境界石
都道府県別データ一覧にあるB
ランク以上の境界石
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
藩境塚
(四ツ塚)
青森/(上北)野辺地町・(東津軽)平内町
<奥州街道>/二本又川
土塚(4基)
直径10m,高3.5m
正保2(1645)以前
県史跡
町教委/野辺地町立歴史民俗資料館
公園整備されている/4つの塚の中央に木が植えられているのは誤解を招く
南部藩~津軽藩の境界/海岸沿いを通る奥州街道が藩境となる二本又川と交差する地点に、川を挟んで2基ずつ計4基が築かれた/「陸奥國津軽郡之絵圖」(正保2)に記載されているので、それ以前の構築/2年後の「陸奥國南部領國絵圖」(正保4)に記されていないのは、平内が津軽領になったことに対するわだかまりのためと解釈されている
1
A
南部領伊達領境塚
なんぶりょうだてりょうさかい
岩手/北上市・
(胆沢)金ヶ崎町
<盛岡藩~仙台藩>
土塚
総延長130㎞
寛永9(1642)
国史跡
(11kmが指定)
市教委
史跡指定範囲には、挟塚2基、大塚11基、小塚198基が現存/大塚、小塚は大きく削平されているが、挟塚は良好に保存
南部領と伊達領の境界の目印として構築/藩境の最重要箇所に挟塚、要所に大塚、その間埋めるように小塚を築いた
3
南部・秋田藩境塚
(よしの塚)
なんぶ・あきたはんきょうづか
秋田/(鹿角)小坂町
南部藩~秋田藩
土塚(3基)
延宝5(1677)
町教委/歴史の道
当初の6つの塚のうち、北側の「向塚」、南側の「よしの塚」「袈裟懸塚(袈裟掛の塚)」が残る/「よしの塚」以外は見学不可
延宝2(1675)、小坂境である袈裟掛坂の境界の位置についての訴状が出され、翌年、花輪境についての訴状が出された→藩同士の武力衝突の危険を避けるため幕府が裁決に乗り出した→延宝5、検分が行われ境目論地に墨引きした絵図が南部・秋田両藩に下付→双方の協議で6つの土塚が築かれた
2
B
旗宿の黒羽・白河領境石
はたじゅく
福島/白河市
県道76号、境の明神
<関街道>
境界石(尖頭角柱)
高184㎝,幅24㎝,厚24㎝
寛政期(1789-1800)頃
市教委/WEB(がりつう)
移設/中央で水平に折損→修復
(正面)「從是北 白川領」/国道294号<奥州街道>の境の明神にある同じ文面の境界石は明治初期のもの
2
B
白河藩・幕府領境界石
しらかわ
福島/(西白河)矢吹町
<水戸街道>
境界石
高約2m
江戸期
町教委/歴史の道・水戸街道p17,
23
私有地に移設
「従是北白川領」/市原多代女の句「亀も首のばすや汀や初日の出、米齢多代」
4
B
土沢の牓示石
つちざわ
新潟/(岩船)関川村
傍示石
高125㎝,幅91㎝,厚40㎝
正応5(1292)頃
村史跡
WEB
移設
奥山荘の和田氏と荒川保の河村氏は、度々水利権と砂鉄産地で境界を争っており、正応5に幕府の裁定が下り、境界にこの傍示石が置かれた
2
B
本郷の境石
ほんごう
群馬/高崎市
(寺内)
境石(測量の基点)(自然石)
天保10(1839)
市有形民俗
榛名歴史民俗資料館
原位置
(正面)「古画圖面曰/町屋村境従/二十七番此/大石江子三/度四十五間」/大水の度に川の流れが変わり村境が不明確になることが多かった→烏川沿いの小高い丘岸にある大きな自然石に方位、距離、測点番号を刻み、本郷と対岸の町屋村との境界を測量する時の基点としたもの→「二十七番」とあるため、27個以上の測点が設けられていた
1
B
石那田町の領境石
いしなだ
栃木/宇都宮市
境界石(尖頭角柱)
寛政以前(~1799)
県教委(歴史の道1p497)
移設→個人敷地内(戊辰戦争の折に新政府軍に見られるのを恐れて移動したという伝承がある)
(正面・右面・左面)「従是西 日光山御領」/紀年銘はないが、寛政12-文化3に幕府によって作成された「五海道其外分間延絵図並見取絵図」に「御領傍示杭」と記載
3
B
洞庭湖記念碑
どうてい
千葉/(長生)一宮町
洞庭湖畔
石碑(自然石)
天保15(1844)
町史跡
金田増補p139-140一宮3/WEB(加来_一宮02)
保存状態良好
(正面中央)「洞庭」、(正面右下部)「去 大田喜 四里/去 勝浦 七里/去 長者街 二里/去 東金街 五里/去 藻原 二里/去 廳南 三里」/一宮藩の存在位置を主張するものと考えられている
1
B
石原の忍領石標
いしはら、
おし
埼玉/熊谷市
境界石
安永9(1780)
県旧跡
現地解説板
昭和14発見→原位置に再建/四周を石柵で囲む
(正面)「従是南忍領」/忍藩と他藩との領地の境界を明らかにするために16ヶ所建てられたものの1つ(現存は5基か?)
2
B
桜木町の忍領石標
さくらぎ、おし
埼玉/熊谷市
熊谷市立図書館(郷土資料展示室)
境界石
高74㎝,幅30㎝,厚23㎝
安永9(1780)
WEB(埼玉県の橋供養碑)
移設・展示/上部欠損
(正面)「
□□
東南忍領」/忍藩と他藩との領地の境界を明らかにするために16ヶ所建てられたものの1つ(現存は5基か?)
4
B
屈巣の忍領石標
くす、おし
埼玉/鴻巣市
久伊豆神社
境界石(小松石)
高133㎝,幅30㎝
安永9(1780)
市歴史資料
WEB(関東地方の川)
移設(もと、屈巣村と安養寺の境)
(正面)「従是北忍領」/忍藩と他藩との領地の境界を明らかにするために16ヶ所建てられたものの1つ(現存は5基か?)
2
B
大成町の忍領石標
たいせい、
おし
埼玉/越谷市
(2丁目)
境界石(尖頭角柱)
高160㎝,幅30㎝, 厚23㎝
元禄年間(1700頃)?
WEB(旧西方・東方・見田方村〔東方7〕)
/WEB(鎌倉街道上道)
原位置?
(正面)「従是東忍領」/忍藩の飛び地に建てられたもの→東方村は元禄年間に柿ノ木領から忍領に組み入れられた
1
B
上新郷の忍領石標
かみしんごう、おし
埼玉/羽生市
上新郷宿本陣跡
境界石
高168㎝,幅30㎝,厚24㎝
安永9(1780)
市教委/WEB(埼玉県の橋供養碑)
移設→個人(旧本陣)宅
(正面)「従是西忍領」/忍藩と他藩との領地の境界を明らかにするために16ヶ所建てられたものの1つ(現存は5基か?)
