飼馬(野馬土手・捕込)
都道府県別データ一覧にあるCランク以上の飼馬(野馬土手・捕込)遺構
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
羽山岳の木戸跡と野馬土手
はやまだけ
福島/南相馬市
木戸(石垣)、
野馬土手(土手)
木戸
:長約8.5m(北面),長3m(東面),高1.5m
寛文8(1665)頃
市史跡
(木戸跡のみ)
市教委/WEB
木戸跡は片側のみ/石垣が変形してきたため修復→2011.3.11の東日本大地震の影響ほとんどなし
(対比写真参照)
相馬藩の飼馬は千葉のように軍馬飼育のためではなく、5月の申の日を中心に3日間行われた「野馬追」行事のため(中世の軍事訓練に由来)/相馬藩が野馬追原で放牧していた野馬が増え農作物に被害が出たため、第3代藩主・
相馬忠胤
が築かせた土手/住民が原を自由に通行できるよう土手の19ヶ所に設けられた出入口「木戸」の1つ/木戸部分のみ石塀で、そこから90度曲がって数10m土手が残る
2
菖蒲沢の野馬土手
しょうぶざわ
福島/南相馬市
野馬土手(片面が石垣)
長130m,
石垣長146m
寛文8(1665)頃
市史跡
市教委/WEB
保存状態良好
同上/片側のみ石垣で造られた直線土手→形状・構造から野馬土手でないという説も→確かに、千葉・静岡の江戸期の野馬土手に石垣は使われていない→野馬追原の中心だった原町地区と離れている→猪垣に構造が似ている)
2
A
高木戸の木戸跡と野馬土手
たかきど
福島/南相馬市
野馬土手(片面が石垣)、
木戸(石垣)
長70m
寛文8(1665)頃
市史跡
市教委/WEB
木戸跡は片側のみ
同上/高木戸の木戸跡に続き、短い野馬土手(石垣)が続く→形状・構造から野馬土手でないという説も→野馬追原の中心だった原町地区と離れている→猪垣に構造が似ている
2
B
上渋佐の野馬土手
かみしぶさ
福島/南相馬市
桜井古墳公園
野馬土手(土手)
長75m,高1.8m,基底幅5.4m,
上幅1.8m<東西3里,南北1里>
寛文8(1665)頃
市教委/WEB
公園内に保存/外面側の急斜面が割れている
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
3
C
青葉町の野馬土手
あおば
福島/南相馬市
野馬土手(土手)
長90m,高1.5m
寛文8(1665)頃
市教委
残ってはいるが、溝・土手の現状は不明
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
4
C
萓浜の野馬土手
かいはま
福島/南相馬市
野馬土手(土手)
長97m,高1.5m
寛文8(1665)頃
市教委
残ってはいるが、溝・土手の現状は不明
同上/野馬追原の中心だった原町地区内
4
C
下野牧の野馬土手
〔千葉・花見川〕・跡
しもの
千葉/
千葉市(花見川区)
<小金牧>
(長作町~作新小学校)
野馬土手
長100m,130m,土手:高(外)2-2.5m,(内)1m以下,堀幅約2m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・39
・40
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
比較的良好に現存/樹林中に放置されているが堀はよく残る
二重土手/下野牧南端の野馬土手/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
3
C
印西牧の野馬土手
〔印西〕
1
(泉新田大木戸の野馬堀)・跡
いんざい
(いずみしんでん、おおきど)
千葉/印西市
<小金牧>
(草深)
野馬土手
長約200m
延宝元(1673)
市史跡
市教委
/房総の近世牧跡p43
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
堀が明瞭に残る
二重土手/印西牧は明治時代に大規模な開墾が行われ多くの遺構が消滅
2
C
印西牧の野馬土手
〔印西〕
2
・跡
いんざい
千葉/印西市
印西牧
(白幡)
野馬土手
延宝元(1673)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
木下街道沿い
二重土手/印西牧は明治時代に大規模な開墾が行われ多くの遺構が消滅
4
C
上野牧の野馬土手
〔柏〕
1
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(南柏2丁目~松ケ丘5丁目)
野馬土手
長約1㎞,土手:高2m以上の部分あり
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p15・24
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
17号豊四季第一緑地
明確に残る二重土手(一部)→「日本一の野馬土手」とも称される/舌状台地を遮断して造られた土手の代表例/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
1
上野牧の野馬土手
〔流山〕
1
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(南柏2丁目~松ケ丘5丁目)
野馬土手
長約1㎞,土手:高2m以上の部分あり
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p15・24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
保存状態それなりに良好
舌状台地を遮断して造られた土手の代表例/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
B
上野牧の野馬土手
〔柏〕
2
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(篠籠田)
野馬土手
長200m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p19・24
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
篠籠田緑地公園の森の中
三重土手(外側の2条目と3条目の土手間の堀底に土杭列)→篠籠田地区の大堀川に面した台地の土手の特徴/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
3
B
上野牧の野馬土手
〔柏〕
3
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(豊四季~豊住4丁目)
野馬土手
長150m,土手:高約2m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p24
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
住宅地の中にしては保存状態良好
上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
C
上野牧の野馬土手
