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岩手県
写真
名称
ふりがな
区市町村
付帯情報
形式
諸元
建造年
文化財
出典
保存状態
価値判断に係る事項
保存
評価
価値
評価
志波城の南大路
しわ
盛岡市
志波城古代公園
土道
長238m,幅18m
延暦22(803)
国史跡
WEB
昭和51、東北道の建設工事に伴い発見→調査→国指定史跡化→公園整備(大路跡は埋設保存)
774-811にかけての「三十八年戦争」で朝廷と蝦夷が戦った際の拠点
3
B
上田の奥州街道松並木
うえだ
盛岡市
<奥州街道>
松並木
13本
江戸期
WEB
上田一里塚付近に残存
樹齢:104~174年
3
C
緑ヶ丘の奥州街道松並木跡
みどりがおか
盛岡市
<奥州街道>
松並木
12本
江戸期
現地調査
12本残る
新興住宅街内に残る
3
C
塚の沢一里塚
つかのさわ
盛岡市
(玉川区藪川・」外山)
<小本街道>
一里塚(2基)
北塚
:高1m,直径8m,
南塚
:高3m,直径8-9m
江戸初期
県史跡
現地解説板
国道455のすぐ脇に旧道の両側に当時のまま残る/塚木なし
小本街道は海産物を盛岡に運ぶ重要な輸送路→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
2
B
小野松一里塚
おのまつ
盛岡市
<奥州街道>
一里塚(2基)
慶長9-15(1604-10)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/WEB
塚木なし/両塚現存してはいるが、東塚は半壊していたものを道路の拡幅にあわせて盛土復元されている
現役の道路の両脇にある
2
B
大堂一里塚
だいどう
盛岡市
(上米内・米内沢、白石)
<野田街道>
一里塚(2基)
慶長15(1610)頃
市史跡
現地解説板
塚木なし/国道455から分岐した旧道の両側に若干荒れて残る/塚木なし
野田街道は塩の道として利用→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
3
B
高畑一里塚
たかばたけ
盛岡市
<宮古街道>
一里塚(2基)
寛永18-20(1641-43)
県史跡
市教委/WEB
塚木なし/山中に放置されているが、ほぼ完全な形で残る
3
B
末崎川一里塚
まつざきがわ
盛岡市
(玉山区藪川・末崎川)
<小本街道>
一里塚(2基)
北塚
:高4.5m,直径9.5m,
南塚
:高3m,直径9m
江戸期
県史跡
WEB
塚木なし/南塚の北側は欠損
小本街道は海産物を盛岡に運ぶ重要な輸送路→道が険しいため牛の背に積まれて運搬
3
B
簗川一里塚
やながわ
盛岡市
(簗川1地割)
<宮古街道>
一里塚(2基)
北塚
:高3m,直径10m,
南塚
:高3m,直径9m
寛永18-20(1641-43)
市史跡
WEB
塚木なし/樹林内
基部に石組
3
B
独活倉一里塚
うどくら
盛岡市
<奥州街道>
一里塚(1基)
江戸期
選奨土木遺産
塚木なし/東塚のみ/車道脇
3
C
上田一里塚
うえだ
盛岡市
アネックス川徳
<奥州街道>
一里塚(1基)
慶長9~15(1604~10)
県史跡/選奨土木遺産
市教委/WEB
西塚のみアネックス川徳敷地内に現存/オリジナルの塚木が台風により倒木→平成17年に松を新植
3
C
笹平一里塚
ささだいら
盛岡市
四十四田ダム
<奥州街道>
一里塚(1基)
江戸期
選奨土木遺産
WEB
増水時は南部片富士湖に水没/西塚のみ残る→塚木あり
ダム湖の中にあり、増水時は塚が小島のようにダム湖に浮かぶ
3
C
大倉峠一里塚
おおくら
盛岡市
(簗川7地割)
<宮古街道>
一里塚(1基)
寛永18-20(1641-43)
市史跡
WEB
塚木なし/山中
4
C
新塚一里塚
しんつか
盛岡市
<奥州街道>
一里塚(1基)
東塚
:高3.20m,直径9.50m
江戸期
県史跡/選奨土木遺産
WEB
少し形が崩れている
4
C
毘沙門堂平一里塚
びしゃもんどうだいら
盛岡市
<小本街道>
一里塚(1基)
北塚
:高3m,直径9.2m
江戸期
県史跡
WEB
雑木の中に残存
3
C
元・
中太田上の道標
なかおおた
盛岡市
<沢内街道>
石道標(花崗岩)
高50㎝,幅37.5㎝,厚15㎝
元禄12(1699)
市有形民俗
市教委
盛岡市太田民俗資料館に移設
「右者 湯沢道/左者 猪去山道」/17世紀の道標
3
C
簗川の庚申塔道標1
やながわ
盛岡市
石道標
寛延4(1751)
市有形民俗
上太田の庚申塔道標
かみおおた
盛岡市
(大堀)<沢内街道>
石道標(自然石)
高100㎝,幅90㎝
明和2(1765)
市有形民俗
市教委
原位置
「右ハ中瀬道/左ハ湯道」/見ざる・聞かざる・言わざるの猿3頭と鶏2羽が線刻されている
1
C
山岸の題目塔道標
やまぎし
盛岡市
石道標
明和3(1766)
市有形民俗
四ッ家の道標
よつや
盛岡市
<沢内街道>
石道標(自然石)
高105㎝,幅90㎝
明和4(1767)
市教委
「(百万遍念佛供養塔)右ハ湯道/左ハ山道」
C
上米内の庚申塔道標
かみよない
盛岡市
石道標
寛政元(1789)
市有形民俗
簗川の庚申塔道標2
やながわ
盛岡市
石道標
寛政12(1800)
市有形民俗
東山の庚申塔道標
(砂溜の庚申塔道標)
ひがしやま
(さだまり)
盛岡市
(2丁目)<宮古街道>
石道標(自然石)
高250㎝,幅125㎝,厚70㎝
文化4(1805)
市有形民俗
歴史の道/WEB/市教委
多くの道標が集約
(正面右端)「右ハ か己め 宿」、(同左端)「左ハ みやこみち」/正面に大きく「庚申」と陰刻
2
B
本宮の題目塔道標
もとみや
盛岡市
(3丁目)
石道標
文化7(1810)
市有形民俗
本宮の供養塔道標
もとみや
盛岡市
宮沢寺<沢内街道>
石道標(自然石)
高75㎝,幅90㎝
文化9(1812)
市教委
移設
「南ハくわんおん道/東ハもりおか道/北ハ雫石道/西ハゆみち」
2
-
東山の題目塔道標
(砂溜の題目塔道標)
ひがしやま
(さだまり)
盛岡市
(2丁目)<宮古街道>
石道標(自然石)
高220㎝,幅178㎝,厚63㎝
弘化2(1845)
市有形民俗
歴史の道/WEB/市教委
多くの道標が集約
(正面右)「右ハ ミや古志んみち」、「左ハ ミや古みち」/正面に「南無阿弥陀佛」と陰刻/文化4(1805)の庚申塔道標と同じ場所に立っており、この間に川目部落以降に宮古新道が開削されたことが推察される
2
B
飯岡新田の道標
いいおかしんでん
盛岡市
<沢内街道>
石道標(自然石)
高80㎝,幅60㎝
文政2(1819) or
安政2 (1855)
市教委
風化により年代の判読困難
「(百万遍供養塔) 右ハゆ沢/左ハくわおん」
-
繋の題目塔道標
つなぎ
盛岡市
(湯ノ舘)
石道標
安政3(1856)
市有形民俗
旧鹿妻穴堰頭首工取水出口
かづま
盛岡市
雫石川
素掘トンネル
(水路)
長11m,幅2m
慶長4(1599)
WEB
当初のまま
設計:鉱山師・鎌津田甚六/雫石川のせり出した岩山に穴を穿って雫石川の水を流れを鹿妻穴堰に導水した
1
C
鹿妻穴堰
かづま
盛岡市
雫石川
用水路
慶長4(1599)
WEB
C改修
江戸初期の南部藩最大の事業
4
B
大慈清水
だいじしみず
盛岡市
(鉈屋町)
湧水
全長11.2m,幅1.7m
江戸期
歴史の道/WEB
現役使用/木造屋根付き
下記の「青龍水」と並び盛岡を代表する湧水/湧水から雛壇形式の水枠に水が順に流れ、一番井戸が飲料水、二番井戸が米とぎ場、三番井戸が野菜・食器洗い場、四番井戸が洗濯物すすぎ場として使われている
1
A
青龍水
せいりゅうすい
盛岡市
(大慈寺町)
湧水
江戸期
歴史の道/WEB
現役使用/木造屋根付き
上記の「大慈清水」と並び盛岡を代表する湧水/湧水から雛壇形式の水枠に水が順に流れ、一番枠が飲料水、二番枠が米とぎ水用、三番枠が食器洗い物用、四番枠が洗濯や足洗い用として使われている
1
A
風越の七里塚
かざこし
一関市
<気仙道・登米道>
一里塚(1基)
江戸初期?
