防風防潮用の樹林や石塀・石堤など
都道府県別データ一覧にある防風防潮用の樹林・並木や石塀・石堤など
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
屏風山
びょうぶさん
青森/つがる市
防風林
南北38km,
東西3~5㎞
天和2(1682)~
享保16(1731)
市教委
何世代にもわたる植樹(江戸期に植樹された木が特定できない)
南北38km・東西3-5km/松を中心に杉・雑木などを80万6千本植樹/その後、1855-74まで約178万本が植樹された
1
A
高田松原
・跡
たかだ
岩手/陸前高田市
防砂林,防風林
約1.9㎞
寛文7(1667)
市教委/WEB
国内で最も保存状態の良い江戸期の海岸砂防林→2011.3.11の東日本大地震による津波と海岸陥没により松原は消失、「奇跡の松」と呼ばれる1本だけが残った→2012.9伐採→2013.6 イミテーションの松が完成
(対比写真参照)
樹齢 300年を超えるクロマツ・アカマツからなる松林/長大な松原であり、田畑を砂や潮風の害から守った/3代に渡り手入れや補植が続けられた
5
飛の波除石垣
とびのなみよけ
秋田/にかほ市
由利海岸
波除石塁
4ヶ所,総延長369.3m,石垣最大高約5.5m
宝永元(1704)
国史跡
WEB
保存状態は良好/漂着したゴミが一部散乱している
波打ち際を通る北国街道とその奥にある水田を、浸食・決壊・塩害等から守るために本荘藩により築造/径30~50㎝の石約2万個を用いて堤防を築いたため地元では「万石堤」とも呼ばれる
1
芹田波除石垣
せりたなみよけ
秋田/にかほ市
由利海岸
波除石塁
高約1.2-2.7m
元文5(1740)
国史跡
WEB
当時のまま
高潮や塩霧から田地を守るために築造/波除石垣だけでなく、水抜きの水門も保存されている
2
A
風の松原
かぜ
秋田/能代市
能代海岸
防砂林
東西幅1km,南北総延長14km
文化2(1805)
日本の自然100選
市教委
近世の松も残るが、近代以降にも植樹されている
栗田定之丞の砂防林事業/江戸時代から植栽された海岸砂防林
2
A
木曳堀
(貞山堀)
松並木
こびきぼり・ていざんぼり
宮城/岩沼市
貞山運河?
(阿武隈川河口付近)
防潮林
慶長16(1611)~元禄15
(1702)の間の何れか
WEB
オリジナルの松が、東側に残る
→
2011.3.11の東日本大地震による津波で、松の一部が枯れたがほぼ原状維持
(対比写真参照)
慶長三陸地震津波(1611)の後、恐らく津波対策として植樹/「元禄国絵図」(1696-1702)には松が描かれているので、それ以前の植樹
2
閖上土手の松並木
(あんどん松)
ゆりあげどてのまつなみ
宮城/名取市
名取川(右岸)
防風・防潮林
黒松48本,
高さ約25~30m,樹齢230~240年
江戸中期
市天然
市教委/WEB
所々欠脱があるものの、比較的良好に保存→2011.3.11の東日本大地震による津波による影響なし
(対比写真参照)
仙台藩により、城下と閖上浜を結ぶ名取川堤防沿いの植えられたもの
2
B
庄内砂丘の松林
しょうない
山形/酒田市
庄内砂丘
防砂林(黒松)
長33㎞,
幅1.5~3㎞
1700年代中頃
庄内海浜県立自然公園
市教委
保全整備/近代に入ってからの植林が大半
わが国でも最大級の海岸砂防林/砂地に強い草を植えて砂丘の表面を落ち着かせ、次にネムノキやグミなど、砂地に強く地力を肥やす潅木を植え、その後ろに「主役」たるクロマツを植える、という植林方法
1
八幡砂垣
やはた、
すながき
新潟/佐渡市
(佐渡島)
防砂土手、防砂林
長687m,幅102m
(指定範囲)
寛永20(1643)
市史跡
市教委/WEB
7-8基の柴垣が残る
〔上段の写真は松林の遠望、中段の写真は砂垣の土塁、下段の写真は砂垣の切断面〕
