用水隧道
都道府県別データ一覧にある長さ100m以上の用水トンネル
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
鞍出山穴堰
くらで
青森/十和田市
稲生川
素掘トンネル
(水路)
長2541m
安政5(1858)
市立新渡戸記念館/水土を拓いた人びと
坑口C化
施主: 南部藩士・新渡戸傳、技術者: 後藤村吉助/三本木原開拓
5
B
天狗山穴堰
てんぐ
青森/十和田市
稲生川
素掘トンネル
(水路)
長1620m
安政5(1859)
市立新渡戸記念館/水土を拓いた人びと
坑口C化/天狗山トンネル入口は法量農村公園の中にある
施主: 南部藩士・新渡戸傳、技術者: 後藤村吉助/三本木原開拓/稲生川に2つあるトンネルのうち後に像つくられたもので、天狗山隧道は、稲生川第一穴堰とも言われる
5
B
猿鼻隧道
(北照井堰穴山隧道)
さるばな
岩手/一関市
素掘トンネル
(水路)
長773m
寛文元(1661)
WEB
C改修/隧道は歴史が古く、幾度も蛇行した隧道を改修した工事跡が現存
一関市と平泉町を繋いでいる
4
B
穴山堰
あなやま
岩手/奥州市
胆沢川
用水路(石積)、
素掘トンネル
(水路)
長
2759
m(昭和期の延長部分を含む),幅1.2-1.3m
承久3(1221)、嘉禄年間(1225-27)、応安6(1373)、明応2(1493)、明応年間(1492-1501)など
諸説
胆沢平野土地改良区/市教委
穴堰(非現役):壁面には、たがねの痕跡や、明りを取るために菜種油を灯した半皿状の窪みが残る
胆沢平野扇状地最古の用水堰=建造年・建造者とも不明
(一番古い説は照井三郎)
/茂井羅堰、寿安堰の上流に位置する/平堰(開水路)部分と穴堰(トンネル)部分に分かれている/平堰は巨石や岩盤をくり抜き、側面は石積で形成されており、全部で
10ヶ所
ある
2
A
旧葦名堰
(二の台堰)
あしな(にのだい)
岩手/奥州市
北股川
用水路、
素掘トンネル
(水路)
長5530m(15ヶ所):最大のものは
長約400m
寛文9(1669)
胆沢平野土地改良区/市教委
現在の葦名堰とは別ルート→2㎞区間を除き非現役=未改修
衣川荘の領主・葦名氏が、小山の二の台を開発するため、5代、51年をかけて開削したとされる/15ヶ所の穴堰中最大のものは長約400m
2
B
角鼻隧道
かどはな
岩手/遠野市
猿ヶ石川→<角鼻堰>
素掘トンネル
(水路)
長373m,幅1.6m,高2.5m
寛永年間(1624~44)
市教委/遠野市土地改良区
拡幅→C改修
八戸直義家臣、下郷代官・宇夫方広道清左衛門により開削
5
C
鍋倉新田用水の穴堰
なべくら
岩手/花巻市
豊沢川
素掘トンネル
(水路)
長2㎞
江戸前期(完工)→江戸期間(度々修復)
市教委
C改修
開削者については諸説あり
4
B
大口堰穴堰
おおぐち
岩手/花巻市
大堰川
素掘トンネル
(水路)
長170m,高1.36m
,幅1.36m
延享元(1744)に当穴堰に掘りかえ
市教委
RCカルバート化/旧取水口と穴堰が残っているが、水路は埋没/崩落などあり
大堰川に繋がる水路(穴堰)/岩質が柔軟なため、数回水路を変更
5
C
滝ノ頭用水の穴堰
たきのかしら
秋田/男鹿市
素掘トンネル
(水路)
長285m
文政6(1823)頃
市教委/農業土木遺産を訪ねて
崩落により法面化
施主:村役人・渡部惣治・斧松
4
C
岩堰用水の隧道
いわ
秋田/能代市
藤琴川
素掘トンネル
(水路)
長約200m
寛永8(1631)
市教委
入口のみ補修し、内部は当時のまま
堰の維持に当たる周辺諸村の負担が重い
4
C
兎口堰の潜穴
うさぎぐち
宮城/仙台市(泉区)
要害川
素掘トンネル
(水路)
長214m,高1.5m,幅1.5m
安永2-9(1773-80)以前
WEB(潜穴探訪記)
出口付近は土の堆積により非常に狭い
