 2 写真
写真 擁護璽(大浜北町の津波記念碑) ようごじ 大阪/堺市(堺区) (4丁目) 津波記念碑
(伊賀上野地震)
(安政東海地震)
(安政南海地震)
高270㎝ 安政2(1855)   WEB/堺市・『擁護璽』,神から賜った璽 明治28に大浜公園に移設 (正面)「擁護璽」、(裏面)「嘉永七寅のとし六月十四日地震あらあらしく またも十一月四日朝五日夕つよくゆり動き 五日はゆるとその沖のかたおとろおとろしくなりふためき 暮なんころ俄に津浪たちて川すしへけハしく込いり 引もまたはけしく 川通りに繋し船ともハ碇綱きれ 棹さすちからたらす 矢庭に走入り そこよこゝへつきあてゝ 橋八も崩落ち 船はわれ或はつよく損して 見るおそろしさいわんかたなし 地震津波に家潰れ ぬりこめかたむきたるはさはなれと 里人ハ神社の廣庭に集りててさけ居たるか これかために一人も怪我はししたる人のなきこそいよいよめてたかりける 余所の入江川筋にハ地震をよけるに小舟に乗り家うち圓居し したりかほにありたるか 大船いやかうへ高汐のためにはせ人に敷かれて命落せしもの数知れすとや まさに川に逃途たるゆへなり ゆめゆめ地震つよく川すしへ船に乗りさける事すましきなり むかし賓永年中にもこたひにおなし地震つよく津波もあり 船に除け居て命をとらるゝもの多しとかや かかるためしもあきらかなれハ 地震つよけれハ津なみありと知るへきなり 堺の人のつゝかもなきありかたさに 産神神明宮 三村宮 天満宮にそのよろこひの幣を捧け 後の世まても患のなきを祗りて賜りしをしてを爰に祭るになん」/地震の教訓と、堺の人々の無事を神に感謝し、災いのない事を祈ってこの碑を祀る事が刻字されている 2
写真 水軒堤防 すいけん 和歌山/和歌山市   石防潮堤 長約1.4㎞,高約5.4-10.8m 18世紀後半? 県史跡 市教委/WEB 堤防上に人家や菜園が造成され荒廃 広川町の「広村堤防」、大分県の「馬場の堤防」と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例→国内最大規模(記録が一切ないためランクはAに留めた)/詳細は不明(これだけ大規模な工事にもかかわらず記録が一切残っていない)/建造年代は、下記の「復元」時の発掘調査時の陶器・古銭などにより判断されたもの 3
写真 水軒堤防
(石堤の復元展示)
すいけん 和歌山/和歌山市   石防潮堤   18世紀後半?   現地解説板 復元展示 海側に和泉砂岩の胴長石を使用→海の波にも耐える堅固な構造/陸側は急勾配で雑な石積み/内部は和泉砂岩と緑泥片岩の割石を充填 2
写真 広村堤防 ひろむら 和歌山/(有田)広川町 畠山堤防の背面 土防潮堤 長654m,高4.5m,底幅16m,天端幅2.7m 安政5(1858) 国史跡/未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選 町教委/WEB 一部改修→堤防の頂部は修景舗装され、遊歩道になっている/資料館「稲むらの火の館」が近くに設置/年1回「津浪祭」が開催 和歌山市の「水軒堤防」、大分県の「馬場の堤防」と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例/安政の大地震後、濱ロ梧陵が私財を投じ、いずれまた来襲するであろう津波に備えて、津波により仕事をなくした漁民や農民等村人を雇用し、4年の歳月をかけて築いた堤防で、この堤防により後の津波から多くの人を救ったという逸話が残る/小泉八雲がこの濱ロ梧陵の逸話を執筆・発表し、後にその作品を学校教員が凝縮したものが国語教材として利用された/堤防の下方に「畠山堤防」があり、その石垣との中間に松の防潮林が植栽されている三重構造 2 写真
写真 深専寺の地震津波記念碑(大地震津なみ心え之記碑) じんせんじ 和歌山/(有田)湯浅町 (湯浅) 津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
高265㎝(うち台石85㎝),幅62㎝ 安政3(1856) 町有形 WEB 木造の覆屋で保護 「嘉永七年六月十四日夜八ッ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより 小地震日としてゆらざることなし 二十五日頃ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ッ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 川口より来たることおびただしかりとも其日もことなく暮て 翌五日昼七ッ時きのふよりつよき地震にて 未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり 津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき 家 蔵 船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし なんといはんかたなし これより先地震をのがれんため濱へ逃 あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ 溺死の人もすくなからず すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり 行ものなれハこの碑を建置ものそかし 又昔よりつたへいふ井戸の水のへり あるひハ津波有へき印なりといへれども この折には井の水乃へりもにごりもせざりし さすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆることあらハ 火用心をいたし津波もよせ来へしと心え かならず濱邊川筋へ逃ゆかず 深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし」/当時存在した「津波が起きる時は井戸の水が減ったり濁ったりする」という言い伝えが安政元(1854)の大地震で当てはまらなかったことから、地震が起きた時は言い伝えに囚われず用心を怠らないこと、また津波時の具体的な避難経路について刻まれている 1 写真
写真 南白浜の海岸防潮林 みなみしらはま 和歌山/
(西牟婁)白浜町
  海岸防潮林 長約1㎞,幅40m 宝永4(1707)以前?   西牟婁郡南富田村郷土誌 ほとんどが近代の補植 資料には「寛永の津波の頃より、漸次樹林を伐採」との記述→寛永には津波がないので宝永の誤記と思われる 4
写真 周参見の防潮堤 すさみ 和歌山/
(西牟婁)すさみ町
  石防潮堤 長370m→約270m
,高2.4m(当時)
宝永4(1707)以降   和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告15p344-345 生活道路化/場所により石垣の保存状態に差がある(近代の改修部分も多い) 宝永の南海地震(1707)後に、周参見組大庄屋の谷三郎左衛門が租税を用いて構築/津波と日常の防潮用 2-3
写真 浜ノ瀬の津浪警告碑 はまのせ 和歌山/(日高)美浜町 (浜ノ瀬公民館) 津波記念碑
(安政南海地震)
高120㎝,幅58㎝,厚18㎝ 文久2(1862)   町教委/現地解説板 台石C接合 施主:庄屋・木村理三郎/(正面頂部)「津/浪/之/紀/事」、(正面その下)「後世もし大なる地震の時は必ず津浪起ると/心得て濱中の人々は大松原の小高き所え集り/居るべしさ阿れば高波の患へはた地震の恐れ/なかるべし船などにては遁んとすべからず諸人/此事をゆるがせに思ましきもの也/因に曰 嘉永七寅年霜月五日の大地震続/いて津浪起り来れり初め地震を避んとして舟に/乗り川内に浮び居し輩沈没せし事誠に嘆はしよ/つて後世の爲に其あらましを録し畢ぬ」(漢字、仮名、改行位置に間違いの可能性あり)/嘉永7(1854)の大地震の際に起きた事故からの教訓として、「大地震の時には必ず津波が来ると考えて、大松原のなかの高台に避難せよ、地震の避難に船は使うな」との銘文が刻まれている

2

写真 蛭子神社の百度石 ひるこ 徳島市 (南沖洲) 津波記念碑(砂岩)
(安政南海地震)
  文久元(1861) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p4 平成15移設/石材の表面劣化がひどく4面のうち2面が剥落 (正面)「百度石」、(左面)永七寅年十一月五日大イに地震ふ人ヽうろたへ木竹の根からみ/せし中へかけ込津波來ると騒く聲におとろき舟に乘しは/おし流され危きを助り又舟覆りて命を失ふも有」、(裏面)「必ふねには乘へからす家潰巨燵竃より火起り家/藏多くやけぬかゝる折はこゝろを靜め火の元に心を/つける事肝要也もゝとせ經ぬる程にはかやうの」、(右面)「震濤有と聞故こたひ氏神の廣前にもゝ度/石を建る序このよし誌侍りぬ」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 3
写真 椿町の八幡神社常夜灯 つばき、はちまん 徳島/阿南市 (浜)八幡神社 津波記念碑(2基)
(安政南海地震)
高3.63m 安政3(1856) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p9 保存状態良好/刻字は右側常夜灯台石→左側常夜灯台石と続く (右側常夜灯の台石2段目・正面)「古き代より此處に祭れる/八幡宮御廣前に大松あり/囲り二丈餘根際より一の枝へ/四間髙サ三十間に餘りぬれは/遠近是を稱譽して御國内/無類の大木と申侍りしに去ル弘/化三年丙午九月二日の夜の/大風に倒れけるはいと〱惜む/へきことなりけりのち嘉永/七年甲寅 十二月改元安政といふ 