海岸砂丘からの飛砂を防ぐための施設/長1308m、幅142mを1単位として柴垣を組み、その中に砂を詰めて小松を植えたとされる
3
A
大谷原山林
おおやはら
群馬/館林市
防風林
永禄元(1558)~
市教委
補植部分が多い
大谷休泊(1521-78)により館野ヶ原の冬季の砂塵防止のため植林された広大な松林(20年近くかけ115万本)/大谷休泊の名が付いている
3
A
泉津の椿トンネル
せんづ
東京/(大島)大島町
(大島)
都道・八丈循環線
椿並木<防風林>
江戸期~戦後
WEB
樹齢400年の古木1本他は、樹齢200年級の古木が混在する
大島特産のヤブツバキの巨木がトンネル状になっている/元々は、防風目的で植えられていた後に道路を作り、椿を補植し、並木状にしたのではないかと推測される(絞油目的なら面的に植樹するはず、大島では一般的に防風用に椿を植えた)
2
A
大里の玉石垣
おおさと
東京/(八丈)八丈町
(八丈島)
石垣・石塀
江戸期
WEB
陣屋周辺の民家の石垣・石塀として面的に分布
八丈島の強い海風に対する防風林の基壇的役割/流人達が玉石(30-40㎝)を積み上げて造ったと言われている(範囲は不明)
1
揉合神社の風除林
もみあわせ
山梨/北杜市
甲六川~篠原
防風林(赤松)
長約1.3㎞,幅5.4m→幅数百m
正徳5(1715)
WEB
第二次大戦下で資材として大量に切り出され荒廃→補植
八ヶ岳おろし(寒風)による冷害に悩まされてきた農民が、幕府の許可を受け、元禄2(1689)から20年以上かけて、自費で1キロを超える防風林を植えた/揉合神社は、東西から進められた植林が落ち合った場所、という意味
3
A
安曇野の屋敷林
あずみの
長野/安曇野市
屋敷林
江戸期
活動報告・安曇野の屋敷林
屋敷林の保全活動がスタート
防風、防雪、薪、材木などの目的で家の周りに植林された「屋敷林」が2000-3000ヶ所あると言われる
1
B
とちの木の
赤
松風除林
とちのき
長野/(諏訪)富士見町
防風林
東側
:長160m(35本),
西側
:長45m(14本)
寛政年間(1789-1800)
町天然
町教委/現地解説板
保存状態良好
強い北風で稲作に困難を来したため、村が高島藩に申し出て赤松を植栽したもの/甲州街道に直交し、かつ、東西に100mずれるよう設置/とちの木は地名
1
B
一本松の汐土手
・跡
いっぽんまつ
静岡/沼津市
防潮堤
長約200m(現存部)
江戸期
市歴史民俗資料館
海岸防風林の下生えを刈ったことで近年発見された/大半はC防潮堤築造時に埋設
経緯は全く知られていない
3
B
千本松原
せんぼん
静岡/沼津市
海岸防風林
長約10㎞
戦国~江戸初期
日本百景/日本の白砂青松100選
市教委/市歴史民俗資料館/WEB
オリジナルの松木の残存状態は悪い/99%が近代以降の捕植
伝承①:元々は防潮・防風のため農民が植えた→天正8(1580)武田勝頼軍が駿河に攻め入った際に合戦の邪魔になるとして伐採→その後に再植樹/伝承②:増誉長円が諸国を行脚しこの地に来た→鬱蒼と茂っていたと伝えられる松原が戦乱のため伐り払われ荒廃→長円は松原を元の姿に戻そうとしたが砂地が少なく潮風も強いため松苗が根付きにくかった→松苗を1本植えるごとに阿弥陀経を誦し、天文6(1537)に千本の松を植える悲願を達成した/両方の説には矛盾が見られるが、元々農民が植樹し、戦国時代に荒れ、その後普及したという流れは汲み取れる
3
松の小径
静岡/焼津市
県道・焼津~大井川線
防潮林(松)
長1.1㎞,幅8m,
松358本
天保7(1836)
市教委
オリジナルの木も多いが強剪定も多い/「松の小径」として遊歩道化
田中藩主・本多正寛が潮の冠水を防ぐために松を植えた
2
B
東幡豆海岸の松林
ひがしはず
愛知/西尾市
海岸防風林
長約300m
江戸期?
