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三重県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
釘抜門前の石橋
くぎぬき
津市
石桁橋
宝暦10(1760)
市建造物
市教委/WEB
平成14 高欄改修
釘貫門のすぐ南側、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる/堀上に円弧状の橋板11 枚を並べた石造の反り橋
2
C
思案橋
しあん
津市
<伊勢街道>
<石桁橋>
文政6(1823)
市教委
板状になった高欄のみ残る→本体構造はRC桁
板状の高欄側面部に、松・扇・梅が陽刻
4
C
藤方の常夜灯
ふじかた
津市
<伊勢街道>
青銅製常夜灯
高2.76m(うち石造基部1.16m)
明和元(1764)
市教委
保存状態良好/電気点灯
青銅製の街道常夜灯は稀/火袋~台石まですべて円形断面/笠に龍の飾り
1
B
上浜町の太神宮常夜灯
(江戸橋常夜灯)
かみはま
津市
江戸橋・西詰
<伊勢街道・伊勢別街道>
石常夜灯
高4.68m
安永6(1777)
市有形民俗
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
原位置
(上段台石正面)伊勢信仰の象徴である「太一」を示す「○印」が陰刻/春日型の笠/石工: 沓脱半兵衛/『伊勢参宮名所図会』(1797)にも大きく描かれている
1
A
一志町大仰の太神宮常夜灯1
いちし、おおのき
津市
(村出)<初瀬街道>
石常夜灯
天明3(1783)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
原位置?/電気点灯
(竿正面)「太一」/春日型の笠/石基壇なし
1
C
栗真小川町の太神宮常夜灯
くりま、
こがわ
津市
観音寺・前
石常夜灯
文化3(1806)
WEB(北伊勢の道標)
火袋欠損
(竿正面)「太神宮」/矢倉型の笠/石基壇は低いが石組みは良好
3
B
高野尾町の常夜灯
(銭掛松の常夜灯)
たかのお
津市
<伊勢別街道>
石常夜灯
文化5(1808)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(2段目中台正面)「京/都/大/佛」/石基壇
2
B
芸濃町雲林院の常夜灯
(下川の常夜灯)
げいのう、
うじい
津市
(下川)<伊勢別街道>
石常夜灯
文化5(1808)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
春日型の笠/石基壇なし
1
C
美杉町川上の太神宮常夜灯1
(川上相地の常夜灯)
みすぎ、
かわかみ
津市
(相地)<伊勢本街道>
石常夜灯
文化10(1813)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(竿正面)「太一」、(竿左面)「五穀成就」/石基壇(1段のみ)
1
C
美杉町石名原の太神宮常夜灯1
(中垣内の常夜灯)
みすぎ、
いしなはら
津市
(中垣内)<伊勢本街道>
石常夜灯(自然石)
文化10(1813)
WEB(北伊勢の道標)
火袋改修/基礎部にCをお椀型に盛って使用
(竿正面)「太一」/自然石だが竿は角柱に近い
2
C
美杉村川上の太神宮常夜灯2
(川上中村の常夜灯)
みすぎ、
かわかみ
津市
(中村)<伊勢本街道>
石常夜灯
文化11(1814)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
原位置?
(竿正面)「太一」、(竿右面)「夜燈」、(竿左面)「五穀成就」
1
B
大里窪田町の常夜灯
(窪田の常夜灯)
おおざと、
くぼた
津市
<伊勢別街道>
石常夜灯
高8.6m
文化14(1817)
WEB(北伊勢の道標)
/現地解説板
地震によって3回倒れたが、地元・関係者により再建/点灯用の大きなRC製階段が背面に付く
(竿正面頂部)「内/宮」、(竿左面)「江州」/台座には琵琶湖の東の地域を表したと思われる波模様が刻まれ、特に琵琶湖東側の地域の商人により寄進/街道常夜灯としては全国最大級
2
美杉町石名原の太神宮常夜灯2
(払戸の常夜灯)
みすぎ、
いしなはら
津市
(払戸)<伊勢本街道>
石常夜灯
文政2(1820)
WEB(北伊勢の道標)
C擁壁構築時に動いた可能性
(竿正面)「太一常夜燈」/角柱状の竿石/文政2年12月→西暦1820年
2
C
川方町の常夜灯
かわかた
津市
<奈良街道・天満宮参道>
石常夜灯
(擬宝珠型)
文政4(1821)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「天満宮」/擬宝珠付きの親柱の中央に円形の穴を穿っただけのような形(当初から意図したのか、親柱の転用かは不明)
2
C
芸濃町多門の常夜灯
げいのう、
たもん
津市
<伊勢別街道>
石常夜灯
文政5(1822)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
火袋後補
春日型の笠/石基壇なし
1
C
広明町の常夜灯
(元・部田の常夜灯)
こうめい
津市
偕楽公園内
石常夜灯
高3.5m
天保元(1830)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設
春日型の笠/非常に装飾的: 狐格子や笠屋根の裏に垂木模様、火袋と竿の間の中台や、竿の直下の台石最上段の正面・側面には、それぞれ異なった姿の龍が陽刻/多くの寄進者名
2
B
白山町二本木の太神宮常夜灯
はくさん、
にほんぎ
津市
<初瀬街道>
石常夜灯
高4.60m(うち基壇0.81m)
天保4(1833)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
保存状態良好/電気点灯
(中台正面)「太/一」/大胆な石組/サイズの割に大きい宝珠
1
A
雲出島貫町の常夜灯
くもず、しまぬき
津市
雲出川左岸堤防上
<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高4.92m
天保5(1834)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委/現地解説板
雲出川の渡し場口にあったものを移設/火袋後補
松阪市の「甚目町の常夜灯」と対面する形で残る/基壇なし
2
A
栗真町屋町の太神宮常夜灯1
(町屋の常夜灯)
くりま、
まちや
津市
<伊勢街道・白塚からの巡礼道>
石常夜灯
高4.2m
天保10(1839)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
保存状態良好
(竿正面頂部)「兩/宮」/矢倉型の笠/建立: 武州・若槻・木綿問屋中(台石にも多くの寄進者名→伊勢が、当時木綿の産地だったことを示す)
1
A
白山町上ノ村の太神宮常夜灯
はくさん、
かみのむら
津市
<初瀬街道>
石常夜灯
高5.05m(うち基壇1.09m)
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
保存状態良好(高欄の一部が欠損)/ろうそくを使用?
(竿正面頂部)「太/一」/中台表・裏面に龍の浮彫り/中台両側面に雲の浮彫/笠屋根の裏に垂木模様/基壇石垣上に擬宝珠付き高欄を付ける→非常に珍しい/大型石階段
1
A
榊原町の常夜灯1
さかきばら
津市
(上山)<奈良街道>
石常夜灯
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
竿石の上3分の1が更新/電気点灯
(竿正面)「消暗燈」→他に例がない標記→発想そのものが非常にユニーク
2
B
榊原町の太神宮常夜灯1
さかきばら
津市
(八知山)<奈良街道>
石常夜灯
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(竿正面)「太一」/中台に雲形の浮彫り/石基壇(小さいがきれいな石組み)
1
C
榊原町の太神宮常夜灯2
さかきばら
津市
(里)<奈良街道>
石常夜灯
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
毎日点灯(風除けのため、火袋に布が巻いてある)
(竿正面)「太一」/石基壇なし
1
C
榊原町の太神宮常夜灯3
さかきばら
津市
(別所)<奈良街道>
石常夜灯(自然石)
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(竿正面)「太一」
1
C
美杉町杉平の太神宮常夜灯1
みすぎ、
すぎひら
津市
<伊勢本街道>
石常夜灯
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
C擁壁上なので、移設
(竿正面)「太一」/竿が自然石風の角柱/石基壇なし
2
C
美杉町杉平の太神宮常夜灯2
みすぎ、
すぎひら
津市
<伊勢本街道>
石常夜灯
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
火袋鉄材化
「太一」/竿が自然石風の円柱→巨大な自然石の上に載る
3
C
榊原町の常夜灯2
さかきばら
津市
中ノ山・中ノ山会所・前
<奈良街道>
石常夜灯
天保年間(1830-44)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
石基壇(自然石風)
1
B
榊原町の常夜灯3
さかきばら
津市
安子・大日橋横<奈良街道>
石常夜灯
弘化2(1845)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
中台に雲形の陰刻/石基壇なし/地蔵堂の脇に建つ
1
B
美里村平木の太神宮常夜灯
(三船の常夜灯)
みさと、
ひらぎ
津市
天王社・前<伊賀街道>
石常夜灯
弘化3(1846)
市有形民俗
WEB(北伊勢の道標)
/WEB
平木口・三舟明神社(街道沿い)から移設/火袋補強
(竿正面)「太神宮」、(竿裏面)「道中安全」/春日型の笠/猫脚/台石に多くの寄進者名
2
C
栗真町屋町の太神宮常夜灯2
くりま、
まちや
津市
三重大・前
石常夜灯(自然石)
高2.8m
嘉永4(1851)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設/金柵内
(竿正面頂部)「兩/宮」、(竿左面)「五穀成就」(打ち続いた飢饉から一息つけた感謝の表現)
2
B
稲葉町の常夜灯
いなば
津市
(世古)<奈良街道>
石常夜灯
嘉永5(1852)
WEB(北伊勢の道標)
今も1日と15日に点灯
竿が角柱状/石基壇なし
1
C
森町の太神宮常夜灯
もり
津市
(加村)<奈良街道>
石常夜灯
高3.73m(うち基壇0.91m)
嘉永7(1854)
WEB(北伊勢の道標)
基壇石垣が全体に緩い→移設時の積み方のまずさによるものか?
(竿正面頂部)「兩/宮」、(竿右面)「五穀成就」、(竿左面)「村内安全」/基壇石垣の本来の石組は見事
2
B
白山町南出の太神宮常夜灯1
はくさん、
みなみで
津市
(並木)<初瀬街道>
石常夜灯
嘉永7(1854)再建
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
台石、基礎共にC→移設の可能性
「兩宮」/竿が角柱状
2
C
美杉町丹生俣の太神宮常夜灯
みすぎ、
にゅうのまた
津市
(中俣)<伊勢本街道>
石常夜灯
高4.08m(うち基壇1.31m)
安政2(1855)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(竿正面)「太一」、(中台正面)「村中」、(中台右側面)「國家安全」、(中台左側面)「五穀成就」/自然石を大胆に積んだ基壇石垣
1
A
白山町南出の太神宮常夜灯2
はくさん、
みなみで
津市
(下出)<初瀬街道>
石常夜灯
高3.76m(うち基壇0.65m)
文久3(1863)
WEB(北伊勢の道標)
亀甲積がオリジナルか後補か不明
(中台正面)「太/一」、(竿正面頂部)「兩/宮」、(竿左面)「村中安全」/猫脚/四隅に大型石を用いた基壇石垣(亀甲積)
2
B
美杉町奥津の太神宮常夜灯
(谷口常夜灯)
みすぎ、
おきつ
津市
(谷口)<伊勢本街道>
石常夜灯
高3.98m(うち基壇1.29m)
文久4(1864)
WEB(北伊勢の道標/市教委
保存状態良好
(竿主面)「太一」、(台石正面)「諸願成就」/正面に三つの巨石を縦に並べた他に例のない石垣/4段の台石の最上段が猫足風のデザイン
1
B
美杉町上多気の太神宮常夜灯
(上多気常夜灯)
みすぎ、
かみたげ
津市
<伊勢本街道>
石常夜灯
高4.92m(うち基壇1.18m)
元治2(1865)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設
(竿正面頂部)「兩/宮」、(2段目台石正面)「村/中/安/全」/台石正面に竜の浮き彫り、側面に波の浮き彫り/中台裏面に竜の陽刻、側面に雲/笠屋根の裏に垂木模様/大胆な石組み/伊勢本街道の要所に建てられた大型の常夜灯
2
A
香良洲町地家の常夜灯
からす、
じけ
津市
<香良洲道>
石常夜灯
高4.41m
元治2(1865)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
旧・香良洲大橋の北詰にあったものを移設/火袋更新
笠屋根の裏に垂木模様/中台4面、台石4面に龍の陽刻/基壇なし/多くの寄進者名が陰刻→その中に「今村勘左衛門」がある→下記の「香良洲町地家の道標2」の単独建立者→道標の年代を特定
2
A
白山町岡の太神宮常夜灯
はくさん、
おか
津市
<初瀬街道>
石常夜灯
高3.05m(うち基壇0.70m)
慶応3(1867)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(竿正面上部)「兩/宮」、(上段台石正面)「村/中/安/全」/中台四面に龍の浮彫/笠屋根の裏に垂木模様/宝珠下部に雲形模様/基壇石垣付き
1
B
白山町中ノ村の太神宮常夜灯
はくさん、
なかのむら
津市
<初瀬街道>
石常夜灯
高3.24m(うち基壇0.51m)
慶応4(1868)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
基壇石垣に経年的な緩み→練積化
(中台正面)「兩宮」、(上段台石正面)「村/中/安/全」/火袋下の中台に装飾的浮彫/笠屋根の裏に垂木模様/基壇石垣付き
2
B
一志町大仰の太神宮常夜灯2
いちし、
おおのき
津市
(片山)<初瀬街道>
石常夜灯
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
C基壇→移設/宝珠欠損/火袋後補
(竿正面)「太一」
3
C
河芸町東千里の道標
(元・大蔵橋の道標)
かわげ、
ひがしちさと
津市
河芸町中央公民館・庭
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高131㎝,24㎝角
元禄3(1690)
WEB(北伊勢の道標)
大蔵橋から移設/下部で大きく折損→修復にも限界
(正面)「右 志ろこかいとう」、(右・裏面)「左 加ん辺ちかみち」/17世紀の道標
3
B
大里窪田町の道標
おおざと、
くぼた
津市
真楽寺<伊勢別街道>
石道標(蒲鉾型)
高78㎝,幅22.5㎝,厚19㎝
延享2(1745)
WEB(北伊勢の道標)
転用→移設
(正面)「向 空也上人堂」、(右面)「右みやけ道
□□□
こし
□□
せき 一里半」、(左面)「高田御本寺江 九町 いせぬけ堂ゑ」
2
C
垂水の道標1
たるみ
津市
成就寺・石段下<香水道>
石道標(尖頭角柱)
高81.5㎝,18㎝角
安永2(1773)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面・左面)「大日如来出現香水道」、(同最下部)「従是/四丁」
1
C
芸濃町林の道標
げいのう、
はやし
津市
<伊勢別街道>
石道標(常夜灯兼)
安永5(1776)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
原位置?
(竿正面下部)「右 さんぐう道」、(竿右面「左り 京道」/角柱状の竿の上に宝珠・笠・火袋・中台を載せる
1
C
稲葉町の道標
(茶屋の道標)
いなば
津市
(茶屋)<奈良街道>
石道標
高136㎝,幅30㎝,厚29㎝
天明6(1786)
市有形民俗
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 さんくう道」、(右面)「左 なら 大さ可道」、(左面)「すく 津ミち」/「伊賀油中買連中」と陰刻
1
C
芸濃町小野平の道標
げいのう、
おのひら
津市
<伊勢別街道>
石道標(自然石)
高92㎝,幅54㎝,厚29㎝
寛政5(1793)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?/下部埋設
(正面)「右 たきみち/左 な可のミち」/安濃川支流の滝川にある「小野平の滝」への道
2
C
白山町二俣の道標
はくさん、
ふたまた
津市
<モトドリ越>
石道標(駒型)
高75.5㎝,幅41㎝,厚31㎝
文化元(1804)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「右 ふく田山/左 い〃 高尾、道」
2
-
白山町三ケ野の道標
はくさん、
みつがの
津市
<七栗道>
石道標
高125㎝,22㎝角
文化4(1807)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「右 みつ可乃道」、(左面)「左 者せ 奈ら道」
1
C
庄田町の道標
しょうでん
津市
七栗神社・前<奈良街道>
石道標
高72.5㎝,17㎝角
文化11(1814)
WEB(北伊勢の道標)
基礎→C打設
(正面)「く王んおん道」、(同右上隅)「郡三十三所」、(同左上隅)「第廿七番」
2
-
香良洲町地家の道標1
からす、
じけ
津市
<香良洲道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高299cm(うち台石33㎝),幅46㎝,厚45㎝
文政6(1823)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
昭和19の東南海大地震で転倒・放置→移設・再建
(正面)「右 さん久う道」、(左面)「左 からす道」/台石が丸みを帯びた猫脚/石工: 七郎兵衛
2
A
垂水の道標2
(久居問屋場の道標)
たるみ
津市
<奈良街道>
石道標(尖頭角柱)
高210㎝,33㎝角
天保2(1831)
WEB(北伊勢の道標)
個人宅の庭/移設前は伊勢街道ではなく伊賀街道にあったという説も
(正面)「左、い/可"/越、ならみち」、(右面)「右 さん久"う道」/石工: 七郎兵衛
4
B
垂水の道標3
たるみ
津市
(立合町)<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高178㎝,幅29㎝,厚25㎝
天保3(1832)
WEB(北伊勢の道標)
個人宅の庭
(正面)「右 ひさい道」、(左面)「左 さん久"う道」
4
B
戸木町の道標
へき
津市
戸木小学校・校庭
<奈良街道>
石道標(尖頭角柱)
高87㎝,幅23.5㎝,厚22㎝
天保7(1836)
WEB(北伊勢の道標)
移設→設置方法が悪く、下部の刻字が読めない
(正面)「ひたり さ…」
3
C
一身田町の道標
(高札場の道標)
いっしんでん
津市
<伊勢別街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高168㎝(うち台石14㎝),28.5cm角
天保8(1837)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
近接移設?
(正面)「左 御堂 并 京道」、(右面)「右 江戸みち」、(左面)「右 さんぐう道」
1
C
美杉町石名原の道標
(払戸の道標)
みすぎ、
いしなはら
津市
(払戸)<伊勢本街道>
石道標(三角柱)
高94㎝,幅26㎝,厚16㎝
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設?
(正面)「右 なばり/左 はせ、道」、(左面)「すく いせみち」/三角柱の道標は稀
2
C
河辺町の道標
こうべ
津市
石道標
高96㎝,幅21㎝,厚19.5㎝
天保15(1844)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「右 一身田道」、(右面)「左 片田道」、(左面)「式内石積神社」、
(同下部)「是ヨリ/十一丁」
1
C
二ノ町の道標
にの
津市
<奈良街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高138㎝,幅25㎝,厚23.5㎝
弘化3(1846)
WEB(北伊勢の道標)
個人宅の前庭
(正面)「左 ならみち」、(左面)「右 さんぐう道」/裏面の「町内安全」という刻字は、常夜灯には多くても道標では珍しい
3
C
芸濃町北神山の道標
げいのう、
きたこやま
津市
<榊原道>
石道標
高74㎝,23㎝角
嘉永5(1852)
WEB(北伊勢の道標)
傾いて、下部埋没
(正面)「右 さ加き者"ら/左 つみち」、(左面)「右 榊原/左 津、道」
2
-
美杉町上多気の道標
みすぎ、
かみたげ
津市
<伊勢本街道>
石道標(自然石)
高188㎝(うち台石15㎝),幅92㎝,厚28㎝
嘉永6(1853)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
台石とC接合
(正面)「すぐ いせ道」、(裏面)「すぐ 者せ道」/薄い卵型の自然石の両面に陰刻
2
B
芸濃町北神山の地蔵道標
げいのう、
きたこやま
津市
<伊勢別街道>
石道標(尖頭角柱)
高78㎝,22.5㎝角
嘉永7(1854)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(左面)「右 多門/左 たき、道」/正面上2/3を長方形に削り込み地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
2
C
一志町井関の道標
いちし、
いせぎ
津市
井関住吉神社
<初瀬街道・多気街道>
石道標(尖頭角柱)
高113㎝,30.5㎝角
慶応2(1866)
WEB(北伊勢の道標)
移設/下部埋設
(正面)「(右指差し)右 者せみち」
3
C
白山町稲垣の地蔵道標
はくさん、
いなかけ
津市
(次長谷)
石道標(舟型)
高52㎝,幅30㎝,厚20㎝
慶応3(1867)
WEB(北伊勢の道標)
C基礎上→移設
(光背右)「右 南出道」、(同左)「左 上ノ川」/光背中央に地蔵立像を陽刻
2
C
香良洲町地家の道標2
からす、
じけ
津市
<香良洲道>
石道標
高162㎝,幅26㎝,厚24.5㎝
幕末~明治初期
WEB(北伊勢の道標)
移設/C台石
(正面)「右 津みち」、(左面)「左 雲出川道」/建立: 今村勘左衛門(上記の「香良洲町馬場の常夜灯」の寄進者の中に名がある)→時代が幕末から明治初期と特定できる
2
C
美杉町丹生俣の道標
みすぎ、
にゅうのまた
津市
(中俣)<伊勢本街道>
石道標(自然石)
高63㎝,幅38㎝,厚15㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「右 川上/左 か者多、ミち」(「ミち」の使用→江戸期)/常夜灯(安政2)のすぐ前にある
1
-
雲林院井堰
うじいん
津市
安濃川
取水堰
延宝3(1675)
県史跡
市教委
寛政2(1790)、昭和2・25に改修
施工: 津藩郡奉行・柳田猪之助/井堰・灌漑用水路を造り新田開発
5
雲出井
くもずゆ
津市
雲出川
用水路
長13㎞→総延長100㎞
慶安2(1649)
市史跡
市教委
その後何度か補修・延長された(C改修を含む)
施工: 津藩士・西島八兵衛之友/雲出川から取水し、高茶屋で水を3水路(高郷井、八寸、揚溝)に分ける
4
C
松本崎紀功碑
まつほざき
津市
石碑
嘉永2(1849)
市史跡
市教委
保存状態良好
寛政4(1792)、松本宗十郎安親が津藩に願い出て、3年をかけて安濃川と志登茂川を分流し堤防を造り、新田を開発したことを顕彰したもの
1
一身田寺内町の環濠
いっしんでん
津市
専修寺を中心とした寺内町
環濠、土塁
長東西500m,南北450m,幅5.4m(南側),幅1.8m(東北西川)
文禄元(1592)以前
WEB/市教委
東側の濠幅は4.5m→1.8m、北側の濠幅は5.4m→1.8m/すべてCの2段水路化/一身田寺内町観光振興懇話会が定期的に清掃活動を実施
普通名詞としての「寺内町」の環濠が四周に残っているのは全国的にも珍しい(南側は濠でなく毛無川)/西側には土塁も残る/一御田神社の文禄元の屋根葺替え棟札に「寺内地下勧進ニ入」とある→この時までに寺内町が成立
3-4
A
三泗堤防
さんし
津市
安濃川→岩田川
分水(洗堰)
江戸期?
市教委
大規模な修復
城下町を洪水から守るためのシステム=安濃川の水位が上がった時は、この部分を切って岩田川に水を流した
B
美里町北長野の火除け土手
みさと、
きたながの
津市
<伊賀街道・長野宿>
土塁
(北側)間口16m,奥行18m,高3m
正徳4(1714)以降?
WEB(北伊勢の道標)
/島ケ原村史
南側土手は消滅/北側土手も石垣に改修
宿場のほぼ中央に高く築かれた土手→火事が起きても町の半分は助かる仕組み/正徳4の大火後の構築か?
3
B
平岩の渡り瀬
ひらいわ
伊賀市
<伊賀街道/服部川>
飛び石
江戸期
市教委
川の中に滑らかな石が点在→出水時の渡り瀬/宝永5(1708)の記録に、上野城代が津から帰る時の話として、「下阿波川渡り瀬水高候付き渡り瀬之上平岩ノ渡り瀬を越候」という記述がある
C
下川原の勧進橋石碑
しもがわら
伊賀市
<初瀬街道/木津川上流>
石碑(自然石)
文化5(1805)
市教委/WEB(北伊勢の道標)
中山橋の架設工事中に川底から発見
→再建立(移設)
(正面)「奉供養勧進橋」、(同右上に小さく)「此川以前石飛之所永代迄板橋ニ之有」/越後国亀田の小木留吉が文久2(1862)に書いた道中日記、群馬の伊勢工の記録に、この橋を渡るのに2文の通行料を取られた、と記されていることの証明になった
2
C
高尾の勧進橋石碑
たかお
伊賀市
<初瀬街道/前深瀬川>
石碑(自然石)
文政8(1825)
市教委
保存状態良好
「大日如来/馬頭観音、永代勧進橋」/施主: 鈴木伊助
1
C
上野車坂町の太神宮常夜灯
うえのくるまざか
伊賀市
<伊賀街道>
石常夜灯
高4.32m
寛政11(1799)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(竿正面)「太神宮」、(竿左面)「万人講中」/春日型の笠/猫脚/石基壇なし
1
A
伊勢路の太神宮常夜灯
いせじ
伊賀市
<初瀬街道>
石常夜灯
高3.88m(うち基壇0.70m)
文政11(1828)
WEB(みえ歴史街道)
伊勢路の宿の辻にそのままの形(交差点の真ん中)に残る/大正11年に改基
(竿正面)「太一」/きれいに整形された基壇石垣の上に5段の台石が載る(大正11の改築)→創建時の高さ不明
2
B
依那具の太神宮常夜灯
いなぐ
伊賀市
依那具の消防団器具庫
<初瀬街道>
石常夜灯
高4.87m(うち基壇0.88m)
天保6(1835)
移設?
