各種鉱山 

   都道府県別データ一覧にあるBランク以上の各種の鉱山(油田を含む)を都道府県順に並べたもの

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 平糠金山・跡 ひらぬか 岩手/(二戸)一戸町   露天掘り、狸掘り(20数ヶ所)、樋or道 露天掘り:長35m,幅5m,樋or道: 長2.5-3㎞,幅約2m 中世末期~江戸期   町教委 露天掘り跡、狸掘り(坑道掘りの原初的な形態)or一部竪坑の跡、樋もしくは道跡、石臼が残る/保存状態は良好だが未整備 東北地方有数の金山/文献的裏付けはないが、南部藩が関係した可能性が指摘されている/江戸期の金採取の3方法(川金、芝金、山金)のすべてが見られる→根地戸川の砂金採取は川金、中腹の掘込み跡は芝金〔上の写真〕、穴子観音のある金山は山金〔下の写真〕 2
写真 赤倉鉱床 露天掘・跡 あかくら 岩手/(和賀)西和賀町 <鷲ノ巣金山> たぬき掘り   中世~江戸初期   WEB(西和賀町) ほぼ垂直な斜面に「たぬき掘り」の坑口が密集して多数残る 平泉の藤原秀衡の時代から採掘されていたと考えられている金山/記録は享保6(1721)の南部藩による銅の産出が最古であり、詳細な調査も行われていない 1
写真 二尺三尺坑道 にしゃくさんしゃく 秋田/鹿角市 <尾去沢鉱山> 坑道 高90cm,幅60cm 慶長4(1599)以降   WEB 観光地化 施主:南部藩/江戸時代に掘られた坑道が完全な形で多く残されている/金山からスタートし、黄銅鉱へ変遷した 2 写真
写真 早房坑 はやぶさ 秋田/湯沢市 <院内銀山> 坑道   寛永年間(1624-43) 県史跡 WEB 立入禁止 江戸時代を通じて日本最大の銀山であった院内銀山で現存する最も古い坑道/安永年間(1772-81)に掘削を休止するにあたり「山の法」に従い埋札を埋めて鉄格子を張った 2
  大切疎水道 おおぎり 秋田/湯沢市 <院内銀山> 水抜き坑 長1644m,高約1.5m,幅約2m 宝永4(1707)   WEB 平成14 橋崩落により接近不可 大切坑は、水抜き坑として宝永4(1707)普請奉行赤石助左衛門によって切り開かれ、大切口より5番坑 (今の御幸坑)までの1.6㎞を4年で完成させた 4
写真 岩崎山金窟址 いわさき、
きんくつ
宮城/(刈田)蔵王町 遠刈田公園 坑道   戦国末期~江戸初期 町史跡 WEB 入坑不可 伊達政宗によって開かれたされている金鉱山/大量の金を産出したが突如熱水が噴き出し、そのまま廃坑になったといわれている/岩山の至るところに坑口があり、「たぬき掘り」の坑道が籠の目のように走っていたことから「籠山」と呼ばれた/明治期には遠刈田温泉の景勝地「籠山の新月」として知られた 3
写真 十枚山産金遺跡 じゅうまいやま 宮城/(本吉)南三陸町 十枚山 露天掘り、坑道   近世以前   WEB 大小の露天掘り跡や複数の坑口が見られる 様々な時代に様々な方法で採金が行われたものと思われる 2
写真 弓折産金遺跡 ゆみおり 宮城/(本吉)南三陸町 童子山 露天掘り   寛永年間(1624-43)以前?   WEB 露天掘りの遺構、石組の堰堤跡が残存/保存状態良好 南側の尾根を縦に切り裂くように掘り進めた跡は規模が大きい 2
写真 延沢銀山遺跡 のべさわ 山形/尾花沢市 <延沢銀山> 坑道   (西山)慶長年間
→(東山)正保4(1647)
国史跡 市教委 当時のまま/観光坑道として一部開放 慶長期に篠田八郎右衛門が試掘/珍しい焼掘りの跡が残る/江戸半ばには衰退し、採掘が止まったため、当時の姿をそのまま残す/慶長年間の開発で、一時は佐渡や石見、生野に匹敵する産銀があったといわれる/間歩(坑道)、疎水等を含む東山地区の一部など3ヶ所が史跡指定 2
  谷口銀山大切鋪・跡 たにぐち・おおぎりしき 山形/(最上)金山町 <谷口銀山> 坑道 66ヶ所→長約90m(現在通行可能) 元和9(1622)→寛永-慶安(1624-51)最盛期→弘化2(1845)廃鉱 町指定 町教委 谷口銀山史跡保存会のより修復 源義経ゆかりの金売り吉次が発見したとの伝承/戦国末期,最上義光時代に試掘/本格化は戸沢氏が入部してから/廃鉱の理由は、水抜きが困難であったため 3
