樋門 

   都道府県別データ一覧にあるすべての樋門・樋管

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 酒匂堰取水口・跡 さかわ 神奈川/
(足柄上)大井町
生涯学習センター・南側<酒匂川・左岸堤防> 石取水口
(水路トンネル)
長約10m(当初),全幅5.78m(3門) 慶長8(1603) 町重文 町教委/南足柄市教育委員会 もともと下記の「酒匂川の三角土手」の南に所在していた→足柄大橋建設の際に発掘調査→全長10mの一部を移設・復元 酒匂川に築かれた酒匂堰から左岸側に取水するため堤防に開けられたトンネル状の取水口/3連のトンネルだが、天井が石蓋ではなく合掌式アーチになっている→水路トンネルとして見ると、他に現存する類例は熊本県の幸野溝・旧貫しかない/県内の南足柄市の文命堤の取水口も同型だったことが発掘調査で判明しているため、この地域の独自の技術的発想であったと思われる 3
写真 田用水の樋門   滋賀/守山市 天満宮の北側広場 石樋門 (1門) 文政12(1829)   現地解説板/市教委 移設・復元 文政12の文書に、これまで50年毎に取り替えてきた木樋をやめて石樋にした旨が記されている 3
写真 狭山池の木樋管・遺構 さやま 大阪/大阪狭山市 狭山池博物館 木管 樋管長約60m 推古24(616)頃
→天平宝字6(762)改修→弘仁8(817)改修
府考古資料 狭山池博物館常設展示案内 博物館内に保存展示/堤体解体補強時に発掘 狭山池創建時に設けられた樋管: コウヤマキの丸太のくり抜き(長約60m)→年輪年代測定により616年に切り倒されたことが判明→狭山池の築造年代を確定/天平宝字の改修(土堰堤の嵩上げに伴う底幅の拡大)の際に13m延長/天平宝字に延長された樋管の取水部から弘仁8の木材が発見→継続的な改修を示す
2
写真 狭山池の「六段」の石樋・遺構 さやま、
ろくたん
大阪/大阪狭山市 狭山池博物館 石管 樋管長約65m
→3個
建仁2(1202) 府考古資料 狭山池博物館常設展示案内 博物館内に保存展示/大正・昭和初年の改修時に発見/平成の改修時にも発見 古墳時代の石棺を加工して重源が造った石樋/「段」は長さの単位/建仁2の「南無阿弥陀佛作善集」に記された「石樋」と推定されている
3
写真 狭山池の東樋・遺構 さやま 大阪/大阪狭山市 狭山池博物館 木樋 1段の取水部,樋管全長約64m 慶長13(1608)
→寛永・享保・寛保・文化に改修
府考古資料 狭山池博物館常設展示案内 博物館内に保存展示 江戸時代の狭山池の3つの樋の一つ/背の高い摺柱の間に水の取り入れ口があり、戸関板に取り付けた男柱を上下させて水量を調節した/木樋に続く樋管部は、上記「創建時の木樋管」が丸太のくり抜きだったのに対し、底板、側板、蓋を組み合わせた構造→継ぎ目に「まきはだ」が見られる→船大工の技術
2
写真 狭山池の中樋・遺構 さやま 大阪/大阪狭山市 狭山池博物館 木樋 4段の取水部 慶長13(1608)
→寛永・享保・寛保・文化に改修
府考古資料 狭山池博物館常設展示案内 博物館に保存展示(一部石)/平成の改修で最下段の4番樋のみ発見(大正・昭和初年の改修で1~3番樋を撤去) 江戸時代の狭山池の3つの樋の一つ(4段の尺八樋)/樋門自体は4段の尺八樋/取水部の両側に重源の石棺を使って擁壁が造られている→右手の擁壁石材に「重源狭山池改修碑」を転用(展示はレプリカ)→中世の土木工事に関する貴重な石碑〔博物館内では別途にガラスケース内で展示 2
  狭山池の西樋・遺構 さやま 大阪/大阪狭山市 狭山池博物館 木樋 4段の取水部 慶長13(1608)
→寛永・享保・寛保・文化に改修
  狭山池博物館常設展示案内 博物館に保存展示(部分)/平成の改修で最下段の4番樋のみ発見 江戸時代の狭山池の3つの樋の一つ(4段の尺八樋)/かつて狭山池最大の樋だった/16世紀末~17世紀頃の構造船の棚と呼ばれる船材を再利用 4