〔柏〕
4
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(あかね町)
野馬土手
長70m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
道路と道路の間で保存
上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
C
上野牧の野馬土手
〔柏〕
5
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(新豊町1丁目~吉野沢)
野馬土手
長150m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p24
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
放置
T型/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
3
C
上野牧の野馬土手
〔柏〕
6
・跡
かみの
千葉/柏市
<小金牧>
(東部野田線・豊四季駅近く)
野馬土手
長25m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
道路工事で消える土手を自分の敷地内に移して保存
上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
-
千飼牧の野馬土手
〔柏〕・跡
せんがい
千葉/柏市
<小金牧>
(豊四季・一本松)
野馬土手
長40m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p24
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
C擁壁と金柵内
「お放ち馬囲い(御囲い)」→品種改良用など特別な馬を飼育
3
C
中野牧の野馬土手
〔柏〕
1
・跡
なかの
千葉/柏市
<小金牧>
(下田の森)
野馬土手
長250m,土手:高(外)約2m,(内)1m以下,堀:幅(外)約1m,(内)2.5m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p27・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
雑木林の中に土手と堀が明瞭に残る
二重土手/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
C
中野牧の野馬土手
〔柏〕
2
・跡
なかの
千葉/柏市
<小金牧>
(南増尾3丁目~小鳥の森)
野馬土手
長200m,土手:高約1m,堀:幅2.5m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p27・32
逆井南公園の北側に断続的に残る
中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
3
C
高田台牧の野馬土手
〔柏〕
1
・跡
たかただい
千葉/柏市
<小金牧>
(大青田・稲荷山~十余二・伊勢原)
野馬土手
長400m,土手:高1-1.5m
享保年間(1713-36)
房総の近世牧跡p20・23
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
流通経済大学付属柏高等学校
二重土手/享保年間に上野牧から分離/高田台牧は宅地開発のため、『房総の近世牧跡』刊行後に消滅したものも多い
3
B
高田台牧の野馬土手
〔柏〕
2
・跡
たかただい
千葉/柏市
<小金牧>
(正連寺・丸山~正連寺・小袋池)
野馬土手
長150m,土手:高0.5m
享保年間(1713-36)
房総の近世牧跡p23
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
かなり低く土手と認識できにくい
こんぶくろ池(下記参照)に隣接/享保年間に上野牧から分離/高田台牧は宅地開発のため、『房総の近世牧跡』刊行後に消滅したものも多い
3
C
高田台牧の野馬土手
〔柏〕
3
・跡
たかただい
千葉/柏市
<小金牧>
(十余二・下大塚~十余二・南翁原)
野馬土手
長270m,土手:高1-1.5m
享保年間(1713-36)
房総の近世牧跡p23
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
工場団地の敷地の隙間
享保年間に上野牧から分離/高田台牧は宅地開発のため、『房総の近世牧跡』刊行後に消滅したものも多い→特に十余二、高田、松ケ崎は壊滅状態
4
C
高田台牧の水呑場
(こんぶくろ池)
・跡
たかただい
千葉/柏市
<小金牧>
(正連寺・小袋池)
野馬の水呑場
享保年間(1713-36)
房総の近世牧跡p23
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
公園整備
享保年間に上野牧から分離/水呑場で残っているものは稀
1
C
高田台牧の水呑場
(弁天池)
・跡
たかただい、べんてん
千葉/柏市
<小金牧>
(正連寺・小袋池)
野馬の水呑場
享保年間(1713-36)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
こんぶくろ池に接続
享保年間に上野牧から分離/水呑場で残っているものは稀
1
C
油田牧の野馬捕込
〔香取〕
(佐倉油田牧の野馬込)
・跡
あぶたら・とっこめ
(のまごめ)
千葉/香取市
<佐倉牧>
(九美上・駒込)
野馬捕込
面積4016㎡,土手:高3.6m(18世紀末)→約2m
永禄年間(1558-70)
県史跡
市教委(平成12年度事業報告Ⅺp33-36)
/房総の近世牧跡p47・48・50
良好に残存しており原状を良く留めるが、土手内部は密林化
入口に四角形をした捕込場、その奥に三角形をした分込場と溜込場を配置→三角形(各辺50m×60m×70m)は珍しい
3
B
油田牧の野馬土手
〔香取〕
1
・跡
あぶらた
千葉/香取市
<佐倉牧>
(九美上)
野馬土手
長700m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p50
保存状態最良
L字型/油田牧は田園地帯にあり、『房総の近世牧跡』には多くの野馬土手が紹介されているが、現存が確認できないものが多い
1
A
油田牧の野馬土手
〔香取〕
2
・跡
あぶらた
千葉/香取市
<佐倉牧>
(下小野)
野馬土手
長1800m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p47・49・50
断続的に残る
油田牧は田園地帯にあり、『房総の近世牧跡』には多くの野馬土手が紹介されているが、現存が確認できないものが多い
2
A
油田牧の野馬土手
〔香取〕
3
・跡
あぶらた
千葉/香取市
<佐倉牧>
(九美上)
野馬土手
長300m→110m,土手:高2.1m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p50
縮小