  金鉱山の鉱山 きんこうざん 福島/伊達市   坑道 坑口数100以上 室町期以降   市教委 不明 室町時代に伊達氏により開発/明治以降にも開発/坑口数は100以上あると思われるが、時代の区別は困難  
写真 半田銀山 はんだ 福島/(伊達)国見町
・桑折町
半田銀山 坑道(通常の坑道+排水) 長766m→100m
二階平鋪
江戸期〔二階平坑は安政元(1854)〕 町史跡 町教委/WEB 平成10の豪雨による倒壊後、平成13に改修復元(江戸期の状況に復元したか、明治期の状況に復元したか不明)/二階平鋪はかつての半田銀山で、開口されている唯一のもの 日本三大銀山の一つ(石見・生野)/天文2(1534)に地元・北半田の野村甚右衛門が鉱脈を発見/上杉景勝が慶長3(1598)に伊達・信夫の2郡を領有→領内の半田銀山の開発に着手/延享2(1723)に幕府が生野銀山の山師・勘兵衛らを派遣→半田銀山とその周辺を直轄領とし佐渡奉行の支配下におく/天保14(1843)の新鉱脈発見で日本3大銀山の1つに/二階平鋪開坑の10年後には産出量が大幅に減少し、幕府は経営を放棄 3
写真 草水の煮坪 くそうず・にえつぼ 新潟/新潟市(秋葉区)   油田(自噴) 1ヶ所 慶長13(1608) 市史跡 市教委/WEB 当時の油出量はないが、今でも油が池状に溜まっている 新津地区の石油の原点/全盛時には水と石油と大量のガスが混じり合って1m余りも噴き上げていたとされる/新津油田は日本一の出油量を誇っていた 2
  上田銀山間歩群 うえだ 新潟/魚沼市 <高田藩> 坑道 船着場に1坑,
他6坑
明暦2~安政6(1656-62) 市史跡 市教委/WEB ダム建設により多くが湖底に沈む 高田藩、会津藩の国境未確定地帯で銀鉱脈が発見されたため、国境争いが巻き起こり、裁定により只見川の中央が国境となった/只見川を挟んで対岸は会津藩領の白峰銀山 2
写真 妙法寺の草生水献上場 みょうほうじ・くそうずおんじょうば 新潟/柏崎市   油田(自噴) 1ヶ所 天智天皇7(668)以前? 市史跡 現地解説板/WEB 公園整備 窪地に自噴した石油が溜まっている/かやの穂先ですくい取り、灯油や防腐剤に使われていた/天智天皇への献上記録が日本書紀に記載されているが、黒川の臭水油坪と当地どちらが正しいか不明/現存する3ヶ所のうち最小規模 2
写真 西三川砂金山 にしみかわ 新潟/佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 砂金山   平安末期~明治5(1872)   市教委/WEB 近世の山を切り崩した跡や水路、溜池などが残る 大規模な砂金採取が行われた鉱山跡/西三川では平安期から砂金採りが行われており、江戸期には山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流す事により土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた 3
写真 鶴子銀山の露天掘り遺構 つるし 新潟/佐渡市(佐渡島) <鶴子銀山> 露天掘り   天文11(1542)頃   市教委/WEB 百枚間歩(埋設)の周辺に露天掘り跡が無数に残存する 鶴子銀山は相川金銀山が開発されるまで佐渡で最大だった鉱山/文禄4(1595)に横穴式の坑道掘り技術が伝えられたことにより、それ以降銀の産出量が急増したと言われている 2
写真 道遊の割戸 どうゆう・われと 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り 幅約30m,
深約74m
慶長6(1601) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
WEB/図説新潟県の歴史p145 非常に良好 世界遺産を目指す佐渡金山のシンボル的存在/山が2つに割れた様に見える露天掘り跡/慶長6にこの地で金銀鉱脈の大露頭が発見された事により、相川金銀山(佐渡金山)の開発が始まった 1 写真