3
B
本町の境塚(大塚)
ほん、さかい
東京/東村山市
平和塔公園
土塚
21m×19m,高4.5m
17世紀中頃以降
市史跡
市教委/WEB
土塚に植栽、一部覆石が見られるが、全体の形態は保持/頂部に「平和の女神像」が立つ
野火止用水(下記)が通ってから武蔵野の新田開発が活発化し、開発をめぐり幕藩領主層と自立小農民との争いが起こり村々に境塚が築かれた
3
B
小沢の高遠領分杭
おざわ
長野/伊那市
国道361号<権兵衛街道>
境界石
(角柱・花崗岩)
高2.2m,30㎝角
江戸期
市史跡
市教委/WEB
昭和59に市制30周年記念事業の一環として建立
(正面)「従是東 高
遠
領」(
緑字
は異体字)/元禄3(1690)に木製の分杭が建立され、文政10に石製に造りかえられたが、銘文に領主名ではなく高遠領と領名を記したため幕府の許可が得られず、その場に埋設されていた/宮田3ヶ村と中越村で1つずつ与えられたものがそれぞれ現存している
2
B
山寺の高遠領分杭
やまでら
長野/伊那市
伊那北地域活性化センター
境界石
(角柱・花崗岩)
江戸期
市教委/WEB
平成16 現在地に修復建立/頂部欠損/正面中央で縦報告に分割→修復
(正面)「従是南 高
遠
領」(
緑字
は異体字)/同上、割られた状態で寺院の土台に転用されていた/宮田3ヶ村と中越村で1つずつ与えられたものがそれぞれ現存している
4
C
吉瀬の高遠領分杭
きせ
長野/駒ヶ根市
吉瀬橋
境界石(花崗岩)
高2.7m,幅40㎝
文政10(1827)
伊那市教育委員会/WEB
大正7に北吉瀬諏訪神社跡に保管、昭和52に吉瀬橋の架橋を記念して橋のたもとに建立
(正面)「従是北 高遠領」/元禄3(1690)に木製の分杭が建立され、文政10に石製に造りかえられたが、銘文に領主名ではなく高遠領と領名を記したため幕府の許可が得られず、その場に横倒しにされていた/宮田3ヶ村と中越村で1つずつ与えられたものがそれぞれ現存している
2
B
小諸城址の旧小諸領境石1
こもろ
長野/小諸市
懐古神社<北国街道(小諸領・御代田町馬瀬口と公領・同・軽井沢町追分との境)>
領境石(花崗岩)
高226㎝,幅38.5㎝,厚37.5㎝
文化3(1806)
WEB
移設(明治維新後に馬瀬口村の名主に下賜されたが、大正14年に献納された)
(裏面)「従是西 小諸領」/正面に「懐古神社」と後刻、左面に移設の由来を刻字
3
B
小諸城址の旧小諸領境石2
こもろ
長野/小諸市
懐古神社<北国街道(小諸領と公領との境の笠取峠)>
領境石(花崗岩)
高237㎝,幅38㎝,厚34㎝
文化3(1806)
WEB
移設(恐らく大正14年/旧小諸領境石1と参道を挟んで左右対称に設置されているため)
(裏面)「従是東 小諸領」/正面に「小諸城址」と後刻
3
B
宮田村の高遠領分杭1
みやだ
長野/(上伊那)宮田村
国道153号 太田切橋北交差点・北東角 <伊那街道>
境界石(尖頭角柱、
花崗岩)
高220㎝,36.5㎝角
文政10(1827)
村有形
信州の文化財/WEB
明治になって掘り出し、村内2ヶ所に建立
(正面)「従是北 高
遠
領」(
緑字
は異体字)/元禄3(1690)に木製の分杭が建立され、文政10に石製に造りかえられたが、銘文に領主名ではなく高遠領と領名を記したため幕府の許可が得られず、その場に埋設されていた
2
B
宮田村の高遠領分杭2
みやだ
長野/(上伊那)宮田村
津島神社 <伊那街道>
境界石(尖頭角柱、
花崗岩)
高190㎝,幅36.5㎝,厚36㎝
文政10(1827)
村有形
信州の文化財/WEB
明治になって掘り出し、村内2ヶ所に建立/下部埋設
同上
2
B
新野・向方の板碑境界石
(梨畑の一石三十三観音)
にいの・むかがた
長野/
(下伊那)天龍村・阿南町
(新野矢野境塚)<白方道>
境界石
(舟型自然石)
高353㎝(うち、台石75㎝),幅90㎝,厚45㎝
文政8(1825)
村有形
(石仏)
村教委/
下伊那の道標p92
保存状態良好
(台石右上)「東 向方村」、(同左上)「西 新野村」/台石上の板碑には、正面頂部に三阿弥陀、その下全面に三十三仏を陽刻/これだけ立派で大きい兼用境界石は稀少/村境の真上に建立されたので、刻字そのものは非常に小さいが、碑そのもので境界を示していた
1
A
沼津藩領境・東榜示石
ぬまづ
静岡/沼津市
<東海道>
境界石(尖頭角柱)
高238㎝(うち、台石13㎝),27.5㎝角
安永7(1778)以降
市歴史民俗資料館
近接移設(10m)
(正面・右面・左面)「従是西 沼津領」/安永7に木製の標柱→石柱に更新された時期は不明
1
B
沼津藩領境・西榜示石
ぬまづ
静岡/沼津市
八幡神社<東海道>
境界石(尖頭角柱)
高110㎝,27.5㎝角
安永7(1778)以降
市歴史民俗資料館
移設/下半分が欠損
(正面・右面・左面)「従是東 …」/安永7に木製の標柱→石柱に更新された時期は不明
4
B
羽津の桑名藩境界石
はづ
三重/四日市市
<東海道>
境界石
高193㎝,幅32㎝,厚30.5㎝
文政年間(1818-29)
WEB(北伊勢の道標)
大正9、民家の庭から発見、以後2度移設
「従是北 桑名領」/揮毫: 小林穆斉
2
B
太田本町の尾州領分杭
おおたほん
岐阜/美濃加茂市
(中町)<中山道>
境界石
高200㎝,幅35㎝
江戸期
市教委(美濃加茂の石仏p17)
移設(坂祝町→個人宅)
「是より北 尾州領」/幕府領と尾張藩の境界⇔長野県の「従是○高遠領」と刻字した6本の分杭は、領名を記したため幕府の許可が得られず、その場に埋設された
3
B
大樋の松門
おおひ
石川/金沢市
<北国街道>
境界松(北の入口)
江戸期
WEB
補植/木戸はない
城下と村の境に小さな松を受けて目印とした(木戸も設けられた)→街道を通行する大名や武士は、この松を境に旅装を正して城下に入ったとされる/補植にしろ残存例はきわめて稀
3
B
東竪町
の「是より洛中」碑
ひがしたて
京都/京都市(上京区)
仁和小学校
石標(3基)
享保2(1717)
WEB(管鮑之交)
移設
(正面)「是より洛中荷馬口附のもの乗へからす」/元禄8(1695)に京都市街地を取り囲む30ヶ所に木杭を定置したが,朽ちたので享保2石柱に替えたもの/市内に10本余り残る
2
B
本町通の建仁寺新地杭
ほん
京都/京都市(東山区)
金屋町
境界石(尖頭角柱)
高57㎝
正徳2(1712)頃
伊東宗裕
(京都石碑)
近接移設?/下部埋設
(正面)「建仁寺領新家地」、(右面)「従是西杭迄 七十六間一尺七寸五分 建仁…」/建仁寺領の「宅地開発」に伴う遺構/西御門町、西河原町、山田町、田中町、森下町、金屋町が新たに開発され、金屋町の東端に境界を示す意味で建てられた牓示石→刻字内容(西杭まで140m)は新家地の西端にあった別の石標までの距離を示す/農地の宅地化は収入増につながった/17C後半~18C初頭にかけての京都の宅地開発ブームを示す貴重な証拠