直線状/油田牧は田園地帯にあり、『房総の近世牧跡』には多くの野馬土手が紹介されているが、現存が確認できないものが多い
3
C
矢作牧の野馬土手
〔香取〕
・跡
やはぎ
千葉/香取市
<佐倉牧>
(香取市福田と成田市横山の境界上)
野馬土手
長190m,950m,120m,土手:高1m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
長950mの区間は数か所で断続
矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
2
A
中野牧の野馬捕込
〔鎌ケ谷〕
(下総小金中野牧の捕込)
・跡
なかの、(しもうさ、こがね)、とっこめ
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(東中沢2丁目、初富本町2丁目、東初富1丁目)
野馬捕込
面積7000㎡?(うち、込Ⅱの面積1100㎡),土手:高3-5m
慶長19(1614)
国史跡
市教委/房総の近世牧跡p26・27・29・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
3つの区画のうち第Ⅱ区画がほぼ原形のまま残る/木戸口も残る
千葉県下の野馬捕込遺構の中で唯一の国史跡/『御用書留(1799)』の記述から、当初は溜込のみで、元文年間に捕込を増設したらしいことが推測できる/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
中野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕
1
・跡
なかの
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(初富本町)
野馬土手
長280m
慶長19(1614)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
鎌ケ谷総合病院の駐車場と住宅地の間/全貌がよく分かる
初富の捕込に続く「追い込み土手」?/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
1
B
中野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕
2
・跡
なかの
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(鎌ケ谷市初富境~松戸市串崎新田)
野馬土手
長140m,土手:高2.8m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p28・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
新京成電鉄くぬぎ山車両基地の西側/堀が残る
高さ2.8mは最大級/車両基地の東側にも一部残存/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
C
中野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕
3(下総小金中野牧の野馬土手)
・跡
なかの、(しもうさ、こがね)
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(東初富~初富~初富小学校)
野馬土手
約1.2㎞の中に6ヶ所(長30m,140m,20m,50m,50m,120m)残る,土手:高1.4-2.6m
慶長19(1614)
国史跡
房総の近世牧跡p28・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
初富小学校校庭沿いの部分が国史跡
千葉県下の野馬土手の中で唯一の国史跡/勢子土手/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2-3
C
中野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕
4
・跡
なかの
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(初富)
野馬土手
長160m
慶長19(1614)
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
北総線北側の畑地の中
初富の捕込に続く「追い込み土手」?/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
3
C
中野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕
5
・跡
なかの
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(道野辺中央5丁目~保育園~八幡神社)
野馬土手
長約200m,土手:高(外)1.5m,(内)2.7m,堀:幅約2m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p29・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
裾部は削平~樹林中に放置
二重土手/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
3
C
下野牧の野馬土手
〔鎌ケ谷〕・跡
しもの
千葉/鎌ケ谷市
<小金牧>
(鎌ケ谷市鎌ケ谷5丁目~船橋市二和西6丁目)
野馬土手
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・40
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
断続的、かつ、削平/鎌ケ谷五丁目ふれあいの森
下野牧の捕込から伸びていた野馬土手(捕込自体はほぼ消滅)/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
4
C
東牧の野馬捕込
(嶺岡東牧馬捕り場)
・跡
ひがし
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬捕込
石垣と土手
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
林道でかなり破壊
嶺岡牧は、戦国時代に起源をもつが元禄地震で被災して衰退→徳川吉宗により享保7(1722)に再興命令/一部石垣で造られた捕込の「土手」は千葉では鴨川市のみ/3室構造
3
B
西牧の野馬捕込(嶺岡西牧馬捕り場)
・跡
にし
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬捕込
土手
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
仕切り土手はほぼ消滅
嶺岡牧は、戦国時代に起源をもつが元禄地震で被災して衰退→徳川吉宗により享保7(1722)に再興命令/3室構造
3
C
西牧の野馬捕込(元名馬捕り場)
・跡?