市史跡
市教委
石碑がいっぱい立っていて一里塚らしくない
藩営一里塚を伊達藩は七里塚という/里程は六里に相当、陸奥守の陸と六里の六が同音のため藩主にはばかり七里と呼んだ
3
C
猿鼻隧道
(北照井堰穴山隧道)
さるばな
一関市
素掘トンネル
(水路)
長約773m
寛文元(1661)
WEB
C改修/隧道は歴史が古く、幾度も蛇行した隧道を改修した工事跡が現存
一関市と平泉町を繋いでいる
4
B
南照井堰
みなみ、てるい
一関市
鳴瀬川
用水路
約64㎞
明応2(1493)
市教委/WEB
C改修/石積が部分的に残存
計画・施工: 藤原秀衡家臣・照井太郎高春が文治元(1185)に着工→奥州藤原氏滅亡と共に頓挫/高春の子孫・高安により300年後に完成/この水路により一関の平野部の開墾が進んだ
3
B
山根堰
やまね
一関市
鳴瀬川→照井堰
用水路
長4512m,幅約1m
明応2(1494)
市教委
C改修/一部に石積、雁木が残存
照井堰の一部/田高西分水工から山根堰落合までの区間の名称
3
C
下り松用水
さがりまつ
一関市
磐井川
用水路
正徳5(1715)
市教委
一部C改修/多くは素掘りか石積
本寺地区の農業幹線水路
2
C
松川堰
まつかわ
一関市
砂鉄川
用水路
灌漑面積:30ha→50ha
安永年間(1772-80)以前
WEB
C改修
数度の改修を経て現在に至る/安政年間の古文書に存在記録
5
C
有切溜池の百間堤
ありきり
一関市
溜池
長180m以上
19世紀前半
ため池百選
WEB
改修
施主: 小野寺面之助/有切棚田の水源
2
C
久保川流域の溜池群
くぼ
一関市
溜池(約300ヶ所)
江戸期?
ため池百選
WEB
保存状態良好
山間部の棚田の唯一の水源
1
C
山吹棚田
一関市
棚田
50枚
中世(平安~室町)
棚田百選
WEB
保存状態良好
中世の一関両盤地方を統治した葛西家の七騎の一人・東山旗頭大原千葉氏の末裔の人々によって耕作/日本最北端の棚田
1
B
人首山本七里塚
ひとかべ、
やまもと
奥州市
(米里・山本)
<盛街道>
一里塚(2基)
高1.4m,直径5.4m
江戸期
市史跡
市教委
放牧地内
3
B
北野七里塚
きたの
奥州市
<盛街道>
一里塚(1基)
高0.9m,直径3.2m,塚木:桜
江戸期
市教委
山林内/桜の塚木は補植?
3
C
六百刈田七里塚
ろっぴゃくがりた
奥州市
<盛街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
非常に小さい/北塚のみ
4
-
若柳の道標1
(市野々の追分石)
わかやなぎ
奥州市
(宮坂)<仙北道>
石道標
高83㎝,幅39㎝
享保19(1734)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
原位置
(正面)「まいさは/右ハ まい沢通/左ハ 水沢通」
1
C
羽田町の題目塔道標
はだ
奥州市
(門下)
石道標
元文3(1738)
水沢風土記3
「(從是為須證菩堤)右ハ黒石町通/左ハ正法寺通」
南都田の題目塔道標1
(国分の追分石)
なつた
奥州市
(国分)<仙北道>
石道標(自然石)
高104㎝,幅58㎝
宝暦4(1754)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
原位置
(正面右)「北ハ せんぼく道」、(同左)「南ハ やまかい道」/正面中央に
「南無阿彌陀佛」と陰刻
1
C
天文台通りの題目塔道標
てんもんだい
奥州市
<仙北道>
石道標
宝暦10(1764)
水沢風土記3
「(慈眼視衆生/福聚海無量)右ハせんぼく道/左ハ衣川道」
若柳の題目塔道標1
わかやなぎ
奥州市
<仙北道>
石道標
高53㎝,幅30㎝,厚15㎝
明和2(1765)
胆沢町の石造物
「(南無阿彌陀佛)みぎハせんほくみち/ひだりハかね山みち」
-
若柳の題目塔道標2
(堰袋の追分石)
わかやなぎ
奥州市
(堰袋)<仙北道>
石道標(自然石)
高60㎝,幅56㎝
明和5(1768)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
原位置
(正面右端)「右ハ 鹿合みち」、(同左端)「左ハ一の々みち」/正面中央に「南無阿彌陀佛」と陰刻
1
-
苗代沢の道標
なわしろさわ
奥州市
石道標
明和年間(1764-1771)?
衣川村石碑・石像調査報告書
「從是、西ハやま道/北ハなわしろさわ/東ハあま田たき/南ハ大もりみち西岩井」
中島の道標
なかじま
奥州市
石道標(自然石)
高約1.3m
安永元(1772)
江刺市史4/WEB
原位置
「右 ひとかべ道/左 のてさき道」/人首街道と野手崎街道分岐点
1
C
佐倉河の道標1
さくらかわ
奥州市
(角ノ町)
石道標
天明2(1782)
水沢風土記3
「鎮守府八幡宮/従是五町三
□□
」
真城の題目塔道標
しんじょう
奥州市
(町屋敷)熊野神社
石道標
天明4(1784)
水沢風土記3
移設
「(南無阿彌陀佛)右ハくろ石/左ハさくば」
2
佐倉河の道標2
さくらかわ
奥州市
(北田中)
石道標
高60㎝,幅20㎝
天明4(1784)
水沢風土記3
「右ハ八まん/左ハ加袮がさ記」
-
若柳の題目塔道標3
わかやなぎ
奥州市
(馬留)
石道標
高116㎝,幅47㎝,厚11㎝
寛政元(1789)
胆沢町の石造物
「(南無阿彌陀佛)右ハをろせい通りせんふく道/ひだりハさる山通り」
C
黒石町の供養塔道標1
くろいし
奥州市
正法寺
石道標
高70㎝,幅47㎝,厚15㎝
寛政3(1791)
水沢風土記3
移設
「(念沸供養塔)右 岩谷堂/左 黒石」
2
-
黒石町の供養塔道標2
くろいし
奥州市
(山内)
石道標
寛政3(1791)
水沢風土記3
「(為供養菩提)右ハ正法寺/左ハつわもの沢」
神明町の題目塔道標
しんめい
奥州市
神明神社
石道標
文化9(1812)
水沢風土記3
移設
「(南無阿彌陀佛)右ハ子やぎ船場/左ハおくらへ」
2
東大通りの庚申塔道標
ひがし
奥州市
雲峰神社
石道標
文化11(1814)
水沢風土記3
移設
「右ハ寺小路/左ハ袋町」
南都田の道標1
(化粧坂の追分石)
なつた
奥州市
(化粧坂)薬師堂表参道
石道標(自然石)
高58㎝,幅20㎝,厚14㎝
文化14(1817)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
原位置
(正面中央)「やくしみち」、(同左端)「け者ひさか」、(同右下隅)「是より二丁」
1
-
玉里の道標1
さまさと
奥州市
(白山通)皇大神社
石道標
高約50㎝
文政元(1818)
江刺市/江刺市史4
移設
「東ハ人首/北ハかもさわ/西ハいわやとう」
2
-
若柳の題目塔道標4
わかやなぎ
奥州市
<仙北道>
石道標
高80㎝,幅46㎝,厚22㎝
文政2(1819)
胆沢町の石造物
「(西宮大明神)右ハ仙北之道/左ハ加子山」
C
佐倉河の道標3
さくらかわ
奥州市
(仙人)
石道標
高105㎝,幅78,厚70㎝
文政6(1823)
水沢風土記3
「仙人宮」
C
佐倉河の廻国塔道標
さくらかわ
奥州市
(宮ノ内)八幡宮
石道標
天保2(1831)
水沢風土記3
移設
「(湯殿三山)鎮守府八幡社是よりちか道十二丁」
姉体町の庚申塔道標
あねたい
奥州市
(石名坂)
石道標
高65㎝,幅40㎝,厚25㎝
天保3(1832)
水沢風土記3
「右ハ くろいし/左ハ しま」
-
小山の大黒天道標
(恩俗長根の追分道標)
おやま
奥州市
(上恩俗)
石道標
高71㎝,幅62㎝
天保3(1832)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
原位置
(正面右端)「東 八まんくうとふり前沢へ」、(同左端)「南、右 ころも可ハみち/左 忠功寺とふり」、(右面)「北 ミつさ王ミち」/正面中央に俵に乗った大黒天絵図を陰刻
1
B
黒石町の庚申塔道標
くろいし
奥州市
(大久保)
石道標
高50㎝,幅47㎝,厚15㎝
天保3(1832)
水沢風土記3
私有地内
「右ハもたへまち/左ハ山うち」
-
天文台通りの庚申塔道標
てんもんだい
奥州市
<仙北道>
石道標
天保15(1844)
水沢風土記3
「右ハせんぼくへ/左ハけはいざか」
勝手町の道標
かって
奥州市
八幡神社
石道標
弘化2(1845)
水沢風土記3
「(金華山/とちのき)南おろしへ
□□
/北うわはば村
□□
」
若柳の題目塔道標5
(供養塚の追分石)
わかやなぎ
奥州市
(箸塚)
ポケットパーク供養塚
石道標(自然石)
高80㎝,幅58㎝,厚43㎝
嘉永2(1849)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
移設
(左面)「右ハ 水沢/左ハ 村みち」/正面に「行/山、鹿嶋大明神」と陰刻
2
C
若柳の馬頭観音道標
(供養塚の追分石)