2
C
萱場堰の潜穴
かやば
宮城/仙台市(泉区)
萱場川
素掘トンネル
(水路)
長約200m,
入口
:高1.5m,幅1m,
出口
:高1.8m,幅1m
安永2-9(1773-80)以前
WEB(潜穴探訪記)
現役使用/取水口はCカルバート化
農業用水だが、昭和14頃までは生活用水としても使われていた
2
B
福岡大堰の潜穴
ふくおか
宮城/仙台市(泉区)
七北田川
素掘トンネル
(水路)
長約475m,高約1.6m,幅約1m
嘉永3(1850)
WEB
取水口は昭和期にC改修/昭和54の地震で一部崩落
施主:南部吉助/潜穴から水路が続き、サイフォンで小川を渡っている
1
B
青木定盤
じょうばん
宮城/石巻市
素掘トンネル
(水路)
長170m
天保年間(1830-43)
岩屋隆夫
C改修
出来川上流域の排水を定川流域へと排水するために、丘陵下で開削された排水隧道/排水量を絞る構造は不変(青木制水門が建設されている)
4
C
南原穴堰
みなみはら
宮城/大崎市
東遠鈴沢
素掘トンネル
(水路)
長1320m
正保年間(1644-47)
世界農業遺産
WEB
穴口:C改修/穴尻:オリジナル
開削:遊佐平左衛門宣次
1-2
B
鹿島穴堰
かしま
宮城/栗原市
一迫川
素掘トンネル
(水路)
長約1㎞
延宝8(1680)?
WEB(高倉淳の宮城郷土史・分室)
昭和期の隧道が平行している/明治期に植林された、付随する水路土手の欅並木が有名
開削・経営:村吏・六代菅原三右衛門
C
二ツ石堰
(永志田堰)
の
潜穴
ながしだ
宮城/(加美)加美町
二ツ石川
素掘トンネル
(水路)
長540m,高4-1.4
m,幅0.9m
天明3-寛政4(1783-93)
加美郡西部土地改良区/WEB
平成8の地震の復旧事業で152mをC改修(400m弱が残存)
曲線の隧道となっている/掘り間違いの跡や、急激に屈曲した箇所がないことから、村内の鉱山関係者が係ったと推測されている/天井からの地下水を排出するため、トンネル中央部の天井が最も高く、坑口に向かうほど低く造られている
2
B
飯豊山の穴堰
いいでざん
山形/(西置賜)飯豊町・小国町
置賜白川
素掘トンネル
(水路)
長143m,幅0.7-0.9m,高1.3-1.5m
文政元(1818)
県史跡
WEB
昭和42(1967)羽越水害で隋道内に多くの土砂が流入し、通水不能
施工:御中之間年寄・黒井半四郎忠寄(着工の年に死亡したが、計算通りに施工された)/米沢藩主・上杉鷹山の命により、新潟県で日本海に注ぐ飯豊山の融雪水を、標高約1500mの山中(豪雪地帯)に隧道を通して最上川水系置賜白川に注ぐよう流域変更を行なったもの
2
B
弁天洞門
べんてん
福島/会津若松市
戸の口堰
(猪苗代湖→会津)
素掘トンネル
(水路)
長170m
天保8(1837)
市教委/WEB
内部はコンクリート補強されているが、その他は当時のまま
飯盛山を掘りぬいて作られた会津盆地の灌漑用水路/戊辰戦争の時に白虎隊が抜け穴としてこの水路を利用したとされる
2
B
上横田堰隧道
かみよこた
福島/(大沼)金山町
松坂川
素掘トンネル
(水路)
長110m,高0.9m
天保10(1839)
町教委
素堀の状況は入口から確認出来る範囲で当時のまま
新田開発のため松坂川の水を堰止めて用水に水を引いた/高さ、幅ともに三尺、長さ六〇間に渡って隧道を開削したとされる/内部は未実測等のため実延長は不明
1
C
堂ノ入掘貫隧道
どうのいりほりぬき
福島/
(河沼)会津坂下町
大沢川
素掘トンネル
(水路)
長246m,高1.6m,幅1.0m
慶応2(1866)
町教委
当時のまま/農業、防火用水として利用されている
発起人:伊藤運次郎、設計:西羽賀の忠吉
1
C
三ヶ江用水の隧道2
さんがえ
新潟/三条市
三ヶ江用水
素掘トンネル
(水路)
長約500m
享和18(1817)
市教委