2
B
竹林寺の結界石1
ちくりん
奈良/生駒市
(有里町)竹林寺
結界石(駒型)
高115㎝,幅29.5
㎝,厚19㎝
嘉元2(1304)頃
市教委(生駒市石造遺物調査p59・122)
移設、集約
〔写真の右端〕
(正面)「(2本線)大界外相」、(裏面)「生駒之霊峯十方如来所化道場也/悉往還之男女可致一札竟域之懐/
□□
之徳篤示一等
□□□
建支提
□
」
2
A
竹林寺の結界石2
ちくりん
奈良/生駒市
(有里町)竹林寺
結界石(尖頭角柱)
高126㎝,幅24㎝,厚22.5㎝
嘉元2(1304)頃
市教委(生駒市石造遺物調査p59・122)
移設、集約
〔写真の中央左〕
(正面)「(2本線)大界西南角標」/4本の結界石が1ヶ所にまとめて置かれている(もとは5本あった)
2
B
竹林寺の結界石3
ちくりん
奈良/生駒市
(有里町)竹林寺
結界石(尖頭角柱)
高114.5㎝,幅29㎝,厚19㎝
嘉元2(1304)頃
市教委(生駒市石造遺物調査p59・122)
移設、集約
〔写真の中央右〕
(正面)「(2本線)大界東南角標」/4本の結界石が1ヶ所にまとめて置かれている(もとは5本あった)
2
B
竹林寺の結界石4
ちくりん
奈良/生駒市
(有里町)竹林寺
結界石(尖頭角柱)
高107.5㎝,23㎝角
嘉元2(1304)頃
市教委(生駒市石造遺物調査p59・122)
移設、集約
〔写真の左端〕
(正面)「(2本線)大界東北角標」/4本の結界石が1ヶ所にまとめて置かれている(もとは5本あった)
2
B
福浦の国境石
ふくうら
兵庫/赤穂市
境界石
高190㎝,30㎝角
江戸期
WEB(的形道標クラブ)
移設?(基部露出)
(正面)「従是取揚島見通シ、東 播磨國/西 備前國」、(右面)「従是東 播磨國」、(左面)「従是西 備前國」/昭和38に岡山県和気郡日生町福浦地区の住民の要求で兵庫県に編入された
2
B
荒牧の尼崎藩境石1
あらまき
兵庫/伊丹市
(3丁目)天日神社
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱)
高187㎝,幅21㎝,厚20㎝
寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
WEB/尼崎の道標を訪ね歩く
移設(荒牧2丁目の荒牧村字畦道に建っていたとされる)
(写真右)
(正面)「従是東 尼﨑領」、(右面)「従是東 尼﨑領」、(左面)「従是東 尼﨑領」/下記「荒牧の尼崎藩領境石2」と並ぶ
2
B
荒牧の尼崎藩境石2
あらまき
兵庫/伊丹市
(3丁目)天日神社
<尼崎藩>
境界石(尖頭角柱)
高200㎝,幅19㎝,厚21㎝
寛文年間(1661-73)
~明和年間(1764-72)?
WEB/尼崎の道標を訪ね歩く
移設(荒牧4丁目の荒牧村字堂ヶ本に建っていたとされる)/鉄柱で四隅を固定・補強
(写真左)
(正面)「従是西南 尼﨑領」、(右面)「従是西南 尼﨑領」、(左面)「従是西南 尼﨑領」/上記「荒牧の尼崎藩領境石1」と並ぶ
3
B
中山寺放生地碑
なかやま
兵庫/宝塚市
<奥の院参道>
境界石(尖頭角柱)
高115㎝,16㎝角
元禄11(1698)
WEB(神戸の道しるべ)
原位置
(正面)「従是、南・東、放生地」/生類を放す境界を示す碑
1
B
郷境目檣
ごうさかいめのしょう
兵庫/西脇市
<野村郷・中之郷>
境界石(自然石)
高160㎝,幅80㎝,厚40㎝
延宝3(1675)
市教委/WEB(神戸の道しるべ)
現在も野村町と和田町の境界に建つ
(正面)「郷境目檣」/寛文9(1669)に野村郷(野村、板波村、高松山、平野新田)と中之郷(和田村、高田井村、下戸田村、上野村、谷村)で境界争いが起り、裁判の結果現地に境界が設定された
1
B
養父市場の出石領境石
やぶいちば
兵庫/養父市
境界石
高180㎝,幅24㎝,厚24㎝
江戸期?
歴史の道5p244
亡失の可能性
(正面・左面)「従是北 出石領」
B
児島湾干拓地の備前・備中国境石群③妹尾
こじま・せのお
岡山/岡山市(南区)
<妹尾村(備中) ~興除新田(備前)>
境界石(花崗岩)
高約1.0m,10基(全体)→6基
文政4(1821)
早島町
保存されている/残存する5本の備前・備中国境石群の中で、唯一「従」の字を使用→近代の再設置の可能性大
(正面)「従是西南備前國」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ
3
B
児島湾干拓地の備前・備中国境石群⑤早沖
こじま・はやおき
岡山/倉敷市
<早島沖新田(備中) ~興除新田(備前)>
境界石(花崗岩)
高約1.1m,10基(全体)→6基
文政4(1821)
早島町
原形をよく留めている(解説版あり)
(正面)「從是東備前國」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ
1
B
児島湾干拓地の備前・備中国境石群⑥高沼
こじま・たかぬま
岡山/倉敷市
<高沼新田(備中) ~有城村?(備前)>
境界石(花崗岩)
高約0.7m(一部埋没),10基(全体)→6基
文政4(1821)
早島町
「…備前」より下は埋没
(正面)「從是東南備前
□
」/岡山藩が、備中の沖合に備前の干拓地を計画したため、約100年にわたる争論となり、文化14年の裁定で、「備中方の新田堤を国境とし、それより海側を備前とする」ことが決定。当時立てられた10基の標石の1つ(最西端)
3
B
二本松峠の国境石1
にほんまつ
岡山/新見市
二本松峠<備中新見路>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高180㎝,幅23.5㎝,厚20㎝
江戸期
WEB(国境石散歩)
原位置/再現された二本松峠の御境杭木の備中側に立つ
(正面)「
從
是東 備中國」(
緑字
は異体字)/備後側はレプリカ
1
B
三石の備前国境石
みついし
岡山/備前市
<山陽道>
境界石(花崗岩)
高約1.8m,幅0.27m
元禄16(1703)
市史跡
市教委/歴史の道1p6
「旧山陽道沿い」という雰囲気に欠ける
(正面)「從是西備前國」/『撮要録』に建立年の記載あり
3
B
多田町の領境石1
ただ
島根/益田市
扇原関門・跡
境界石(尖頭角柱)
高184㎝,幅22㎝,厚20.5㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
民家→原位置?
