ページの先頭へ
宮城県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
落合の題目塔道標
おちあい
仙台市(青葉区)
落合橋
<関山街道・定義街道>
石道標
(自然石、安山岩)
元文2(1737)
WEB
近接移設
(正面右端)「右ハ 大くら」、(同左端)「左ハ あやし」/正面中央に「南無阿弭陀
仏
(
仏
は人扁に右上が西、右下が目)」と陰刻
1
C
郷六の題目塔道標
ごうろく
仙台市(青葉区)
<定義街道>
石道標(自然石)
元文3(1738)
WEB(高倉淳の宮城郷土史・分室)
(正面右端)「右ハ 大くら」、(同左端)「左ハ あやし」/正面中央に「南無阿弭陀
仏
(
仏
は人扁に右上が西、右下が国)」と陰刻、その下に蓮の花の陰刻
2
C
上愛子の題目塔道標
かみあやし
仙台市(青葉区)
石道標(自然石)
宝暦4(1754)
WEB
近接移設
(正面右端)「右ハ さかの下道」、(同左端)「左ハ ふたくち道」/正面中央に「奉稱彌陀寶號」と陰刻
1
C
下愛子の題目塔道標
しもあやし
仙台市(青葉区)
(二本松)<定義街道>
石道標(自然石)
宝暦9(1759)
WEB
(正面右端)「右ハ 大蔵通、(同左端)「左ハ 愛子通」/正面中央に「南無阿彌陀
仏
(
仏
は人扁に右上が西、右下が国)」と陰刻
C
大倉の馬頭観音道標
おおくら
仙台市(青葉区)
(荒沢口)
<定義街道・芋沢街道>
石道標(自然石)
明和元(1764)
WEB
「左(右?)ハあら沢道/右(左?)ハ大倉口」/正面に「馬頭観音」と陰刻
C
大倉の馬頭観音像道標
おおくら
仙台市(青葉区)
(堰の沢)<定義街道>
石道標(自然石)
明和4(1767)
WEB
「志やぶのま道(菖蒲沼)ふくおか道/右ハ同村内やごめ上下までの道」/正面に馬頭観音像を陽刻
C
芋沢の題目塔道標1
いもざわ
仙台市(青葉区)
(大竹新田)
<定義街道・芋沢街道>
石道標(自然石)
安永6(1777)
WEB
「右ハ芋沢
□□
道/左ハ大くら上下道」/正面中央に「己待供養」と陰刻
C
芋沢の題目塔道標2
いもざわ
仙台市(青葉区)
(大勝草上野原)
<定義街道>
石道標(自然石)
天明2(1782)
WEB
「右ハ大くら道/左はおかつ草道」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻
C
赤坂の題目塔道標
あかさか
仙台市(青葉区)
<定義街道・畑前街道>
石道標(自然石)
天明6(1786)
WEB
「右ハ畑前/左ハ大くら」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻
C
芋沢の馬頭観音像道標
いもざわ
仙台市(青葉区)
(大勝草上野原)
<定義街道>
石道標(自然石)
寛政12(1800)
WEB
(右面)「右ハ 大くら」、(左面)「左ハ 大がそう」/正面に馬頭観音像を陽刻
C
芋沢の子安地蔵道標
いもざわ
仙台市(青葉区)
(青野木)<定義街道>
石道標(自然石)
文化2(1805)
WEB
「右 上下二り二十三丁」/正面に子安地蔵を陽刻
C
赤坂の馬頭観音像道標
あかさか
仙台市(青葉区)
<定義街道・畑前街道>
石道標(自然石)
文化2(1805)
WEB
「左上下大くら道」/正面に馬頭観音像を陽刻
C
作並の馬頭観音道標
さくなみ
仙台市(青葉区)
(滝の上)<定義街道>
石道標(自然石)
弘化3(1846)
WEB
「左 上下道」/正面に「馬頭観世音」と陰刻
C
大倉の題目塔道標
おおくら
仙台市(青葉区)
(堰の沢)<定義街道>
石道標(自然石)
弘化5(1848)
WEB
「右ハ白石エ 二り/左ハ上下エ 一り」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻
C
赤坂の道標
あかさか
仙台市(青葉区)
<定義街道・畑前街道>
石道標(自然石)
安政4(1857)
WEB
「左 ぢやう義道/是よ里三り五丁」
C
作並の道標
さくなみ
仙台市(青葉区)
(滝の上)<定義街道>
石道標(自然石)
安政4(1857)
WEB
「左 ぢやうぎ道/
□
是より十六丁」
2
C
芋沢の題目塔道標3
いもざわ
仙台市(青葉区)
那禰神社
石道標(自然石)
安政4(1857)
WEB
移設
(正面右下隅)「右 白石」、(同左下隅)「左 大倉」/正面中央に「己待供養」と陰刻
2
C
郷六の道標
(仙代庵回文入り定義道標石)
ごうろく
仙台市(青葉区)
<定義街道・作並街道>
石道標(笠付き)
安政6(1859)
WEB
一時所在不明→原位置付近に再建立
(正面)「従是、右 定義道 四里廿一丁/左 二口街道 作並街道」/右面に「廻文、みな草の 名は百としれ 薬りなり/すぐれしとくは 花のさくなみ」と陰刻
2
B
四ツ谷堰
(四ツ谷用水)
よつや
仙台市(青葉区)
広瀬川
用水路
長41㎞,幅90㎝,深60㎝
元禄元(1704)
市教委/佐藤昭典
ほぼ暗渠化、一部がC改修の開渠/工業用水路として利用
事業主:伊達政宗、開削:川村孫兵衛/城下町を貫流し、生活用水として用いられていた
3
B
川崎潜穴
よつや
仙台市(青葉区)
広瀬川/川崎堰
素掘トンネル
(水路)
長84m
寛文年間(1661-72)?