(竿正面)「太神宮」/猫脚/宮勾配になった切込み接ぎの基壇石垣/消防器具庫、火の見櫓が隣接(火事除けの秋葉信仰と関連がなくても隣接している稀な例)
2
A
荒木の太神宮常夜灯
(中之瀬の常夜灯)
あらき
伊賀市
<伊賀街道>
石常夜灯
高4.45m(うち基壇0.76m)
弘化5(1848)
WEB(北伊勢の道標)/市教委
移設/基壇石垣が練積化
(竿正面)「太神宮」、(竿左面)「道中安全」/春日型の笠/笠屋根の裏に垂木模様/猫脚/石基壇
2
A
阿保の太神宮常夜灯
(阿保西部の常夜灯)
あお
伊賀市
<初瀬街道>(阿保宿)
石常夜灯
高5.05m(うち基壇0.78m)
安政7(1860)
WEB(北伊勢の道標)/市教委
昭和46に道路整備のため移設/電気点灯
(竿正面)「大神宮」/猫脚/江戸中期、庶民の間に神宮参拝が盛行し、常夜灯建立の習俗を生み出した→信者が常夜灯講を組織し、講員が出資して常夜灯を建立し、輪番で灯明を点じ、神宮を遥拝した
2
A
川西の供養塔道標
かわにし
伊賀市
西之澤農業集会所・前
<徳楽寺参道>
石道標(自然石)
高76㎝,幅28㎝,厚30㎝
寛政元(1789)
WEB(北伊勢の道標)
C台石→移設
(正面「右 いせ」、(左面)「左 み婦能ミち」/右面に「奉供養四国八十八箇所塔」と陰刻
2
-
出後の供養塔道標
いずご
伊賀市
<伊賀街道>
石道標(自然石)
高96㎝,幅46㎝,厚20㎝
文化2(1805)
WEB(北伊勢の道標)
C台石→移設
(正面右下)「右 いセ道」、(同左下)「左 山田 深川」/正面中央に「奉供養大峯山上 三十三度爲世安樂」と印刻
2
C
西高倉の道標
にしたかくら
伊賀市
西高倉公民館・西
石道標(尖頭角柱)
高74㎝,幅24㎝,厚23㎝
文化9(1812)
WEB(北伊勢の道標)
C台石→移設
(正面)「すく、志可らき/大津 京、道」、(左面)「塩岡山薬師院」/塩岡山薬師院=徳楽寺
2
-
上野丸之内の道標
(札の辻の道標)
うえの、
まるのうち
伊賀市
<大和街道>
石道標(尖頭角柱)
高137㎝,幅42.5㎝角
文政2(1819)
WEB(北伊勢の道標)
移設→個人宅・庭
(正面)「右、京 大坂/なら みち」、(左面)「左 者せ よし能/山上 みち」/台石が装飾的な猫脚→道標としてはきわめて稀
4
C
上野赤坂町の道標
うえの、
あかさか
伊賀市
赤坂町集議所・裏庭
<大和街道>
石道標
高144㎝,幅31㎝,厚30㎝
文政6(1823)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「左 東海道 せき道」、(左面)「右 奈ら 者せ 山上道」
3
C
下川原の道標
しもがわら
伊賀市
<初瀬街道>
石道標(自然石)
高73㎝,幅39㎝,厚30㎝
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
下部埋没/ガードレール脇
(正面)「右 いせ道」、(○面)「宮川迄 十四里」
2
-
小田町の道標
(鍵屋の辻の道標)
おた(かぎやのつじ)
伊賀市
<大和街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高194㎝,幅43㎝,厚42.5㎝
文政13(1830)再建
市指定
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
原位置?
(正面)「みぎ いせミち」、(右面)「ひだり 奈ら道」/日本三大仇討ちの一つに残される実伝でも有名/地元のWEBサイトに「伊勢街道と奈良街道の分岐点とあるのは間違い(伊勢街道は全く違うルート、奈良街道は大和街道の別名→要は、この地点で大和街道の奈良方面と伊勢方面を示しただけ)
1
B
老川の題目塔道標
おいかわ
伊賀市
(下出)<極楽寺参詣道>
石道標(尖頭角柱)
高144㎝,幅35㎝,厚37.5㎝
弘化5(1848)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(右面)「右 老川如来道」、(右面)「右 老川如来道」、(左面)「左 老川如来道」、(同最下部)「是より/四丁」/正面に「日本三躰如来」と陰刻
1
C
下阿波の題目塔道標
しもあわ
伊賀市
(須原)大橋・東詰
<伊賀街道>
石道標(自然石)
高237㎝,幅84㎝,厚47㎝
嘉永2(1849)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設?
(左面)「右 京、なら/大坂、道」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/台石に「往来安全」/傍らに、芭蕉の「から傘に 押し分け見たる 柳かな」の句碑がある
2
B
印代の道標
いじろ
伊賀市
印代公民館・前庭
<大和街道>
石道標(尖頭角柱)
高103㎝,24.5㎝角
嘉永3(1850)
WEB(北伊勢の道標)
移設/下部埋設
(正面)「右 東海道 せき…」、(右面)「左 奈良 者せ 山上…」
3
C
下神戸の道標
しもかんべ
伊賀市
無量寿福寺前・三差路
<無量寿福寺参道>
石道標
高115.5㎝,30㎝角
慶応3(1867)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 志むでん越 者せ道」、(同左下隅)「是より 天どうへ三丁」、
(左面)「左 あな不乃宮」、(同左下隅)「是よ里 十三丁」/頂部に刳り型
1
C
上阿波の大師道標
(慈願寺の道標)
かみあわ
伊賀市
<伊賀街道>
石道標(駒型)
高75㎝,幅40㎝,厚20㎝
慶応3(1867)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設
(正面右下部)「當國八十八所」、(同左下部)「第三番 慈眼寺」/正面中央に「(梵字) 弘法大師」と陰刻
2
-
鳳凰寺の道標
ぼうじ
伊賀市
薬師寺・門前<伊賀街道>
石道標(尖頭角柱)
高125㎝,幅30㎝,厚33㎝
慶応4(1868)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)大師霊場」、(右面)「第五番 阿波國地蔵寺/轟山/薬師寺」、(左面)「是ヨリ、大佛寺江 三リ/文殊院江 五丁/安養寺江 六丁」/鳳凰寺は地名
1
C
上野農人町の道標
うえの、
のうにん
伊賀市
農人町集議所・裏庭
<伊賀街道>
石道標(尖頭角柱)
高140㎝,29㎝角
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「春ぐ いせ/左り 江戸、みち」、(右面)「是より/北江、東海道 関」、(左面)「すぐ、京 大坂/なら はせ、道」、(裏面)「(右指差し)すぐ 者せ」/4面すべてが道しるべとなっていうる例は少ない
3
B
長田の道標
ながた
伊賀市
(市場)<大和街道>
石道標
高93.5㎝,20.5㎝角
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「射手八幡宮道」、(右面)「是より三丁」、(左面)「左 ならミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性/左面の「ならミち」の部分が四角く彫り込んである
1
C
上阿波の道標
(大仏道標)
かみあわ
伊賀市
(平松)八升田橋・北詰
<伊賀街道>
石道標(自然石)
高183㎝,幅85㎝,厚42㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
移設/三方を鉄柵で囲む/下部埋設
(正面)「右、い者やふどう明王/志ゆん志"よう本う、みち」、(同右)「大佛」、(同左下)「かけぬけ本みちよりちかし」/伊勢からの参拝者は、この道を通るのが近道だった
3
B
阿保の道標
あお
伊賀市
<初瀬街道>
石道標(自然石)
高161㎝(うち台石16.5㎝),幅58㎝,厚34㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
台石とC接着→移設?
(正面)「一光三尊如来道)、(同左下)「是ゟ南 四十丁」、(左面)「兼好法師塚に/四十六丁」
2
C
廃補陀落寺の町石(基石)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高91㎝,幅63㎝
建長5(1253)
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
廃補陀落寺の町石は入口から補陀落寺まで丁数順に並んでいる
(入口が基石=1丁)
/廃補陀落寺から奈良街道への道中に設置/紀年銘は基石と四町石に刻字→国内で2番目に古い=国内最古は大阪・箕面市の勝尾寺町石(1247)/(正面)「(梵字)建長五年癸丑」/建立: 反真永
1
A
廃補陀落寺の町石(三丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高90㎝,幅77㎝,厚26㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)三丁」/建立: 僧印増
1
B
廃補陀落寺の町石(四丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高113㎝,幅63㎝,厚44㎝
建長5(1253)
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
/現地解説板
昭和28の土石流で2㎞も押し流された(原位置?)
(正面)「(梵字)四丁 建長五年癸丑」/建立: 覚円(当時の念仏衆団に関係した僧)/年代が彫られているのは基石と四町石のみ
2
A
廃補陀落寺の町石(五丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高107㎝,幅58㎝,厚20㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
昭和期の発見(原位置?)
(正面)「(梵字)五丁」/建立: 国(?)重吉
2
B
廃補陀落寺の町石(七丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高67㎝,幅35㎝,厚30㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)七丁」/建立: 藤原友重
1
B
廃補陀落寺の町石(八丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高69㎝,幅41㎝,厚20㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
昭和29、災害復旧工事中に発見→再設置
(正面)「(梵字)八丁」/建立: 源守清
2
B
廃補陀落寺の町石(九丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高68㎝,幅53㎝,厚29㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)九丁」/建立: 下守實 or
□
安
□
1
B
廃補陀落寺の町石
(十二丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高70㎝,幅54㎝,厚23㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)十二丁」/建立: 藤原氏
1
B
廃補陀落寺の町石
(十三丁)
ふだらくじ
伊賀市
<補陀落寺参道>
町石
(自然石、花崗岩)
高71㎝,幅54㎝,厚42㎝
鎌倉時代中期
国史跡
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(梵字)十三丁」/建立: 本為貞 or
□
木為貞 or
□
木
□
貞
1
B
上野農人町の牛つなぎ石
うえののうにん
伊賀市
<伊賀街道>
牛繋石
高33㎝
江戸期?
WEB(みえの歴史街道)/市教委
移設、保存環境劣化
自然石の上部に真円の小穴が開いている
3
C
島ケ原の火除土手
しまがはら
伊賀市
<大和街道・島ヶ原宿>
土塁
寛保2(1742)以降?
市教委(島ケ原村史)
道の両側に低い石塁の形で残る
宿場のほぼ中央に高く築かれた土手→火事が起きても町の半分は助かる仕組み/寛保2の大火後の構築か?
4
C
荒木の石切り場
・跡
あらき
伊賀市
<伊賀街道>
石切り場
江戸期?
WEB(みえの歴史街道)/WEB
2
C
猪田神社の古井
(天真名井)
いだ(あまのまな)
伊賀市
猪田神社
石積井
建屋の大きさは約4m四方
中世以前
県史跡
WEB
木造瓦葺きの建屋内/井戸穴の上部周囲を不均質な自然石で囲む
この井戸と伊勢神宮外宮の忍穂井とが通じているとの伝説がある
1
B
宇治橋
うじ
伊勢市
内宮参道/五十鈴川
木桁橋
長101.8m(14G),幅8.42m
寛政5(1467)、永正2(1505)、天文16(1547)→何度も架替え
日本百名橋p116-117/WEB
平成元(1989)架設/明治以降は式年遷宮に合わせて架替え→昭和24から遷宮の4年前の架替え
架設(寛政5): 大橋勧進聖本願坊(翌年流失、現在の形態かどうかは不明)、架設(永正2):守悦、架設(天文16):清順→現在の橋は、江戸期の橋に近いと思われる(拡幅、それに伴う橋桁本数増などはある)
3
A
極楽橋
ごくらく
伊勢市
金剛證寺
石桁橋
長3.7m(2G),
幅2.8m
慶長年間(1596-1615)
市有形
WEB
保存状態良好
本多忠勝の家臣・下里信種によって慶長年間に架設・寄進されたとされる/完形で残る沖縄以外で国内最古の可能性のある石桁橋
1
B
亀石橋
かめいし
伊勢市
外宮正殿~別宮
石桁橋(自然石)
年代不詳
(近代でないことは確実)
WEB
保存状態良好
亀の形を思わせる一枚岩の橋/伊勢神宮内の橋
1
C
宇治館町の道標1
(宇治岳道の道標)
うじたち
(うじたけ)
伊勢市
<宇治岳道・磯部道>
石道標(自然石、緑泥片岩)
高230㎝,幅100㎝,厚20㎝
寛永3(1626)
伊勢市の石造遺物p61・91
移設されていたが、現在はほぼ元の位置に再移設
(正面)「(梵字)朝熊岳道」/17世紀の道標
1
A
宇治岳道の地蔵道標
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
石道標(舟型、花崗岩)
高103㎝,幅40㎝,厚19㎝
元禄元(1688)?
伊勢市の石造遺物p92
上から3分の1の位置で水平に折損/光背の頂部が欠落/C台石
(光背右)「
□
勢度会郡朝熊道」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/17世紀の地蔵像道標は稀(ただし、「元禄」は文字摩耗で推定)
3
B
朝熊町の道標1
(地蔵堂前の道標)
あさま
伊勢市
地蔵堂・前<朝熊村岳道>
石道標(花崗岩)
高135㎝,幅27㎝,厚24㎝
安永8(1779)
伊勢市の石造遺物p67・123
移設(C台石)/下部埋設
(正面)「右 あさまたけ/左 志州 とは、…」
3
C
矢持町の地蔵道標
やもち
伊勢市
(床木)
石道標(舟型)
高72.5㎝,幅31㎝,厚11㎝
安永9(1780)
伊勢市の石造遺物p68
(光背右)「右 いひもり道」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
1
C
朝熊町の道標2
(金剛寺・極楽門横の道標)
あさま
伊勢市
金剛寺・極楽門横
石道標
高126㎝,幅27㎝
寛政元(1789)
伊勢市の石造遺物p78
移設、集約
(正面)「於くのいんへ 二丁」/頂部に刳り型/上段台石に蓮の花の陽刻
3
C
東豊浜町の道標
ひがしとよはま
伊勢市
北村邸・前
石道標(砂岩)
高150㎝,21.5㎝角
寛政12(1800)
伊勢市の石造遺物p65
原位置?
(正面)「左 兩宮 みやがわ道」、(右面)「左 あさまたけ道」、(左面)「右 二見浦道、是より/五十丁」
1
C
宮後の道標
みやじり
伊勢市
(3丁目)養草寺
石道標(花崗岩)
高148㎝,24.5㎝角
文化2(1805)
伊勢市の石造遺物p64
/WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「南 右 二見道」、(右面)「東 左 宮川ミち」、(左面)「西 すく ふ多見ミち」、(裏面上部)「此方、大みなと/かミやしろ」
2
C
楠部町の供養塔道標
くすべ
伊勢市
松尾観音寺
石道標
高54.5㎝,幅25㎝,厚25.5㎝
文化9(1812)
伊勢市の石造遺物p51
移設(台石は後補→「高さ」には含めず)
(左面右)「たけ道」/正面に「千/日/参、供養」と大きく陰刻
2
-
中之町の道標1
なかの
伊勢市
麻吉旅館下の公園内
石道標(花崗岩)
高94㎝,幅15.5㎝,厚15㎝
文化10(1813)
伊勢市の石造遺物p63
移設
(正面)「徒ゝら石道」
2
C
常磐町の道標
(常磐一丁目の道標)
ときわ
伊勢市
(1丁目)山田上口駅・近く
<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高144㎝,幅30㎝,厚27㎝
文政5(1822)
伊勢市の石造遺物p64
/WEB(北伊勢の道標)
都市計画により50mほど移設
(正面)「右 宮川渉場 六丁三十九間」、(右面)「左 二見浦 二里十五丁」、(裏面)「すぐ、外宮江 十三丁半/内宮江 壹里三十三丁半」/設置責任者: 御師・橋村右近大夫→道標建立まで御師が関与したことを示す
(大坂の吹田屋喜兵衛ら3名の寄進者は、恐らく橋村右近大夫の檀家)
2
B
御薗町小林の道標
みその、
おはやし
伊勢市
<新茶屋道>
石道標
文政6(1824)
WEB(北伊勢の道標)
近接移設?
(正面)「右 大み奈と道」、(右面)「左 新茶屋道」/文政6年12月は西暦1824年
2
C
黒瀬町の道標
くろせ
伊勢市
黒瀬公民館・敷地内
石道標(花崗岩)
高204㎝,幅37.5㎝,厚37㎝
文政12(1829)
伊勢市の石造遺物p65
移設
(正面)「西 外宮 みや川道/東 ふた見ミち」、(右面)「右 内宮 古市道」、(左面)「左 ふる市、ちかみち」
2
B
朝熊町の道標3
(金剛証寺・本堂前の道標)
あさま
伊勢市
金剛証寺・本堂前
石道標(花崗岩)
高179㎝,幅24㎝
文政13(1830)
伊勢市の石造遺物p78/
県石造物調査報告2p108
移設
(正面)「是より 於久能ゐんへ 二丁」
2
B
宇治館町の道標2
うじたち
伊勢市
神宮司庁・横<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高184㎝,40㎝角
文政13(1830)
伊勢市の石造遺物p61・112
(正面)「南 右、あさまみち 六十二丁/いそべミち 三リ半」、(左面)「西 左 二見浦 百丁」/朝熊宇治岳道の事実上の起点
B
川端町の常夜灯道標1
かわばた
伊勢市
石道標(常夜灯兼、花崗岩)
高180㎝
文政13(1830)
伊勢市の石造遺物p75
移設
(竿正面)「いせ兩宮一里燈」、(竿右面)「本街道川端西入口」/下記の
「川端町の常夜灯道標2」と並ぶ
2
C
川端町の常夜灯道標2
かわばた
伊勢市
石道標(常夜灯兼、花崗岩)
高180㎝
文政13(1830)
伊勢市の石造遺物p75
移設
(竿正面)「いせ兩宮一里燈」、(竿左面)「本街道、是より/外宮迄、廿八丁」/上記の「川端町の常夜灯道標1」と並ぶ
2
C
中村町の道標1
なかむら
伊勢市
中村公民館・脇
石道標(花崗岩)
高122㎝,20㎝角
天保3(1831)
伊勢市の石造遺物p66/WEB(北伊勢の道標)
転倒・放置
(正面)「宮川 ふる市道」、(右面)「右 婦多み と者道」(=二見,鳥羽)、(裏面)「左 さんくうミ
□
」
3
C
宇治今在家町の道標
うじいまざいけ
伊勢市
林崎文庫・前<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高154㎝,30㎝角
天保5(1834)
伊勢市の石造遺物p62
(正面)「林崎文庫、是より/一丁」、(右面)「林崎文庫、是より/一丁」
C
朝熊町の道標4
(金剛証寺・宝物館前の道標)
あさま
伊勢市
金剛寺宝物館・前
石道標(花崗岩)
高120㎝,29㎝角
天保7(1836)
伊勢市の石造遺物p67
移設/基部露出
(正面)「南 左 さんけい道」、(右面)「東」、その下に「見留札亭/行船や 霖む中」と句が刻字、(左面)「西」、(裏面)「北」
2
C
中之町の道標2
なかの
伊勢市
麻吉旅館・前<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高143㎝,幅24㎝,厚23㎝
天保
□
(1830-43)
伊勢市の石造遺物p62/WEB(北伊勢の道標)
近接移設
(正面)「(模様)此おく/つゝらいし」、(左面)「左、あさま/二見、へ ちか道」/右面に「華千部月の八日ゆ十二日/古話に物ふ水ゆ
□
供
□
」と陰刻
2
C
中村町の道標2
なかむら
伊勢市
石道標(花崗岩)
高120㎝,23㎝角
弘化2(1845)
伊勢市の石造遺物p66
移設?
(正面)「右 二見 鳥羽道」、(右面)「左 さん宮道」
2
C
尾上町の道標
おのえ
伊勢市
簀子橋・前<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高180㎝,幅27㎝,厚25㎝
弘化4(1847)
伊勢市の石造遺物p63
原位置?
(正面)「すぐ二見、川崎神やしろ/左り みや川、道」、(左面)「右 御さんくう、妙見町/古市、道」、(裏面)「すぐ 御さんくう道 妙見町」
1
B
河崎の道標
かわさき
伊勢市
河崎南側公民館・前
石道標(花崗岩)
高224㎝,30.5㎝角
嘉永6(1853)
伊勢市の石造遺物p71
近接移設?/最下部折損→金属で補強/左面の「南」以下の陰刻が意図的に塗消
(正面上部)「東」、(同下部) 向 河岢」、(右面)「北 す久、外宮 山田/内宮 古市、道」、(左面)「南 朝熊岳
□□
道」、(裏面)「西 左、二見 大湊 神社/ミや川、道」
3
B
矢持町の道標
やもち
伊勢市
(床木)
石道標(駒型)
高38㎝,幅20㎝,厚9㎝
嘉永7(1854)
伊勢市の石造遺物p68
原位置?/中央で水平に折損→修復
(正面)「右 内瀬村/左 五ヶ所、道」
2
-
朝熊町の道標5
(金剛証寺・連間の池横の道標)
あさま
伊勢市
金剛証寺連間の池・横
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高97㎝,幅32㎝,厚30㎝
嘉永7(1854)以降
伊勢市の石造遺物p77/WEB(北伊勢の道標)
移設/台石が大きく道標本体は小さい
(正面)「左 さんけい道」/文政元と嘉永7に死亡した人の供養塔
2
C
八日市場町の道標
ようかいちば
伊勢市
石道標(花崗岩)
高164㎝,幅30.3㎝,厚14㎝
元治元(1864)
伊勢市の石造遺物p78
(正面)「西 外宮/東 内宮、さんぐう道」、(右面)「すぐ 内宮 さんけいみち」
1
C
一宇田町の道標
いちうだ
伊勢市
石道標(花崗岩)
高130㎝,幅21㎝,厚20㎝
慶応4(1868)
伊勢市の石造遺物p77
移設→個人宅の庭
(正面)「右 二見ヶ浦/左 宮川道」、(右面)「すく さんくう道」、(左面)「右 あさまたけ
□□
/すく 二見浦」
4
C
朝熊町の道標6
(金剛証寺・総門前の道標)
あさま
伊勢市
金剛証寺・総門前
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高170,幅21.5㎝,厚21㎝
江戸期?
伊勢市の石造遺物p77
移設?
(正面)「(左指差し)さんけい道」、(同下部)「是より/三丁」
2
C
朝熊町の道標7
(金剛証寺境内の道標)
あさま
伊勢市
金剛証寺
石道標(花崗岩)
高111,幅19㎝,厚16㎝
江戸期?
伊勢市の石造遺物p77
移設?
(正面)「左 さんけい道」
2
C
朝熊町の道標8
(磯部道入口の道標)
あさま
伊勢市
磯部道・入口
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高89,幅18㎝,厚17.5㎝
江戸期?
伊勢市の石造遺物p77
原位置?/下部埋設
(正面)「右 いそべみち 二り」、(左面)「左 満るやま道 三十丁」
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(三丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高73㎝,幅31㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p91
原位置?(光背の一部に剥離)→「伊勢市の石造遺物」の調査後紛失?
宇治岳道の町石は宇治(内宮)方面から金剛證寺まで概略的には丁数順に並んでいる(移動もかなり多い)(入口が1丁)
/大半を占める地蔵町石と、後年の角柱町石が混在する/朝熊岳信仰/(光背頂部)「三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
(1)
C
宇治岳道の角柱町石
(四町)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
高71㎝,15.2㎝角
江戸期?
伊勢市の石造遺物p91-2
原位置?→「伊勢市の石造遺物」の調査後紛失?
(正面)「四町」
(1)
-
宇治岳道の地蔵町石
(十五丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高55㎝,幅26㎝,厚11㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p92
原位置?
(光背右)「十五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/3基が並んでいる
1
-
宇治岳道の地蔵町石
(十一丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高65㎝,幅30㎝,厚11㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p92
移設?
