上水
都道府県別データ一覧にあるすべての上水関連施設
写真
名称
ふりがな
所在地
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
仙人峠の石の水槽
せんにん
岩手/釜石市
<遠野街道>
上水道、石水槽
文化2(1805)
WEB
山中に石の水槽のみ残る
土地の豪商・佐野忠治は山の中腹まで樋を通し水場をつくった/馬用に木の水槽、人用に石の水槽を作った
2
C
かどっぱ
宮城/(加美)色麻町
上水路
不詳
WEB
上水道施設が完備されていない時代に、もともとは用水路・農業用施設として田んぼに水を引くことが目的だった「かどっぱ」を、屋敷前を通過させることで、生活用水を確保していた
3
C
笠原水道の岩樋暗渠
かさはら
茨城/水戸市
笠原湧水地→藤柄町
岩樋暗渠水道
全長約7㎞
寛文2(1662)
県史跡
市教委
ごく一部が露出しているだけで、何も視認できない
光圀の命により、永田勘衛門(円水)が施工(山寺水道と同じ)/光圀公の仁政の証として重要な施設(武士の居住区より、町民の居住区に優先して飲料水を引いた)/送水だけでなく、地下水のろ過集水も兼ねていた可能性がある
3
A
笠原水道の石樋管
かさはら
茨城/水戸市
石管(凝灰質砂岩)
寛文2(1662)
市教委
建物内に収納
ろ過しながら石樋にも水を浸透させたかのように推測できるユニークな構造
4
C
山寺水道
やまでら
茨城/常陸太田市
トンネル式水道
長約2㎞,高1.6m,幅約1.3m
寛文8(1668)
県史跡
市教委/WEB
保存状態良好
(内部見学は許可制)
光圀の命により、永田勘衛門(円水)が施工(笠原水道と同じ)/天神林・稲木の台地の地下水を水源とし、トンネル式水路で、旧久昌寺跡の井戸と宮ケ作集落の井戸に給水した(最上流部でどうやって集水したかは未調査で不明だが、岩に溝状の水路をうがったのではという説がある
2
A
玉川上水の余水吐
たまがわ
東京/新宿区
<渋谷川>
上水路
長約490m
江戸期
現地解説板/WEB
新宿御苑の東側に沿って水路跡が残る/水路幅は当時のものと異なると考えられる/暗渠化
玉川上水の余水を穏田川(渋谷川)の谷筋に落とす水路跡
3
A
玉川上水の石枡1
たまがわ
東京/千代田区
和田倉噴水公園
<玉川上水>
石枡
145×145㎝,高70㎝
東京都水道歴史館
公園に移設
数段重ねた石枡に木樋を繋げ、玉川上水の所々に分水、水質管理、揚水を目的に設置
2
B
玉川上水の石枡2
たまがわ
東京/千代田区
清水谷公園
<玉川上水>
石枡
大
:高202㎝, 幅142㎝,
小
:高163.6㎝,幅142㎝
承応3(1654)
現地解説板/WEB
発掘され、公園に移設/木樋部分は区立四番街歴史民俗資料館に保存
数段重ねた石枡に木樋を繋げ、玉川上水の所々に分水、水質管理、揚水を目的に設置
2
B
神田上水石樋
かんだ
東京/文京区
本郷給水所公苑
<神田上水>
上水路
長約50m,
上幅150㎝,下幅120㎝,
高120-150㎝
寛永6(1629)頃→明治31廃止
東京都水道歴史館/江戸切絵図今昔散歩p31/WEB
文京区本郷で約70mが発掘され(昭和62-平成元)、内約50mが移設・復元
江戸の発展に伴い、小石川上水を拡張し、井の頭池・善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源として日本橋方面に通水した(なお、小石川上水は、江戸入府に先立ち、家康が家臣・大久保藤五郎に見立てさせた江戸最初の水道で、小石川を水源としていたとされる)