WEB
現役使用
仙台のほとんどの潜穴は凝灰岩を掘り抜いているがこの潜穴は固い岩盤を貫いている
3
C
放山潜穴の煙出し
はなれやま
仙台市(青葉区)
広瀬川/四谷堰
素掘トンネル
(水路)
長約400m
弘化5(1849)
柵があってほとんど何も見えない
松明の煙り出しの他、酸欠防止、土砂の排出のために掘られた/四ツ谷堰の3番目の潜穴
4
C
実沢の地蔵道標
さねざわ
仙台市(泉区)
石道標
宝暦13(1763)
WEB
移設?
「右ハ、祢のしろいしむら/川さき阿みだ、道/左ハ、たなかむらより/をうくらまで、道/同定ぎ」/正面上部に地蔵尊を陽刻
2
B
朴沢堰の陸堀
・跡
ほうざわ
仙台市(泉区)
長谷倉川
用水路
残存部総延長約520m
江戸期
WEB(潜穴探訪記)
現在の水路の北川と沢の両側に水路跡が残存/沢は現在はパイプで渡している
深い沢の両側に水路跡があるためサイフォンによって沢を渡していたと考えられている
3
C
兎口堰の潜穴
うさぎぐち
仙台市(泉区)
要害川
素掘トンネル
(水路)
長約214m,狭間:高1.5m,幅1.5m
安永2-9(1773-80)以前
WEB(潜穴探訪記)
出口付近は土の堆積により非常に狭い
約300mの水路が続いている
2
C
萱場堰の潜穴
かやば
仙台市(泉区)
萱場川
素掘トンネル
(水路)
長約200m,
入口
:高1.5m,幅1m,
出口
:高1.8m,幅1m
安永2-9(1773-80)以前
WEB(潜穴探訪記)
現役使用/取水口はCカルバート化
農業用水だが、昭和14年頃までは生活用水としても使われていた
2
B
福岡大堰の潜穴
ふくおか
仙台市(泉区)
七北田川
素掘トンネル
(水路)
長約475m,高約1.6m,幅約1m
嘉永3(1850)
WEB
取水口は昭和期にC改修/昭和54の地震で一部崩落
施主:南部吉助/潜穴から水路が続き、サイフォンで小川を渡っている
1
B
諏訪堰の潜穴
すわ
仙台市(泉区)
七北田川
素掘トンネル
(水路)
長504m→97m,幅76㎝,高1.2m
安政5(1858)
WEB(潜穴探訪記)
入口から第三の狭間付近までは崩落/第三の狭間付近から出口までを川からのポンプアップにより現役使用
当初の取水口は現在の300m上流にあったが、砂利採取による水位低下のため取水できなくなった
3
C
大原一里塚
おおはら
仙台市(太白区)
<二口街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
北塚のみ/形が崩れている
3
-
長町の題目塔道標
なが
仙台市(太白区)
(4丁目)
石道標(自然石)
享保12(1727)
WEB
移設、集約
(正面右)「右ハ もがみ道」、(同左)「左ハ 江戸道」/正面中央に「南無阿彌陀佛」
3
-
杉土手
すぎどて
仙台市(太白区)
鹿除け土手
推定東西約6.4㎞→
旧期
:高約1.8m,幅約3.5m,
新期
:高約2m,幅約6m
江戸中期以前
WEB
住宅地の中に埋没するように残る
東西約6.4㎞に渡って名取川から広瀬川までの丘陵麓に築かれていたと推定されている。
3
B
岩切の道標1
いわきり
仙台市(宮城野区)
<塩竈街道・松島街道>
石道標(自然石)
安永3(1774)
WEB
原位置?
(正面)「従是、右ハ 志本かまミち/左 ま川しまミち」、(正面右下隅)「是より 一り二十五丁」、(同左下隅)「是より 三り二十七丁」
1
C
岩切の道標2
いわきり
仙台市(宮城野区)
<塩竈街道>
石道標(自然石)
弘化2(1845)
WEB
台石の上に再設置された可能性
(正面右上に小さく)「向右)、(正面)「青麻道」
2
-
原町苦竹の道標
はらのまち、にがたけ
仙台市(宮城野区)
<塩竈街道・八幡街道>
石道標(安山岩)
高165㎝,30㎝角
嘉永6(1853)
市有形
市教委
原位置?
(正面)「西 御城下」、(同下部)「二十六丁」、(右面)「南 長甼、宮城野/以てふ、道」、(左面)「北 塩可満 松嶋」(=塩釜)、(同下部)「六里十五丁/三里十九丁」、(裏面)「東 八幡八満ん 七者満」(=七浜)、(同下部)「二里六丁/ 四里廿四丁」
1
B
蒲町の題目塔道標
かばのまち
仙台市(若林区)
石道標(自然石)
天保6(1835)
WEB
「右ハ、
□
く井村/あら浜/
□
□
□
村/左ハ、い
□
井/六丁の目/
□
が田村」/正面に「南無阿彌陀佛」と陰刻
2
C
上飯田の題目塔道標
かみいいだ
仙台市(若林区)
石道標
天保年間(1830-43)
WEB
移設
「右ハ(写真判読不能)/左(写真判読不能)」/正面に「二十三夜塔」と陰刻
3
B
六郷掘
ろくごうぼり
仙台市(若林区)
広瀬川
用水路
長3150m
寛永年間(1624-44)?
WEB/市教委
C改修及び親水公園化
農業用水、生活用水と共に、若林城の堀としても機能していた
4
C
七郷堀
しちごうぼり
仙台市(若林区)
広瀬川
用水路
長1.6㎞
寛永5(1628)
市教委/WEB
C改修及び親水公園化
伊達政宗が抱えていた染師達に七郷堀を利用させていたため、水が藍染を洗うことにより青くなり、藍染川と呼ばれた/その他、農業、防火用水にも使われた寛文・延宝期にはほぼ利用可能になっていた
3
C
万石浦の永代灯
まんごくうら
石巻市
<水戸街道>
石常夜灯
文化10(1813)
<市有形>
市教委/WEB
火袋は恐らく更新
→
2011.3.11の東日本大地震による津波で、
最下段の台石を除き石材の大半が滅失
金華山までの海の里程が刻まれている/総石造り=石組が見事
5
B
袖の渡り
そでのわたり
石巻市
住吉公園<金華山道>
渡し場
江戸期
市教委/WEB
保存状態は良い
→
2011.3.11の東日本大地震による津波で、かなりの損傷→松は枯れ、新堤防でアクセスできず
(対比写真参照)
奥の細道曽良旅日記に記載あり/水が巻きながら流れる姿から「巻石」と名づけられた岩がある
3
A
金華山道
きんかさん
石巻市
道路
近世?
