一里塚
都道府県別データ一覧にあるBランク以上(保存状態3以上)の一里塚 (保存状態の欄で塚木を
赤字
で示したものは、オリジナルの可能性が高いもの)
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
池ノ平一里塚
いけのたいら
青森/十和田市
<奥州街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約3.4m,直径約13.2m,
東塚
:高約3.6m,直径11.5m
慶長15年(1610)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/歴史の道11p69
東塚の東側部分が一部国道により損壊(2基の塚が離れていて、一対という感じが薄い)/塚木なし
3
B
伝法寺一里塚
でんぽうじ
青森/十和田市
<奥州街道>
一里塚(2基)
南塚
:高約2.4m,直径約11.6m,
北塚
:高約2.6m,直径約12.2m
承応元(1652)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/歴史の道11p68/WEB
樹林の中に放置(一里塚と識別しにくい)/塚木なし
3
B
市野沢一里塚
いちのさわ
青森/八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(2基)
底面直径約10m,高さ2~3m
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委/WEB
両塚現存(自然生えの木がそれらしく育っている)
現役の道路を挟んで一対で残っている
2
B
大森一里塚
おおもり
青森/八戸市
<登り街道(上り街道)>
一里塚(2基)
高2~3m,直径約10m
慶長9-承応2(1604-53)
県史跡
市教委/WEB
両塚現存(丸裸)
現役の道路を挟んで一対で残っている
3
B
天間舘一里塚
てんまだて
青森/(上北)七戸町
<奥州街道(松前路)>
一里塚(2基)
西塚
:高2.3m,直径12m
慶長15(1610)
県史跡/選奨土木遺産
WEB/歴史の道・奥州街道p67
塚木:西塚の
欅
はオリジナル
欅は樹齢300年以上/西塚の欅は、全国の一里塚の中でも現存最大級の巨木
1
蒼前平一里塚
そうぜんたい
青森/(上北)七戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
直径約9.3m,高約2m
江戸期
県史跡/選奨土木遺産
WEB/歴史の道・奥州街道p70,71
街道の遺構も含めて残る
塚木はないが、旧街道の雰囲気を留めている
2
B
駕篭立場一里塚
かごたてば
青森/(三戸)三戸町
一里塚(2基)
西塚
:高約3m,直径約7m,
東塚
:高約3m,直径約5m
江戸期
県史跡/選奨土木遺産
歴史の道11p64/WEB
東塚一部破損
3
B
塚の沢一里塚
つかのさわ
岩手/盛岡市
(玉川区藪川・」外山)
<小本街道>
一里塚(2基)
北塚
:高1m,直径8m,
南塚
:高3m,直径8-9m
江戸初期
県史跡
現地解説板
国道455のすぐ脇に旧道の両側に当時のまま残る/塚木なし
小本街道は海産物を盛岡に運ぶ重要な輸送路→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
2
B
小野松一里塚
おのまつ
岩手/盛岡市
<奥州街道>
一里塚(2基)
慶長9-15(1604-10)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/WEB
塚木なし/両塚現存してはいるが、東塚は半壊していたものを道路の拡幅にあわせて盛土復元されている
現役の道路の両脇にある
2
B
大堂一里塚
だいどう
岩手/盛岡市
(上米内・米内沢、白石)
<野田街道>
一里塚(2基)
慶長15(1610)頃
市史跡
現地解説板
塚木なし/国道455から分岐した旧道の両側に若干荒れて残る/塚木なし
野田街道は塩の道として利用→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
3
B
高畑一里塚
たかばたけ
岩手/盛岡市
<宮古街道>
一里塚(2基)
寛永18-20(1641-43)
県史跡
市教委/WEB
塚木なし/山中に放置されているが、ほぼ完全な形で残る
3
B
末崎川一里塚
まつざきがわ
岩手/盛岡市
(玉山区藪川・末崎川)
<小本街道>
一里塚(2基)
北塚
:高4.5m,直径9.5m,
南塚
:高3m,直径9m
江戸期
県史跡
WEB
塚木なし/南塚の北側は欠損
小本街道は海産物を盛岡に運ぶ重要な輸送路→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
3
B
簗川一里塚
やながわ
岩手/盛岡市
(簗川1地割)
<宮古街道>
一里塚(2基)
北塚
:高3m,直径10m,
南塚
:高3m,直径9m
寛永18-20(1641-43)
市史跡
WEB
塚木なし/樹林内
基部に石組
3
B
人首山本七里塚
ひとかべ、やまもと
岩手/奥州市
(米里・山本)
<盛街道>
一里塚(2基)
高1.4m,直径5.4m
江戸期
市史跡
市教委
放牧地内
3
B
成田一里塚
なりた
岩手/北上市
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高3.2m,直径11.7×6m,
西塚
:高3m,直径14.1×12.5m
慶長9(1604)以降
県史跡
市教委/WEB
西塚の塚木(
欅
)はオリジナル/東塚の塚木(桜)は補植/よく整備されている
西塚の欅が非常に立派/現役の道路をはさんで2基きれいに残っている
2
A
二子一里塚
ふたご
岩手/北上市
一里塚(2基)
東塚
:高2m,直径13.3×12.7m,
西塚
:高2.3m,直径12.1×11.1m
慶長9(1604)以降
県史跡
市教委/WEB
西塚の塚木(
小楢
)は恐らくオリジナル/東塚の塚木は補植
西塚は神社の森と一体化
2
B
寒長根一里塚
さぶながね
岩手/久慈市
<久慈街道>
一里塚(2基)
南塚
:高2.3m,直径12.7m
江戸期
市史跡
市教委
南塚は国有林内
2
B
合戦場一里塚
かっせんば
岩手/久慈市
<久慈街道>
一里塚(2基)
高4.0m,直径12.7m
江戸期
市史跡
市教委
雑草に覆われている
久慈街道に残存するもので最大規模/塩の道
3
B
平沢一里塚
ひらさわ
岩手/久慈市
<浜街道>
一里塚(1基)
高3.63m,直径12.6m
江戸期
市史跡
市教委
林の中/塚木なし
3
C
迷岡一里塚
まよおか
岩手/遠野市
<花巻街道>
一里塚(2基)
高3m,直径5m,塚木:松,檜
正保年間(1644-48)
市史跡
市教委
北塚に残る松とヒノキの巨木のうち、少なくとも1本は当初の物ではないが、江戸期には遡る可能性あり
2
B
辷田峠一里塚
すべた
岩手/遠野市
<遠野街道>
一里塚(2基)
高2.9m,根本周り31m
正保年間(1644-48)以前
市史跡
市教委/WEB
山林内に周辺の整備されて残っている/塚に雑木が繁茂
3
B
仁左平本新田一里塚
にさたいほんしんでん
岩手/二戸市
<八戸街道>
一里塚(2基)
塚木:なし
江戸期
市史跡
市教委
一面の畑の中に当時の土盛りが対で残っている
4
B
荒屋一里塚
あらや
岩手/八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
江戸後期(推定)
市史跡
市教委/WEB
山林中にある/塚木なし
3
B
留の沢一里塚
とめのさわ
岩手/八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
江戸後期(推定)
市史跡
市教委/WEB
国有林(まばらな雑木)の中に残る/塚木なし
基点である盛岡鍛治丁(現紺屋町)から9里目
3
B
中野一里塚
なかの
岩手/花巻市
<奥州街道>
一里塚(2基)
高1.8m,直径6m
江戸初期
市史跡
市教委/WEB
田園地帯の草地に残る/塚木の
松
は2本とも松枯れ病のため伐採予定(東北北部まで松枯れ病が入ってきてしまった)
現役道路の両側に松の巨木の残る一里塚/北塚の松は塚の上に生えているが2本の独立した木でありオリジナルと思えない(江戸末期の自然栄え?)、南塚の松は塚中央から1本直立しているが樹齢300年とは思えないので江戸末期の補植か?