当時の状態がよく残る
途中数ヶ所にずり穴がある
1
B
下平用水の隧道
しもだいら
新潟/三条市
下平用水
素掘トンネル
(水路)
長計600m(2ヶ所)
文政8(1825)頃
市教委
文政8(1825)に始まった新田開発に伴って開削されたとされている/3本の隧道が並走しており高位に寺田水路、中位に下平用水、低位に前谷用水の隧道がある
3
B
濁沢用水の隧道1
にごりさわ
新潟/三条市
濁沢用水
素掘トンネル
(水路)
長130m
江戸末期
市教委
3
C
釜戸扶渕用水の隧道
かまどふち
新潟/三条市
釜戸扶渕用水
素掘トンネル
(水路)
長約100m
江戸末期
市教委
3
C
大明神用水の隧道
だいみょうじん
新潟/十日町市
越道川
素掘トンネル
(水路)
長約1㎞
安政4(1857)
WEB/市教委
素掘のまま現役使用
開削:田辺与惣治/田辺与惣治が越道川左右岸地域を新田開発する目的で開削した隧道
1
B
旧・
長島堀の隧道
ながしま
栃木/那須塩原市
素掘トンネル
(水路)
長207m(これより先埋没)
万治元(1658)
市教委(那須野ヶ原の疏水を歩くp57-63)
保存状態は良いがアクセス困難
新田開発のために造られた那須野ヶ原最大級の用水でありながら、十数年後に廃止(理由不明)
2
C
唐桶導水隧道
・跡
かろけ
栃木/(芳賀)芳賀町
素掘トンネル
(水路)
長540m
宝永4(1707)
町史跡
町教委(芳賀町史・民俗p96-97)
使われていない
上記「唐桶溜」が完成した時あまりにも大きい池だったので、雨水では一杯にならず、板戸用水(1610)から2.5㎞の水路を開削して導水した
3
C
桜田隧道
さくらだ
神奈川/小田原市
荻窪用水
素掘トンネル
(水路)
長340m,高1.5m
享和2(1802)
WEB
坑口C改修
荻窪用水に17ヶ所あるとされるトンネルの中で最長
3
C
万平穴
まんぺいあな
神奈川/
相模原市(中央区)
相模川
素掘トンネル
(水路)
長120m,幅1.2m,高2.7m
安政年間(1854-59)
市登録史跡
WEB
私有地内
安政の飢餓の際、食料増産を図るため、陽原の中島万平が先頭に立ち、望地の金井津右衛門の協力を得て開削した用水トンネル
4
C
河口
湖
(新倉)
掘抜
かわぐちこ(あらくら)ほりぬき
山梨/
(南都留)富士河口湖町・富士吉田市
河口湖・新倉堀抜史跡館
素掘トンネル
(水路)
長約3.8㎞
元禄14(1701)失敗
→嘉永6(1853)失敗
→慶応2(1866)
→大正2(1913)使用停止
町史跡
河口湖・新倉堀抜史跡館
トンネルの一部を観光用に整備
農業用水の常識である一定勾配ではなく、上下方向に屈曲した地層に沿って掘られた異例な水路トンネル/河口湖→新倉村に導水する藩直轄の工事(普請奉行:大久保庄太夫他)として元禄3-14(1690-1701)に施工⇒通水失敗/新倉村民の自普請として弘化4-嘉永6(1848-53)に施工⇒通水後1年で断水/同・自普請として文久3-慶応2(1863-66)に施工⇒通水成功
1
中古池隧道
なかふる
長野/飯山市
桂池
素掘トンネル
(水路)
長108m
文政4(1821)
市教委
現在も使われている
1寸掘るのに1両かかったという難工事/両側から掘削したため中央部分に段差/地震や干ばつによる取水源の桂池の水位低下で、17年間に7回も普請
1
B
片倉隧道
かたくら
長野/佐久市
五郎兵衛用水
素掘トンネル
(水路、複数)
長400m
寛永8(1631)頃
県史跡
長野県の文化財p105/WEB
非現役/部分的にしか残っていない
片倉山を抜く水路トンネル(長短のトンネルの集合体)/最長のトンネルでは、底が波打つように掘られ、左右にもゆるく屈曲しており、強い勢いで踊りながら水が流れるので土砂が貯まらないとされている
2
B
吉田隧道
よしだ
静岡/伊東市
吉田用水
(一碧湖→吉田地区)