(光背頂部)「十一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/3基が並んでいる
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
五丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高63㎝,幅31㎝,厚11㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p92
原位置?/光背頂部が剥離
(光背頂部)「
□
五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/3基が並んでいる
2
C
宇治岳道の角柱町石
(十六町)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
高115㎝,幅20.5㎝,厚16㎝
延享3(1746)?
伊勢市の石造遺物p93
原位置?
(正面)「十六町」/施主: 萩原三郎右衛門(武州)/建立年が特定できる町石は数少ない
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
六丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高45㎝,幅25㎝,厚10㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p113
原位置?/光背上部が欠損(「六」の上に「十」らしき字が見られる)
(光背右上)「
□
六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
3
-
宇治岳道の地蔵町石
(
□
丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高78㎝,幅28㎝,厚13.5㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p94
光背がかなりの部分欠損→頭部も欠如→マジックで顔が描かれている
(光背右上)「
□
丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/石仏と並んでいる
4
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高62㎝,幅30㎝,厚13.5㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p95
地蔵尊の肩から上が欠損→欠落部分に丸石が接着、マジックで顔が
台座の形態から地蔵町石と推定/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
4
C
宇治岳道の地蔵町石
(二十五丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
近代 or 江戸期?
WEB(神宮巡々)
原位置?
(光背右上)「二十五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(二十六丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高74.5㎝,幅30㎝,厚14.3㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p95
原位置?
(光背右上)「二十六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/2基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(二十六丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高69.2㎝,幅29.5㎝,厚17㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p95
原位置?
(光背右上)「二十六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/2基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
江戸期?
WEB(神宮巡々)
移設/光背上部が部分的に剥離
(光背頂部)「四丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/三十丁横廻国塔、下記(三十丁)(三十町)と4基が並ぶ
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高107.5㎝,幅40㎝,厚21㎝
元禄2(1688)?
伊勢市の石造遺物p96
原位置?/地蔵尊の下3分の1が欠損
(光背頂部)「三十丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/建立年が刻字されている町石は数少ない/2基が並んでいる
3
C
宇治岳道の角柱町石
(三十町)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
高112㎝,幅20.5㎝,厚15.2㎝
延享3(1746)?
伊勢市の石造遺物p96-7
原位置?
(正面)「三十町」/施主: 萩原三郎右衛門(武州)/建立年が特定できる町石は数少ない/2基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(十九丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
近代 or 江戸期?
WEB(神宮巡々)
移設/光背上部が欠損
(光背右上)「十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻=下記(二十八丁)(三十一丁)2と同じ作者
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十一丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
江戸期?
WEB(神宮巡々)
原位置?
(光背右上)「三十一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
1
-
宇治岳道の地蔵町石
(二十八丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
近代 or 江戸期?
WEB(神宮巡々)
移設
(光背右上)「二十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻=上記(十九丁)、下記(三十一丁)2と同じ作者/2基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十一丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
近代 or 江戸期?
WEB(神宮巡々)
移設
(光背右)「三十一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻=上記(十九丁)(二十八丁)と同じ作者/2基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十二丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高30㎝,幅40㎝,厚21㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
??
伊勢市の石造遺物p97
原位置?/町石の上3分の1のみ残存→「伊勢市の石造遺物」の調査後紛失?
(正面)「三十二丁」
(4)
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十三丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高90.5㎝,幅31.5㎝,厚15㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p97-8
原位置?/地面から抜けた状態
(光背右)「三十三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(二十七丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
江戸期?
WEB(神宮巡々)
移設
(光背右上)「二十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(
□
十六丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高99㎝,幅38㎝,厚20㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p98
移設/光背頂部が剥離
(光背上部)「
□
十六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(三十八丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高95㎝,幅36㎝,厚20㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p98
原位置?
(光背頂部)「三十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/2基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(三十九丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高92㎝,幅37㎝,厚16㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p98
原位置?
(光背頂部)「三十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/2基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高114.4㎝,幅36.5㎝,厚16㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p99
原位置?/地蔵尊の下3分の1が欠損
(光背頂部)「三十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
3
C
宇治岳道の角柱町石
(四十町)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
高102㎝,幅20.5㎝,厚16.5㎝
延享3(1746)?
伊勢市の石造遺物p99
原位置?/潅木に囲まれて視認困難
(正面)「四十町」/施主: 萩原三郎右衛門(武州)/建立年が特定できる町石は数少ない
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
丁)3
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p99
地蔵尊の肩から上が欠損/転倒→「伊勢市の石造遺物」の調査後紛失?
形態から地蔵町石と推定/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
(4)
-
宇治岳道の地蔵町石
(四十一丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高108㎝,幅35㎝,厚20㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p100
原位置?
(光背頂部)「四十一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十二丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高104㎝,幅36.5㎝,厚16㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p100
原位置?
(光背頂部)「四十二丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
丁)4
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高37㎝,幅35㎝,厚14㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
??
伊勢市の石造遺物p100
地蔵尊の下3分の1のみ残存
形態から地蔵町石と推定/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
4
-
宇治岳道の地蔵町石
(四十三丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高61.5㎝,幅30㎝,厚16㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p101
原位置?
(光背右端)「四十三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十四丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高107.5㎝,幅36.5㎝,厚16㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p101
原位置?
(光背頂部)「四十四丁」/全面に地蔵菩薩立像(錫杖)が陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十五丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高95㎝,幅36㎝,厚19㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p101
原位置?
(光背頂部)「四十五丁」/全面に地蔵菩薩立像(錫杖)が陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十四丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高63㎝,幅29㎝,厚15㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p102
移設/光背頂部が欠損
(光背右)「四十四丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十六丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高104㎝,幅37.8㎝,厚20㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p102
原位置?/中央で水平に折損/数字が一部摩耗
(光背右上)「四十六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の/3基が並んでいる
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十六丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高78.5㎝,幅27㎝,厚15㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p102
原位置?
(光背右上)「四十六丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/3基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十七丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高43㎝,幅30㎝,厚15㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p102
移設?/下3分の2が埋設
(光背右上)「四十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/3基が並んでいる
3
-
宇治岳道の地蔵町石
(三十七丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高58.7㎝,幅27㎝,厚15㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p103
移設/光背頂部が欠損
(光背右上)「三十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(
□
十七丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高86㎝,幅37㎝,厚15㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p103
光背頂部が欠損
(光背頂部)「
□
十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十八丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高62㎝,幅28㎝,厚18㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p103
原位置?/光背右上が欠損
(光背右上)「四十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十八丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高52㎝,幅35㎝,厚17㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p104
移設、集約/下半分が埋設
(光背頂部)「四十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/7基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(四十九丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高69㎝,幅34.5㎝,厚21㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p104
移設、集約/下部の一部が埋設
(光背頂部)「四十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/7基が並んでいる
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(五十丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高76㎝,幅37㎝,厚19㎝
元禄2(1688)??
伊勢市の石造遺物p104
移設、集約/下部の一部が埋設
(光背頂部)「五十丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/7基が並んでいる
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(四十五丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高45㎝,幅27.5㎝,厚11㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p104
移設、集約/下部の一部が埋設
(光背右上)「四十五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/7基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(四十九丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高56㎝,幅25㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p104
移設、集約/光背上部が一部欠損
(光背右上)「四十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/7基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(
□
丁)5
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高35㎝,幅27.5㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p105
移設、集約/町石の下半分のみ残存
形態から地蔵町石と推定/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/7基が並んでいる
4
-
宇治岳道の地蔵町石
(四十七丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高59㎝,幅28㎝,厚14㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p105
移設、集約
(光背右)「四十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/7基が並んでいる
2
-
宇治岳道の地蔵町石
(五十三丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高104㎝,幅40㎝,厚19㎝
元禄2(1689)
伊勢市の石造遺物p105
原位置?/中央で水平に折損→補修
(光背頂部)「五十三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/建立年が刻字されている町石は数少ない
2
B
宇治岳道の地蔵町石
(五十三丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高66.5㎝,幅31.5㎝,厚14㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p105
移設
(光背右上)「五十三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻/下記2基他計6基が固まって立つ
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(三十丁)2
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高108.5㎝,幅40㎝,厚22㎝
元禄2(1689)
伊勢市の石造遺物p105-6
移設、集約
(光背左)「從 朝熊
□
まで 三十丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/施主:
□
や佐右エ門/形態から、道標でなく、道しるべを兼ねた町石と判断/建立年が刻字されている町石は数少ない/計6基が固まって立つ
2
B
宇治岳道の町石
(五十七町)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(自然石、青石)
高78㎝,幅57㎝,厚17.5㎝
江戸期?
伊勢市の石造遺物p106-7
移設、集約
(正面)「(梵字)五十七町」/宇治岳道で唯一の自然石町石/上記2基他計6基が固まって立つ
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(
□
十六丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高79㎝,幅37㎝,厚19㎝
元禄2(1688)?
伊勢市の石造遺物p107
原位置?/頂部が欠ける→刻字が判読困難/全体に摩耗/下部埋設
(正面)「
□
十六丁」(調査時点では「五十六」と判読できた)/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(五十七丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高88.8㎝,幅37㎝,厚19㎝
元禄2(1688)?
伊勢市の石造遺物p107
原位置?/下部埋設
(光背頂部)「五十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
宇治岳道の地蔵町石
(五十八丁)
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高41㎝,幅27.5㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p107-8
原位置?/地蔵尊の下3分の1が欠損
(光背右上)「五十八丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
3
-
宇治岳道の地蔵町石
(五十九丁)1
うじたけ
伊勢市
<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高89㎝,幅38㎝,厚18㎝
元禄2(1688)?
伊勢市の石造遺物p108
原位置?
(光背頂部)「五十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
宇治岳道の角柱町石
(六十町)
うじたけ
伊勢市
金剛証寺<宇治岳道>
町石(花崗岩)
高128㎝,幅25㎝,厚19㎝
延享3(1746)
伊勢市の石造遺物p109
移設/上部3分の1のあたりで斜めに折損→補修
(正面)「(梵字)
□□
迄 六十町」=道標的性格/施主: 萩原三郎右衛門(武州)→他の一連の同一施主(年号なし)の時代特定に貢献/角柱町石で唯一紀年銘が刻字
2
B
宇治岳道の地蔵町石
(五十四丁)1
うじたけ
伊勢市
金剛証寺<宇治岳道>
町石
(舟型、花崗岩)
高81.5㎝,幅37㎝,厚14.5㎝
元禄2(1688)?
伊勢市の石造遺物p110
移設
(光背頂部)「五十四丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(五十丁)2
うじたけ
伊勢市
金剛証寺<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高72㎝,幅29㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p110
移設
(光背頂部)「五十丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/施主: 藤エ門(勢州)
2
C
宇治岳道の角柱町石
(十八町)
うじたけ
伊勢市
(藤本邸)<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高54㎝,幅15㎝,厚13㎝
江戸期?
伊勢市の石造遺物p110
移設→個人宅の庭
(正面)「十八町」
4
-
宇治岳道の地蔵町石
(五十四丁)2
うじたけ
伊勢市
善光寺<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高61㎝,幅29㎝,厚12㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p111
移設
(光背右上)「五十四丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
2
C
宇治岳道の地蔵町石
(五十九丁)2
うじたけ
伊勢市
(二見町)赤福店
<宇治岳道>
町石(舟型、砂岩)
高53.5㎝,幅26.5
㎝,厚13.2㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p111
移設→赤福店の庭
(光背右上)「五十九丁」/光背中央に地蔵菩薩立像の陽刻
3
-
朝熊村岳道の角柱町石
(二十二町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高140㎝,幅21.3
㎝,厚18.3㎝
安永8(1779)
伊勢市の石造遺物p123/
県石造物調査報告2p109
移設
朝熊村岳道の町石は朝熊村経由で金剛證寺まで
町数順に並んでいる
(入口が1丁)
に並んでいる
/角柱町石と地蔵町石が混在する/
(正面)「(梵字)二十二町」、(左面)「是より 阿さまたふけ まて」/朝熊村岳道で紀年銘が刻字されている町石は2基のみ
2
B
朝熊村岳道の角柱町石
(一町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高148㎝,幅21.5
㎝,厚18.3㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p125
原位置
(正面)「(梵字)一町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(二丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高51㎝,幅29.5㎝,厚11.8㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p125
原位置/下部かなり埋設
(光背頂部)「二丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
-
朝熊村岳道の角柱町石
(二町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高138㎝,幅21.5
㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p125
原位置?/一部復元
(正面)「(梵字)二町」
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(三町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高149㎝,幅21.3
㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p126
原位置
(正面)「(梵字)三町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(三丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高70㎝,幅30㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
WEB(神宮巡々)/
県石造物調査報告2
原位置
(光背頂部)「三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(四丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高87㎝,幅33㎝,厚12.5㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
WEB(神宮巡々)/
伊勢市の石造遺物p125
原位置/中央部で折損→修復
(光背頂部)「四丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(四町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高163㎝,幅21.5
㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p126-7
原位置
(正面)「(梵字)四町」/伊勢市内の町石の中で最も背が高い
1
B
朝熊村岳道の地蔵町石
(五丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高61㎝,幅32㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
WEB(神宮巡々)/
県石造物調査報告2
原位置/光背頂部が剥離→刻字が判読しにくい
(光背頂部)「五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(五町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高143㎝,幅21.5
㎝,厚18.2㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p127
原位置
(正面)「(梵字)五町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(六町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高122㎝,幅21.5
㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p127
原位置
(正面)「(梵字)六町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(七町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高150㎝,幅21㎝
安永8(1779)?
WEB(神宮巡々)/
県石造物調査報告2
原位置?/中央で水平に折損→鉄枠で部分補強
(正面)「(梵字)七町」
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(八町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高125㎝,21.3㎝角
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p129
原位置
(正面)「(梵字)八町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(九町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高113㎝,幅21㎝,厚19.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p130
原位置/下部の一部埋設
(正面)「(梵字)九町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(蒲鉾型)
高140㎝,幅22㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p131
原位置/下部の一部埋設
(正面)「(梵字)十町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十一町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高178㎝,幅21.5
㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p132
原位置
(正面)「(梵字)十一町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(十一丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高52㎝,幅32㎝,厚8㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p132
原位置/中央部で折損→補修
(光背頂部)「十一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十二町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高126.5㎝,幅21.5㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p133
原位置/下部の一部埋設
(正面)「(梵字)十二町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(十三丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高77㎝,幅31㎝,厚13㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p134
原位置/下部の一部埋設/頂部が少し剥離
(光背頂部)「十三丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十三町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高138.5㎝,幅21.3
㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p134-5
原位置
(正面)「(梵字)十三町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十四町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高134㎝,幅21.7
㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p135
原位置
(正面)「(梵字)十四町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(十五丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高90㎝,幅31.5㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
WEB(神宮巡々)/
県石造物調査報告2
原位置
(光背頂部)「十五丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十五町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高145㎝,幅21㎝,厚18㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p135
原位置
(正面)「(梵字)十五町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十六町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高127㎝,幅21.5
㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p135-6
原位置/下部の一部埋設
(正面)「(梵字)十六町」
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十七町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高116㎝,幅21.5
㎝,厚18.4㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p136
原位置/下部埋設
(正面)「(梵字)十七町」
2
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(十七丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高82.7㎝,幅30㎝,厚11㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p136
原位置
(光背頂部)「十七丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
朝熊村岳道の角柱町石
(十九町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高122㎝,幅21㎝,厚18.3㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p138
原位置
(正面)「(梵字)十九町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(廾丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高83.5㎝,幅31㎝,厚12㎝
享和2(1802)
伊勢市の石造遺物p138
原位置
(光背頂部)「廾丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻/朝熊村岳道で紀年銘が刻字されている町石は2基のみ
1
B
朝熊村岳道の角柱町石
(二十町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高130㎝,幅21.5
㎝,厚18.8㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p138
原位置/下部の一部埋設
「(梵字)二十町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(廾一丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高96.5㎝,幅33㎝,厚14㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p139
原位置/地蔵尊の顔が欠損
(光背頂部)「廾一丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
2
C
朝熊村岳道の角柱町石
(二十一町)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石
(蒲鉾型、花崗岩)
高136㎝,幅21.4
㎝,厚18.5㎝
安永8(1779)?
伊勢市の石造遺物p139
原位置/下部の一部埋設
(正面)「(梵字)二十一町」
1
C
朝熊村岳道の地蔵町石
(廾二丁)
あさまむらたけ
伊勢市
<朝熊村岳道>
町石(舟型、砂岩)
高66㎝,幅31㎝,厚14㎝
文政10-嘉永元(1827-48)
?
伊勢市の石造遺物p139
原位置
(光背頂部)「廾二丁」/光背中央に地蔵菩薩立像(錫杖)の陽刻
1
C
大湊波除堤
おおみなと
伊勢市
八幡宮裏の海岸~勢多川河口
石護岸堤防
長949m,高2.7m,上部幅1.8m,下部幅16m
寛政7(1795)
WEB(神宮巡々)/
現地解説板
部分的に残存
享保13(1728)の海岸部の被災を受けて、幕府の費用(1620両)で築造されたもの/伊勢青石を使用しているため、青い堤防になっている点が珍しい
3
A
宮川堤
みやがわ
伊勢市
宮川(右岸)
土堤防
長約1㎞
寛永元-6(1624-29)以前
県名勝
山田奉行所記念館/
中森 巌
宮川堤公園/さくら名所100選の一つ(植樹は明治期)/堤体そのものは近代の嵩上げ・補強を経ている
下記の「浅間堤」の項で示した山田奉行所・5代奉行・中川半左衛門忠勝が、何らかの刎出しを造ったことは確かなので、本堤はそれ以前からできていた/伝説はいろいろあるが、時代的確証はこの刎出しの築造
3
B
浅間堤
せんげん
伊勢市
宮川(右岸・度会橋上流)
土刎出し
長約150m
(現存部)
寛永元-6(1624-29)
or 延享5(1748)
山田奉行所記念館/
市教委/中森 巌
刎出し1基のみ残る/戦前に先端部に顕彰碑/宮川の新堤防がほぼ中央を貫通(平成24完成。周辺地域の床上浸水対策のため)→委員会が作られ歴史遺構に配慮した形で計画策定
説① 施主: 山田奉行所・5代奉行・中川半左衛門忠勝/説② 施主: 庄屋・松井孫右衛門→暴れ川だった宮川を治めるため、私財を投げ打って本堤防と5基の刎出し堤を築き、自ら人柱となって堤防を守ったとされる→しかし、そ前後に洪水の記録がなく、信憑性に疑問もある/説①と説②は、地元では半々程度の支持率
3
B
駿河堤
するが
伊勢市
宮川(右岸・度会橋下流1)
刎出し(先端石張)
長58m
貞享元-元禄9(1684-96)
山田奉行所記念館
先端の石積がよく残る/宮川の本堤防からそのまま進入できる
施主: 山田奉行所・11代奉行・岡部駿河守勝重/地元民を洪水から守るため幕府に堤防の修築を願い出た→命名の由来/建造年不明なため在任期間を示す
2
C
周防堤
すおう
伊勢市
宮川(右岸・度会橋下流2)
土刎出し
長47m
元禄9-宝永5(1696-1708)
山田奉行所記念館
宮川の本堤防からそのまま進入できる
施主: 山田奉行所・12代奉行・長谷川周防河守重章/地元民を洪水から守るため幕府に堤防の修築を願い出た→命名の由来/建造年不明なため在任期間を示す
2
C
河崎の環濠遺構
かわさき
伊勢市
環濠
長25m(現存部)
室町時代後期(
15C
後半)
市教委
一部残存
物資の集散する商港として栄えた河崎の町が、自衛のために築造した環濠/排水用にも用いられた
4
C
忘れ井
わすれ
伊勢市
(大湊)水饗神社・跡
石井戸(花崗岩)
古代?
市教委/WEB(神宮巡々)
伝承の井戸と現存する井戸が100%同定されているわけではない/また、伝承の井戸だとしても、今ある構造がいつ造られたかは不明
倭姫命が天照大神を奉じて大湊に来られた時、御水を求められた際、鷲取の翁が汲んだという伝承/丸味を帯びた4つの石材を組み合わせた井戸=兵庫県伊丹市の昆陽寺・閼伽井(天平9(737)起源→復元)と瓜二つ
2
B
今一色砲台
・跡
いまいっしき
伊勢市
(二見町今一色)
台場
文久2(1862)
市教委
90mの方形平坦地が残る
津藩が神宮防衛の目的で建造した砲台
4
C
神崎砲台
・跡
こうざき
伊勢市
(二見町松下)
台場
文久2(1862)
市教委
20mの方形平坦地が残る
鳥羽藩が神宮防衛の目的で建造した砲台
4
-
北勢町阿下喜の道標
ほくせい、
あげき
いなべ市
石道標
高59㎝,22㎝角
宝暦6(1756)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?/下部C補強?
(正面)「右 加いのみち」、(左面)「左 く王んおん道」/北町地蔵の脇に建つ/観音は、飯倉山地高寺のこと
2
-
藤原町篠立の道標
ふじわら、
しのだち
いなべ市
石道標(自然石)
高120㎝,幅29㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「く王んおんミち」(「ミち」の使用→江戸期)/観音は、長楽寺の馬頭観音のこと
1
C
六把野井水
ろっぱの、
ゆすい
いなべ市
員弁川(左岸)
用水路
長11.7㎞
寛永12(1635)
伊藤通敏/北勢町史
昭和42に新たな頭首工を624m上流に設けるなど大改修
平野新田開墾のため、初代桑名藩主・本多忠勝の命により着工されたと伝えられる(完成は35年余後)/勾配1000分の1(水路上層の水が押し流されていく方式)/
写真は、有名な「旧・三岐鉄道の六把野井水拱橋(大正5)」が用水路を跨ぐ区間
3
B
片樋マンボ
かたひ
いなべ市
大安町
素掘トンネル
(水路)
長約1㎞
文久3(1863)
市教委
片樋マンボ保存会により管理/個人の敷地にあったマンボが崩れかけたのをきっかけに町が敷地を買い取り史跡として整備
水源が明確でなく、途中の伏流水や地下水を集めるタイプ/素掘りの竪穴を約10-30mごとに有する本格的なマンボ→中東のオアシス農業で造られるカナートに似た構造(目的が異なるため混同すべきではない)
1
A
中井水
(弁天井水)
なか
いなべ市
大安スポーツ公園
用水路
文久3(1863)
市教委
水源池は修景整備、用水路はC化、伏越は改修
施主: 庄屋・因善六郎/湧水を水源とし、堀割・伏越(長180m))を造り宇賀川の下を通して大井田に水を引いた
4
C
笠田大溜
かさだ、
おおだめ
いなべ市
明智川
溜池
堤長360m,
堤高20m(当初),
現在長733m
寛永13(1636)
伊藤通敏/員弁町史
昭和56に大改修
寛永12(1635)、大泉新田・正木嘉兵衛と上笠田庄屋・二井勝兵衛の2男・理兵衛が第五代桑名藩主・松平定綱に野摩池の改築を願い出たことに端を発する/工事は翌寛永13に二井理兵衛を奉行として完成したが(すべて私財)、明智川を堰き止めた土堰堤は8月の大雨で決壊、寛永15年3月に完成したが8月の大雨で再決壊、修復するも翌寛永16年8月に70間(127m)にわたって大破、その後も享保7(1722)、享保19(1734)、天明3(1783)、享和元(1801)、享和2(1802)→溜池でこれほど決壊をくり返した例は珍しい(その後も災害は続いたとされる)/宝暦年間には明智川から流入する土砂のため貯水量が減少→用水不足で旱魃→宝暦6(1756)に堰堤を1間(1.8m)嵩上げするとともに、中堤防を築いて洪水に備えた
3
A
刻限日影石
こくげん、
ひかげいし
いなべ市
<大泉新田・笠田新田の分水点>
日時計、分水装置
石柱
:高68㎝
(うち、台石8㎝),
幅38㎝,厚39㎝
請石
:幅152㎝,
厚24.5㎝
弘化4(1847)
県有形民俗
伊藤通敏/WEB(ひどけい)/員弁町史
近接移設/塀で囲む
石柱
:(正面)「刻限日影石」、(右面)「従日之出/七ツ半時迄/大泉新田」、(左面)「従七ツ半時/日之出迄/笠田新田」/
請石
:(正面)「七ツ半時/日影請石」/笠田大溜から引水する水田の増加により水争いが起こり、遂には死者が出る事態となったのを受け設置された/普通の分水が、取水量の直接的に管理(堰板や石を置いて分水量を固定)するのに対し、刻限日影石は間接的な管理(分水量を時間で制限制憲)を目指した特異な例大泉新田は日の出から7つ半時、笠田新田は7つ半時から日の出までの間取水できた/
石柱
と
請石
がセットで機能する日時計式の分水装置/石柱の正面向かって右手前の隅角頂部を中心に半径187㎝の円弧が請石に刻まれている→隅角頂部が、円弧に達した時点を「七ツ半」とした(太田賢治説)/発案者は大泉新田庄屋・懸野松右衛門(発案に至る経緯不明)
2
A
仙右衛門鋪
・跡
せんうえもん
いなべ市
<治田鉱山>
坑道
慶長以前~江戸期
市教委
/WEB(やぶこぎネット)
平成19の集中豪雨で大きな被害を受け、接近困難な場所も多くなった
元禄・寛保年間に、全国でも有数の産出量を誇った/仙右衛門鋪(長256mの主坑道)、大通洞坑、三神谷口の焼釜などがあった/喜左衛門鋪は唯一残った坑口
2
B
喜左衛門鋪
・跡
きざえもん
いなべ市
<治田鉱山>
坑道
慶長以前~江戸期
市教委
/WEB(やぶこぎネット)
平成19の集中豪雨で大きな被害を受け、接近困難な場所も多くなった
元禄・寛保年間に、全国でも有数の産出量を誇った/仙右衛門鋪(長256mの主坑道)、大通洞坑、三神谷口の焼釜などがあった/喜左衛門鋪は唯一残った坑口
2
C
三神谷口の焼釜
・跡
いなべ市
<治田鉱山>
焼釜(精錬用)
慶長以前~江戸期
市教委
/WEB(やぶこぎネット)
平成19の集中豪雨で大きな被害を受け、4基中2基が流失
元禄・寛保年間に、全国でも有数の産出量を誇った/仙右衛門鋪(長256mの主坑道)、大通洞坑、三神谷口の焼釜などがあった/喜左衛門鋪は唯一残った坑口
2
B
八鬼山道の石畳
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長7.5㎞,幅1.7-2m
不詳(17世紀前半?)