1
A
早坂一里塚
はやさか
岩手/宮古市
<宮古街道>
一里塚(2基)
寛永18(1641)以降
市史跡
市教委/WEB
林の中に接近して2基残存/塚木なし
3
B
坂下一里塚
さかした
岩手/陸前高田市
<今泉街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.5m,円周20.5m,
西塚
:高2m,円周20m
江戸期
市教委
市内の一里塚で最も保存状態は良好/塚木なし
崩落防止のため、裾部分に石垣が積んである
3
B
御堂・馬羽松一里塚
みどう・まはまつ
岩手/(岩手)岩手町・
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.8m,10×11.2m,
西塚
:高1.6m,10.6×12.2m
江戸期
国史跡/選奨土木遺産
一戸町教育委員会(奥州街道調査報告書)
道路より少し高い位置にある/西塚は上から削られているか、最初からカマボコ型/灌木が自生/西塚の塚木ミズナラは補植
西塚が御堂一里塚、東塚が馬羽松一里塚と呼ばれている/西塚が岩手町、東塚が一戸町に属している/現役の一般道の両脇に残る
3
B
高前田一里塚
たかまえだ
岩手/(岩手)雫石町
(長山)<雫石街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.5m,直径8.5m,
南塚
:高2.5m,直径8.2m
慶長9~寛永17(1604-40)
県史跡
WEB
保存状態良好/塚木の
欅
が見事
雫石街道・秋田往来は、京・大阪から日本海・秋田湊経由で入ってくる物資の輸送路として、また、幕府・諸藩の馬買役人が国見峠を越え雫石経由で盛岡に入る道としても重要
1
A
生森一里塚
おおもり
岩手/(岩手)雫石町
<雫石街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.7m,直径12.2m,
南塚
:高2.2m,直径12.7m,塚木:松
慶長9~寛永17(1604-40)
県史跡
滝沢村教委/WEB
国道46号の改良に伴い旧道入口に残る/北塚の塚木は伐採
同上
3
B
辺地ヶ沢一里塚
へちがさわ
岩手/(上閉伊)大槌町
<浜街道>
一里塚(2基)
寛永8(1631)
歴史の道・浜街道p30/WEB/町教委
山林内/塚木なし(写真は西塚)
3
B
石峠一里塚
いしとうげ
岩手/(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高1.3m,直径6m,
西塚
:高2.3m,直径6m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
ほぼ完全な形
2
B
萩野平一里塚
きどわき
岩手/(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高1.2m,直径6m,
西塚
:高1.1m,直径6m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
草が生い茂り全体がわからない
3
B
和味一里塚
わみ
岩手/(紫波)矢巾町
<稲荷街道>
一里塚(2基)
塚木:松
江戸期
町史跡
町教委/WEB
松は補植と自生
補植と自生でも、松のある一里塚は少ない
3
B
笹目子・上女鹿沢一里塚
ささめこ、かみめがさわ
岩手/(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
中世に遡る可能性
町史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
東塚は灌木が自生、西塚は草山
ネット上では奥州街道の旧道とする説があると書かれているが、それは昭和61の『一戸町誌』によるもの→笹目子・上女鹿沢一~塚平までの3つの一里塚を結ぶ道について書かれた近世文書あるいは絵図は見つかっていない→現在の教育委員会の見解は、「奥州街道がぬかるんだので、別ルートが存在したかもしれない」というもの→時代は江戸期/一般道沿い
2
B
穴久保・下女鹿沢一里塚
あなくぼ、しもめがさわ
岩手/(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
高3m,直径12m
中世に遡る可能性
町史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
東塚はきれいな形状/西塚は多少形が崩壊
同上/旧道は滅失
3
B
塚平一里塚
つかのだいら
岩手/(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
中世に遡る可能性
選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
道路より少し高い位置にある/私有地内(保存状態は良好)/灌木が自生
同上
3
B
川底一里塚
かわそこ
岩手/(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高3.5m,10×12m,
西塚
:高3.2m,10×7m
慶長9(1604)以降
国史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
旧奥州街道の土道と一体的に残る(ただし、その先鉄道で遮断、行き止まり)
同上/東塚は丘陵先端部に土を盛り上げて構築、西側はやや急な崖となり、その一部を掘り込んで窪みを造り西塚とする/奥州街道の中でも難所の一つ/川底~御堂・馬羽松まで4基の一里塚が連続して残る
2
B
板沢一里塚
いたざわ
秋田/大館市
<鹿角街道
(羽州街道の脇街道)>
一里塚(2基)
北塚
:高1.4m,直径3.5m,
南塚
:高1.8m,直径3.9m
天和元(1681)以前
市史跡
大館郷土博物館
/歴史の道・鹿角街道p8
両塚現存(低平化)/北塚の塚木はエンジュ(補植)
『領中夵道程』(天和元)に記載
3
B
茶屋っこ一里塚
(神岡町一里塚)
かみおか
秋田/大仙市
道の駅かみおか
<南部羽州街道>
一里塚(2基)
北塚
:7.5×10m,高1.5m,
南塚
:6.2×7.1m,高1.5m
慶長9(1604)
県史跡
市教委/歴史の道・南部羽州街道p.24
両塚現存/両塚とも塚木は
サイカチ
(北塚は補植)/一部削れるもののほぼ当時のまま/現役の国道で寸断
秋田県内で原型を残す代表的な一里塚/塚木としてサイカチの木は珍しい
1
A
十六沢一里塚
じゅうろくさわ
秋田/大仙市