わかやなぎ
奥州市
(下松原)
石道標(自然石)
高72㎝,幅50㎝
安政4(1857)
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
移設、集約
(正面最下部)「右ハ 水沢道/左 村道/西 市野々」/正面中央に「(梵字)馬頭碑」と陰刻
3
-
玉里の道標2
たまさと
奥州市
(新田前)
石道標
高約50㎝
文久元(1861)
江刺市史4
「右ハいて人首/左ハのでさき・西ハいわや堂道」
-
南都田の題目塔道標2
なつた
奥州市
(林福野)<仙北道>
石道標
高75㎝,幅49㎝,厚25㎝
文久4(1864)
胆沢町の石造物
移設
「(南無阿彌陀佛)北ハさくば/南ハみつさわ/西ハあきたみち」
-
大桜の道標
おおざくら
奥州市
<奥州街道>
石道標
高201㎝,幅50㎝
江戸中期以降
前沢町史・下2
移設
「大桜道 是より東六丁(山にふじ みちのくにこの 桜かな 官鼠)」/官鼠は明和(1764-71)から文化(1804-17)、文政(1818-29)年間の俳人
B
小田の道標
こだ
奥州市
石道標
高100㎝,幅60㎝
江戸期
水沢風土記3
「右は正法寺に至る/左はやまみつ」
C
野田の道標
のだ
奥州市
石道標
高81㎝,幅27㎝
江戸期
前沢町教育委員会/前沢町史・下2
「右 さくば/左 大曲/ふなば」
C
若柳の道標2
(幅下の追分石)
わかやなぎ
奥州市
(幅下)<仙北道>
石道標(自然石)
高77㎝,幅32㎝,厚23㎝
江戸期
市有形民俗
胆沢町の石造物/WEB
住宅建設の際に出土
(正面)「追分、右ハ 一の於通り 仙北みち/左ハ 衣川通り やまみち」
3
-
南都田の道標2
なつた
奥州市
(上戸)
石道標
高66㎝,幅30㎝,厚10㎝
江戸期
胆沢町の石造物
移設
「北ハ永岡街/東ハ水沢街/南ハ薬師堂道」
-
古城の道標1
こじょう
奥州市
(水尻)
石道標
高63㎝,幅30㎝
江戸期
前沢町史・下2
「この方、しもあねたい/この方/正法寺通り/この方、かみあそふなば通り/もたい道/もくろぎ道」
-
田原の道標
たわら
奥州市
(山居)大日如来堂
石道標
高59㎝,幅20㎝,厚5㎝
江戸期
水沢風土記3
移設
「北八
□□
/西水沢行」
-
羽田町の道標
はだ
奥州市
(門下)千養寺
石道標
高58㎝,幅40㎝,厚23㎝
江戸期
水沢風土記3
移設
「從是
□□
通、右ハ黒石/左ハさる沢」
-
白山の道標
しらやま
奥州市
(大塚)
石道標
高55㎝,幅37㎝
江戸期
前沢町史・下2
(左側)「東 もたい/南 まへ沢」(右側)「西 まへ沢/北
□
沢」
-
玉里の道標3
たまさと
奥州市
(青篠)
石道標
高約50㎝
江戸期
江刺市史4
資料館に移設/上部3分の1欠損
「向左ハ農でさ起/右ハ伊手道」
-
古城の道標2
こじょう
奥州市
(千刈田)
石道標
高48㎝,幅40㎝,厚18㎝
江戸期
胆沢町の石造物
移設
「東ハ北下幅水沢ニ/南ハ水沢ニ/北ハ北下幅ニ/西は栃木永岡ニ、行」
-
南都田の道標3
なつた
奥州市
(化粧坂)久須志神社
石道標
高48㎝,幅39㎝,厚10㎝
江戸期
胆沢町の石造物
一部欠損/移設
「(金華山/講中)右ハ山道・左ハやくし」
-
小山の道標1
おやま
奥州市
(赤斎美)
石道標
高46㎝,幅26㎝,厚13㎝
江戸期
胆沢町の石造物
「右ハやくしどふ道」
-
南都田の道標4
なつた
奥州市
(駒堂)
石道標
高45㎝,幅34㎝,厚20㎝
江戸期
胆沢町の石造物
移設
「北ハ駒形街/東 水沢街/南 下嵐江」
-
小山の道標2
おやま
奥州市
(北昼沢)
石道標
高44㎝,幅35㎝,厚11㎝
江戸期
胆沢町の石造物
「右ハやくしどふ道」
-
黒石町の道標
くろいし
奥州市
(下ノ在家)
石道標
高40㎝,幅30㎝
江戸期
水沢風土記3
「道是、右ハ正法寺/左ハ岩伏部」
-
穴山堰
あなやま
奥州市
胆沢川
用水路(石積)、
素掘トンネル
(水路)
長18㎞,
穴堰
:長
2759
m(昭和期の延長部分を含む),幅1.2-1.3m
承久3(1221)、嘉禄年間(1225-27)、応安6(1373)、明応2(1493)、明応年間(1492-1501)など
諸説
胆沢平野土地改良区/市教委
穴堰(非現役):壁面には、たがねの痕跡や、明りを取るために菜種油を灯した半皿状の窪みが残る
胆沢平野扇状地最古の用水堰=建造年・建造者とも不明
(一番古い説は照井三郎)
/茂井羅堰、寿安堰の上流に位置する/平堰(開水路)部分と穴堰(トンネル)部分に分かれている/平堰は巨石や岩盤をくり抜き、側面は石積で形成されており、全部で
10ヶ所
ある
2
A
茂井羅堰群
しげいら
奥州市
胆沢川
用水路
北堰
:約5㎞,
中堰
:約5㎞,
南堰
:約7㎞
元亀年間(1570-1572)?
胆沢平野土地改良区/WEB(疏水名鑑)
C改修
建造年については『安永風土記書出』(1774)によれば、元亀年間に北郷茂井羅という女性が提案し開削されたとある(200年も後世の記述なので注意が必要)/北堰、中堰、境田堰、小違堰、南堰の5水路からなる
5
C
寿安堰
じゅあん
奥州市
胆沢川
用水路(石積)
上堰
:長約8.2㎞,
下堰
:長約13.7㎞(現在長)
元和9(1623)寿安追放・工事中断→寛永8(1631)
胆沢平野土地改良区/市教委
C改修/取水口周辺の石垣と支線の隧道が残存
伊達正宗家臣・後藤寿安により元和4(1618)に着工/後藤寿安はキリシタンだったため追放され、古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学が引き継ぎ完成した
5
B
旧葦名堰
(二の台堰)
あしな
奥州市
北股川
用水路、
素掘トンネル
(水路)
長24㎞,
穴堰
:長5530m(15ヶ所)
寛文9(1669)
胆沢平野土地改良区/市教委
現在の葦名堰とは別ルート→2㎞区間を除き非現役=未改修
衣川荘の領主・葦名氏が、小山の二の台を開発するため、5代、51年をかけて開削したとされる/15ヶ所の穴堰中最大のものは長約400m
2
B
吉浜の浜街道石畳
よしはま
大船渡市
<浜街道>
石畳道
長約30m,幅1-2m
近世
歴史の道・浜街道p18,39/市教委/三陸町史2
現在は使われていない旧道に残る
鍬台峠に向かう坂にある
3
C
新峠河内一里塚
しんとうげかわち
大船渡市
<浜街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
市教委/WEB
道路脇に残る/塚木なし
3
C
鍬台一里塚
くわだい
大船渡市
<浜街道>
一里塚(1基)
高2.5m,直径9.4m
江戸期
市史跡
市教委/歴史の道・浜街道p18,39
草に覆われている
4
C
細野一里塚
ほその
大船渡市
<浜街道>
一里塚(1基)
北塚
:高2.7m,直径4m
江戸期
市史跡
市教委/WEB
下部が石垣状に補修/塚木なし
元禄12(1699)の「気仙郡図」に記されているので、それ以前の築造
4
-
白木沢一里塚
しろきざわ
大船渡市
<浜街道>
一里塚(1基)
高2.0m,直径2.3m
江戸期
市史跡
市教委/歴史の道・浜街道p18,39
草が生い茂り全体がわからない
4
-
平根一里塚
ひらね
大船渡市
<浜街道>
一里塚(1基)
高2.5,直径5.6m
江戸期
市史跡
市教委/歴史の道・浜街道p17,39
草が生い茂り全体がわからない
4
前田の道標
まえだ
大船渡市
<浜街道>
石道標
高1.4m,幅1.0m
安政2(1855)
歴史の道・浜街道p16,17,29
猪川地区公民館に移設
「(南無阿弥陀仏)右 吉浜唐丹/はまなんふミち/左 有住世田米/おかなんふミち」/「塚の追分け」といわれている
3
C
清水峠
(新道峠)
の浜街道
しみず、はま
釜石市
<浜街道>
土道
約900m
天保5(1834)
WEB/図説岩手県の歴史p173
道路沿いに石垣が残る/頂上付近に清水峠越え開削の由来が書かれた庚申塔(天保5)が建っている
天保4(1833)の大飢饉の救済事業として、老若男女を雇い、急坂の多い浜街道・熊ノ木峠越えに替えて清水峠越えの道を開いた
3
B
和山三軒茶屋の遠野街道
わやま
釜石市
<遠野街道>
土道
天保5(1834)
WEB/図説岩手県の歴史p173
未舗装の道が古碑などと共に残る
和山は馬継所で、遠野からの農産物と海岸の塩や海産物の交換が行われた/三軒茶屋は、三軒の茶屋があったことに由来
3
C
石塚峠七里塚
いしづか
釜石市
石塚峠<浜街道>
一里塚(1基)
東塚
:高5m,直径6m
江戸期
市史跡
WEB/歴史の道・浜街道p19
石で覆われている
3
C
女坂一里塚
めさか
釜石市
<浜街道>
一里塚(1基)
塚木:松(樹齢約200年)
江戸期
市史跡
WEB
林の中に残存/塚木は補植だが江戸期のもの
3
C
定内一里塚
さだない
釜石市