十一月四日/四ツ時地震す髙潮濱土堤を/こえ川筋奥手迠上れは人ヽ/津浪の再ひ來らんことを恐れ/豫其設をなしけるに海上靜に/なりて其日はさもなく暮ぬ/翌五日天氣快晴夕七ツ時大地震/樹木動揺して響山谷に亘り/西の方しきりに鳴て止ず酉の/刻にいたりて潮嵩見上るばかりに/來りけれは若きハ老を扶け/幼を携へあるは牛馬を驅り/器財を夯ひおのかさま〱に奔走/して周章騒動詞に盡かたし/漸く山に登りて村内を見おろせは」、(左側常夜灯の台石2段目・正面)「香の谷中村迠一面しはしか程は/海となりぬ猶其中も震動絶す/夜四ツ時大に震す諸人又ヽ潮の/變あらんことを患ひて瞬息の/間も心を安んせす且昼ゟ食せ/されは膚を侵す寒風も亦すさ/ましく覺え一夜千宵の思ひを/なして其夜をそ明しける凡此時の/變に罹るもの堤板橋ハいふもさら也/流れし家九軒浸りし家十八軒/泥土去て砂石を堆くせる田三十餘町に覃ふといへり今思ひ/合すれはさはかりの大變に氏子共乃/身にことなかりしハ此御神の冥助/にして彼巨松をして諸人の横難に/代らしめたまひしなるへし/粤に池内清壽武田嘉矩等/志を起し永く神德の威靈を/輝さまく欲して雙の石檠を/造献せんことをはかるに人/これを悦ひて力を扶け事既/成に及むてしものかたに/このことをゑりて千歳不朽に/傳ふるになむ」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
写真 豊浦神社の地震碑 とようら 徳島/小松島市 豊浦神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  江戸期?   徳島県の地震・津波碑~資料編p5 原位置? (正面)「安政といふはしめのとし霜月五日大地おほひに/震ひ高浪にひかれて死る人數をしらさりしにこの豊浦の人々/近き村々の人々はミな白楽天王のゆにハにはしり集りて難をのかれたりしハ/偏に神の守り玉ふ惠の深きなれハ後のちまてもわすれさるためしるすものなりかし」/青石を使用 1
写真 敬渝碑 けいゆ 徳島/(板野)松茂町 春日神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  安政3 (1856)   徳島県の地震・津波碑~資料編p3 原位置? (正面)「敬渝碑/維皇嘉永甲寅年/仲冬初五欲晡天/欻爾山鳴地大震/堂閣人家多倒/黄壌襞裂水洊沸/茅廬塌火忽燃/紅光數穂衝天起/海潮湧洶漲桑田/桒田既見湛似海/陵谷誰疑有變遷/火也水也或可免/唯恐地裂陥黄泉/加寒威砭肌骨/所在履氷又淵臨/未然之事無可待/八寒焦忽現前/心蕩蕩進退谷/縦有羽翼何得全/飛禽堕地走獣/展轉如簸僵且眩/禦寒無褥饑無食/或坐竹中或上船/火熾水加地愈震/囏險何物能比焉/厥明六日震漸小/人意稍佀解倒懸/乗敝偶有語恠者/一口訛言千里傳/漫言白浪滔天至/里民驚乱似絮翩/扶老幼擬避浪/陸續臨山櫛比連/門戸放開無人住/千村萬落絶炊煙/祠壇梵場及培塿/鳥合螘集幾萬千/糜粥摶食有施者/僅拯飢腸真可憐/在山數日如夢幻/遽然省悟初得還/雖還無家不傾危/茇舎草枕尚依然/十二月晦復大震/餘震踰年猶未悛/自土至相千里強/沿海漁浦洎村荘/漂家流豈殫記/洋中商船摧在岡/十圍松杉堰泛海/遠三駿路東海傍/行旅三日不火食/湖北湖南諸州荒/浪華船死以千數/失家失資多散亡/信哉徳必勝不祥/惟吾封内少死傷/希有菑異縦如此/仁明在上任賢良/有司普行賑窮惠/耕具漁具及資糧/君不見/萬國東頭日初照/赫赫皇州神封彊/神賜前鑑非無意/般樂怠敖能醸殃/朝議新宣安政令/国家張恢親民綱/愷悌君子民父母/不騫不祝無量」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1 写真
写真 鞆浦大岩慶長碑 ともうら 徳島/(海部)海陽町   津波記念碑
(慶長地震)
(岩の大きさ)高3.78m,幅約5.5m,厚4.85m 寛文4(1664)   徳島県の地震・津波碑~資料編p25 保存状態良好(古い割に、刻字がきわめて鮮明) 「敬白右意趣者人王百拾代/御宇慶長九甲辰季拾二月/十六日未亥剋於常月白風/寒疑行歩時分大海三度鳴/人々巨驚拱手處逆浪頻起/其高十来七度名大塩也/剰男女沈千尋底百余人/為後代言傳奉興之各ヽ/平等利益者必也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/上部に大きく「南無阿弥佛」と刻字/津波被害について直接言及した最古の碑/下記の「宝永碑」と同じ巨岩を光背型に削り込み、陰刻 1 写真
写真 鞆浦大岩宝永碑 ともうら 徳島/(海部)海陽町   津波記念碑
(宝永地震)
(岩の大きさ)高3.78m,幅約5.5m,厚4.85m 宝永4(1707)以降   徳島県の地震・津波碑~資料編p25 上記と同じ石に刻字されているにもかからわず、風化して判読困難 「宝永四年丁亥之冬十/月四日未時地大震乍海潮/湧出餘蕩々襄陵反覆三次/而止然我浦無一人之死者可謂/幸矣後之遭大震者豫慮海/潮之變而避焉則可」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/上記の「慶長碑」と同じ巨岩を光背型に削り込み、陰刻 2
写真 浅川観音堂の地蔵尊台石 あさかわ 徳島/(海部)海陽町 観音堂境内地蔵堂 津波記念碑
(宝永地震)