幡豆町教育委員会/幡豆歴史民俗資料館
オリジナルと思われる松がよく残っている
2
B
大湊波除堤
おおみなと
三重/伊勢市
八幡宮裏の海岸~勢多川河口
石護岸堤防
長949m,高2.7m,上部幅1.8m,下部幅16m
寛政7(1795)
WEB(神宮巡々)/
現地解説板
部分的に残存
享保13(1728)の海岸部の被災を受けて、幕府の費用(1620両)で築造されたもの/伊勢青石を使用しているため、青い堤防になっている点が珍しい
3
A
砺波平野の散居村のカイニョ
となみ、
さんきょ
富山/富山市
屋敷林
江戸期
WEB
現在の木で江戸期のものは少ないかもしれないが、「防風」という地域の伝統的風景は保全されている
「開墾した田畑は藩主に属すが、開墾した百姓にはその田畑を自前で耕作することを許した」加賀藩の奨励策→散居村/カイニョ(垣饒=垣のようにめぐらせた樹木)の理由→①風雨から家屋を守る、②冬暖かく夏涼しい、③目隠し、④薪用、⑤材木用〔防風が主目的の出雲平野の散居村の築地松とは異なる〕
1
A
海津浜の波除石垣
かいづはま
滋賀/高島市
近江湖
波除石垣
東浜668m,
西浜495m
元禄16(1703)
国重要文化的景観
現地解説板
保存状態良好
元禄14に甲府藩領高島郡の代官として赴任した西与一左衛門が、風波による被害の大きいのを見て、海津東浜の代官と協議して石垣を構築/琵琶湖の幅の最も広い部分に位置するため、季節風による波の影響を強く受け、湖岸に沿って波除の石垣が築かれた
1
水軒堤防
すいけん
和歌山/和歌山市
石防潮堤
長約1.4㎞,高約5.4-10.8m
18世紀後半?
県史跡
市教委/WEB
堤防上に人家や菜園が造成され荒廃
広川町の「広村堤防」、大分県の「馬場の堤防」と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例→国内最大規模(記録が一切ないためランクはAに留めた)/詳細は不明(これだけ大規模な工事にもかかわらず記録が一切残っていない)/建造年代は、下記の「復元」時の発掘調査時の陶器・古銭などにより判断されたもの
3
A
水軒堤防
(石堤の復元展示)
すいけん
和歌山/和歌山市
石防潮堤
18世紀後半?
現地解説板
復元展示
海側に和泉砂岩の胴長石を使用→海の波にも耐える堅固な構造/陸側は急勾配で雑な石積み/内部は和泉砂岩と緑泥片岩の割石を充填
2
B
扇ヶ浜の防潮林
おうぎがはま
和歌山/田辺市
海岸防潮林
長650m,幅50m
江戸期?
郷土田辺p121-122
ほとんどが近代の補植
詳細不明(田辺城主・安藤直次が家康より松を賜った、との説もある)
4
B
畠山堤防
はたけやま
和歌山/(有田)広川町
石防潮堤
長509→約300m,高2.7m,天端幅1.8m
15世紀初頭
国史跡
津波略史と防災施設p18-21/近畿地方の歴史の道3p555/町教委
石堤C補強/
写真
の右側は下記の「広村堤防」
豪族・畠山氏が城館を守るために築いた防潮堤(津波対策ではない)/安政の大地震後、この石堤の背後に、上記「広村堤防」が、二重防潮堤のような形で築かれた
2-3
A
広村堤防
ひろむら
和歌山/(有田)広川町
畠山堤防の背面
土防潮堤
長654m,高4.5m,底幅16m,天端幅2.7m
安政5(1858)
国史跡/未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
町教委/WEB
一部改修→堤防の頂部は修景舗装され、遊歩道になっている/資料館「稲むらの火の館」が近くに設置/年1回「津浪祭」が開催
和歌山市の「水軒堤防」、大分県の「馬場の堤防」と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例/安政の大地震後、濱ロ梧陵が私財を投じ、いずれまた来襲するであろう津波に備えて、津波により仕事をなくした漁民や農民等村人を雇用し、4年の歳月をかけて築いた堤防で、この堤防により後の津波から多くの人を救ったという逸話が残る/小泉八雲がこの濱ロ梧陵の逸話を執筆・発表し、後にその作品を学校教員が凝縮したものが国語教材として利用された/堤防の下方に上記「畠山堤防」があり、その石垣との中間に松の防潮林が植栽されている三重構造
2
南白浜の海岸防潮林
みなみしらはま
和歌山/(西牟婁)白浜町
海岸防潮林
長約1㎞,幅40m
宝永4(1707)以前?