写真 父の割戸 てて・われと 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り   慶長6(1601)   WEB 保存状態良好 山師・弥次右衛門/相川金銀山開発の発端となった金銀鉱脈の大露頭のひとつ/慶長6に道遊の割戸と同様に発見され、露天掘りで採掘された 2
写真 大切山坑 おおぎりやま 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 坑道 鉱脈まで長400m
以上
着手:寛永8(1631)、
着脈:慶安2(1649)
  現地解説板/WEB 入口を鉄柵で封鎖 開削:山師・味方与次右衛門/大切鉱脈まで400m以上あるため、坑道断面を大きくし、通気のために並行して掘った坑道と所々貫通させている 3
写真 青盤鉱脈 しょうばん 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 露天掘り   江戸初期   現地調査 金鉱脈の規模は道遊脈よりも大きいとの説もある 近世に散発的に露天掘りされただけで放置 2
写真 宗太夫坑 そうだゆう 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 坑道(展示用坑道12ヶ所) 坑口:高3m,幅2m 元禄初頭(1690代) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
現地解説板/WEB 観光用整備/将棋の駒形の小坑道、狸穴、空気坑などが部分的に残る 人形展示を多用→分かりやすいが歴史遺産としては不適格/佐渡金山最大最良鉱脈がある割間歩坑の一鉱区/それまでの佐渡金山の坑道にはない大型坑道であり、排水運搬等を考えて斜坑道になっている 3
写真 黄金沢百枚間歩・跡 こがねさわ 新潟/佐渡市(佐渡島) <新穂銀山> 坑道   江戸期   市教委/WEB 保存状態良好(入坑可能) 新穂銀山は相川金銀山が発見されるまで鶴子銀山と共に佐渡で最も栄えた鉱山の一つだった 1
写真 南沢疎水道 みなみざわ 新潟/佐渡市(佐渡島) <相川金銀山> 素掘トンネル
(側歩道付排水路)
長約1.1㎞,
高2.4m,幅1.8m
元禄9(1696) 国史跡
(佐渡金山遺跡)
市教委/WEB/歴史の道12p14 吐口の一部が近代レンガもしくはCアーチで補強 計画:佐渡奉行・萩原重秀、測量:静野与右衛門/金山の坑内排水処理を目的とした水路隧道/このような規模の排水隧道は例がない/断面は「将棋の駒型」 1 写真
写真 金山江・跡 きんざんえ 新潟/佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 水路 長12㎞→部分的に残存 江戸期   市教委/WEB この種のもので、国内に良好に現存する唯一の遺構 山師・味方但馬によって開削された砂金採取のための用水路/山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の水源~堤までの水路に該当 2
写真 五社屋堤・跡 ごしゃや 新潟/佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 土堤   江戸期?   市教委 選鉱用水の貯水・管理用の小溜池の跡(埋め立てられて堤のみ残る)
〔写真の左奥が堤、手前が池〕
山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の「堤」に該当する施設(鉄穴流しと違い比重が重いので崩した直後に選別可能) 3
写真 杉平堤・跡 すぎひら 新潟/佐渡市(佐渡島) <西三川砂金山> 土堤   江戸期?   市教委 選鉱用水の貯水・管理用の小溜池の跡(埋め立てられて堤のみ残る)
〔写真の左が堤、右が水路〕
山を崩し、上流から堤に溜めた大量の水を流すことにより土砂と砂金を選別する「大流し」という方法が用いられた→この際の「堤」に該当する施設(鉄穴流しと違い比重が重いので崩した直後に選別可能) 3