写真 後楽園・排水樋管(吐口) こうらくえん 岡山/岡山市(北区) 後楽園 石樋門(木管) 長18m 元禄2(1689)
~享保元(1716)の間
国特別名勝 県教委 全体の4分の1を保存処理して展示予定 後楽園内の水を旭川に戻すための管路/取入部は改修されているため、吐口だけでも現存するのは貴重な存在 2
写真 南方の樋門 みなみがた 岡山/岡山市(北区) 西川用水 <石樋門(花崗岩)> (1連) 17世紀   岡山の石橋p46 本体はRC化/笠石等が再利用 西川用水に残る唯一の本格的石樋門 4
写真 平田樋門 ひらた 岡山/岡山市(北区) 平田新田 石樋門(花崗岩) (2連) 江戸期?   樋口輝久 非現役 樋板が笠石上部の開口部を通して上下する形式(県下では数少ない) 3
写真 祇園大樋・跡
/古田樋尻川の元・西樋
ぎおん 岡山/岡山市(中区) <古田樋尻川> <石樋門(花崗岩)> 長23.5m→一部,幅1.1m,高0.8m 元禄5(1692)   高島公民館 部分移設/C土台の上に、ごく一部のみ復元 施工:津田永忠/沖新田開発に伴う灌漑用水確保のために築造/祇園用水は、古田樋尻川用水・新田用水・後楽園用水の総称 4
写真 神崎分水樋門(仮称) かんざき 岡山/岡山市(東区) 千町派川(中洲) 石樋門(花崗岩) (2連) 貞享元(1684)     樋門そのものは、かなり改修されている 県下に残る建造当初の姿を残した最古の樋門(2連になった中央部が円形に突出している=絵に残る古い樋門の様子を唯一留めている)/見事な護岸石積み 3
写真 元・百間川唐樋の石材 ひゃっけんがわ・から 岡山/岡山市(東区) <百間川河口> <石樋門(花崗岩)> <(20連)> 宝永元(1704)     新河口堰の近くの海辺に並ぶ 沖新田を百閒川の洪水から救うために設けられた大規模な石樋門の残石群 5
写真 幸西東(柿原)水門 こうざい 岡山/岡山市(東区) 幸島新田 石樋門(花崗岩) (2連) 文政12(1829)   樋口輝久 放置 干拓堤防に設けられた排水樋門 3
写真 幸西西(外波)水門 こうざい 岡山/岡山市(東区) 幸島新田 石樋門(花崗岩) (3連) 天保7(1836)   樋口輝久 修景整備 干拓堤防に設けられた排水樋門 2
写真 内尾大水門 うちお・おお 岡山/岡山市(南区) 妹尾川→興除新田 石樋門(花崗岩) 幅約10m(3連) 文政6(1823)頃 選奨土木遺産 馬場俊介 石桁の一部は破断してRCに変更(見えない部分)/上部は現役のトラックも通る道路(県道と市道の境界で、所有者不明のため管理が行き届かない) 花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門/下記の
「小水門」と倉敷市の「倉水門」の3基だけが現存(最古は倉水門)→非常に貴重な存在/長さ10mの花崗岩(60cm×70cm)を用いたダイナミックな構造は、高強度の花崗岩ならではのもの/3連のうち中央の橋下高が舟運のため高くなっている
2 写真
写真 内尾小水門 うちお・こ 岡山/岡山市(南区) 妹尾川→興除新田 石樋門(花崗岩) 幅約10m(3連) 文政6(1823)頃   馬場俊介 上流側の石梁が欠如するなど、上記「大水門」に比べ保存状態が若干劣る/上部は車道だが、「大水門」と比べ大型車両は通行しない 花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門/上記「大水門」の170mほど上流に設置→干拓地の出口にあたるため潮止めの意味があったと思われる 3
写真 妹尾の四ツ樋 せのお 岡山/岡山市(南区) 興除新田 石樋門(花崗岩) (1連) 文政6(1823)頃   馬場俊介 現役風に残る 岡山の典型的な石樋門 2