(正面・右面・左面)「従是北 濱田領」/浜田藩~津和野藩/「多田町の領境石2」と一対
1
B
星坂の津和野領界標柱
ほしさか
島根/(鹿足)吉賀町
田野原元郷主神社
<津和野廿日市街道>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高約200㎝,
21㎝角
享保14(1729)
歴史の道6p19
/WEB
昭和42に江堂峠から移設/「津」の字の部分で折損→修復
(正面)「従是西 津和野領」/周防国(萩領)と石見国(津和野領)との境
2
B
防地峠の藩境石1
ぼうじ
広島/尾道市
<西国街道>
境界石
高2.0m
江戸期
石の文化p7/WEB
原位置?
(正面)「従是西 藝州領」/下記「防地峠の藩境石2」と、道を挟んで向かい合う
1
B
防地峠の藩境石2
ぼうじ
広島/尾道市
<西国街道>
境界石
高2.0m
江戸期
石の文化p7/WEB
原位置?/複数個所折損→修復
(正面)「從是東 福山領」、(右面)「從是東 福山領」/上記「防地峠の藩境石1」と、道を挟んで向かい合う
2
B
行縢町の藩境石1
むかばき
広島/府中市
<石州街道>
境界石
江戸期
WEB
原位置?/2ヶ所折損
(正面)「從是南 福山領」、(右面)「從是南 福山領」/下記「行縢町の藩境石2」と、道を挟んで向かい合う
2
B
旧・
海裏庄の境石
(姥石)
うづとのしょう
広島/(世羅)世羅町
(宇津戸)
境界石(自然石)
延慶2(1309)頃
WEB
水田内のため接近不能
延慶2(1309)に、中世にこの地にあった「海裹荘」で下地中分が行われた際の境界に設置されている石
3
B
亀谷峠の国境石
かめだに
広島/(山県)北広島町
(宮迫)<出羽新荘往還>
境界石(花崗岩)
高180㎝,
幅26.5㎝角
江戸期
歴史の道9p45
移設
(正面)「従是南 安藝国」、(裏面)「山縣郡新荘村」/島根県邑南町と接する
2
B
鯖山峠の郡境石
さばやま
山口/山口市・防府市
(鯖山峠)<萩往還>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高222.5㎝
享和2(1802)
市教委/歴史の道1p98/WEB
移設/下部セメント補修
(正面)「從是南 佐波郡」、(右面)「從是北 吉敷郡」/佐波郡~吉敷郡
2
B
坂堂峠の国境碑
さかどう
山口/山口市・萩市
(宮野上)<萩往還>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高207㎝,31㎝角
文化5(1808)
歴史の道1p81/WEB
保存状態良好
(正面)「南 周防國 吉敷郡」、(右面)「北 長門國 阿武郡」、(左面)「北 長門國 阿武郡」/周防国~長門国/右面の刻字は消されたように削れ、右面と左面で同一の文面が刻まれているが詳細は不明
1
B
割小松の国境碑
わりこまつ
山口/山口市・宇部市
<山陽道>
境界石(尖頭角柱、花崗岩)
高183㎝,22㎝角
江戸期
歴史の道2p130/WEB
近接移設
(正面)「西 長門國 厚狭郡」、(右面)「東 周防國 吉敷郡」/周防国~長門国
2
B
屋島中町の
旧丸亀藩番所附境界標柱
やしまなか
(まるがめ)
香川/高松市
四国村
<伊予・土佐街道>
境界石
高153㎝,21.5㎝角
18世紀
県有形
(建造物)
市教委/WEB/四国村
箕浦から移設
(正面)「讃州/豫州、境従是東 丸亀領」、(裏面)「従 丸亀是迄 八里拾七町」/境界石と道標を兼ねているものは珍しい
2
B
鴨島町の三郡境石
かもじま
徳島/吉野川市
(牛島)
境界石(尖頭角柱)(洪水遺産)
高190㎝(うち、埋込部分80㎝)
延享2(1745)
市有形
現地解説板
修景された基壇上に載る
(正面)「麻植/板野/名西、三郡之三ツ境」/吉野川の洪水常襲地帯で、その度に田畑や道が流され、村境が分からなくなっていた(紛争)→藩が仲介し、郡境の目印として建立/万一この石が流された場合は、高台の円通寺に設置された立石から復元できる(立石から真北に323間4尺)という二重の安全策
2
B
小川の南和気・北風早郡境石
おがわ
愛媛/松山市
<今治街道・粟井坂>
境界石(安山岩)
高180㎝,18.5㎝角
寛保元(1741)
歴史の道1p19/WEB
風化が進行
(正面)「郡境」、(右面)「
□□
南 和気郡」、(左面)「
□
□
北 風早郡」
2
B
浅海本谷の南風早・北野間郡境石
あさなみ、
ほんだに
愛媛/松山市
<今治街道>
境界石(安山岩)
高176㎝,19㎝角
寛保元(1741)
市史跡
歴史の道1p24/WEB
移設
(正面)「郡境」、(右面)「従是南 風早郡」、(左面)「従是北 野間郡」
2
B
和泉北の南久米・北温泉郡境石
いずみきた
愛媛/松山市
和泉公民館・前
<大洲街道>
境界石(尖頭角柱)
江戸期?
歴史の道5p23
移設(もと、雄郡神社の南約100m)
(正面)「郡境」、(右面)「従是南 久米郡」、(左面)「従是北 温泉郡」
2
B
山路の松山藩境石
やまじ
愛媛/今治市
厳島神社・階段下
<今治街道>
境界石
寛保年間(1741-44)?
歴史の道1p31/WEB
移設(もと、山路交差点)/最下部で水平に折損→修復の上、鉄枠で4隅を補強
(正面)「従是西 松山領」
2
B
下吾川の大洲藩境石
しもあがわ
愛媛/伊予市
豊圓寺・前<大洲街道>
境界石(尖頭角柱)
高180㎝
寛永12(1635)?