国史跡
熊野古道と石段・石畳p11
/WEB
長7.5㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能
標高627mの八鬼山道の峠越え=熊野街道随一の難所/北側の籠立場下の石畳や、七曲がりの石畳(長280m)ほか、全線にわたって、土道、自然転石、石畳、石階段が交錯しながら続く/大雨による路面の流出・崩壊の防護と、夏草やシダ類の繁茂抑制のため/全体に階段が多い
1-2
A
曽根次郎坂・太郎坂の石畳
そねじろう、たろう
尾鷲市・熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長10㎞
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p12
長10㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能/苔が多い
甫母峠(標高302m)北部(尾鷲市側)の標高100-120mの間には、2時期の造成による新旧の石畳・石段の重複区間がある/全体に階段が多い
1
A
馬越峠道の石畳
まごせ
尾鷲市・
(北牟婁)紀北町
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長5㎞
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p9-10
長5㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能
紀北町側の方が石畳は見事/縦開削型の道造りの多用が馬越峠道の特徴/全体に階段が多い
1
A
三木峠道・羽後峠道の石畳
みき、はご
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長6㎞
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p11-12
長6㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能
石段部は大小の石を雑然と積み上げた構造/全体に階段が多い
2
A
九木神社の石段と造成碑
くき
尾鷲市
九木神社
石階段
天保14(1843)
県埋蔵文化センター
石段最下部の造成碑に建造年が明記されている(尾州の船主らによる寄進)→きわめて例外的
3
C
九鬼集落の石畳
くき
尾鷲市
石畳道
時代不詳
県石造物調査報告1
p43
集落内に石畳の敷かれた狭い路地が迷路のように巡っている
1
B
桜茶屋一里塚
さくらちゃや
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(1基)
正徳2(1712)以降
国史跡
WEB
塚に植えられた山桜は枯れ、現在は2代目
巨石を積み上げたような構造→この「建造物?」が一里塚だという証拠は、必ずしもない/熊野古道散策上の重要な構成要素の1つ
2
B
曽根一里塚
そね
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(2基)
江戸期
WEB
樹林化
熊野古道の両側に残る
3
B
名柄一里塚
ながら
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(1基)
江戸期
国史跡
WEB
右側の塚だけその跡をとどめ、タブノキが自生
尾鷲地方の一里塚は、塚の片方に松、片方に山桜を植えられた
3
C
九鬼町の常夜灯
くき
尾鷲市
小学校・下
石常夜灯
高1.47m
寛政11(1799)
県石造物調査報告1
p110
念仏講中による寄進
C
坂場西町の常夜灯
さかばにし
尾鷲市
石常夜灯
高1.40m
元治2(1865)
県石造物調査報告1
p110
C
三木里町の道標
みきさと
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>?
石道標(花崗岩)
高142㎝,幅44㎝
江戸後期?
県石造物調査報告1
p114
「ひだり くまのみち」
C
中井町の道標
なかい
尾鷲市
県立熊野古道センター
<熊野街道(熊野古道)>
石道標
江戸後期?
県石造物調査報告1
p112
移設
「左 くまの道」
2
八鬼山道の町石(十五丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高66㎝,幅34㎝
天正14(1586)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
/WEB(北伊勢の道標)
移設/光背上部破損
八鬼山道の地蔵町石は、麓の矢浜から八鬼山山頂に向けてほぼ町数順に並んでいる
/(光背左)「十五丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 大湊大田十衛門尉(舟運に関わっていた人物)
3
B
八鬼山道の町石
(四十一丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高60㎝,幅26㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背右)「四十一丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
1
C
八鬼山道の町石(十九丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高60㎝,幅26㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背右)「十九丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いせ
□□
…
1
C
八鬼山道の町石(卅三丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高65㎝,幅31㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背左)「丗三丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
1
C
八鬼山道の町石
(三十五丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高73㎝,幅31㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
移設
(光背右)「三十五丁」(「九」を「五」に改刻)/全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いう普門小衛門道宗
2
C
八鬼山道の町石(丗五丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高60㎝,幅28㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
移設?/光背頂部欠損
(光背左)「丗五丁」(別筆か?)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いせ山田下座甚兵へ
3
C
八鬼山道の町石
(三十七丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高64㎝,幅31㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
移設
(光背左)「三十七丁」(別筆)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: い世山田下馬所福田九衛門
2
C
八鬼山道の町石
(三十八丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高73㎝,幅31㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
/WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(光背頂部)「三十八丁」(「
□
一」を「三十八丁」に改刻)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 伊勢山田岡本町源太夫
1
B
八鬼山道の町石
(三十九町)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高70㎝,幅35㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
新しい道標と一体化(原位置か移設かは不明)/光背頂部破損
(光背左)「三十九町」(「二」を「九」に改変)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立:
□
セ山田舟江泉正
2
C
八鬼山道の町石(四十町)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高72㎝,幅31㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
移設?
(光背頂部)「四十町」(「廿六丁」を「四十町」に改変)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いセ山田舟江恕運ら
2
C
八鬼山道の町石
(四十一町)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高60㎝,幅32㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背右)「四十一町」(「廿八丁」を「四十一町」に改変)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いせ山田大路
1
C
八鬼山道の町石
(四十二丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高65㎝,幅32㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背右)「四十二丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 木内(カ)三郎衛門
1
B
八鬼山道の町石
(四十四町)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石(舟型)
高76㎝,幅33㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
/WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(光背右)「四十四町」(「廿七丁」を「四十四町」に改刻)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 「いセ山田大路」/建立年は、「己丑」の刻印から判定
1
C
八鬼山道の町石
(四十六丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高75㎝,幅29㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
原位置?
(光背左)「四十六丁」(別筆)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立年は、「己丑」の刻印から判定
1
C
八鬼山道の町石(
□
一丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高71㎝,幅29㎝
天正19(1591)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
(光背頂部)「
□
一丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いセ山田大路才八/建立年は、「辛卯」の刻印から判定
B
八鬼山道の町石
(四十七丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高71㎝,幅29㎝
戦国末期
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1
p116
移設?
(光背右)「四十七丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻
2
C
八鬼山道の町石
(四十八丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高54㎝,幅48㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
/WEB(北伊勢の道標)
移設/基部欠損?
(光背右)「四十八丁」(別筆)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 河崎世古太郎右衛門/建立年は、「己丑」の刻字から判定
3
B
八鬼山道の町石
(
□
十三丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高41㎝,幅30㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
移設/下部欠損
(光背左)「
□
十三丁」/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: いセ河崎
□□□
/建立年は、「己丑」の刻字から判定
4
B
八鬼山道の町石(五十町)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高67㎝,幅30㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
/WEB(北伊勢の道標)
移設
(光背頂部)「五十町」(別筆)/建立: 伊勢山田岩渕徳衛門/全面に地蔵(錫杖、蓮台)立像を陽刻/建立年は、「戊丑」(ママ)の刻印から「己丑」として判定/下記の「
□
九丁」と並ぶ
2
B
八鬼山道の町石(
□
九丁)
やきやま
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
町石
(舟型、緑色片岩)
高41㎝,幅30㎝
天正17(1589)
県指定(35基中33)
県石造物調査報告1p116
移設/下部一部欠損
(光背頂部)「
□
九丁」(別筆)/光背全面に地蔵立像(錫杖、蓮台)を陽刻/建立: 伊勢山田中山加兵衛・山田川崎世古弥七郎/建立年は、「己丑」の刻字から判定/上記の「五十町」と並ぶ
3
B
曽根次郎坂・太郎坂の猪垣
そねじろう、たろう
尾鷲市・熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
猪垣(石塁)
長1100m
寛保元(1741)
市史跡
熊野市市教委/
熊野古道と石段・石畳p13
保存状態良好
「寛保元歳酉三月上旬ヨリ戌二月迄築立之也、垣頭取才領、松場清右衛門」と刻まれた記念碑がある→猪垣ではきわめて異例/猪垣そのものも大規模/楔穴の付いた(石切り場から切り出した)石材も一部に使われている
1
A
羽後峠道の猪垣
はご
尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
猪垣(石塁)
長約500m
江戸期?
熊野古道と石段・石畳p12
保存状態良好
標高95-100m付近に、熊野古道沿いにほぼ並行して築造
1
B
旧・
林浦の在蔵
はやしうら
尾鷲市
(瀬木山町)
郷倉(土蔵造一部二階建瓦葺)
間口9.1m,
奥行8.2m
安政5(1858)以前
WEB(神宮巡々)
原位置
紀州藩への蔵米と飢饉に備えた囲米を格納する蔵/安政5に10石の囲米が収蔵されていた記録がある/立派な石垣
1
B
木名峠の狼煙場
・跡
きな
尾鷲市
木名峠<紀州藩>
狼煙場(石積み)
(3基)
径約3m,高約2m,間隔4m,標高210m
寛永年間(寛永12以前、1624-35)
市史跡
WEB
保存状態やや良好(紀州藩が東紀州に築いた12ヶ所の狼煙場の中で2番目に良好)
熊野灘の沖を航行する異国船を見張るために作られた九木崎遠見番所の狼煙場/一列に並んだ3基の狼煙場→1筋・2筋という狼煙によって伝達する内容が定められ、3筋全部を上げる時は火急の合図だった
2
A
九木崎遠見番所
・跡
くきざき
尾鷲市
<紀州藩>
遠見番所(石積み)
寛永年間(寛永12以前、1624-35)
市史跡
WEB
放置状態(石積みのみ山中に残る)
熊野灘の沖を航行する異国船を見張るために作られた遠見番所の1つ
4
B
北浦町の三界万霊塔
きたうら
尾鷲市
馬越墓地
津波記念碑
(宝永の大地震)
高149㎝,幅45㎝,厚37㎝
正徳3(1713)
県石造物調査報告1p109
保存状態良好
(正面)「三界萬霊」、(左面)「宝永丁亥冬十月初四日南海洛北/大震有邑山崩厭邑者水郷波/起漂流村落者殊尾鷲邑者開水道/於左右前面海廣皆後山高故怒濤/自三面競起而廻避無方頃剋之間」、(裏面)「而男女老幼溺死者千有餘人者民/扉有
□
遺屍積如山矣鳴呼病
□
無/数生霊乃作泉下之人于滋良源嵓/上人憐無依之鬼興無縁之慈互
□
/普度由是
□
鈶於余同為銘白/大地震動山崩海揚怒濤厭邑廻□」、(右面)「無方男女老幼流漂大泮遽然不返/見者断腸嵓老立塔普度群匹願
□
」/宝永の大地震による津波被害(当時の尾鷲人口の3分の1が死亡)の七回忌供養として建立
1
B
加太梶ヶ坂
かぶとかじがさか
亀山市
<大和街道>
道路
長360m,幅1-2m
江戸期
市教委
加太梶ヶ坂地区のみ往時の姿が残される
小峠の部分が切通し状になっている
2
-
野村一里塚
のむら
亀山市
<東海道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)以降
国史跡
市教委/WEB
北塚現存(大正3 南塚破壊)/榎が椋に植え替えられる
三重県下で唯一原形をとどめる一里塚
3
C
和田一里塚
わだ
亀山市
<東海道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)以降
WEB(北伊勢の道標)
昭和59の道路拡幅で消滅→塚の跡地東側の近接する場所に平成13復元
4
-
関町木崎の常夜灯
(東の追分の常夜灯)
せき、こざき
亀山市
関宿東・追分
<東海道・伊勢別街道>
銅板葺の石常夜灯
高3.77m(うち笠石高1.83m)
元文5(1740)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
竿石の上に木製の春日型の屋根(銅板葺)と火袋が載る構造→北伊勢特有/建立: 大坂 津國屋重右衛門、江戸 嶋屋佐右衛門/東の追分は、関宿の東の入口
1
B
和田町の道標
わだ
亀山市
<東海道・神戸道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高137㎝,幅23㎝,厚23㎝
元禄3(1690)
市指定
市教委
/WEB(北伊勢の道標)
下から5分の1点で水平に折損→下部を鉄枠で補強
(正面)「従/是、神戸 白子 若松道」/17世紀の道標
3
B
関町新所の道標
(西の追分の道標)
せき、
しんじょ
亀山市
関宿西・追分<東海道・大和街道・伊賀街道>
石道標
高259㎝
元禄14(1701)
県史跡
WEB
原位置?
(正面最下部)「ひだりハ いか/やまとみち」/正面上部に「南無妙法蓮華経」と陰刻/西の追分は、関宿の西の入口/建立: 京都三条・谷口長右衛門
1
B
鈴鹿峠の馬の水のみ鉢
すずか
亀山市
<東海道>
馬の水のみ鉢(石造)
江戸期
WEB
平成4復元
鈴鹿峠の直前、三重県側の片山神社の峠側/「坂は照る照る 峠は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた鈴鹿馬子唄を彷彿とさせる
5
C
布気町の鈴鹿川瀬替え
・跡
ふけ
亀山市
鈴鹿川(左岸)
付替え(瀬替え)
約1㎞
安永9(1780)以前
WEB/市教委
かつての河道の痕跡が、樹林帯となって残る
施工: 亀山藩士・生田理左衛門/安永年間に着工した鈴鹿川の直線化(水害防止)
4
C
本宮道
ほんぐう
熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
道路
国史跡
熊野古道と石段・石畳p17-18
石段は昭和期の築造
全部で5ヶ所が史跡指定
3
C
波田須道の石畳
はだす
熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(石階段を含む)
長300m,幅2m
江戸以前(鎌倉時代?)
国史跡
市教委/
熊野古道と石段・石畳p14
保存状態良好
鎌倉時代の造成とされる説があるが(現地でもそう書いてある)、それを裏付ける具体的史料は未発見/石畳を外観で判断すると、江戸期の石畳よりは古い石組に見えるが(大ぶりの石材を使った重厚な造り)、戦国からどの程度遡るかは判断できない/最大長100㎝を超える隅丸長方形石材を利用しだ石段が連続する区間がある
1
A
松本峠道の石畳
まつもと
熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(石階段を含む)
長600m,幅約2.3-3.2m
江戸期
国史跡
市教委/
熊野古道と石段・石畳p15-6
近世の部分も少なくとも2回以上普請がされている/木本町側登り口に近代以降の石畳
長さ2.3mの石桁橋、立派な石の擁壁、岩盤削り出し階段を含むよく整備された石畳・石段道/熊野古道、特に、伊勢路を代表する石畳道
1
A
曽根次郎坂・太郎坂の石畳
そねじろう、たろう
熊野市・尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長10㎞
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p12
長10㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能/苔が多い
甫母峠(標高302m)北部(尾鷲市側)の標高100-120mの間には、2時期の造成による新旧の石畳・石段の重複区間がある/全体に階段が多い
1
A
風伝峠道の石畳
ふうでん
熊野市・
(南牟婁)御浜町
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道部分もかなりある)
長257m,幅1.8-1.9m
江戸期 or それ以前
国史跡
熊野古道と石段・石畳p17
保存状態良好
御浜町側と異なり、山形の石敷道のような狭い石畳
1
C
通り峠道の石畳
とおり
熊野市
<北山道>
石畳道(土道部分もある)
長390m,幅1-1.5m
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p18
何回かの修復が加えられている
風伝峠から吉野に向かう北山道/ほとんどの部分が2列の幅の狭い石畳
2
C
新鹿町の石桁橋
・跡
あたしか
熊野市
岐川庵・跡
<石桁橋>(花崗岩)
長2.38m,幅0.7m
嘉永7(1854)
県石造物調査報告1p119
石材のみ残る
桁側面に陰刻: 「井本/又四郎/架ス」
4
C
神川町柳谷の常夜灯
かみかわ、やなぎたに
熊野市
柳谷峠
石常夜灯
高1.40m
明和8(1771)
県石造物調査報告1p126
柳谷庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町赤木の常夜灯
きわ、あかぎ
熊野市
石常夜灯
高1.20m
安永9(1780)
県石造物調査報告1p128
赤木庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町丸山の常夜灯
きわ、まるやま
熊野市
石常夜灯
高1.37m
天明8(1788)
県石造物調査報告1p132
丸山庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町小森の常夜灯
きわ、こもり
熊野市
石常夜灯
高1.37m
寛政9(1797)
県石造物調査報告1p131
小森庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町平谷の常夜灯
きわ、
ひらたに
熊野市
石常夜灯(2基)
高1.30m,1.28m
寛政12(1800)
県石造物調査報告1p132
平谷庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町矢ノ川の常夜灯
きわ、
やのかわ
熊野市
(里地)
石常夜灯
高1.21m
享和元(1801)
県石造物調査報告1p132
矢ノ川里地庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
神川町長原の常夜灯
かみかわ、
ながはら
熊野市
石常夜灯
高1.15m
万延元(1860)
県石造物調査報告1p125
長原庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
飛鳥町小阪の常夜灯
あすか、
こさか
熊野市
(本郷)
石常夜灯
高1.33m
文久3(1863)
県石造物調査報告1p118
講中に所属する多くの庶民による寄進/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
紀和町和気
の地蔵道標
きわ、わけ
熊野市
<川端街道>
石道標(自然石)
高140㎝,幅50㎝
貞享年間(1684-87)?
県石造物調査報告1p133
「右ハ やまミち/中 楊枝川板屋/左リ 川楊枝本宮」/17世紀の道標(ただし、建立期の貞享年間は伝承)
3
C
飛鳥町小阪
(?)
の道標
あすか、
こさか
熊野市
熊野市歴史民俗資料館
石道標
高31㎝(残存部),幅17㎝
元禄7(1694)
県石造物調査報告1p120
下部欠損/資料館保管
「(梵字)右ハ きの
□
…/左ハ とま…」/17世紀の道標
3
C
紀和町大河内の地蔵道標
きわ、おこち
熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
石道標
(舟型、砂岩)
高52㎝,幅25㎝
天明元(1781)
県石造物調査報告1p83・129
刻字に黒塗り/両脇と上部を岩で守られていたため、墨書が保存された
(右端)「右 本くう道」、(左端)「左 大こち」/中央に地蔵菩薩立像を陽刻/光背上部に「大坂」をはじめとする地名等が書かれた墨書がある(恐らく江戸期)→非常に例外的
1
B
有馬町の道標1
ありま
熊野市
(立石)
石道標
高86㎝,幅50㎝
文政3(1820)
市有形民俗
県石造物調査報告1p121
「右 ほんくう近道/左 しゅんれい道」
C
新鹿町の道標
あたしか
熊野市
里川橋・西詰
石道標
高61㎝,幅24㎝
天保2(1831)
市有形民俗
県石造物調査報告1p119
(南面)「いせ道」、(北面)「すぐ なち山」、(西面)「右 なち山/左 いせ道」/石工: 大矢太蔵
-
紀和町矢ノ川の地蔵道標
きわ、
やのかわ
熊野市
石道標(舟型)
高63㎝,幅25㎝
弘化3(1846)
県石造物調査報告1p132
(右端)「右 北山道」、(左端)「左 本宮道」/中央に地蔵尊像を陽刻
C
波田須町の道標
はだす
熊野市
(中波田須)
石道標
高85㎝,幅23㎝
江戸期
市有形民俗
県石造物調査報告1p128
(正面)「西 木の本道」、(左面)「東 新鹿道」、(右面)「南 一丁やくし
□□
」
C
有馬町の道標2
ありま
熊野市
(口有馬)
石道標
高91㎝,幅27㎝
江戸期?
市有形民俗
県石造物調査報告1p120
「右、くまのさん/志ゆんれい、道」
C
一ノ水峠道普請供養塔
いちのみず
熊野市
(有馬町水谷)
石碑
高95㎝,幅24㎝
文化10(1813)
市有形民俗
県石造物調査報告1p121
周囲が荒れている
「供養塔」「此道橋ヶ谷ヨリか者の木/峠迄道普請出来/施主連盟…」/頂部が弧状になった板碑
2
C
丸山千枚田
まるやま
熊野市
棚田(石垣)
約7ha→11.3ha→ 4.6ha→7ha
慶長6(1601)以前
棚田百選
WEB
2240枚(慶長6)→530枚→1340枚(平成6「丸山千枚田条例」制定後)
日本最大級の棚田
2
曽根次郎坂・太郎坂の猪垣
そねじろう、たろう
熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
猪垣(石塁)
長1100m
寛保元(1741)
市史跡
熊野市市教委/
熊野古道と石段・石畳p13
保存状態良好
「寛保元歳酉三月上旬ヨリ戌二月迄築立之也、垣頭取才領、松場清右衛門」と刻まれた記念碑がある→猪垣ではきわめて異例/猪垣そのものも大規模/楔穴の付いた(石切り場から切り出した)石材も一部に使われている
1
A
大観猪垣道の猪垣
だいかん
熊野市
観音道~大吹峠
猪垣
長873m,高1.6-1.2m
江戸期
WEB
保存状態良好/猪垣に沿って街道が造られているので視認性が良い
大規模な猪垣/猪垣三叉路がある
1
A
大観猪垣道の猪落おとし
だいかん
熊野市
観音道~大吹峠
猪垣
2.25m×1.6m,深1.3m→1m以下に
江戸期
WEB
2ヶ所確認/猪垣に沿って街道が造られているので視認性が良い
猪垣の切れ目にある
2
C
ニ木島町の鯨供養塔
にぎしま
熊野市
相川
石碑(駒型)
寛文11(1671)
県有形民俗
松崎憲三/WEB
原位置
(正面)「鯨三十三本供養
塔
」(
緑字
は異体字)/「三十三」→熊野の民俗としてブリ、マグロなど33本獲る毎に「万の祝」と称して祝う風習があったことに因む数字/わが国最古の鯨供養塔
1
A
水車谷鉱山
・跡
すいしゃ
熊野市
紀州鉱山
鉱山
江戸中期~後期
県史跡
市教委/
県石造物調査報告1p48
-49
近代に入り廃村となった鉱山遺構としては残りがいい
主として銅を産出/間歩が多く存在/精錬炉跡・各種石造物も残る
2
B
新鹿町の津波留碑
あたしか
熊野市
(向田)
津波記念碑
(東海地震)
高66㎝,幅88㎝
嘉永7(1854)
市史跡
県石造物調査報告1p77
保存状態良好/個人宅の石垣前面にはめ込まれている→苔が繁茂して字が読みにくい
「津波留」「嘉永七年寅十一月/四日昼五ツ時/濱邊より凡三丈上ル/井本屋」/井本屋の石垣(この碑のはめ込まれている石垣)で津波が止まったことを示す碑
2
C
光明寺の嘉永津波供養塔
(遊木の津波記念碑)
こうみょう
熊野市
光明寺
津波記念碑(円柱)
(東海地震)
高72㎝,幅31㎝
安政年間(1854-59)
市史跡
県石造物調査報告1p128
保存状態良好
「昔宝永四亥十月四日大地震つ浪有以来百五十年/嘉永七寅十一月四日大地震つ浪一丈五尺上り/氏神社初人家四十五軒流失流死七人有此後/大地震之時ハつ浪有と心得初ハ平地に出ゆり終/次第たかキ所にげ可申事くわしキハ過去帳ニ有」/心得が中心
1
C
木本町二丁目の井戸
きのもと
熊野市
東紀州まちかど博物館
石井戸
江戸期
市有形民俗
WEB
現役/屋根付き
崩れやすい浜砂利の小石の地質に掘られたもの
1
C
歓喜寺跡の石塀
かんきじ
熊野市
和田多目的集会所<歓喜寺>
石塀
高2.6m,天端幅3.1m
江戸期
市史跡
県教委
転用だが保存状態良好
川石の野面積み(穴太崩し風)
1
C
五郷町の石塀・石垣群
いさと
熊野市
石塀・石垣
県教委
保存状態良好
家を囲む塀、棚田など各所で石の構築物が見られる
1
B
遊木の狼煙場
・跡
ゆき
熊野市
(丹羽平)<紀州藩>
狼煙場(石積み)(3基)
径約3m,高約2m,間隔4m,標高210m
寛永年間(寛永12以前、1624-35)
市史跡
市教委/WEB
保存状態良好(紀州藩が東紀州に築いた12ヶ所の狼煙場の中で最良)
熊野灘の沖を航行する異国船を見張るために作られた楯ケ崎遠見番所の狼煙場/一列に並んだ3基の狼煙場→1筋・2筋という狼煙によって伝達する内容が定められ、3筋全部を上げる時は火急の合図だった
1
A
安永町の太神宮常夜灯
(伊勢両宮常夜灯)
やすなが
桑名市
<東海道>
石常夜灯
高5.45m(うち基壇1.19m)
文政元(1818)
市有形民俗
市教委
原位置?/火袋補修/基壇改修/笠一部欠損/電気点灯
(竿正面上部)「大/神/宮」、(竿右面)「五穀成就」、(竿左面)「國家安全」、(2段目台石正面)「材/木/屋/中」/員弁川旧堤防上(今は市街地)/町屋川の船着場であったことから、桑名や岐阜の材木商が寄進した/石工: 根来市蔵
2
A
元・
七ツ屋の常夜灯
ななつや
桑名市
<東海道>
石常夜灯
高4.3m
天保4(1833)
安政3(1856)
県史跡
市教委
七ツ屋橋詰→移設→台風で倒壊→台石4段は元のまま使用→上部は多度神社から移した安政3銘のもの
(創建時の竿)「多度之神宮/一目蓮大神」「国家安全/御武運長久/願主諸職」「五穀豊稔/海陸鎮難/繁栄心願成就□散」/2段目と3段目の台石には江戸、名古屋、桑名などの寄進者241名の名前が刻字
3
A
堤原の常夜灯
(参宮町の常夜灯)
つつみはら
(さんぐう)
桑名市
<美濃路>
石常夜灯
高約3.4m
安政3(1856)
市教委
火袋より上部は後補(サイズが合ってないので、別所からの転用か?)