素掘トンネル
(水路)
長486m(うち、素掘区間184m)
天保4(1833)
市有形
市教委
昭和5の地震により崩壊→昭和8修復/取水口・吐口は大正・昭和の改修/非現役
山口半五郎と吉田村の農民により開削(写真は、大正10に改修された取水口)
4
C
片樋マンボ
かたひ
三重/いなべ市
大安町
素掘トンネル
(水路)
長約1㎞
明和7(1770)頃
市史跡
WEB
片樋マンボ保存会により管理/個人の敷地にあったマンボが崩れかけたのをきっかけに町が敷地を買い取り史跡として整備
水源が明確でなく、途中の伏流水や地下水を集めるタイプ/素掘りの竪穴を約10-30mごとに有する本格的なマンボ→中東のオアシス農業で造られるカナートに似た構造(目的が異なるため混同すべきではない)
1
A
柳谷隧道1
やなぎだに
三重/(多気)多気町
立梅用水
素掘トンネル
(水路)
長730m
文政6(1823)
町史跡
WEB/多気町郷土資料館
保存状態良好/現役
1
B
柳谷隧道2
やなぎだに
三重/(多気)多気町
立梅用水
素掘トンネル
(水路)
長140m
文政6(1823)
町史跡
WEB
保存状態良好/現役
1
C
大石の二ツ成マンボ
おおいし
岐阜/(不破)垂井町
素掘トンネル
(水路)
長185m,幅約90㎝
嘉永6(1853)
町教委
状況不明
傾斜地の稲作用水確保の手段/大石地区にはかつて20数ヶ所のマンボがあったが、平成13年度時点で二ツ成と大塚の2つのみ現役(調査されたのは、二ツ成のみ)
B
旧・
雉
(鶏)
取水口~末町地内間の隧道
きじ
(にわとり)
石川/金沢市
犀川→辰巳用水
素掘トンネル
(水路)
長
約4.1㎞
(当初長3.3㎞),
高1.8m内外
寛永9(1632)
国史跡
加賀辰巳用水東岩隧道とその周辺p33-40/辰巳用水土地改良区
保存状態良好(寛政期の隧道を2㎞現役使用→ツルハシの跡がよく残る)
辰巳用水は上流部のほぼ半分がトンネルという特殊な構造→わが国で初めて長い隧道を横穴工法を用いて築造した→平均約30mの間隔で掘られた横穴から上下流に掘り進めた(当初の横穴は139ヶ所、現存確認66ヶ所)
/「雉」は「鶏」の間違い(天保5の『辰巳用水長巻図』に「鶏渕」と記載)→「雉」が通称として一般的なのでここでは併記する
1
A
法師の隧道
(上流部)
ほうし
石川/金沢市
長坂用水
素掘トンネル
(水路)
長228.2m
寛文11(1671)
市史跡
市教委/
池本敏和
保存状態良好
上流部が1/496、下流部が1/648の緩勾配/上流区間に9ヶ所、下流区間に1ヶ所の横穴(掘削作業の区分化、ズリ出し、換気、明り取り)/ノミの跡の他、灯明皿用のタンコロ穴も随所に残る
1
B
法師の隧道
(下流部)
ほうし
石川/金沢市
長坂用水
素掘トンネル
(水路)
長129.7m
寛文11(1671)
市史跡
市教委/
池本敏和
保存状態良好
上流部が1/496、下流部が1/648の緩勾配/上流区間に9ヶ所、下流区間に1ヶ所の横穴(掘削作業の区分化、ズリ出し、換気、明り取り)/ノミの跡の他、灯明皿用のタンコロ穴も随所に残る
1
B
東岩取水口~雉
(鶏)
取水下連絡口間の隧道
ひがしいわ
石川/金沢市
犀川→辰巳用水
素掘トンネル
(水路)
長約700m
安政2(1855)
国史跡
WEB/市教委
一部に後年の改修が掘り下げ/ダム計画で水没の危機→取水口を上流側に移動し保存が図られた
雉(鶏)取水口→古河口取水口と順次上流側に移動した最後の取水口/内部の掘削が寛政期の隧道に比べ「雑」(土地改良区・談)
2
B
御殿山隧道
ごてんやま
石川/小松市
御茶用水
素掘トンネル
(水路)
長約200m
延徳元(1489)
WEB
現況不明
能登の宝達金山の坑夫(宝達者)が掘削
C
深見のマンポ
ふかみ
石川/七尾市
田ノ浦新開
素掘トンネル
(水路)
長約300m
江戸期?