歴史の道5p5
再移設(原位置付近)
(正面)「従是南 大洲領」/現地解説版には「松山藩の郡中地方と大洲藩の風早地方の替地が行われた時の建立」と書かれてあるが、恐らく最初は木碑で、後年に石碑に変更されたものと思われる
2
B
上分町の西条藩境石
(槍下げの松の支え石)
かみぶん
愛媛/四国中央市
<土佐街道>
境界石
江戸期
歴史の道4p10/WEB
原位置?
(正面)「従是南 西條領」/松の枝を支える石が領界石だった(現在は松は枯死)
1
B
寒川町の西条藩境石
さんがわ
愛媛/四国中央市
<讃岐街道>
境界石
江戸期
歴史の道3p49
移設
(正面)「従是西 西條領」
2
B
土居町土居の西条藩境石
どい、どい
愛媛/四国中央市
延命寺
境界石(花崗岩)
高185㎝,幅23㎝,厚22㎝
江戸期
岡邊 眞
移設
(正面)「従是西 西條領」
2
B
信里の宇和島藩藩境石
のぶさと
愛媛/西予市
<宇和島街道>
境界石
高220㎝
江戸期
歴史の道6p24/WEB
移設
(正面)「従是南 宇和嶋領」
2
B
脇本の傍示碆
わきもと、
ぼうじばえ
愛媛/(南宇和)愛南町
脇本海岸
境界石(自然石)
万治2(1659)以前
町史跡
WEB
原位置
現在でもこの傍示碆が愛媛・高知両県の境
1
B
小山の宇和島藩境石
(先代)
こやま
愛媛/(南宇和)愛南町
(本村)小山番所
<宿毛街道・松尾峠>
境界石
高240㎝
貞享4(1687)
町史跡
歴史の道7p24/WEB
中央で折って転用→発見→修復・移設/左面は追刻/
写真中央
(正面)「従是西 伊豫國宇和嶋領」、(左面)「(右手差し)(左手差し)(大師坐像線刻) 明治十三年 (右手差し)みぎ へんろみち」、(裏面)「従是 西 伊豫國宇和嶋領」/初代の松尾峠境界石/下記の二代目に更新後、明治期に道標として再利用→その後中央で折り、二代目の境界石と共に橋部材に利用/17世紀の藩境石/二代目境界石と並ぶ
3
A
小山の宇和島藩境石
こやま
愛媛/(南宇和)愛南町
(本村)小山番所
<宿毛街道・松尾峠>
境界石
高270㎝
天保5(1834)
歴史の道7p24/WEB
中央で折って転用→発見→修復・移設/
写真左端
(正面)「従是西 伊豫國宇和嶋領」/松尾峠2代目の境界石/その後中央で折り、初代の境界石と共に橋部材に利用/初代境界石と並ぶ
3
B
三瀬峠の国境石1
みつせ
福岡/福岡市(早良区)
<三瀬峠(県境より僅かに福岡寄り)>
境界石
高240㎝,45㎝角
文化15(1818)
WEB(筑前国境石散歩)
道路拡幅のため近接移設
(正面)「從是北 筑前國」/筑前国~肥前国/下記「三瀬峠の国境石2」と密着
1
B
三瀬峠の国境石2
みつせ
福岡/福岡市(早良区)
<三瀬峠(県境より僅かに福岡寄り)>
境界石
高240㎝,45.5㎝角
文化15(1818)
WEB(筑前国境石散歩)
道路拡幅のため近接移設
(正面)「從是南 肥前國」/筑前国~肥前国/上記「三瀬峠の国境石1」と密着
1
B
元・
長渕の国境石
ながふち
福岡/朝倉市
朝倉市朝倉地域生涯学習センター・前
境界石(中央部で厚くなった板碑型)
高199㎝,幅68㎝,厚40㎝
文化12(1815)
WEB(筑前国境石散歩)
/WEB(みさき道人)
昭和40頃、筑後川下流の河原(土中)から発見→移設
(正面)「従是西北 筑前國」/筑前国~筑後国/文化12の前年に洪水があり、筑後川沿いの国境が分からなくなったため建立されたとされる
3
B
馬田の国境石
まだ
福岡/朝倉市
馬田コミュニティセンター
境界石
高92㎝,幅24㎝,厚20.5㎝
天保15(1844)?
WEB(筑前国境石散歩)
/WEB(みさき道人)
移設/下部折損→鉄枠で四周を補強
(正面)「従是北東 筑前…」、(裏面)「従是南西 筑後國」、(天端)「七十?
」/筑前国~筑後国/1つの境界石の両面に相対する国名が刻まれているのは稀(文字は別々に彫った)/下記の「倉吉の控石」と同時期に一括して建立された可能性あり
3
B
烏尾峠の国境石
(先代)
からすお
福岡/飯塚市
鹿毛馬公民館
<烏尾峠・頂上>
境界石(尖頭角柱)
高270㎝,29㎝角
元禄13(1700)頃
市史跡
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設/中央で水平に折損→修復
(正面)「從是西 筑前領」/筑前国・黒田藩~肥前国・鍋島藩/黒田・鍋島両藩の間に起こった「背振山国境紛争」の名残り
2
A
烏尾峠の国境石
からすお
福岡/飯塚市・
(田川)糸田町
<烏尾峠・頂上>
境界石
高190㎝,30㎝角
天保年間(1835頃)
市史跡
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
原位置
(正面)「従是西 筑前國」/筑前国・黒田藩~肥前国・鍋島藩/黒田・鍋島両藩の間に起こった「背振山国境紛争」の名残り
1
B
荻浦の領境石
おぎのうら
福岡/糸島市
天神社・前
境界石(駒型)
高300㎝,幅49㎝,厚47.5㎝
文政元(1818)
WEB(筑前国境石散歩)
移設/明治期に裏面に「由比氏顕之碑」と追刻し記念碑に転用/埋まっていた部分も掘り出して転用したため、現在高は3.7m
(正面)「従此川中央東北 福岡領」/福岡領~中津領/「此」の字が入るのが特徴/下記の「元・多久川端の領境石」と対になっていた
2
A
二丈鹿家の包石
にじょう、
しかか
福岡/糸島市
海岸<唐津街道>
境界石
(自然石の石積)
天保4(1833)
WEB(筑前国境石散歩)
部分修復
筑後国~肥前国/不揃いの石を積み重ねた上に丸い大石が載る構造
2
B
二丈鹿家の国境石
にじょう、
しかか
福岡/糸島市
国道202号の線路を挟んで反対側の山中<唐津街道>
境界石
高249㎝,幅30㎝,厚30.5㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
原位置?/下部埋設
(正面)「從是東 筑前國」、(右面下部)「小川中央境」(「小川」はこの地点)/筑前国~〔公領→唐津領→公領→対馬領〕
2
B
元・
多久の領境石
たく
福岡/糸島市
<多久川沿い>
境界石(尖頭角柱)
高約200㎝,30㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設→個人宅
(正面)「従是西 中津領」/中津領~福岡領/上記の「荻浦の福岡領境石」と対になっていた
4
B
吉井町富永の郡境石
よしい、
とみなが
福岡/うきは市
境界石
高190㎝,幅21㎝,厚22㎝
元禄8(1695)
市有形民俗
市教委
/WEB(みさき道人)
原位置
(正面)「東 生葉郡/西 竹野郡、分界」/生葉郡~竹野郡/17世紀の郡境石
1
A
吉井町生葉の郡境石
よしい、
いくは
福岡/うきは市
境界石
高150㎝,幅22.5㎝,厚21㎝
元禄8(1695)
市有形民俗
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「東 生葉郡/西 竹野郡、分界」/生葉郡~竹野郡/17世紀の郡境石
2
B
小保・榎津の藩境石列
(久留米・柳川領境)
こぼ、えのきづ
福岡/大川市
境界石
(28基)高1m以下
宝暦9(1759)以前
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
29本→28本
久留米領~柳川領/高さや石質(2種類)の異なる石柱が、交互かつ一列に並ぶ(横に穴が開いていて、板を通した)/領境が町並みの中にあった珍しい事例
2
B
湯谷の国境石
1
(先代)
ゆや
福岡/大牟田市
境界石(花崗岩)
高169㎝(中段)+144㎝(下段),36㎝角
江戸初期?
