林業遺産 

   都道府県別データ一覧にあるすべての林業関連の遺産

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
  奥寺堰の春木場 おくでら・はるきば 岩手/北上市 和賀川 貯水池
(林業遺産)
長約1㎞,幅約120m 延宝3(1675)   市教委 旧春木場は現在樹林化/中央部が畑地/水路の一部が現存 奥寺堰は上記参照/春木場は「春木」(薪)を下流に流すための貯水池=幅約120mの区間に5本の水路が並行して造られた 3
写真 二宮林 にのみや 栃木/日光市 土沢 人工林(ヒノキ)   安政5(1858) 市史跡 市教委 510本のうち180本が現存(大切に保存されている) 二宮尊徳が、植林による将来の生活安定を考え、木曽檜種を蒔き、それを寄植し、今市報徳役所前などに3万本を育成→尊徳の死の2年後の安政5に息子・弥太郎が17ヶ村8町歩の山地・野場地に9000本の檜を植林→この時、土沢取草塚に、門人・志賀三左衛門の指導で510本を植林 1
  土井利勝植林指導地・跡 どいとしかつ 千葉/香取市   植林   慶長7-15(1602-10)
(小見川藩主時代)
市史跡 WEB 保存状態良好 立案・実行: 小見川藩主・土井利勝(後の大老)/仁良村の山林は価値の低い薪炭用の雑木林だった→建築材として価値の高い針葉樹の植林を奨めた 1
写真 飛州下原の中綱場の綱繋石 ひしゅうしもはら・なかつなば 岐阜/下呂市 <御番所>/飛騨川 綱繋石(4基)
(林業遺産)
幅15㎝・深10㎝の刻み込み 江戸期 県史跡 市教委 左右両岸に2基ずつ残る 天領飛騨で伐採した御用木の改め場=飛騨川に長170m、太26㎝の藤綱を張り、一旦流木を止めて1丁1丁確認した→そのための綱を固定するための石/綱を巻きやすいよう、ノミで削られている 1
写真 佐波川関水 さばがわ 山口/山口市 佐波川 流材道(林業遺産) 長約45m,幅約3m 文治2(1186) 国史跡 WEB/調査/市教委/図説山口県の歴史p107 現況からは、流材道であったという状況が全く読み取れない 治承4(1181)に焼失した東大寺の大勧進職に就いた重源が、再建用の巨大な木材(長さ39m、径1.6m)を佐波川の奥地から運び出す際、川を堰き止めて水位を上げ、その一部を開いて細長い水路を造り、川底に平石を敷きつめて材木が円滑に流れる流材道としたもの/佐波川は水深が浅く木材の輸送が困難なため118ヶ所の関水が設けられたが、現在は第一・第二の関水が残るのみ 3
写真 野谷の石風呂 のたに 山口/山口市   石風呂(土盛石室)
(林業遺産)
  文治2(1186)頃 国史跡 WEB/市教委 保存状態良好 下記の「岸見の石風呂」、防府市の「阿弥陀寺の石風呂」と並び、重源由来で現存する3基しかない石室型の風呂の1つ/佐波川関水の下流、中流左岸に造られ、3基中最もオリジナルの状態が保たれている/重源による東大寺用材の伐り出し人夫の疲労回復のために造られ(一種の林業遺産)、事業終了後は病気治療にも用いられた 1 写真
写真 岸見の石風呂 きしみ 山口/山口市   石風呂(石室)
(林業遺産)
幅4.4m,奥行3.6
m,高1.8m
文治2(1186)頃 国重要民俗 WEB/市教委 現役だが構造改変/木造の覆屋は幕末~近代の築造(覆屋築造時に土盛も撤去された) 上記の「野谷の石風呂」、防府市の「阿弥陀寺の石風呂」と並び、重源由来で現存する3基しかない石室型の風呂の1つ/佐波川関水の上流部に造られた。他の2基と異なり、石室上の土盛がなく木造覆屋内にある
→『防長風土注進案』の中の、弘化年間(1844-47)に岸見村庄屋から藩に提出された記述によれば、覆屋はなく、土盛りした上に草木を繁茂させ石風呂を保護したとある/重源による東大寺用材の伐り出し人夫の疲労回復のために造られ、事業終了後は病気治療にも用いられた
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  奥大道自然観察教育林 おくおおどう 高知/(高岡)四万十町 十和小椎尾山 植林
(林業遺産)
  文化8(1811)       国内最古の人工林の一つ/昭和8に森を抜き切りし翌年、スギ・ヒノキ各500本を植栽→藩政時代の上層木と昭和時代の下層木とが立体構造をなす「複層林」として貴重 2
写真 堀川運河 ほりかわ 宮崎/日南市 広渡川河口~油津港 運河
(林業遺産)
長約1.5㎞,
幅22-36m
貞享3(1686)   (財)飫肥城下町保存会/油津2/市教委 良好な景観を構成している堀川橋と石護岸(ともに、国の有形登録文化財)は残念ながら近代の構造物なので、江戸期のものは水面しか残っていない 飫肥藩五代藩主・伊東祐実の命により開削された広渡川・酒谷川河口と油津港を結ぶ運河で、飫肥山中から伐り出された木材(松、楠、植林された杉)を南に突き出た岬を廻り込まずに直接油津港に輸送するためのもの(距離だけの問題ではなく、危険や、木材の流失を伴っていた)/藩士・中村與右衛門と田原権右衛門が堀川奉行に任じられ(人事異動で、中村與右衛門は平部俊英に途中交代)、岩盤区間の開削を伴う難工事を3年で完成させた 2 写真
写真 広渡川石堰堤 ひろと 宮崎/日南市 広渡川 石導流堤
(林業遺産)
長67m→20m 江戸中期 国登録 市教委 半分以下に短縮 堀川運河に流入する水量を調整する目的で広渡川西岸に築かれた導流堤/江戸期の空積が見事 2
写真 牛之峠論所・跡 うしのとうげ、ろんしょ 宮崎/(北諸県)三股町   境界石(尖頭角柱)
(林業遺産)
高220㎝,25㎝角 延宝3(1674)以降   市教委/WEB
/WEB(筑前国境石散歩)
原位置/中央下部で水平折損→修復/本来、日南市に関係の深い遺構であり、分水嶺上に立っているのだが、現在の行政境界では僅かに三股町側に位置する (正面・右面・左面)「従是東 飫肥領」/現在、日南市と三股町の境界となっている分水嶺を、「飫肥と薩摩の藩境とするかしないか」という、分水嶺南東斜面の森林資源を巡る争いを象徴する遺構/日向国にも所領のある70万石の大藩と5万石の小藩との争いは、48年にわたる紆余曲折を経て、幕府裁定により飫肥藩側の全面勝訴となった/牛之峠南東斜面の木材を自由に伐採可能となったことが、堀川運河掘削の直接的な要因である 1