市教委/歴史の道・金花山道
牡鹿半島に数ヶ所残存
金華山対岸の半島部まで続く金華山の参道
3
C
青木定盤
じょうばん
石巻市
素掘トンネル
(水路)
長約170m
天保年間(1830-43)
岩屋隆夫
C改修
出来川上流域の排水を定川流域へと排水するために、丘陵下で開削された排水隧道/排水量を絞る構造は不変(青木制水門が建設されている)
4
C
渡波塩田跡地
わたりのは、しおだ
石巻市
江戸初期
WEB
舟を借りるしかアクセスできない
→2011.3.11の東日本大地震による津波で水没
菊地与惣右衛門/下総の行徳塩田の技術を導入して開拓した塩田/領内での塩の自給自足を目指した仙台藩の4ヶ所の入浜式塩田中、最大のもの
5
B
和淵の狭窄部
わぶち
石巻市
付替え(狭窄化)
長200m,幅100m
寛永3(1626)
洪水と治水の河川史p82
基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性)
事業主:伊達政宗、普請奉行:川村孫兵衛重吉/政宗による北上川の2期目の改修工事の枢要=江合川の合流地点より上流を遊水地とするための工夫(下流側の洪水防御が目的)
2
月浦の南蛮井戸
つきのうら
石巻市
井戸
慶長18(1613)以前
WEB
保全的整備
仙台藩の慶長遣欧使節船に関係した南蛮人が使っていたとされる井戸/使節船サン・ファン・バウティスタ号の飲料水もこの水が積み込まれたと伝えられている
2
B
木曳堀
(貞山堀)
(広浦~阿武隈川)
こびきぼり
(ていざん)
岩沼市・名取市
貞山運河?
①運河??
、
②干拓遊水地
③塩抜き水路
延長12.4㎞,
幅25m
①慶長6(1601)頃
②慶長16(1611)以前
③慶長16(1611)以降
市教委/WEB
大規模修復(明治期に拡幅:当初幅12.7m、改修、護岸工事)
→2011.
3.11の東日本大地震による津波による影響なし
事業主:伊達政宗/
①仙台城と城下町造営のための木材輸送(同時代の文書による根拠なし)
、②沿岸の新田開発時の排水用遊水池(海岸沿いに細長い遊水池を造るのが普通という一般論と「内川」という名称)、③慶長三陸地震津波後に塩抜き等の目的で造られた水路、などの可能性/明治期17に阿武隈川~北上川間を運河として改修・新開削し「貞山堀」と名付けた際、当初から運河として造られたという「思い込み」が入った可能性が高い→材木輸送を思わせる「木ヒキ堀」の初出は「阿武隈川絵図」(1855)で、「天保国絵図」(1835-38)でも「内川」→海岸に平行して運河を開削する意味がない(御舟入堀(1673)は地形をシュートカットしているので運河の意味がある)/川村孫兵衛の関与も拡大解釈されてきた可能性が高い→津波被災後に内川の海側の土地を仙台藩としては初めて塩田化(1615-24)したのが、旧毛利藩出身の孫兵衛だったことは確かだが、それ以上のことは推測でしかない
2
A
木曳堀
(貞山堀)
松並木
こびきぼり
(ていざん)
岩沼市
貞山運河?
(阿武隈川河口付近)
防潮林
慶長16(1611)~元禄15
(1702)の間の何れか
WEB
オリジナルの松が、東側に残る
→
2011.3.11の東日本大地震による津波で、松の一部が枯れたがほぼ原状維持
(対比写真参照)
慶長三陸地震津波(1611)の後、恐らく津波対策として植樹/「元禄国絵図」(1696-1702)には松が描かれているので、それ以前の植樹
2
陸奥上街道
(千本松長根)
(西側)
むつかみ、せんぼんまつながえ
大崎市
<陸奥上街道>
石畳道
江戸期
国史跡
WEB
石畳は、オリジナルに近い形で修景整備されている
五街道の一つであった奥州街道より成立は古く、松尾芭蕉の紀行文集『おくのほそ道』でも触れられた千本松長根が有名→尾根沿いの松並木は戦時中に伐採されたが、前後の坂道には石畳が見られる
2
C
陸奥上街道
(千本松長根)
(東側)
むつかみ、せんぼんまつながえ
大崎市
<陸奥上街道>
石畳道
江戸期
国史跡
WEB
石畳は、きわめて不自然な形に修景整備されている
同上
4
C
天王寺一里塚
てんのうじ
大崎市
<陸奥上街道>
一里塚(2基)
江戸期
WEB
県道17号線改修の際も上下線を分離して保存された
塚の形がお椀状ではなく、不定形
3
B
南原穴堰
みなみはら
大崎市
東遠鈴沢
素掘トンネル
(水路)
長1320m
正保年間(1644-47)
世界農業遺産
WEB
穴口:C改修/穴尻:オリジナル
開削:遊佐平左衛門宣次
1-2
B
大堰
(内川)
おおぜき
(うちかわ)
大崎市
江合川
用水路
長約2.5㎞
慶長5(1600)頃
WEB
昭和42水路整備→平成7水環境整備・修景
事業主:伊達政宗/岩出山城の外堀と農業、生活用水として開削された
3
B
角田市
瀬峰一里塚
せみね
栗原市
<佐沼街道>
一里塚(2基)
高1.8m,直径10m
江戸期
県史跡
WEB
周辺は散策路として案内板が整備されている
道路をはさんで2基の土盛りが揃って残り、その間隔は約20m/周辺の道路沿いには、松の自然林があり、古道の名残をとどめている
3
B
新鹿野一里塚
しんかの
栗原市
<奥州街道>
一里塚(1基)
周囲約33m
江戸期
WEB
非常に小さい
3
-
鹿島穴堰
かしま
栗原市
一迫川
素掘トンネル
(水路)
長約1㎞
延宝8(1680)?