もとな
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬捕込
石垣と自然地形
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
保存状態良好
嶺岡牧は、戦国時代に起源をもつが元禄地震で被災して衰退→徳川吉宗により享保7(1722)に再興命令/3室構造でないため捕込だという確証はない/石垣で造られた捕込の「土手」は千葉では鴨川市のみ
1
B
嶺岡牧の周回野馬土手
みねおか
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬土手(場所により6種類の構造)
周回長27.4㎞,
高0.5-3m
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
山林中に放置的に残る(現在も調査進行中)
嶺岡牧は、戦国時代に起源をもつが元禄地震で被災して衰退→徳川吉宗により享保7(1722)に再興命令/嶺岡5牧のうち東から東下牧、東上牧、西二牧、西一牧の4牧全体の外周を囲む野馬土手/土手とはいうが、この地域のみ、土だけでなく、土砂、石張り、石積などその地域で調達しやすい材料で構築/全長27.4㎞は飛び抜けて全国最大
2
A
東下牧の木戸
(大浦木戸)
・跡
ひがししも
(おおうら)
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬木戸
土手:高約2m
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
/嶺岡牧を歩くp26
保存状態概ね良好
嶺岡牧は、戦国時代に起源をもつが元禄地震で被災して衰退→徳川吉宗により享保7(1722)に再興命令/木戸だという確証はないが、もし木戸だとすれば千葉県内では唯一
2
C
東下牧の水呑場
(津倉池)
・跡
ひがししも
(つくら)
千葉/鴨川市
<嶺岡牧>
野馬の水呑場
池
享保7-10(1722-25)頃
市企画政策課
保存状態良好
水呑場で残っているものは稀
1
C
柳沢牧の野馬土手
〔佐倉〕
・跡
やなぎさわ
千葉/佐倉市
<佐倉牧>
(佐倉市岩富・八街市八街ろの境界上)
野馬土手
長約500m
寛文2(1662)
市教委/房総の近世牧跡p79
佐倉市側が山林で野間土手と判別しにくい
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
4
B
中野牧の野馬土手
〔白井〕
(中野牧野馬除土手)
・跡
なかの
千葉/白井市
<小金牧>
(冨士~鎌ケ谷市立初富小学校西)
野馬土手
長60m,土手:高1m
慶長19(1614)
市史跡
市教委/
房総の近世牧跡p29・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
児童公園内/文化財として整備/市内では保存状態が良好なもの
小規模/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
C
高野牧の野馬捕込
〔富里〕
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬捕込
面積4000㎡,外周約352.5m,土手:高4m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p70・72
/市教委
平成13に史跡整備
全体にL字形(捕込、溜込、払込の3部屋)
2
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
1
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
1
)
野馬土手
長900m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
一部の土手が密林化
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
2
A
内野牧の野馬土手
〔富里〕
2
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
5
)
野馬土手
長600m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
東法面に樹木が密生
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
2
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
3
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
6
)
野馬土手
長500m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
4
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(新橋)
野馬土手
長450m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
個人業者や田畑に侵食
内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
5
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
3
)
野馬土手
長500m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
6
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長400m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
B
内野牧の野馬土手
〔富里〕
7
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
7
)
野馬土手
長150m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
南側が密林化(個人業者の敷地内)
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
2
C
内野牧の野馬土手
〔富里〕
8
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
2
)
野馬土手
長300m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
C
内野牧の野馬土手
〔富里〕
9
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄
4
)
野馬土手
長200m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
「七栄
1
-
8
)は北から順に、捕込(消滅)に向けて漏斗状に(東が広く西が一点に集まるように)造られ、その形態が良好に残っている/内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
C
内野牧の野馬土手
〔富里〕
10
・跡
うちの
千葉/富里市
<佐倉牧>
(七栄)
野馬土手
長200m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p68
土手と樹林が一体化
内野牧は南部の富里市を中心に随所に野馬土手が残る(北部は成田ニュータウン造成で消滅)
3
C
取香牧の野馬土手
〔富里〕
・跡
とっこう
千葉/富里市
<佐倉牧>
(御料)
野馬土手
長600m→140m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p63
開発に伴い順次短縮
取香牧は、明治期になり三里塚御料牧場として馬の種育を続けるが、御料場跡地に成田空港が建設されたことで多くの遺構が消滅した
3
C
高野牧の野馬土手
〔富里〕
1
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(御料)
野馬土手
長600m,90m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
L字形/高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
B
高野牧の野馬土手
〔富里〕
2
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長475m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
B
高野牧の野馬土手
〔富里〕
3
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長425m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
B
高野牧の野馬土手
〔富里〕
4
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉~御料)
野馬土手
長50m,300m,50m,250m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
断続的
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
2
B
高野牧の野馬土手
〔富里〕
5
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(御料)
野馬土手
長75m,175m,25m,50m,250m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
断続的
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
2
B
高野牧の野馬土手
〔富里〕
6