<釜石街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
WEB
下部を石積風に補強
4
C
嬉石の道標
うれいし
釜石市
<浜街道>
石道標
高98㎝,幅55㎝,厚27㎝
江戸期前半
歴史の道・浜街道p29/市教委
右側欠損
「(右側欠損)左ハや村道」
-
平田の道標
へいた
釜石市
<浜街道>
石道標
高60㎝,幅46㎝,厚21㎝
江戸期
歴史の道・浜街道p19,29/市教委
「右ハせんだい」
-
鳥谷坂の道標
とやさか
釜石市
<浜街道>
石道標
高35㎝,幅18㎝,厚13.5㎝
江戸期
歴史の道・浜街道p29/市教委
郷土資料館に移設
「右ハ山道/左ハ釜石道」
-
石塚峠の藩境印杭
いしづか
釜石市
<浜街道>
木杭(西側)
18世紀
市史跡
WEB/歴史の道・浜街道p19
郷土資料館蔵
浜街道の南部領と仙台領の藩境
3
C
釜石甲子町の中堰
・跡
かまいし、
かっし
釜石市
<遠野街道>
用水路
寛政12(1800)
WEB
埋設
かつては、中堰が道の真ん中を通っているのが確認できた(石を埋設することで、完全に消滅させるのは避けた)
4
C
仙人峠の石の水槽
せんにん
釜石市
<遠野街道>
上水道、石水槽
文化2(1805)
WEB
山中に石の水槽のみ残る
土地の豪商・佐野忠治は山の中腹まで樋を通し水場をつくった/馬用に木の水槽、人用に石の水槽を作った
2
C
大橋高炉
・跡
おおはし
釜石市
洋式高炉
不明
安政4(1857)
WEB
かつての想定位置に記念碑
水戸藩の那珂湊反射炉(1855)の築造に関わった盛岡藩士・大島惣左衛門(後の高任)が、大砲鋳造の原料が砂鉄では適さないことから、鉄鉱石から銑鉄を造る高炉の築造に踏み切った(築造自体は盛岡藩)/連続出銑に成功した日本初の西洋式高炉(最古は嘉永5の薩摩藩の集成館だが、試験的に成功したとされる程度)
5
A
橋野高炉
・跡
はしの
釜石市
洋式高炉(花崗岩)
(第1)5.8m四方,
(第2)4.8m四方,
(第3)5.4m四方
安政5(1858)仮高炉→
万延元(1860)か翌年に一番・二番高炉完成
国史跡/AS
MEから顕彰
WEB
高炉の一番外側の花崗岩の石組が部分的に残る
日本で初めての洋式高炉「大橋高炉」の築造者・大島惣左衛門(後の高任)の2つ目の高炉/支配人は盛岡の本町の市之助/現存する日本最古の洋式高炉
2
唐丹の星座石
とうに
釜石市
唐丹町本郷
石碑
(不整形の扁平石)
長径70㎝,短径44㎝,厚18㎝
文化11(1814)
市史跡
WEB /WEB(日本測量史)
移設/景観を阻害する覆屋内/
写真
は文字が見やすいよう上下反転してある
(中心の円内)「北極/出地三/拾九度/十弐分」(北緯39度12分)/円の周囲に、黄道十二宮(天蠍、人馬、魔羯、寶瓶、雙魚、白羊、金牛、陰陽、巨蟹、獅子、雙女、天秤、)と中国古来の十二次〔天球を天の赤道帯に沿って西から東に十二等分したもの〕(析木、星紀、玄枵、娵訾、降婁、大梁、實沈、鶉首、鶉火、鶉尾、壽星、大火)の文字列を半時計回り交互に配する→隣接する「測量の碑」の冒頭文が、「天蠍/陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑記」で始まっているため、「天蠍(さそり座)」を最初に表示した/伊能忠敬が、享和元(1801)8月に唐丹村で測量した13年後に碑を建てたことを、「天蠍」と結びつけて意味付けようとする説もある
3
A
成田一里塚
なりた
北上市
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高3.2m,直径11.7×6m,
西塚
:高3m,直径14.1×12.5m
慶長9(1604)以降
県史跡
市教委/WEB
西塚の塚木(欅)はオリジナル/東塚の塚木(桜)は補植/よく整備されている
西塚の欅が非常に立派/現役の道路をはさんで2基きれいに残っている
2
A
二子一里塚
ふたご
北上市
一里塚(2基)
東塚
:高2m,直径13.3×12.7m,
西塚
:高2.3m,直径12.1×11.1m
慶長9(1604)以降
県史跡
市教委/WEB
西塚の塚木(小楢)は恐らくオリジナル/東塚の塚木は補植
西塚は神社の森と一体化
2
B
相去町の道標
あいさり
北上市
<奥州街道>
石道標
天保14(1843)
市教委
当時のまま
「(
○
南無阿弥陀佛) 右ハ六はらなら山くわんおん道/左ハかねかさき」/佛の字の下に絵文様
1
C
下大関川の道標
あいさり
北上市
<奥州街道>
石道標
不詳
市教委
博物館に移設
「右ハくるゆわ道/左ハきよみち道」
4
-
南部領伊達領境塚
なんぶ、だて
北上市・
(胆沢)金ヶ崎町
<盛岡藩~仙台藩>
土塚
総延長130㎞
寛永9(1642)
国史跡
(11kmが指定)
市教委
史跡指定範囲には、挟塚2基、大塚11基、小塚198基が現存/大塚、小塚は大きく削平されているが、挟塚は良好に保存
南部領と伊達領の境界の目印として構築/藩境の最重要箇所に挟塚、要所に大塚、その間埋めるように小塚を築いた
3
相去町の沈床
あいさい、
ちんしょう
北上市
北上川
水制
長85m,幅15m
近世
市教委/WEB
当時のまま
流心に対して45度の角度で下流に向かって突き出している石張沈床/北上川舟運の航路維持と仙台藩相去番所の附属施設として構築されたと思われる/近世には「岩出し」と呼ばれた
2
B
奥寺堰
おくでら
北上市
和賀川
用水路
長約28㎞,灌漑面積760ha
(上堰)延宝3(1675)、
(下堰)延宝7(1679)
WEB
C改修
施工: 南部藩士・奥寺八左衛門定恒、秋田藩阿仁銅山の鉱山師2人/上堰と下堰の2本があった
3
B
奥寺堰の春木場
おくでら、
はるきば
北上市
和賀川
貯水池
(林業遺産)
長約1㎞,幅約120m
延宝3(1675)
市教委
旧春木場は現在樹林化/中央部が畑地/水路の一部が現存
奥寺堰は上記参照/春木場は「春木」(薪)を下流に流すための貯水池=幅約120mの区間に5本の水路が並行して造られた
3
B
寒長根一里塚
さぶながね
久慈市
<久慈街道>
一里塚(2基)
南塚
:高2.3m,直径12.7m
江戸期
市史跡
市教委
南塚は国有林内
2
B
合戦場一里塚
かっせんば
久慈市
<久慈街道>
一里塚(2基)
高4.0m,直径12.7m
江戸期
市史跡
市教委
雑草に覆われている
久慈街道に残存するもので最大規模/塩の道
3
B
白石峠一里塚
しろいし
久慈市
<野田街道>
一里塚(2基)
北塚
:高1.8m,直径8.0m,
南塚
:高0.7m,直径5.8m
江戸期
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p23,24
南塚は極端に小規模で、頂部の盛土が流失して扁平化
北塚は現在県道路面と同一レベル/南塚は斜面山手にある
4
B
平沢一里塚
ひらさわ
久慈市
<浜街道>
一里塚(1基)
高3.63m,直径12.6m
江戸期
市史跡
市教委/WEB
林の中/塚木なし
3
C
旧・
小松の辻の庚申塔道標
こまつ
久慈市
<浜街道>
石道標(自然石)
高105㎝
明和4(1767)
歴史の道・浜街道p65
城内愛宕神社近くの辻に移設
「右ハくじ八戸/左ハ宇べ」
3
C
木売内の道標
きうりない
久慈市
<野田街道>
石道標
高100㎝,幅30㎝
文化2(1805)
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p23
大きな亀裂が入っている
「西 はせき」「東 のた」「南 ほその」「北 木売内」 /三界萬霊塔/この街道唯一の四方案内の道標
3
B
川原屋敷の庚申塔道標
かわらやしき
久慈市
<浜街道>
石道標
高67㎝
文政13(1830)
市教委/歴史の道・浜街道p66
当時のまま
宇部立仙/「右 小そで・左八日町」
-
小倉の道標
おぐら
久慈市
<野田街道>
石道標
文化2(1805)
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p24
小倉山駒形神社に移設
宇部立仙/「向、右 下とくさり/左 上とくさり」
3
C
和野の庚申塔道標
わの
久慈市
<野田街道>
石道標
文政13(1830)
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p23
当時のまま
宇部立仙/「右 たきの沢/左 とくさり/平止みちし」
2
C
寺里の庚申塔道標
てらさと
久慈市
<野田街道>
石道標
高68㎝
弘化3(1846)
歴史の道・浜街道p66
「右 八日町 左 みなと」
2
-
二又の庚申塔道標
ふたまた
久慈市
<久慈街道>
石道標(自然石)
高100㎝,幅51㎝
嘉永7(1854)
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p20
下部欠損?