写真 内尾の樋門 うちお 岡山/岡山市(南区) 興除新田 石樋門(花崗岩) (1連) 文政6(1823)頃   馬場俊介   岡山の典型的な石樋門 3
写真 大曲ひのわ樋門 おおまがり 岡山/岡山市(南区) 興除新田 石樋門(花崗岩) (1連) 文政6(1823)頃   馬場俊介   岡山の典型的な石樋門(小型) 3 -
写真 大樋樋門 おおひ 岡山/岡山市(南区) 米倉新田 石樋門(花崗岩) (2連) 江戸期?   歴史の道6p6   岡山の典型的な石樋門 3
写真 大ヶ瀬一ノ口樋門   岡山/岡山市(南区)   石樋門(花崗岩) (1連) 江戸期?   樋口輝久 現役 樋板が笠石上部の開口部を通して上下する形式(県下では数少ない) 1
写真 新山の分水石 にいやま 岡山/笠岡市 七鍬山→竜王山谷川 石樋門(花崗岩) 幅72㎝(新賀分), 幅34㎝(山口分) 嘉永5(1852)   市教委 水は流れていない 谷川の水を新賀村68%、山口村32%に分ける分水用の水門の跡/石をくり抜いてコの字形 3
写真 亀島樋門 かめじま 岡山/倉敷市 亀島新田 石樋門(花崗岩)   元禄4(1691)頃?   樋口輝久 一部機械化して利用 中央の石柱を両側から梁が2段に挟み、その上に木柱を立てた特異な門扉構造=閘門のように2枚式になっている/両岸の石組も見事 3

写真 倉水門 くら 岡山/倉敷市 六間川 石樋門(花崗岩) 幅10m(2連) 宝永4(1707)   市教委/帯高の歴史 昭和20に一部改修/歩道橋併設/六間川改修に伴い撤去(九州各県と違い農業遺産を大切にしない県民意識の現われ)→残材あり 花崗岩の石梁を大胆に使用した典型的な岡山式の巨石樋門(19世紀の「内尾大水門」より建造年が古く県下で最初の巨石樋門と位置付けられる)/前記「内尾大水門」、「同小水門」と合わせ3基だけが現存→非常に貴重な存在/水面からの高さも特徴/現役の道路橋として使用 5
写真 板敷水門 いたじき 岡山/倉敷市 福田新田 石樋門(花崗岩) 幅10m,深6m
(1連)
嘉永2(1849) 市史跡 WEB コンピナートの一角に残る 奉行・深井忠兵衛/干拓堤防に設けられた排水樋門 2
写真 呼松水門 よびまつ 岡山/倉敷市 福田新田 石樋門(花崗岩) (2連) 安政5(1858)   樋口輝久   奉行・深井忠兵衛/石工・輪島屋重吉/与島の石材を使用/用水吐けの水門 2
写真 ひの輪樋門 ひのわ 岡山/倉敷市 福田古新田 石樋門(花崗岩)   江戸期?   樋口輝久   岡山の典型的な石樋門 2 -
  白石島新開の排水樋門 しらいし 岡山/笠岡市(白石島) 白石島新開 石樋門 幅1m程度 元禄13(1700)   市教委 雑草に覆われている 白石島の干拓にともなう排水樋門 4 -
写真 閑谷学校の市ヶ谷池樋門   岡山/備前市 <閑谷学校> 石樋門(花崗岩)   元禄14(1701)?   閑谷学校 半壊 閑谷学校の上流部にある池の樋門/閑谷学校の洪水防御用との説もあるが、実態は不明 4
  鹿川の南蛮樋 かのかわ 広島/江田島市 (能美町鹿川) 石樋門   安永8(1779)頃   佐伯郡・大竹市の文化財p206/WEB 河川改修工事時に発掘→平成16陸地に再建 永田川と才越川の交わる地点に架けられていた樋門 4
写真 鼻操南蛮樋 はなぐり、なんばん 広島/大竹市 (西栄2丁目)鼻操川 石樋門(2門)   元禄3(1690)   佐伯郡・大竹市の文化財p12/大竹市の文化財p36/市教委 一部を除いて当時の石材を用い石組部分を復元 鼻操川の潮止めとして設けられた樋門で、天保3(1832)の小島新開などの大規模な新田開発まで利用されていた/南蛮樋保存会により石組を復元したが、樋門の開閉機能などの使用は不可能/南蛮車(ろくろ)を樋門に備えていた 3