世界農業遺産
市産業部世界農業遺産推進総室(田鶴浜町史p250)
保存状態良好
『田鶴浜町史』によれば、山沿いの土地の新田開発にはマンポがよく使われたとあるが年代は不詳/湯川地区のマンポは明治30頃なので深見地区のマンポも近代かもしれない
1
C
二ヶ用水隧道
にか
石川/能美市
<ニヶ用水>
素掘トンネル
(水路)
長389.6m
弘化4(1847)
西北陸土地改良調査管理事務所/WEB
保存状態良好だが非現役
施工: 越中富山の熊林村の椎名道三/天保・天明の飢饉を受けて二ヶ用水を開削→現在は下記の「宮竹用水」に統合/用水隧道としては天井が高く、明かり取りの窓が多い/「窓」は洪水時の余水吐けの役目も持っていたとされる
2
B
富樫用水の隧道
とがし
石川/白山市
富樫用水
素掘トンネル
(水路)
長約300m
江戸末期
手取川七ヶ用水土地改良区/WEB
非現役/入口は埋没、出口も締め切られている
施工:枝権兵衛/夏に水が枯渇する富樫用水へ安久濤ヶ淵から取水するために開削されたトンネル/この取水部に「明治期の大改修」で7用水合同取水口が設けられたため、七ヶ用水改修近代化の始まりとされる
4
C
嵯峨隧道
さが
福井/(三方)美浜町・
(三方上中)若狭町
水月湖→日向湖
素掘トンネル
(水路)
長145m
宝暦13(1763)
町教委/若狭町教育委員会
明治27・昭和7・昭和54に大改修→C巻立て、坑口近代化、水門構築/日向湖の養殖による汚水流入を防ぐため通常は締切/
写真
は美浜町(日向湖)側
もともと宝永6(1709)に完成した大津の笹井豪商による町人請負型の新田開発のための隧道が発端(干上がり新田が少なく失敗→享保20(1735
)の大洪水で崩壊)/浦見川の開通により三方湖畔に生まれた新田村が、大雨による三方湖の氾濫で大きな被害を受けたのを受け、宝暦7(1757 )に田井村の赤尾善次ら7人が小浜藩に願い出て着工(藩は財政難)→ 工費がかさみ赤尾善次以外は脱落→赤尾本次郎の協力を得て宝暦13 に完成/その後も、寛政・天保年間に崩落・開削した
4
A
菖蒲谷隧道
(角倉隧道)
しょうぶだに
京都/京都市(右京区)
菖蒲谷池→細谷川
素掘トンネル
(水路)
長約200m
寛永年間(1624-44)
WEB
保存状態良好/現役
角倉一族の吉田光由が、水利の悪かった北嵯峨に水を引くために、北嵯峨奥の山中の菖蒲谷に池を貯め、そこより南へ水を引くために開削したトンネル/トンネル断面は呑口が正方形、内部に入ると放物線状からアーチ型になり、吐口ではまた正方形になっている
1
A
粟生のまんぽ
あお
京都/長岡京市
風呂阻谷上流
素掘トンネル
(水路)
長約100m
安政2(1855)
市教委
小規模な修復/私有地内
山向この谷水を坂川の上流に導水するために掘られたトンネル
3
C
上田和隧道
かみだわ
和歌山/有田市
有田川
素掘トンネル
(水路)
長313m,高約2.4m,幅約1.5m
天保13(1842)
→天保14(1843)
→弘化2(1845)拡幅
市教委(有田町史p534-542)
呑口
〔写真〕
・吐口をC改修、トンネル内は拡幅C改修
有田川が増水する度に排水不良で苦しんでいた野村・山地・千田地区の水田を救うための排水トンネル/千田神社前の馬場頭の上田和から高田浜へ掘り抜き、海へ排水する計画を3村の13名が発起人として立案→経費の捻出に苦しみながら4年がかりで完成/排水のため海に向かって切通しを造った例は散見されるがトンネルは非常に稀/工事面での功労者は白井久蔵(トンネル東口に明治期の碑が建つ)
4
A
久留麻
(浦川)
疎水隧道
くるま
(うらがわ)
兵庫/淡路市
<浦川>
素掘トンネル
(水路)
長364m
着工:安政3(1856)
→完成:明治5(1872)
市教委
ほぼ素掘りのまま(底部にC製のU字溝を設置?)