写真 黒川の臭水油坪 くろかわ・くそうずあぶらつぼ 新潟/胎内市 シンクルトン記念公園 油田(自噴) 2ヶ所 天智天皇7(668)以前? 国史跡/県天然 市教委/WEB 公園整備 自噴した石油が窪地に溜まっている/溜まった石油を乾燥させた「カグマ」(リョウメンシダの葉)に付着させて採取し、灯油や木材の防腐剤として使われていた/天智天皇への献上記録が日本書紀に記載されているが、妙法寺の草生水献上場と当地どちらが正しいか不明 1 写真
写真 大切坑 おおぎり 新潟/村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道 高175㎝,幅130㎝(坑口から約100m区間) 16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/長212mに入坑可能(ヘルメット着用) 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑口から長100mほどが高175㎝、幅130㎝のきれいな長方形断面になっており、その先は枝分かれした「たぬき掘り」が続く/金山の最下部に位置しているため排水路の役目をしていると言われている 1
写真 黄金坑(大千畳坑 ) おうごん
(だいせんじょう)
新潟/村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道 高約2m,幅約2m 16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る(入口のみ近代化)/長89mに入坑可能 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑内に近世と思われる坑内選鉱場が残る/高約2m,幅約2mの正方形に近い断面の坑道から「たぬき掘り」の坑道が分かれている/坑内の広い空間が「大千畳」と呼ばれている/第二次大戦時に採鉱を試みたと言われており、当時新設された坑口が残る 3
  あさひ坑   新潟/村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 大同2(807)に出羽の国住人・相之俣弥三郎により発見されたと伝えられる/上杉氏の領地であった天正(1573-92)~慶長(1596-1615)には全国一の産金量を誇ったと言われている/近代に以降にも度々試掘されたものの、再興には至らなかった 4
  センノキ坑   新潟/村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 落盤が多いものの、江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/坑口にセンノ木の巨木があったためセンノキ坑と名付けられた 4
  小千畳坑 しょうせんじょう 新潟/村上市 ゴールドパーク鳴海
<鳴海金山>
坑道   16世紀末~元和2(1616)   朝日村教育委員会/WEB 江戸初期の坑道がほぼそのまま残る/入坑不可 鳴海金山としては上記「あさひ坑」参照/黄金坑の下部に位置している/坑内の広い空間が「小千畳」と呼ばれている 4
写真 亀岡の銅蔵 かめおか 群馬/太田市 <銅山街道> 銅蔵(土蔵造切妻屋根瓦葺) 間口5.4m,奥行3.6m 天保14(1843)以前   WEB(鎌倉街道上道)/現地解説板 原位置(個人宅内)/屋根を板葺から瓦葺に変えた以外は良好に保存 足尾銅山の「御銅」を利根川の前島河岸まで継送するため銅山街道に設けられた銅蔵の1つ 2
写真 仲平坑道 なかだいら 栃木/(那須)那珂川町 武茂金山(大内) 坑道   戦国末期~江戸初期   町教委(古代産金と武茂郷) 保存状態良好(10m以上奥は未調査で状況不明) 戦国末期の佐竹氏の権勢を支えた金山群(現在の茨城・福島にも広がる)の一つ 1
写真 田作坑道 たのさく 栃木/(那須)那珂川町 武茂金山(大山田上郷) 坑道   戦国末期~江戸初期   町教委(古代産金と武茂郷) 保存状態良好(10m以上奥は未調査で状況不明) 戦国末期の佐竹氏の権勢を支えた金山群(現在の茨城・福島にも広がる)の一つ 1
写真 木葉下金山の坑道・跡 あぼっけ 茨城/水戸市   坑道 30-40ヶ所 室町末期   市教委/WEB 小規模な坑道が点在 佐竹氏により開かれたが金鉱で、後年、豊臣秀吉に上納する金のため、多くの坑道が掘られた 2