白岩通り<生保内街道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)
市教委/歴史の道・生保内街道p5
片側1基のみが残存/塚木は
サイカチ
→巨木
塚木としてサイカチの木は珍しい
2
A
鴨巣一里塚
かもす
秋田/能代市
<羽州街道>
一里塚(2基)
東塚
:直径8m
慶長9(1604)頃
県史跡
市教委
西塚の東裾部分が削られる
東塚は円形の盛土で、現在、昭和年代の樹齢の若い赤松・黒松が計6本生えている/西塚も同規模のほぼ円形の盛土で、同樹齢の赤松・黒松が5本生えている
3
B
愛宕町一里塚
あたごちょう
秋田/湯沢市
<羽州街道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)
県史跡
WEB
塚木:樹齢400余年の
欅
の巨木が残る
巨大な欅の根が膜状になって、土塚全体を覆う=全国的にも恐らく唯一の珍しい存在
2
湯の原一里塚
ゆのはら
秋田/湯沢市
<小安街道>
一里塚(1基)
正保4(1649)
市史跡
WEB
塚なし/塚木:樹齢400余年の
欅
の巨木が残る
樹下に地蔵が置かれており、全体に聖域的な雰囲気が漂う/もし、当初から塚がなければ、一里木
2
A
六郷一里塚
ろくごう
秋田/(仙北)美郷町
<羽州街道>
一里塚(1基)
江戸期
歴史の道
塚なし/塚木:樹齢400余年の
欅
の巨木が残る
県内で、最も美しい欅の塚木と言われる/もし、当初から塚がなければ、一里木
2
A
安城寺一里塚
あんじょうじ
秋田/(仙北)美郷町
<生保内街道>
一里塚(1基)
江戸期
町教委/歴史の道・生保内街道p4
西塚のみ残る/塚木:
サイカチ
(樹齢300年)
塚木としてサイカチの木は珍しい
2
A
天王寺一里塚
てんのうじ
宮城/大崎市
<陸奥上街道>
一里塚(2基)
江戸期
WEB
県道17号線改修の際も上下線を分離して保存された
塚の形がお椀状ではなく、不定形
3
B
瀬峰一里塚
せみね
宮城/栗原市
<佐沼街道>
一里塚(2基)
高1.8m,直径10m
江戸期
県史跡
WEB
周辺は散策路として案内板が整備されている
道路をはさんで2基の土盛りが揃って残り、その間隔は約20m/周辺の道路沿いには、松の自然林があり、古道の名残をとどめている
3
B
鳥越一里塚
とりごえ
山形/新庄市
<羽州街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
WEB
西塚が残る(盛土ほとんどなし)/塚木:
ブナ
(オリジナル)
樹高25mのブナの巨木は、塚木としても珍しい
2
A
坂野下一里塚
さかのした
山形/鶴岡市
一里塚(1基)
江戸期
市教委
塚木:
杉
(上部が折れて樹高は低いがオリジナルの可能性)
庄内地方としては、よく残されている数少ないものの一つである/藤のからまった杉、地蔵、庚申、馬頭観音、休石が残っている
3
B
穴切一里塚
あなぎり
福島/会津若松市
<白河街道>
一里塚(2基)
9m四方
寛永11(1634)以前
市史跡
市教委/現地解説版
塚木は後世の補植/両塚現存
9m四方の塚を築き、榎を植えたことから「榎壇」と呼ばれた/旧街道の雰囲気が良く残る
3
B
八田野一里塚
はったの
福島/会津若松市
<二本松街道(下街道)>
一里塚(2基)
北塚
:高2.4m,周囲38m,
南塚
:高3.6m,周囲35m
寛文10(1670)
市史跡
市教委/現地解説版
塚木は、桜・榎とも後世の補植/両塚現存
旧街道の雰囲気が良く残る
3
B
別府一里塚
べっぷ
福島/喜多方市
<米沢街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.75m,直径14.5m,
西塚
:高2.8m,直径12m
江戸初期
県史跡
市教委/歴史の道・米沢街道2p47
/WEB(がりつう)
ほぼ原形を留めているが、オリジナルの塚木は残っていない
若松城下から米沢に至る米沢街道沿いに設けられた3番目の一里塚
2
B
石阿弥陀一里塚
いしあみだ
福島/白河市
<奥州街道>
一里塚(2基)
北塚
:高3.2m,直径13×12m
南塚
:高2.5m,直径12×7m
慶長9(1604)?
市史跡
市教委/WEB
北塚はほぼ原形を留めているが、南塚は東部が一部欠損/道路が消
平成17・18の白河南中学校建設に伴う「芳野遺跡」の発掘調査で、一里塚の方向に東西に延びる17世紀前半の道路跡(幅約10m)の存在が確認→道幅から当時の主要道の可能性が高い→石阿弥陀一里塚は初期の奥州街道の一里塚と考えられている
3
B
須賀川一里塚
すががわ
福島/須賀川市
<奥州街道(陸羽街道)>
一里塚(2基)
東塚
:直径15×12m
西塚
:直径15×10m
江戸期
国史跡
WEB/歴史の道・奥州街道p49
両塚現存/塚型が良く保存されている/塚木は植え替えられ、オリジナルはなし
塚のある旧国道の両側にはかつて松並木があった
3
B
勢至堂一里塚
せいしどう
福島/須賀川市
<白河街道>
一里塚(2基)
江戸期
町史跡
歴史の道・白河街道p71/WEB
立入禁止の旧国道沿い(現在は私有地)に保存
3
B
栃沢一里塚
とちざわ
福島/(大沼)会津美里町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(2基)
直径8m,高3m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/WEB
山間部にあることから、ほぼ当時の姿のまま現存
3
B
美女峠一里塚
びじょ
福島/(大沼)三島町
<銀山街道>
一里塚(2基)
江戸期
町教委
年に1度草刈作業
3
B
束松峠一里塚
たばねまつ
福島/(河沼)会津坂下町
<会津街道>
一里塚(2基)
北塚
:高4.1m,,周囲39m,
南塚
:高2.8m,周囲30.8m
寛文7(1667)頃
町教委/歴史の道・越後街道p7/WEB
当時のまま(塚木なし)
北塚は大きいため「男壇」、南塚は「女壇」と呼ばれている/南塚は北に比べ小さいが福島で完全に残っているものはここが唯一
2
B
大内峠一里塚
おおうちとうげ
福島/(南会津)下郷町
<下野街道(会津西街道)>
一里塚(2基)
江戸初期
国史跡
町教委
塚木は残っていないが、当時の雰囲気が残る
会津藩初代藩主・保科正之が設置/当時は榎が植えられていた
2
B
杉の沢一里塚
すぎのさわ
福島/(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
天和3(1683)の日光大地震で鬼怒川支流・男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が誕生→会津西街道が通行不能になり会津藩三代藩主・松平正容により元禄8に整備された新道