2
神田上水取水口の元・石柱
(中央の柱)
かんだ
東京/文京区
江戸川公園<神田上水>
石柱
高約1.4m
江戸期
区史跡
現地解説板/WEB
昭和8(1933)大洗堰の廃止に伴い移設
大洗堰の取水口に上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめ込むための石柱
4
C
梶野の築樋
かじの、つきどい
東京/小金井市
玉川上水→
梶野分水/仙川
上水路(盛土上)
長約230m,高約4m
享保17(1732)
市教委/WEB
ごく一部が、盛土のまま保存
梶野新田の飲み水を確保するため、新田の名主・藤右衛門が玉川上水からの分水を何度も幕府に請願し、実現したもの/土手による交差水路
3
B
玉川上水
(素掘区間)
たまがわ
東京/
小平市・小金井市
多摩川
(上水小橋~小金井橋)
上水路(素掘)
総延長約43㎞のうち約8.4㎞
承応3(1654)
国史跡
市教委/玉川上水現況調査報告書/WEB
中流部においては、昭和61から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/市内の上水小橋~小金井橋(茜屋橋~小金井橋間は小金井市と接する)には当時の素掘りが残る
総奉行: 老中・松平信綱、水道奉行: 伊奈半十郎忠治(没後は半左衛門忠克)、施工: 庄右衛門・清右衛門兄弟(褒賞として玉川姓を賜る)/江戸の人口急増による水不足解消のために、羽村市で多摩川から取水し、四谷大木戸まで掘られた素掘りの上水路/開渠部の30kmが国指定史跡
1
砂川分水
すながわ
東京/立川市
玉川上水
上水路
長4㎞
明暦3(1657)
WEB
現役の灌漑用水/C改修
野火止用水の次に古い分水/砂川新田の飲用水(伸延後、深大寺用水と名称変更)
3
C
柴崎分水
しばさき
東京/立川市
玉川上水
上水路
長8㎞
元文2(1737)
市史跡
WEB
現役の灌漑用水/C改修
柴崎村・芋窪新田の飲用水や農業用水
3
C
千川上水
せんかわ
東京/
西東京市・武蔵野市
玉川上水
上水路
総延長約22㎞のうち約5㎞
元禄9(1696)
→宝永4(1707)農業用
WEB
平成元から東京都の清流復活事業により下水の高度処理水を流している/C護岸
設計: 河村瑞賢、施工: 仙川村の太兵衛・徳兵衛(開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、2人に名字として与えた)/飲用から農業両用、農業専用、飲用兼用と変遷
2
B
玉川上水開削工事
・跡
たまがわ
東京/福生市
みずくらいど公園<福生熊川の「みずくらいど」>
上水路
約1㎞→約30m
承応2(1653)頃?
市史跡
WEB/市教委
公園化
玉川上水の「2度あったと言われる失敗(=伝説)」の跡/上水の水を流すと、この地点で水がすべて地中に吸い込まれてしまったと伝えられる
3
B
玉川上水旧水路
たまがわ
東京/福生市
<玉川上水>
上水路
長600mを掘替え→約40m
元文5(1740)
市史跡
WEB/市教委
新水路の多摩川寄りに保存
多摩川の洪水被害を避けるため新水路に掘り替えられた際の旧水路
3
B
井の頭池
いのかしら
東京/三鷹市
井の頭恩賜公園<神田上水>
湧水
縄文期(竪穴式住居遺跡)→平安中期(井の頭弁財天)→寛永6(1629)頃
都旧跡
WEB
桜で有名