西牟婁郡南富田村郷土誌
ほとんどが近代の補植
資料には「寛永の津波の頃より、漸次樹林を伐採」との記述→寛永には津波がないので宝永の誤記と思われる
4
A
周参見の防潮堤
すさみ
和歌山/(西牟婁)すさみ町
石防潮堤
長370m→約270m
,高2.4m(当時)
宝永4(1707)以降
和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告15
p344-345
生活道路化/場所により石垣の保存状態に差がある(近代の改修部分も多い)
宝永の南海地震(1707)後に、周参見組大庄屋の谷三郎左衛門が租税を用いて構築/津波と日常の防潮用
2-3
A
煙樹ヶ浜の防潮林
えんじゅがはま
和歌山/(日高)美浜町
防潮林
長約3.9㎞,幅約500m
元和5(1619)頃
日本の白砂青松100選
WEB
現存する松のほぼ全てが補植
初代紀州藩主徳川頼宣が整備した防潮林/元和5(1619)頃より伐採が禁じられ、昭和24(1949)松本栄次郎が補植する等、往時より地元住民から厚く保護されていた/現在でも魚付保安林として漁業に貢献していると言われている
4
煙樹ヶ浜の汐土手
・跡
えんじゅがはま
和歌山/(日高)美浜町
防潮堤?
長100m
江戸期?
県立博物館
当初の目的・規模とも不明
防潮林の中に残存/静岡県沼津市の「一本松の汐土手・跡」と類似しているため収録
3
B
慶野松原
けいの
兵庫/南あわじ市
<徳島藩>
海岸防砂林
長1㎞,幅60m
寛文年間(1661-72)以前
国名勝
WEB/WEB(みさき道人)
第二次大戦下で陸軍省の管轄となり、燃料用として伐採,食糧増産のために開墾し縮小
起源は中世とされるが,文献上の初見は寛文年間(1661-72)/江戸期には徳島藩の所有として育成
3
A
西町の潮止め松
にし
鳥取/米子市
湊山公園
海岸防風林
12本
江戸初期
市天然
歴史の道7p8-9/WEB
平成23の大雪で松1本が幹の途中から折れたため補修
海岸防風林の一環と捉えることができる/樹齢400年を越す黒松12本が残る
4
B
由良~北条の海岸防風林
ゆら、
ほうじょう
鳥取/(東伯)北栄町
海岸防風林
長約700m
江戸中期~江戸末期?
所々枯れた松がほぼ直線状に残るがどれだけ防風効果があったかは疑問
由良~北条にかけての防風林は、史料がないので正確な年代が把握されていないが、江戸中期から末期にかけて植えられたものと推定されている/砂丘開拓の一環として北条に水路が造られ綿花等の栽培が行われていたようで、それに伴って防風林を植え始めたとされる
3
A
荒木浜の海岸砂防林
(八通松林)
あらき
(やとおり)
島根/出雲市
海岸砂防林
長約1㎞,幅250m
延宝9(1681)
WEB
オリジナルの木はほとんど残っていないし、「八通」の跡も留めていない
松江藩の開発棟梁(古志町の豪農)初代・大梶七兵衛(朝泰)と馬庭佐平太が6年をかけて造成/神戸川河口付近の荒木浜の荒れ地を農地にするために黒松を植林→松を8列に植えたことから「八通松林」と呼ばれる
4
B
出雲平野の散居村の築地松
いずも、さんきょ、ついじ
島根/出雲市
防風林<防水林>
江戸起源
市教委
現在の木で江戸期のものは少ないかもしれないが、「防風」という地域の伝統的風景は保全されている
出雲平野の荒茅町、矢野町、斐川町併川、斐川町直江などに残る農家の防風林の総称/黒松を北・西に植えて冬の北風に備えた/樹齢は不明だが江戸期のものも残っている可能性が高い/元々は防水機能も兼ねていたが、江戸中期から斐伊川の堤防工事が進み洪水の心配が少なくなると、防風機能のみとなった
1
A
屋那の松原
やな
島根/(隠岐)隠岐の島町
(隠岐島)
(都万)
海岸防風林
長400m,幅40m,総数約1000本→200本(径60㎝)
江戸期?
日本白砂青松百選
WEB
/WEB(みさき道人)
江戸期の松がかなり残存
その昔、若狭の国から隠岐に来て800歳まで生き続けたという八百比丘尼が、島内各所に植えた松の木の一部という伝説があるくらい立派な海岸防風林/都万の舟小屋(国登録有形)が隣に並ぶ→隠岐らしい風景
1
B
春日の松原
かすが
島根/(隠岐)隠岐の島町
(隠岐島)
(布施)春日神社
海岸防風林
長370m、幅50m
江戸期?