2
B
野際一里塚
のぎわ
福島/(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
樹林の中にやや離れて一対で残る
同上
2
B
大峠一里塚
おおとうげ
福島/(南会津)下郷町
<松川街道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
WEB(がりつう)
笹で覆われている
同上
3
B
御上覧場一里塚
ごじょうらんば
福島/(耶麻)猪苗代町
<二本松街道>
一里塚(2基)
高4m,直径8m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/WEB/歴史の道・二本松街道p38
保存良好/保存会により草刈りなどの整備
当時は榎が植えられていたことから榎壇とも呼ばれる
2
B
楊枝一里塚
ようじ
福島/(耶麻)猪苗代町
<二本松街道>
一里塚(2基)
高4m,直径15m
寛文7(1667)
町史跡
町教委/歴史の道・二本松街道p30
保存会により草刈りなどの整備
若松札ノ辻を起点として8番目
2
B
木野浦一里塚
(小木一里塚)
きのうら
(おぎ)
新潟/佐渡市
(佐渡島)
<小木街道>
一里塚(2基)
西塚
:高約1.5m,径約4m
東塚
:高約1.5m,径約5m
明暦元(1655)頃
市史跡
市教委/歴史の道12p40/WEB(佐渡の歴史と文化)
東塚の塚木の
椎
は、木の太さと、塚中央から生えているのでオリジナルの可能性が高い
東塚が木野浦一里塚、西塚が小木町一里塚で文化財指定されている/西塚には「一里塚」と刻んだ標石が立っている他、奥に名工・中川重太郎が彫り移出伝説の残る大型の椿地蔵も残る
1
A
羽茂一里塚
(村山一里塚)
はもち・むらやま
新潟/佐渡市
(佐渡島)
<相川街道>
一里塚(2基)
高2.6m,直径7.5m,
西塚
:高2.6,直径7.0m
承応2(1653)
市史跡
WEB(佐渡の歴史と文化)/歴史の道12p36
現役の道路の両側に残る
塚木を植えた形跡がない
3
B
北沢一里塚
きたざわ
新潟/妙高市
<北国街道>
一里塚(2基)
高約3m,四方9.2×9.2m
江戸期
市史跡
WEB/現地解説版
西塚はほぼ完形で残るが、塚木は後世の補植/東塚は民家の下にあり、基壇のみ認められる程度
北国街道において、昔ながらの姿を残すのは北沢一里塚と藤沢一里塚のみとされる
3
B
福取一里塚
ふくとり
新潟/(東蒲原)阿賀町
<会津街道>
一里塚(2基)
高3m,直径4m
寛文7(1667)頃
町史跡
町教委/WEB/歴史の道11p23
杉並木に囲まれている
勾配を緩くするため道路を堀下げたので、切り通しの両側の杉林に囲まれて高く見える
3
B
柳新田一里塚
やなぎしんでん
新潟/(東蒲原)阿賀町
<会津街道>
一里塚(2基)
高約1.5m,直径約2m
寛文7(1667)以降
町史跡
町教委/WEB/歴史の道11p21
現道のヘアピンカーブ部分に2基1対の完形塚が残る
2基間の約3.2mが旧街道跡と考えられる/自動車道路が開削されたが、一里塚を迂回することになり保存された
2
B
行地一里塚
いくじ
新潟/(東蒲原)阿賀町
<会津街道>
一里塚(2基)
高3m,周囲長30m
寛文7(1667)以降
町教委/歴史の道11p16
雑草に覆われている
3
B
横堀一里塚
よこぼり
群馬/渋川市
<三国街道>
一里塚(1基)
15m×8m
江戸初期
市史跡
市教委
東塚の
欅
はオリジナルの可能性
2
B
藤塚一里塚
ふじつか
群馬/高崎市
<中山道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)
県史跡
市教委/WEB
南塚は整備/北塚は道路拡幅に伴い移動し、その上に浅間神社が建っている/南塚の榎はオリジナルの可能性
角が丸い正方形状の塚/周囲下部は石垣
2
B
高谷林一里塚
こうやばやし
栃木/宇都宮市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委
東塚は昭和58に一部修復/塚木の杉は上部が折れているがオリジナルの可能性/西塚は雑地林に埋もれかけている
江戸から29里
2
B
上戸祭一里塚
かみとまつり
栃木/宇都宮市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委
昭和58に一部修復/東塚の塚木のヒノキは補植/西塚は半壊状態
江戸から28里
4
B
六本木一里塚
ろっぽんぎ
栃木/宇都宮市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委
西塚はほぼ消滅
江戸から30里
4
B
喜沢西一里塚
(日光街道西一里塚)
きざわにし
栃木/小山市
<日光壬生通>
一里塚(2基)
径3.3m,高1.8m
承応3(1654)以前
市史跡
市教委/WEB
西塚がかろうじて原形を留める/東塚は一部が崩壊/樹木が茂る
日光街道の脇道・壬生通り(喜沢追分~今市追分)の最初の一里塚
4
B
飯塚一里塚
いいづか
栃木/小山市
<日光壬生通>
一里塚(2基)
承応3(1654)以前
市史跡
市教委/県教委(歴史の道1p135)
塚木はないが両塚現存/西塚周辺に歩道→形状がやや崩れる
江戸から22里/現役の2車線道路の両側に残る
3
B
赤塚一里塚
あかつか
栃木/鹿沼市
<日光壬生通>
一里塚(1基)
西塚:径約7m
承応3(1654)以前
市教委/県教委(歴史の道1p145)
塚木の
榎
はオリジナル/塚の開削部分に歩道が通る
江戸から25里目
3
A
小金井一里塚
こがねい
栃木/下野市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
国史跡
県教委(歴史の道1p34)/WEB
西塚の榎は大木だが補植(『宿村大概帳』では「東塚:松、西塚:杉」とある→確かに塚の真上には生えていない
江戸から23里目
2
B
笹野曽里一里塚
ささのそり
栃木/那須塩原市
<松川新道(会津中街道)>
一里塚(2基)
西塚:径約9m,高約3m,
東塚:径9.2m,高2.3m
元禄8(1695)以降
市史跡
市教委/WEB(がりつう)
西塚は畑の中、東塚は林の中に残る
天和3(1683)の日光大地震で鬼怒川支流・男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が誕生→会津道(会津西街道)が通行不能になり会津藩三代藩主・松平正容により元禄8に整備された新道/西塚は松川新道(会津中街道)の一里塚の中で最も原形を保つ/西塚と東塚が25mも離れている