高145㎝,台石26㎝,台石幅41㎝ 正徳2(1712) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p18-19 入母屋造瓦葺の立派な木造祠内に安置された地蔵立像の直方体の台石/下半分は床で見えない (台石正面)「宝永四年丁亥十月四日晴天/日暖ナル同未刻俄大地震暫有/終テ後大海ヨリ髙サ三計ノ大汐指込/浦上村カラウト坂ノ麓迠上リ即刻/引汐ニ浦ノ中千光寺ノ堂一宇殘/有來在家不殘一軒モ海底引落/猶又流レ出ル老若男女百四拾人/余悉ク溺死仕依之右亡者/為菩提ノ此石像ノ地蔵一躰/致供養奉案地者也」/中央に「南無阿弥佛」と刻字〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 3
  浅川天神社の石碑 あさかわ 徳島/(海部)海陽町 天神社 津波記念碑
(安政南海地震)
  慶応3(1867) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p20 碑文が読みにくいため、平成6に新碑も建立 (正面)「于時安政元甲寅十一月四日辰ノ刻地震暫ゆり己ノ刻比汐狂ひ往還へ溢れ/人々驚山上へ荷物をはこび逃登リあわてあへり夫より心をくハり其夜を明す翌/五日晴天雲風なく日輪朧の如く暖なる事三月頃の如くなれバ審敷思ひ山上へ/荷物を持上るもあり又ハ前日の変ニて事濟しと思ひまち〱なる折から申ノ刻比大地震暫/有て終後大海より高サ三丈計の大汐さし込其早き事矢を射るが如し浦上カラウ/ト坂麓迄いせだ戸や山の神関迄上リ其夜汐さし込事幾度ともしれす天満宮大年/御崎三社並ニ浦三ヶ寺相残リ其余在家流失村分西ノ奥東谷人家悉流失なれ共/用心せし故村中怪我人なし永正慶長ニ両度あり又宝永四亥十月四日稲觀音/堂石像地藏尊ニ記あり宝永度迄百年前後なれともこたびハ百四十八年目也依テ後年/寒暖時候ニ背き大地震ゆる時ハ必由断すへからす後世心得のため是を建るもの也」 2
  旧熟田峠地蔵尊供養塔 ずくだ 徳島/(海部)海陽町 <熟田峠道> 津波記念碑
(安政南海地震)
高約50㎝ 不詳 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p25 簡単な木製祠内 (○面)「宝永度ゟ七寅年迠百四十八年目なり/干時永七寅年十一月四日辰刻晴天日/并よく海上浪靜穏ニして暖氣を催ふ/す事時候に背きしかるに天地震動/して大地震潮町中へ溢れ込猶また/翌五日申刻大地震并津浪之高サ/三餘も山の如くニ押來り諸人周章/あへり山上へ迯登り海辺之人家流/失野原と相成事也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 2
  西の地の貞治の碑 にしのじ 徳島/(海部)美波町 子安地蔵堂 津波供養碑
(正平南海地震)
  貞治6(1367)   徳島県の地震・津波碑~資料編p12   (正面)「延命地蔵尊」/『徳島県の地震・津波碑~資料編』では、この碑も取り上げているが、建立が下記「東由岐の康暦碑」より古いのに、わが国最古としていないのは整合性がとれない→いずれにせよ、津波記念碑ではなく供養碑なので対象外 2 -
写真 東由岐の康暦碑 ひがしゆき 徳島/(海部)美波町 (大池イヤ谷) 津波供養碑
(正平南海地震)
  康暦2(1380)   徳島県の地震・津波碑~資料編p11 下部の刻字一部不明 (正面)「道 勝禅 念性 平親宣 源春 千/宗禅 如性 祖芳 明禅 為春 是 撰 善/奨 覚英 □光 心禅 秀 平宣行 祖 訥 道/道忠 妙悟 禅 心 性 西阿弥陀仏 阿 貞/成宣 文玉 法智 宗琳 妙念 禅 浄 真 善/圓乗 如宣 智善 心 妙芳 英 圓 道 本 道/良全 明智 妙真 法 妙立 道 照 道 禅/善 清孚 了明 阿 了珠 源宣能 圓 性 道/道 如心 道 珎念 道 善 宗 道/道 滿 心 空 宗」/『徳島県の地震・津波碑~資料編』では、わが国最古の津波記念碑と位置付けているが、内容は供養碑であり、津波の被害について言及した部分は一切ない→対象外 2 -
写真 木岐王子神社の石灯籠 きき、おうじ 徳島/(海部)美波町 王子神社 津波記念碑
(安政南海地震)
高2m 嘉永7(1854)以降 旧・由岐町の准指定文化財 徳島県の地震・津波碑~資料編p13 原位置 (竿)「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震/半時之内大汐三度込入軒家流失凢四丈/余上り當宮流失明卯八月遷宮大地震/之節油断無之荒方記置」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
写真 志和岐の地震碑 しわぎ 徳島/(海部)美波町 (志和岐公民館) 津波記念碑
(安政南海地震)
  文久2(1862) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p12 移設 (正面)「去ル永七寅年霜月初四日朝五ツ/大地震不ニ汐高滿有此浦中家財/を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ/亦ヽ大地震忽ち津浪押來リ舩網納屋」、(左面)「不残沖中へ流れ失浦人漸寺又ハ山抔へ遁/登り夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸/佛の御加護也依之又ヽ幾後年ニ及大地」、(裏面)「震之節汐高滿有之ハ必定津なみ押/来ルへし其期ニ及少も為無油断荒々此/石ニ彫記長く子孫へ知せ置度而巳/法印隆鳳写之」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 2