県天然
WEB
春日神社の境内に残る
現在は神社境内に30本ほどの樹齢約350年の黒松が散在→海岸線から若干離れているが、かつては海岸砂防林だったという説もある(境内の参道並木としては散らばり過ぎている)
2
B
糸根の松原
いとね
山口/山陽小野田市
(埴生・赤子寝)
防風林
90本
平安期?
市天然
WEB
最高で樹齢約200年の黒松が残る/干拓により海岸から離れたため防風林としての役目は消滅
前場川河口から西糸根までの海岸沿いに設けられた防風林/名称の由来として、和泉式部が娘の小式部内侍を丘上の松原で安産したので、この松原を「愛寝(いとしね)の松原」と呼ぶようになり、それが訛って現在の名称になったとされる
2
B
津田の松原
つだ
香川/さぬき市
琴平公園
防風林
3000本
鎌倉時代
国立公園
WEB(田舎暮らしdeほっ!)/WEB
保存状態良好/樹齢600年の黒松も残る
鎌倉時代に浜辺近くにあった石清水八幡宮別当寺常楽寺の住僧が、燃料用または防風林として黒松を植林したのが始まりとされる/享和元
(1801)に、地元の豪商・安藝栄住が京都の儒者・皆川淇園に松原の絶景を全国に宣伝して欲しいと依頼したことでも知られる/平山郁夫、棟方志巧にも描かれた
1
野坂の石塀
(野坂の石垣)
愛媛/(西宇和)伊方町
防風石塀
長140m,高4m
江戸期
WEB
世代を経て改造・増設
海に長く突き出た佐田岬半島(風の強い所として知られている)ならではの遺構
1
外泊の石垣
そとどまり
愛媛/(南宇和)愛南町
外泊・石垣の里ミュージアム
集落石垣
(花崗岩、防風)
19世紀(江戸後期から明治初期のいずれか)
未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選
町教委/WEB
保存状態良好/観光地化
隣の中泊集落(元禄13に形成)の人口が増加したため、分家政策から計画的に造られた新しい漁村集落→区画割もほぼ均一/斜面に形成されたため石垣で区画されたが、特に冬の北風が強いため石垣上部を石塀にして防風対策とした
1
柏島石堤
かしわじま
高知/(幡多)大月町
(柏島)
石防潮堤
長690m,高3.0m,幅1.8m(当初)
万治元(1658)?
県史跡
市教委
/松岡 司
海側にC堤を構築
野中兼山?(兼山が施工したという一次資料による証拠がない)/島の北東隅にある集落全体を囲むように築かれた馬蹄形の長大石堤(集落を風波から守るため)
3
入野松原
いりの
高知/(幡多)黒潮町
海岸防潮林(黒松)
長4㎞
天正年間初頭(1575-80)→宝永4(1707)以降補植
国名勝
WEB
補植が多い
砂洲上に生えた松の自然林→長宗我部元親の重臣・谷忠兵衛忠澄が罪人を用いて補植→宝永4の津波後に、各戸あたり野生の黒松6本を植えさせて高潮に備えたと伝えられる
3
A
鈴の松原
(三里松原)
すず(さんり)
福岡/(遠賀)芦屋町・
岡垣町
防砂林
松
明暦3(1657)以降
町教委
樹齢300年のものも混在/陸軍飛行場のためい一部伐採
砂丘が多く、農耕地が砂で悩まされてきたのを受けた植樹
2-3
B
虹の松原
(二里松原)
にじ
佐賀/唐津市
海岸防風林
(クロマツ)
長4.78㎞
江戸初期
国特別名勝
市教委/
現地解説板
経年的に捕植/風で変形した樹齢100年以上の古木が相当数混在
初代唐津藩主・寺島広高(1563-1633)/松浦川と並ぶ寺島広高の二大事業/わが国に現存する最大級の海岸防風林/当初から伐採を厳しく禁じてきた
2
船山の石塀
ふなやま
佐賀/多久市
西多久町板屋
石塀
江戸期?