県有形民俗
市教委
3段に折れ、中・下段のみ残る/神社境内に横倒しに放置されていたものを復元/字が読みづらい
(正面)「…北 筑後國立花
□□□□
領内」(
□
は 『西遊日記』 によれば「
左近将監」
)/筑後国柳川領~肥後国/破損前は筑後国最大の領境石/字句は薬研彫り/四箇は境界石の所在する地名
3
A
湯谷の国境石2
ゆや
福岡/大牟田市
境界石
(道標兼、花崗岩)
高370㎝,36㎝角
幕末
県有形民俗
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
昭和39年、旧位置に復元
(正面)「従是西北 筑後國柳河領」、(同最下端)「従柳河札辻/四里二十町余」/筑後国柳川領~肥後国/筑後国最大の領境石/字句は肉太の蒲鉾彫り/四箇は境界石の所在する地名
2
A
乙隈の国境石
(先代)
おとぐま
福岡/小郡市
<薩摩街道>
境界石(尖頭角柱)
高214㎝,幅30㎝,厚29㎝
寛延3(1750)以前
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
小郡市埋蔵文化財調査センター
(正面)「従是南 筑後領」/筑前国~筑後国・久留米藩/筑前側(初代)より小さかったため、藩の威信にかかわると差し替えられた
3
B
三国境石
さんごくざかい
福岡/小郡市・
筑紫野市・
佐賀/(三養基)基山町
<長崎街道(三国峠)>
境界石(円柱)
高127㎝,径28㎝
文化2(1805)
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
原位置/行きにくい社会的環境にある
筑前国~筑後国~肥前国/三方に「三國境石」と刻印/円形は非常に珍しい/境石の周りには3つの穴があり、境石の周りを取り囲むように柱が立っていたと思われる
2
A
乙隈・馬市の国境石
おとぐま、
うまいち
福岡/小郡市
<薩摩街道>
境界石(花崗岩)
高312㎝,49㎝角
19世紀中頃以前
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設、修景整備
(正面)「従是南 筑後國」/筑前国~筑後国・久留米藩/筑紫野市の
「馬市・乙隈の国境石」と並んで立つ
2
金辺峠の郡境石
(企救・田川郡境石)
きべ
福岡/北九州市(小倉南区)・(田川)香春町
<金辺峠>
境界石
高220㎝,24.5㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
原位置
(正面)「從是北 企救郡」、(左面)「從是南 田川郡」/企救郡~田川郡
2
B
田代の国境石1
(境ヶ谷の国境石)
たしろ
福岡/北九州市
(八幡東区)
境界石(自然石、石英斑岩)
高150㎝,幅190㎝,厚80㎝
元禄13(1700)?
WEB(筑前国境石散歩)
原位置(民有地)
(正面)「從是西 筑前國」/筑前国~豊前国/自然石としては大型
2
B
高見の国境石1
(大蔵三条の国境石)
たかみ
福岡/北九州市
(八幡東区)
三条バス停・付近
<長崎街道>
境界石(花崗岩)
高329㎝,幅51㎝,厚43㎝
天保5(1834)再建
市史跡
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設(別の市から)
(正面)「従是西 筑前國」/筑前国~肥前国/筑紫野市の「原田の国境石2」と対になる
3
A
山本町豊田の郡境石
やまもと、
とよだ
福岡/久留米市
県道151号沿い
境界石
高195㎝,22.5㎝角
元禄8(1695)
市有形民俗
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
原位置?
(正面)「東 山本郡/西 御井郡、分界」/山本郡~御井郡/17世紀の郡境石
1
A
田主丸町牧の郡境石
たぬしまる、
まき
福岡/久留米市
巨瀬川堤防上<豊後街道>
境界石
高160㎝,幅21㎝,厚35㎝
元禄8(1695)
WEB(筑前国境石散歩)
原位置?
(正面)/「東 竹野郡/西 山本郡」/竹野郡~山本郡/17世紀の郡境石
1
B
元・
大谷口の国境石
おおやぐち
福岡/田川市
境界石(砂岩)
高300㎝,31.5㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設(もと、嘉麻市上山田)→別な市の個人宅/砂岩のため各所で亀裂・欠損
(正面)「従是西 筑前國」/筑前国~豊前国
5
A
原田の国境石1
はるだ
福岡/筑紫野市
国道3号線・三国交差点歩道上<長崎街道>
境界石(尖頭角柱)
文化4(1807)
WEB(筑前国境石散歩)
道路拡張のために近接移設
(正面)「従是東 筑前國」/筑前国~肥前国対州領/下記「原田の領境石」と背中合わせに立つ
2
B
原田の領境石
はるだ
福岡/筑紫野市
国道3号線・三国交差点歩道上<長崎街道>
境界石(尖頭角柱)
文化4(1807)
WEB(筑前国境石散歩)
道路拡張のために近接移設
(正面)「従是西 肥前國對州領」/筑前国~肥前国対州領/上記「原田の国境石2」と背中合わせに立つ
2
B
原田の国境石2
はるだ
福岡/筑紫野市
<長崎街道>
境界石
高342㎝,幅52㎝,厚48㎝
天保5・6(1834・35)
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「従是北 筑前國」/筑前国~肥前国対州領/北九州市八幡東区の「高見の国境石1」と対になる/筑前国最大の国境石
3
A
馬市・乙隈の国境石
うまいち、
おとぐま
福岡/筑紫野市
<薩摩街道>
境界石
高298㎝,幅50㎝,厚49㎝
19世紀中頃以前
WEB(筑前国境石散歩)
移設、修景整備
(正面)「従是北 筑前國」/筑前国~筑後国/小郡市の「乙隈・馬市の国境石」と並んで立つ/移設・再建時に、初代(18世紀中頃)の国境石を基壇石として再利用
2
高田の領界石
(佐井川端の領界石)
たかた
豊前市
<上往還>
境界石(尖頭角柱)
高210㎝,幅26㎝,厚24㎝
慶応3(1867)?