写真 広村大新開の岩樋水門・跡 ひろむら 広島/呉市 (広名田2丁目) 石樋門   元禄2(1689) 市史跡 WEB/市教委 築造後複数回造り替え→水門の形態を留めない 施主:庄屋大林源蔵/広村大新開開拓工事のために岩樋を削り取って造られた樋門で、汐の干満を利用して生活汚水等の悪水を海に流していた/元禄2(1689)から複数回造り替えがされており、現在残る樋門跡は宝暦9(1759)に造り替えられた時の石/天保13(1842)から翌年にかけて行われた工事の記録が刻まれている 4
  地御前の汐田排水樋門石 じごぜん 広島/廿日市市 (2丁目)今市稲荷社・前<汐田新門> 石樋門(花崗岩)   文政10(1827)以前   WEB 一部の石材が残存→樋門を連想させないほど、ごく一部 建立年は、樋門が描かれている「地御前村絵図」(文政10)以前としか分からない 4
写真 草深の唐樋門 くさぶか 広島/福山市   石樋門   寛文元(1661) 県史跡 WEB/市教委 保存状態良好 福山藩の財政施策として寛文年間頃およそ50haの干拓が行われたもので、この際に山南川の川口を堰止め、造成された新涯地への農業用水調整のために造られた/堤防の東側の一角にがっしりと石垣を積み上げ、水路に石柱や大きな木の柱によって樋門を組み上げ、巻きろくろによって用水を調整した施設 1
写真 名田島新開作南蛮樋・四挺樋 なだじま 山口/山口市 名田島新開作 石樋門 4門,長約6.5m,高1.80m,幅1.26m 安永3(1774) 国史跡 名田島新開作南蛮樋保存管理計画策定報告書p40-41 保存状態良好 干拓地の悪水用の池と、排水用の複数の樋門群が一体として残る貴重な存在/堤防に設けた幅6.44mの樋管を石壁で仕切り4門の樋門としていた/花崗岩を多用した独自の形態 1
写真 名田島新開作南蛮樋・三挺樋 なだじま 山口/山口市 名田島新開作 石樋門 高約5m,東西幅4.3m 安永3(1774) 国史跡 名田島新開作南蛮樋保存管理計画策定報告書p42-43 側壁石垣以外は、数本の石梁を残すのみ 干拓地の悪水用の池と、排水用の複数の樋門群が一体として残る貴重な存在/門柱の無い開水路に縦2枚、横3枚の戸板を用いて3門の樋門としていた/花崗岩を多用した独自の形態 3
写真 尾津開作南蛮樋1 おづ 山口/岩国市 尾津開作 石樋門   文化6(1809)   WEB 改修   2
写真 尾津開作南蛮樋2 おづ 山口/岩国市 尾津開作 石樋門   文化6(1809)   WEB 改修   2
写真 高泊開作浜五挺唐樋 たかどまり 山口/山陽小野田市   石樋門 高6.18m,幅10.81m 寛文10-11(1670-71)
→安政4(1857)増設
国史跡 WEB/山口県の文化財長門部編p13/市教委 当時のまま 高泊干拓(400ha)の潮止め排水門/岩盤を掘削してその上に築いた組石造りの樋門であることから、切貫唐樋とも言う/石柱の間の水門に招き戸があり、扉は潮の干満によって自然に開閉する/造成時は三挺樋だったが、安政4(1857)に排水効率を高めるために五挺樋に増設し、そのまま平成元(1989)まで使用した/招き戸や滑車は木製のため、約5年ごとに修理 1 写真
写真 後潟開作二挺唐樋 うしろがた 山口/山陽小野田市   石樋門   宝暦2(1752)   市教委 当時のまま/両側とも残る 後潟開作/招き戸や滑車は木製のため、何年かごとに修理/海側の見事な石積 2
写真 土手町南蛮樋 どて 山口/(熊毛)平生町 平生開作 石樋門   万治元(1658)? 県有形 町教委/WEB 保存状態良好 大野毛利就頼が慶安4(1651)から万治元(1658)に行った平生開削の際に築造されたと推測/平生開作の開設当初より南蛮樋として築造されたと推測されており、正しければ県内最古の南蛮樋(土手町南蛮樋の南蛮樋としての記録上の初見は明和2(1765))/ロクロの心棒部分と板戸を縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより板戸を上下させて、海水の防御を図る仕組み/ロクロ(南蛮)を使用する点で唐樋とは構造が異なりより精巧な装置/昭和62年に大内川排水機場が完成により使命を終える 1