神田上水の主要な水源/「井の頭」の命名は、3代将軍・家光とされる(意味は、「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」の2説)
2
B
小田原用水
おだわら
神奈川/小田原市
早川
用水路(上水)
天文14(1545)以前
WEB
C改修
戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した日本最古の上水道
4
A
松代町の泉水路
まつしろ
長野/長野市
松代城下町(代官町、馬場町、表柴町)
泉水路
元和8(1622)以降
WEB/市教委
部分的に修景/個人宅内を流れる「セギ」は立入困難
城下町に張り巡らされた水路網/道路に面する「カワ」と、屋敷地の背割りを流れる「セギ」に分かれる/セギは、武家屋敷の庭の泉水を結んでいて、洗面や食器洗いにも用いられた/他の城下町では見られない松代の特徴/取水源は神田川、湧水、井戸
2
A
上之段用水・水場
うえのだん
長野/(木曽)木曽町
八沢川<福島宿>
水場
長2㎞
永正6(1509)
町教委/現地解説板
用水は土管やヒューム管に改良されているが、水場は当時の形を守って復元
戦国時代、上の段城の水の手として創設→尾張藩の上の段役所設置の際に改修→以後、生活用水+中山道の旅人用
2
B
町屋御用水
まちや
三重/桑名市
町屋川
上水路
寛永3(1626)
市教委
大規模な改修/益生町より下流は暗渠化
全国で6番目の都市用水とされる→現在は農業用水として活用
4
B
ミンジャ
(明谷用水)
石川/白山市
(白峰地区)
上水路
元和3(1617)頃
市教委
昭和30代に簡易水道が引かれるまで現役/暗渠化し流雪溝として利用/開水路として残る部分もある
土豪・加藤籐兵衛が私費で整備/名谷川左岸にあるミンジャ通水を記念した銘文に「元和3」とある→江戸初期の整備
3
C
芝原用水
しばはら
福井/福井市
九頭竜川(左岸)
用水路
慶長12(1607)
福井土地改良区(鳴鹿堰堤史p92
-99,423-425)
/中部の土木史p46-50
C改修/外輪用水は埋設パイプライン化
結城氏北ノ庄城の立地点は地下水の水質が悪く飲料水としては不適だったため、家老・本多富正に命じて九頭竜川から城下まで導水した上水道(江川をもとに整備・拡充したとされる)/上水利用が主で、農業利用が従という点が大きな特徴/既往の水利権の関係で取水口を十郷用水、春近用水の取水口の下流に設けられた
4
熊川宿の前川用水
くまがわ、
まえがわ
福井/
(三方上中)若狭町
①河内川→北川、
②北川→河内川
上水路(石積)
①長約650m、②長約450m
①天正15-20(1587-92)、②17世紀後半?
国重伝建
町教委(熊川村誌p123)
道路側C改修→石を貼り石積み水路を再現/家側の石積の多くは近世由来であろう
熊川は交通、軍事上の要衝として秀吉に重視されたため、浅野長政が小浜城主となった天正15以降、宿場が造成された/宿場の中町を流れる用水は、その頃開削されたと考えられている/現在は上町、中町から下町にかけて2ヶ所に用水が流れているが、上記「浦見川」を開削した行方久兵衛が開削・伸延したと推測されている/宿場の上水で家ごとに「かわと」と呼ばれる雁木が設けられた
2
A
赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸
あこう
兵庫/赤穂市
井戸
江戸期
市教委
公園化/残る石組は地上部のみ/移設?