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長375m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
C
高野牧の野馬土手
〔富里〕
7
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長100m,250m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
C
高野牧の野馬土手
〔富里〕
8
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長200m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
保存状態良好
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
1
C
高野牧の野馬土手
〔富里〕
9
・跡
こうや
千葉/富里市
<佐倉牧>
(十倉)
野馬土手
長275→100m,100m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p72
中央部が消滅
高野牧は、寛文2に取香・高野牧が分割されて成立/全体に保存状態は良い
2
C
上野牧の野馬土手
〔流山〕
1
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(南柏2丁目~松ケ丘5丁目)
野馬土手
長約1㎞,土手:高2m以上の部分あり
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p15・24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
保存状態それなりに良好
舌状台地を遮断して造られた土手の代表例/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
B
上野牧の野馬土手
〔流山〕
2
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(江戸川台東1丁目)
野馬土手
長500m,土手:高0.6-1.5m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p15・24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
江戸川10号公園/緑地帯として保存を前提に整備/破線上に残る
低地を囲って造られた土手の代表例/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
B
上野牧の野馬土手
〔流山〕
3
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(駒木台)
野馬土手
長150m,土手:高2m以上の部分あり
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
市街地の隙間に残る
上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
C
上野牧の野馬土手
〔流山〕
4
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(上新宿)
野馬土手
長500m,土手:高1.5m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p15・24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
周辺環境と一体化
享保期以前の牧と村の境界上に築かれた土手/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
2
B
上野牧の野馬土手
〔流山〕
5
・跡
かみの
千葉/流山市
<小金牧>
(長崎1丁目)
野馬土手
長200m,土手:高1m以下
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p17・24/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
保存状態不良
四重土手→稀な構造/上野牧は保存されているものと開発で消えていくものに二分
4
B
取香牧の野馬捕込
〔成田〕
(南三里塚五十石込)
・跡
とっこう、
とっこめ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(南三里塚)
野馬捕込
面積3800㎡,80m×32m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p59・60
・63
杉林と雑草に覆われている
北から溜込、捕込、払込の3室が連続(すべて四角)
4
B
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
1
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(成田市大栄十余三と多古町飯笹の境界上)
野馬土手
長1700m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態概ね良好/野間土手らしい残り方ではない
延長1700mは最大級/大栄十余三地区に大型野馬土手が集中/矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
3
A
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
2
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(成田市横山と香取市福田の境界上)
野馬土手
長190m,950m,120m,土手:高1m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
長950mの区間は数か所で断続/背が低い/木が生えておらず、単独の土手が残るので雰囲気は留める
矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
3
A
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
3
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(一坪田~前林)
野馬土手
長900m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
断続的に残る
矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
3
A
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
4
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(大栄十余三)
野馬土手
長600m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
大栄十余三地区に大型野馬土手が集中/矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
1
B
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
5
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(大栄十余三)
野馬土手
長450m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
大栄十余三地区に大型野馬土手が集中/矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
1
B
矢作牧の野馬土手
〔成田〕
6
・跡
やはぎ
千葉/成田市
<佐倉牧>
(大栄十余三)
野馬土手
長400m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
大栄十余三地区に大型野馬土手が集中/矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
1
B
取香牧の野馬土手
〔成田〕
1
・跡
とっこう
千葉/成田市
<佐倉牧>
(本城)
野馬土手
長550m→340m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p63
開発に伴い順次短縮
取香牧は、明治期になり三里塚御料牧場として馬の種育を続けるが、御料場跡地に成田空港が建設されたことで多くの遺構が消滅した
2
C
取香牧の野馬土手
〔成田〕
2
・跡
とっこう
千葉/成田市
<佐倉牧>
(大清水)
野馬土手
長300m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p63
森林と一体化
取香牧は、明治期になり三里塚御料牧場として馬の種育を続けるが、御料場跡地に成田空港が建設されたことで多くの遺構が消滅した
3
C
庄内牧の野馬土手
〔野田〕
1
・跡
しょうない
千葉/野田市
<小金牧>
(鶴奉~宮崎~中根~横内)
野馬土手
長1500m,土手:高0.2-0.5m,堀:深1m程
慶長19(1614)~17世紀後半
房総の近世牧跡p12/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
日光東往還に断続的に残る(市役所前は修景整備)
土手は低いが堀の断面形は弱いV字状/庄内牧は寛延~安永期(17世紀後半)までに牧内がすべて新田化されたほとんどが消滅
3
A
庄内牧の野馬土手
〔野田〕
2
・跡
しょうない
千葉/野田市
<小金牧>
(堤根)
野馬土手
長600m,土手:高1.2m
慶長19(1614)~17世紀後半
房総の近世牧跡p11-12/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