写真 禎瑞の南蛮樋(大石樋) ていずい 愛媛/西条市 (難波)禎瑞新田→海 石樋門(排水) 幅2.10+2.12+2.14m 安永9(1780)   市教委/ふるさと禎瑞p173-186 一部改造を受けれるが、かつて5基あった樋門中唯一現存、かつ、現役 西条藩祖・松平頼純が紀州徳川家から拝受した御私金をもとに造成した干拓地の排水樋門/全国的に見ても最大級の石樋門 1
写真 中井の井口・跡
(中川第二水門放水口)
なかゆ 高知/香美市 山田堰記念公園
<中井>
石樋門   寛永16(1639) 県史跡   昭和59に移設・部分復元 天井石に「山田郷井之口水道之開基/國主松平土左侍従源忠義/小倉少介/片岡加右衛門/安田四良左衛門/奉行/渋谷長右衛門/祖父江久右衛門/よこめ/仲嶋六兵衛/寛永十六年仲春如意珠日」と陰刻 2
写真 老司の石井樋 ろうじ 福岡/福岡市(南区)   石樋門(4門)   17世紀初頭?   WEB(筑前国境石散歩)/現地解説板 樋門の部分が水没し、石梁の部分のみ見える 老司川からの取水樋門/老司井堰と同時期に築造されたと推定される/佐賀市の多布施の石井樋と良く似た構造 3
写真 猿喰新田潮抜き穴 さるはみ 福岡/
北九州市(門司区)
猿喰湾干拓 石樋門
(トンネル、樋門)
(4基→2基) 宝暦7-9(1757-59)頃 市史跡 市教委/現地解説板 残存する2基の保存状態は良好/写真は上が海側、下が陸側。陸側の右がトンネル工法の1号樋門、左がオープンカット工法の2号樋門で、構造の違いが映像でもよく分かる 猿喰新田開作:大里村庄屋・石原宗祐が、飢饉に苦しむ農民を救うため、庄屋を辞し私財を投じて行った干拓事業(33ha)/猿喰湾を長さ430mの堤防で締切り新田とした/堤防の両端に造られた排水用の暗渠(各2基)のうち東側の2基が残る/1号樋門は岩盤をトンネル状にくり抜いた構造で長さ約30m、2号樋門はオープンカットで造り板石の側壁上に天井石を載せた構造で長さ21.5m/唐樋と呼ばれる招き戸が、潮の干満によって開閉する構造 2
写真 多布施の石井樋 たふせ、いしい 佐賀/佐賀市 (石井樋公園)
<嘉瀬川→多布施川>
石樋門 長10.3m,
高1.0m(3門)
元和年間(1615-24)?   現地解説板/WEB 平成17、石井樋地区歴史的水辺整備事業により復元 佐賀城下向けの生活・灌漑用水の取水樋門(全国でも最古級の石樋門→河川から直接引水場所に設けられた石樋としては現存最古/成富兵庫茂安の水利土木事業の技術的頂点 2 写真
写真 小寺川の井樋 こでら 佐賀/佐賀市 (石井樋公園) 石樋門 1門 江戸後期   現地解説板 同上 灌漑用/流速減少と沈砂促進のため、引き込み部分を長くした 2
写真 茂手の石井樋・跡 もで、いしい 佐賀/武雄市 六角川(右岸)
<三方潟の開発>
石樋門   寛永2(1625)   島谷幸宏/
現地解説板
覆石のみ展示 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路である生見川の始点に設置 4
写真 生見の石井樋 いきみ、いしい 佐賀/武雄市 六角川(右岸)
<三方潟の開発>
石樋門 2門 寛永2(1625)?   島谷幸宏 石材が一部離散 成富兵庫茂安により考案された潮留め+灌漑+洪水防御を兼ねたシステムの一環/洪水時の右岸側放水路である生見川の末端に設置 2
写真 井樋橋(南田尻の井樋) いび(みなみたのしり) 熊本/熊本市(西区) 潤川 石樋門
(上流側:安山岩、下流側:馬門石)
幅11.5m(3門),
奥行4.0m,高4.1m
慶長13(1608)
→文化4(1807)改修(馬門石はその際の追加?)