企画:来馬村商人・森嘉四郎/来馬村は用水を溜池に頼っていたが水量が少なかったため、久留間の溜池に浦川から水路、トンネルにより導水する久留麻疎水が開削された/井水奉行の裁定による浦村との協議の結果、9月~3月のみ通水が許可されたとされる
2
B
上ヶ原用水路の岩穴
うえがはら
兵庫/西宮市
仁川(右岸)
素掘トンネル
(水路)
長127m,高106㎝,幅54.5㎝
享和2(1802)
市教委
出口をC改修/数ヶ所のズリ出し穴から内部を見る事ができる
34年の工期を経て開削された上ヶ原用水のトンネル/大井滝の取水口付近から仁川に沿うように開削
3
C
小西いで
こにし
兵庫/(美方)新温泉町
久斗川
石組地下水路
長約1㎞
着工:安政(1854-60)頃?
→完成:明治4(1872)以降
町教委(教育はまさか16号)
石組地下水路は現存/平成11の耕地整理事業で、縦坑がCマンホール化/
上の写真
は発掘調査時、
下の写真
は耕地整理前→現在は共にない
企画:7代目・8代目の小西安兵衛(伝承)/田の下を貫通して下流に水を送るための暗渠水路(マンボのようなもの)/底板、側壁、天井板の4枚の石板で造られた用水路は他に例がない(底樋などでは見かけるが長さ1㎞もある用水路としては唯一)
3
A
弁天岩隧道
べんてんいわ
鳥取/(西伯)伯耆町
佐野川用水
素掘トンネル
(水路)
長159m,
高1.98m,幅2.3m
文久元(1861)
県教委/町教委(岸本町ふるさと巡りp14)
坑口は改修/隧道内は時期により見学可能
1人の石工が1日がかりで石宵1弁と言われたほどの難工事→隧道担当の下奉行・山田治三郎尚真は出羽の羽黒山の修験場で御神体の分霊を受けて坑口に小さな祠を建立/石工が掘った当時の「のみ」の跡が残っている
2
B
通り谷穴井手
・跡
とおりたに
鳥取/(八頭)八頭町
<安藤井手>
素掘トンネル
(水路)
長459m,
幅1.2-1.8m
文政6(1823)
町史跡
同上
新トンネルが完成後は非現役(現況不明)
安藤井手で最大の難工事=24,816両の経費と3年の歳月を要した/岩の硬い部分を避けて掘ったため途中で何箇所も直角に折れ曲がっている
3
B
蟠竜湖疏水の間歩
ばんりゅうこ
島根/益田市
県立万葉公園
素掘トンネル
(水路)
長約180m,幅45-60㎝,高1.8-3.6m
宝永4(1707)
市教委
呑口・吐口ともC改修(内部は素掘りのまま)
高津の庄屋・永嶺嘉左衛門/高津沖田の灌漑用水の安定供給を実現するため、沖田~蟠竜湖間をショートカットするトンネルを造ったもの
3
B
庄地のスイドウ
しょうち
山口
/
(大島)周防大島町
素掘トンネル
(水路)
長160m
鎌倉末期-室町期?
県有形
WEB
現役
棚田を潤すために造られた地下水路のトンネル/棚田の石垣に水路トンネルに接続する横穴が開かれており、取水するときは横穴に竹樋を差し込んで取水した/久賀の石工による構造物と言われるが久賀の石工の発祥は江戸中期からと言われており関係は不明/江戸中期に集落の人口が大幅な増加を見せている事からその時期に大規模な開墾があり、江戸中期に久賀の石工が発祥したことも併せて、このトンネルが江戸中期の開墾時に築造されたという説がある
1
B
弥勒石穴
みろく・せっけつ
香川/さぬき市
砕石谷→弥勒池(大川町)
切石+「素掘トンネル
(水路)
長189m
安政4(1857)
国登録
市教委/WEB/現地解説板
保存状態良好/坑口は矩形の切石積
弥勒池(下記)が、竣工後も溜池として機能しなかったため、富田中村の庄屋・軒原庄蔵が高松藩に願い出て砕石谷から導水したトンネル/設計:軒原庄蔵、設計アドバイス: 数学者・萩原栄次郎、施工: 多田信蔵
1
B
蝉谷口隧道
せみたにぐち
徳島/三好市
三村用水
(河内谷土地改良区)
素掘トンネル
(水路)
長311m
文政10(1827)
河内谷土地改良区
現役
徳島藩初めての用水隧道/平成20に内部のビデオ撮りと実測調査