千葉カントリークラブ梅郷コース南側/庄内牧の野馬土手で最も保存状態が良い
一部二重土手/庄内牧は寛延~安永期(17世紀後半)までに牧内がすべて新田化されたほとんどが消滅
2
B
庄内牧の野馬土手
〔野田〕
3
・跡
しょうない
千葉/野田市
<小金牧>
(木野崎)
野馬土手
長250m,土手:高0.5m,堀:深1m程度
慶長19(1614)~17世紀後半
房総の近世牧跡p11-12
野田市パブリックグルフ場けやきコース内
野馬土手がT字状に交差/庄内牧は寛延~安永期(17世紀後半)までに牧内がすべて新田化されたほとんどが消滅
3
C
庄内牧の野馬土手
〔野田〕
4
・跡
しょうない
千葉/野田市
<小金牧>
(花井)
野馬土手
長約100m,土手:高約1m
慶長19(1614)~17世紀後半
WEB(野馬土手~小金牧の残光)
南部中学校南側/樹木を伐採
直線状/庄内牧は寛延~安永期(17世紀後半)までに牧内がすべて新田化されたほとんどが消滅
3
C
下野牧の野馬土手
〔船橋〕
1
・跡
しもの
千葉/船橋市
<小金牧>
(二和東1丁目~金杉6丁目)
野馬土手
長400m,150m,土手:高2.5m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・38
・40/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
二和小学校の南/背の高い土手がよく残る
野馬を捕込へと追い詰める勢子土手/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
2
B
下野牧の野馬土手
〔船橋〕
2
・跡
しもの
千葉/船橋市
<小金牧>
(大穴南2丁目~大穴小学校東)
野馬土手
長150m,堀:幅4m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・40
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
樹林中に放置
下野牧は都市化に伴い急速に消滅
3
C
下野牧の野馬土手
〔船橋〕
3
・跡
しもの
千葉/船橋市
<小金牧>
(大穴北5丁目~三咲神社)
野馬土手
長150m,土手:高1m,堀:幅1m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・38
・40/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
保存状態悪し
二重土手/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
4
C
下野牧の野馬土手
〔船橋〕
4
・跡
しもの
千葉/船橋市
<小金牧>
(船橋市二和西6丁目~鎌ケ谷市鎌ケ谷5丁目)
野馬土手
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・40
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
鎌ケ谷五丁目ふれあいの森/断続的、かつ、削平
下野牧の捕込から伸びていた野馬土手(捕込自体はほぼ消滅)/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
4
C
下野牧の野馬土手
〔船橋〕
6
・跡
しもの
千葉/船橋市
<小金牧>
(大穴南4丁目)
野馬土手
長120m,堀:幅2m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p35・38
・40
現況不明
二重土手/下野牧は都市化に伴い急速に消滅
C
中野牧の野馬土手
〔松戸〕
1
・跡
なかの
千葉/松戸市
<小金牧>
(六高台)
野馬土手
長220m,土手:高約2m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p27・30
・32/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
オウル五香店の脇/保存状態良好
中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
C
中野牧の野馬土手
〔松戸〕
2
・跡
なかの
千葉/松戸市
<小金牧>
(松戸市串崎新田~鎌ケ谷市初富境)
野馬土手
長140m,土手:高2.8m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p28・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
新京成電鉄くぬぎ山車両基地の西側/堀が残る
高さ2.8mは最大級/車両基地の東側にも一部残存/中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
2
C
中野牧の野馬土手
〔松戸〕
3
・跡
なかの
千葉/松戸市
<小金牧>
(高柳新田)
野馬土手
長100m,土手:高2.6m
慶長19(1614)
房総の近世牧跡p28・32
/WEB(野馬土手~小金牧の残光)
高柳新田 野馬除緑地内に保存/裾部・頂部との削平
中野牧は捕込が中心で野馬土手は小規模だが背の高いものが多い
4
C
柱木牧の野馬捕込
(柱木牧馬捕場)
・跡
かしらぎ、
とっこめ
千葉/南房総市
<嶺岡牧>
野馬捕込
長10m,長5m,長5mの3条の石垣
戦国~江戸期
市史跡
市教委(丸山町史p1370)
/嶺岡牧を歩くp67-69
/房総の近世牧跡p98
保存状態やや良好
傾斜角30度ほどの斜面に沿って約20m間隔で3条の石垣を配した特異な構造/嶺岡牧で繁殖育成された馬の捕獲場/里見時代からあったと推測→徳川期になると毎年5月に実施/石積みあるいは土混じりの石積みの土手
2
B
柱木牧の野馬土手
〔南房総〕
(石堂原馬堀)
・跡
かしらぎ(いしどうはら)
千葉/南房総市
<嶺岡牧>
野馬土手
長200m
戦国~江戸期
嶺岡牧を歩くp63
/房総の近世牧跡p98
全体的に遺存が良い
2重堀/里見時代からあったと推測→徳川期になると毎年5月に実施
2
C
小間子牧の野馬捕込
・跡
こまこ、とっこめ
千葉/八街市
<佐倉牧>
野馬捕込
面積4850㎡,長約756m
寛文2(1662)
市史跡
(一部)
市教委
/房総の近世牧跡p.87
小規模な修復/現在は公園として整備保存
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/3室構造(すべて四角)が明瞭に視認できる
2
B
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
1
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街は)
野馬土手
長100m,575m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
保存状態良好
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
2
B
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
2
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街市八街ろ・佐倉市岩富の境界上)
野馬土手
長約500m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
佐倉市側が山林で野間土手と判別しにくい
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
4
B
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
3(長者堀野馬土手)
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街ろ)
野馬土手
長219m,高2.5m
寛文2(1662)
市史跡
房総の近世牧跡p79
交進小学校敷地内
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
2
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
4(矢崎野馬土手)
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街ほ)
野馬土手
長1547m→200m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
短縮
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
2
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
5
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街い)
野馬土手
長150m,75m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
保存状態やや不良
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
3
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
6
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街い)
野馬土手
長525m→300m,150m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
短縮
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
3
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
7
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街い~八街ろ)