  市教委 良好/現在も防潮樋門として活用 加藤清正/潤川流域の灌漑用に築造/全国で現存する樋門の中でも最古級/現在、市指定に向けて調査中であるが、2種類の石材の使い分けの理由が解明されると意義深い 2 写真
写真 馬の瀬堰 うまのせ 熊本/宇土市   石樋門(馬門石) (4門) 江戸後期   市教委 樋柱下部をC補強 梯子木で樋石を上下する方式=このタイプで4門は大きい 2
写真 狐石樋 きつねいし 熊本/宇土市 船場川 石樋門(馬門石) (2門) 江戸後期   市教委 当時のまま 梯子木で樋石を上下する方式 1
写真 横島石塘の石樋門 よこしまいしども 熊本/玉名市 石塘史跡公園
<小田牟田新地干拓>
石樋門(凝灰岩) (5門) 慶長10(1605)起源だが、現存する樋門の最古部(石梁を積層積にした樋柱)も、恐らく江戸末期   WEB(石橋) 樋柱以外の部分は、明治の改修(年代刻印あり)/樋柱の不等沈下が顕著/公園整備で周辺の状況が大幅に変化 加藤清正/横島~久島山間(400m)に石塘を築いて干拓による新田開発を目指した(難工事となったため、人柱伝説がある)/樋門脇の石垣の一部と、護床石は江戸期と推測される/市史跡は石塘(干拓堤防)跡の一部 4
写真 秋丸目鏡橋 あきまる 熊本/玉名市 人道/高瀬裏川 石樋門(凝灰岩) 幅11.7m(1門),
奥行3.7m
天保3(1832) 市重文 WEB(石橋) 裏川の歴史的環境整備の一環で移設・復元(平成10) 石工:嘉八(橋本勘五郎の父)/「目鏡橋」と称されているが、実態は井樋橋(菊池川からの逆流防止・潮止め樋門)/河床に敷石 2
写真 十番開旧樋門 じゅうばんびらき 熊本/玉名市 十番開 石樋門 (2基:2門と1門) 慶応2(1866)   市教委 両脇の石積は近代の改修によるもの 他地域の干拓樋門にない重厚感/近代に造られた末広開樋門群(国重文)もほぼ同じ形態を採用 4
写真 大鞘樋門・殻樋 おざや・から 熊本/八代市 四百町新地開
/大鞘川
石樋門(凝灰岩) 樋体幅11.32m
(5門:開口部幅1.82m-2.02m),
全高5.68m,
樋体奥行5.34m
文政2(1819) 県史跡 市教委 周辺整備 惣庄屋・鹿子木量平、備前石工:高野貞七/備前流=鞘石垣に巨石を使用(名称の由来)/石樋門上の土手を覆う石材が大きいため、現地では「備前流」と称されている。そして、石材が小さな他の2樋門を「合法」と称しているが、これは間違い。備前の干拓樋門は、この部分に巨石は使わない(合法に近い) 1
写真 大鞘樋門・二番樋 おざや・にばん 熊本/八代市 四百町新地開
/大鞘川
石樋門(凝灰岩) 樋体幅6.84m
(3門:開口部幅1.86m-2.07m),
全高4.94m,
樋体奥行3.73m
文政2(1819) 県史跡 市教委 周辺整備 惣庄屋・鹿子木量平、備前石工:高野貞七/石樋門上の土手を覆う石材が小さいため、現地では「合流」と称されている。この間違いについては、上記「殻樋」参照 1
写真 大鞘樋門・江中樋 おざや・こうちゅう 熊本/八代市 四百町新地開
/大鞘川
石樋門(凝灰岩) 樋体幅6.71m
(3門:開口部幅1.87m-2.04m),
全高5.24m,
樋体奥行5.23m
文政2(1819) 県史跡 市教委 4門から3門に改修/周辺整備 同上 2
写真 下井手の井樋 しもいで 熊本/(菊池)大津町   石樋門 (4門) 慶長3(1598)改修     周辺環境(樋門内を含め)が劣悪/屋根が近代化 加藤清正が手掛けた(大規模に改修した)とも言われるが〔下井手は奈良初期の開削→埋没→加藤清正が天正17(1579)~慶長3に改修〕/樋門がいつからあったかは不明/国内に現存する最古級の石樋門/石柱と木梁を組み合わせた珍しい構造/ろくろ登場前の上下スライド式の開閉装置 3
写真 上井手取水口 かみいで 熊本/(菊池)大津町 上井手 石樋門 (5門) 寛永13~承応元
(1636-52)の間?