1
B
城江井樋
じょうえ
佐賀/(西松浦)有田町
有田川
素掘トンネル
(水路)
長約120m
嘉永3(1850)
WEB
C改修(内部は不明)
3
C
享保井路の隧道
きょうほ
大分/大分市
大分川(右岸)
素掘トンネル
(水路)
長376m(最大)
享保11(1726)
市教委
保存状態良好(現役)
大石又兵衛と安東善右衛門が開削したとされる用水路/鬼崎付近でトンネルが連続する
(写真は必ずしも最大長のものとは限らない)
1
B
油屋水道
あぶらや
大分/杵築市
酢屋・坂西~北浜口番所
素掘トンネル
(水路)
長290m
宝永3(1706)頃
WEB(みさき道人)/市教委
写真
は吐口/呑口はC水門に改修
油屋孫左衛門がトンネルを掘り抜いて北浜新田を開発→命名の由来
2
C
川平間歩
こうべら
大分/中津市
山国川→荒瀬井路
素掘トンネル
(水路)
長1.2㎞
(トンネル9ヶ所を含む切通し部計)
元禄2(1689)
県史跡
市教委/WEB
昭和56非現役/昔のままのノミの跡が残る
施主: 中津藩主・小笠原長胤/上記の「荒瀬井路」のための隧道/「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事→奉行・片桐九大夫に命じて草本金山を閉鎖し採鉱夫150人を総動員した
1
B
会所山の隧道
よそやま
大分/日田市
小ヶ瀬井路
<石合掌トンネル
(水路)>
長320m
文政8(1825)
市教委/WEB(みさき道人)
平成24の九州豪雨で被災→C改修→モニュメントとして2本のみ展示(1本が約500㎏)/坑口は修景改修
落盤、水漏れ、酸素不足に苦しめられた難工事→当時の記録に、石に穴を開け、その上からフイゴで風を送ったが内部は灯火がほとんど届かないほど濁っていた旨が記されている→こうした記録のあることが貴重
3
A
蔵下井手のトンネル
大分/豊後大野市
(柴北)蔵下井手
素掘トンネル
(水路)
長約300m(窓4ヶ所)
江戸期?
市教委/WEB
現役/呑口に鉄柵、吐口は接近不能/
写真
は呑口
記録がないため詳細不明/灌漑以外に、酒・味噌・醤油の洗い水、防火用としても使われた/岡藩に灌漑用水が多いのは熊沢蕃山の影響とされる
3
C
当尾の穴井手
とうのお
熊本/宇城市
素掘トンネル
(水路)
長約600m
嘉永5(1852)
市史跡
市教委/現地解説板
放置に近い
水源(猫の迫溜池)への取水隧道/途中6ヶ所の土揚用の堅穴
2
B
宝永隧道
(今村マブ)
ほうえい
熊本/菊池市
今村井手
素掘トンネル
(水路)
長302m
宝永2(1705)
WEB
毎年4月、小学生が内部を見学
河原手永惣庄屋・河原杢左衛門が今・赤星・森北地区に引水するため開削
1
C
百間井樋
ひゃっけん
熊本/玉名市
西の川~浮田溜池
石トンネル(用水)
長95m
嘉永5(1852)
市教委/WEB(みさき道人)
保存状態良好/現役/
写真
は中間開口部(右記参照)の下流側呑口
惣庄屋・関忠之亟/トンネルの中間開口部は切通し状になっていて、上流側吐口、下流側呑口とも切込みはぎの堅牢な坑口/トンネル内部は素掘ではなく、切石を積み上げた側壁上に石板を載せた構造
1
A
下豊内隧道
しもとよう
熊本/(上益城)甲佐町
新井手
素掘トンネル
(水路)
長約500m,幅0.8m,高1.5m
文政7(1824)
町教委
保存状態良好
施主:惣庄屋・木原寿八郎が私財を投じ3年がかりで開削した2.7㎞の用水にあるトンネル
1
B
九十九のトンネル
つづら
熊本/(上益城)御船町
3水源→嘉永井手
素掘トンネル
(水路)
長873m
安政5(1858)
町史跡
WEB
保存状態良好
郡代:上妻半右衛門、総庄屋:光永平蔵、設計:楠田順喜、石工:久五郎/元禄井手の機能補強/隧道呑口(上部)に記文入りの石梁/隧道断面は小さい/現役
1
B
木上溝第一隧道
このえ
熊本/(球磨)あさぎり町
球磨川→木上溝
素掘トンネル
(水路)