野馬土手
長350m→90m,150m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
寸断
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
3
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
8
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街は~文違)
野馬土手
長150m→100m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
短縮
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
3
C
柳沢牧の野馬土手
〔八街〕
9
・跡
やなぎさわ
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街は~文違)
野馬土手
長150m→100m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p79
短縮
柳沢牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立/市街化のによる消滅が進行
3
C
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
1
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(滝台)
野馬土手
長560m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
保存状態良好
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
1
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
2
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(滝台~山田台)
野馬土手
長375m,75m,150m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
保存状態良好
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
1
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
3
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街へ)
野馬土手
長75m,400m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
保存状態良好
T字形/小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
1
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
4
(小間子牧の袋込)
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街へ)
野馬土手
長125m,50m,375m,75m,150m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
断続的に袋状に残る
捕込に入れられる前に追い込まれる袋状の場所→上記の「小間子牧の野馬捕込」と接して真北に位置/小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
2
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
5
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(吉倉~砂)
野馬土手
長100m,100m,75m,300m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
断続的
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
2
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
6
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街へ)
野馬土手
長525m,150m,275m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
森との境界
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
3
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
7
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街へ)
野馬土手
長525m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
森との境界
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
3
B
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
8
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(滝台)
野馬土手
長320m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
保存状態良好
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
1
C
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
9
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(八街へ)
野馬土手
長175m,200m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
断続
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
2
C
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
10
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(沖)
野馬土手
長75m,175m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
断続
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
2
C
小間子牧の野馬土手
〔八街〕
11
・跡
こまご
千葉/八街市
<佐倉牧>
(沖)
野馬土手
長175m,50m
寛文2(1662)
房総の近世牧跡p87
断続
小間子牧は寛文2に柳沢・小間子牧が分割されたことにより成立
2
C
矢作牧の野馬土手
〔多古〕
1
・跡
やはぎ
千葉/(香取)多古町
<佐倉牧>
(多古町飯笹と成田市大栄十余三の境界上)
野馬土手
長1700m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
延長1700mは最大規模/矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
1
A
矢作牧の野馬土手
〔多古〕
2
・跡
やはぎ
千葉/(香取)多古町
<佐倉牧>
(十余三)
野馬土手
長800m
永禄年間(1558-70)
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
矢作牧は佐倉七牧中最大の牧で、田園地帯のため大型の野馬土手が数多く残っている
1
B
矢作牧の水呑場(赤池)
・跡
やはぎ、あか
千葉/(香取)多古町
<佐倉牧>
(十余三)
野馬の水呑場
永禄年間(1558-70)?
房総の近世牧跡p56
保存状態良好
水呑場で残っているものは稀
1
C
望月牧の野馬除
・跡
もちづきまき
長野/佐久市
勅旨牧
延喜5(905)以前
市史跡
市教委
山中に土居(土手)が断続的に残る
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ/断崖によって自然の柵をなしている部分を除き、周囲を約38㎞に渡って土手を築き、馬が逃げ出すのを防いだもの
4
A
望月牧の野馬除
・跡
もちづきまき
長野/東御市
勅旨牧
延喜5(905)以前
市史跡
市教委
小規模な修復
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ/断崖によって自然の柵をなしている部分を除き、周囲を約38㎞に渡って土手を築き、馬が逃げ出すのを防いだもの
3
埴原牧跡(古屋敷)
はいばら
長野/松本市
埴原牧
勅旨牧
東西約170m,南北36-126m,6段
延喜5(905)以前
県史跡
市教委/長野県の歴史p81
多くの牧で、痕跡がほとんどない中で、野馬除・土居などがかすかに残存
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ/繋飼場→古色が感じられる
3
B
埴原牧跡(千石)
はいばら
長野/松本市
埴原牧
勅旨牧
千石繋飼場:東西181.8m,南北63.6-100m,6段
延喜5(905)以前
県史跡
市教委/長野県の歴史p81
多くの牧で、痕跡がほとんどない中で、野馬除・土居などがかすかに残存
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ/繋飼場→古色が感じられる
3
B
高位牧
たかい
長野/(上高井)高山村
駒寄せ?