市教委
石塀そのものの保存状態は良いが、防風景観としては不明
防風用の石塀/複数箇所残っているが詳細は不明(家屋のためか農耕地のためか→家屋があったものが廃屋化した可能性もあるため)
1
B
池田の堤
いけだ、
つつみ
長崎/対馬市
廻地区の海岸
石塁(野面積)
長約100m
(現存部)
文化・文政(1804-30)頃
市史跡
WEB/現地解説板/市教委
残存部の保存状態は良好/水門部は近代に入り改修
土木の名人といわれた増田定七が設計・指導して八郷普請によって築かれた石堤/雨期になると冠水していた場所を水田にすることを目的に築かれる。海側からの風波を防ぎながら、堤防内の水を海に流す水門を堤防の中央底部に設置
2
B
馬場の堤防
ばば
大分/佐伯市
佐伯鶴城高校グラウンド南西縁・道路沿い
津波防潮堤
(土手)
長230m
享保4(1719)
市教委
松は建造当初のものが昭和期に枯れたため補植/石垣は後補の可能性(元文3(1738)の絵図には石垣が描かれていあに)
和歌山県の「水軒堤防」(18世紀後半?)、「広村堤防」(安政5(1858))と並び、"現在把握できている津波対策としての防潮堤" としては、全国で3例しかない貴重な事例/市内には宝永4(1707)に同じ目的で大土手が造られ、安政地震の際の津波に効果のあったことも知られているが、現存していない(佐伯藩第6代藩主・
毛利高慶の命で短期間で構築
)
3
A
田鶴音の防風林
たづね
大分/佐伯市
(米水津浦代浦)
防風林(
照葉樹
)
江戸期?
市天然
市教委
保存状態良好
古称: 尋(タンネ)→この辺りの田に鶴が来たという言い伝え→田鶴音
1
C
里町集落の石塀
さと
鹿児島/薩摩川内市
(上甑島)
石塀(玉石垣)
江戸期
島の宝百選
WEB
非常に良好な保存状態
街路に面する各戸(武家屋敷)が防風用の石塀と生垣で囲まれている
1
A
備瀬のフクギ
びせ
沖縄/(国頭)本部町
備瀬集落
並木、防風・防潮
・防火林
集落全体
琉球王国時代
町指定
WEB
観光地化/補植も多い
屋敷の防風林として整備されたのが起源/防風・防潮・ 防火林/集落の路地の両側にフクギが植えられた独特の景観が延々と続く/一部に土手も残る
1
A
伊是名集落の石塀とフクギ並木
いぜな
沖縄/(島尻)伊是名村
(伊是名島)
伊是名集落
石塀(珊瑚石)、
フクギ
集落全体
不明
WEB/村教委
島の原風景がよく保存されている
珊瑚石は沖縄の島嶼部の典型、フクギ
は防風林
1
A
真謝のチュラ福木
まじゃ
沖縄/(島尻)久米島町
(久米島)
真謝
防風林
長40m,幅3m,
高6m
18世紀中頃
県天然
WEB
県道の拡幅に伴い道路中央に分離帯のような形で保存/刈り込まれている
柴岡家の屋敷林だったもの/六世絜聡の時代に、福木を植えて囲いとしたとの記録がある
2
C
渡名喜島集落の石塀、フクギ、掘り込み住宅敷地
となき
沖縄/(島尻)渡名喜村
(渡名喜島)
石塀(珊瑚石)、フクギ、井戸
集落全体
時期不詳
国重伝建
WEB
保存状態やや良好→石塀の近代化が目立つ
細い道路に沿ってほぼ方形の敷地が並び、各敷地は道路面より1メートルほど低く掘り込まれている(防風対策)/敷地境界を石塀(見事な相方積み)で囲み、その内側にフクギを植栽し、防風・防火に備えている
2
多良間の抱護林
たらま、
ほうご
沖縄/(宮古)多良間村
(多良間島)
トゥカバナ山~白嶺山
抱護林
(主体はフクギ)
長約1.8㎞,幅10m
蔡温時代(1728-53)
県天然
現地解説板
保存・整備
蔡温(三司官=宰相、風水思想)が進めた風水思想を取り入れた林政の貴重な残存例/抱護林=「気」が散逸しないようにある村落を樹林で囲むもの/村落や畑の防風・防潮・防火・土砂の流失予防・適度の保温保湿など多くの役割を担っていた/他の島ではほとんど消滅→県下で唯一の遺産
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竹富島集落の石塀と
白砂敷き街路
たけとみ
沖縄/(八重山)竹富町
(竹富島)
石塀(珊瑚石)、
街路(白砂敷き)
集落全体
19世紀以前?
国重伝建
WEB/町教委
非常に良好な保存状態
珊瑚の石塀や珊瑚砂を敷いた街路が、南国風の集落景観を形成している/石塀は防風と防火のため、白い砂は雨水の浸透性を高くし、夜行性のハブを発見しやすくするため/明治23の古地図には既に現在のような区画割の町が描かれている→集落がこのような形になった正確な年代は不明だが、明治改元以前であることは確実と考えられている
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