2
B
横林一里塚
よこばやし
栃木/那須塩原市
<松川新道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
市史跡
WEB(がりつう)
同上/現役の道路の両側に残るが、上記「笹野曽里一里塚」ほどではないが、かなり離れている
2
B
下大貫一里塚
しもおおぬき
栃木/那須塩原市
<松川新道(会津中街道)>
一里塚(2基)
元禄8(1695)以降
市史跡
WEB(がりつう)
東塚
〔写真〕
は背が高いが、西塚はかなり低平化/森林中
同上
3
B
接骨木一里塚
にわとこ
栃木/那須塩原市
<松川新道(会津中街道)?>
一里塚(2基)
江戸期
市史跡
現地解説板
塚木は補植
松川新道(会津中街道)の一里塚ではないかと言われているが、道筋から考えて疑問
2
B
七本桜一里塚
しちほんざくら
栃木/日光市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委/県教委
(歴史の道1p59)
塚木の
杉
は一方がオリジナル、もう1つは補植/杉並木の中なので塚木の杉が目立たない
江戸から33里/塚上の杉は、根元が腐って空洞ができており、大人4人程度ならば入れることから、並木ホテルと呼ばれている
1
A
瀬川一里塚
せがわ
栃木/日光市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委/県教委
(歴史の道1p61)
西塚の
杉
はオリジナルか?、東塚は近年枯死→伐採/杉並木の中なので塚木の杉が目立たない
江戸から34里
2
A
上三依一里塚
(南山通り上三依一里
塚
)
かみみより
栃木/日光市
<会津道(会津西街道)>
一里塚(2基)
江戸初期
市史跡
市教委
南山通りは会津道(会津西街道)の別称
2
B
水無一里塚
みずなし
>栃木/日光市
<日光街道>
一里塚(2基)
江戸初期
市教委/県教委
(歴史の道1p58)
塚木の杉は両方とも補植/杉並木の中なので塚木の杉が目立たない
江戸から32里
2
B
室瀬一里塚
むろぜ
栃木/日光市
<日光壬生通>
一里塚(2基)
承応3(1654)以前
市教委
両塚に
杉
の巨木/杉並木の中なので塚木の杉が目立たない
江戸から31里/現存する一対の一里塚で塚木が2本ともオリジナルなのは、この室瀬一里塚と愛知県一宮市の2ヶ所のみ
1
小倉一里塚
こぐら
栃木/日光市
<日光壬生通>
一里塚(2基)
承応3(1654)以前
県教委(歴史の道1p157)
杉並木のすぐ奥/塚木なし
江戸から29里
3
B
割山下一里塚
わりやました
栃木/矢板市
<松川新道(会津中街道)>
一里塚(2基)
径9m
元禄8(1695)頃
市史跡
市教委/WEB
街道両側に対をなして原形を留める
天和3(1683)の日光大地震で鬼怒川支流・男鹿川が土砂で堰き止められ五十里湖が誕生→会津道(会津西街道)が通行不能になり会津藩三代藩主・松平正容により元禄8に整備された新道
2
B
夫婦石一里塚
めおといし
栃木/(那須)那須町
<奥州街道>
一里塚(2基)
江戸初期
町史跡
WEB(がりつう)
塚木は補植/やや変形
現役の一般道の両側に残る
2
B
板屋一里塚
いたや
栃木/(那須)那須町
<奥州街道>
一里塚(2基)
江戸初期
町史跡
WEB(がりつう)
切通しの両側に残るが、道路の拡幅で一部削られた
現役の切通しの両側に残る
3
B
石岡一里塚
いしおか
茨城/石岡市
<水戸街道>
一里塚(2基)
江戸期
県史跡
市教委
榎が平成14に倒壊→伐採/塚が道路に合わせて大きく改変/今では補植した桜が育ち名所に
幹線道路の両側に2基残る
2
B
中台一里塚
なかだい
茨城/小美玉市
<水戸街道>
一里塚(1基)
慶長年間
市教委
東塚が残る(低平下)/設置環境良くない/オリジナルの
榎
とされている
水戸街道の古いルート
3
A
板谷一里塚
いたや
茨城/土浦市
<水戸街道>
一里塚(2基)
江戸期
市史跡
現地解説板
塚木(榎)が残るが、大きさから見て補植の可能性大
幹線道路の両側に2基残る
1
B
御成街道の提灯塚
おなり、ちょうちん
千葉/千葉市(若葉区)
御成公園<御成街道>
土塚(2基→1基)
高2.5m
慶長18(1613)
現地解説板/WEB
道路拡張工事のため1基消滅
家康が佐倉城主・土井利勝に命じて御成街道を造らせた時、直線区間を見通すため、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行の突貫工事で一晩 or 三日三晩で完成したという伝承がある/工事終了後は一里塚として使われた
3
B
上砂一里塚
かみいさご
千葉/八街市
<御成街道>
一里塚(1基)
南塚
慶長18(1613)
市史跡
市教委
塚上に各種の樹木
船橋~東金(鷹場)までの街道を直線状に造成するため、目印として築かれたとされる→昼は白旗、夜は提灯を塚上に掲げ、延長37㎞の御成街道を短時間で完成させた/慶長18(1613)年12月の施工命令直後の築造と思われる
3
B
下忍一里塚
しもおし
埼玉/行田市
<川越忍街道>
一里塚(1基)
東塚
:高2.1m,径4.6m,
塚木
:榎(高9m,幹回2.4m)
江戸期
県史跡
市教委/WEB
オリジナルの
榎
が残る/西塚なし/土台部に石組
TACO工場敷地内(会社敷地内のため要見学許可)
3
A
新島一里塚
にいじま
埼玉/熊谷市
<中山道>
一里塚(1基)
宝暦6(1756)
市史跡
市教委/WEB
形状改変→石垣補強/平成22の雷雨で
欅
の半分が喪失
オリジナルの欅が残る
3
A
蒲生一里塚
がもう
埼玉/越谷市
<日光街道>
一里塚(1基)
東塚
:高2m,東西5.7m,東北7.8m
文化年間(1804-18)以前
県史跡
市教委/WEB
オリジナルの塚木(
榎
)が残る
県内の日光街道沿いに残る唯一の一里塚/文化年間に幕府が編さんした「五街道分間延絵図」に綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで2つの小山が描かれている
2
A
下野田一里塚
しものだ
埼玉/白岡市
<日光御成街道>
一里塚(2基)
塚木
:榎
慶長9(1604)以降
県史跡
市教委/WEB
西塚の
榎
はオリジナル/塚下縁部に石組み
両塚の残る一里塚としては県内唯一
1
A
平草一里塚
ひらくさ
埼玉/(秩父)皆野町
<秩父往還>
一里塚(2基)
江戸期
町史跡
町教委
樹木が繁茂
3
B
志村一里塚
しむら