WEB(高倉淳の宮城郷土史・分室)
昭和期の隧道が平行している/明治期に植林された、付随する水路土手の欅並木が有名
開削・経営:村吏・六代菅原三右衛門
C
伊豆野堰
いずの
栗原市
一迫川
用水路
長21㎞
正保3(1646)
WEB
C改修
測量:川村孫兵衛重吉、開削:加藤甚兵衛/開削当初は水が十分に流れなかったため、勾配の急な「大滝」を水路に造った
5
B
軽辺堰
かるべ
栗原市
三迫川
用水路
長9.8㎞
元禄7(1694)
WEB
C改修/1.4㎞を水環境整備・修景
計画:伊達宗綱後見人・茂庭網元、開削:軽辺六右衛門
5
C
かもじ坑
しき
栗原市
細倉鉱山
坑道(他1ヶ所)
16世紀後半~江戸期
WEB
入坑不可
戦国期には銀、江戸期以降には日本有数の鉛、亜鉛産出量を誇った鉱山/江戸期には金、銀、銅精錬のために鉛の需要が増し、仙台藩の財政に貢献した/「たぬき掘り」の坑道/鉱脈を掘り当てるまで、坑夫の妻がかもじ(付け毛)屋に髪を売って家計を支えたという伝説から「かもじ坑」と呼ばれている
3
C
平貝七里塚
ひらがい
気仙沼市
<気仙道
(奥州街道の脇往還)>
一里塚(2基)
寛永末(1644)以前
市史跡
本吉町教育委員会
片方は、法面がコンクリート化、もう一方は、形が崩れている
七里塚という呼称: 仙台藩北部では1里を6町と数え、一里塚を「七里塚」と呼んでいる
4
B
風越七里塚
かざこし
気仙沼市
<気仙道
(奥州街道の脇往還)>
一里塚(1基)
寛永末(1644)以前
市史跡
本吉町教育委員会
塚がかなり変形/塚木:松(補植?)
「七里塚」という呼称については上記「平貝七里塚」参照
3
C
七曲り坂前の道標
ななまがり
塩竈市
<塩竈街道>
石道標(駒型)
高156㎝,幅43㎝,厚28㎝
享保16(1737)
WEB
移設
(正面)「東 なゝま可"里 水戸/南 御だい乃者し/北 奈ゝま可"り坂/西 御古しかけ石」/道標の外周にそって陽刻装飾
2
C
御舟入堀
(貞山掘)
(塩釜~七北田川)
おふないりぼり(ていざん)
塩竈市・多賀城市・
(宮城)七ヶ浜町
貞山運河(牛生~大代)
運河
長8㎞
万治元(1658)
市教委/WEB
ほぼ護岸化
→2011.3.11の東日本大地震による津波で、水路だけが残る
城下町の拡大に伴い、四代藩主・伊達綱村が、仙台城下から仙台藩の外港である塩竃への物資輸送路として開削/「貞山掘」は明治17の命名
4
C
寒風沢の方角石
さぶさわ
塩竃市
(寒風沢島)
日和山
方角石(円柱)
高85㎝,直径45㎝
天保12(1841)
市有形
WEB/船・地図・日和山p,219
日和山公園となっている、浦戸ハイキングコースにある
奉献:木村又兵衛正信(幕府の役人)/外縁に十二支、内部に東西南北、中央に北向き矢印が刻まれている/全国の方角石の中でも、最も立派なものの1つ
2
B
片平観平隧道
かたひら、
かんぺい
白石市
白水用水
素掘トンネル
(水路)
長約20m
天保5(1835)頃
市教委
当時のまま
岩の摂理を利用した隧道
2
C
田屋場の道標
たやば
多賀城市
多賀城跡<塩竈街道>
石道標(自然石)
高193㎝,幅35㎝,厚16.5㎝
享保14(1729)
WEB/市教委
移設
(正面)「徒本のいしふミ、是与り二丁四十間/春くみちあり」
2
B
田屋場の庚申塔道標
たやば
多賀城市
<塩竈街道>
石道標
文化3(1806)
WEB
「右 七ケ濱/左 塩釜」
3
C
御舟入堀
(貞山掘)
(塩釜~七北田川)
おふないりぼり(ていざん)
多賀城市・塩竈市・
(宮城)七ヶ浜町
貞山運河(大代~蒲生)
運河
長8㎞
寛文13(1673)
市教委/WEB
ほぼ護岸化→2011.3.11の東日本大地震による津波で、水路だけが残る
城下町の拡大に伴い、四代藩主・伊達綱村が、仙台城下から仙台藩の外港である塩竃への物資輸送路として開削/「貞山掘」は明治17の命名
4
C
多賀城碑
たがじょう
多賀城市
石碑(砂岩)
高196㎝,幅92㎝
神亀元(724)
国重文
WEB
覆堂内/江戸中期に発見→偽碑説→多賀城跡の発掘調査により真碑と確認
(正面頂部)「西」、(正面右半分)「多賀城、去 京 一千五百里/去 蝦夷国界 一百廿里/去 常陸国界 四百十二里/去 下野国界 二百七十四里/去 靺鞨国界 三千里」/京:平城京からの駅数と、駅間の里程から計算すると「一千五百里」に近い距離になるとされる/蝦夷:蝦夷国境を、桃生郡の辺とする説、衣川、一関とする説などがある/常陸:『東奥紀行』(1792)の著者・長久保赤水は、同書の中で天平時代の常陸国境が今の那珂湊(茨城県)で、6町を1里とすれば、そこから多賀城までほぼ412里になる、としている/下野:下野国と陸奥国の国境は白河関付近/靺鞨:靺鞨国としたのは、渤海の東北に存在した黒水靺鞨に代表される渤海に服さない靺鞨族を指した呼称か、あるいは渤海国を構成する靺鞨族をも含めて、広義の意味での靺鞨族全体に対して靺鞨国と表した【刻字内容以外の文面は、WEB(俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡(http://www.bashouan.com/psBashou.htm)より引用】