  歴史の道・豊後街道p.100 樋柱(4本)が良好に残る 加藤清正が構想、忠広(清正の子)が元和4(1618)開削に着手、細川忠利に受け継がれて完成した上井手の取水樋門 2
写真 馬場楠井手の取水口 ばばぐす 熊本/(菊池)菊陽町 白川 石樋門 幅13.6m(3門),高約2m(当初) 慶長13(1608)頃
→何度も改修
町史跡 町教委 入口の石梁と、内部の石材を除きC大改修 加藤清正が創建/当初形態不明 4
写真 百太郎溝取入口・旧樋門 ひゃくたろう 熊本/(球磨)多良木町 球磨川→百太郎溝 石樋門(凝灰岩) 幅9.5m,高5.8m
(3門)
1680年代~宝永2(1705)? 町史跡 町教委/歴史の道・球磨川水道p.20 昭和35撤去→主な石材を用いて移設・復元 全国有数の巨石樋門/延長18.9㎞の用水の取水口/名称は人柱となった百太郎に由来/建設年代は、恐らく江戸期というだけで全く分かっていない→1680年代~宝永2(1705)という説が今のところ一番有力 2 写真
写真 鮎ノ瀬井手・旧樋門 あゆのせ 熊本/(球磨)多良木町 球磨川
→<鮎ノ瀬井手>
石樋門(凝灰岩) 幅(内寸1.7m),
高2.9m(1門)
江戸期?   町教委/歴史の道・球磨川水道p23 2本の石柱のみ移設 井出そのものは13世紀末に遡るとされるが、樋門石の時代は不明/百太郎溝の石柱と良く似た形態 4
写真 平野井手の樋門 ひらの 熊本/(玉名)和水町 平野井手 石樋門 開口部幅0.78+0.76m(2門),高1.08m 文化6(1809) 町史跡 町教委/現地解説板 元の水路の横に移設 施主:庄屋・北原松右衛門/昭和62の河川改修で、180年間堤防下に埋もれていた樋門を発掘・復元した 2
写真 沖塘第一樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅12.2m(5門),
奥行5.4m
嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る/平成20頃、石が割れたため一部積直し 施主:惣庄屋・下山群次/大鞘樋門群とよく似た構造/現存施設の建造年代は混合しているが、1ヶ所に7基の樋門が集中して残っているのは稀(7基中1基は完全改修→市の樋門番号に入っていない。実際には、二番と三番の間に現存) 4
写真 沖塘第二樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.0m(3門),奥行3.4m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第三樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅7.0m(3門),奥行3.9m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第四樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅13.3m(5門),奥行4.7m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 保存状態良好/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上/5門の干拓樋門が現存最大級 2
写真 沖塘第五樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) 幅8.6m(3門),奥行3.5m 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 沖塘第六樋門 おきども 熊本/(八代)氷川町 網道新地 石樋門(凝灰岩) (3門) 嘉永5(1852) 町有形 町教委 陸側がC化/陸側の遊水地(悪水溜)と一体化して残る 同上 3
写真 大潟新田の石樋門 おおがた 長崎/佐世保市   石樋門 (3門) 慶応元(1865)   市教委 陸上自衛隊駐屯地内/樋門は修景修復(オリジナル石積は陸側のみ) 同上/石樋門としての形態は独自(他地域に類似のものがない) 3
写真 殿様開き遺構 イビ とのさまびらき 長崎/対馬市 仁位 (土手)+石樋門 推定4tの一枚岩 元禄4(1691) 市史跡 WEB(みさき道人) 当時の実物は残るが、全く整備されていない 現地解説板では対馬藩主・宗 義貞が行った有名な仁位ハロウの干田の遺構と書いてあるが、歴代藩主に「義貞」はいない/干拓堤防に設けられた樋門(イビ)が残る 3