「多度兩宮」、(上段台石正面)「國/家/安/全」/寄進者350名余の名前が刻字/下記の「堤原の道標」と並ぶ
3
B
新町の道標
しん
桑名市
泡州崎八幡社
石道標(尖頭角柱)
高108㎝,幅15.5
㎝,厚17㎝
天保13(1843)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
新町の北端→移設/中央で水平に折損→修復
(正面)「左 ふな者"みち」、(左面)「右、きやう/いせ、みち」/天保13年12月なので、西暦1843年
3
C
堤原の道標
(参宮町の道標)
つつみはら
(さんぐう)
桑名市
<美濃路>
石道標(尖頭角柱)
高170㎝,31㎝角
弘化4(1847)
WEB(北伊勢の道標)
/市教委
(正面)「右 みの 多度ミち」/建立: 魚町・尾張屋文助(四日市市の追分町の道標と同一人物)/明治27に関西鉄道(現・JR関西本線)桑名駅が開業後、(左面)「左 すてん志与ミち」と追加された/上記の「堤原の常夜灯」と並ぶ
B
京町の道標
きょう
桑名市
石道標
高117.5㎝,幅21.5㎝,厚22.5㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「右(右指差し)京 いせ道」、(右面)「左 江戸道」
2
C
多度町戸津の道標
だど、とづ
桑名市
石道標(自然石)
高66㎝,幅22㎝,厚19㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「右、いなべ/くハ奈、ミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性
1
-
多度町柚井の道標
だど、ゆい
桑名市
石道標(自然石)
高74.5㎝,幅40.5㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「右 つしま/左 ミの道」、(裏面)「すく 多度道」
1
-
七里の渡し・跡
しちりのわたし
桑名市
<東海道>
慶長6(1601)
県史跡
市教委
伊勢湾台風後に大規模な修復/江戸期の絵図によれば元々常夜灯はなかった→現在は元・七ツ屋の常夜灯(街道常夜灯)が建っており、あたかも港湾用常夜灯があったかのような誤解を招く
中世から港町として栄えた桑名は、「十楽の津」とも言われ、木曽三川流域と伊勢湾をつなぐ河海の結節点として発展/連歌師・宗長が大永6
(1526)に訪れ、「みなとのひろさ五六町、寺々家々数千軒」と記している/伊勢神宮の一の鳥居は天明年間(1781-89)に建てられ、以後、遷宮ごとに建替えられてきた
3
A
矢田立場の馬繋ぎ鉄環
やた
桑名市
<東海道>
鉄環
江戸期
現地解説板
保存整備
旧商家に残る
1
C
町屋御用水
まちや
桑名市
町屋川
上水路
寛永3(1626)
市教委
大規模な改修/益生町より下流は暗渠化
全国で6番目の都市用水とされる→現在は農業用水として活用
4
B
長島町源部外面の旧輪中堤
ながしま、
げんべども
桑名市
<長島輪中>
土堤防(輪中堤)
(2ヶ所)
長約1.4㎞,約1.3㎞
江戸期
市教委
指摘されなければ、見分けられない
旧輪中堤上に列状に集落が形成されてきたのが、旧長島町の特徴
3
B
長島町横満蔵の旧輪中堤
ながしま、
よこまくら
桑名市
<横満蔵輪中>
土堤防(輪中堤)
長約1.2㎞
江戸期
市教委
指摘されなければ、見分けられない
旧輪中堤上に列状に集落が形成されてきたのが、旧長島町の特徴
3
C
おびや坂(産屋坂)の石段
志摩市
(大王町波切)
石階段
長80m
江戸期?
WEB
雰囲気が良く残る
波切の港と魚市場の裏手の高台を結ぶ石段の坂/三重県は熊野古道の石段は数多く残っているが、漁村景観としての石段・石垣は稀
2
B
磯部町的矢の道標
いそべ、
まとや
志摩市
石道標(蒲鉾型)
高61㎝,幅27.5㎝,厚19.5㎝
安永4(1775)
市教委(磯部の道標と町石地蔵)/
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「是ゟ、右 あをのミね/左 いそへ者ま」/施主: 摂州大坂廻船中、諸国廻船中
1
C
阿児町国府の供養塔道標
あご、こう
志摩市
(三本木)
石道標(整形された自然石)
高54㎝,幅29㎝,厚11㎝
江戸中期
市教委(阿児の石造物)
引き抜かれて放置
(正面右端)「右 いそべみち」、(同左端)「左 うがたみち」/正面中央に「南無阿弥陀佛」と陰刻/東面に「二千人廻國供養」と陰刻
3
-
大王町波切の道標
(志坂の道標)
だいおう、
なきり
志摩市
(志坂)
石道標
天保2(1831)
市教委(大王町の文化財)
事故で倒れたため移設
「右 やま/左 船越、道」
3
元・
磯部町上之郷の道標
いそべ、
かみのごう
志摩市
市立磯部郷土資料館
石道標(尖頭角柱)
高160㎝,幅20㎝,厚17㎝
嘉永2(1849)
市教委(磯部の道標と町石地蔵)
平成15移設/屋外にまとめて展示/所々鉄片で補強
(正面)「左 いせ と者" あさま」(=鳥羽)、(○面)「右 千田御いけ 是ゟ半丁」
3
C
元・
磯部町的矢の道標
いそべ、
まとや
志摩市
市立磯部郷土資料館
石道標
高59㎝,幅17㎝,厚13㎝
嘉永4(1851)
市教委(磯部の道標と町石地蔵)/
WEB(北伊勢の道標)
館内展示
(正面)「右 や満/左 青峯、道」/施主: 尾州内海・明通丸惣三郎
3
-
天の岩戸案内所道標
あまのいわと
志摩市
石道標
高150㎝,幅34㎝,厚21㎝
安政3(1856)
市教委(磯部の道標と町石地蔵)
原位置?
(正面)「北 天の岩戸案内所」、(右面)「西 磯部名所家建茶屋」、(裏面)「南 天の岩戸案内所」/個別の施設を対象とした道標は珍しい
1
B
大王町畔名の地蔵道標
(道分け地蔵)
だいおう、
あぜな
志摩市
石道標(舟型)
江戸期?
市教委(大王町の文化財)
Cブロック祠内
(右端)「右 なきりみち」、(左端)「左 なったみち」/中央に地蔵尊立像を陽刻
2
阿児町国府の道標
あご、こう
志摩市
石道標(自然石)
江戸期?
市教委(伊勢・志摩の歴史・上)
保存状態良好
「(梵字)右 あのり/左 國分寺、道」
1
-
大的矢の初代方角石
おおまとや
志摩市
市立磯部郷土資料館
方角石(堀立式単材型)
1700年代?
館内解説板
館内展示/昭和12・13頃に日和山山麓から発見/頂部のみ残る(一部欠損)
現存する大的矢の方位石の初代のものとされる(外観から見て、恐らく確実)→石の寿命が20年以下ということはないので、現在沖縄を除く国内最古とされている輪島の方角石(1804)より古いことは確実→国内最古の方角石(現存はしないが、鳥羽の初代方角石とどちらが古いかは不明だが、2代目が同年の建立なので、初代も同時建立だった可能性が高い)
3
A
大的矢の方位石
おおまとや
志摩市
市立磯部郷土資料館
方角石(堀立式単材型)
径約31㎝,高約30㎝
文政5(1822)
船・地図・日和山
屋外に道標と一緒にまとめて展示/変色したプラスチックのカバーで覆われている
1つの村に2つの方角石がある→稀
3
C
小的矢の方位石
こまとや
志摩市
市立磯部郷土資料館
方角石(円柱掘立式)
径約31㎝,高約30㎝
文政5(1822)
船・地図・日和山
屋外に道標と一緒にまとめて展示/プラスチックのカバーで覆われている
同上
3
C
国府の槇垣
こう
志摩市
生垣、路地
天正8(1580)以降
市教委
保存状態良好
天正8に京都から来た僧・道念により計画された碁盤目状の村/点在していた民家を一ヶ所にまとめ、碁盤目状の路地の両側に防風防砂目的で槇の生垣を作った
1
B
六呂瀬池
ろくろせ
志摩市
土堰堤
長約100m
元禄14(1701)
市教委(磯部町史)
保存状態良好
計画: 大畑才蔵、施主: 中西彦右衛門/堀切新田の水源
1
C
旧・
越賀村の郷蔵
こしか
志摩市
(志摩町越賀)
郷倉
(木造切妻瓦葺)
間口8.5m,
奥行4.0m
江戸期
県史跡
WEB
原位置
紀州藩への蔵米と飢饉に備えた囲米を格納する蔵
1
C
阿児の松原
あご
志摩市
防風林
享保3(1718)以前
市教委
一部撤去/公園化されている
浜島の弘法井戸
はまじま
志摩市
(浜島)
井戸
2.0m×1.0m(内寸),深2.4m
江戸期 or それ以前
市教委/WEB
C化
海に近いが真水の出る井戸→昔、渇水で困っていた時、ある僧侶風の者が塩水の出そうな場所に井戸を掘るよう指示し、大量の清水が湧き出て住民が救われたという「弘法伝説」がある
4
C
荒目山砲台
・跡
あらめ
志摩市
(志摩町和具)<鳥羽藩>
台場
幕末
WEB
遺構残存
伊雑宮・沿岸防衛のため構築。外国船の来航はなかった
3
C
退治岬砲台
・跡
たいじ
志摩市
(大王町船越)<鳥羽藩>
台場
幕末
WEB
土塁、窪地が残る
同上
3
C
岩井戸岬砲台
・跡
たいじ
志摩市
(志摩町越賀)<鳥羽藩>
台場
幕末
WEB
土塁が残る
同上
3
C
上野一里塚
(石薬師一里塚)
うえの
鈴鹿市
<東海道>
一里塚(1基)
江戸初期
県史跡
WEB(北伊勢の道標)
伊勢湾台風でオリジナルの榎が倒木→昭和52に補植/塚がなく「塚木」状態→当初形態かどうか不明
一般道沿い
4
-
中冨田一里塚
なかとみだ
鈴鹿市
<東海道>
一里塚(1基)
江戸初期
WEB(宮様の石橋)
塚の存在すら不明瞭
一般道沿い
4
-
高岡町の常夜灯
たかおか
鈴鹿市
高岡橋・北詰<伊勢街道>
石常夜灯
寛政11(1799)
WEB(北伊勢の道標)
堤防工事のため解体され、堤防下に放置されていたものを、平成6に再建立→宝珠新設、台石下4段も新設か?
建立: 江戸・江戸屋仁三郎、大坂・江戸屋平右衛門、京都・江戸屋新三郎、他台石にも各地の寄進者名
3
B
高岡町の太神宮常夜灯
たかおか
鈴鹿市
高岡橋・南詰<伊勢街道>
石常夜灯
高4.02m
文化4(1807)
WEB(北伊勢の道標)
平成7修復
(竿正面上部)「太/神/宮」、(竿右面)「国土安穏」、(竿左面)「五穀成就」/春日型の笠/石基壇なし/台石には地元を中心に多数の寄進者名
2
A
十宮町の常夜灯
とみや
鈴鹿市
<伊勢街道>
石常夜灯
文化14(1817)
WEB(北伊勢の道標)
小型の野面石3段の基壇と、その上の4段の台石(C接合)は後補か?
春日型の笠
2
B
地子町の道標
じし
鈴鹿市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高92㎝,18.5㎝角
元禄2(1689)
WEB(北伊勢の道標)
移設→児童公園内に放置
(正面)「右 いなふ道」、(左面)「左 志ろこ道」/「いなふ道」の部分だけ四角に一段掘り下げて刻字/17世紀の道標
2
B
神戸の道標
(元・札の辻の道標)
かんべ
鈴鹿市
(観音寺)<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高113㎝,幅24.5
㎝,厚23.5㎝
元禄2(1689)
WEB(北伊勢の道標)
個人邸宅内に移設
(正面)「右ニ 京ミち 有」、(左面)「左 参宮かいとう」/17世紀の道標
4
B
西玉垣町の道標1
にしたまがき
鈴鹿市
<伊勢街道>
石道標(自然石)
高64㎝,幅40㎝,厚37㎝
文化4(1807)
WEB(北伊勢の道標)
大きなC基礎上に載る(最下部埋没)
(正面)「右 さんぐう道」
3
-
若松中の道標
わかまつなか
鈴鹿市
若松小学校・校庭
<塩浜街道>
石道標(花崗岩)
高87㎝,幅18㎝,厚16㎝
弘化4(1847)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「右 四日市道」、(右面)「左 白子みち」、(左面)「春久 舩場」
2
C
寺家町の道標
じげ
鈴鹿市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高123㎝,幅24㎝,厚21.5㎝
弘化4(1847)再建
WEB(北伊勢の道標)
中央で折損→鉄枠による補強
(正面)「左 く王んおん道」、(左面)「右 さんぐう道」
3
C
矢橋町の道標
(大日如来道道標)
やばせ
鈴鹿市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高95㎝,15㎝角
嘉永4(1851)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面)「大日如來道」/大日堂へと通じる/建立: 桑名・米屋平吉
2
C
西玉垣町の道標2
にしたまがき
鈴鹿市
<伊勢街道>
石道標
高120㎝,幅25㎝,厚25㎝
元治2(1865)
WEB(北伊勢の道標)
水平に折損→修復
(正面)「(左指差し)左 さんぐう道」
2
C
汲川原町の神戸領境石1
くみがわら
鈴鹿市
<東海道>
境界石
江戸期?
WEB(宮様の石橋)
原位置?
(正面・右面・左面)「従是東 神戸領」/下記の「汲川原町の神戸領境石2」と、旧東海道を挟んで南側
1
C
国分町の神戸領境石
こくぶ
鈴鹿市
菅原神社<東海道>
境界石
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面・右面・左面)「従是西 神戸領」(四日市市の神戸領境界石参照)
2
C
汲川原町の神戸領境石2
くみがわら
鈴鹿市
<東海道>
境界石
江戸期?
WEB(宮様の石橋)
6つの小片に壊れたものを修復
(正面・右面・左面)「従是東 神戸領」/上記の「汲川原町の神戸領境石1」と、旧東海道を挟んで北側
3
C
東江島町の常夜灯
ひがしえじま
鈴鹿市
江島若宮八幡神社
石常夜灯
文政3(1820)
現地解説板
原位置
白子港と江戸を結ぶ船の安全を祈願して、江戸両組により寄進された/常夜灯の東南が港の波打ち際であったため、灯台の役目も果たしていた/石組の見事な石基壇
1
B
女人堤防
にょにん
鈴鹿市
鈴鹿川・安楽川
/汲川原町<東海道>
土堤防
長約400m(途中、国道1号で分断)
1800-1820年頃
WEB(宮様の石橋)
/現地解説板
堤防としての機能は喪失
神戸藩の城下への洪水被害を恐れて鈴鹿川左岸の汲川原に築堤を許さなかった城主に対し、洪水被害に耐えかねた村人が、男手が失われないよう、女性だけで夜間密かに築いたと伝えられる堤防→家老・松野清邦(1768-1821)の諌言で200余名の打ち首が救われたとされる/建造年は松野清邦の生年からの推定
2
B
青峯山登り口の石橋
あおのみね
鳥羽市
(松尾町)<磯部道>
石桁橋(花崗岩)
長2.4m(2G)
慶応年間(1865-68)以前
市教委
原位置
慶応年間にまとめられた『松尾町大福帳』に記載
1
C
青峯橋下の千本杭
あおのみね
鳥羽市
加茂川(左岸)
松杭+石
長約20m
慶応年間(1865-68)
市教委
水没する部分の杭は健全
上記の橋の直下から下流側にある/護岸のため、水際に松杭を打ち、周囲を石で固めたもの/50mほど下流の右岸側にも残る
2
C
岩倉町の常夜灯
(コビシャモンの常夜灯)1
いわくら
鳥羽市
<鳥羽道>
石常夜灯(砂岩)
高0.9m
安永4(1775)
市教委
笠石が一部欠損
朝熊岳信仰/加茂川の淵で毘沙門天が祀られていた崖の下の坂道を明るくするため、岩倉の弥右衛門が建立
2
C
岩倉町の常夜灯
(コビシャモンの常夜灯)2
いわくら
鳥羽市
<鳥羽道>
石常夜灯(砂岩)
高0.9m
慶応3(1867)
市教委
原位置
朝熊岳信仰
1
C
岩倉町の道標
いわくら
鳥羽市
<丸山道>
石道標
(尖頭角柱、砂岩)
高120㎝,31㎝角
宝暦8(1758)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
基部C/上部3分の2が茶褐色に
(正面)「(梵字)右 満るやまみち」/朝熊岳信仰
/
施主: 鳥羽 并 諸廻船
3
C
河内町の道標
こうち
鳥羽市
<丸山道>
石道標
高85㎝,幅14㎝,厚14.5㎝
文化14(1817)
市教委
原位置
「右 丸山道」「左 鳥羽道」/朝熊岳信仰
/建立: 河崎小川宗澄
1
C
松尾町の道標1
まつお
鳥羽市
<青峯道>
石道標(尖頭角柱)
高約150㎝
文化14(1817)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
移設/基部C
(正面)「左 青峯道」、(右面)「右 磯部道」/青峯山信仰
/建立: 尾張知多常滑邑・松本久右衛門重泰
2
C
松尾町の道標2
まつお
鳥羽市
青峯山正福寺
石道標(尖頭角柱)
高86㎝,幅30.5㎝,厚30㎝
文政9(1826)
市教委/
志摩市教育委員会/WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「右 磯部 満とや/左 鳥羽ミち」/正面を枠だけ残して1㎝ほど平らに彫り込んでから文字が陰刻/青峯山信仰
/
建立: 三河國平坂湊三問屋、三河國吉良一色浦(いずれも船問屋)
1
C
堅神町の道標1
かたかみ
鳥羽市
<鳥羽岳道>
石道標
(駒型、花崗岩)
高170㎝,幅51㎝,厚19㎝
嘉永3(1850)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「左、あさま可たけ/内宮へかけぬ希」/鳥羽岳道の起点/朝熊岳信仰/三界萬霊と刻字された地蔵と並ぶ
1
C
松尾町の聖観音像道標
まつお
鳥羽市
(堀切)
石道標(自然石、粘板岩)
高75㎝,幅37㎝,厚31㎝
江戸末期
市教委
原位置
(正面右端)「右 まとや道」、(同左端)「左 おふさつ道」/正面中央部を舟型に削り込み、聖観音立像を陽刻/建立: 野村宗兵衛
1
C
堅神町の道標2
かたかみ
鳥羽市
<鳥羽岳道>
石道標(自然石、砂岩)
高110㎝,幅45㎝,厚24㎝
江戸期?
市教委
原位置
(正面)「(梵字)たけみち」/朝熊岳信仰/「九丁の刻字された町石と並ぶ
1
C
浦村町の聖観音像道標
うらむら
鳥羽市
<櫛ヶ峰道>
石道標(舟型、砂岩)
高60㎝,幅22㎝,厚18㎝
江戸期?
市教委
光背、台石の一部剥離→年号が読み取れない/首の部分に水平に亀裂
(光背右端)「うら道」/光背中央に聖観音立像が陽刻
2
C
岩倉町の地蔵道標
いわくら
鳥羽市
<浦道>
石道標(舟型)
高55㎝,幅33㎝,厚22㎝
江戸期?
市教委
原位置
(光背右端)「右 うら道」、(同左端)「左 やまみち」/光背中央に地蔵尊立像を陽刻
1
-
岩倉町の題目塔道標
いわくら
鳥羽市
<安楽島道>
石道標(自然石、砂岩)
高52㎝,幅30㎝,厚27㎝
江戸期?
市教委
原位置
(正面右端)「右 宇らみ」、(同左端)「左 一ノ宮道」/正面中央に「三界萬霊」と陰刻
1
-
安楽島町の題目塔道標
あらしま
鳥羽市
<安楽島道>
石道標(自然石、砂岩)
高50㎝,幅31㎝,厚20㎝
江戸期?
市教委
原位置
(正面右)「左 あら志ま」/正面中央に「三界萬霊」と陰刻
1
-
堅神町の道標3
かたかみ
鳥羽市
<鳥羽岳道>
石道標(花崗岩)
高61㎝,幅17㎝,厚15㎝
江戸期?
市教委
中央部に亀裂もしくは折損補修跡
(正面)「右 たけ」/朝熊岳信仰
2
-
松尾道の町石(壹丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
原位置
松尾道の町石は、残存配置と丁数順が合致するので、丁数順に並べてある
/青峯山信仰
/(正面)
「壹丁目」/建立: 平坂・市川彦三郎(三河國平坂湊三問屋の一人=上記「松尾町の道標2」を同年に建立
1
-
松尾道の町石(三丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「三丁目」/建立: 平坂・外山善右衛門 (三河國平坂湊三問屋の一人=上記「松尾町の道標2」を同年に建立
1
-
松尾道の町石(四丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「四丁目」/建立:市川
1
-
松尾道の町石(五丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「五丁目」/建立: 平坂・新寶八右衛門 (三河國平坂湊三問屋の一人=上記「松尾町の道標2」を同年に建立
1
C
松尾道の町石(六丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「六丁目」/建立: 平坂・外山善右衛門
1
-
松尾道の町石(七丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
「丁」の字の下で水平に折損→重ねて置いてあるだけ
(正面)「七丁目」/建立: 平坂・市川店中
2
-
松尾道の町石(九丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「九丁目」/建立: 平坂・外山店中
1
C
松尾道の町石(十?丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
上部欠損→刻字の判読困難
(正面)「…目」/建立: …兵衛(上記3人の名前とは違う)
3
-
松尾道の町石(十二丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)頃?