延喜年間(901-922)以前
中部の土木史p221/村教委
石積みの塚が残存し、高位牧の駒寄せではないかと思われる
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ
3
B
長倉の牧
・跡
ながくら
長野/
(北佐久)軽井沢町
勅旨牧
長130m
延喜5(905)以前→鎌倉期
町史跡
町教委/信州の文化財/WEB
牧堤跡残存/環境整備
平安初期に設定された勅旨牧の佐久三牧(望月・塩野・長倉)の一つ/朝延への貢馬の他駅馬役馬を産出/牧堤(「駒飼いの土手」 )は、鎌倉時代の浅間泥流上に構築されたと考えられている
2
A
塩野牧
しおの
長野/
(北佐久)御代田町
牧堤
長約50m,高約1.5m,幅約2m
不詳
長野県の歴史p81/町教委
土手が現存しており、塩野牧の駒飼の土手ではないかと言われている
信濃・甲斐・上野・武蔵の4国に8世紀中-10世紀にかけて設けられた勅旨牧の1つ
3
C
元野牧の捕込土手
・跡
もとの
静岡/沼津市
富士通沼津工場・北
野馬土手(捕込)
約40m×約40m
寛政9(1797)
市歴史民俗資料館
/市教委(企画展解説書・愛鷹牧)
愛鷹四牧中、保存状態最良
古代律令期に開設された岡野・蘇弥奈馬牧が放置→享保7(1722)に駿府町奉行・津田外記が愛鷹山を見分→地元で反対→幕府の野馬掛・岩本正倫が愛鷹明神の神主らの強い反対を押し切り寛政8年11月に牧を開設/我溜込→捕込→払込/築造後に改造(3込が横一列から現状に変更)→改造時期不明/払込が最良の形で残る/留込と捕込は一体化し、形態が不鮮明
2
B
尾上牧の追込土手
・跡
おのうえ
静岡/沼津市
旧捕込・北
野馬土手(追込)
長約900m(断続的)
寛政9(1797)
市歴史民俗資料館
竹薮の中に残る(竹薮が土手を保護しているが、逆に視認困難)
同上/愛鷹三牧の一番東側に位置
3
A
元野牧の追込土手
・跡
もとの
静岡/沼津市
富士通沼津工場・北
野馬土手(追込)
長約500m(断続的)
寛政9(1797)
市歴史民俗資料館
捕込に近い部分は消滅したが山中には残る
同上
3
B
尾上新牧の捕込土手
・跡
おのうえ
静岡/沼津市
野馬土手(捕込)
弘化3(1846)
市歴史民俗資料館
/市教委(企画展解説書・愛鷹牧)
捕込の2/3程度が残る
尾上牧の馬数が増加したため、尾上牧の2番目の捕込として開設→後に新牧と通称
3
C
滝の馬垣
たき
京都/(与謝)与謝野町
野馬土手(石塁)
長約8㎞
江戸末期
町教委
江戸期の『宮津事跡記』に、幕府が海防強化を行っていた時期に、宮津藩主・本庄宗秀が軍馬54頭を買い、牧場で放牧を始めたと書いてある
3
B
大山寺門前の博労座
・跡
だいせん、
ばくろう
鳥取/(西伯)大山町
博労座駐車場
牛馬市
享保11(1726)
WEB
空間として残っているだけ(駐車場化)
八代将軍・吉宗の頃、大山の祭日を期して牛馬市を開いたのが起源/最盛期の明治36頃には市が年5回開催され、売買された頭数は1万頭にのぼった
4
B
能古島の古土手
のこのしま、ふるどて
福岡/福岡市(西区)
(能古島)
馬垣(石塁)
約350m
江戸期
WEB
当初の長さは不明
牛や馬を放牧していたときの名残と言われている/鹿垣の北約600mに東西に走る
3
B
豊玉の猪垣
とよたま、
いがき
長崎/対馬市
横浦<長崎牧?>
野馬土手(石垣)
長145+96m,
高1.1m
中世~江戸期
県有形民俗
WEB(みさき道人)
/市教委
残存部の保存状態良好
対馬の農事業で有名な儒者・陶山訥庵の猪鹿追詰の際に築かれた石垣と伝承されてきた/近年の研究では、中世から近世元禄の頃まで設置されていた宗氏の馬牧場の一つ長崎牧の石垣であった可能性が指摘
1
B
旧藩都農牧駒追込場
・跡
つのまき、こまおいこみ
宮崎/(児湯)都農町
(川北)
野馬捕込
径10m,深2m
慶長年間(1597-1615)
県史跡
宮崎県/WEB
昭和11の史跡指定の文書に「旧態ヲ正確ニ存シ」と記載されている/日南のリニア実験線のすぐ脇
高鍋藩が日向灘に面した原野に開いた都農牧の追込場/都農の飼馬の起源は、『延喜式』兵部省に見える官牧「都濃野馬牧」とされているが、現存するものは慶長年間に高鍋藩主により再興され軍馬を飼育していた際の遺構/野馬捕込としてはかなり小規模/大小2つある円環のうち、小さい方は幼馬選別場と推測されている
2
B