「(
○
庚申塔) 右ハ山道/左 道 」
2
C
角掛峠の庚申塔道標
つのかけ
久慈市
<久慈街道・野田街道>
石道標(自然石)
高110㎝,幅38㎝
元治元(1864)
市教委/歴史の道・久慈・野田街道p20
移設/下部欠損?
「右ハのだ 砂川寅/左ハくぢ 」
3
C
麦生台場
・跡
むぎょう
久慈市
台場
①
:東西9.0m,南北10.0m,
②
:北東~南西38.0m,北西~南東23.0m
江戸期
市史跡
市教委
崩れかけた土塁が残っている
久慈湾に面した標高約60mの断崖上の平坦面にある/近くに狼煙穴と思われる穴がある
4
C
日向一里塚
ひなた
滝沢市
<雫石街道>
一里塚(1基)
北塚
:高2m,直径8m,塚木:なし
慶長9~寛永17(1604-40)
県史跡
村教委
(調査当時は村)
4車線化した国道46号脇に残る/塚木なし
雫石街道・秋田往来は、京・大阪から日本海・秋田湊経由で入ってくる物資の輸送路として、また、幕府・諸藩の馬買役人が国見峠を越え雫石経由で盛岡に入る道としても重要
3
C
菊塚一里塚
きくづか
滝沢市
<鹿角街道>
一里塚(1基)
高1.5m,直径6m
寛永年間(1624-44)
市史跡
村教委/WEB
周囲が農地となっており、道筋の痕跡は残っていない/林の中に残る
承応2(1653)に破損状況調査が行われていることから、それ以前の築造
3
C
滝沢の題目塔道標1
たきざわ
滝沢市
(巣子)<鹿角街道>
石道標(自然石)
高102㎝,幅55㎝
文化4(1804)
市史跡
村教委
下部埋設
(正面最下部右)「右 かつのみ…」、(同左)「左 おん山み…」/正面中央に「奉納正一位田村大明…」と陰刻/鹿角街道と岩手山参道の分岐点に下記「滝沢の題目塔道標2」と並んで建つ
1
C
滝沢の題目塔道標2
たきざわ
滝沢市
(巣子)<鹿角街道>
石道標
高179㎝,幅44㎝,厚36㎝
安政3(1856)
市史跡
村教委
(正面右下隅)「右 鹿角道」、(同左下隅)「左 柳澤道」/正面に大きく「巗鷲山」と陰刻/鹿角街道と岩手山参道の分岐点に上記「滝沢の題目塔道標1」と並んで建つ
1
B
越前堰
えちぜん
滝沢市
黒沢川
用水路
長31㎞
天正4(1576)
村教委
C改修
計画:斯波氏軍事顧問・綾織越前広信
4
B
迷岡一里塚
まよおか
遠野市
<花巻街道>
一里塚(2基)
高3m,直径5m,塚木:松,檜
正保年間(1644-48)
市史跡
市教委
北塚に残る松とヒノキの巨木のうち、少なくとも1本は当初の物ではないが、江戸期には遡る可能性あり
2
B
辷田峠一里塚
すべた
遠野市
<遠野街道>
一里塚(2基)
高2.9m,根本周り31m
正保年間(1644-48)以前
市史跡
市教委/WEB
山林内に周辺の整備されて残っている/塚に雑木が繁茂
3
B
大川目七里塚
おおかわめ
遠野市
<遠野街道>
一里塚(2基)
正保年間(1644-47)以前
市史跡
市教委/WEB
草地の中に残る
「塚の根一里塚」、「高橋七里塚」とも呼ばれる
B
仙台・盛岡藩境塚
せんだい、
もりおか
遠野市・
(気仙)住田町
<仙台藩~盛岡藩>
土塚
WEB/住田町教育委員会
小規模に縮小されて残存
盛街道にある仙台藩と盛岡藩の藩境塚
2
C
下同心丁桝形
しもどうしんちょう
遠野市
桝形
長約10m(南側)
寛文6(1666)頃
市史跡
市教委
道路に沿って両側に残存(北側は視認しにくい)/南側は西端が欠損
城下町防御のため、主な路の出入口に関門として設置されたもの/宿場の構口(石塁)と違い、土塁構造/上同心丁、中同心丁は滅失
2
C
角鼻隧道
かどはな
遠野市
猿ヶ石川→<角鼻堰>
素掘トンネル
(水路)
長373m,幅約1.6m,高約2.5m
寛永年間(1624~44)
市教委/遠野市土地改良区
拡幅→C改修
八戸直義家臣、下郷代官・宇夫方広道清左衛門により開削
5
C
長作堤防
ちょうさく
遠野市
猿ヶ石川
土堤防
2本,長さ280m,580m
天保14(1843)
市教委/現地案内板
堰堤工事のため一部滅失
氾濫のとき水を堤防外の遊水域に導いて、堤防にかかる水圧を内と外から同じにして決壊を防ぐ「かすみ堤」の技術が用いられている
2
B
上り街道の松並木
のぼり
二戸市・
青森/
八戸市
<登り街道(上り街道)>
松並木
江戸期
WEB
八戸藩主が参勤交代に使った専用道路/一里塚と松並木が整備された
4
C
仁左平本新田一里塚
にさたい、ほんしんでん
二戸市
<八戸街道>
一里塚(2基)
塚木:なし
江戸期
市史跡
市教委
一面の畑の中に当時の土盛りが対で残っている
4
B
堀野一里塚
ほりの
二戸市
<八戸街道>
一里塚(1基)
高2.4m,周囲11m
江戸期
市史跡
市教委/WEB
道路脇にあり、道路への流失が見られる
3
C
金田一の題目塔道標1
きんたいち
二戸市
(上平)
石道標(自然石)
高76㎝,幅56㎝,厚35㎝
享保20(1735)
市教委(にのへの心)
下部C接合
(右端)「右ハ 下斗米へみち」、(左端)「左ハ ふくおかみち」/中央に「南無阿彌陀仏」と陰刻
2
C
金田一の題目塔道標2
(金田一の追分石)
きんたいち
二戸市
(上平)
石道標
高118㎝,35㎝角
宝暦2(1752)
市教委(にのへの心)
C台石→移設?
(下部)「右 浄法寺/左 ふくおか」/上部に大きく「南無阿彌陀佛」と陰刻
2
C
堀野の道標
ほりの
二戸市
(馬場)
石道標(自然石)
高67㎝,幅58㎝,厚36㎝
安永元(1772)
市教委(にのへの心)
下部C接合
「八戸道/三戸道」/1つの面に、右左の表示なしで2つの方向を示す例は稀
2
-
福岡の道標1
ふくおか
二戸市
(川又)
石道標(自然石)
高80㎝,幅54㎝,厚18㎝
安永4(1775)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「右 もり岡/左 白とり」
1
C
福田の道標
ふくだ
二戸市
(石渕)
石道標(自然石)
高103㎝,幅58㎝,厚34㎝
安永8(1779)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「右 山みち/左 浄法寺」
1
C
安比の題目塔道標
あっぴ
二戸市
(野平)
石道標(自然石)
高92㎝,幅58㎝,厚30㎝
安永8(1779)
市教委(にのへの心)
下部C接合
(右端)「右ハ 大簗道」、(左端)「左ハ 福岡道」/中央に「南無阿彌陀仏」と陰刻
2
C
石切所の道標1
いしきりどころ
二戸市
(台中平)
石道標(自然石)
高77㎝,幅58㎝,厚13㎝
文化8(1811)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「右 浄法寺 桂清水/左 山みち」
1
-
似鳥の庚申塔道標
にたどり
二戸市
(大向)
石道標(自然石)
高69㎝,幅48㎝,厚24㎝
天保2(1831)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
(右端)「右ハ 浄法寺 桂清水」、(左端)「左ハ 山田道」/中央に「庚申廿三夜」と陰刻
1
-
石切所の題目塔道標
いしきりどころ
二戸市
(村松)
石道標(自然石)
高56㎝,幅36㎝,厚34㎝
天保4(1833)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「是ヨリ末松山 八丁/是ヨリ宇曽利山ェ 二百五十里」/「大乗妙典六十六部寄進」と陰刻
1
-
似鳥の道標1
にたどり
二戸市
(浅石)
石道標(自然石)
高91㎝,幅46㎝,厚27㎝
慶応3(1867)
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「向、右 山道/左 一戸」
1
C
福岡の道標2
(末の松山の道標)
ふくおか
二戸市
(橋場)
石道標(自然石)
高194㎝,幅33㎝,厚19㎝
江戸期?
市教委(にのへの心)/WEB
下部C接合
「末の松山 浪打峠 従是三十丁」/五差路の角に立つ
2
B
福岡の道標3
ふくおか
二戸市
(橋場)
石道標
高68㎝,幅34.5㎝,厚26.5㎝
江戸期?
市教委(にのへの心)
道路工事で発見、「福岡の道標2」と並べて建立
「右 浄法寺/左 一戸道」
2
-
石切所の道標2
いしきりどころ
二戸市
(前小路)
石道標(自然石)
高54㎝,幅36㎝,厚17㎝
江戸期?