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「十二丁目」/建立: 平坂・材木店中
1
-
松尾道の町石(拾三丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「拾三丁目」/建立: 西尾・深尾半左衛
□
1
-
松尾道の町石(十四丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「十四丁目」/建立: 新池・深尾左兵衛
1
-
松尾道の町石(拾五丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)
「五」の字の下で水平に折損→重ねて置いてあるだけ/刻字の一部が判読不能
(正面)「拾五丁目」/建立: …外山善右…
2
-
松尾道の町石(十六丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
文政9(1826)?
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「十六丁目」/建立: 吉良一色・青山太兵衛(上記「松尾町の道標2」の共同建立グループ・三河國吉良一色浦の一員か?)
1
-
松尾道の町石(拾七丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「拾七丁目」/建立: 平坂・春永丸勝蔵
1
-
松尾道の町石(十八丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「十八丁目」/建立: 平坂・永徳丸勘七
1
-
松尾道の町石
(十九?丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
上部欠損→刻字の判読困難
(正面)「…」/建立: …吉
4
-
松尾道の町石(貳十丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「貳十丁目」/建立: 平坂・福永丸為十
1
-
松尾道の町石(廿一丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
「目」の字の中央で水平に折損→重ねて置いてあるだけ→刻字の判読困難
(正面)「廿一丁目」/建立: 平坂・
□
乗丸
□□
2
-
松尾道の町石(廿二丁目)
まつお
鳥羽市
<松尾道>
町石(砂岩)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「廿二丁目」/建立: 平坂・
慶徳丸利助
1
-
青峯山正福寺の常夜灯
あおのみね、しょうふく
鳥羽市
正福寺
石常夜灯(2基、花崗岩)(海運)
高7m
天保8(1837)
市有形民俗
WEB
原位置
「海上安全」=青峯山正福寺は、海上安全の祈祷寺/青峯山信仰/建立: 大坂西宮・樽船問屋中/江戸時代の海運史を知る上で貴重
1
A
河内町奥河内の猪垣群
こうち、
おくこうち
鳥羽市
猪垣(石塁)
長約200m(2ヶ所),長約100m(1ヶ所)
江戸期
市教委
少し荒れている
猪の害が多く、市内に多くの猪垣が造られ、今も現存している
2
B
白木町ナメラ谷の猪垣
しらき
鳥羽市
白木川(左岸)
猪垣(石塁)
長約200m
江戸期
市教委
少し荒れている
猪の害が多く、市内に多くの猪垣が造られ、今も現存している
2
C
松尾町登の猪垣
まつお、
のぼり
鳥羽市
鈴串川(左岸)
猪垣(石塁)
長約200m
江戸期
市教委
少し荒れている
猪の害が多く、市内に多くの猪垣が造られ、今も現存している
2
C
鳥羽の方角石
とば
鳥羽市
日和山
方角石(据置式単材型、御影石)
高65㎝,径48㎝
文政5(1822)
市有形民俗
WEB/船・地図・日和山
原位置
八角柱の上に円形の方位盤を乗せた形/2代目→初代の方角石は国内で初めての方角石とされているが、大的矢の初代方角石(志摩市、現存)と同時建立の可能性が高い(理由は志摩市を参照)/全国の方角石の中でも最も立派なものの1つ
1
弘法井戸
こうぼう
鳥羽市
(鳥羽町)
井戸
江戸期 or 江戸以前
WEB
井戸枠はC改修
この地方に多い弘法伝説に関わる井戸の1つ
3
C
坂手田崎砲台
・跡
(坂手村砲台・跡)
さかてたざき
鳥羽市
(坂手島)
鳥羽藩
砲台跡
江戸期
県史跡
市教委/WEB
神宮警護のために築いた砲台の跡/岬上の突出地を利用し、周囲を地表より掘り下げ造られており、南側には火薬庫の跡もある
4
C
上庄田の太神宮常夜灯
かみしょうだ
名張市
<初瀬街道>
石常夜灯
高5.21m(うち基壇0.80m)
天保3(1832)
市教委/WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好/電気点灯
(竿正面)「太神宮」、(竿左面)「伊/州、上神戸邑内安全」/竿直下の台石北面に瓢箪の陽刻/下部の台石に多くの関係者名が陰刻
1
A
新田の太神宮常夜灯
しんでん
名張市
<初瀬街道>
石常夜灯
高7.49m(うち上部基壇0.49m,下部基壇3.18m)
慶応2(1864)
WEB(北伊勢の道標)
用水路改修で移設→地震で回倒壊→火袋更新して再建立/基壇石垣は後世の補強によるもの/電気点灯
(竿正面)「太神宮」/常夜灯本体より高い宮勾配を持つ立派な石基壇/猫脚
2
A
赤目町丈六の題目塔道標
あかめ、
じょうろく
名張市
<初瀬街道>
石道標(自然石)
高98㎝,幅56㎝,厚52㎝
明和6(1769)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面右)「右 はせミち 是より五里」、(同左)「左 すぐ里 うくちミち」/正面中央に「(梵字)南無阿弥陀佛」と陰刻
1
C
赤目町柏原の供養塔道標1
あかめ、
かしわら
名張市
風呂屋橋・東詰
<初瀬街道>
石道標(自然石)
高103㎝,幅89㎝,厚85㎝
寛政10(1798)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(正面右下隅)「右ハ あみかたき 一里」、(同左下隅)「左ハ そにへ 三里」/正面中央に「(梵字)奉供養大乘妙典」と陰刻
2
C
本町の道標1
ほん
名張市
栄林寺<初瀬街道>
石道標
高92㎝,幅27㎝,厚14㎝
文化元(1804)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
本町丁字屋角→栄林寺墓地
(正面)「右 者せみち」
3
C
本町の道標2
ほん
名張市
福祉センター・前
<初瀬街道>
石道標
高233㎝(うち台石18㎝),幅36㎝,厚36.5㎝
文政10(1827)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
本町丁字屋角→名張小学校校庭→福祉センター前
(正面)「(袖付き左指差し)ひ多"り いせミち」、(左面)「右 者せ、多武峯/山上高野、みち」/頂部を鍋型に加工
2
B
瀬古口の供養塔道標
(黒田橋東詰の道標1)
せこぐち
名張市
黒田橋・東詰<初瀬街道>
石道標(自然石)
高83㎝,幅100㎝,厚42㎝
天保3(1832)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面右)「右 はせ」、(同左)「左 あめがたき」/正面中央に「大峯山上三十三度供養」と陰刻
1
C
新田の道標
しんでん
名張市
<初瀬街道>
石道標
(整形自然石)
高80㎝,幅27㎝,厚17㎝
天保3(1832)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「(左指差し)ひたり いせミち」 /指差しの部分は、周辺を丸く彫り込んで陽刻
1
C
赤目町丈六の道標
あかめ、
じょうろく
名張市
<初瀬街道>
石道標
高191㎝,31㎝角
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
鉄柵で周りを囲む/水路上に設置/移設
(正面)「(梵字)左 あめがたき」、(右面)「右 者せ むろふ道」、(左面)「従是 五十丁 現住深海」/頂部を鍋型に加工
2
B
赤目町長坂の道標
あかめ、
ながさか
名張市
黄龍橋・東詰<初瀬街道>
石道標
高186㎝,28㎝角
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
刻字が摩耗
(正面)「(梵字)、右 あめがたき/左
□□□□
、道」、(右面)「従是 十八丁」/頂部を鍋型に加工/施主: 岡松武助、石工: 清治良
2
B
赤目町柏原の道標
あかめ、
かしわら
名張市
風呂屋橋・東詰<初瀬街道>
石道標
高171.5㎝,31㎝角
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
橋の親柱と接して建つ→恐らく若干の移動
(正面)「(梵字)右 あかめ可たき」、(右面)「是より 三十八丁」/頂部を鍋型に加工/石工:
□
兵衛
1
C
瀬古口の道標
(黒田橋東詰の道標2)
せこぐち
名張市
黒田橋・東詰<初瀬街道>
石道標
高278㎝(うち台石12㎝),幅45㎝,厚44.5㎝
天保15(1844)
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
中央部で折損→修復/台石とC接合/移設
(正面)「左 あめ可"たき」、(右面)「右、者せ/なら、みち」、(左面)「是より 六十丁」/大型の道標/頂部を鍋型に加工/台石に多くの関係者の名前が陰刻
2
A
滝之原の道標1
たきのはら
名張市
<如来道>
石道標(駒型)
高112.5㎝,幅24㎝,厚20㎝
弘化3(1846)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 たかを/左 老川如來、みち」/石工: 申五郎
1
C
赤目町柏原の供養塔道標2
あかめ、
かしわら
名張市
今井林道・分岐手前
<初瀬街道>
石道標(自然石)
高108㎝,幅38㎝,厚28㎝
弘化4(1847)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(右面)「右 あめ可"たき」/正面に「大峯山上奉供養」と陰刻
1
C
安部田の道標1
あべた
名張市
錦生公会所・角<初瀬街道>
石道標(尖頭角柱)
高77㎝,幅29㎝,厚24㎝
嘉永5(1852)
WEB(北伊勢の道標)
台石、基礎ともにC接合→移設
(正面)「(右指差し)いせ (左指差し)者せ」、(右面)「(左指差し)不動道/是より二丁」/道標の割に巨大な指差し
2
C
安部田の道標2
あべた
名張市
(坂之下)<初瀬街道>
石道標(自然石)
高90㎝,幅22㎝,厚20㎝
文久2(1862)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「やくし道」、(同左下)「是より 二丁」/正面頂部に“日月”の陰刻/新堂寺の町石の役割も担う
2
C
滝之原の道標2
たきのはら
名張市
龍泉寺道
石道標
高85㎝,幅22.5㎝,厚21.5㎝
慶応3(1867)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「左 新四國大師道」、(右面)「右 老川如来道」、(左面)「第四十二ばん龍性院 是より二丁」、(裏面)「左 なばり道」、
2
C
西原町の地蔵道標
にしわら
名張市
<初瀬街道・上野街道>
石道標(基壇付き地蔵祠)
高338㎝(うち基壇174㎝)
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
移設
背の高い基壇石垣の正面中央の石に「右 いせ道/天下太平道中安全/左 うゑの道」と陰刻/基壇上に屋根付き石造祠→中に小型の地蔵尊立像が安置/高さ3mを超える道標
2
A
本町の道標3
ほん
名張市
栄林寺
石道標
高98㎝,幅27㎝,厚14㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
薬師堂再建の際、土中から掘り出された→再建立/頂部折損
(正面)「東海道」/建立: 槌屋・清兵衛
3
C
西田原の道標
にしたわら
名張市
西之浦橋・東詰
<上野街道・新田街道>
石道標(駒型)
高72㎝,幅25㎝,厚19㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
西之浦橋の建設に伴う移設の可能性
(正面)「右 こもを/左 や者"た、道」
2
-
新田用水
しんでん
名張市
大池→前深瀬川
用水路
長約15㎞
承応4(1655)→延宝4(1676)水源変更、伸延
市教委/WEB
C改修
大池決壊後の、延宝3-4に行われた工事は、異なる水系から引水するため、山越えのあたり、夜中に60人ほどの百姓・町人に松明を持たせて並ばせ高さを図ったといわれる
4
B
丈六橋の水神碑
じょうろく
名張市
滝川
石碑(洪水遺産)
高2.02m
安政6(1859)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「水神」/(背面)「滝水のいくたび岸を洗うとも こわしとせじな水神の神」「村中安全」/安政6年9月の大洪水で丈六堤が決壊し大被害を被ったため、村の有力者の発起により建立
1
B
殿町の常夜灯1
との
松阪市
松阪城・搦手口<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高5.59m(うち基壇1.18m)
安永9(1780)
WEB(北伊勢の道標)
櫛田川の渡し場にあったものを昭和29に移設
(竿右面)「鈍子土勢組」/春日型の笠/建立者: 江戸干鰯問屋、揮毫: 龍湖親和/笠屋根の裏に垂木模様/石基壇
2
A
甚目町の常夜灯
(小野江の常夜灯)
はだめ
松阪市
雲出川・右岸堤防上
<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高4.78m
寛政12(1800)
WEB(北伊勢の道標)
雲出川の渡し場口にあったものを移設/昭和11再建立→昭和19の東南海大地震で倒壊し火袋更新
建立: 京都□一講・大坂屋藤七、他/津市の「雲出島貫町の常夜灯」と対面する形で残る
2
A
六軒町の太神宮常夜灯
ろっけん
松阪市
<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高3.96m
文政元(1818)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(竿正面頂部)「兩/宮」/中台、竿下の最上段の台石に若干の装飾/石基壇なし/大坂の人が2反半の田を付けて寄進した
1
B
殿町の常夜灯2
との
松阪市
松阪城・搦手口<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高5.45m(うち基壇0.48m)
文政6(1823)
WEB(北伊勢の道標)
移設/火袋更新
(上段台石正面)「新/玉/講」/春日型の笠/石基壇
2
A
肥留町の太神宮常夜灯
ひる
松阪市
金剛寺・西<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
高4.16m
文政7(1824)
WEB(北伊勢の道標)
昭和19の東南海地震で倒れ、宝珠と火袋を取り替え、再建・移設
(竿正面上部)「兩/宮」/笠屋根の裏に垂木模様/台石四面に縦縞/中台三面に龍の浮彫/台石正面に大きく「江戸」「乾物問屋中」と陰刻
3
A
曽原町の常夜灯
そはら
松阪市
天白神社<香良洲道>
石常夜灯(花崗岩)
文政12(1829)
WEB(みえの歴史街道)
昭和40移設
移設にあたり簡易な基壇に(以前の形態不明)
2
C
茅原町の太神宮常夜灯
(上茅原の常夜灯)
ちはら
松阪市
(上茅原)<伊勢本街道>
石常夜灯
文政13(1830)
WEB(北伊勢の道標)
上茅原集落の中心の三差路→上茅原神社入口に移設
(竿正面)「兩大神宮」、(同右)「天下太平」、(同左)「五穀成就」/記録には高2mとあるので、移設にあたって石基壇を新設した可能性あり
2
B
飯南町横野の常夜灯
いいなん、
よこの
松阪市
柿野神社<伊勢本街道・和歌山街道>
石常夜灯(道標兼)
高4.21m(うち基壇0.71m)
天保元(1831)
WEB(北伊勢の道標)
移設
(竿正面)「大神宮」、(竿右面)「天下泰平」、(竿左面)「五穀成就」、(2段目台石右面)「是/ヨリ/宮川/七里/半」/巧みな石組の基壇上(移設復元だとすれば、かなりの技術)/天保元年12月→西暦1831年
2
A
上川町の常夜灯
うえがわ
松阪市
<伊勢街道>
石常夜灯
天保7(1836)
WEB(北伊勢の道標)
移設?/火袋改修
(竿右面)「三社燈籠」/石基壇なし/河州(大阪府東部)の商人による寄進
2
B
大石町の太神宮常夜灯
(大石高札場の常夜灯)
おいし
松阪市
大石不動院・西
<伊勢本街道>
石常夜灯(自然石)
高3.29m(うち基壇0.70m)
天保9(1838)
WEB(北伊勢の道標)
大石橋のたもとの高札場にあったもの(移設)
「太神宮」/奇想的な自然石を竿に用いたユニークな常夜灯
2
B
下村町の常夜灯
しもむら
松阪市
<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
嘉永2(1849)再建立
WEB(北伊勢の道標)
笠~竿の部分と、台石の部分が不一致
笠上部が特殊な型3段の台石に寄進者の名前が多数陰刻/低い石基壇
3
B
船江町の太神宮常夜灯
ふなえ
松阪市
<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
嘉永5(1852)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?/電気点灯
(中台正面)「兩/宮」、(2段目台石正面)「紅/林/氏」/伊勢参宮に来た江戸の紅林忠左衛門と願主の5人が施主となり、船江の植木屋へ灯明料として田2反ほどを添えて世話方を依頼したとされる
1
B
市場庄町の太神宮常夜灯
いちばしょう
松阪市
百々川・右岸<伊勢街道>
石常夜灯(花崗岩)
嘉永5(1852)
WEB(みえの歴史街道)
笠の四隅欠損/電気点灯
(中台正面)「兩/宮」、(2段目台石正面)「紅/林/氏」/石基壇(1段のみ)
2
B
嬉野田村町の常夜灯
うれしの、
たむら
松阪市
<伊勢本街道>
石常夜灯
安政2(1855)
WEB(北伊勢の道標)
基壇石垣・台石と本体の材質が異なる→昭和29改修とあるが、どの部分が更新なのか不明
2
B
飯南町上仁柿の太神宮常夜灯
(長瀬の常夜灯)
いいなん、
かみにがき
松阪市
(長瀬)<伊勢本街道>
石常夜灯
文久3(1863)
WEB(北伊勢の道標)
移設(C基礎)
(竿正面)「太一」
2
C
市場庄町の忘れ井道標
(忘れ井道標)
いちばしょう
松阪市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高102㎝,23㎝角
宝暦元(1751)
WEB(北伊勢の道標)
民有地との境界
(正面)「忘井之道」、(右面・裏面)「わ春れ井、是より/半丁」
2
C
飯南町横野の道標
いいなん、
よこの
松阪市
宝積寺<伊勢本街道・和歌山街道>
石道標
高106㎝,幅22㎝ m,厚33㎝
天明2(1782)
WEB(北伊勢の道標)
道路拡幅により昭和38移設
(正面)「ひだり いせみち」、(左面)「みぎり 者せみち/ひだり、き志う よしのみち」
2
C
岩内町の地蔵道標
ようち
松阪市
石道標(自然石)
高66㎝,幅32㎝ m,厚38㎝
寛政4(1792)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「ひだり いしく王んおん道」、(右面)「右 いわうちむら道」/正面と右面の角上部を削り込み小さな地蔵立像を陽刻/建立: 江戸芝中門前・安田平兵衛
1
C
山室町の道標
やまむろ
松阪市
山室山・秋葉神社
石道標
高65㎝,15㎝角
寛政9(1797)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(左指差し)、い
□
く王んをん/あきばさん、道」/本居宣長奥墓の手前に建つ
1
-
早馬瀬町の道標
はやまぜ
松阪市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高130㎝
文化13(1816)
WEB(北伊勢の道標)
櫛田川の渡し場付近から早馬瀬神社の東口に移設→縦に2つに割られて再建立/下部埋没
(正面)「右 け可う…」、(左面)「左 さんくう…」/右面に「ゆく水の… 櫛田川 北園/八朔 … 雨のあと 滄 … 丙子八朔天赦日」と俳句らしい銘文も陰刻
3
C
大河内町の道標
おかわち
松阪市
<大師道>
石道標(自然石)
高198㎝,幅100㎝ m,厚25㎝
文化14(1817)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「左 大師道」/高さ・幅とも巨大な自然石に大きな字で深く陰刻
1
B
朝田町の道標
あさだ
松阪市
御機殿神社道
石道標
高92㎝,18㎝角
文化14(1817)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「み者多殿ミち」(=御機殿神社)、(右面)「ま津ざかみち」/建立: 京西陣・三文字屋武兵衛
1
C
飯高町宮前の道標
いいたか、
みやまえ
松阪市
<和歌山街道>
石道標(花崗岩)
高167㎝,30㎝角
文政2(1821)
WEB(北伊勢の道標)
近接移設?
(正面)「左 れいふみち」、(同右上端)「くりたに」、(同左下端)「くまのやまみち 是より/八十丁/廿四
□
」、(右面)「紀州ミち、よし乃 かうや/なら 者せ」/頂部に道標断面より大き目の正四角形の石板を置き、その上に宝珠様のものを載せる/建立: 中村吉兵衛信阿
1
B
豊原町の道標
とよはら
松阪市
<伊勢街道>
石道標
高184㎝,幅31㎝,厚30㎝
文政2(1821)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「左 さんくうみち」、(左面)「右 けかうみち」/城州(京都府南部)の商人による寄進
2
B
嬉野小村町の道標
うれしの、
こむら
松阪市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高176㎝,幅29㎝ m,厚28㎝
文政4(1823)
WEB
(正面)「旅神社」、(同下部)「小舟村/是より三丁」、(右面)「右 からす道」、(左面)「霊汗阿弥陀如来 佛心寺」
C
曲町の道標
まがり
松阪市
石道標(自然石)
高127㎝,幅46㎝ m,厚31㎝
文政12(1831)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 さんぐう まつさ可大者し/左 六けんかし町、道」/三差路に建つ
1
C
中林町の道標
(月本追分の道標)
なかばやし
松阪市
<伊勢街道・奈良街道>
石道標(花崗岩)
高253㎝,幅49.5㎝,厚49㎝
天保13(1842)
県史跡
市教委/
WEB(北伊勢の道標)
原位置
(正面)「右 いがご江 なら道」、(右面)「右 さんぐうみち」、(左面)「月本おひ王け」、(裏面)「左 やまと七在所順道」/建立: 月本追分の宿屋連中4名、石工: 市場庄甚兵衛/右隣の小型の常夜灯、道の反対側の大型常夜灯とも明治期のもの
1
B
上川町の道標
うえがわ
松阪市
<伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高174㎝,幅31.5㎝,厚31㎝
弘化3(1846)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「従是 外宮 四里」、(右面)「守山宿」/江州と守山宿(ともに滋賀県)の商人による寄進
2
C
曽原町の道標
そはら
松阪市
<香良洲道>
石道標
高216㎝,幅38㎝,厚37㎝
嘉永7(1854)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「左 さんぐう道」、(左面)「右 からすみち」/頂部が灯明用に四角くくり抜かれ、その上に宝珠様のものが載る
2
B
嬉野上小川町の道標1
うれしの、
かみおがわ
松阪市
(中川原)
石道標(自然石)
高180㎝,幅52㎝ m,厚41㎝
文久2(1862)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「左 あらゝぎ/ま川坂」(=松阪)、(左面)「(右指差し)右 たげ道」
1
B
嬉野上小川町の道標2
うれしの、
かみおがわ
松阪市
(小ケ谷)
石道標(自然石、花崗岩)
高96㎝,幅34㎝ m,厚22㎝
文久2(1862)?
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「(左指差し)左 あらゝぎ/ま川坂」(=松阪)/上記1と同一の石工・年代と推定
1
C
六軒町の道標
ろっけん
松阪市
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高276.5㎝(うち台石16.5㎝),幅44.5㎝,厚43㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
台石と道標がC接着
(正面中央)「い加ごへ追分」、(同右下)「六けん茶や」、(左面中央)「右 いせみち」、(左側面左下)「六軒茶屋」、(右面)「やまとめぐり 加うや道」、(裏面)「大和七在所順道」
2
B
大石町の道標
おいし
松阪市
上出庚申堂・前
<伊勢本街道>
石道標(自然石)
高81㎝,幅45㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面上部)「大石宿」、(その下)「卅/六/丁/壱/里」、(同右下)「者せゟ是迄/十五里半」、(同左下)「是ゟ宮川へ/七里」/上出庚申堂の石垣の中に組み込まれている→石垣の構築は、庚申堂の建立年と同一と推定される
4
C
茅原町の道標
ちはら
松阪市
下茅原公民館・前庭
<伊勢本街道/櫛田川>
石道標(自然石)
高147㎝,幅62㎝
江戸期?
WEB(北伊勢の道標)
伊勢湾台風で紛失→発見→移設
(正面)「右 さんくう/左
□
つさか、道」/かつて、櫛田川津留の渡し場に建っていた道標
2
C
忘れ井
わすれ
松阪市
(嬉野宮古町)<伊勢街道>
石井戸
嘉承2(1107)?
市有形
市教委/WEB
いまでは井戸ではないが、その跡に石碑を建立し、史跡として保存されている
『千載和歌集(1188)』の歌「別れゆく 都のかたの 恋しきに いざむすび見む 忘れ井のみづ」の地: 鳥羽天皇の皇女が伊勢神宮の斎王につかわされ父母や都との別れに心迷った姿がこの井の水面に写るのを見て、迷いを振り切って安心立命の境地に達したとされる
2
B
保曽井神社の太鼓橋
ほそい
四日市市
保曽井神社・参道
石桁橋(太鼓型)
長1m弱(G)
天明6(1786)
WEB
高欄の石材の一部を鋼材で連結補強
円弧状に加工した石梁を用いた太鼓橋→その上に橋面石を載せる/1枚の石桁を半円状に加工した桁橋は稀で、他に山口県の山の口太鼓橋がある程度/擬宝珠付きの立派な高欄
2
C
追分町の常夜灯
(日永追分の常夜灯)
おいわけ
四日市市
<東海道・伊勢街道>
檜皮葺の石常夜灯(花崗岩)
高4.56m(うち笠石高2.89m)
安永3(1774)
県史跡
WEB(北伊勢の道標)
国道に挟まれた緑地帯内に保存
竿石の上に木製の春日型の屋根(銅板葺)と火袋が載る構造→北伊勢特有/(竿)「ひ多り/さん久う道」/竿石の上に木製の笠(檜皮葺)と火袋が載る構造は北伊勢特有
1
A
杖衝坂の常夜灯
つえつき
四日市市
<東海道>
銅板葺の石常夜灯
文化8(1811)
WEB(北伊勢の道標)
木部は復元
竿石の上に木製の春日型の屋根(銅板葺)と火袋が載る構造→北伊勢特有/建立: 江戸・大坂の商人/杖衝坂→傷を負った日本武尊が剣を杖がわりにして登ったという謂れのある急坂
2
C
大矢知町の常夜灯
おおやち
四日市市
<八風道>
石常夜灯
天保4(1833)
WEB
移設?