写真 黒谷の和銅採掘露天掘・跡 くろや 埼玉/秩父市   銅露天掘   和銅元(708) 県旧跡 市教委/WEB 南東面にそそり立つ和銅山に、2条の露天掘跡(露出した自然銅の断層)が山頂に向かって続く 『続日本紀(巻4)』に、武蔵国秩父郡から、和銅が朝廷に献上された旨が記されている→黒谷の和銅採掘露天掘・跡はその比定地(この場所が銅の採掘場であった証拠はないし、さらに、そうであったにせよここの銅から銅貨が鋳造された証拠はさらにない) 3
  黒川金山 くろかわ 山梨/甲州市   金山   15C末~16C末 国史跡 市教委/WEB 坑道跡が残存(立入禁止) 武田軍の軍資金として使われた/16C末には衰退 3
  金山平の金鉱
かなやまだいら 山梨/北杜市   金山   戦国期   WEB 露天掘跡、坑道跡が複数残る 武田氏が甲州金を鋳るため、数千人の人夫を送り込み採掘させたといわれる 3
写真 中山金山 なかやま 山梨/(南巨摩)身延町 <湯之奥金山> 金鉱 露天掘り77ヶ所,坑道16ヶ所 元亀2(1571)以前→17世紀中頃が盛期→17世紀末終焉 国史跡 WEB 露天掘り跡、坑道跡とも、保存状態良好 武田軍の軍資金として使われた=鉱山そのものは、信玄以前(16世紀初頭)から存在していた/戦国期の鉱山の姿を残している(露天掘りから始まり、地表面に出た鉱脈を追った「ひ押し掘り」へと進歩) 2
写真 内山金山 うちやま 山梨/(南巨摩)身延町 <湯之奥金山> 金鉱 露天掘り 戦国~江戸期   WEB 坑道跡は10ヶ所前後→土石流で荒廃/アクセスは不可能に近い(上の写真は現況、下の写真は同位置の土石流被災前の坑口) 同上/最も大掛かりに採掘された金山で「中山千軒」という表現も伝わっている 4
写真 龕附天正金鉱坑・跡
(柿木間歩)
がんつき 静岡/伊豆市   坑道   天正5(1577) 市史跡 WEB/現地パンフレット 現役のまま津波で埋没し、近年掘り起こしたため、原形が完全に残っている稀有な例 伊豆最古の手掘り金山/奥行き約100mの坑内には空気の対流を考慮した逆さ階段・換気壁などがある/石切り場も残る/金山の多いことが伊豆の代表的な地域性 1 写真
写真 龕附天正金鉱坑の釜屋敷・跡 がんつき 静岡/伊豆市   精錬施設       現地解説板   金銀鉱石を砕いて細かくしたものを水銀に接触させた上で精錬する「混汞法」で地金を作っていた遺構 3
  大名坑 だいみょう 静岡/(賀茂)河津町 <縄土金山> 坑道 幅4.5m,高3.6m 慶長期(1596-1615)   町教委 地震後、崩落の可能性から立入禁止状態 慶長年間に最盛期を迎えた伊豆を代表する金山/家康が自慢したというだけあって4.5m×3.6mのきれいな四角の断面の水平坑道は異例かつ立派/大名坑のある運上山には、文書によれば間歩11と記録され、今でも喜左ヱ門坑、八貫間歩、柿木坑、運上坑等の間歩が残っているとされるが実態は不明 4
写真 仙右衛門鋪・跡 せんうえもん 三重/いなべ市 <治田鉱山> 坑道   慶長以前~江戸期   市教委
/WEB(やぶこぎネット)
平成19の集中豪雨で大きな被害を受け、接近困難な場所も多くなった 元禄・寛保年間に、全国でも有数の産出量を誇った/仙右衛門鋪(長256mの主坑道)、大通洞坑、三神谷口の焼釜などがあった/喜左衛門鋪は唯一残った坑口 2
  水車谷鉱山・跡 すいしゃ 三重/熊野市 紀州鉱山 鉱山   江戸中期~後期 県史跡 市教委/
県石造物調査報告1p48
-49
近代に入り廃村となった鉱山遺構としては残りがいい 主として銅を産出/間歩が多く存在/精錬炉跡・各種石造物も残る 2
写真 丹生篠原の水銀採掘坑群・跡 にう、
しのはら
三重/(多気)多気町 (篠原) 狸掘(27ヶ所) 最大のもので坑口幅8m×7m,深2m(丹生最大) 平安期~室町期   県教委 周縁部も含めた「丹生水銀」全体の採掘鉱跡は183ヶ所→そのうちの最大の地区が篠原 古代から鎌倉時代にかけて日本を代表する水銀の生産地だった/『続日本紀』の698年の項、『延喜式』の905年の項に伊勢からの水銀献上が記載/奈良の大仏の再建時に用いられた水銀はすべて伊勢産/平安後期の『今昔物語』にも説話の中で登場/室町期になると文献史料が急減し、近世には休止/昭和戦後に2回復活 1-4