2
A
相模土手
さがみ
登米市
北上川
土堤防
長約6.6㎞
慶長10(1605)
図説宮城県の歴史p204/WEB
基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性)
戦国武将・白石相模宗直の計画・施工/西に流れる迫川に合流していた北上川の流路を東の流路に一本化するための堤防(水害防止と新田開発が目的)/白石相模宗直の「相模」の名を取って命名
2
A
米谷の蛇行部
まいや
登米市
北上川
付替え(蛇行化)
S字型に蛇行
元和2-9(1616-23)の間
洪水と治水の河川史p79/WEB
基本的に当時のまま(災害時の対応はあった可能性)
伊達正宗の命で、重臣であった登米伊達氏の初代当主・伊達相模宗直
(上記・白石相模宗直と同一人物)が施工/政宗による北上川の1期目の改修工事の枢要=北上川が仙北平野に出た直後にS字型の蛇行部を造り、流速を落とし水深を確保しようとしたと推測される(舟運路を開くことが目的)
1
A
大曲古土手
おおまがり、ふる
登米市
迫川
土堤防
寛文7(1668)
市史跡
WEB/市教委
部分的に数ヶ所残存している
事業主:登米伊達氏の4代当主・伊達宗倫、設計:秋山源兵衛/迫川の越流を町の外で堰き止めるために造られたと言われている
3
C
高舘川上の常夜灯
(那智大権現永代常夜灯)
たかだて、
かわかみ
名取市
石常夜灯
高3.72m
寛政8(1796)
市教委
火袋欠損
→
2011.3.11の東日本大地震で文字塔より上部が倒壊
(対比写真参照)
大型の常夜灯だが、文字塔部分の石材が新しく、火袋の欠損と合わせ、当初形態は不明
4
B
高舘川上の延命地蔵道標
(五方の辻碑)
たかだて、
かわかみ
名取市
<東街道・東(あずま)海道・村田街道・秋保への道・閖上への道>
石道標(自然石)
高85㎝,各面幅56㎝,27㎝,29㎝,37㎝,18㎝
享保2(1717)
市登録(有形)
市教委
近接移設
(正面像下)「せんたい/中田町/ゆり上/ました町、みち」、(右面)「くまの、志んくう/本んくう、道」、(裏面1)「なち山/つ本ぬき、みち」、(同右下隅)「これより/十六丁」、(裏面2)「す加う甼/川さき町/村田町、みち」、(左面)「いまくまの/たうそ神、みち」/正面上部に延命地蔵菩薩立像を線刻/五面に全て方向が刻まれているものは非常に稀
2
A
植松の句碑道標
(道祖神路の道標)
うえまつ
名取市
(西向)
石道標(自然石)
高84㎝,幅24㎝
安政3(1856)
市登録(有形)
市教委/WEB
原位置
(正面)「道祖神路」、(右面)「社者此川水上十八丁餘 而有于笠嶋村八嶺也 蓋其辺往古之/街道 従帝都多賀之国府 在館之公卿四方人皆所由也 中古中将実/方朝臣東遊之旧跡 有于西行感慨之詠吟 其古墳去社東北七丁 亦到/于名取川五十丁 到于仙台城下百十八丁 故記而以告探務之人/古碑折却今継哲人之志口建之」(道祖神社の由来、碑建立の趣旨、名取川や仙台城下への距離が刻字)/左面に芭蕉の句 「笠島は いづこ皐月の ぬかり道」が刻字
1
B
木曳堀
(貞山堀)
(名取川~広浦)
こびきぼり
(ていざん)
名取市
貞山運河?
(名取川~広浦)
①運河??
、
②干拓遊水地
③塩抜き水路
長約1.5㎞,
幅25m
①慶長6(1601)頃
②慶長16(1611)以前
③慶長16(1611)以降
市教委/WEB
大規模修復(明治期に拡幅:当初幅12.7m、改修、護岸工事)/漁船が多数係留→2011.3.11の東日本大地震による津波で集落と運河の一体化した景観が消失
(対比写真参照)
事業主:伊達政宗/
①仙台城と城下町造営のための木材輸送(同時代の文書による根拠なし)
、②沿岸の新田開発時の排水用遊水池(海岸沿いに細長い遊水池を造るのが普通という一般論と「内川」という名称)、③慶長三陸地震津波後に塩抜き等の目的で造られた水路、などの可能性/明治期17に阿武隈川~北上川間を運河として改修・新開削し「貞山堀」と名付けた際、当初から運河として造られたという「思い込み」が入った可能性が高い→材木輸送を思わせる「木ヒキ堀」の初出は「阿武隈川絵図」(1855)で、「天保国絵図」(1835-38)でも「内川」→海岸に平行して運河を開削する意味がない(御舟入堀(1673)は地形をシュートカットしているので運河の意味がある)/川村孫兵衛の関与も拡大解釈されてきた可能性が高い→津波被災後に内川の海側の土地を仙台藩としては初めて塩田化(1615-24)したのが、旧毛利藩出身の孫兵衛だったことは確かだが、それ以上のことは推測でしかない
5
A
木曳堀
(貞山堀)
(広浦~阿武隈川)
こびきぼり
(ていざん)
名取市・岩沼市
貞山運河
(広浦~阿武隈川)
①運河??