石基壇なし
2
B
南富田町の常夜灯
みなみとみだ
四日市市
<東海道>
石常夜灯
天保10(1839)
WEB(宮様の石橋)
原位置
石基壇なし
1
C
河原田町の太神宮常夜灯
(内部橋南詰の常夜灯)
かわらだ
四日市市
<伊勢街道>
石常夜灯
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(竿正面)「兩宮常夜燈」、(竿右面)「五穀成就」、(竿左面)「國土安穏」/春日型の笠
1
B
小牧町の太神宮常夜灯
(神崎の常夜灯)
こまき
四日市市
(神崎)<八風道>
石常夜灯
安政7(1860)
WEB
原位置?/電気点灯
(竿正面上部)「兩/宮」/春日型の笠/石基壇(1段・整形角石)/火の見櫓がすぐ脇に建つ5差路の交差点の南東角に建つ
1
B
日永の道標
ひなが
四日市市
日永神社<東海道・伊勢街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高140㎝,幅28㎝,厚25㎝
明暦2(1656)
WEB(北伊勢の道標)
下記「追分町の道標」の位置にあった→嘉永2(1849)に現道標が建立→日永神社に移設
(正面)「大神宮 いせおい王け」、(右面)「京」、(左面)「山田」/裏面に
「南無阿弥陀佛」と陰刻/東海道最古の道標/17世紀の道標
2
B
中部の道標
(札の辻の道標)
ちゅうぶ
四日市市
<東海道>
石道標
高194㎝,30㎝角
文化7(1810)
WEB(北伊勢の道標)
鉄枠補強/民家の庭
(正面)「(右指差し)京 いせ道 (左指差し)ゑどみち」、(右面)「すぐ 京 いせ道」、(左面)「すぐ 江戸道」
4
-
(再現)
中部の道標
(札の辻の道標)
ちゅうぶ
四日市市
<東海道>
石道標
高194㎝,30㎝角
文化7(1810)→昭和28(1943)頃
WEB(北伊勢の道標)
忠実な複製
同上/戦災で損傷したのを惜しんで、地元の大西清之助が複製を当初の位置に建立したもの
5
C
大矢知町の道標
おおやち
四日市市
<八風道>
石道標(尖頭角柱)
高171㎝,幅30.5㎝,厚30㎝
安政3(1820)
WEB(北伊勢の道標)
/WEB
原位置?
(正面)「右 四日市ミち/左 く王奈ミち」、(右面)「左 たどミち」、(左面)
「右 こものミち」/十字路(近世はT字路)の北東角に建つ/年貢米を扱う車力衆による建立
1
C
追分町の道標
(日永の追分道標)
おいわけ
四日市市
<東海道・伊勢街道>
石道標(花崗岩)
高248㎝,45㎝角
嘉永2(1849)
WEB(北伊勢の道標)
国道に挟まれた緑地帯内に保存/台石は新設(全高からは除外)
(正面)「右 京 大坂道」、(右面)「すぐ江戸道」、(左面)「左 いせ参宮道」/建立: 魚町・尾張屋文助(桑名の参宮町の道標と同一人物)/日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点として賑わっていた
1
A
日永の神戸藩境石
ひなが
四日市市
<東海道>
境界石
高161㎝,幅21.5㎝,厚10㎝
1746-1801 or 1843-68
WEB(北伊勢の道標)
縦に2分し民家の玄関先に建つ(残りの半分はさらに2分して横伏)
(正面・右面・左面)「従是南 神戸領」/1746-1801と1843-68が神戸藩領/この地域の複雑な領有関係を物語る
4
C
羽津の桑名藩境石
はづ
四日市市
<東海道>
境界石
高193㎝,幅32㎝,厚30.5㎝
文政年間(1818-29)
WEB(北伊勢の道標)
大正9、民家の庭から発見、以後2度移設
(正面)「従是北 桑名領」/揮毫: 小林穆斉
2
B
赤堀の忍藩境石
あかほり
四日市市
境界石
高131㎝,幅8㎝
天保元(1830)以降
WEB(北伊勢の道標)
民家の側溝の枠石として寝かせて使用
「従是
□
忍領」/武蔵国忍藩が越後にあった領地の替地として赤堀地区を知行(1830-41、1847-67)
3
C
泗水の井戸
しすい
四日市市
建福寺(北町)
石井戸
江戸期
市史跡
WEB
保存状態良好
4つの自然石を密着させて丸く並べ、中央を真円にくり抜いた構造/江戸時代の四日市町にあった4つの井戸を指して泗水の井戸と呼んだとされる→現在残っているものは建福寺境内の1基のみ
2
C
鳥取の句碑道標
とっとり
(員弁)東員町
<濃州道・大木道>
石道標(自然石)
高83㎝,幅57㎝
文化14(1817)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
(正面)「右 あけき はつ多/左 大いづみ 石ぐれ、道」/裏面に「雲いくえ/ひばり鳴くなり/楚里見坂」という俳句が陰刻(『伊勢名勝志(1889)』によれば芭蕉の作)
1
C
荷坂峠道
にざか
(北牟婁)紀北町
<熊野街道(江戸道)>
道路
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p7-8
保存状態良好
一部に岩盤削り出しの石段
1
C
三浦峠道
みうら
(北牟婁)紀北町
<熊ヶ谷道>
道路
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p9
峠付近で大規模な開削
2
C
始神峠道
はじかみ
(北牟婁)紀北町
<熊野街道(熊野古道)>
道路(土道:一部石階段)
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p9
階段部分は、かなり荒れている
標高65m~160m区間に石階段が見られる
2
C
馬越峠道の石畳
まごせ
(北牟婁)紀北町・尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石段を含む)
長5㎞
江戸期
国史跡
熊野古道と石段・石畳p9-10
長5㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能
最大約3mの石、2m級の石が点在→峠に近づくにつれ小型・稠密化/縦開削型の道造りの多用が馬越峠道の特徴
1
A
ツヅラト峠道の石畳
(北牟婁)紀北町・
(度会)大紀町
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道、石階段を含む)
長200m
江戸期 or それ以前
国史跡
熊野古道と石段・石畳p8
保存状態良好
峠付近では岩盤露出→削り出し石段/谷斜面の土道下に石垣(高3m以上の部分も)/標高353mの峠を高低差にして200m以上下った辺りに石畳・石段(石畳は非整形)
1
B
馬越一里塚
まごせ
(北牟婁)紀北町
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(2基)
西塚
:径4.85m,高2.0m,
東塚
:径4.50m,高2.5m
江戸期
県史跡
町教委
塚木なし/東塚は基部が埋没、上部が崩壊
西塚は石積(中は円形の盛土)、東塚は積石と盛土(一見すると土壇状)/石畳で有名な馬越峠道の両側にある
3
B
紀伊長島区長島の道標
きいながしま
(北牟婁)紀北町
<熊野街道>
石道標
高88㎝,幅17㎝,厚18㎝
安政4(1857)
WEB(北伊勢の道標)
中央よりやや下で水平に折損し修復(昭和28、船だんじり(山車)に当てられた)→資料館→再建
(正面)「北 右 くまのみち」、(同右上端)「是より 那智山 二十四里」、(右面)「西 左 いせ道」
3
C
佛光寺の宝永津波流死塔
ぶっこう
(北牟婁)紀北町
佛光寺
津波記念碑(砂岩)
(宝永の大地震)
高87㎝,幅32㎝,厚21㎝
宝永4(1707)
町建造物
県石造物調査報告1p69
保存状態良好(
写真、右
)
「津波流死塔」「宝永四丁亥年十月四日未ノ上刻大地震直/津波入在中不捗流失其上五百餘人流死/仕候自今以後大地震時者覚悟可有事」/江戸中期の地震・津波災害を伝える貴重な資料
1
B
佛光寺の嘉永津波流死塔
ぶっこう
(北牟婁)紀北町
佛光寺
津波記念碑(砂岩)
(伊賀地震)
(東海地震)
高81㎝,幅32㎝,厚22㎝
嘉永7(1854)
町建造物
県石造物調査報告1p69
保存状態良好(
写真、左
)
「津波流死塔」「嘉永七甲寅年六月十四日丑の刻大地震一又あり十一月迄/震動数度閏四日巳の刻大地震直津波流家四百八十数/余次全百十斬候流死貮百三人也 則宝永度の/塚有之通自今已後大地震の時ハ覚悟可之事」/被災状況の記載は、上記の宝永津波の際より詳細
1
B
海山区相賀の嘉永津波流死塔
(渡利の津波記念碑)
みやま、
あいが
(北牟婁)紀北町
津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
高143㎝,幅75㎝
文久元(1861)
県石造物調査報告1p101
保存状態良好
「津波流死塔」「安政元〔正確に言えば嘉永七の間違いだが、安政と刻字したのは、大災害を受けて改元したことが背景にあるのか?〕甲寅六月十四日夜八ツ時諸国一円大地震続て/十一月四日朝五ツ時大ちしん直にたかなみ海辺の浦村/おし入人家を引なかしなミにた〃よひ死する人/宝永の時に同じ雖然当組老若男女野にのかれ山に/のほりて死をまぬかれたり末代まても海へんの人にはいふに/不及山分たりともよく〃〃相心得覚悟不有之もの也」/被災状況の記載・心得は、さらに具体的
1
B
吉祥院の嘉永津波流死塔
(引本の津波碑)
きっしょう
(北牟婁)紀北町
吉祥院
津波記念碑
(伊賀地震)
(東海地震)
高189㎝,幅34㎝
文久2(1862)
県石造物調査報告1p101
保存状態良好
「津波流死塔」「安政元年〔同上〕寅六月十四日大地震夫より霜月四日朝四ツ時大地/震直様津浪在中江入尚已前宝永四年亥霜月四日にかくの/変阿り後来右の変ある節ハ早速に寺江にげへき事/依之以後のため此石ふミを建置者也」/心得が中心
1
B
小山浦の狼煙場
・跡
おやまうら
(北牟婁)紀北町
<紀州藩>
狼煙場(石積み)
寛永年間(寛永12以前、1624-35)
町史跡
WEB
放置
熊野灘の沖を航行する異国船を見張るため紀州藩が東紀州に築いた12ヶ所の狼煙場の1つ
4
B
(桑名)木曽岬町
上三瀬の道標
かみみせ
(多気)大台町
石道標
高138㎝,幅23㎝,厚18㎝
文化7(1810)
県石造物調査報告2p40・98
原位置?
(正面)「すぐ栗谷れいふ神道 是より三里廿四丁/左 くまの」、(右面)
「左 よしの 者せ かうや 京 大坂道」、(左面)「右 いせみち 是より宮川迄 七里」
1
C
栗谷の如意輪観音像道標
くりだに
(多気)大台町
観音寺・裏山
石道標
高110㎝,幅42㎝
文化13(1816)
県石造物調査報告2p99
移設?
(正面○)「右 くまの道」/正面に如意輪観音の半跏坐像(詳細不明)
B
下楠の道標
しもくす
(多気)大台町
集会所・前
石道標
高68㎝,幅22㎝
天保10(1839)
県石造物調査報告2p101
(正面)「北 くまの」、(右面)「西 すぐ 山田 松坂」、(左面)「東 左 古里 神前」
-
上三瀬の地蔵道標
かみみせ
(多気)大台町
石道標(舟型)
高51㎝,幅33㎝
天保11(1840)
県石造物調査報告2p98
(光背右)「車川 朝加柄みち」、(同左)「相津みち」/光背中央に地蔵立像の陽刻
C
新田の道標
しんでん
(多気)大台町
<熊野街道>
石道標(花崗岩)
高126㎝
天保14(1843)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 大師道/左 くまのみち」
1
C
薗の道標
その
(多気)大台町
石道標(自然石)
高73㎝,幅28㎝,厚15㎝
弘化4(1847)
県石造物調査報告2p42・103
移設(石とCで固めた高い基壇上に載る)
(正面右)「右、山みち/まゆミごへ」、(同左)「左、かさぎごへ/久まの、道」
2
-
桧原の地蔵道標
きそはら
(多気)大台町
池坂峠
石道標(舟型)
高75㎝,幅38㎝
嘉永5(1852)
県石造物調査報告2p41・99
原位置?
(光背右)「南 な可"しま/北 大杉ごし 大和道」/光背中央に地蔵立像
(光輪、錫杖、蓮台)の陽刻
1
C
弥起井の道標
やきい
(多気)大台町
石道標
高70㎝,幅18㎝
江戸期
県石造物調査報告2p106
(正面)「右 れいふミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性
-
三瀬砦の井戸
みせ
(多気)大台町
<三瀬砦>
石井戸
永禄年間(1558-70)頃
町史跡
WEB
保存状態良好
三瀬氏歴代の居城の井戸/井戸枠の石組みが丸味を帯びている
1
B
女鬼峠の切通し
めき
(多気)多気町
<熊野街道>
切通し
年代不詳(江戸以前であることは確か)
WEB(北伊勢の道標)
/現地解説板
保存状態良好
標高120mの熊野街道(伊勢路)最初の峠/石墨千枚岩を堀割って通した峠道
1
B
西池上の常夜灯
にしいけべ
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石常夜灯
高2.8m
天保15(1844)
WEB
原位置
石工: 根来宗和/笠が円形/低い基壇石垣
1
B
四疋田の太神宮常夜灯
しひきだ
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石常夜灯
高5.5m
弘化2(1845)
県石造物調査報告2p37
・76
県道改修に伴い移設→C基礎
(竿正面)「兩宮常夜燈」/石工: 根来惣右衛門/見事な石組の基壇(移設にあたり完璧に復元)
2
A
牧の供養塔道標
まき
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高53㎝,15㎝角
18世紀前半
県石造物調査報告2p40・93
原位置?
(正面)「者せゟ是迄十七り ミや川江…/回国爲供羪 春可"の村…」/菅野の行悦が長谷寺から宮川までの伊勢本街道沿いに建立した道標の1つと推測されている(10基現存)
1
C
長谷の地蔵道標
はせ
(多気)多気町
近長谷寺・参道
石道標(丸彫)
高80㎝,幅37㎝
安永5(1776)
県石造物調査報告2p90
移設、集約
(上段台石正面)「長谷寺へ 八丁/はセゟ丹生/十三丁」/台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる
2
C
鍬形の道標
くわがた
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石道標(自然石)
高115㎝,幅70㎝
安永6(1777)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p90
基礎部修景→移設
(正面)「左 丹生大師道」
2
C
相鹿瀬の道標1
おうかせ
(多気)多気町
<熊野街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高110㎝,幅22㎝
文政8(1825)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p72
原位置?/2ヶ所で折損→修復
(正面)「右 くまの道」、(右面)「左 さんくう道」
2
C
平谷の地蔵道標
ひらだに
(多気)多気町
石道標(丸彫)
高97㎝,幅35㎝
文政8(1825)
県石造物調査報告2p76
原位置?
(上段台石正面)「左 寶塔道」/高い上段台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる(石材の色や地衣類の繁茂状況から、地蔵だけ後から置いた可能性は否定できない)
1
C
長谷の道標
はせ
(多気)多気町
丹生山・近長谷寺
<和歌山別街道>
石道標(花崗岩)
高180㎝,28㎝角
文政9(1826)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p90
原位置
(正面)「長谷觀音道 是より五丁/丹生へ かけぬけ」、(右面)「伊勢順禮第十一番/大和なる長谷の寺も是も又/おなじ御法の道にこそ入れ」、(左面)「すぐ さんぐうミち」/石を見事に組み合わせた巨大な台石
1
B
野中の道標
のなか
(多気)多気町
<熊野街道・和歌山別街道>
石道標(花崗岩)
高183㎝,30㎝角
天保4(1833)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右、よしの/かうや、みち」、(右面)「す久 さんくう道」、(左面)
「左 さいこく道」
1
B
丹生の道標1
(おきん茶屋の道標)
にう
(多気)多気町
<和歌山別街道>
石道標
高163㎝,幅29㎝,厚30.5㎝
天保4(1833)
WEB(北伊勢の道標)
近接移設?
(正面)「右、よしの/かうや、みち」、(左面)「左 さいこく道」
1
C
相鹿瀬の道標2
おうかせ
(多気)多気町
<熊野街道>
石道標(尖頭角柱、花崗岩)
高171㎝,幅22㎝,厚20㎝
天保12(1841)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p37・76
原位置
(正面)「(梵字)國束寺觀音道峯道三十丁/田丸かけぬけ」、(左面)「右 く満のみち 順禮/手引の觀音/是ヨリ十八丁」/左面に「神代より 國を束ぬる寺なれば 福智をわかつ 佛なりけり」の句と、「當山住職 覺雄建之」の銘
1
B
前村の道標
まえむら
(多気)多気町
金剛座寺<和歌山別街道>
石道標
高91㎝,幅67㎝
嘉永3(1850)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p93
近接移設?
(正面)「金剛座寺観世音」、(同最下部)「是より/十一丁」、(左面最下部)「伊勢順禮/十番札所」
1
C
相可の道標
(札の辻の道標)
おうか
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石道標
高150㎝,幅29㎝
文久3(1863)
WEB(北伊勢の道標)/
県石造物調査報告2p73
移設?
(正面)「(左指差し)伊勢本街道」、(右面)「右 くまのミち」、(左面)「すく 奈ら 者せ道」
2
C
丹生の道標2
にう
(多気)多気町
<丹生大師道>
石道標(花崗岩)
高122㎝,幅23㎝,厚24㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「すぐ まつさかミち」、(右面)「右 いせミち」/「ミち」の標記は江戸期の可能性
2
C
牧の地蔵道標
まき
(多気)多気町
石道標(自然石)
高105㎝,幅50㎝
江戸期
県石造物調査報告2p93
原位置?
(正面像下)「右 いせみち/左 まつさかミち」/正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性
1
C
上牧の地蔵道標
かみまき
(多気)多気町
<伊勢本街道>
石道標(舟型)
高79㎝,幅14㎝
江戸期
WEB(北伊勢の道標)
C基礎→移設
(光背右)「右 者せミち」、(同左)「左 にう
□
ち」/光背中央に地蔵立像の陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性
2
C
土羽の村定碑
とば
(多気)多気町
龍雲寺
石碑(駒型)
高93㎝,幅38㎝,厚23㎝
享和元(1801)
県石造物調査報告2p38・84
移設、集約
(左面)「村定、かふつきわけ山地面/う里かひならず」、(裏面)「八幡權現山地面/わけ持賣買ならず」/石碑に村の規定を刻字する例はきわめて珍しい
2
B
立梅用水
たちばい
(多気)多気町
櫛田川
用水路
約30㎞
文政6(1823)
水土を拓いた人びとp221
史跡部を除きC改修
紀州藩普請奉行・乙部才助/地元の西村彦左衛門の請願から12年後の着工/隧道と切通しは石切りの専門家の請負い
5
B
目細谷築堤
めぼそ
(多気)多気町
立梅用水
空石積堰堤
文政6(1823)
町史跡
現地解説板
保存状態良好/現役
立梅用水は全線、山と平地を縫うように流れ、谷を横断する所では石積みの堤を築き、谷水も取入れている
1
C
エンゲ切通し
(多気)多気町
立梅用水
切通し(水路)
文政6(1823)
町史跡
現地解説板
保存状態良好/現役
片麻花崗岩でもろく崩落しやすく、また山が低いためトンネルとせず、切通しが採用された
1
B
柳谷トンネル1・2
やなぎだに
(多気)多気町
立梅用水
素掘トンネル
(水路)
長約730m,長約140mの2本
文政6(1823)
町史跡
WEB/多気町郷土資料館
保存状態良好/現役
「柳谷トンネル1」(
写真
)は、現役の素掘り水路トンネルとして長い部類に入る
1
B
塔ノ本トンネル
とうのもと
(多気)多気町
立梅用水
素掘トンネル
(水路)
長71.5m,底幅1.5m,高1.8m
文政6(1823)
町史跡
現地解説板
坑門がC化/現役
中央で、水銀を掘るためのタヌキ掘りと交差/他に2ヶ所現存(すべて町指定)
2
C
五桂池
ごかつら
(多気)多気町
土堰堤
長127m,上端幅15m,下端幅109m
延宝6(1678)
中部の土木史p25-29
改修工事は経ているが、外見上の大幅な変化はない
施主: 田丸領主・久野丹後守宗俊/溜池数の多い三重県で最大の溜池/水没する20数戸の人々の移住後の苦難の話が伝わっている
2
A
丹生篠原の水銀採掘坑群
・跡
にう、
しのはら
(多気)多気町
(篠原)
狸掘(27ヶ所)
最大のもので坑口幅8m×7m,深2m(丹生最大)
平安期~室町期
県教委
周縁部も含めた「丹生水銀」全体の採掘鉱跡は183ヶ所→そのうちの最大の地区が篠原
古代から鎌倉時代にかけて日本を代表する水銀の生産地だった/『続日本紀』の698年の項、『延喜式』の905年の項に伊勢からの水銀献上が記載/奈良の大仏の再建時に用いられた水銀はすべて伊勢産/平安後期の『今昔物語』にも説話の中で登場/室町期になると文献史料が急減し、近世には休止/昭和戦後に2回復活
1-4
A
丹生馬ノ谷の水銀採掘坑群
・跡
にう、
うまのたに
(多気)多気町
(馬ノ谷)
狸掘(5ヶ所)
古代? or 中世?
現地解説板
私有地内(解説板のあるのは1ヶ所)
同上
3-4
C
丹生塔ノ本の水銀採掘坑
・跡
にう、
とうのもと
(多気)多気町
狸掘(1ヶ所)
奈良時代?
現地解説板
上記調査地区対象外/水没(用水沿いにあり接近し易い)
同上
3
C
竹川の道標
たけがわ
(多気)明和町
<伊勢街道>
石道標(尖頭角柱)
高166㎝,幅32㎝,厚31㎝
弘化4(1847)
WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「従是 外宮 三里」、(右面)「松坂入口江 一里半/大はし江 二里半」、(左面)「宮川江 二里半」/江州(大阪)、紀州(和歌山)の関係者の名が見える
1
C
新茶屋の道標
しんちゃや
(多気)明和町
<伊勢街道>
石道標
高175㎝,幅32㎝,厚30㎝
嘉永6(1853)
WEB(北伊勢の道標)
下部やや埋没/左面がCブロック塀で見えない
(正面)「従是 外宮 二里」、(右面)「くし田川江 二リ 津江 七リ/まつ坂江 三リ せき江 十三リ/六けん追分江 四リ 四日市追分江 十四リ」、(左面)「宮川江 一リ」/江州(大阪)、伯州(鳥取)の関係者の名が見える
3
C
柿の多賀大社常夜灯
かき
(三重)朝日町
朝明川・堤防<東海道>
石常夜灯(自然石)
弘化3(1846)
町教委/WEB
昭和46、道路改修のため移設(C基壇)
(竿正面)「多賀/大社、常夜燈」/東海道より多賀大社へ参拝するための間道に入る目標
2
B
(三重)川越町
音羽の太神宮常夜灯
おとわ
(三重)菰野町
<巡礼道>
石常夜灯(自然石)
高3.60m
弘化5(1848)
町教委
火袋補修
(中台正面)「兩/宮」/幅広の石基壇上に載る/町内にある江戸期の常夜灯は1基のみ(「朝日惣若子中」)
1
B
杉谷の道標1
すぎたに
(三重)菰野町
<尾高観音道>
石道標
高81㎝,幅23㎝,厚18㎝
延宝8(1680)
WEB(北伊勢の道標)
移設?
(正面)「尾高觀音道 自是 十二町上」/17世紀の道標
2
B
杉谷の道標2
すぎたに
(三重)菰野町
<尾高観音道>
石道標(尖頭角柱)
高90㎝,幅8.5㎝,厚9㎝
享保15(1730)
WEB(北伊勢の道標)
保存状態良好
「(梵字)右 尾高觀音道」
1
C
湯の山の地蔵道標
ゆのやま
(三重)菰野町
石道標(舟型)
高68㎝,幅43㎝
江戸中期?