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設→個人宅→さら地
(正面)「從是西 小倉領」/小倉領~中津領/上記「久路土の領界石」と対をなす
3
B
松江の郡境石
(築城・上毛郡境石)
しょうえ
福岡/豊前市
(船入)<豊前道>
境界石
高200㎝,20.5㎝角
江戸期
市史跡
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設→個人宅→再移設
(正面)「從是西 築城郡」、(右面)「從是東 上毛郡」/築城郡~上毛郡
2
B
垂見峠の郡境石
(遠賀・宗像郡境石)
たるみ
福岡/宗像市・
(遠賀)岡垣町
<垂見峠>
境界石
高202.5㎝,
幅35.5㎝,厚31㎝
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設?
(正面)「従是、東 遠賀郡/西 宗像郡」/宗像郡~遠賀郡
2
B
中央の郡境石1
(仲津・築城郡境石)
なかつ、
ついき
福岡/行橋市
市歴史資料館
<求菩堤街道>
境界石(凝灰岩)
高180㎝,18㎝角
元禄13(1700)以前
市民俗有形
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設・展示
(正面)「從是西 仲津郡」、(右面)「從是東 築城郡」/仲津郡~築城郡/17世紀の郡境石
3
B
中央の郡境石2
(京都・仲津郡境石)
ちゅうおう
福岡/行橋市
(1丁目)行橋市役所
境界石(花崗岩)
高215㎝,幅24.5㎝,厚24㎝
江戸期
市民俗有形
市教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設(もと、大橋3丁目)
(正面)「從是北 京都郡」、(左面)「從是南 仲津郡」/京都郡~仲津郡
2
B
福井の国境石
ふくい
福岡/(朝倉)東峰村
宝珠山駅・東/国道211号<日田街道>
境界石
高187㎝,幅28㎝,厚23㎝
天保5(1834)
WEB(筑前国境石散歩)
移設/下部1/3の所で折損→修復
(正面)「従是北 筑前國」、(左面)「上座郡福井村抱」/筑前国~豊前国/宝珠山の国境石と言われているが、ここでは大字名で標記する
2
B
岳滅鬼峠の国境石
がくめき
福岡/(田川)添田町
境界石
高192㎝,30㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
原位置?
(正面)「從是北 豊前國小倉領」/豊前国~豊後国
1
B
諏訪山の国境石
すわやま
福岡/(田川)福智町
境界石
高193㎝,幅24㎝,厚23.5㎝
江戸期
町教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設
(正面)「從是東 豊前國小倉領」/豊前国・小倉領~筑前国
2
B
七曲峠~佐賀橋間の国境石群
ななまがり、さが
福岡/(筑紫)那珂川町・佐賀/(神崎)吉野ヶ里町・(三養基)みやき町
境界石(自然石)
下記と合わせ47基
元禄13(1700)頃
町教委/WEB(筑前国境石散歩)
保存状態良好
筑前国~肥前国/元禄9(1696)頃の両国の境界争いを受け短期間で設置された一群の国境石群
1
A
権現山~三領界山間の国境石群
ごんげん、
さんりょうさかい
福岡/(筑紫)那珂川町・佐賀/鳥栖市
境界石(自然石)
上記と合わせ47基
宝永元-2(1704-5)
町教委/WEB(筑前国境石散歩)
保存状態良好
筑前国~肥前国対州領/国境争いはなかったが、予防的に建立
1
B
五ヶ山の国境石垣
ごかやま
福岡/(筑紫)那珂川町
小川内川の中洲
境界石(石垣)
長約360m
(露出部は10数mが数ヶ所)
江戸期
町教委/WEB(筑前国境石散歩)
所々露出/ダム工事により砂で埋没する恐れ
「国境石垣」のような存在は稀
3
B
直江の領境石
なおえ
福岡/(築上)吉富町
八坂神社
境界石
高190㎝,幅26㎝,厚24.5㎝
慶応3(1867)?
町有形
町教委/WEB(筑前国境石散歩)
移設/最下部をコンクリートで復元(「高さ」に含まず)
(正面)「従是東 中津領」/中津領~小倉領/下記「界木の領境石」と対をなす
3
B
界木の領境石
さかいぎ
福岡/(築上)吉富町
境界石
高260㎝,幅26㎝,厚25㎝
江戸期
町有形
WEB(筑前国境石散歩)
移設→個人宅
(正面)「従是西 小倉領」/小倉領~中津領/上記「直江の領境石」と対をなす
4
B
本郷の国境石
ほんごう
福岡/(三井)大刀洗町
<秋月街道>
境界石
高101㎝,幅22㎝,厚18.5㎝
天保15(1844)?
WEB(筑前国境石散歩)
/WEB(みさき道人)
移設
(正面)「従是西北 筑前國」、(裏面)「従是南 筑後國」、(天端)「十六」/筑前国~筑後国/1つの境界石の両面に相対する国名が刻まれているのは稀(文字は別々に彫った)/下記の「稲数の控石」と同時期に一括して建立された可能性あり
2
B
稲数の国境石控石
いなかず
福岡/(三井)大刀洗町
境界石〔控石〕
高91㎝,幅31㎝,厚28㎝
天保15(1844)
WEB(筑前国境石散歩)
掘り出されたものを移設→個人宅
(正面)「百七番境杭」、(右面)「百六番境杭」、(左面)「百八番境杭」、
(裏面上部)「控石」/杭番号が刻字された控石は稀少(建立年も確定)
3
B
俵坂の佐嘉領境石
たわらざか、さが
佐賀/嬉野市
(俵坂関所跡)
境界石
高285㎝,27㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
俵坂の峠から移設
(正面)「從是北 佐嘉領」、(裏面)「藤津郡丹生川村」
2
B
松浦町桃川の佐嘉領境石
まつうら、ももかわ
佐賀/伊万里市
(宮地嶽神社)
境界石(尖頭角柱)
高205㎝(うち、台石30㎝),24㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設?/表面が風化して刻字が判読困難
(正面)「從是南 佐嘉領」
3
B
浜玉町の
対州領境石1
はまたま
佐賀/唐津市
境界石
高190㎝,30㎝角
文政元(1818)以降
WEB(筑前国境石散歩)
若干の移設(C台石)?