東京/板橋区
<中山道>
一里塚(2基)
塚木:榎(2基とも補植)
慶長9(1604)
国史跡/
区登録史跡
WEB
土盛り下部を石垣で補強/都市部の割によく保存
日本橋から3里目の一里塚
2
B
西ヶ原一里塚
にしがはら
東京/北区
<日光御成道>
一里塚(2基)
江戸期
国史跡
区教委/WEB
塚木を昭和60(1985)に榎に植替え/塚を保存するために新道を迂回/都市部の割によく保存
大正初期の一里塚と榎撤去に対する反対運動が功を奏し、これを記念する碑が一里塚上に建つ
3
A
品濃一里塚
しなの
神奈川/
横浜市(戸塚区)
<東海道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)
県史跡
WEB
東塚裏側は公園化
東塚は平戸村内、西塚は品濃村内に位置/当時は西塚にはエノキが植えられていた/県下で唯一2基とも塚が残る
3
B
畑宿一里塚
はたじゅく
神奈川/
(足柄下)箱根町
<東海道>
一里塚(2基)
直径9m
江戸初期
国史跡
町教委
発掘調査に基づいて平成10に復元
箱根の東海道石畳の両側に配置
3
B
上曽根一里塚
かみそね
山梨/甲府市
<中道往還>
一里塚(1基)
塚木:榎
江戸期
WEB
オリジナルの
榎
が現存(小型→空襲で損傷を受けたとされる→補植えの可能性も)
中道往還に残る唯一の一里塚
2
B
稲積一里塚
いなづみ
長野/長野市
<初期北国街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.2m,径約9m
南塚
:高2.4m,径約9m
慶長9(1604)以降
市史跡
現地解説板
塚木は両塚とも松(ともに補植だが、一方はかなり古い)
一里塚が築かれた後に北国街道のルートが変更された珍しい例
1
B
三沢一里塚
みさわ
長野/岡谷市
<中山道>
一里塚(1基)
南北約9m
慶長9-17(1604-12)
市史跡
市教委/現地解説板
北塚のみ残る/中山道の塚木は榎、檜が植えられたと現地解説板にあるので、現在の桜は補植
補植だが、桜の古木が見事/現役の道路の脇にある
3
B
唐松一里塚
からまつ
長野/小諸市
<北国街道>
一里塚(2基)
慶長16(1611)頃
市史跡
市教委
歩道設置に伴い、塚の一部を切削る→石積/塚木なし
現役の道路の両脇にある
3
B
平出一里塚
ひらいで
長野/塩尻市
<中山道>
一里塚(2基)
慶長9-17(1604-12)
市史跡
WEB
塚木:松(補植、庭木風に剪定)
現役の道路の両脇にあるが、一方は、民家の背後にあり分かりにくい
3
B
楡沢一里塚
にれさわ
長野/(上伊那)辰野町
<初期中山道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)頃
町史跡
町教委/WEB
塚木なし
慶長9に開かれ、以後10数年ほどで廃道となった初期中山道の一里塚/原道の両脇に残る
2
B
四ツ屋一里塚
よつや
長野/(上水内)飯綱町
<北国街道>
一里塚(2基)
両塚
:高2m,径9.5m
慶長16(1611)頃
町史跡
信州の文化財
道路拡幅のため一方の塚が削られている
現役の道路の両脇にある
3
B
追分一里塚
おいわけ
長野/
(北佐久)軽井沢町
<北国街道・中山道>
一里塚(2基)
慶長9-17(1604-12)
町史跡
町教委
北塚復元/道路拡幅のため、塚の一部が削られている/塚木なし
国道の南側と北側に2基がある
3
B
御代田
(大久保)
一里塚
みよた
長野/
(北佐久)御代田町
<中山道>
一里塚(2基)
西塚
:高5m,径13m,
東塚
:高4.5m,径13m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
WEB
西塚に桜が補植
補植だが、枝垂桜の古木が見事/改修前の中山道の一里塚
1
B
御射山神戸一里塚
みさやまごうど
長野/(諏訪)富士見町
<甲州街道>
一里塚(2基)
東塚
:直径12m,高2m,
西塚
:高3.8m
慶長15(1610)頃
町史跡
町教委
西塚の一部切削/塚木は西塚の
欅
がオリジナル(樹齢約390年、樹高25m)、東塚の榎は明治期の補植
現役の道路の両脇にある/甲州街道で塚・ケヤキとも往時のものが保存されている例は他にない
1
A
唐沢一里塚
からさわ
長野/(小県)長和町
<中山道>
一里塚(2基)
慶長9-17(1604-12)
国史跡
町教委/現地解説板
塚木なし
整備された旧中山道の両脇に残る/中山道の一部路線変更により山中に取り残された
2
B
広原
(東餅屋)
一里塚
ひろはら
長野/(小県)長和町
<中山道>
一里塚(2基)
慶長9-17(1604-12)
国史跡
町教委/現地解説板
西塚は、わずかに確認される程度/塚木なし
整備された旧中山道の両脇に残る(近接して石畳も残る)
3
B
伏見一里塚
ふしみ
静岡/沼津市・
(駿東)清水町
(玉井寺・宝池寺)
<東海道>
一里塚(2基)
(
西塚
)沼津市
(
東塚
)清水町
慶長9(1604)以降
町史跡
(東塚)
市歴史民俗資料館
/WEB
西塚:何とか一里塚の形態を留めるが、捕植の榎以外にも多くの木が密生している/東塚:昭和60原寸通りに復元
市町境を挟んで2基残る
(写真は、清水町の東塚)
3-4
B
岩淵一里塚
いわぶち
静岡/富士市
<東海道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)以降
県史跡
WEB
西塚の塚木(
榎
)は樹齢400年、東塚の榎は2代目
2
A
錦田一里塚
にしきだ
静岡/三島市
<東海道>
一里塚(2基)
径10m
慶長9(1604)以降
国史跡
市教委
塚木は補植(南塚、北塚とも榎)
松並木と一体化/現役の国道1号の脇に一対で残る
2
B
笠寺一里塚
かさでら
愛知/名古屋市(南区)
<東海道>
一里塚(1基)
東塚
:高約3m,直径約10m,,塚木:榎
江戸初期
市教委
樹齢400年を超える
榎
の古木=枝ぶりも根張りも見事/市街地にありながら、旧東海道の雰囲気を残す
東海道筋に残る最も見事な塚木、かつ、これより西でこれ以上見事な塚ぎは存在しない/戦前指定の木も枯れた国指定の一里塚が多い現在、これほどの一里塚が市指定ですらないのは大きな矛盾
2
A
冨田一里塚
とみだ
愛知/一宮市
<美濃路>
一里塚(2基)
高約1.8m,約9.2m
四方,塚木:榎
慶長9(1604)以降
国史跡
WEB
両塚に
榎
の巨木
美濃路で唯一両塚が現存/現存する一対の一里塚で塚木が2本ともオリジナルなのは、この冨田一里塚と、栃木県日光市の室瀬一里塚の2ヶ所のみ
1