WEB(北伊勢の道標)
祠内
(光背右)「右 おゝかわら道」、(同左)「左 なが石道」/光背中央に地蔵立像を陽刻/湯の山は尾張藩の湯治場(貞享4(1686)-天保・寛政期(1780頃)が隆盛期)
1
C
田口の道標
たぐち
(三重)菰野町
<福王神社>
石道標(自然石)
高97㎝,幅30㎝
文化7(1810)
WEB(北伊勢の道標)
移設/中央で折損→修復
(正面)「福王山毘沙門堂」、(同左下)「是ヨリ 廿一丁」
3
C
永井の水路橋
ながい
(三重)菰野町
(井出神社前)
<大井湯用水/小川>
石桁橋
(水路、花崗岩)
長5.67m,幅1.8m,
深0.67m
元禄12(1699)
町教委
昭和59、県営圃場整備事業で撤去(田光の石工の手で解体)→井出神社前に永久保存
底板と側板:長3m弱、厚20㎝の石板をつなぎ合わせ、水の力で開かないよう柱石と梁石で止め、隙間に水漏れ防止の漆喰が詰められていた
3
B
竹成の取水用マンボ
たけなり
(三重)菰野町
朝明川→砂吐き湯・砂ごし湯
素掘トンネル
(水路)、石坑門
長約30m
元禄 or 天保7(1797)
町教委/WEB
保存状態良好/現役
「砂吐き湯」は用水路名→稲に少しでも暖かい水を供給したいという気持ちの現われ(中世由来)/石柱・石梁で堅固に造られた坑口
1
B
田光のマンボ群
たびか
(三重)菰野町
禿の湯
素掘トンネル
(水路)
①長85m,②長43m,他短いものが5ヶ所
江戸初期 or 幕末・明治
町教委
非現役
南麓から東へ延びる丘陵の南面の急崚な山腹を這うようにして開鑿された用水路→至る所に花崗岩の崩壊露出箇所→「禿の湯水」の呼称
2
B
音羽のマンボ
おとわ
(三重)菰野町
(三尾高)
素掘トンネル
(水路)
長約40m,高約1.5m
江戸期
町教委
上の溜池が埋められたため機能喪失
上の溜池(標高112m,面積2214㎡)と下の溜池(107m,4029㎡)をつなぐトンネル/両側から掘り進めたため、中央で1mほど食い違った
2
C
菰野の地下井戸
こもの
(三重)菰野町
(地蔵集落)
石井戸
寛政12(1800)頃
WEB(北伊勢の道標)
建物内・閉鎖・蓋
ただの井戸で、なぜ「地下井戸」と呼ばれているかは不明
3
-
宣旨帰りの石畳
せんじがえり
(南牟婁)紀宝町
<川端街道>
石畳道
長約200m,幅1m弱
戦国?~江戸以前
WEB
保存状態良好
熊野川の崖を削って造られた道/後白河上皇の宣旨(命令文書)をもった使者が引き返したと云われる難所(伝承が正しくても、当時から石畳があったかどうかは不明)
1
B
井田の常夜灯
いだ
(南牟婁)紀宝町
(宇津気橋)
石常夜灯
高1.32m
文政10(1827)
県石造物調査報告1p141
井田庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
C
川口の常夜灯
かわぐち
(南牟婁)紀宝町
鵜殿廻船
石常夜灯(花崗岩・花崗斑岩)(海運)
高3.0m
文化4(1807)
県教委/
県石造物調査報告1p58・143
火袋は後補/寄進者名に近代の商人も(昭和30年代まで献灯が続いた)
鵜殿と新宮の廻船問屋と取引先の都市商人らの寄進により建立
2
B
川口の宝篋印塔
かわぐち
(南牟婁)紀宝町
鵜殿廻船
石祈願塔(花崗岩・凝灰岩)(海運)
高3.0m
宝暦9(1759)
県石造物調査報告1p58
原位置
港の確保と海上安全を祈願して建立=大坂等の材木問屋が主導し、地元の廻船業者が協力/石工: 小島屋半兵衛(大坂)/幅広の石基壇
1
B
横垣峠道の石畳
よこがき
(南牟婁)御浜町
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道部分もかなりある)
長約10㎞,幅5m
江戸期 or それ以前
国史跡
熊野古道と石段・石畳p16
-17
長10㎞にわたって石畳が連続しているわけではない→しかし、断続的に続くため分割表示することは不可能
横垣峠(標高310m)と坂ノ峠(同288m)を含む峠道/坂ノ峠以西に、よく整った石畳・石段が見られる=特に同峠から西へ100mほど下った丘陵斜面部の石畳は完成度が高い
1
風伝峠道の石畳
ふうでん
(南牟婁)御浜町・熊野市
<熊野街道(熊野古道)>
石畳道(土道部分もかなりある)
長257m,幅1.8-1.9m
江戸期 or それ以前
国史跡
熊野古道と石段・石畳p17
保存状態良好
御浜町側には、外縁石を用いた幅広の立派な石畳区間がある
1
C
八幡神社の参道橋
やはた
(南牟婁)御浜町
八幡神社参道
石桁橋(花崗岩)
長3.12m,幅1.26m
安政4(1857)
県石造物調査報告1p136
保存状態良好
(高欄右)「秋葉講連中寄進」
1
C
亀島の常夜灯
(亀島の石灯籠)
かめしま
(南牟婁)御浜町
(阪本上地)<本宮道>
石常夜灯(砂岩)
高2.54m
文化10(1813)
県石造物調査報告1p139
原位置
高さ5mの岩の上に立つ
1
B
神木の妙見山常夜灯
こうのぎ
(南牟婁)御浜町
<妙見山登山道>
石常夜灯
高1.45m
天保5(1834)
県石造物調査報告1p138
原位置
「妙見山」
1
C
阪本の常夜灯
さかもと
(南牟婁)御浜町
石常夜灯(砂岩)
高1.54m
天保7(1836)
県石造物調査報告1p139
原位置
下地庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
1
C
上市木の常夜灯
かみいちぎ
(南牟婁)御浜町
(庄ヶ芝)
石常夜灯
高1.75m
弘化4(1847)
県石造物調査報告1p136
原位置
庄ヶ芝庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
1
C
下市木の常夜灯
しもいちぎ
(南牟婁)御浜町
(花崎)
石常夜灯
高1.79m
嘉永2(1849)
県石造物調査報告1p139
原位置
花崎庚申/庚申講による常夜灯の寄進は南紀の特徴
1
C
神木の常夜灯
こうのぎ
(南牟婁)御浜町
<横垣峠道>
石常夜灯(砂岩)
高1.60m
嘉永3(1850)
県石造物調査報告1p137
原位置
「往来安全」「神野木村安全」/建立: 大坂・佐藤屋宗七
1
C
鷲巣池
わしのす
(南牟婁)御浜町
土堰堤
長30m
天保9(1838)
県石造物調査報告1p54
保存状態良好
世話人: 小原源七良
1
C
ツヅラト峠道
(度会)大紀町・
(北牟婁)紀北町
<熊野街道(熊野古道)>
道路
江戸期 or それ以前
国史跡
熊野古道と石段・石畳p8
保存状態良好
石畳は紀北町側のみ
1
C
大内山駒の常夜灯
おおうちやま、こま
(度会)大紀町
(松原)
石常夜灯
高1.86m
嘉永5(1852)
県石造物調査報告1p93
原位置
「無盡燈」=尽きることのないともしび→常夜灯の別表現としては稀
1
C
鷹谷の道標
たかだに
(度会)大紀町
<熊野街道の瀬戸峠と左峠道の分岐点>
石道標(自然石)
高54㎝,幅46㎝,厚12㎝
寛文13(1673)
県石造物調査報告1p64
一時、大宮町郷土資料館に移設→ほぼ原位置に戻す
「右 山みち/左 くまの」/建立: 山田之住 西求=現・伊勢市の人物/17世紀の道標
2
B
柏野の地蔵道標
かしわの
(度会)大紀町
(藤ヶ谷口)
石道標(舟型?)
高49㎝,幅22㎝
文化12(1815)
県石造物調査報告1p94
(右端)「右 神前道」、(左端)「左り 山道」/中央に地蔵○像を陽刻
-
野添の道標
のぞえ
(度会)大紀町
<滝原道>
石道標
高94㎝,幅18㎝
弘化2(1845)
県石造物調査報告1p96
(正面)「右 金わ古里藤道」、(左面)「左 山ミち」
C
大内山の道標
おおうちやま
(度会)大紀町
公民館前
石道標
高60㎝,幅20㎝
安政3(1856)
県石造物調査報告1p92
移設
「左 くまの」
2
-
金蔵寺の嘉永津波流死塔
こんぞう
(度会)大紀町
金蔵寺
津波記念碑(花崗岩)
(伊賀地震)
(東海地震)
高44㎝,幅24㎝,厚24㎝
安政2(1855)
県石造物調査報告1p66
保存状態良好
「津波流死塔」「嘉永第七甲寅年/霜月四日辰下刻大地/震亘巳之上刻津波入/此時貮丈余備以後大/地震有之節者火事/津波ホ可得心者也」/地震・津波災害の半年後に建立
1
-
田丸の太神宮常夜灯
たまる
(度会)玉城町
(上町)田丸神社・入口
石常夜灯
高4.06m
天保5(1834)
県石造物調査報告2p55・171
原位置
(竿正面)「兩/宮、常夜燈」/石基壇あり
1
A
田丸の道標
たまる
(度会)玉城町
(魚町)<熊野街道>
石道標
高164㎝,幅31㎝
江戸後期
県石造物調査報告2p55・171
原位置(再設置)
(正面)「紀州街道」、(右面)「右 さんくう道」、(左面)「左、よしの/くま乃、みち」
1
C
原の道標
はら
(度会)玉城町
石道標
高238㎝,37㎝角
文化13(1816)
県石造物調査報告2p56・174
原位置?
(正面)「(梵字)國束山觀音道、是より/三十丁」、(左面)「左 参宮道 手引觀音江かけぬけ 二十五丁」
1
B
勝田の地蔵道標
かつた
(度会)玉城町
浜塚山・入口
石道標
高80㎝,25㎝角
文政3(1820)
県石造物調査報告2p172
/WEB(北伊勢の道標)
移設?
(右面)「右 し満ミち」、(左面)「左 廣泰寺」/正面に地蔵立像の陽刻(詳細不明)
2
C
勝田の道標1
かつた
(度会)玉城町
<和歌山別街道>
石道標
高269㎝,31.5㎝角
文政7(1824)
県石造物調査報告2p164
/WEB(北伊勢の道標)
原位置?
(正面)「右 くまの かうや よし乃/左 たなばし しまかた、道」、(右面)
「神照山廣泰寺、是より/十五丁」、(裏面)「左 さんぐうミち」
1
B
勝田の道標2
かつた
(度会)玉城町
石道標
高266㎝,33㎝角
文政7(1824)
県石造物調査報告2p164
/WEB(北伊勢の道標)
近接移設?
(正面)「右 くまの かうや/左 さい乃かみた くつか」、(右面)「冨向山田宮寺、是より/十丁」、(裏面)「すぐ さんぐうミち」
1
B
小社曽根の地蔵道標
おごそそね
(度会)玉城町
宝泉寺
石道標(丸彫)
高37㎝(地蔵)→全高は約1m
天保2(1831)
県石造物調査報告2p164
/WEB(北伊勢の道標)
移設、集約
(下段台石正面)「右/田/丸/み/ち」/3段の台石上に地蔵坐像の丸彫を載せる
1
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十丁)
くづか
(度会)玉城町
<原道(仮称)>
町石(舟型)
高53㎝,幅26㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p174
原位置/台石は後補
(光背右)「是より 十丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻/原道の江戸期の町石はこれ以外すべて新・国束寺(度会町参照)に移設・集約
1
C
切原の道標
きりはら
(度会)南伊勢町
石道標
(蒲鉾型、砂岩)
高53㎝,幅24㎝
享保14(1729)
県石造物調査報告2p195
移設→墓地
(正面)「右 飯森道/左 参宮道」
3
-
泉の地蔵道標
いずみ
(度会)南伊勢町
石道標(丸彫)
高113㎝,幅45㎝
天保4(1833)
県石造物調査報告2p192
移設
(上段台石正面)「右 やま/左 切原村、道」/台石上に地蔵坐像(蓮台)の丸彫を載せる
2
B
伊勢路の馬頭観音像道標
いせじ
(度会)南伊勢町
石道標(舟型)
高68㎝,幅30㎝
江戸期
県石造物調査報告2p192
/南島町乃石文p43
堅固な覆屋内/信仰の対象
(光背右)「右 藤 松坂道」、(同左)「左 山ミち」/光背中央に馬頭観音立像(一面二臂)を陽刻/「ミち」の標記は江戸期の可能性/県の報告書では「地蔵」とされているが、台石正面に「牛/馬/安/全」とあるので、地元では馬頭観音とされている
1
C
河内の結界石
こうち
(度会)南伊勢町
仙宮神社参道・入口右
境界石(尖頭角柱)
高123㎝,幅24㎝
享保9(1724)
県石造物調査報告2p196
原位置
(正面)「禁殺生」、(右面)「仙宮神」
1
C
奈屋浦の支毘大命神供養塔
なやうら、
しび
(度会)南伊勢町
照泉寺
石碑
(駒型、花崗岩)
(漁業遺産)
高241㎝,幅105㎝
慶応4(1868)
県石造物調査報告2p67・202
保存状態良好
(正面)「(梵字5)支毘大命神」、(裏面)「慶應改元乙丑穀糧漸高貴也 同至三年丁卯孟春尚更 高貴以金一兩纔得求米八升而巳矣其餘森羅万象前代未聞高貴也 既而活業漁事亦少微也 悲哉郷民殆向餓死其因苦不可具言焉 然而於當浦自三月三日至十一日得鮪大漁其頭數凡三千餘 其價金凡六千兩餘也 嘗謂未曾有之奇事也 噫夫世人莫過乎其飢渇之苦患寧大旱之雲霓末足 喩猶解倒懸也 尓今偶然以此多漁得免其飢苦可謂僥倖而佛天以大慈悲贖郷民身命即浄財苦危者乎所謂無縁之攝物也 豈不思魚鱗之抜苦与樂乎蓋聞佛心者大慈悲是也故戒殺者 萬善爲要哉 外教尚謂仁冠五常況於干内典乎因勤修大施餓鬼併一七夜誦経稱佛而擬冥福者也 且毎歳三月三日春秋彼岸必須永世不退勤行追善菩提也 熟思雖今脱危苦末有信因果者 痛哉難化之地也 伏願後世往錫之尊宿以道力令開示現當兩益發生信芽乃欲使知軌干後昆更建塔 號曰 支毘大命神也 必當祈願天下泰平以郷中安寧也 慶應四年戊辰仲春 照泉寺十一世主 制譽眞如海敬識」/「支毘」はホンマグロのこと→マグロの大漁に感謝し、その供養のために建立
1
A
贄浦の津波供養塔1
にえうら
(度会)南伊勢町
最明寺
津波記念碑
(宝永地震)
高79㎝,43㎝角
宝永4(1707)
町有形
県石造物調査報告2p68・203/町教委
保存状態良好
(正面)「大乘経」、(右面)「爲溺死亡霊菩提」、(左面)「宝永四丁亥冬十月四日/午刻大地震之後高汐漲/起當浦家不殘流失而男/女六十人計溺死也今此」、(裏面)「経塚之所迄浪到也後來/若有大地震者必可知高/浪來也爲後鑑記焉」
(写真は左面)
1
B
古和浦の津波供養塔
こわうら
(度会)南伊勢町
甘露寺・墓地
津波記念碑
(蒲鉾型)
(宝永地震)
高113㎝,幅65㎝,厚52㎝
元文4(1739)
町有形
県石造物調査報告2p65・197/町教委
保存状態良好
(正面)「三世萬霊」、(右面)「于茲宝永四丁亥十月四日未刻 大地震動海/水激發而白浪滔天簸場於陸地三丈餘矣故/怒潮到處民家一宇不殘流亡溺死之老少男/女八十餘員也到于後代若遇於如此時節則/悉可登于人人屋上之山頂焉必向當山莫退」、(左面)「來矣高潮不移時半路而多失身命此故令知/末世之兒孫斯一大事而爰觀縷誌焉云爾/元文四屠協洽暮春吉辰 當山現住/大凰/祖山謹誌」
(写真は左面)
1
B
贄浦の津波供養塔2
にえうら
(度会)南伊勢町
最明寺
津波記念碑
(安政地震)
高75㎝,幅43㎝,厚47㎝
安政3(1856)
町有形
県石造物調査報告2p68・203/町教委
保存状態良好
(正面)「供養塔」、(右面)「嘉永七年寅十一月四日巳刻大地震/又有突浪溺死者三人民家六十餘/流出破損不知數也有大地震者有/突浪古今相同後人宜知之也」
(写真は右面)
1
C
新桑竈の中井戸
さらくわがま
(度会)南伊勢町
石井戸
宝暦11(1761)
県石造物調査報告2p200
/WEB(やぶこぎネット)
保存状態良好/現役
井戸枠の四隅上部に斜めのカスガイ石が入っている→非常に強固になるが他に例を見ない
1
A
長原の太神宮常夜灯
ながわら
(度会)度会町
集落の中央
石常夜灯(自然石)
高3.03m
嘉永6(1853)
県石造物調査報告2p185
原位置/火袋は後補
(竿正面)「兩太神宮」
1
B
坂井の聖観音像道標
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
石道標
高128㎝,幅30㎝,厚21㎝
天保14(1843)
県石造物調査報告2p59・182
近接移設?
(正面像下)「是より/國束寺觀音道/二十二丁」/正面頂部を光背型に削り込み聖観音坐像を陽刻/国束寺の整備を行った覺雄が西からの坂井道(仮称)の入口に建立したもの→下記の「廃国束寺(坂井道)の町石」参照
1
C
平生の道標
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
石道標
高196㎝,幅26㎝,厚27㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p61・187
原位置
(正面)「(梵字)國束寺觀音道、是より/二十二丁」、(左面)「左 くまのみち」/国束寺の整備を行った覺雄が東からの平生道(仮称)の入口に建立したもの→下記の「廃国束寺(平生道)の町石」参照
1
B
坂井の道標
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
石道標
高110㎝,幅19㎝
弘化2(1845)
県石造物調査報告2p59・182
原位置
(正面)「(梵字)すぐ さんけい道」、(左面)「右下り 相鹿瀬 くまの道」、
(裏面)「左 すぐ 坂井道」/国束寺の整備を行った覺雄が西からの坂井道(仮称)の入口に建立したもの→下記の「廃国束寺(坂井道)の町石」参照
1
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十八丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高78㎝,幅33㎝
正徳4(1714)
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設/光背一部欠損
廃国束寺(原道)の地蔵町石は、
廃国束寺町石の中で最も古くから整備された主要ルートで、山麓から山頂の国束寺に向けて順番に並んでいたとされるが現在は新・国束寺に移設されている
/
(光背右)「これより」、(同左)「十八丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十八丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高82㎝,幅38㎝
天明2(1782)
県石造物調査報告2p187
移設
(光背左)「是より 十八丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十七丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高66㎝,幅29㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「是ヨリ 十七丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十六丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高66㎝,幅30㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより 十六丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十五丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高76㎝,幅31㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより」、(同左)「十五丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(十四丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高85㎝,幅36㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「是より 十四丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(九丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高81㎝,幅45㎝
正徳4(1714)
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設
(光背右)「これより」、(同左)「九丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(七丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高72㎝,幅32㎝
正徳6(1716)
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより 七丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(七丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高72㎝,幅31㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより 七丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(六丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高68㎝,幅30㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設
(光背右)「これより」、(同左)「六丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(四丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高79㎝,幅35㎝
正徳6(1716)
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより 四丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(三丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高69㎝,幅31㎝
江戸中期?
県石造物調査報告2p187
移設
(光背右)「これより」、(同左)「三丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の地蔵町石(二丁)
くづか、はら
(度会)度会町
国束寺<原道(仮称)>
町石(舟型)
高72㎝,幅32㎝
正徳6(1716)
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設
(光背右)「これより 二丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(原道)の結界石
くづか、はら
(度会)度会町
<原道(仮称)>
境界石
高117㎝,幅16㎝
天保11(1840)
県石造物調査報告2p
原位置
(正面)「従是國束寺境内」、(右面)「禁諸肉五辛」、(左面)「道傍五間通並木塲所」
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十七丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
国束寺<平生道(仮称)>
町石(舟型)
高86㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設
廃国束寺(平生道)の地蔵町石は覺雄により天保15に整備され、山麓から山頂の国束寺に向けて順番に並んでいる(山頂が1丁
⇒逆順
)
/(光背上)「是ヨリ」、(同右)「十七丁」/「平生村 …」の銘があり、天保15で、丁数刻字の配置が同一なので平生道の町石/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十六丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
国束寺<平生道(仮称)>
町石(舟型)
高86㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p187
/WEB(神宮巡々)
移設
(光背右)「是ヨリ」、(同左)「十六丁」/「先祖代々平生村」の銘は平生道の町石だけの特徴、かつ、天保15で、丁数刻字の配置が同一なので平生道の町石/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十五丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高102㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是ヨリ」、(同左)「十五丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十四丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高94㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「十四丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十三丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高95㎝,幅34㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「十三丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十二丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高98㎝,幅35㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「十二丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十一丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高98㎝,幅35㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置?/転倒
(光背右)「是より」、(同左)「十一丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(十丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高95㎝,幅37㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「十丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(九丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高95㎝,幅32㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「九丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(八丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石
(舟型、花崗岩)
高140㎝,幅63㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より 八丁」/光背中央に地蔵立像(錫杖)の陽刻/唯一
「覺雄代」の銘がある→この町石だけ花崗岩製で大きさも1.5倍ある
1
B
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(七丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高98㎝,幅31.5㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「七丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(六丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高95㎝,幅30.5㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是ヨリ」、(同左)「六丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(五丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高97.5㎝,幅30㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「五丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(四丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高97㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「四丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(三丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高97㎝,幅33㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置?/転倒
(光背右)「是より」、(同左)「三丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(二丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高96㎝,幅30.5㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置?/転倒
(光背右)「是より」、(同左)「二丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
2
C
廃国束寺(平生道)の地蔵町石(壹丁)
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高95㎝,幅32㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p188
/WEB(神宮巡々)
原位置
(光背右)「是より」、(同左)「壹丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(平生道)の結界石1
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
境界石(自然石)
高84㎝,幅30㎝
江戸期
県石造物調査報告2p188
原位置?/転倒
(正面中央)「従是、北/南、北禁止殺生」
2
C
廃国束寺(平生道)の結界石2
くづか、
ひらお
(度会)度会町
<平生道(仮称)>
境界石(砂岩)
高75㎝,幅12.5㎝
江戸期
県石造物調査報告2p188
原位置
(正面)「従是北 禁止殺生」、(左面)「従是東」/上記の「三丁石」と並ぶ
1
-
廃国束寺(坂井道)の町石(十二丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(尖頭角柱、花崗岩)
高118㎝,幅22㎝
天保15(1845)
県石造物調査報告2p182
原位置
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石は入口の十二丁のみ覺雄により建立し山麓から山頂の国束寺に向けて順番に並んでいる(山頂が1丁
⇒逆順
)
/(右面)「(梵字)是より峯迄 十二丁」、(左面)「天保十五年九月吉旦 當山現住 覺雄建之」/坂井道で覺雄が建てた唯一の町石→これ1本だけが角柱、残りはやや時代が下ってから建立された地蔵町石陽刻
1
B
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(十一丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高62㎝,幅31㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背右)「是より 十一丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(十丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高63㎝,幅31㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背右)「是より 十丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(九丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高63㎝,幅27㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/九丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(八丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高59㎝,幅30㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/八丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(七丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高58㎝,幅31㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/七丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(六丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高61㎝,幅27㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/六丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(五丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高59㎝,幅29㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/五丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(四丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高61㎝,幅28㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/四丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(三丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高58㎝,幅30㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/三丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(二丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高57㎝,幅32㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/二丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
C
廃国束寺(坂井道)の地蔵町石(壹丁)
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
町石(舟型、砂岩)
高47㎝,幅21㎝
江戸期
県石造物調査報告2p182
原位置
(光背上)「是より/壹丁」/光背中央に地蔵立像の陽刻
1
-
廃国束寺(坂井道)の結界石
くづか、
さかい
(度会)度会町
<坂井道(仮称)>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高104㎝,幅22㎝
天保11(1840)
県石造物調査報告2p182
原位置
(正面)「従是國束寺境内」、(右面)「道傍五間通並木塲所」、(左面)「禁諸肉五辛」/上記の「町石(十二丁)」と並ぶ
1
C