  御前下坑道・跡 ごぜんした 石川/
(羽咋)宝達志水町
<宝達金山> 坑道   戦国末期~17世紀末期   町教委
(押水のあゆみp134-136)
坑口付近の崩落が進む 宝達金山そのものは永正元(1504)頃より露天掘りによる採鉱が始まったと推測されているが、坑道掘り移行した時期は不明/採掘を行っていた技術者(「宝達者」と呼ばれる)は、加賀藩内の多くの土木事業に関与したとされる 4
写真 慶寿の堀切(慶寿ひ)・跡 けいじゅ 兵庫/朝来市 <生野銀山> 露天掘り 長約1㎞ 永禄10(1567) 市史跡 現地調査/WEB 銀の鉱石を掘り出した跡(溝)が、遊歩道を挟んで両端に保存 生野銀山は大同2(807)に開坑されたとされる鉱山/公開坑道全長1000m、未公開坑道まで含めると総延長350㎞、深880mを誇る/頂部から内部の坑道に入っていた/特有のシダが生えている 1 写真
写真 滝間歩坑・跡 たきまぶ 兵庫/朝来市 <生野銀山> 坑道   慶長8(1603)→坑口は近代   現地調査/WEB 公開坑道→内部は観光用に改変(近世の狸堀の跡が数多く見られる) 不動滝の付近にある坑道/生野銀山については「慶寿の堀切」参照 3
写真 国崎の間歩群・跡 くにさき 兵庫/川西市 <多田銀銅山> 間歩 坑口:55ヶ所 古代~近世   市教委 国崎クリーンセンター内散策路の2基のみ見学可能/造成に伴う盛土により7基埋没/山中にその他多くの間歩が残るものの未整備のため入山禁止 多田銀銅山は、長暦元(1037)以前から採掘されている兵庫県川西市北部から猪名川、箕面市の10数㎞四方の広範囲に広がっていた鉱山/近世の文献では2000ヶ所以上の間歩があったとされる/江戸期には幕府直轄領となった/国崎地区は近代以降大鉱山として発展しなかった事から近世以前の間歩が多く残るとされる/坑道断面が幅2尺、高3尺(60.6×90.9㎝)のため、近世の間歩であると考えられている 3
写真 瓢箪間歩・跡 ひょうたん 兵庫/(川辺)猪名川町 <多田銀銅山> 間歩   室町期   現地解説板/町教委/WEB(日本鉱業史要) 進入不可/坑口を厳重に封鎖 室町期に採掘が始められ、秀吉が統治していた永禄から天正期に最盛期を迎えたとされる/産出が多大であったため秀吉から先山(せんざん)・原丹波、原淡路父子に馬印の千成瓢箪が与えられ、これを坑口に立てたところから名付けられた/多田銀銅山については「台所間歩」参照 3
写真 台所間歩・跡 だいどころ 兵庫/(川辺)猪名川町 <多田銀銅山> 間歩   戦国期以前   現地解説板/町教委/WEB(日本鉱業史要) 進入不可/坑口から鉱物の光る坑道が続くのを見る事が出来る 多田銀銅山は天正年間(1573-92)に銀の産出が盛んとなり、豊臣秀吉が直轄領とした鉱山/台所間歩の税収で大坂状の経費が賄えるほどであったため、台所を支える間歩としてこの名がつけられたとされる/猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町にまたがる10数㎞四方に広がっていた鉱山であったとされる 2
  鷺銅山堅坑・跡 さぎ 島根/出雲市 (大社町鷺浦) 黒鉱の竪坑   大永6(1526)~昭和初期   市教委/WEB 杉林のなかに、竪坑坑口が残る(立入禁止) 石見銀山のさきがけをなした古い銅山/現存する竪坑の年代不明 4
写真 本間歩・跡 ほん 島根/大田市 <石見銀山> 坑道   戦国末期? 世界遺産
国史跡
WEB 大きな坑道入口 開発時期は不明だが、上部に露天掘りの跡があることから、16世紀前半に遡る鉱脈を、戦国末期に坑道化したとも推定できる(各地の鉱山と比較しての推定) 1
写真 大久保間歩・跡 おおくぼ 島根/大田市 <石見銀山> 坑道 長900m,
高(最大)5m
慶長6(1601)以前? 世界遺産
国史跡
WEB 限定的(長150m)に観光開放 慶長6(1601)に初代・石見奉行に任じられた大久保長安が槍を持って馬に乗ったまま入ったという伝承(名前の由来でもある)/坑内には江戸期と推定される坑道が縦横に走る/主坑道は坑口から約150m地点で落盤/坑口から50mの所に明治期の竪坑・斜坑 1 写真