市教委(にのへの心)
移設
「右ハ にし こわさか こえたる さわみち かみとまい」「左ハ ひがし じょうぼうじ かつらしみず」/「右」「左」の字だけ大きく陰刻
2
-
似鳥の道標2
にたどり
二戸市
(浅石)
石道標(自然石)
高54㎝,幅27㎝,厚24㎝
江戸期?
市教委(にのへの心)
保存状態良好
「向 一戸」
1
-
桂清水
かつらしみず
二戸市
天台寺
湧水
奈良or平安後期
歴史の道/WEB
水はあまりきれいではない
樹齢1000年ともいわれる桂の巨木の根元から湧いている/古来から霊水として知られ、そばに建立された桂観音ともいわれる天台寺は平安後期には開山されていた
2
B
桜清水
さくらしみず
二戸市
(桜清水地蔵尊)
<奥州街道>
湧水
天保4(1766)以前
WEB
天保4に建てられた桜清水地蔵尊御堂の脇から湧いている
2
C
鹿角街道マダ並木
かづの
八幡平市
<鹿角街道>
マダ並木
安永9(1779)以降
市教委
道路痕跡が残るように整備
〔写真左端が街道、中央に映っているのがマダの木〕
安永9の代官並びに百姓宛ての古文書→盛岡藩は街道の並木について松or柳を植えるように指示しているので、並木の成立はそれ以降/七時雨山の過酷な環境に松や柳を植えても生育が難しいので、自生しているマダ(シナ科)を利用したもの
2
B
山崎一里塚
やまざき
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
慶長15(1610)頃
市史跡
市教委/WEB
住宅のすぐ脇/1基は半壊/塚木なし
4
B
七時雨一里塚
ななしぐれ
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(1基)
承応2(1653)前後(推定)
市史跡
市教委/WEB
牧野内に残る/塚木なし
基点である盛岡鍛治丁(現紺屋町)から10里目/
3
C
苗代沢一里塚
なわしろ
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(1基)
江戸期
市史跡
市教委/WEB
雑木の中にあり分かりにくい/塚木なし
基点である盛岡鍛治丁(現紺屋町)から約15里目
4
C
荒屋一里塚
あらや
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
江戸後期(推定)
市史跡
市教委/WEB
山林中にある/塚木なし
3
B
留の沢一里塚
とめのさわ
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
江戸後期(推定)
市史跡
市教委/WEB
国有林(まばらな雑木)の中に残る/塚木なし
基点である盛岡鍛治丁(現紺屋町)から9里目
3
B
曲田一里塚
まがた
八幡平市
<鹿角街道>
一里塚(2基)
江戸後期(推定)
市史跡
市教委/WEB
まばらな雑木の中に残る/両塚とも半壊
基点である盛岡鍛治丁(現紺屋町)から約14里目
4
B
新館の道標
にだて
八幡平市
<鹿角街道>
石道標(自然石)
安永5(1776)
WEB
「(南無阿弥陀仏)みぎ てんとふみち/ひたりよりきむら」
田頭の道標
でんどう
八幡平市
<鹿角街道>
石道標(自然石)
高70㎝,幅40㎝
安永7(1778)
WEB
「右てんとう道/左くさかり道」
-
大更の道標
おおぶけ
八幡平市
<鹿角街道>
石道標(自然石)
高100㎝,幅40㎝
文化6(1809)
市教委
近接移設
「右ハ山道/左ハもりおか道」
C
奥州・岩崎街道松並木
・跡
おうしゅう・いわさき
花巻市
南城小学校
<奥州街道・岩崎街道>
松並木
江戸期
WEB
小学校内に残存
奥州街道と岩崎街道の分岐点
4
C
好地一里塚
こうち
花巻市
<奥州街道>
一里塚(1基)
東塚
:高1.5m,
大きさ10×7m
慶長15(1610)
県史跡
WEB
奥州街道の旧道と共に半壊状態で残る/塚木なし
盛岡藩第2代藩主・南部重直が明暦4(1658)に奥州街道を新道に付け替えたため、好地旧一里塚一帯は旧道となった/好地一里塚との区別の為、好地旧一里塚と呼ばれている
4
C
中野一里塚
なかの
花巻市
<奥州街道>
一里塚(2基)
高1.8m,直径6m
江戸初期
市史跡
市教委/WEB
田園地帯の草地に残る/塚木の松は2本とも松枯れ病のため伐採予定(東北北部まで松枯れ病が入ってきてしまった)
現役道路の両側に松の巨木の残る一里塚/北塚の松は塚の上に生えているが2本の独立した木でありオリジナルと思えない(江戸末期の自然栄え?)、南塚の松は塚中央から1本直立しているが樹齢300年とは思えないので江戸末期の補植か?
1
A
江曽一里塚
えそ
花巻市
<奥州街道>
一里塚(1基)
高2.9m,直径10.6m
明暦4(1658)
県史跡
WEB
交通量の多い国道沿いの交差点にある/塚木は補植
盛岡藩第2代藩主・南部重直が明暦4(1658)に建てた一里塚碑がある
3
C
湯本の道標
(追分の碑)
ゆもと
花巻市
ホテル花巻とホテル千秋閣の間
石道標(自然石)
元禄10(1697)
市有形
WEB
移設
(正面)「右ハ 山みち/左ハ ゆのみち」/17世紀の道標/温泉遺産/平賀次郎左衛門・松井道円らにより建立
2
C
二枚橋町の道標
にまいばし
花巻市
<奥州街道>
石道標(自然石)
高48㎝,幅63㎝,厚26㎝
享保9(1724)
WEB
明治期の道標と並んでいる
「右ハ はやつ祢みち/左ハ もりおかみち」
2
-
浅沢の道標1
あさざわ
花巻市
<奥州街道>
石道標
推定1m以下
文政2(1819)
WEB
浅沢の道標2と共にコンクリートの台座に固定されている/移設?
「(南無阿弥陀佛)右 松林寺みち/左 ゆみち」/湯道とは花巻温泉源泉の台温泉方面を指す
3
-
浅沢の道標2
あさざわ
花巻市
<奥州街道>
石道標
推定1m以下
嘉永5(1852)
WEB
浅沢の道標1と共にコンクリートの台座に固定されている/移設?
「右ハ 松林寺/左ハ ゆみち」/湯道とは花巻温泉源泉の台温泉方面を指す
3
-
鍋倉新田用水の穴堰
なべくら
花巻市
豊沢川
素掘トンネル
(水路)
長2㎞
江戸前期(完工)→江戸期間(度々修復)
市教委
C改修
開削者については諸説あり
4
B
大口堰穴堰
おおぐち
花巻市
大堰川
素掘トンネル
(水路)
長約170m,高約136㎝,幅約136㎝
延享元(1744)に当穴堰に掘りかえ
市教委
RCカルバート化/旧取水口と穴堰が残っているが、水路は埋没/崩落などあり
大堰川に繋がる水路(穴堰)/岩質が柔軟なため、数回水路を変更
5
C
田屋ヶ井戸
たやが
花巻市
井戸
江戸期
市史跡
WEB
C改修/現在は防火用水として利用
土沢館を中心とする家臣屋敷と周囲の町屋で飲料水として使用されていた井戸
3
-
早坂一里塚
はやさか
宮古市
<宮古街道>
一里塚(2基)
寛永18(1641)以降
市史跡
市教委/WEB
林の中に接近して2基残存/塚木なし
3
B
宮古の絵入り道標
みやこ
宮古市
石道標(花崗岩)
高75㎝,幅61㎝,厚20㎝
安政2(1855)
市史跡
WEB
保存状態良好
「(刀の絵) 右ハ い王いつミ/(鎌の絵) 左ハ やまミち」(=岩泉)/刀と鎌の絵を線刻/刀は護身用の道中差しで、旅人や公用人が通る道、 鎌は草刈用で、村人が通る山道だということを示す
1
B
坂下一里塚
さかした
陸前高田市
<今泉街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.5m,円周20.5m,
西塚
:高2m,円周20m
江戸期
市教委
市内の一里塚で最も保存状態は良好/塚木なし
崩落防止のため、裾部分に石垣が積んである
3
B
南行一里塚
なんぎょう
陸前高田市
<高田遠野街道>
一里塚(1基)
東塚
:高6.0m,直径7.0m,塚木:なし
江戸期
市教委
松の切り株が残る
天然の地形を利用した一里塚
3
C
小黒山一里塚
こぐろやま
陸前高田市
<今泉街道>
一里塚(1基)
北塚
:高2.0m,直径7m,塚木:なし
江戸期
市教委
舗装工事により南塚は削除
4
C
荒川一里塚
あらかわ
陸前高田市
<今泉街道>
一里塚(1基)
江戸期
市教委
北塚のみ/原形を保っている
4
C
佐野一里塚
さの
陸前高田市
<浜街道>
一里塚(1基)
北塚
:高2m,直径6.8m
江戸期
市教委
枯死した塚木の松の幹が残存
4
C
本宿一里塚
もとじゅく
陸前高田市
一里塚(1基)
東塚
:高1.2m,直径4.5m,塚木:なし
江戸期
市教委
西塚は消滅
C
水上の道標1
みずかみ
陸前高田市
<浜街道>
石道標
高110㎝,幅60㎝,厚20㎝
文化9(1812)
歴史の道・浜街道p28/市教委
(正面)「(山神)きた 今いすみ」(左面)「みなみ けせんのま」
2
C
水上の道標2
みずかみ
陸前高田市
<浜街道>
石道標(自然石)
高89㎝,幅31㎝,厚13㎝
不詳
市教委
「從是、右ハやまみち/左ハけせん沼
□
」
2
-
大石沖の道標
おおいしおき
陸前高田市
<浜街道>
石道標(自然石)
高80㎝,幅39㎝,厚30㎝
不詳
歴史の道・浜街道p28/市教委
博物館に移設/一部欠損
「西右 竹駒横田、世田米、上下有住、
□□□
/南(以下欠損)」
4
-
サイノカミ道標
陸前高田市
<浜街道>
石道標
不詳
歴史の道・浜街道p29/市教委
「從是、みきハやまみち/ひたりハけせん沼」
2
-
高田松原
・跡
たかだ
陸前高田市
防砂林,防風林
約1.9㎞
寛文7(1667)
市教委/WEB