指揮:代官・垂水半左衛門/3年がかりで赤穂藩に千種川の水を引き、元和2(1616)に完成させた上水道/日本三大上水道の1つとされる/地下を網の目のように走り、城内や町民の各戸に給水した/底に瓶を埋め、その上に土管を積み重ねて造られた/道の下を通る配水管から給水管によって屋敷内に引き込まれ、汲出枡から汲み上げられた/汲出枡とも呼ばれる
3
B
赤穂藩上水道モニュメントの息継ぎ井戸
あこう
兵庫/赤穂市
井戸
江戸期
WEB
公園化/石組は地上、地下ともオリジナル
赤穂藩上水道の給水井戸/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照
2
C
赤穂藩上水道モニュメントの上水管(大手門前)
あこう
兵庫/赤穂市
上水管
江戸期
市教委
公園化/水路風のモニュメント
当時の土管が実物展示されている/サイフォンの原理を使って、この場所から堀の下を潜って城内に上水を流していた/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照
4
C
赤穂藩上水道モニュメントの配水路枡
あこう
兵庫/赤穂市
上水施設
江戸期
市教委
公園化/厚い鉄格子でふさがれており、中がほとんど見えない/中の石は残る
赤穂藩上水道の枡が残されている/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照
4
C
赤穂藩上水道モニュメントの百々呂屋裏大枡
ももろや
兵庫/赤穂市
上水施設
石枡:4m四方<2間>
江戸期
市教委
縁石が2枚残るのみ
赤穂城下入口にあった浄水施設/周りに竹柵を巡らして浮遊物を取り除いた/城下に流す水量調節も行われた/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照
5
C
切山隧道
きりやま
兵庫/赤穂市
千種川
素掘トンネル
(上水用水路)
長94m
元和2(1616)
市教委(文化財をたずねて4)/WEB
明治期に拡幅、昭和38に入口をC改修
取水用に開削された赤穂藩上水道最初期の隧道/当時の千種川(熊見川)が高雄付近で現在より南西側を流れ、隧道入口付近が安定して水量の多い淵となっていたため、この取水法が採られたとされる/浅野長直藩政時代(1645-71)には千種川の流路変化、新田開発などによる需要増加により下流の高雄船渡井堰に上水道取水口が変更され、隧道はその後農業用水路として活用された/赤穂藩上水道については「赤穂藩上水道モニュメントの町屋井戸」参照
4
B
中原水道
なかばる
佐賀/
(三養基)みやき町
寒水川
上水路
寛永11(1634)以前
町教委
堰の付近は当時の石組が残る/大部分がC改修
一の瀬井堰から取水し、宿場の飲用と灌漑用に用いた/成富兵庫茂安
3
C
倉田水樋の木管
くらた
長崎/長崎市
長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設>
木管(上水道)
延宝元(1673)
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6
長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり)
寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない
4
狭田井
せばた
長崎/長崎市
<立山役所専用水樋?>
湧水井
延宝2(1674)
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7
保存状態良好
長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明
1
C
立山役所専用水樋の土管
たてやま
長崎/長崎市
長崎市水道資料館<立山役所への給水施設>
土管(上水道)
寛政8(1796)以降?
WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説
長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択)
長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成
4
A
倉田水樋の支管用土管
くらた
長崎/長崎市
長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設>
土管(上水道)
寛政8(1796)以降??
WEB(みさき道人)/館内展示解説
長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明
上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの
3
C
下の丁の武家屋敷
したのちょう
長崎/島原市
<鉄砲町>
石水路、石塀
長407m,幅5.6m
寛文9(1669)
武家屋敷町並み保存地区
市教委/WEB
良好に保全された歴史的空間
扶持取り70石以下の徒士屋敷が石塀の内側に並ぶ/街路の中央には、北西の熊野神社を水源する清水(飲用)が流れ、水奉行により厳重に管理されていた
1
A
お水道の石樋
すいどう
大分/中津市
中津市歴史民俗資料館
地下石管・桝石
17世紀中頃
市歴史資料
市教委
屋外展示
元和6(1620)に細川忠興が三口より城内まで水道を引き、承応元(1652)には町中水道を埋設/地下埋設部分には石管を使用→凵の字型に削りだした石管に石蓋をしたもの
3
B
轟水源
とどろき
熊本/宇土市
轟泉水道
湧水→上水道
湧水量3000t/日
寛文3(1663)?