  出羽島観栄寺の石碑 でば、かんえい 徳島/(海部)牟岐町
(出羽島)
観栄寺 津波記念碑
(安政南海地震)
  嘉永7(1854)以降 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p14 刻字判読不能 (正面)「左之通大汐之砌/御上ゟ壱人前米六宛被下置候/永七寅年十一月四日朝五大地震一時計ニ而/潮狂ヒ有之高下共貳餘同五日地震/半計而大汐来其高サ右同断出羽之嶋ハ/前日より山上リ致候事故怪我人無之相済候/是神佛之御守有ルニ依而也後ヽニ至ル迠/信心怠ル事不可有也」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕/旧碑の刻字が判読できなくなったため昭和3に新碑を設置したくらいなので、建立は恐らく地震直後 3
  妙法寺の庚申塔 みょうほう 徳島/(那賀)那賀町 妙法寺 津波記念碑
(安政南海地震)
  安政5(1858) 国登録 徳島県の地震・津波碑~資料編p5 保存状態良好 (右側)「青/正面金一躰昔宝暦九夘四月造之/然処去ル嘉永七刁十一月五日大地震二付/尊形依之安五午春再興之」〔緑字は、WEBで表現不可能な字を、意味の近い別字で代替した〕 1
写真 仁井田神社の玉垣碑 にいだ 高知/高知市 仁井田神社 津波記念碑
(花崗岩)
高62㎝,21.5㎝角 安政4(1857)   南海地震の碑を訪ねてp104 原位置 (正面)「嘉永七寅十月末ゟ潮/くるい同十一月四日朝すヽ/なみ入同五日七ツとき過」、(左面)「大地震まもなく大潮/入向々潮くるい候時ハ/ゆ多んすへから須」 1
写真 稲荷神社の石柱碑 いなり 高知/高知市 (うらど)稲荷神社 津波記念碑(円柱、花崗岩) 高278㎝(うち台60cm),幅38㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp106 大正頃に現在の場所に移設 (正面)「安政元寅十一月五日大地しん津浪/後卋人大地しん有時津浪入と心/得へし 大黒屋嘉七良 建之」/紀年銘は最初に鳥居を寄進したときのもの。大黒屋嘉七郎は安政の地震で倒壊した稲荷神社の鳥居を貰い受けて碑文を刻み稲荷坂の越戸に建立。/赤い染料で刻字 2
写真 夜須観音の山 やす 高知/香南市 観音山 津波記念碑
(灰色褐色砂岩)
高160㎝,幅118㎝,厚50㎝ 嘉永7(1854)   南海地震の碑を訪ねてp94 原位置 (正面)「奉納延命十句観音經一百万邊也/附たり大変津波の記去る嘉永七寅為萬民安全長久/十一月四日早朝より地震致し夫より大潮一日ニ七十八度の/狂有之衆人只不思義と怪ぶ斗也翌五日晴天ニして/暑さ夏炎の如く同日夕七ッ時大地震天地も崩るゝ如く/老若男女大ニ驚蚊の鳴如く騒き立同日入頃一番波打/入り當西町ゟ東へ打流し諸人是又驚有合之食物着/用手毎ニ引提け此山上へ持運数百人相助り実ニ當山は/命山と永賞致す也二番波少し波間有之其時大/汐沖へ引取事二三十町斗夫より三番波狂之/五ツ時打入り一度ニ家蔵流失致す跡白濱と/相なり目も當てられぬ如く也旦註し/天変有間式事斗かたく/宝物家ニ残す共再我/家に帰るへからす/必ず」(緑字は異体字) 1
  西山観音寺の地蔵台座碑 にしやま 高知/香南市 西山観音寺 津波記念碑(淡灰色花崗岩) 高68㎝,幅37㎝,厚33.5㎝ 安政3(1856)   南海地震の碑を訪ねてp93 保存状態良好 (右面左端)「津波入此㕝印」 1 -
写真 飛鳥神社の徴毖 あすか、
ちょうひ
高知/香南市 (岸本)飛鳥神社 津波記念碑(自然石、灰色砂岩) 高217㎝,幅163㎝,厚80㎝ 安政5(1858)   南海地震の碑を訪ねてp96 保存状態良好 (正面上段横書き)「徴毖」、(正面下段縦書き)「諺に由断大敵とハ深意あることにて仮初ニ/おもふへからす安政元寅年十一月の事なりき朝五時/頃常に覚へむ程の地震して岸本の浦塩のさし引き十/間余の違あり又手結の湊内も干揚りて鰻をうることなと/夥し同日両度小震するしかハあれとさはかり驚く人もあらさり/しを翌五日八時過大に振動すること三度七時過/大雷鳴の如きどろ〱と 響くとひとしく大地 震すこハ/いかにと衆人驚く程こそあれ家蔵高塀器 物の崩れ破る﹅/音さらニいふ斗なし迯んとすれとも目くるめ きて自由ならすほう〱/家を出けるに津波打来りて當地は徳善 甼より北の田中赤岡ハ/西濱並松の本吉原ハ庄屋の門まてに及ひ又川尻の波ハ赤岡/神輿休のほとりまてにいたり古 川堤夜須堤も押切られて夜須の/町家なと過半流失すかくて人〱ハ老を扶け幼を携へ泣叫ひつ﹅/王子須留田又ハ平井大龍 寺の山へと逃登りて命助かりぬ此時國/中の官舎民屋夛く轉倒し 