、
②干拓遊水地
③塩抜き水路
長12.4㎞,幅25m
①慶長6(1601)頃
②慶長16(1611)以前
③慶長16(1611)以降
WEB
大規模修復(明治期に拡幅:当初幅12.7m、改修、護岸工事)→2011.3.11の東日本大地震による津波による影響なし
同上
2
B
閖上土手の松並木
(あんどん松)
ゆりあげ
名取市
名取川(右岸)
防風・防潮林
黒松48本,
高さ約25~30m,樹齢230~240年
江戸中期
市天然
市教委/WEB
所々欠脱があるものの、比較的良好に保存→2011.3.11の東日本大地震による津波による影響なし
(対比写真参照)
仙台藩により、城下と閖上浜を結ぶ名取川堤防沿いの植えられたもの
2
B
根古の一里塚
ねこ
東松島市
<石巻街道(登米道)>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
東塚現存
4
C
上下提の道標
じょうげ、
つつみ
東松島市
<石巻街道(登米道)>
石道標(板状自然石・稲井岩)
高90㎝,幅33㎝
延享2(1745)
市有形
WEB
移設
「にしの方 松しまみち/ひがしの方 石のまき道/み
□
ミの方 とみ
□
みち」
2
C
小野の道標
おの
東松島市
<石巻街道(登米道)>
石道標(自然石)
高200㎝,幅42㎝
天保10(1839)
市有形
WEB
原位置?
(正面)「右 いしのまき/左 ひろふち、道、四里余/二里半余」
1
B
鞍坪隧道
くらつぼ
東松島市
鞍坪川
素掘トンネル
(水路)
長16.6m?
天保年間(1830-43)以前
岩屋隆夫
現在はC巻立
出来川上流域の排水を鳴瀬川本川へと排水するため丘陵下を開削された排水隧道/現地に4本の隧道
5
C
(伊具)丸森町
(牡鹿)女川町
曲竹一里塚
まがたけ
(刈田)蔵王町
<羽前街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
3
C
岩崎山金窟址
いわさき、
きんくつ
(刈田)蔵王町
遠刈田公園
坑道
戦国末期~江戸初期
町史跡
WEB
入坑不可
伊達政宗によって開かれたされている金鉱山/大量の金を産出したが突如熱水が噴き出し、そのまま廃坑になったといわれている/岩山の至るところに坑口があり、「たぬき掘り」の坑道が籠の目のように走っていたことから「籠山」と呼ばれた/明治期には遠刈田温泉の景勝地「籠山の新月」として知られた
3
B
鏡清水
かがみ
(刈田)七ヶ宿町
金山峠・付近<七ヶ宿街道>
湧水
江戸期
WEB
修景的整備/覆屋付き
湧水量は少ないが白石川の水源地/参勤交代の際に、あるお姫さまがこの峠を通るとき、鏡の代わりに姿を映し、髪の乱れなどを整えたことに由来
3
C
最上海道
(最上街道)
もがみ
(加美)加美町
<最上街道>
道路
長6.5㎞
天平7(735)頃
町教委/WEB
平成9の整備事業により古道を復元
施主:鎮守府将軍・大野東人/多賀柵と出羽柵をつなぐ軍用路として開拓
2
A
高台道
こうだい
(加美)加美町
<最上街道>
道路
長300m
天平7(735)頃
町教委
修景的再現
電線を地中化した石畳の道として整備
3
B
出羽仙台街道中山越
でわせんだい、なかやま
(加美)加美町
道路
長4.2㎞
元禄2(1689)以前
国史跡
WEB
環境整備により古道等を復元
2
C
下区一里塚
しもく
(加美)加美町
<最上街道>
一里塚(1基)
安政2(1855)
町教委
雑木が植えられている
水神石碑が建てられており、位置説に疑問がある/現在は杉がたくさん植林されている
3
C
宮崎の追分供養塔道標
みやざき
(加美)加美町
石道標
高さ113㎝,幅52㎝,厚さ30㎝
元文元(1736)
WEB/町教委
近代と思われる道標が並んで立っている
「右ハ湯之倉通/左ハ寒風沢通」
2
C
宮崎の追分道標
みやざき
(加美)加美町
石道標(自然石)
高55㎝,幅42㎝,厚24㎝
文化7(1811)
WEB
移設/鳥居を建立し祀られている
(正面頂部)「(梵字)」、(正面右)「右ハ、切こめ 田しろ/さき左 さ飛"沢道」、(正面左)「左ハ、赤さか/南な可し田道」
2
-
雑式ノ目の道標
ぞうしきのめ
(加美)加美町
石道標
高54㎝,幅26㎝,厚さ3.5㎝
江戸後期?
WEB
「西 かっぱ 一里/東 古川 二里/南 三本木 二里/北 中新田 三十丁」
2
C
二ツ石堰
(永志田堰)
の
潜穴
ながしだ
(加美)加美町
二ツ石川
素掘トンネル
(水路)
長540m,高4-1.4m,幅0.9m
天明3-寛政4(1783-93)
加美郡西部土地改良区/WEB
平成8の地震の復旧事業で152mをC改修(400m弱が残存)
曲線の隧道となっている/掘り間違いの跡や、急激に屈曲した箇所がないことから、村内の鉱山関係者が係ったと推測されている/天井からの地下水を排出するため、トンネル中央部の天井が最も高く、坑口に向かうほど低く造られている
2
B
赤新井田溜池,堰
あかんだ
(加美)加美町
溜池、用水路
長約5㎞,受益面積約30ha,
戦国期以降
加美郡西部土地改良区
一部C改修
施主:大崎家臣・笠原氏
3
C
谷地森堰
やじもり
(加美)加美町
田川
用水路
長3924.7m,受益面積約200ha
天正年間(1573-92)?
加美郡西部土地改良区
取水口変更
施主:大崎家臣・谷地森氏/平堰であったため、田川の増水等の影響で何度も場所を変えてきた
3
C
小泉堰
こいずみ
(加美)加美町
田川
用水路
長2700m→2416m
室町期以前?