市史跡/日本の名水100選
市教委
修景→日曜日には子供の遊び場として人気
国内最古級かつ現役の上水道の水源/今も水を汲みに来る人が多い
2
轟泉水道
〔マス、落し口、樋管橋〕
ごうせん
熊本/宇土市
轟泉水道
瓦質管
→馬門石の樋管
延長4.8㎞
マス
:3尺四方、10数ヶ所
寛文3(1663)→明和6(1769)改修
市史跡
市教委
保存良好、残存数減少
宇土藩初代藩主・細川行孝/轟水源→(松橋焼の土管)→藩士の屋敷内の井戸、町人の共同井戸に引水(飲料水)/その後、管の傷みが激しくなり、5代藩主・興文が馬門石製の樋管に交換/国内最古級かつ現役の上水道/連結部に「がんぜき(一種の三和土)」を使用
2
A
轟泉水道 〔水道塘〕
ごうせん・すいどうとも
熊本/宇土市
轟泉水道
石樋管の石蓋列
(馬門石)
長約100m
明和6(1769)
市史跡
市教委
石管、「がんぜき」が視認できる
地形の関係で、生活道路の中央部に轟泉水道の暗渠の石蓋が一列に並んでいる
2
B
冷水御用水道の隧道
ひやみず
鹿児島/鹿児島市
城山遊歩道
トンネル式水道
長1.2㎞(水道の全長)
享保8(1723)
鹿児島市水道局
遊歩道からわずかに見えるだけ
島津家第22代当主・継豊(病身のため、父・吉貴が介助)が城山の北端(現・冷水町)の水源から城下に至る上水道を築造(それまでは、井戸に頼っていたと推定される)→詳細は不明だが、『倭文麻環』(1812)に「冷水の邑は…御用水となれるなり…山岡に洞を鑿て迂回して金城に入る」と記されているのでトンネルが掘られたことが分かる→現在、城山遊歩道沿いに1ヶ所見られるトンネルの吐口は、恐らくこの当時のもの/現地解説板には、第27代当主・斉興の時代に大改修されたと書かれているが、それはトンネル部分ではなく、城下に入ってからの給水部分であろう
3
C
玉里水道の高枡
たまざと
鹿児島/鹿児島市
市水道局・玄関前
<玉里邸・正門内側>
石高枡
(溶結凝灰岩)
高約2.5m
天保6(1835)
鹿児島市水道局
移設・展示
玉里水道は、玉里島津邸のための専用水道(長約500m)/高枡は、石管内に一定の水圧をあけるために設置された/耐圧石管と高枡を組み合わせた水道は、判明している限り、全国で冷水御用水道と玉里水道のみ(高枡の現存は玉里水道のみ)/他にも、市立鹿児島女子高等学校内にあるとされる
2
A
冷水御用水道の石管
ひやみず
鹿児島/鹿児島市
石管(溶結凝灰岩)
長61㎝,15㎝角
天保10(1839)?
鹿児島市水道局
水道局で一部保管
石をくり抜いた石管は金沢市の辰巳用水の逆サイフォン石管(天保14頃~嘉永3(1843-50)?)と、富山県黒部市の竜の口用水の逆サイフォン石管(嘉永元(1848))しか把握していない→「くり抜く」ための要件は水圧に耐えるためだが、冷水御用水道に逆サイフォンがあったとは思えない→『鹿児島市水道史』(1991)によれば、城下の配水には高枡が使われたとあるので、圧送用の石管だったと思われる/敷設時期については、「水神碑」に、「天保十年…新刻石をもて城内まで七百四十間のあいだ御仕調あたらに…」とあるので、この時点でのものと推定する(それでも、辰巳用水や竜の口用水より古い)
4
B
冷水水源地内水神碑
ひやみず
鹿児島/鹿児島市
冷水水源地
石碑(尖頭角柱)
天保10(1839)
鹿児島市水道局
移設
(正面中央)「水神」、(場所不明)「そもそも 此の御用水のはしめは 享保八癸卯のとし 御造初ありて あふけなくも 水筋の屋敷屋敷は 双方五尺かゝりの程 相当の料くたしおかれ 御用地になし置れけり 久しくなりゆくまゝに 人もいりかはり かのよしあるをもわきかね 薗の樹木はおのがじし 生茂り根さし長くはひいり なかれを戸さし もれ水多く いはんかたなく 仮初の御修甫にては なかなかならぬ気しきなれは このたひ 新刻石をもて 御城内まで七百四十間のあいだ御仕調あたらに水神を建立するものなり」(『鹿児島市水道史』p.34)
2
C