来迎寺一里塚
らいこうじ
愛知/知立市
<東海道>
一里塚(2基)
直径11m,高3m
江戸初期
県史跡
WEB
両塚の塚木の松は補植/右塚は民家の陰
東海道の一里塚で両側に残るのは数少ない
3
B
阿野一里塚
あの
愛知/豊明市
<東海道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)以降
国史跡
市教委
両塚とも残るが、一里塚らしい雰囲気はない
3
B
桜茶屋一里塚
さくらちゃや
三重/尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(1基)
正徳2(1712)以降
国史跡
WEB
塚に植えられた山桜は枯れ、
現在は2代目
巨石を積み上げたような構造→この「建造物?」が一里塚だという証拠は、必ずしもない/熊野古道散策上の重要な構成要素の1つ
2
B
曽根一里塚
そね
三重/尾鷲市
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(2基)
江戸期
WEB
樹林化
熊野古道の両側に残る
3
B
馬越一里塚
まごせ
三重/(北牟婁)紀北町
<熊野街道(熊野古道)>
一里塚(2基)
西塚
:径4.85m,高2.0m,
東塚
:径4.50m,高2.5m
江戸期
県史跡
町教委
塚木なし/東塚は基部が埋没、上部が崩壊
西塚は石積(中は円形の盛土)、東塚は積石と盛土(一見すると土壇状)/石畳で有名な馬越峠道の両側にある
3
B
紅坂一里塚
べにさか
岐阜/恵那市
<中山道>
一里塚(2基)
北塚
:径9,7m,高2.2m,
南塚
:径11.3m,高3.2m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委
小規模な修復/塚木なし/小低木が密生
3
B
槙ヶ根一里塚
まきがね
岐阜/恵那市
<中山道>
一里塚(2基)
北塚
:径9.9m,高約5m,
南塚
:径10.1m,高3.9m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委
塚木なし/小低木が密生
3
B
八瀬沢
(琵琶峠)
一里塚
やせざわ
岐阜/瑞浪市
<中山道>
一里塚(2基)
南塚
:径約11m,高約5m,
北塚
:径約10m,高約4m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委/中山道保存整備事業報告書
塚木なし(幕末には松が植栽)
琵琶峠の西側の石畳整備区間に残る→石畳と一里塚がセットで見られる例はほとんどない(貴重な存在)/塚間10m/南塚は自然地形を利用
1
B
権現山
(樫の木坂)
一里塚
ごんげんやま
岐阜/瑞浪市
<中山道>
一里塚(2基)
南塚
:径約9m,高約5m,
北塚
:径約9m,高3.5m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委/中山道保存整備事業報告書
塚木なし(幕末には松が植栽)
塚間11m/南塚は自然地形を利用
2
B
奥之田一里塚
おくのた
岐阜/瑞浪市
<中山道>
一里塚(2基)
南塚
:径約10m,高約4m,
北塚
:径約12m,高約3.5m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委/中山道保存整備事業報告書
塚木なし(幕末には松が植栽)
塚間10m/両塚とも自然地形を利用
2
B
鴨ノ巣一里塚
こうのす
岐阜/瑞浪市
<中山道>
一里塚(2基)
南塚
:径約10m,高3.5m,
北塚
:径約11m,高約3m
慶長9-17(1604-12)
県史跡
市教委/中山道保存整備事業報告書
塚木なし(幕末には松が植栽)
塚間16m/両塚とも自然地形を利用
2
B
吉光一里塚
よしみつ
石川/能美市
<北国街道>
一里塚(1基)
南塚
:高約1.5m,長径約6m、短径約4.5m,塚木:
慶長9(1604)以降
県史跡
現地解説板/WEB
南塚の塚木(
榎
)はオリジナルの可能性大/明治14の手取川の洪水で北塚が流失
県内に唯一残る一里塚/吉光、粟生の境に築造
2
A
千束一里塚
せんぞく
福井/あらわ市
<北国街道>
一里塚(1基)
9m四方
慶長9(1604)
県史跡
市教委/WEB
西塚の塚木(
榎
)はオリジナル/東塚は畑地に
県内の北国街道の一里塚で唯一現存/塚木の榎は秋に実をつけ、旅人が飢えを凌いだと伝えられる
2
A
社頭一里塚
しゃとう
福井/(今立)池田町
一里塚(1基)
江戸期
町天然
塚木の
欅
はオリジナル/榎が欅と一体化している
2
A
大宅一里塚
おおやけ
京都/京都市(山科区)
<奈良街道>
一里塚(1基)
径4-5m,高1.8m
江戸期
市史跡
市教委
西塚が現存/塚木の
榎
はオリジナル
市内唯一の一里塚
3
A
芥川一里塚
あくたがわ
大阪/高槻市
<西国街道>
一里塚(1基)
東塚:塚木:榎
慶長9(1604)
府史跡
市教委/近畿地方の歴史の道2p288/WEB
塚木の榎はオリジナルにしては小さいが、刈り込まれているためかもしれない
周囲は削られて小規模になり、道路側に祠が建立されている
2
B
伊志見一里塚
いじみ
島根/松江市
<山陰道>
一里塚(2基)
北塚
:高1.3m,直径5.1m,
南塚
:高0.7m,直径5m
江戸期
国史跡
市教委/歴史の道2
p22
塚木の松は風害・害虫で枯れ、北塚に切株のみ残る
両塚が残る一里塚は県内に3ヶ所
3
B
出西・伊波野一里塚
しゅっさい、
・いわの
島根/出雲市
<山陰道>
一里塚(2基)
慶長9(1604)
国史跡
歴史の道2p27/WEB
塚木の松は害虫で昭和46伐採、北塚切株のみ残る
近世山陰道には22基の一里塚があったが、そのうち国史跡になっているものは3基
2
B
美濃地一里塚
みのじ
島根/益田市
<仮称:津和野~飯浦街道>
一里塚(1基)
塚木:榎
江戸期
市教委
塚木:
榎
は恐らくオリジナル(少なくとも、江戸期の再植)
2
B
佐見一里塚
さみ
島根/(飯石)飯南町
<宍道尾道街道>
一里塚(1基)
塚木:クヌギ
江戸期
歴史の道8p31
農道敷設のため一部削り取られる/塚木は
クヌギ
天然のマサ土の小丘を利用した巨大な一里塚/台風で大きいな枝が折れだが、くぬぎの大木は立派
3
A
九郎原一里塚
(榎ケ休み)
くろうばら
島根/(鹿足)吉賀町
<津和野廿日市街道>
一里塚(1基)
塚木:榎
天保年間(1830-43)以前
歴史の道6p17
榎の老木が残る/塚なし
一里塚の横に茶屋があり、当時「榎ケ休み」と呼んでいたことから一里塚も「榎ケ休み」と呼称されている(?)