加美郡西部土地改良区
C改修
5
C
烏川堰
からすがわ
(加美)加美町
烏川
用水路
開水路
:長3811m,
隧道
:1800m,受益面積約120ha
寛永年間(1624-44)
加美郡西部土地改良区
C改修(一部残存)/穴堰(隧道)は素掘のまま=タガネ、ノミ、バンツルの跡が残る
施主:牧野大蔵盛仲の妻/砂鉄のため川の水が黒く見えるため烏川と名付けられた
3
C
開墾堰
かいこん
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路
開水路
:長2568m,
隧道
:長2360m,受益面積約30ha
万治3(1660)以降
加美郡西部土地改良区
開水路の843mをC改修
3
C
真坂堰
まさか
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路
長3110m
万治2-4(1659-61)
加美郡西部土地改良区
取入口をC改修
蝉堰の失敗後、小路の跡を使用した堰
3
C
蝉堰
せみ
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路
開水路
:長約7㎞
,隧道
:長約1㎞,高1.3-1.7m,幅1.0-1.2m
寛文10(1670)
加美郡西部土地改良区
開水路・取水口をC改修/穴堰(隧道)は素掘のまま=タガネ、ノミ、バンツルの跡が残る/トンネル部は非現役
海老田新蔵人良安・佐藤惣兵衛/新蔵人の次男を人柱にたて導水に成功/台ノ原を抜くトンネル水路(灌漑用)
3
C
原堰
はら
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路
開水路
:長4663.1m,
隧道
:長約1.8㎞,受益面積約900ha
延宝8(1680)
加美郡西部土地改良区/WEB
防災事業で新設されC改修(一部残存)/穴堰(隧道)は素掘のまま(長53mをC改修)/非現役
施主:伊達藩普請奉行・鎌田景泰
3
C
照井堰
てるい
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路、隧道
開水路
:長1600m,
隧道
:1200m,受益面積約30ha
江戸初期
加美郡西部土地改良区
取水口を変更/一部C改修
藤原秀衡家臣・照井太郎高春の塚が付近にあるためこのように名付けられた
3
C
川久保堰
かわくぼ
(加美)加美町
田川
用水路
開水路
:長3100m,
隧道
:長1400m,受益面積約50ha
江戸初期~中期
加美郡西部土地改良区
C改修
下流水路で坂下堰になる
5
C
茂庭堰
(月崎堰・鹿原堰)
もにわ(つきざき、かのはら)
(加美)加美町
名取川
用水路
長5㎞
江戸中期
加美郡西部土地改良区
取水口をC改修
施主:志田郡松山邑主・茂庭すおう
3
C
八ヶ村堰
はっかそん
(加美)加美町
鳴瀬川
用水路
長200m,受益面積約300ha
江戸中期
加美郡西部土地改良区
一部現存
八ヶ村の入会用水
4
-
五十嵐堰
いがらし
(加美)加美町
用水路
開水路
:長約0.3㎞,
隧道
:長約2.4㎞,受益面積約100ha
幕末~明治初期
加美郡西部土地改良区
穴堰(隧道)は素掘のまま=軟質土なので崩壊の危険性高い
軟質土のため工事が難航し、実際に通水には至らなかった
2
C
味ヶ袋の大禹之碑
あじがふくろ
(加美)加美町
石碑
高約1m,幅約1m
文久2(1862)
木谷幹一(小野田町史p1176)
原位置?
(正面上部)「大/禹/之/碑」、(正面下・左半分)「自安政己未至萬延庚申此地毎年洪水至田圃/幾流失矣 既有公命築土導水雖欲是憂徒/費人力而巳 於是乎建是碑祀之庶永除是憂矣」/正面右半分には同じ文面が篆書体で刻字/味ヶ袋地内が洪水に悩まされていた頃、減災を祈念して建立
1
C
荒川堰
(松山堀)
あらかわ
(まつやま)
(加美)色麻町
花川<荒川>(鳴瀬川支川)
用水路
総延長34.173㎞→約22㎞,
隧道
:長1658m(12ヶ所の総延長),12ヶ所→11ヶ所
明暦元(1655)
町教委/WEB
ほぼC改修/継ぎ入れ水路跡が断片的に残る
開削:伊達藩御普請方御用・前田喜佐衛門、大越喜右衛門/寛永7(1630)に荒川の除から大衡村針まで約10㎞の水路が開削され、正保元(1644)に志田郡の村々から請願があったため、延長された/延長時、水量確保のため鳴瀬川から荒川に水を継ぎ入れるという方法がとられたが、安政5(1858)の絵図には継ぎ入れた水路が描かれていないため、当時既に廃川であったと思われる
5
B
かどっぱ
(加美)色麻町
上水路
不詳
WEB
上水道施設が完備されていない時代に、もともとは用水路・農業用施設として田んぼに水を引くことが目的だった「かどっぱ」を、屋敷前を通過させることで、生活用水を確保していた
3
C
(黒川)大郷町
大沓掛の追分道標
おおくつかけ
(黒川)大衡村
<出羽街道・最上街道>
石道標(自然石)
高76㎝,幅54㎝,厚22㎝
江戸期?
WEB
移設/下部埋設
(正面)「右 なかにゐだ/左 ゆとの山道」
2
-
吉岡一里塚
よしおか
(黒川)大和町
<奥州街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
移設整備/塚木:補植
3
C
(黒川)富谷町
(柴田)大河原町
今宿の道標
いましゅく
(柴田)川崎町
雷神社前の追分
石道標(自然石)
高80㎝,幅48㎝,厚20㎝
享保12(1727)
WEB
移設?
(正面)「右ハ 山道/中ハ く王んをん道/左ハ あおね道」
2
C
今宿の題目塔道標
いましゅく
(柴田)川崎町
石道標(自然石)
高80㎝,幅50㎝,厚25㎝
文化15(1818)
WEB
移設?
(正面右)「 右 もかみ道」、(同左)「左 あを禰道」(=青根)/正面中央に「蔵王大權現」と陰刻
2
C
(柴田)柴田町
奥州街道
おうしゅう
(柴田)村田町
道路
長約300m
江戸期
町史跡
町教委
/WEB
昭和50頃にアスファルト舗装
韮神山から国道に並走する旧道
4
C
(遠田)美里町
黄金洗沢遺跡
こがね、
あらいさわ
(遠田)涌谷町
露天掘り
深1m,直径1-2m
古代~中世?