長233.9m,
坑口
(高1.3m,幅1.5m)
内部
(高3.5m)
宝暦9(1759)
町教委/歴史の道・球磨川水運p.36
呑口:ネットと雑草で視認不能/吐口:改修/
写真
は呑口
溶結凝灰岩台地をくり抜いた隧道/放物線形状の入口/内部:曲折が多い
4
B
木上溝第三隧道
このえ
熊本/(球磨)あさぎり町・錦町
球磨川→木上溝
素掘トンネル
(水路)
長477.4m, 坑口
(高約1.5m,幅1.6m),内部(最大高2.5m,幅2m)
宝暦9(1759)
町教委/歴史の道・球磨川水運p.36
一部近代化/
写真
は錦町側の吐口
内部:①入口から50mと182mの左側に高さ1.7m、幅1mの「明り窓」、②203地点に、延長26.7mの開渠部
1-2
B
幸野溝・旧貫
こうの
熊本/(球磨)湯前町
球磨川→幸野溝
石合掌トンネル
(泥溶岩、水路)
長1451m(総延長),幅2.50m,
高1.85~2m
元禄9(1696)
→大正6調査で崩落・漏水多く改修を放棄
復刻・幸野溝
平成9に鋼管を敷設(用水は鋼管内を流れている)
施工:相良藩士・高橋政重/球磨川の水を、古城台地の下を抜いて新田開発を行う/トンネルは大きく屈曲し、途中に7ヶ所の非暗渠部あり/石合掌は呑口の長50mを除けば、途中10ヶ所で断片的に使われているだけ→煩瑣に崩壊が続く
2
幸野溝・新貫
こうの
熊本/(球磨)湯前町
球磨川→幸野溝
<石合掌トンネル
(泥溶岩、水路)>
長664m,
幅2.60m,
高2.80m(改修前)
宝永2(1705)
→享保16(1729)石組
→大正6改修
復刻・幸野溝
昭和33改修時に内部をC巻立(坑口もC化)
施工:相良藩士・高橋政重/屈折の多い旧貫だけでは崩壊の恐れがあったため、9年後に薩摩から測量技術者を45人招いて直線トンネル(ほぼ南北)を新築/完成から23年後の享保16(1729)から、内部の合掌石組に着手(全体の2/3程度)/現在でも、湯前町、多良木町、あさぎり町の3町の農業用水、防火用水などに使われている
4
A
片子嶽隧道
・跡
へんこだけ
鹿児島/姶良市
上溝
素掘トンネル
(水路)
長200m以上
文禄2(1593)
市教委
非現役/
写真
は吐口
下記の「片子嶽隧道修理の碑」で、トンネルが200m以上にわたり崩れたとあるので、全長はそれ以上
2
C
片子嶽隧道修理の碑
へんこだけ
鹿児島/姶良市
片子嶽隧道
石碑
享保11(1726)
姶良町教委
(正面)「夫隅州姶羅郡帖佐 平松村及餅田村新田往昔辺河嶽穿為用水溝 其貫中有/土岩凡百
□□
三間 上石時々隧而水没 故以材木其危年々停財用人夫之隙/勝難計且究意之
□
若有破損者田民患不少 今亦新貫掘者其
□
□
山如仰費
□
/而永令
□
輙
□
□
日合議之末
□
加治木石工竹内藤左衛門尉呼談日貫左右石/塁以割石成 天井者六尺五寸一尺二寸角 加治木自蔵王嶽取之万代不易而/有何煩則為之入用看算而以許之上応如響 中江氏藤原員倫奉之今歳丙午仲/夏吉辰工発既至今日 速成就之以国民令快楽云耳 是則吾邦君分内石貫之/始成」/享保11、トンネルが200m以上にわたって崩れたので、中江員倫が工事奉行として、長1.9m(36㎝角)の石材を用いて修復した際の記念碑
1
C
獺貫の切通しのトンネル
うそぬき
鹿児島/姶良市
獺貫の切通し
(天然の地形)
素掘トンネル
(水路)
長218m
寛文3(1663)
加治木町教委/WEB(みさき道人)
現役/宇曽木発電所の放流水路(人工の滝)で吐口は隠れて見えない
木田地区に水を引くため、池田助右衛門がカナヅチとノミで、4年がかりで切通しの中を掘り抜いたトンネル
4
C
篠井手用水の隧道
しのいで
鹿児島/南九州市
万之瀬川(右岸)の清水磨崖仏の中
素掘トンネル
(水路)
長173m
寛文3(1663)
市史跡
市教委(文化財ガイド・川辺p14-15)
現役/吐口をアーチ状に改修
蝋燭の光で高低差を身ながら掘り進めたと伝えられる
2
C