国内で最も保存状態の良い江戸期の海岸砂防林→2011.3.11の東日本大地震による津波と海岸陥没により松原は消失、「奇跡の松」と呼ばれる1本だけが残った→2012.9伐採→2013.6 イミテーションの松が完成
(対比写真参照)
樹齢 300年を超えるクロマツ・アカマツからなる松林/長大な松原であり、田畑を砂や潮風の害から守った/3代に渡り手入れや補植が続けられた
5
三ヶ尻一里塚
みかじり
(胆沢)金ケ崎町
<奥羽街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
塚は大きく削平/枯死した杉の巨木の幹が残る/東塚のみ
枯死した杉の幹は直径1m以上ある
4
C
南部領伊達領境塚
なんぶ、だて
(胆沢)金ヶ崎町・
北上市
<盛岡藩~仙台藩>
土塚
総延長130㎞
寛永9(1642)
国史跡
(11kmが指定)
北上市教育委員会
史跡指定範囲には、挟塚2基、大塚11基、小塚198基が現存/大塚、小塚は大きく削平されているが、挟塚は良好に保存
南部領と伊達領の境界の目印として構築/藩境の最重要箇所に挟塚、要所に大塚、その間埋めるように小塚を築いた
3
千貫石溜池
せんがいし
(胆沢)金ヶ崎町
土堰堤
長191.0m,高31.5m(現在の大きさ)
元禄4(1691)
WEB
安永6(1777)に土堰堤大破/昭和9、県営千貫石農業水利改良事業により築造、以後数回の改修
施工: 水沢伊達氏4代・将監村任/天和2(1682)の着工から3年続けて決壊→「お石」という娘を千貫文で買い求め、人柱として埋めた悲話→名称の由来
5
C
御堂・馬羽松一里塚
みどう、
まはまつ
(岩手)岩手町・
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.8m,10×11.2m,
西塚
:高1.6m,10.6×12.2m
江戸期
国史跡/選奨土木遺産
一戸町教育委員会(奥州街道調査報告書)
道路より少し高い位置にある/西塚は上から削られているか、最初からカマボコ型/灌木が自生/西塚の塚木ミズナラは補植
西塚が御堂一里塚、東塚が馬羽松一里塚と呼ばれている/西塚が岩手町、東塚が一戸町に属している/現役の一般道の両脇に残る
3
B
芦田内一里塚
あしだない
(岩手)岩手町
<奥州街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
草に覆われて全体が分からない
3
C
弓弭の泉
ゆはず
(岩手)岩手町
(御堂観音)<奥州街道>
湧水
天喜5(1057)?
WEB
保存状態良好
北上川の源泉との伝承/樹齢1200年といわれる杉の根元付近から湧き出る/天喜5、前九年の役で源頼義・義家父子が、この地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、清水がこんこんとわき出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したという伝承もある
1
B
椛の木一里塚
かばのき
(岩手)葛巻町
<久慈野田街道>
一里塚(1基)
北塚
:高2m,直径10m
江戸期
町教委/WEB
盛岡藩、八戸藩の藩境から200mほどの場所
4
C
沢口の庚甲塔道標
さわぐち
(岩手)葛巻町
<久慈野田街道>
石道標(自然石)
天保6(1835)
町有形
町教委/WEB
移設
「左ハ八戸/右ハ久慈」
3
-
高前田一里塚
たかまえだ
(岩手)雫石町
(長山)<雫石街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.5m,直径8.5m,
南塚
:高2.5m,直径8.2m
慶長9~寛永17(1604-40)
県史跡
WEB
保存状態良好/塚木の欅が見事
雫石街道・秋田往来は、京・大阪から日本海・秋田湊経由で入ってくる物資の輸送路として、また、幕府・諸藩の馬買役人が国見峠を越え雫石経由で盛岡に入る道としても重要
1
A
生森一里塚
おおもり
(岩手)雫石町
<雫石街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.7m,直径12.2m,
南塚
:高2.2m,直径12.7m,塚木:松
慶長9~寛永17(1604-40)
県史跡
滝沢村教委/WEB
国道46号の改良に伴い旧道入口に残る/北塚の塚木は伐採
同上
3
B
板橋の道標
いたばし
(岩手)雫石町
<雫石街道>
石道標(自然石)
高推定1m以下
明和6(1769)
WEB
他の石碑と共に木柵で囲われている
(正面)「右 長山道/左 秋田往来」、(正面左下)「右 雫石町道/是
□
左 三丁程行沢内往来」
2
-
国見峠の秋田領境石
くにみ
(岩手)雫石町
<盛岡藩・秋田藩>
境界石(尖頭四角柱)
高164㎝,幅30㎝,厚30㎝
嘉永2(1849)
街道の日本史6・南部と奥州道中p47/WEB/町教委
保存状態良好
「従是北東 盛岡領」/国見峠周辺では、秋田藩に佐竹氏が移封されて以来、長く藩境争いが絶えなかった→寛永10(1633)の幕府巡見使の裁定により藩境が確定/南東には秋田藩により藩境石(現・秋田県仙北市)が建立されており、これらの間は緩衝地帯としてどちらの藩からも進入できたため、交易に利用された
1
C
辺地ヶ沢一里塚
へちがさわ
(上閉伊)大槌町
<浜街道>
一里塚(2基)
寛永8(1631)
歴史の道・浜街道p30/WEB/町教委
山林内/塚木なし(写真は西塚)
3
B
大切坑
たいせつ
(上閉伊)大槌町
金沢金山
坑道
長200m以上
江戸期
町教委/WEB
現在でも開坑しており、中に入ることができる
金沢金山の金の採掘坑道/大切坑の他、万歳坑や胡桃坑などがある
2
C
碇川台場
いかりがわ
(上閉伊)大槌町
台場
土塁:長約10m?
江戸期
台場辞典p116/町教委
土塁基壇の遺構を残すがキャンプ場として利用されるなど荒廃が進行
現在は防潮林となっている
4
C
観音林一里塚
かんのんばやし
(九戸)軽米町
<登り街道(上り街道)>
一里塚(1基)
西塚
:高2.4m,周囲11m
江戸期
町史跡
町教委
明治27に東塚を削欠、昭和30代以降にバス転向場として旧道を改変
手前道路側(東側)にある 「一見、一里塚らしきもの」 は道路開削時に偶然できた塚状の土塁→この上に残る松は街道松並木と推測される
3
C
(九戸)
九戸村
銭神一里塚
(九戸)野田村
一里塚(1基)
東塚
:高1m,直径6m
歴史の道・浜街道p64
3
C
上新山の庚申塔道標
かみにいやま
(九戸)野田村
<浜街道>
石道標
高127㎝
文政13(1830)
歴史の道・浜街道p65/村教委
現在は再び立てられている
「右ハみやこ道/左ハはま道」/1980年代には、立てると災厄があると言われていたため、斜面に倒れていた/「ドエ坂の道標」とも呼ばれる
C
鹿糠の庚申塔道標
かぬか
(九戸)洋野町
<浜街道>
石道標
高130㎝→埋没し1m以下
嘉永4(1851)
歴史の道・浜街道p67/WEB
「廿三」以下埋没
「(廿三夜)右ハ八戸道/左ハ山道」
3
C
有家台場
うげ
(九戸)洋野町
<八戸藩>
WEB
土塁の内側に、砲座と思われる土盛りが残る
海側が狭くなった台形型
2
C
藩境塚
わやま
(気仙)住田町・
遠野市
<仙台藩~盛岡藩>
土塚
WEB/町教委
小規模に縮小されて残存
盛街道にある仙台藩と盛岡藩の藩境塚
2
C
岩泉の絵入り道標
いわいずみ
(下閉伊)岩泉町
道標(花崗岩)
高59㎝,幅42㎝,厚12㎝
近世?
WEB
保存状態良好
「(刀の絵)右ハ岩泉/(草刈鎌の絵)左ハ山道」/刀と草刈鎌の絵を陰刻
1
C
(下閉伊)
田野畑村
(下閉伊)
普代村
石峠一里塚
いしとうげ
(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高1.3m,直径6m,
西塚
:高2.3m,直径6m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
ほぼ完全な形
2
B
萩野平一里塚
きどわき
(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高1.2m,直径6m,
西塚
:高1.1m,直径6m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
草が生い茂り全体がわからない
3
B
田名部一里塚
たなぶ
(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
東塚
:高1.2m,直径5.3m,
西塚
:高1.2m,直径5.2m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
東塚の西側と西塚の東側が削平
4
B
礼堂一里塚
れいどう
(下閉伊)山田町
<浜街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2.5m,直径3.8m,
南塚
:高2.2m,直径4.4m
江戸期
町教委/歴史の道・浜街道p30
北塚の南半分、南塚の北と西側が道路拡幅により削除
4
C
上野の道標
うえの
(下閉伊)山田町
<浜街道>
石道標
高50㎝,幅38㎝,厚27㎝
不詳
町教委/歴史の道・浜街道p29
下部をコンクリートで固定
「右ハ宮古道/左ハ甲子道」
2
-
山田の絵入り道標
やまだ
(下閉伊)山田町
<浜街道>
石道標(御影石)
高52㎝,幅30㎝,厚15㎝
近世?