3
B
陶峠下一里塚
すえだおした
山口/山口市
<秋穂街道>
一里塚(1基)
(石積)
高約1m,約2m四方
江戸初期
市史跡
市教委/WEB
石組が当時のまま
自然石を約1mの高さに積み重ねたもので、平面は一辺約2m余りあるが、角などは正しくなく自然に丸くなっている/山口から秋穂に通じる古道にあり、よく残っている/昭和52一里塚にいたる道路を整備
1
B
早尾坂漆ヶ坪一里塚
はやおざかうるしがつぼ
山口/岩国市
(錦町)<山代街道>
一里塚(1基)
(石積)
江戸初期
市史跡
WEB/歴史の道4p186
旧道を合わせ保存状態良好
円筒状の形態をよく留めた典型的な長州藩の石張り一里塚
1
B
小野一里塚
おの
山口/下関市
<御米道>
一里塚(1基)
(石積)
高2.5m,径5-6m
江戸初期
市史跡
WEB
石組の塚が残存(典型的な形状)
下関から椋野・秋根を経て豊田町から長門市へと続く、年貢米などの輸送に利用されていた「御米道」の一里塚/小石積みで市内に残る唯一の一里塚
1
B
やげん谷一里塚
やげんだに
山口/周南市
中須仏峠<中往還>
一里塚(1基)
(石積)
高0.70-0.85m,径3.0-3.3m,塚木:松
江戸初期
市史跡
市教委/WEB
小規模な修復
円錐台形に盛土された塚の周囲を花崗岩の石積(4~5段)で覆ったもので、小郡と高森を結ぶ中往還に設けられた20ヶ所の一里塚のうちの1つ/『防長地下上申(1750)』に「壱里塚壱ヶ所やげん谷ニ有」の記載
1
B
忰ヶ坂一里塚
かせがさか
山口/萩市
<萩往還・赤間関街道(中道筋)>
一里塚(1基)
(石積)
高1.20m,4.05m×3.60m
江戸初期
国史跡
歴史の道1p60/歴史の道3p114
往還脇に残存
周囲を玄武岩製の石垣で囲み土を盛った小さな丘/塚上に昭和14に立てられた「一里塚」と記された石碑が立つ
2
B
上長瀬一里塚
かみながせ
山口/萩市
<萩往還>
一里塚(1基)
(石積)
高約2m,径約5m
江戸初期
国史跡
歴史の道1p74/WEB
往還脇に残存
不整形な大小の岩石を集めて墳丘状とする一里塚
2
B
野根山街道の三里塚
のねやま
高知/(安芸)北川村
<野根山街道>
一里塚(2基)
江戸期
WEB
5基中、最も保存状態が良い
室戸岬の根元の標高1083mの装束峠を通る山稜ルートの街道沿いに残る5基の一里塚(一・二里は奈半利町)/基部を石積で補強
2
B
目安町一里塚
めやす
福岡/久留米市
<柳川街道>
一里塚(1基)
元禄以前
市史跡・市天然記念物
市教委
西塚の
榎
の巨木(高13m)が残る→オリジナル
「柳河藩の一里石の建立年代を推定するにあたり、田中家が筑後城主だった時代に統治下にあった現・久留米市には一里石がなく一里塚のあることが大きな要因となった」 という意味で重要な遺構
3
A
ひのはしら一里塚
佐賀/神埼市
<長崎街道>
一里塚(1基)
慶長9(1604)以降
市史跡
現地解説板
塚上に「いぼ地蔵」→階段・鉄柵/道路側に崩壊防止のために石垣
長崎街道に唯一現存している塚/「いぼ地蔵」の存在は、『肥前古蹟集』(1665)に記されており、ごく初期段階から一里塚と地蔵が一体化した珍しい存在であったことが分かる
3
B
龍田の里数木(二里)
たつだ
熊本/熊本市(北区)
<豊後(大津)街道>
一里木
榎(南側1本)
江戸期
WEB/歴史の道・豊後街道p.93
根元が空洞化→保存に成功
豊後(大津)街道に残る唯一の一里木
2
B
元広の里数木
(五里木)
もとひろ
熊本/山鹿市
<豊前街道>
一里塚(2基)
江戸初期?
市史跡
市教委
榎は枯れ死
五里木が、木だけでなく、一里塚のように街道を挟んで並ぶ一対の円形塚に植えられていた(非常に珍しい)
2
B
今町一里塚
いままち
宮崎/都城市
<今町街道>
一里塚(2基)
高2.7m,径7.2m
宝永6(1709)
国史跡
市教委/WEB
西塚の塚木は大きいが昭和8頃の写真では塚木がないので補植
薩摩藩が札の辻を起点として今町街道に造った一里塚/宝暦7(1756)の巡検使通行の際に町木(標柱)の立替・書換えを行ったとの記録がある/塚の東側に桜、
西側に榎が植えてあったと伝えられる
3
B
厚地
一里塚
あつち
鹿児島/南九州市
一里塚(1基)
径10m,高3m
江戸期
市史跡
現地解説板
塚木は
桜
(
オリジナル
)
街道名は不明/塚木としてオリジナルの桜が残っている全国唯一の事例→非常に貴重
2
A
辺野古一里塚
へのこ
沖縄/名護市
一里塚(2基)
(石積+土盛)
1610-46年
市史跡
WEB
2基のうち1基は道路工事のため移設・復元/塚木はない
慶長15(1610)に家康から琉球の支配権を承認されたのを受けて、薩摩藩が設置を命じたと思われるが詳細は不明/「正保国絵図」(1646)に記載されている/円筒状の石積みの上に土盛り(石積が恐らく当初からのもの?)/近接して2基残っている
2
B
真栄田一里塚
まえだ
沖縄/(国頭)恩納村
<国頭方西海道>
一里塚(2基)
琉球王国時代→復元
国史跡
WEB
一部残っていたものを、嵩上げして復元/現在、松はない
史跡・国頭方西海道の一環/炭と土を積み固め、その上に琉球松を植えていた/現存する、数少ない沖縄の一里塚の一つ
3
B