就中髙知下町幡夛中村ともに/失火ありて一円焼失し凢て怪我 横死何百人といふ事なし幸甚な/るかな此地ハ 神祗の加護によりて一人の怪我もなく彼山〱ニ/己家をかまへ日を経るに随ひて震もいさゝか穏に成しかハ惠あまねき大御代/の忝を悦つ﹅皆己か家に帰りきぬ抑宝永四年の大變ハ今をさること/百四十八 年になりぬれハ又かゝる年敉にハ必變事の出こん/なといふ人も ありなめと世變は/いつあらん事/豫めしりかたし/されと常ニ/菟あらん時は角と用心せハ/今其變にあひても/狼狽せさるへし/今の人々 寶永の變を昔はなしの如く/おもひて既に 油断の大敵にあひぬさるによりて/後世の人々今の變事を又昔咄の如くおも/ひて油断の患なからしめんためことのよしを石ニゑりて此/御社と共に動きなく萬歳に後に傳へんとふるひおこ/したるハ里人が誠心のめてたき限りにそありける 千規/たま〱高見の官舎に袛役して 倶に彼の變/事に逢いたれハ其よし書て よと人々の乞ふニまか/せてかくハ記し待りぬ穴賢/安政五年戊午季秋穀旦 徳永千規 誌/前田有稔 書/澤村虎次 刻」/宝永地震の言い伝えを昔話として油断したために、大きな被害が出たことを後世への戒めとしてこの碑を造ったと書かれている/石の凹部の曲面にまで掘り込まれているため正面から見ただけでは全文を知ることはできない 1 写真
写真 下田住吉神社の震災碑 しもだ 高知/四万十市 (水戸) 津波記念碑
(褐色砂岩)
高77㎝,幅85㎝,厚26㎝ 安政6(1859)   南海地震の碑を訪ねてp122 刻字が磨耗して読解困難 (正面)「安政元/地震潮□□□□□□□/ころ大地震凢一時斗り/□□□□□し人いたみ/浪入□□□□□□凢二町歩大/□□□□□□□□□□/又潮の狂ひを遣置るへし右□□後世心得/ため□□爲す尚くわしき/住吉社内に納 筆記/安政六未四月日」 3
写真 須崎寶永津浪溺死之塚 すさき 高知/須崎市 大善寺墓地の下の道路際 津波記念碑
(灰色砂岩)
高238.5㎝ 安政3(1856)   南海地震の碑を訪ねてp112 保存状態良好 (正面)「寶永津浪溺死之塚」、(左面)「此塚ハ昔寶永四年丁亥十月四日大地震して津浪起り須崎の地にて/四百餘人溺死し池の面に流れ寄り筏を組か如くなるを池の南地に長き坑を/ニ行に掘り死骸を集め埋め在しを今度百五十年忌の弔に此處に/改葬するもの也其事を営まんとする折しも安政元年甲寅十一月/五日又大ゆりして海溢しけるか昔の事を傅聞且記録もあれハ人ヽ思ひ當りて/我先にと山林に迯登りけれハ昔の如く人の損しハ無りし也惟其中に舩に/乗り沖に出んとして逆巻浪に覆され三十餘人死たり痛ましき事也」、(裏面)「何なれは衆に洩て斯ハせしそと云に昔語の中に山に登り落くる石にうたれ/死し沖に出たる者恙なく帰りしと云事の有を聞誤認しもの也/早く出て沖にあるハしらす其時に当りて船出することハ難かるへし誡むへき/事にこそ将昔の人ハ地震すれハ迚津波の入る事を弁へず浪の高く/入來るを見るよりして迯出たれハおくれてかたの如き難に逢り哀/にも又悲まさらんや地震すれハ津波は起るものと思ひて油断ハすまし/き事なりされとゆり出すや否浪の入るにも非す少の間ハあるもの」、(右面)「なれハゆりの様を見斗らひ食物衣類等の用意して扨石の落さる高/處を撰ひて遁るへしさり迚高山の頂迄登るにも及ハす今度の浪も古市/神母の邊ハ屋敷の内へも入らす昔も伊勢か松にて敉人助かりしといへハ津浪/とてさのみ高きものにも非す是等百五十年以來二度迄の例しなれハ考にも成/へきなり今茲此営を成すの印旦後世若斯る折に逢ん人の心得にもなれ/かしと衆議して石を立其事をしるさんことを余に請ふ因て其荒増を/挙て為に書付る者也 安政三年丙辰十月四日古屋尉助識」 1
写真 須崎大善寺の津野地蔵台座碑 すさきだいぜん、つの 高知/須崎市 大善寺 津波記念碑
(淡褐色花崗岩)
高161㎝,幅76㎝,厚75㎝ 元文4(1864)   南海地震の碑を訪ねてp116 移設、集約? (正面)「三界萬霊塔」、(左面)「寶永四丁亥年十月初四日大地震/加之洪波泝岡處多水災此洲﨑/邑亦須叟可憐爲荒原鳴呼時耶/業感耶溺死者男女始三百三十有」、(裏面)「一人爭先者亦入其數矣是歳當于/三十二年爲資於如上若干諸霊之/無上菩提於當邑扽鉢勸化經數月/以地藏大士慈容ニ尊造立之者也/伏願法界自他平等者也利益」 2
写真 萩谷名号碑 はぎたに 高知/土佐市 萩谷 津波記念碑
(灰色砂岩)
高130.5㎝,幅133
㎝,厚153㎝
安政4(1857) 市史跡 南海地震の碑を訪ねてp108 保存状態良好 (正面)「南無阿弥陁佛/安政元甲寅歳十一月五日申の刻大地震日入/前より津浪大尓溢れ進退八九度人家漂流/残る家僅六七十軒溺死能男女宇佐福島を/合而七十餘人なりき都て宇佐の地勢ハ前高く/後低く東ハ岩崎西江福島の低ミより汐先迯/路を取巻故昔寶永の変丹も油断の者夥/敷流死能由今度も楚能遺談越信じ取あへ/須山手へ逃登る者皆恙なく衣食等調度し又ハ/狼狽て船尓のりなとせるハ流死の数を免連須/可哀哉其翌日ハ御倉開希て御救米頂戴し/凍餓尓至るものなく誠ニ難有 御仁沢下り希れ/ハ後代の変丹逢ふ人必用意なくとも早く山/の平らなる傍尓岩な幾所を択ひて逃よ可し且流失/能家材衣服等拾ひ得し人暫時内福尓似堂れとも間/もなく流行の悪病ニ染ミ悉皆なくな利しを眼/前見聞し多ると越告残し殊ニ両変溺死の人能/菩提越弔ん為尓登衆議志て此碑を立る/も能と云爾 安政丁巳十一月 卥邨畊助識」 1