町教委/WEB
黄金山には黄金洗沢遺跡周辺にも同様のみよし堀跡があるものの、埋没、開田により荒廃が進んでいる
黄金山に残る「みよし堀跡」と呼ばれる円錐形の穴が連続して分布している露天掘り跡/黄金山で我が国で初めて砂金が採れたとされている/東大寺盧舎那大仏造営の際、大仏に塗布する金が不足していた所、黄金山で産出された金が献上され、無事大仏は完成したとされている
5
-
松ヶ浜の追分道標
まつがはま
(宮城)七ヶ浜町
石道標
高92㎝,幅41㎝,厚33㎝
元禄7(1695)
町教委
風化が激しく、一部剥落もみられる/交通量の多い交差点の角の為、鋼枠で保護
1
B
御舟入堀
(貞山掘)
(塩釜~七北田川)
おふないりぼり(ていざん)
(宮城)七ヶ浜町・
塩竈市・多賀城市
貞山運河(牛生~大代)
運河
長8㎞
万治元(1658)
町教委/WEB
ほぼ護岸化→2011.3.11の東日本大地震による津波で、水路だけが残る
城下町の拡大に伴い、四代藩主・伊達綱村が、仙台城下から仙台藩の外港である塩竃への物資輸送路として開削/「貞山掘」は明治17の命名
3
C
長老坂一里塚
ちょうろうざか
(宮城)松島町
<石巻街道>
一里塚
江戸期
県遺跡
WEB
塚木樹齢不明
2
C
品井沼
(元禄)
潜穴・穴尻
しないぬま、せんけつ、
あなじり
(宮城)松島町
排水(トンネル)
(素掘)
延長2578m,幅3.6m,高2.4m,2本
元禄11(1698)
町教委/WEB/岩屋隆夫
隧道終点/建設当初のまま
総指揮者: 仙台藩士・大越喜右衛門/面積1800haもあった広大な品井沼の水を松島湾に排出し、かつ、鳴瀬川の逆流を防いで水害をなくし、品井沼に新しく「水田」を開くことを目的に造られた排水路/江戸期を代表する農業排水用の長大トンネル/平地部の長大トンネルだったため、途中に10ヶ所の竪穴を掘り、竪穴と竪穴の間に横穴(潜穴)を掘るという手法が用いられたが、高低差がわずか1.6mしかないため難工事
2
品井沼
(元禄)
潜穴・竪穴
しないぬま
(宮城)松島町
排水(トンネル)
(素掘)
10ヶ所
元禄11(1698)
町教委/WEB/岩屋隆夫
隧道終点近く/建設当初のまま
同上
3
A
品井沼
(元禄)
潜穴・穴頭
しないぬま、せんけつ、
あながしら
(宮城)松島町
排水(トンネル)
(素掘)
延長2578m,幅3.6m,高2.4m,2本
元禄11(1698)
土木学会選奨土木遺産
町教委/WEB/岩屋隆夫
隧道始点/明治31に坑口を煉瓦で洋風に改修
同上/近代土木遺産として価値認定
5
A
赤沼一里塚
あかぬま
(宮城)利府町
<石巻街道>
一里塚(1基)
江戸期
県遺跡
WEB
西塚のみ/崩壊寸前
4
C
南三陸町の道標群
みなみさんりく
(本吉)南三陸町
<気仙道>
石道標
28基
江戸期
町有形
WEB
旧志津川町内ではこれまでに14基が確認されている/当時の主要道だった気仙道沿いに5基、入谷盆地から内陸方面への峠越えの道を示したものが5基、志津川地区の信仰の山だった保呂羽山への参道を示すものが2基、歌津払川地区のものが2基
2
B
大羅産金遺跡
だいら
(本吉)南三陸町
童子山
露天掘り
寛永18(1641)頃以前
WEB
露天掘り跡が多数残存
集落西側の愛宕神社周辺に多数の掘り跡が良好な状態で残存
2
C
十枚山産金遺跡
じゅうまいやま
(本吉)南三陸町
十枚山
露天掘り、坑道
近世以前
WEB
大小の露天掘り跡や複数の坑口が見られる
様々な時代に様々な方法で採金が行われたものと思われる
2
B
平内沢産金遺跡
ひらないざわ
(本吉)南三陸町
<水戸辺川>
露天掘り
戦国期?
WEB
露天掘り跡が残る
段丘面を掘り返した跡や水路状の跡、邪魔な石を積み上げて石塚状にしたものや、「やなば」と呼ばれる金洗い池の跡など、古い時代の砂金掘り跡がある
2
C
弓折産金遺跡
ゆみおり
(本吉)南三陸町
童子山
露天掘り
寛永年間(1624-43)以前?
WEB
露天掘りの遺構、石組の堰堤跡が残存/保存状態良好
南側の尾根を縦に切り裂くように掘り進めた跡は規模が大きい
2
B
払川産金遺跡
はらいかわ
(本吉)南三陸町
旧志津川町境沢地
露天掘り
室町期?
WEB
埋没が進んでいる/掘り跡が多数残存
沢の左岸の段丘面に、沢と平行するように幾筋もの掘り跡が残されている/跡内からは鉱山臼(回転型)も見付かっており、付近で岩金も掘られたと思われる
3
C
谷老堰
(童子用水)
やろう
(どうじ)
(本吉)南三陸町
弥惣峠
用水路
長約5.5㎞
宝暦年間(1751-64)
WEB
一部残存
砂金掘りに必要な大量の水を得るため通された水路/現在通水部分は一部のみ
3
C
(亘理)山元町
稲葉の渡し
いなば
(亘理)亘理町
阿武隈川
渡し場
江戸後期
WEB
岩沼市玉崎と亘理町田沢を結ぶ。旧東街道の道筋にあたり、岩沼~愛島へつながっていた。古くから有名
2
B