WEB
屋根・鉄柵付き
「右 大槌・左 舟越」/舟と大槌の絵の刻印
2
C
安倍道
・跡
あべみち
(紫波)紫波町
(土館・木金)
土道
長約100m
平安期?
町史跡
町教委/WEB
紫波町の一部に面影をとどめている
奥羽山系の山裾に沿って南北に通じる古道/衣川と厨川柵を結ぶとも胆沢城と志和城を結ぶとも言われている
3
C
鎌倉街道
・跡
かまくら
(紫波)紫波町
(片寄・野尻)
土道
長約50m
文治5(1189)以前
町史跡
町教委
文治5に源頼朝が藤原泰衡を追って北上した行軍路/天正19(1591)九戸政実攻略の際に浅野長政がここを通過したとされている
3
B
志和稲荷街道
・跡
しわいなり
(紫波)紫波町
(上松本・沢田)
土道
長16㎞→約50m
天保6(1844)
町史跡
町教委/WEB
南部家38代当主・南部利済により整備/南部家は志和稲荷神社への信仰が篤く、荒廃した街道が参拝の際に不便であったため、街道の整備を行った/日光街道を模したと言われ、一里塚、松並木も整備された/藩政の終了と共に廃道同然となった
4
C
紫波一里塚
しわ
(紫波)紫波町
<稲荷街道>
一里塚(1基)
江戸期
WEB
昭和30に破壊→復元
4
-
稲荷街道松並木
いなり
(紫波)矢巾町
<稲荷街道>
松並木
1本のみ
天保5~6(1834~35)
町教委
1本のみ当時の松が現存
4
C
赤林一里塚
(紫波)矢巾町
<稲荷街道>
一里塚(2基)
天保5-6(1834-35)
町史跡
町教委/WEB
1基は民家敷地内、残る1基の塚も保存状態が良くない
4
B
和味一里塚
わみ
(紫波)矢巾町
<稲荷街道>
一里塚(2基)
塚木:松
江戸期
町史跡
町教委/WEB
松は補植と自生
補植と自生でも、松のある一里塚は少ない
3
B
北照井堰
きた、てるい
(西磐井)平泉町
鳴瀬川
用水路
約64㎞
明応2(1493)
一関市教委/WEB
C改修/石積が部分的に残存
計画・施工: 藤原秀衡家臣・照井太郎高春が文治元(1185)に着工→奥州藤原氏滅亡と共に頓挫/高春の子孫・高安により300年後に完成/この水路により一関の平野部の開墾が進んだ
3
B
大仏隧道
(樋の沢隧道)
だいぶつ
(西磐井)平泉町
上照井堰幹線の下流
素掘トンネル
(水路)
長147m
江戸期
WEB
当時のまま
上照井堰幹線の下流にある隧道で1600年頃に作られたと言われている/照井堰の中で現存する最古の素堀隧道
1
C
浪打峠の切通し
なみうち
(二戸)一戸町
<奥州街道>
切通し(砂岩)
江戸期
国天然
町教委(奥州街道調査報告書)
保存状態良好
切通しの部分に国指定天然記念物の交叉層(クロスラミナ=地層が斜めに交叉する小規模な層)の美しい縞模様の地層(1500万年前に堆積)が露出
1
A
笹目子・上女鹿沢一里塚
ささめこ、かみめがさわ
(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
中世に遡る可能性
町史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
東塚は灌木が自生、西塚は草山
ネット上では奥州街道の旧道とする説があると書かれているが、それは昭和61の『一戸町誌』によるもの→笹目子・上女鹿沢一~塚平までの3つの一里塚を結ぶ道について書かれた近世文書あるいは絵図は見つかっていない→現在の教育委員会の見解は、「奥州街道がぬかるんだので、別ルートが存在したかもしれない」というもの→時代は江戸期/一般道沿い
2
B
穴久保・下女鹿沢一里塚
あなくぼ、しもめがさわ
(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
高3m,直径12m
中世に遡る可能性
町史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
東塚はきれいな形状/西塚は多少形が崩壊
同上/旧道は滅失
3
B
塚平一里塚
つかのだいら
(二戸)一戸町
<奥州街道の別ルート>
一里塚(2基)
中世に遡る可能性
選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
道路より少し高い位置にある/私有地内(保存状態は良好)/灌木が自生
同上
3
B
浪打峠一里塚
なみうち
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
北塚
:高2m,13×11m,
南塚
:高2.8m,12×11m
慶長9(1604)以降
国史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
道路改良によって道が掘り下げられ、路面よりかなり高い位置に塚がある/南塚の北側3分の1は削平
町内にある国史跡・奥州街道の一里塚は、ランクと関係なく、北から順に並べてある
/細い土道が塚と塚の間を通る
4
B
川底一里塚
かわそこ
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高3.5m,10×12m,
西塚
:高3.2m,10×7m
慶長9(1604)以降
国史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
旧奥州街道の土道と一体的に残る(ただし、その先鉄道で遮断、行き止まり)
同上/東塚は丘陵先端部に土を盛り上げて構築、西側はやや急な崖となり、その一部を掘り込んで窪みを造り西塚とする/奥州街道の中でも難所の一つ/川底~御堂・馬羽松まで4基の一里塚が連続して残る
2
B
小繋一里塚
こつなぎ
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(1基)
西塚
:高2.33m,10.6×11.1m
慶長9(1604)以降
県史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
道路の拡幅工事で削平/灌木が自生
同上/周辺の坂はヨノ坂と呼ばれている/川底~御堂・馬羽松まで4基の一里塚が連続して残る
4
C
旧・
中山一里塚
なかやま
(二戸)一戸町
<奥州街道>
一里塚(1基)
西塚
:高3.50m,11.4×10.2m
慶長9(1604)以降
国史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
舗装道路により一部削除/昭和50代に東塚は畑に/灌木が自生
同上/「旧中山」は地名/川底~御堂・馬羽松まで4基の一里塚が連続して残る
4
C
御堂・馬羽松一里塚
みどう、まはまつ
(二戸)一戸町・
(岩手)岩手町
<奥州街道>
一里塚(2基)
東塚
:高2.8m,10×11.2m,
西塚
:高1.6m,10.6×12.2m
慶長9(1604)以降
国史跡/選奨土木遺産
町教委(奥州街道調査報告書)
道路より少し高い位置にある/西塚は上から削られているか、最初からカマボコ型/西塚の塚木:ミズナラ(補植)
同上/西塚が御堂一里塚、東塚が馬羽松一里塚と呼ばれている/西塚が岩手町、東塚が一戸町に属している/現役の一般道の両脇に残る/川底~御堂・馬羽松まで4基の一里塚が連続して残る
3
B
楢山の庚申塔道標
ならやま
(二戸)一戸町
(茶屋場)
石道標(自然石)
高203㎝,幅170㎝
文化7(1810)
町教委(一戸町の石造文化財2)
保存状態良好
(下部)「右ハ いぼ内/左ハ 山みち」/上辺に日月(月も円形)、中央に「庚申塔/廿三夜」と陰刻/石工: 善兵衛
1
B
小鳥谷の道標
こずや
(二戸)一戸町
(五月舘)<奥州街道>
石道標(自然石)
高
55
㎝
文久元(1861)
町教委(奥州街道調査報告書)
保存状態良好
「右ハ 山道/左ハ もり岡」
1
C
平糠金山
・跡
ひらぬか
(二戸)一戸町
露天掘り、狸掘り
(20数ヶ所)、樋or
道
露天掘り
:長35m,幅5m,
樋or道
: 長2.5-3㎞,幅約2m
中世末期~江戸期
町教委
露天掘り跡、狸掘り(坑道掘りの原初的な形態)or一部竪坑の跡、樋もしくは道跡、石臼が残る/保存状態は良好だが未整備
東北地方有数の金山/文献的裏付けはないが、南部藩が関係した可能性が指摘されている/江戸期の金採取の3方法(川金、芝金、山金)のすべてが見られる→根地戸川の砂金採取は川金、中腹の掘込み跡は芝金
〔上の写真〕
、穴子観音のある金山は山金
〔下の写真〕
2
A
峠山一里塚
とうげやま
(和賀)西和賀町
<平和街道>
一里塚(1基)
塚木:なし
江戸期
町史跡
WEB(西和賀町)
林の中に残る
3
C
赤倉鉱床 露天掘
・跡
あかくら
(和賀)西和賀町
<鷲ノ巣金山>
たぬき掘り
中世~江戸初期
WEB(西和賀町)
ほぼ垂直な斜面に「たぬき掘り」の坑口が密集して多数残る
平泉の藤原秀衡の時代から採掘されていたと考えられている金山/記録は享保6(1721)の南部藩による銅の産出が最古であり、詳細な調査も行われていない
1
B
緑青坑
・跡
ろくしょう
(和賀)西和賀町
<鷲ノ巣金山>
坑道
享保6(1721)以降?
WEB(西和賀町)
崖の下部に坑道入口が残る
平泉の藤原秀衡の時代から採掘されていたと考えられている金山/記録は享保6(1721)の南部藩による銅の産出が最古であり、詳細な調査も行われていない
2
C