写真 釜屋間歩・跡 かまや 島根/大田市 <石見銀山> 坑道   慶長7(1602)以降? 世界遺産
国史跡
WEB 坑口に鉄柵 銀の採掘量が減ったため、慶長7に備中出身の山師・安原伝兵衛が清水寺に祈願したところ夢のお告げがあり鉱脈の発見につながったとの伝承がある/この間歩発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えた 1
  永久坑・跡 えいきゅう 島根/大田市 <石見銀山> 坑道 長1400m 元禄6(1693)以前   WEB 坑道が水路化 当初は龍源寺間歩の水抜き坑として掘られた→元禄6(1693)~天明7(1787)にかけて石見銀山屈指の長い坑道に延延→明治32に優良な銅鉱脈が発見され最盛期→昭和18の台風による豪雨で水没・閉山 3
写真 龍源寺間歩・跡 りゅうげんじ 島根/大田市 <石見銀山> 坑道 長約600m,
高約2m,幅1m
正徳5(1715) 世界遺産
国史跡
図説島根県の歴史p175/歴史の道3p16/WEB 修景・ルート変更した上で限定的(長273m)に観光開放 正徳5に開発された代官直営の御直山の坑道 2
  新横相間歩・跡 しんよこあい 島根/大田市 <石見銀山> 坑道 長370m 江戸中期以降 世界遺産
国史跡
WEB 入口から40m地点で崩壊 江戸中期以後に開発された代官直営の御直山の坑道/安政5(1858)頃が最盛期/「横相」は、鉱脈の方向を予め調査し、鉱脈の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった鉱脈を掘り進む採掘法を指す用語 2
写真 都茂鉱山・跡
(丸山銅山・跡)
おおどり 島根/益田市   間歩   元慶5(881)、
慶長7~慶安4(1602-51)
  市教委 近世初期の間歩/中に入れないよう埋められている 『日本三代實録』(901)の39巻(881年正月~5月)に、3月7日、都茂郷丸山で銅が発見され、鼓鋳を試みたら真銅が得られたので従八位を現地に派遣したとの記録がある。実際に銅山として機能したことが分かっているのは江戸初期 3
  大林銀山の間歩群・跡 おおばやし 島根/(邑智)邑南町 大林銀山 坑道   江戸期?   町教委(瑞穂町内遺跡分布図2) 山林内に散在/放置 長戸呂(3以上)、道小(4以上)、山の内、水の奥(21以上)、大山谷(28以上)、阿色、新屋敷裏、正田(2以上)、山神社、東谷、梅田屋裏(2以上)、西谷、善棚、寺の奥(4以上)の間歩群、間歩から構成される 1
写真 久喜銀山の間歩群・跡 くき 島根/(邑智)邑南町 久喜銀山 坑道   江戸期?   町教委(瑞穂町内遺跡分布図2) 山林内に散在/放置 岩屋(7以上)、向原、東谷、床屋(13以上)、要九郎、中道間歩群、間歩から構成される 1
  桜郷銅山・跡 さくらごう 山口/山口市 桜郷銅山跡農村公園
<蔵目喜銅山>
坑道、露天掘り 坑道:1ヶ所
露天掘り:3ヶ所
古代~近代   WEB 露天掘り跡、坑道(立入禁止)などを巡る遊歩道が整備 約1200年前より防府屈指の銅山として栄えてきた蔵目喜銅山のうち、中心的なヤマであった銅山/採掘・精錬された銅は、長門や周防にあった鋳銭所の原料や、東大寺大仏の建立にも使用されたと伝えられる/昭和38(1963)閉山 2
  一ノ坂銀山の間歩群 いちのさか 山口/山口市 一ノ坂銀山 坑道 22ヶ所 天正末 or 慶長初年   歴史の道1p81 一の坂銀山跡散策ルートとして一応の整備/坑口はすべて鉄柵で封鎖 大内氏の時代に開発され、4500人の鉱夫や技術者により200以上の間歩が掘られた鉱山/寛永期に廃鉱 3
  浜の宮山銅山・跡   山口/美祢市 長登銅山 坑道、露天掘り   古代-大正期   歴史の道3p273/WEB 大規模な露天掘り跡が残存 銅、鉄、錫、亜鉛を産出した鉱山で、特に泥銅の産出では世界に比類なき鉱山であった 1