  青龍寺国家繁栄碑 しょうりゅう 高知/土佐市 独鈷山青龍寺・石段下 津波記念碑
(灰色硬質砂岩)
高75.5㎝,幅48.5
㎝,厚26㎝
文久3(1863)   南海地震の碑を訪ねてp110 保存状態良好 (正面)「嘉永七寅十一月五日申の時古今稀る、地震ありて城下を初め/郷村浦ヽ燒亡流損多し、/龍浦津浪池にたゝへ長衣衆の家一の汐になかれ二の汐に元の/礎にかへる皆家に不動尊の 御軆をあつかりけるゆえに/加護のなす處と今ミな不思儀思を成す/國家繁栄衆力一躰/爰に前の院主海法印雁木の破壊を修せんと/公に達せしか許したまふといへともならすして世を去り/たりとて志をつきて長男小女ニ至まて進めて石を運/功なり願なりぬ/文久三癸亥/正月日 某」 1
写真 清水中浜峠の池家墓碑 しみず、
なかのはま
高知/土佐清水市 中浜峠・共同墓地 津波記念碑
(灰色砂岩)
高97㎝,幅90㎝,厚85㎝ 安政2(1855)   南海地震の碑を訪ねてp125 移設、集約 (正面)「嘉永七年寅十一月五日申ノコク大地/南無阿弥陀佛/震静否浦々大潮入流家死人夥シ」、(左面)「前日ヨリ潮色にごり津波入並ニ井ノ水/にごる或ハ干かレル所モ有兼テ心得ベシ/是時諸人之悲歎盡言語仍而爲/後世謹建之中濵浦池道之助清澄」、(裏面)「于時安政二年/乙卯三月建之/池先祖墓所」、(右面)「寶永四年亥十月四日未ノ刻大地震静否浦々/大潮入コト三度流家死人夥シ翌子ノ年/中少々ノ地震タヱス大地しんの時火ヲけし/家ヲ出ルコト第一也家にしかれ焼死者多」/墓石の欠損部分は池家に残る『今昔大変記』文中に記載されていたものから推測 2
写真 清水中浜港の地震碑 しみず、
なかのはま
高知/土佐清水市 ジョン万次郎記念碑・後 津波記念碑
(灰色砂岩)
高93.5㎝,幅62㎝,厚59㎝ 安政2(1855)   南海地震の碑を訪ねてp124
/WEB
移設 (右面)「嘉永七甲寅十一月大地震靜否大潮四/五度入ル高サニ二丈斗リ諸國人多死ス」(正面)「安政ニ夘亗/浦中安全講中/吉日」(左面)「翌夘ノ年中少々ノ地震不絶」(下段)「中之/濱浦」 2
写真 三崎十字橋碑 みざき 高知/土佐清水市 三崎浦 津波記念碑
(褐色砂岩)
高187㎝,110㎝角 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp126 原位置? (正面)「十字橋」、(右面)「嘉永七寅十一月五日大地震/宮崎林右エ門/否大汐火けし家出コト、第一也/同苗友三郎」 1
  三崎浦震災供養石仏 みざき 高知/土佐清水市 三崎浦 津波記念碑
(灰褐色砂岩)
高127㎝,幅58㎝,厚83㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp127 原位置? (北側の像の右側)「嘉永七甲寅/十一月五日七ツ時大地しん/直に大汐入川東路田中/のよこ道西路たか佛道限」 1
写真 五味八幡宮の地震碑 ごみ 高知/土佐清水市 下ノ加江 津波記念碑 高95㎝,幅47㎝,厚17㎝ 江戸期   四国災害アーカイブス 移設(昭和31 トンネル工事のため) (正面)「頃ハ永七寅年十月与里潮久るひ/十一月四日すなみ來り五日大地志ん/間もな久大志本入來る向潮/久るひ候時ハ大へんと古侶に/用心すへし」(緑字は異体字) 2
写真 久礼熊野神社の震災碑 くれ 高知/(高岡)中土佐町 熊野神社 津波記念碑
(灰色硬質砂岩)
高99㎝,幅61㎝,厚60㎝ 江戸期   南海地震の碑を訪ねてp118 移設? (右面)「寶永/長沢ミドノコエ/四日亥年ツナミ大坂ユノ浦/大川ユツメシヲ入百四十八年/ぶり」、(正面)「維時安政元甲寅年/十一月五日震午后五時潮/立漲入中道一丈二尺村/中札塲下町通流出/上 シリ日ノ川松ノ川シヲ入/七へん入」、(上面?)「白鳳十三年/寅十月十三日/黒土のこをりヲチ入」 2
写真 入野松原 いりの 高知/(幡多)黒潮町   海岸防潮林(黒松) 長4㎞ 天正年間初頭(1575-80)→宝永4(1707)以降補植 国名勝 WEB 補植が多い 砂洲上に生えた松の自然林→長宗我部元親の重臣・谷忠兵衛忠澄が罪人を用いて補植→宝永4の津波後に、各戸あたり野生の黒松6本を植えさせて高潮に備えたと伝えられる 3