(正面)「従是東 對州領」/唐津藩領と対馬藩領との境界(文政元から幕府領から対馬藩領となった)
2
B
浜玉町の
対州領境石2
はまたま
佐賀/唐津市
境界石(尖頭角柱)
高192.5㎝,幅30㎝,厚29.5㎝
文政元(1818)以降
WEB(筑前国境石散歩)
修復時に再設置?/下1/4点で水平に折損→修復
(正面)「従是東 對州領」/唐津藩領と対馬藩領との境界(文政元から幕府領から対馬藩領となった)
2
B
三方境~小ヶ倉間の藩境塚群
さんぽうざかい、こがくら
長崎/長崎市
大山町・戸町・小ヶ倉町ほか
境界塚(石積)
総延長6㎞,
69基→33基
天明7(1787)
WEB(みさき道人)/大村藩戸町村郷村記p34
ほぼ半数が現存確認され、保存状態は良好
大村藩戸町村と佐賀藩深堀領小ヶ倉村の境界塚
1
A
西出津町の藩境塚群
にししつ
長崎/長崎市
へん岳
境界塚(石積)
江戸期
WEB(みさき道人)
尾根沿いの山中に点々と残る
『大村郷村記6』には「一大塚七拾五、内貳ツ舫塚」と書かれている
1
B
戸町御番所
・跡
(四・五・六・七番石標柱)
とまち
長崎/長崎市
境界石(4基)
五番標柱:
高90㎝,21㎝角
天保8(1825)
県史跡
WEB/WEB(みさき道人)/市教委
元治元(1864)廃止→境界標柱9本のうち4本が残る
(五番標柱)「五番 従是御番所境内」「九本の内」「従是六番迄之間、弐拾九間半/亥三厘」「天保八丁酉歳四月口之」/寛永16(1639)に海外交易をオランダ・中国の2国に限定した後、来津するポルトガル船に対応するため、寛永19、幕府が筑前・佐賀両藩に隔年で長崎港警備に当たるよう命じた際に造られた番所(仮小屋)→慶安元(1648)本建築化し石火矢台を設置、1000人規模で駐留
3
B
下大渡野町の藩境塚群
しもおおわたの
長崎/諫早市
風観岳
境界塚(石積)
享保10(1725)
WEB
300基以上が造られ約60基が現存
藩境に沿って30mほどの間隔で造られた石積の塚/諫早藩が築いたものは「角塚」、大村藩が築いたものは「丸塚」と呼ばれる
1
A
森山~愛野間の藩境塚群
もりやま、
あいの
長崎/諫早市・雲仙市
境界塚(石積)
総延長1.5㎞→575m
42基→31基
安政4(1857)以前
WEB(みさき道人)
ほぼ2/3が現存確認され、保存状態は良好/
写真
は上が円形、下が四角形
諫早藩唐比村~島原藩愛津村の境界塚/諫早藩の境塚は円形(18基)、島原藩の境塚は四角形(13基)
1
B
村木郷の三領石
むらきごう
長崎/
(東彼杵)波佐見町
境界石
高215㎝,幅30㎝
寛保2(1742)
町史跡
WEB
原位置
(正面)「比三領境東西峯尾續雨水分南大村領」、(右面)「比三領境東西峯尾續雨水佐嘉領」、(左面)「比三領境西北峯尾續雨水分平戸領」/佐賀・大村・平戸領の境界を示す標柱/焼き物用の薪を確保するために度々争いが起こったため、3藩の役人が立ち合って建立
1
B
武山の三郡境石1
たけやま
大分/臼杵市
(コニタ)
境界石
(尖頭角柱)
高150㎝(塔身のみ),27㎝角
安政6(1859)
市有形
WEB(みさき道人)/市教委
原位置
(正面)「従是、寅/卯、之間 海部郡」/3本の境界石が3角に並ぶ
1
C
武山の三郡境石2
たけやま
大分/臼杵市
(コニタ)
境界石
(尖頭角柱)
高150㎝(塔身のみ),27㎝角
安政6(1859)
市有形
WEB(みさき道人)/市教委
原位置
(正面)「従是、亥/子、之間 大分郡」/3本の境界石が3角に並ぶ
1
C
武山の三郡境石3
たけやま
大分/臼杵市
(コニタ)
境界石
(尖頭角柱)
高150㎝(塔身のみ),27㎝角
安政6(1859)
市有形
WEB(みさき道人)/市教委
原位置
(正面)「従是、午/未、之間 大野郡」/3本の境界石が3角に並ぶ
1
C
大片平の領境石
おおかたひら
大分/杵築市
(境木)
境界石
高185㎝,18㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)/市教委
原位置
(正面)「従是西 日出領」/日出藩~杵築藩
1
B
直川の領境石
なおかわ
大分/佐伯市
(赤木)直川体育館・前
境界石
(尖頭角柱)
高170㎝,幅21㎝,
厚20㎝
江戸末期
市有形
WEB(筑前国境石散歩)
/市教委
移設(もと、庄屋宅・床下)
(正面)「従是東 佐伯領」/佐伯藩~岡藩境の見明峠に建立する予定が、明治維新となり取りやめになったとされる
2
B
豊岡の領境石
とよおか
大分/(速見)日出町
境界石
高207㎝,19㎝角
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
移設(もとの位置不明)→個人宅
(正面)「従是東 日出領」/日出藩~杵築藩 or 森藩(もとの位置不明なため特定できず)
4
B
東大塚町の国境石
ひがしおおつか
熊本/人吉市
国見山
境界石(自然石)
高約3m,幅約5m
,厚約1.5m
江戸期
WEB(筑前国境石散歩)
接近困難/石を設置したのではなく、そこにあった石に刻字した
(正面中央)「従是西 薩摩」
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B
南島の郡境石
みなみじま
熊本/山鹿市
城ケ原バス停・北
<豊前街道>
境界石(駒型)
高207㎝(移設前),幅33㎝,厚23㎝
天保8(1837)
市教委/WEB
移設/下部埋設
(正面)「是ヨリ北 山鹿郡」/山鹿郡~玉名郡
2
C
牛之峠論所
・跡
うしのとうげ、ろんしょ
宮崎/(北諸県)三股町
境界石(尖頭角柱)
(林業遺産)
高220㎝,25㎝角
延宝3(1674)以降
市教委/WEB
/WEB(筑前国境石散歩)
原位置/中央下部で水平折損→修復/本来、日南市に関係の深い遺構であり、分水嶺上に立っているのだが、現在の行政境界では僅かに三股町側に位置する
(正面・右面・左面)「従是東 飫肥領」/現在、日南市と三股町の境界となっている分水嶺を、「飫肥と薩摩の藩境とするかしないか」という、分水嶺南東斜面の森林資源を巡る争いを象徴する遺構/日向国にも所領のある70万石の大藩と5万石の小藩との争いは、48年にわたる紆余曲折を経て、幕府裁定により飫肥藩側の全面勝訴となった/牛之峠南東斜面の木材を自由に伐採可能となったことが、堀川運河掘削の直接的な要因である
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B