  榧ヶ葉山一号坑 かやがば 山口/美祢市 長登銅山 露天掘り、坑道 露天掘り:深7m,辺長約15m 8世紀前半 国史跡 WEB   長登銅山に残る古代の大規模な露天掘り跡と、その底から続いている坑道/一号坑入口から約15mの地点から8世紀前半の須恵器が検出されたことから、8世紀前半の奈良時代前期に採掘が行われたことが明らかとなっている/坑道の太さは不規則  
  大切十一号坑 おおぎり 山口/美祢市 長登銅山 坑道   9世紀-中世 国史跡 解説長登銅山跡p7   弘法大師が伝えたと言われるつるし掘り技法が用いられている坑道 4
写真 市之川鉱山・跡 いちのかわ 愛媛/西条市   アンチモン鉱山   延宝7(1679)→享保(17
30)までに135ヶ所開坑
  市教委 最盛期は明治時代/昭和32閉山/坑口は近代の改修/Cで閉鎖 大浜の庄屋・曽我部親信により保野山の仏ヶ峠で偶然発見 4
写真 歓喜間符・跡 かんき 愛媛/新居浜市 <別子銅山(歓喜坑付近)> 坑口   元禄4(1691)   WEB(旧別子の間符) 平成13開坑当時の状態に復元
(入口のみ)
別子銅山で最初の坑道/元禄3、坑夫・長兵衛が嶺南で有望な露頭を発見→備中・吉岡銅山(住友家経営)の支配人・田向重右衛門らが優れた鉱脈を発見→幕府の許可を得て元禄4.9.22に採鉱開始 3 写真
写真 観東間符・跡 かんとう 愛媛/新居浜市 <別子銅山(歓喜坑付近)> 坑口   元禄4(1691)   WEB(旧別子の間符) 平成13開坑当時の状態に復元
(入口のみ)
上記の「歓喜間符」とともに、江戸時代の別子銅山の中心的存在/寛延2(1749)頃から産出量で歓喜間符を抜く 3
写真 大和間符・跡 やまと 愛媛/新居浜市 <別子銅山(銅山峰付近)> 坑口   元禄4(1691)   現地解説板/WEB(旧別子の間符) 元禄4に開かれた旧別子の坑口中、唯一原形を留める(閉鎖)/江戸時代に閉坑 元禄8(1695)に西条藩・立川銅山の大黒間符と地中で偶然に貫通→境界争い→元禄10に幕府が「分水嶺を境界」とする裁定を下した 2
写真 三ノ岳の神間歩群 さんのだけ、かみまぶ 福岡/(田川)香春町   銅鉱 (5-6ヶ所) 古代以降   町教委/WEB 昭和期まで使用されたものもある→非現役 天慶2(939)に宇佐八幡宮の御神鏡を鋳造したという歴史を持っている 2
写真 泉山磁石場・跡 いずみやま 佐賀/(西松浦)有田町 白磁ケ丘公園 磁石採掘場 約5ha 元和2(1616)以降 国史跡 WEB 保存状態良好(場所による年代の特定は困難)/立入禁止(崩壊の可能性) 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島藩によって日本に連れて来られた朝鮮の陶工・李参平(通称)により発見された陶石場=400年近く日本の磁器産業を支えた 2 写真
写真 木浦千人間府(大切坑) きうら、
せんにん
佐伯市 大分/(宇目)<木浦鉱山> 坑道   江戸中期 市史跡 市教委 保存状態良好(未整備) 錫の鉱脈が発見され、その採掘のため毎日2000人の鉱夫を入坑させるようになった→その後、銀も採掘されるようになり、佐渡・但馬・石見と並ぶ四大銀山の1つと栄えた際の中心的坑道でもある 1
写真 鵜通洞の砂鉄水路・跡 うつどう 熊本/熊本市(西区) <鵜通洞> 水路   安政年間(1854~60)頃 市史跡 WEB/市教委 2ヶ所に遺構(石組みの木樋を渡す石台)が残るのみ 鵜通洞で砂鉄が取られていたことから命名/砂鉄を取り出すため、鵜通洞から岩戸まで約3kmの鉄穴流しの水路が、北斜面の中腹に開削 4
写真 自稼掘坑 じかせぎぼり 鹿児島/霧島市 <山ヶ野金山> たぬき掘り   17世紀末以降 市史跡 市教委/WEB 当時のまま/ここ以外はすべて明治期の施設 明暦2(1656)の金山再開後すぐの露天掘り後に行われた、自稼請負によるたぬき掘りの跡(小規模断面の坑口で鉱脈だけをえぐって採るすかし掘り)/17世紀半ば頃の山ヶ野金山は、佐渡金山と並んで全国屈指の産金量を記録した 1
写真 火入坑・跡 ひいれ 鹿児島/霧島市 <山ヶ野金山> 坑道   17世紀末以降 市史跡 WEB 坑口を格子で封鎖/ここ以外はすべて明治期の施設 開坑時期は不明だが、金山開発の早い時期に開かれたと推定される(堅い岩盤→火を焚いて岩をもろくして掘り進んだことに因んだ命名か?) 2