写真 加茂神社の震災碑 かも 高知/(幡多)黒潮町 (入野)加茂神社 津波記念碑(灰色砂岩) 高170㎝,幅180㎝,厚60㎝ 安政4(1857)   南海地震の碑を訪ねてp120 苔が生えており、刻字判別不可 (正面)「嘉永七甲寅の歳十一月四日昼微々の振動有/潮海漘に流れ溢る土俗是を名て鈴浪と云ふ/是則海嘯の兆也其翌五日朝土俗海漘に望に満眼/の海色洋ヽとして浪静也欣然として家に帰る平素の業を事/とす時に申剋に至て忽大震動瓦屋茅屋共崩家と成満に眼に全/家なし氛埃濛々として暗西東人倶に後先を争ふて山頭に登山/上より両川を窺見るに西牡蛎瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是則海/〔消の真ん中に⻖〕也最潮頭緩ゝとして進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして/實に膽を冷す家の漂流する事数を覺す通計に海潮七度進退す初夜/に至て潮全く退く園は沙漠と成田疁更に海と成る當時震動すること劇く/曾聞寶永四丁亥年十月四日も同然今に至て一百四十八年今此石此邑/浦の衆人労を施して是を牡蛎瀬川の邉より採て此記を乞来是を/後人に告かためならん鈴浪果して海嘯 入野/の兆なり向来百有四餘年の後此言を 村 若連中/知るへき也 野並晴識 浦/安政四年/丁巳六月朔」 2
写真 伊田海岸の震災碑 いだ 高知/(幡多)黒潮町 伊田真磯 津波記念碑
(淡褐色花崗岩)
高204㎝,幅172㎝,厚179㎝     南海地震の碑を訪ねてp119 移設 (正面)「安政元甲寅十一月四日春々/奈み來五日七ツ頃大ぢ/志ん大しお入浦一同リウ/しつ是ゟさき百四十年/ゟ五十年まで用心春べ志/爲後卋 記之/松山寺住/文瑞/自作」(緑字は異体字)、(右面)「すゝなみきたるときハ/ふね十丁ばかりおきへ/かけとめ申事甚よし」 2
写真 福田の千本松原 ふくだ 長崎/長崎市   海岸防潮林 長約1.4㎞(当初) 元文元(1736)   WEB(みさき道人) 植樹後120年の安政4(1857)には162本、昭和5には80数本、昭和25にすべて枯れ、補植の松も少ない 福田の地頭・福田長兵衛兼明が津波の波除けとして田子島~崎山まで植樹したとされる/宝永地震(1707)による津波被害を受けたものと推測できる/津波除けの防潮林は、現在判明している限り、他には和歌山県にしか存在しない 4
写真 馬場の堤防 ばば 大分/佐伯市 佐伯鶴城高校グラウンド南西縁・道路沿い 津波防潮堤
(土手)
長230m 享保4(1719)   市教委 松は建造当初のものが昭和期に枯れたため補植/石垣は後補の可能性(元文3(1738)の絵図には石垣が描かれていあに) 和歌山県の「水軒堤防」(18世紀後半?)、「広村堤防」(安政5(1858))と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例/市内には宝永4(1707)に同じ目的で大土手が造られ、安政地震の際の津波に効果のあったことも知られているが、現存していない(佐伯藩第6代藩主・毛利高慶の命で短期間で構築 3
写真 津波大石 つなみ、
うふいし
沖縄/
石垣市 (石垣島)
崎原公園 津波石 長径12.8m,短径10.4m,高5.9m 約2000年前 国天然 WEB 公園内/石の上に一面に木が生えている 日本最大の津波石(津波によって打ち上げられた石)/炭素14等による年代測定により約2000年前の先島津波により現在地に移動したことが判明/明和大津波では移動しなかったが回転した可能性は指摘 1 写真
写真 バリ石   沖縄/
石垣市 (石垣島)
伊原間の海岸 津波石 長径9.0m,短径7.0m,高3.9m 1771年 国天然 WEB 海岸の砂浜にごく近い海の中 炭素14等による年代測定により明和の大津波に由来する津波石であることが確定 2
写真 安良大かね(イファンガニ) やすら、うふ 沖縄/
石垣市 (石垣島)
平久保の海岸 津波石   1771年 国天然 WEB/市教委 海岸の砂浜 『奇妙変異記』に、「安良村ゟ子之方伊波泊与申所ニ弐間角程鉄之様なる石有/但、此石俗ニ安良大かね与唱、元来同所之浜ニ有来候処、大波ニ三拾間余子方ニ引流置申候」と記されている 1
写真 あまたりや潮荒1 すうあれ 沖縄/
石垣市 (石垣島)
  津波石   1771年 国天然 WEB/市教委 サトウキビ畑内/草で覆われて石肌が見えにくい 『奇妙変異記』に、「桃里村之内いなふ田与申所ニ三間角之海石弐ツ有ル/但、此石弐ツ共俗ニあまたりや潮荒与唱、元来仲与銘之内、あまたりや与申浜ゟ三町程沖之方ニ有来候処、大波ニ根ゟ引越し、浜ゟ弐町余陸ニ寄揚置申候」と記されている 2
写真 あまたりや潮荒2 すうあれ 沖縄/
石垣市 (石垣島)
国道390号沿い 津波石   1771年   WEB/市教委 草で覆われて石肌が見えにくい 同上(指定は受けていないが、価値は変わらない) 2
写真 とふりやの高こるせ石   沖縄/
石垣市 (石垣島)
とふりや 津波石   1771年 国天然 WEB/市教委 牧場の一角にブロック塀や石積みの延長として使用→外側からのみ見学可 『奇妙変異記』に、「大浜村ゟ卯方六町五拾八間、大浜津口北之端ニ四間角程之石有、同村ゟ子下中四町四拾八間とふりや与申所ニ同程来之石有ル/但、此石弐ツ共俗ニ高こるせ石与唱、元来こるせ御嶽之中一所ニ並立在来候処、大波ニ各弐ツ所ニ引流置候事」と記されている 3
写真 登野城まつむとぅ家の津波石

とのしろ

沖縄/
石垣市 (石垣島)
  津波石   1771年   WEB(みさき道人) 民家敷地内 明和の大津波に由来する津波石 3